(工事中であることをご了承ください)
「朝霧のアッシジ」この上の写真は私の心の友である岡庭さんが撮影したものです。
下の写真は現地で売られていたポストカード、スライドから引用させていただき、聖
フランシスコが生きた足跡を追っていきたいと思います。1985年4月6日、結婚前に
カトリック山手教会で洗礼(霊名はアッシジの聖フランシスコ)を受け、カトリックの妻
と共にこの地に数日間滞在しました。今私は、世界の先住民族の方の世界観に強
くひきつけられてはいますが、キリスト教の真の霊性を体現した聖なる魂としてだけ
でなく、キリスト教と先住民族の世界観が交わることを夢見させてくれる稀有の存在
として聖フランシスコは輝きつづけています。
1997年9月に大きな地震が続けて二回襲い、この歴史的な街に被害を与えまし
た。聖フランシスコ教会もジョットやチマブエらの壁画で埋まった丸天井や壁など
が崩れ落ち、修道士4人が下敷きになり亡くなられています。この教会の修復作
業は、30万個以上もの砕けた破片を張り合わす気が遠くなる作業だったのです
が、1999年11月28日に修復がひとまず完成したことを祝う特別ミサが行われまし
た。尚、下の写真には私が撮ったものもありますが、素人が撮ったものであり、
鑑賞に耐えないものであることをご了承してくださればと思います。
ポストカードの写真 空(鳥)から見たアッシジの街並み |
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ポストカードの写真 私の写真 司教座聖堂「聖ルフィーノ」。12世紀に建てられ |
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ポストカードの写真 アッシジの聖フランシスコが洗礼を受けた司教 座聖堂「聖ルフィーノ」にあるピエタ(嘆きの聖母 像)。 本祭壇の左手に小さなチャペルがあり、15世紀 のドイツ製ピエタの木像がありますが、1499年 に、この御像のマリア様が涙を流されたと伝え られています。 |
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下部大聖堂の近くにあるフラテ(修道士)たちの |
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聖フランシスコ大聖堂。フランシスコが亡くなっ |
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聖フランシスコ大聖堂。 私の写真 |
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中世の町並みを保存しているアッシジの街の風景。 この写真より一歩中に入ると石畳の小道や階段が 迷路のように続き、不思議な景観をかもしだす。 |
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アッシジの街からの風景。 私の写真 |
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アッシジの街からの眺め。このようにアッシジの街は スバシオ山(1290m)から下った丘の広がった所にあ り、人口五千人という小さな街ですが、最初にアッシジ の駅から見たこの景観はこの世とも思われぬ崇高さに 満ち満ちており、強い衝撃を受けました。 |
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サン・ダミアノ教会。聖フランシスコの全ては、この 聖堂の修復に始まる。後年、聖女クララが住み、聖 フランシスコが「太陽の歌」を完成させた所である。 聖フランシスコはこの教会にかかっていた十字架から、 「私の教会を建て直せ」というキリストの声を聞いたが、 |
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十字軍に加わって、スポレトの街に泊まったとき、 |
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サン・ダミアノ教会の中の食堂。この写真は聖クララ |
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サン・ダミアノ教会の中の「聖クララの小庭」と呼ば |
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アッシジの街の遠景。1986年10月27日、この |
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聖クララ教会。聖クララの死後四年目の1257年 |
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聖フランシスコと共にアッシジに生きた聖女クララの |
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この小さな10坪にも満たない教会「ポルチウンクラ」 |
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「ポルチウンクラ」小聖堂 |
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聖フランシスコ大聖堂の下部聖堂の下にある地下 |
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聖フランシスコの遺体が安置されている石棺が祭壇 の上に置かれている。聖人のお墓の周りには、その 師を慕うかのように、聖人の最初の弟子たちの中でも 特に優れていたレオ、マッセオ、アンゼロ、ルフィノが |
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聖フランシスコが亡くなった所にたつ記念教会。 私の写真 |
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聖フランシスコが亡くなった記念教会。 |
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1226年10月3日、アッシジの聖フランシスコここで |
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聖フランシスコが亡くなった記念教会に描かれた |
キリスト教の絵画を詳しく紹介している松島さんのサイト
「MUSEUM OF RAINBOW」