2013年7月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
純粋さとは何だろう。(写真はカトリック山手教会の近くにて)
私が東京へ出てきて一人暮らしを始めた頃、誘われるまま統一教会の人達が共同生活しているところに
何度か足を運んだことがあった。原理講論が「人は誰でも幸福を追い求めている」で始まることに違和感
を感じつつも、彼らの親切さに心に安らぎを感じていた。
彼らはある意味とても純粋だった。その共同生活は和やかで美しいものと映っていたし、関心を持ってい
ることに耳を傾けてくれた。
現実の世界に疑問を抱き何かを希求する純粋さ、しかしこの純粋さが、いつの間にか変貌していく。
これは統一教会やオウム真理教などの新興宗教に留まらず、その他のことで私たちが日常的に経験して
いることかも知れない。
「この食べ物は癌に効く」と言われれば、私が癌だったら深く調べもせずに飛びつき、毎日のように食べる
だろう。「この運動は減量に最適」と言われれば、女性だったら同じように飛びつくかも知れない。
新興宗教の洗脳やマインド・コントロールに対して、私たちは何故そんな団体に簡単にひっかかってしまっ
たのかと疑問に思いがちだが、私も含めて多くの人は日常的に全く同じことを繰り返しているのかも知れ
ない。ただそれが、宗教か、それ以外かの違いだけなのだろう。
人間は常に不安や願望を抱き続け、そこに単純明快な方法がもたらされると、妄信してしまう傾向がある
ように思う。
純粋さとは何だろう。私にはわからない。
ただ私は「あるがまま」という言葉(禅に近い意味において)、弱さや醜さを含めて自分の全てを容れる
姿勢と同時に、ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」にも惹かれてきた。
自己の内面だけでなく、虐げられている人びとから目を背けなかったヴェイユ。
たが私がそのような視点で生きているかと問われると、否としか言えない。
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