聖フランシスコ大聖堂の下部聖堂の下にある地下小聖堂

の祭壇。聖フランシスコの遺体が安置されてている。



死後4年間聖ジョルジョ礼拝堂に眠っていた聖者の遺骸は、下層バジリカ中央

祭壇の下に1230年5月25日遷された。その後は2世紀以上にわたって後陣

からの地下道を通り聖者を近くから拝することが出来たという。1442年、ニッ

コロ・ピッチーニ率いるペルージャ軍はアッシジの町を破壊し放火した後、聖遺

骸を持ち去ろうとした。この武力での試みに失敗するとペルージャ市民は外交

手段に頼り、遺骸をより安全なペルージャに移すよう教皇に働きかけた。しかし

エウジェニオ4世はその試みに動かされず、墓室に通じる地下道を閉鎖させた。

これは一時的な閉鎖だったため次の教皇ニコロ5世は墓を詣でることができた

が、シスト4世が詣でた後、1476年に墓は完全に閉ざされることになった。

その後、何度も通路を開ける試みがあったが、成功したのは1818年のこと

だった。時の教皇ピオ7世の指揮下、1818年10月12日から12月2日まで

52夜に及んだ掘削作業の末、自然岩の中に層状コンクリートで守られ鉄格子

で囲まれた石棺が発見された。聖者の骸骨は保存状態が良いことが、ウンブ

リア司教と専門家や公証人から成る委員会によって確かめられたのは1818

年12月12日のことだった。教皇ピオ7世は念入りに確かめた上で、1820年

9月5日の教書で遺体が聖者本人のものであることを宣言し、何人といえども

聖者を6世紀にわたって安置してきた場所から移してはならぬこと、墓全体が

美化されること、より便利な入り口を設けることなどを指示した。墓の整備工事

は1822年にパスクアーレ・ベッリの設計で始まり1824年に終わったが、その

ネオクラシック様式の地下墓所は評判が悪く、1926年から6年間の工事で建築

家ウーゴ・タルキの設計した荘厳で簡素な現在の姿に改められた。現在バジリカ

は、上下層と地下墓所の3階に分かれていることになる。1978年1月24日、

教皇パオロ6世は教書で遺骸の保存状態について新しい方法を指示し、亡骸を

直接葬った古い石棺と1820年の金属棺に加えプレキシガラスで保護されること

になった。聖者のそばには、最初から彼につき従った4人の修道士マッセオ、

アンジェロ、ルフィーノ、レオーネも眠っている。墓前にはイタリア各地方から

毎年交代で献納される油を灯しているランプがある。

「芸術と歴史の街 アッシジ 日本語版」より引用


 







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