未来をまもる子どもたちへ


美に共鳴しあう生命






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オオカミの肖像

 

2014年1月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。



風の年輪



遥か太古の時代に、慈愛の原型が生まれた。

それがどのようにして生まれたのか、生物が「死」を自覚したときからなのか、

それは永遠にわからないかも知れない。

しかしその原型は何十万年過ぎても、姿かたちを変えながら現代に息づいている。



波動、恐らく様々な波動がこの世界を飛び交っている。

存在をあるがままに受けとめる波動もあれば、存在を消そうとする波動もある。



どの波動をつかむか、ラジオの周波数を合わせるように、

それは私たちの自由意志に任せられているのかも知れない。



波動、それは決して一箇所に留まる性格のものではないと思う。

風のように、私たちの体を吹き抜け、そして私からはまた新たな波動が生まれる。



波動という風、それは大きな木の年輪のように、悠久の歴史を刻んでいる。



この世界が慈愛の風に包まれますように。



☆☆☆☆




http://vimeo.com/22439234


 

APOD: 2011 September 15 - NGC 3521: Galaxy in a Bubble NGC 3521 (大きな画像)




NicolaYvette | "Let your body be a testament to your health"



 



 
生物・人類の進化
「生物の進化 大図鑑」 「日本人はるかな旅 展」
「アナザー人類興亡史」
人間になれずに消滅した傍系人類の系譜
「日本の深層」
縄文・蝦夷文化を探る
「ネアンデルタール人の首飾り」 「人類の起源」
「人類がたどってきた道」
 “文化の多様化”の起源を探る
「呪の思想 神と人との間」
白川静+梅原猛 対談
「縄文 謎の扉を開く」 「人類の進化 大図鑑」
「シャーマニズムの精神人類学」  「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」 
「人類哲学序説」 「シャマニズム
 アルタイ系諸民族の世界像」
「オオカミの護符」 「蛇と十字架」
「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修 「甦る縄文の思想」
「月と蛇と縄文人」 「私たちはどこから来たのか 人類700万年史」
「エデンの彼方」
狩猟採集民・農耕民・人類の歴史
生と死の北欧神話
NHKスペシャル ヒューマン
なぜ人間になれたのか DVD-BOX
 
 
生命科学・遺伝子
「生きて死ぬ智慧 心訳 般若心経」 「愛蔵版DVD BOOK 生きて死ぬ智慧」 
「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」 「生物と無生物のあいだ」
「いのちの日記 
神の前に、神とともに、神なしに生きる」
「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」
「柳澤桂子 いのちのことば」 「永遠のなかに生きる」
「エレファントム
 象はなぜ遠い記憶を語るのか」
「意識の進化とDNA」
 「進化しすぎた脳」 
中高生と語る大脳生理学の最前線
 
 
宇宙・量子力学
「ファー・アウト 
銀河系から130億光年のかなたへ」
「ビヨンド Beyond
惑星探査機が見た太陽系」
「リサ・ランドール
異次元は存在する」
「大宇宙 完全版―
空間編と時間編を、この一冊に!」
「みるみる理解できる相対性理論」 「相対性理論を楽しむ本」
よくわかるアインシュタインの不思議な世界
 
霊魂の城












APOD: 2012 January 24 - January Aurora Over Norway

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生物・人類の進化


をクリックすると表紙・目次並びに引用文が出ます。

 






この文献の詳細ページへ 「シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像」 
ウノ・ハルヴァ著 田中克彦・訳 三省堂

ハルヴァの研究は、それにもかかわらず、本書が現れて30年余を経た今日
もまだその価値を失っていない。シャマニズムに関する本格的な研究書で、
ハルヴァとこの書の名を挙げていないものはない。というのは、19世紀から
1930年に至るまでの研究を、これほど集約的に、もれなく示している例は他に
ないからである。すなわち本書は1930年代までのロシアとヨーロッパにおける
シャマニズム研究における総決算である。

しかし本書の内容がよく示しているように、これは理論の書ではなく、何よりも、
なまの資料の書である。この意味で、訳者はこれを「シベリアの金枝篇」と呼ぶ
にふさわしいものと考える。本書の価値の一つは、19世紀ロシアの各種紀要に
発表され、今日では利用するにもすこぶる困難な論文の要点を数多く引用して
いる点にある。最近わが国で邦訳されて親しまれているM・エリアーデの著作
におけるシャマニズムに関する知識と材料は、ほとんど、このハルヴァ(ドイツ
名でホルンベルクとなっていることもある)に負うている。日本の理論好きの
読者は、理論から一歩下りて、シャマニズムに関して、いかに多年にわたる
多くの研究者の骨折りによって、こうした資料が集積されてきたかを、このハル
ヴァの書を通じて知られるのもまた一興であろう。引用は大小300篇に近い論著
におよび、ロシア人の寄与が大きい。

これらの報告をものにした好事の士はどんな人物であったか。訳者はその
方面にも関心は浅くないが、とりあえずここではしょっておくとして、随所に引用
されるポターニンはオムスク流刑中のドストエフスキーと親交があったし、ブリ
ヤートの研究には、そこに流された政治犯の関与が少なくなかったと指摘する
にとどめておこう。

(本書・「訳者のあとがき」 より引用)
 
 「人類の進化 大図鑑」
アリス・ロバーツ・編著 馬場悠男・日本語版監修


本書で、オランダのケニス兄弟が科学的根拠に基づいて復元した精密
モデルは、人類進化の物語に登場する著名な主人公たち、つまり私たちの
祖先の生きていたときの姿形を現代によみがえらせてくれる。これから彼ら
の案内で、驚きに満ちた祖先たちの旅をだどってみよう。筆者は、国立科学
博物館に勤めていたときに、同じような意図を持って十数体の古代人復元
モデルを作ったことがあり、それは今でもそこに展示されている。出来具合
にはかなり自信を持っていたが、本書を見て、その豊かな表現力に圧倒され、
まいったというのが本音だ。

じつは、本書は図版が見事だけでなく、復元の根拠となる解剖学的特徴など
を専門的レベルまで掘り下げているのが見事だ。また、最新の重要な発見
も解説している。たとえば、インドネシアのフローレス島に、身長1m、脳容積
400mlの人類が1万数千年前まで生きていたことや、私たちの身体の中には
ネアンデルタール人のDNAがわずかに含まれていることなどだ。

その意味で本書は、謎の多い人類の進化に関する最前線の研究をしっかり
押えた、かつてない優れた内容になっている。
(本書より引用)

[人類はこんな顔をしていた! ]
驚異の超リアルな復元像!
息を飲むような再現の大迫力!
古人類学、人体解剖学、ゲノムなどの研究を駆使して生命を吹き込まれた
正確な模型。

世界初の人類進化最新図鑑の決定版。最新の研究によって明かされる驚嘆
の真実!
★ 世界初! ヴィジュアルで読む人類進化の科学ストーリー!
★ 人類の誕生から古代文明までの700万年を最新の発見と最前線の研究
成果で克明に解説!
★ 驚くべき再現技術による正確な頭部復元模型13体!
(本書より引用)

 
 「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」
海部陽介 著 NHKブックス


このように理解したとき、各地域の歴史と文化に“違い”があるのは、
不思議なことではなくなる。しかし、その違いを優劣と結びつける考えに、
私たちは注意しなくてはならない。冒頭の疑問に答えるとすれば、縄文
文化
も、ほかの文化と同様に、普遍性と独自性を併せもつ文化である。
この文化が当時の日本列島という環境の下で、なぜこうしたかたちに
発展したのかはたいへん興味深い課題だが、一方で、この文化が先進
的でなければ現代の日本人にとって困るというようなことは何もない。
ヨーロッパの後期旧石器時代の芸術も、それだけについて論じるのでは
なく、当時の環境や歴史とあわせてバランスよく理解する必要がある。
旧石器時代の芸術の証拠は、確かにヨーロッパでは目立って多く残され
ている。しかし後氷期に入ったころには、世界各地で雨後の竹の子の
ように様々なスタイルの芸術が現れることも、見逃してはならない事実だ。
一方のヨーロッパでは、旧石器時代が終わると、壁画の文化は一時
衰退する。従って、私たちが追求する意味のある課題は、氷期のヨー
ロッパにおいて人々が芸術活動に駆り立てられた背景は何であったか
であり、旧石器時代人の芸術的才能に地域間差があったかどうかでは
ない。第5・6章でも触れたように一部の考古学者たちは、ネアンデル
タール人
という集団の存在を軸に据え、そうした議論をすでにはじめて
いる。

グローバル化の進行により、現在、私たちの生活環境は大きく変化して
いる。現代は、異文化間交流を通して、個人が文化的、精神的にもっと
豊かになることのできる時代である。その一方で異文化間の摩擦や衝突
が頻発し、特定の強国が経済、軍事、文化といくつもの面で、他の国を
圧倒する問題も進行している。このような現代において私たちが探さなく
てはならないものは、世界を見つめる適切な視点だろう。私たちの歴史を、
局所的にではなく大きな全体の流れとして捉え、人間の文化とその多様性
の成り立ちを理解することにより、私たちは新しい眼をもつことができる
ようになるのではないだろうか。私たちが人間の文化の多様性を素晴ら
しいと感じることには、もっともな理由がある。それはどの文化にも、祖先
たちの5万年以上にわたる歴史が刻まれているからだ。
(本書より引用)

 
 「生物の進化 大図鑑」 
マイケル・J・ベントン他(監修) 小畠郁生(日本語版総監修) 
河出書房新社

世界初、「生命37億年」の驚異的な全貌!微生物から人類誕生まで、貴重
な化石写真や精確なCG復元図など、3000点以上の膨大な図版で見る、大迫
力のヴィジュアル図鑑!

◎ 生命37億年の全貌を世界で初めて1冊に網羅微生物から植物、魚類、爬
虫類、鳥類、そして人類誕生まで、全772種を紹介。各時代の専門家24名が
執筆し、さらに世界から集められた学識者(教授・博士)12名が専門分野別に
監修。

◎ 最新の学説や研究成果を、現代的な視点から詳細に解説地球の劇的な
変化と気候変動、隕石の衝突など、近年大きく進化論を変えてきた重要な要因
について、現代的な視点から詳細に解説。「用語解説」と「索引」も充実。

◎ 驚異の図版数! 大迫力のヴィジュアル!徹底的に正確を期する科学的
立場から作られた、膨大な数のCG復元図や化石写真、各時代の地球地図、
詳細な年表など、多数の図版を掲載。

◎ 図版数 約3000点/生物の掲載種 772種/索引数 約2300項目/化石写
真 約600点/CG復元図 約250点/恐竜リスト 約800点/用語解説 約300項目

(本書より引用)

 
 「人間の美術 縄文の神秘」 
梅原猛・監修 学習研究社 1989年11月3日発行

日本の歴史のなかにはまだ解かれていないさまざまな謎があり、その謎を
解く一つの鍵を与えるのは美術品であると私は思う。なぜならば、美術品の
なかには、歴史のなかで人間の体験したさまざまな情念が込められていて、
その情念はいつも新しい解釈者を求めているように思われるからである。

そういう点で、私は今までの美術全集に多少の不満を感じていた。日本には
国宝、重要文化財をはじめとする実に豊富な、実にすぐれた美術品がある。
従来の美術全集はややもすれば、こうした多くの美術品の彫刻・絵画・建築・
工芸という部門別の叙述に終わっている感があった。それゆえ、そこでは、
美術品の様式や技術を論することに主眼が置かれ、それらをつくった人間の
内面を問題にすることは少なかった。

そこで私はできる限り縦のワクを取り払い、その作品の作られた風土や時代
について十分考察するとともに、それをつくり出した人間の内面を明らかに
する美術全集があったならばと思ったのである。

今、ここでわれわれが試みようとする「人間の美術」なる叢書は、このような
ねらいを持つものである。もちろんここでわれわれは、完全な意味の人間に
根ざした新しい美術全集をつくり出すということができたとは思わない。しかし
この新しい試みに美術史の第一線で活躍する方々が多く参加して頂き、
現時点において望まれる限りの充実した企画になったと思う。

日本人は、約1万2000年前につくられた縄文土器以来、さまざまな芸術品・
美術品を生み出してきた。その一つ一つの美術品のなかには、さまざまな
人間の精神の陰影が隠れている。

はなはだ見事な写真のなかから一つ一つの精神の陰影を読み取ることは、
誠に楽しいことであるように思われる。私が尊敬する多くの学者とともに
このような仕事に従事できたのは幸甚の極みである。
(本書より引用)

 
「NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか
DVD-BOX 全4枚セット」
 
プレゼンター:藤原竜也
プレゼンターパート脚本:長塚圭史


以下、商品説明より引用。

人間とは何か。
人間を人間たらしめているものとは一体・・・。

現在、地球上に70億人いる人類。民族、宗教、イデオロギーは様々ですが、
誰もが共通して持つ“人間らしさ”があります。それは20万年という進化の
過程で祖先から受け継いできた、いわば“遺伝子”のようなものです。絶滅
すら招きかねない環境変動、立ちはだかる強敵、集団間の対立などを乗り
越えていく過程で“遺伝子”は生まれ、受け継がれていきました。そして、
それは今も私たちの行動を左右しています。

これからの時代、私たちはどのように生きるのか。私たちの底力とは何なのか。
考古学・人類学・動物学・脳科学・心理学などの最新成果をもとに、すべての
人類に受け継がれている“人間らしさ”の秘密に迫ります。

【収録内容】
人間とは何か。人間を人間たらしめているものは何か。私たちの誰もが内に
秘めている“人間らしさ”の起源を20万年という人類史のなかに探るシリーズ
(全4回)。

■「第1集 旅はアフリカからはじまった」
全人類のふるさとアフリカが舞台。アフリカでは今、人類史を塗り替える発見が
相次いでいる。その最たるものが南アフリカで見つかった人類最古の装身具。
貝殻で作られた首飾りで「仲間」であること示す身分証のようなものだったと
考えられている。祖先たちが暮らしていたアフリカの草原は常に危機と隣り
合わせだった。肉食獣の脅威、食糧不足…。そうした過酷な環境で生き抜く
には互いに協力しあい、「絆」を確認しあうことが不可欠だったのだ。しかし
自然は容赦なく祖先たちを追い詰めた。7万4千年前に起きた火山の大噴火。
食料が激減し、人類は絶滅の淵に追いやられる。ところが最新の考古学調査
では意外な実態が分かってきた。小さな血縁集団で生きていたはずの祖先
たちが、大噴火を境に遠く離れた集団と資源を交換し合うようになったのだ。
未曽有の危機を前に赤の他人とも協力し合う。現代にも通じる人間らしさが
この時から発揮されたのだ。
「ともに生きる」という人間集団の基本が確立した過程をたどっていく。

■「第2集 グレートジャーニーの果てに」
6万年前にアフリカを離れ世界へ広がり始めた人類。グレートジャーニーと
呼ばれるその旅は、大きな苦難の連続だった。世界は凍てつく氷期の真っ
ただ中。熱帯生まれの我々ホモ・サピエンスにはあまりに過酷な環境だった。
しかも行き着いた先にはすでに別の人類がいた。そのひとつがヨーロッパ
など北方で進化したネアンデルタール人だ。屈強な体を持ち、狩りの名手
だったこのライバルと祖先たちは生存競争を強いられる。身体的に圧倒的
な不利な状況を優位に導いたのが、投擲具という人類最古の飛び道具だ。
離れた位置から獲物を倒す技術が狩猟方法を革新し、ネアンデルタール人
を駆逐していく。その力は人類の集団のあり方にも影響を与えた。罪を犯した
者を罰する道具として使うことで、規律を強化し、そのサイズを数千人の規模
にまで拡大させたのだ。集団の拡大は、道具を生み出す能力を飛躍的に
向上させる原因となっていく。しかし一方、飛び道具の登場は果てしのない
暴力の連鎖も引き起こした。その根幹にあるのは皮肉にも、人類に本能と
して備わっている「仲間を大切に思う心」にあったのだ。
投擲具という道具を軸に、規律心の進化と攻撃性の制御という現代にまで
続く宿命に迫る。
 
この文献の詳細ページへ 「私たちはどこから来たのか 人類700万年史」 
NHKカルチャーラジオ・科学と人間 馬場悠男・著


つねに歴史は塗り替えられる
人類の進化と日本人の形成過程について、最新の研究成果を交えて
わかりやすく解説。
類人猿とヒトの決定的な違いや、ネアンデルタール人と現代人がどう結び
つくのか、また、科学技術の発達により有力視されていた説が覆った瞬間
など、教科書からは見えてこない研究の最前線を紹介する。
(内容紹介より引用)


これから先、文明崩壊に向かっている世界全体を救うことができるだろ
うか。資源が枯渇するにつれて、人種・宗教などによる対立がさらに顕著
になる(なっている?)。博愛や良心などの倫理観が破綻する(している?)。
現実に戦争が起きる(起きている?)。強大で資源を持つ国や民族は、
近縁度に応じて連合を形成し、弱小で資源のない国や民族を見殺しにする、
あるいは抹殺するかもしれない。実際に、欧米はアフリカが自滅する前に
できるだけ搾り取ろうとしている。最近、中国もそれに参加した。

では、どうすれば、欲望充足装置の暴走を止めることができるのか。困難
なのは、快適な生活という欲望の対象を体験した、あるいは見てしまった
人々に、どのように生活水準の低下を納得させるかである。それには、
理念と力の両方が必要だろう。日本は、力はないが、理念は提示できるし、
ひょっとすると、自分たちだけなら実行できるかもしれない。
(本書より引用)


 

この文献の詳細ページへ 「シャーマニズムの精神人類学」 
癒しと超越のテクノロジー 
ロジャー・ウォルシュ著 
安藤治+高岡よし子訳 春秋社


人類の魂の源流であるシャーマニズムが持つ現代的意味を、科学者としての
目と謙虚な視点で考察しているトランスパーソナル心理学第一人者による精神
医学の名著。著者ロジャー・ウォルシュはカリフォルニア大学の教授であり、臨床
に従事しながら、精神医学、人類学、哲学の教鞭をとっているが、精神科医とし
ては、スタニスラフ・グロフと並んでトランスパーソナルの活動を推進してきた中心
人物の一人である。本書はシャーマニズムの持つ多くの側面(人類学、宗教学、
民族学、社会学、医療・医学、精神医学、心理学、生態学)から特に精神医学と
心理学から接近した優れた研究書である。シャーマニズムという先住民族に流
れている源流、そして太古の昔、私たちの魂にも流れていた川に立ち戻ることな
しに「未来」は語れないのかもしれない。本書を通して、多くの方が人類のあるべ
き姿を考え行動してゆくきっかけとなることを願わずにはいられません。


われわれの課題は、自分たちの違いよりも類似性に目を向けなおし、相争い
合う集団や文化の二元論的差異を強調することから、自分たちが共通してもっ
ている人間性の統合的理解へ向かうことである。またわれわれを自然から隔て
られたものと考え、自然自体を部分と見なす断片的見方から、あらゆるものの
統合とつながりを認識するホリスティックなヴィジョンへとシフトさせることなので
ある。自分自身を他者や世界から切り離され、独立したものと見るか、あらゆる
ものに影響したり、影響されたりしているものと見るかを選択するのである。それ
は小さな選択ではない。自分自身、そして自分と世界との関係をどのように見る
かを選択する。そのしかたが世界とわれわれの運命を決めるかもしれない。
シャーマニズムほど明白に、自然やエコロジーを指向している伝統は少ない。そ
の世界観と技術の両方が、この指向性を支えている。それは自然を、人類が
密接なつながりをもち、究極的に依存している、広大で聖なる神秘と見る。また、
こうしたエコロジカルな見方を育てる直感的知恵や体験に触れるための簡単な
技術を提供する。つまりシャーマニズムは、古代の永遠の哲学と現代のエコロ
ジー・サイエンスの両方のホリスティックな見方に一致するものであり、その実践
方法は、こうした見方を支える体験を誘発するかもしれないということである。
したがってシャーマニズムは、地球と人類の両方の生存を保証する助けとなる
ような、世界や自分自身についての認識を培うという重大な課題において、こう
した哲学や科学をサポートすることができるかもしれない。    
(本書より、ロジャー・ウォルシュ)

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「蛇と十字架」 

東西の風土と宗教

 安田喜憲著 人文書院


おのおの異なる風土とそこに生まれる宗教や世界観は決して断ち切ることが出来
ないほど密接に絡み合っている。しかしこの風土とて不変のものではないことは、
縄文時代のそれと現代日本を比較しても容易に想像することが出来るかも知れない。
殺す道具さえ持たず、一部の富者をつくりだすことを避けてきた縄文時代の神は森
に生きる蛇だった。大地の女神のシンボルであった蛇、これはインディアン・ホピ族の
儀式にも見られるが、青銅器時代までの古代地中海世界においても神聖なものとして
捉えられていた。この大地の豊穣の女神のシンボルに闘いを挑んだのが、当時の
一神教のキリスト教であった。三位一体の互いを与え尽くす神が一神教と呼べるかに
ついては私自身疑問が残るが、当時のキリスト教は多神教やアニミズムの世界観と
対立する形で生まれてきた。そしてエデンの園の物語に見られる、ずる賢い悪魔の
存在としての蛇を攻撃する。つまり人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然
に対しての畏敬を失い、現代文明のような地球規模の環境破壊がひきおこされてきた
のだろう。勿論この大地の女神のシンボルを殺すことは人間自らの欲望を満たすため
に好都合だった事実があげられるかも知れない。快適な便利な生活のために、森や
他の動植物が犠牲になることに何の抵抗も感じなくなかった人間が肥大化してきたこと。
この背景に一神教としてのキリスト教の存在が本書では展開されるが、まだ私自身の
中では解決されていない問題でもある。しかし本書は東洋の象徴としての蛇と西洋の
象徴としての十字架を取り上げた比較文明論であり、現代文明に縄文時代から生き
残ってきたアニミズムの必要性を強く訴えかける力作である。

キリスト教とアニミズムやシャーマニズムへの私の想いはこちらに書いています。

「アメリカ・インディアンへの私の想い」

「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」

「インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム」

アメリカ大陸を発見し、人類に新たな世界観をもたらしたコロンブスの発見は、
その一面において、インディヘナの文明を侵略し破壊するという血塗られた歴史の
側面を持っていたのである。だがそのことを長い間、じつに長い間、インディヘナの
人々は声を大にして訴えることができなかった。それほどまでに近代ヨーロッパ文明
は強大であった。そして、日本人もまた経済力を手にした今、ようやく本音で西洋文明
と対等に語り合うことができるようになったのである。もちろん、アニミズム・ルネッサ
ンスの考え方が、ヨーロッパの人々やアメリカの人々に早急に理解されるとはとうてい
思われない。むしろより強烈な反発と衝突を生む可能性さえある。しかし、その本音
の部分での語り合いと対話なくして、どうして真の国際化が可能なのであろうか。共存
の前には真の対話が必要なのである。欧米の諸国が気に入るように取り繕うことは
やさしい。明治以降、日本はその道を選択してきた。だがもう取り繕うのはたくさんだ。
むしろ本音の部分にこそ、人類の未来を切り開きうる可能性と創造性があるのでは
ないだろうか。本音を語ることが「ナショナリズム」だという批判は、欧米人の傲慢だろ
う。本音を語ることなくして、真の共存の時代は生まれてこない。日本の経済成長を
支えた平等主義、あるいは物づくりへの情熱、それらは多分に日本人が伝統的に
持っていたアニミズムの精神に発しているところが大きい。さらにファジー理論など
未来の文明を切り開く可能性をひめたハイテクとアニミズムの精神を合体させた、
ハイテク・アニミズム文明の時代の幕開きを私は待望している。自然と人間が共存
可能な、そしてあらゆる民族とあらゆる宗教が共存可能な世界の実現に向けて、
日本人が縄文時代以来一万年以上にわたって持ち続けてきたアニミズムの精神の
果たす役割は、今後ますます見直されるに違いない。「アニミズム・ルネッサンス」に
は教団も教義も必要ではない。要は一人一人の心がけの問題なのである。
(本書より引用)


 
 




 
この文献の詳細ページへ 「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 
梅原猛 著 佼成出版社

かつて蝦夷の末裔と呼ばれ、偏見を持たれてきた東北地方。しかしそこ
に残るお寺・遺跡や祭、そして歴史を紐解くと、かつて日本全国にあった
縄文文化を色濃く残していることがわかる。それは文学においても東北
出身の石川啄木・太宰治・宮沢賢治の感性が生まれた土壌を探る旅でも
あった。梅原猛氏はアイヌの文化に触れたときの確信を、この東北地方の
旅でも再認識させられ、そこに日本の原風景を感じとるのである。また
大陸から来た弥生人の倫理観が、如何にして縄文文化を席巻したかの
考察をしている。本書を通して、縄文土器の芸術の素晴らしさを初めて
理解した芸術家の故・岡本太郎氏と同じく、梅原猛氏の感性の素晴らしさ
と洞察力が発揮された文献で、多くの日本人に是非読んでもらいたいと
思う。



原日本文化への旅立ち(本書より引用)

東北人は、長いあいだ、心の中に、密かなる誇りをいだきながら、蝦夷の
後裔であることに、耐えてきた。そして自分が、アイヌと同一視されることを
頑強に拒否してきた。蝦夷は人種的概念ではなく、ただの政治的概念に
すぎない。そして、「蝦夷はアイヌではない」そういう結論は、東北人にとって
のぞましい、はなはだ願わしい結論のようであった。このような願わしい結
論にそって、東北を、古くから倭人の住む、古くから稲作農業が発展した
国と考える見解が、戦後の東北論の主流であったように思われる。それは
東北人を後進性の屈辱から救うものであったとしても、かえって東北特有の
文化の意味を見失うことになると思う。

蝦夷の子孫であることが、蝦夷の後裔であることが、なぜわるいのであろう。
アイヌと同血であり、同文化であるということを、なぜ恥としなくてはならない
のか。日本は平等の国家である。幕末に戦った二つの権力、薩長方も徳川
方も、平等に日本国民としての権利と義務をもっているのではないか。倭人
と蝦夷の対立はもっと昔のことなのである。その昔の対立が、なぜ現代まで
差別になって生き続けねばならないのか。蝦夷の後裔であること、アイヌと
同血であることを、恥とする必要はすこしもないのである。むしろ、日本の文
化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を明らかにすることによって、明ら
かになるはずである。

私のこの旅は、ほんの短い期間の旅である。芭蕉は、『奥の細道』の旅に5ヶ
月を要した。私は公務の都合で、10日しかこの旅に使うことはできなかった。
もとより、前にも何度か東北の各地を訪れたことはある。このささやかな旅で
私は、東北文化のほんのわずかしか触れることはできなかった。しかし、見方
が変われば、うわべを見ただけでも、やはりその解釈は変わってくる。このささ
やかな「紀行記」が、今後の東北論の出発点になり、今後の新しい「原日本文
化論」の基礎になることを願うものである。

 
 「人類哲学序説」
梅原猛・著 岩波新書


私は、身を離れた心というものは、一種の亡霊のようなものであると思う
のです。沖縄では、そういう身を離れた亡霊があちこちに潜んでいるとされ、
それがある種の守り神とされています。一種の幽霊ですね。近代哲学の
基礎に置いたデカルトの「われ」は、実は身を離れた幽霊だったのではない
か。しかもそれが実体とされた。「実体」とは中世においては神にしか与え
られない概念だったのに、近代に入り、肉体を離れた幽霊が実体とされて
しまった。そして、そのような理性・精神によって近代哲学は導かれていった
のです。

デカルト以後スピノザとかライプニッツとか、デカルトと異なる哲学が出現し
ましたが、しかし、以後の哲学に大きな影響を与えたのは、やはりデカルト
です。以後、イギリスではロックやヒュームの経験論の哲学、そしてドイツ
では、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの観念論の哲学が出現します。ここで
はこのような哲学について、くわしく語ることはできませんが、近代哲学の
大成者とされるフリドリッヒ・ヘーゲルは、近代哲学はデカルトの理性の自立
という思想に始まるとデカルトをたたえています。ヘーゲルの矛盾を通して
の精神の発展の哲学を、物質の発展に変えるのが、戦後一時、日本の
思想界を風靡したカール・マルクスの唯物弁証法です。

繰り返しますが、この肉体から離れた精神、「われ」あるいは理性というのは、
つまりはデカルト哲学の第一原理というものは、ヘレニズムとヘブライズムの
伝統のうえに偏見をのせてしまったのではないか、そう私は考えます。

つまり、ここまで論じてきた理由から、この原理は明晰判然たる真理とは
認められない、というのが私の省察です。
(本書より引用)

 
 「ネアンデルタール人の首飾り」
フアン・ルイス・アルスアガ著 
藤野邦夫・訳 岩城正夫・監修 新評論


しかし、私は読者に正直でありたい。科学者としてのわれわれがネアンデル
タール人の絶滅した時代を少しずつ明らかにしても、どのようにして、どんな
理由で絶滅したかという問題はいまだにわかっていない。出来事がおきた状況
は相反する解釈を許すので、科学が袋小路におちいった位置から仮説を前進
させざるをえない。わたしは本書で自分の見方を説明しよう。この謎に直面した
とき、手がかりになるのは理由ではなく直感だから、読者が望めばべつの結論
を引きだせる余地がある。

いずれにしてもネアンデルタール人が本書の中心人物になるのは、われわれの
祖先だからでなく、まさに祖先でないからである。何十億年前に出現した最初の
生物と現代人を結ぶ長い連鎖のひとつを研究してみても、たいした意義はない
だろう。それに反してネアンデルタール人は、数万年ものあいだヨーロッパで、
われわれの種と無関係に進化した類似の人類の代表である。ネアンデルタール
人はわれわれが自分の姿を見つめ、その結果、より以上に自分を知るための
驚くべき鏡になる。
(本書・プロローグより引用)


人類がシマ・デ・ロス・ウエソスに住みつくまでに、脳容量は格段に大きくなった。
その結果、より高いレベルの知的能力と意識の広がりに大きな進展が見られる
ようになり、意識は拡大しつづける活動範囲の支えになった。意識は目前の制限
を打破し、未来に向けて舵を切ったのである。人類は自然界の出来事を予測し、
ほかの人類の行動を事前に読みとれるようになった。そしてそのとき、「あること」
がおきたのだ。それは思考の最初の大きな成果としてのセンセーショナルな発見
であり、それがほかのすべての発見の発端になった。われわれはある瞬間を避け
ることはできないし、それが実在する瞬間を避けることもできない。ヒト科はだれも
が例外なく死ぬ運命にあることを理解したのである。死は生物学的な目前の脅威
でなく、すべてのものの宿命だった。人類以外の地球上のすべての生物は、その
ことに気づかなかったのだ。
(本書第7章 毒いりの贈り物 より抜粋引用)

 
 「アナザー人類興亡史」
人間になれずに消滅した傍系人類の系譜 
金子隆一著 矢沢サイエンスオフィス編 技術評論社

ホモ・サピエンスが誕生するまで人類は容易ならざる歴史を歩んだ。それは、
われわれの祖先の遠い血縁者であるさまざまな“アナザー人類”が生き、そし
て地上から永遠に消えていった過去である。本書は彼らの数百万年の興亡を
追いホモ・サピエンスの真の歴史に迫ろうとする。


私たち人間は生態系の頂点に位置し,地球上で繁栄を謳歌しているかのよう
です。しかし現生人類が生き残ったのは進化の必然か? それにはどんな理
由があったのか? 本書の目的はその素朴な疑問を解くことにあります。その
ためには,ヒトが生き残るまでの間に,どのようなヒトの祖先がいて,どういった
傍系人類が生まれては消滅していったのかを追うことにしましょう。本書は最
新の科学調査をもとに,これらの滅亡していった「アナザー人類」を中心に興亡
を解説し、いまの人類(ホモ・サピエンス)のルーツを求める旅にいざないます。

(本書より引用)

 




 「日本人はるかな旅 展」 
国立科学博物館 NHK NHKプロモーション

日本列島に、私たち“新人”(ホモ・サピエンス)が住み始めたのは、およそ
3万年前からと考えられています。アジアの各地でさまざまな環境に適応し生
き残った人々が、独自の文化をもって、いくつかのルートで日本列島にたどり
つき、互いに影響を与えつつ融合して“現日本人”が誕生したといわれていま
す。その光景こそ、日本列島という“ふるさと”の現像です。

本展では、港川人など日本人の祖先の化石人骨、日本各地で出土した石器
や土器のほか、ロシア・マリタ遺跡から出土した狩猟具や中国・河姆渡遺跡か
ら出土した初期稲作を証明する農耕具などの海外の関連する資料をあわせ
て展示し、旧石器時代から弥生時代までの人々の姿かたちと生活を描き出し
ます。本展を通じ、日本列島に到達した私たちの祖先が厳しい自然環境を克
服し、技術・文化を築き上げていく過程をたどる体験が、日本人の原点を見
つめ直す機会になればと願っています。

(本書より引用)

 

この文献の詳細ページへ 「オオカミの護符」 

小倉美恵子・著 新潮社


西本教授によれば、群馬、栃木、埼玉、長野、東京、神奈川、山梨と広域にまたがり、
山が深い関東山地は、近代を迎えるまでニホンオオカミが数多く棲息していたとのこ
とだ。関東平野を取り囲むように、遺跡からもニホンオオカミの骨がたくさん出土する
のだそうで、御嶽の御師さんから教えられたとおり、武蔵の山々にはオオカミが生きて
いたのだ。

西本教授の話で特に興味深く感じたのは、オオカミは護符になる以前から信仰の対象
であった可能性が高いということだった。紙でできた護符は、文字が庶民に浸透する
ようになって生まれたものと思われるが、縄文時代には実際にニホンオオカミの牙や
手足の骨など身体の一部をお守りとして身につける風習があったという。『オオカミの
護符』は突然現われたのではなく、古代からのオオカミへの信仰がその背景にある。

「ニホンオオカミ絶滅から100年」というタイミングで行われたこの企画は、博物館のあ
る山梨県笛吹市御坂町の民家で、新たにオオカミの頭骨が発見されたことがきっかけ
になっている。山梨もまた、奥多摩、秩父に連なる大山塊の世界にあり、この機に企画
展に出会えたのは、関東の山々に棲んだオオカミのご加護にすら思えた。私はこの企
画の責任者である学芸員の植月学さんを訪ねた。

ここで、さまざまな種類の「オオカミの護符」が存在することを知った。なんと「オオカミの
護符」を発行する神社は武蔵御嶽神社のみならず、関東甲信から中部地方にかけての
山地に多く重なる。オオカミの頭骨を所蔵する家も多い。博物館が作成した資料冊子に
は、“オオカミ信仰”を伝える神社やオオカミの頭骨を所蔵する分布が地図上にわかりや
すく示されていた。

「オオカミの護符」を発行するオオカミ信仰の神社は奥多摩・秩父を中心とし、特に秩父
には密集している。このオオカミ神社の分布とニホンオオカミの棲息域は一致する。そし
て各神社から発行される「オオカミの護符」は、バラエティーに富み、個性的であった。

あるものは二頭のオオカミが向き合って座り、またあるものは黒いブチ柄の大きな身体
に愛嬌のある顔が描かれている。さらには手刷りと思われるような素朴なお札もあり、
それぞれに異なるデザインで、味わい深いものであることが私を感激させた。それは
「オオカミ信仰」が、上からの統一的な力によって流布したものではなく、それぞれの
地域の暮らしから生まれ、浸透していったことを物語っているように思われた。
縄文にさかのぼるオオカミへの信仰 (本書より引用)

 
 
この文献の詳細ページへ 「生と死の北欧神話」 
水野知昭・著 松柏社


北欧神話とは、破壊と創造、闘争と平和、犠牲と豊穣、そして死と再生という
中心的テーマが脈打っている。それぞれの語りが緊密な因果の糸で結ばれ
ている。たとえば神界の没落をまねくバルドル殺害の悲劇は、宇宙創成
原点にその根本原因がひそんでいた。生と死の循環原理に基づく語りは、
全体として円環的な構造をなしていると説く。


その語りのなかには、人間の創成、神界の構成、侏儒(こびと)族の発生、世界樹
と運命(ウルズ)の泉、妖精族の特徴、オージンを主宰神とする神々の特性、ロキ
の一族、神界を中心に発生した銘記すべき出来事、あるいはソール神とロキの旅、
ミズガルズ蛇を釣り上げる話、そして、バルドル殺害の事件など、その他もろもろの
神話的情報がふくまれている。最後にラグナロクと称する「神々の滅びゆく定め」と
世界の没落、そして世界の新生にいたるまでの語りを聞かされるという構成である。

古代の叡智ともいうべき神話が、ここではひとりの世俗的な王の幻術体験という
「枠組み」の内部に封入されている。いわば、巨大な一幅の絵画の「額縁」のなかに
はめ込まれたものは、神話的な物語の全体像を示唆しながらも、実はその一部
抜粋でしかないのである。

(本書より引用)

 
 「人類の起源」
フィオレンツォ・ファッキーニ著
イヴ・コパン 序文 片山一道 監訳

本書は人類の起源と進化の研究を紹介したものである。最初の数章は、
入門的な内容になっており、古人類学とは何か、進化とは何か、化石とは
どんなものか、どのようにして化石の年代を知ることができるのか、などの
一般的な問題を解説している。

入門編の後は、霊長類、ヒト上科、ヒト科、ヒト属の順序で人類進化の大き
な流れが解説してある。ヒト属に至ると、文化的な要因も重要になってくる。
ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・サピエンス・アルカイコ、ネアンデル
タール人、ホモ・サピエンス、サピエンスは、いずれも種の違いではない。ひ
とつの生物種に属するものが、文化の違いで異なった現れ方をしているの
である。旧石器時代全体を見た後に、新石器時代の人間の生活の様子
(経済、文化、宗教、芸術)を解説して本書は終わっている。

序文でイヴ・コパンは述べている。「この壮大な叙情詩の中で、人類の歴史、
宇宙の発生、地球の形成、生命の誕生、奇妙でちっぽけな哺乳類である人
類の有りさま、そして人類の素晴らしい文化など、すべてはひとつにつながっ
ている。著者ファッキアーニは (中略) 小型の猿から大型類人猿、木に
登っていた前人類から技術、知識、言葉を持った現生人類に至る、私たち
人類のたどってきた道筋を魔術師のように説き起こしてくれる。私たち人類も
動物世界の出身であるのは明らかであるが、学習能力を持ったがために、
本来備えていた動物的本能を失ったが、代わりにあらゆる威厳を持つように
なったのである。」

(本書より引用)

 


 「呪の思想 神と人との間」
白川静+梅原猛 対談 平凡社

第一回めの「対談」では、二人の立命館大学における出会いから、「高橋
和己」を核として思い出語へと入り、高橋和己の『わが解体』の“あの時代”
へタイムスリップ。そして「漢字のものがたり」。

いささかリラックスした、二度めの対談では、こちらも大奇人「孔子」という人
物にぐっと、迫る。孔子をカタる時、梅原猛には、いささかの想いがあった。
梅原猛は白川静に聞く。白川静が孔子を愛する理由を。それは、「流浪の民
としての孔子」、「葬送を司る者としての孔子」、「巫女の生児としての孔子」
への深い愛情であった。同時に深い哀しみであった。梅原猛は、実は同じ想
いを「孔子」に抱いていた。二人は打ち溶けてゆく。

さらに三度めの対談では『詩経』という書物に籠められた「興の精神」が二人
を繋いでゆく。「興」とは、人が神に捧げる呪的行為であった。「興」は歌が呪
物であることを教えてくれる。例えばこんな風である。「歌が病を治す呪力を
持つことを誰が知っていよう。それはむつかしいことではない、花が美しいと
思ったら、それを歌えばいい。すると病は癒えるであろう」。

この本に収められた三つの対談は、梅原猛をコーフンさせた。そのコーフン
が読者に“感動”として伝わる。昔むかしの哀しく切ない美しいものがたりを
背景に、白川静の学問と思想は、鎮魂呪術者・梅原猛の中で、妖しく咲く。
(本書 はじめに より引用)
 
   「甦る縄文の思想」
梅原猛・中上健次 有学書林

このような視点で日本文化をみるとき、縄文文化こそは日本の深層文化
あるいは基層文化であり、その深層文化あるいは基層文化の上に、それか
ら以後の文化、弥生文化、古墳文化、律令文化、王朝文化、武家文化など
がのっかっていて、後世の文化は深くこの深層あるいは基層にある縄文
文化の影響を受けているということにならざるを得ない。

とすれば、アイヌ文化や東北文化が従来とはまったく違った視野のもとに見
えてくるのである。それらの文化は、わが日本文化の深層にある縄文文化
の名残りを最も強く残す文化であるということになる。

縄文文化が最も純粋に残存する文化はアイヌ文化であると思われるが、
不幸なことに日本人は明治以降、アイヌを日本人とまったく血のつながりの
ない人種とみなして、アイヌ文化を日本文化とまったく異質な文化とし、その
ような未開の文化を一掃して、アイヌに一般の日本人並みの文化を享受
させることがアイヌにとって最もよいことだと信じてきた。そのために、北海
道開発の名のもとに、アイヌ文化を全体として消滅させることに政策の重点
が置かれたのである。百年にわたるこの誤った政策によって、アイヌ文化は
絶滅に瀕している。

アイヌ語を話し、アイヌの神事を行うアイヌは、七、八十代の古老を除いて、
ほとんどいなくなってしまったのである。私はこのことを、近代日本が行った
最大の文化的蛮行の一つであったと思う。しかも、そのことについて、日本
人はまったく罪の意識をもっていないのである。アイヌを原始的生活状態
から救うという名目で、日本人は自己の基層文化を、最も明確にとどめて
いる大切な文化を、自らの手で葬ってしまったのである。
(本書より引用)

 
 「縄文 謎の扉を開く」
縄文文化輝く会 松久保秀胤・監修 冨山房インターナショナル


「釣手部の頂点に人の顔がはっきり表されている」、「全体が明らかに
腹の部分の大きく膨れた女体を思わせる形をている」、「女神像」だと。そ
してその「女神は、胎内におそらく彼女の子の神と見なされた燃える火神」、
それを産みながら体を焼かれて死んだ女神であると。日本神話の最高神
である

イザナギ、イザナミですね。イザナギ、イザナミはアマツマグワイをして日本
列島を生み出し、最後に火の神カグツチを生むときにイザナミはその陰部
を焼かれてもだえ苦しんで死ぬ。その過程で人間にとって必要ないろいろ
な穀物、粘土、鉄、こういう物を吐き出したということになっているのです。
「このイザナミと似た身体の中に火を持っていた母神を主人公にする神話
は、メラネシアやポリネシア」、それから南米まであるんです。このことは、
ほかの地域と比べるとわかります。私がイタリアのポンペイ遺跡の発掘に
加わったときに、ギリシャ・ローマ神話を読んだのですが、あちらは、最高神
のジュピター以下、ひたすら恋愛を繰り返し、ひたすら男であり、女である
んです。しかしアジアの神様は、どこか母親のイメージがあるんですね。要
するに自分の身体を焼いて死んで、その代わり、その子どものためにいろ
いろな物を残す。こうして人間のために残すというのは自己犠牲ですから。
これは、一番ランキングの高い愛情の表現ということになります。そういう
ものの考え方を縄文人はすでに確立しているということになるのではないか
と思います。
(本書より引用)


 
この文献の詳細ページへ 「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」
     マックス・F・ロング著 林陽 訳 ビオ・マガジン

この衝撃的な文献について自分の中で整理ができたところで、感想を載せたい
と思います。尚、この文献は先に出版された「ホ・オポノポノ 奇蹟の原点 カフナ
の秘法」
「ハワイアン超スピリチュアル カフナの秘法 実践篇」を一つに合冊し
たものである。

ホ・オポノポノはハワイ先住民の呪術師(カフナ)たちが行っていた秘術のひとつ。
この本はホ・オポノポノをベースにカフナの秘術の全てを解き明かすために書かれ
ている。キリスト教によって禁止される前、本物のカフナたちが行っていた様々な
奇跡をレポートし、その奇跡の仕組みを科学的に解明した。

(本書より引用)



ハワイの先住民カフナ(「専門家」を意味)は「ポノ」(和)の名称のもとに、昔から
和解と癒しの儀礼を使い、人間関係の亀裂やそこから派生する各種の病を治療し
てきた。しかし、今流通している「ホ・オポノポノ」とう名称が作られたのは最近のこと
である。1980年8月に、本書の著者マックス・フリーダム・ロングのフナ研究所のメン
バーであったモルナー・シメオナと当時の会長であったE・オサ・ウィンゴがロングの
研究を基礎に共同開発して命名したのが最初で、一対一あるいは家族対家族で、
祈りや告白、話し合い、許しを中心として行われる癒しの手法である。

しかし、最近の自己啓発ブームの中で突然現れてきた「ホ・オポノポノ」はそれとは
異なる。いわば簡略化したバージョンであり、本来のホ・オポノポノが成立する過程
で原典とされた本書の教えからは切り離されている。この興味深い現象について、
今のフナ研究所の代表者ヴィンス・ウィンゴ博士が驚くべき事実を明らかにした。
「それは30年前に試されて、益と害が同じくらい多く出ることが確認された、簡略版
は全部で12段階ある『上級ホ・オポノポノ』の一部にすぎない」というのだ。

(本書より引用)



さらに面白いのが、日本語でもある「フナ」という言葉だ。フナの古体は「クナ」で、
神話の発祥地である出雲には、フナト(クナト)の神の伝説がある。イザナギ神が
黄泉の国から地上に戻る時に黄泉の力を封じるために付き立てた杖から化生し
た神で、クナは「来るな」からきていると「日本書紀」にあるが、出雲井神社の社屋
(富家)は違うことを伝えている。これは作家の司馬遼太郎氏が初めて明らかにし
たことである。

富家の口伝によれば、原出雲族は祖神クナトに率いられて、4500年前に海路日本
に渡来し、製鉄、紡績、農耕を教え、各地に国主を置いて治め、大国主神の先祖
になった。これはエジプトから太平洋に船団を組んで渡来したカフナの伝説の別
バージョンと思われる。

スクナヒコナ神の伝説もこれに絡む。スクナヒコナ(「クナ」に注目)も船に乗って
日本に渡来した。大国主神とともに日本を広く回り、温泉を堀り、種を撒き、医薬
と呪術の基礎を据えて、南海に旅立ったと「記紀」に伝えられている。このスクナ
族がハワイに渡ってカフナの祖になったと思われる。

これは私の一方的解釈ではない。ロング氏にフナの研究を託したハワイ・ビショッ
プ博物館のブリガム博士によれば、「和歌山」という地名は船団を組んでハワイに
戻ってきたワケア神から取ったものである。博士の発言を「記紀」の記録が傍証す
る。「記紀」の記述によれば、和歌山は呪術と医療の基礎固めをしたスクナヒコナ
神が南海に旅立った場所だった。ロング氏の研究を理解することにより、日本古来
のフナ学(霊学)を科学的に解明することも難しくないと思われるのである。

(本書 訳者後書 より引用)  
 
この文献の詳細ページへ「エデンの彼方」 
狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 
ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

30年にわたるイヌイットとインディアンの研究をもとに、狩猟採集民と
農耕民の文化の比較を通じて、人類の歴史を根本から再考した類のない
試み。

狩猟採集民は我々の同時代人である。我々は農耕民とその末裔である。
狩猟採集民は一定の範囲の土地に根ざした生活を送り、農耕民は創世記
のカインに見られるように、地上を放浪する。一方は恬淡無欲な定住生活
者、他方は刻苦勉励の遊動民である。人類の歴史は、この全く異なる人々
によって形成され、現在に至った、と筆者は見る。

今日、本来の狩猟採集社会は失われたが、それは我々、農民とその末裔
の力に侵されたからである。しかし彼らは現代に生きている。本書で狩猟
採集民の美質を多々明らかにした著者は、一方に与することなく、正邪、
善悪の二項対立を越えたところに、人間としてより良く生きる道が見出され
ることを示唆している。
(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ 「月と蛇と縄文人」
     シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観 
     大島直行・著 寿朗社

私自身、本書の著者のように実際に縄文土器の発掘に関わったこともないし、
それほど多くの文献に精通しているわけではない。ただ本書を読み進めると共に、
次第に違和感が沸きあがってきた。著者はナウマンの視点を基盤として縄文土器
や土偶の文様の解釈をしているが、またそれらの解釈は将来真実と証明される
かも知れないが、私にとっては、結論ありきから全ての事柄を月と蛇に関連付け
ようとしていると感じてならなかった。

2015年の現時点においても縄文土器の文様などの解釈は推察の域を出ないが、
先ず求められているのは全ての先入観を捨てて(完全に先入観を捨て去ることなど
不可能だとしても)、縄文人の遺伝子を受け継ぐ一個の人として土器と向かい合う
ことこそ最も必要な態度であると思う。勿論、そこには客観的事実や時代背景を
踏まえながらの推察になるのだが、この態度を抜きにしては縄文土器の真実には
迫れないのではないかと感じてならなかった。

2015年8月27日 (K.K)


「人間とは何か」・・・・その研究により長い間取り組んできた学問は、心理学や
宗教学、民族学(文化人類学)、民俗学、言語学、神話学、そして哲学などでは
ないでしょうか。だとしたら考古学(縄文研究)にもその研究成果を取り入れること
が必要だと私は考えます。しかし、縄文人の精神性の研究を行なってこなかった
”正統派”考古学者からすると、それは”御法度”なのです。なぜなら現代の考古学
には、縄文人の生活を司っていたと思われる神話的思考を「科学的」に証明する
手立てがないからです。加えて考古学者は、民俗学が扱う「人間」と、何千年も昔
の縄文時代の「人間」はまったく別ものだと考えているのです。ですから考古学者
は、民族学や民俗学に、ましてや神話学にはまったく手を出しません。かつて
「神話」が侵略戦争の原動力となった皇国史観の形成に深く関与したということも、
日本の考古学者が神話学をタブー視してきた大きな理由にもなっています。

そうしたタブーを破って私は、亡きネリー・ナウマンが遺したいくつかの著作と論文
を指南役に、ほかの人文科学の成果も取り入れながら、「神話的思考に基づく
縄文文化」という未知の世界に分け入ってみたいと思います。取り入れた手法
(概念)は、心理学の「普遍的無意識と元型(グレートマザー)」、宗教学の
「イメージとシンボル」、そして修辞学の「レトリック」です。いずれも人間の根源的
なものの考え方にかかわる概念です。
(本書より引用)



Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent


生命科学・遺伝子


をクリックすると表紙・目次並びに引用文が出ます。

 
   「進化しすぎた脳」 中高生と語る「大脳生理学」の最前線
    池谷裕二 著 講談社

ということは、脳というのは進化に最小限必要な程度の進化を遂げたの
ではなく、過剰に進化してしまった、と言えるのではないか。進化の教科書を
読むと、環境に合わせて動物は進化してきた、と書いてあるけど、これは
あくまでも体の話。脳に関しては、環境に適応する以上に進化してしまって
いて、それゆえに、全能力は使いこなされていない、と僕は考えている。
能力のリミッターは脳ではなく体というわけだ。

こうして脳は、一見すると無駄とさえ思えるほどに進化してしまっているけれ
ど、でもそれは裏を返せば、将来いつか予期せぬ環境に出会ったときに、
スムーズに対応できるための、一種の「余裕」だと考えることもできる。新し
い環境や、もしくは進化や突然変異などで体そのものの形が急に変化して
しまっても、余裕をもった脳は、依然これをコントロールすることができる。

こうして考えると、脳の過剰進化とは、いわば安全装置、そう、未来への
予備みたいなものだとわかる。もちろん厳密な意味では、これはちょっと
詭弁だ。だって進化には本当は理由なんかないわけだからさ。DNAは将来
を予測したりはしないし、未来計画も立てない。でも僕は、あえて前向きに
脳は過剰進化したと考えてみたいんだ。すると、いまの僕たちが脳を使い
こなせていなかったとしても、それはけっして嘆くべきことではないと思えて
くるわけ。
(本書より引用)

 



 「意識の進化とDNA」
 柳澤桂子 著 集英社

働くことのできなくなった私には、豊かな時間が与えられた。静かな生活は、
私の感性を鋭くした。春の嵐はこんなにも甘かったのであろうか。花はこん
なにも優しい表情をしていたのであろうか。冬の月光はこんなにも青かった
のであろうか。芸術作品の美しさにも、健康であった時には感じられなかっ
た何かを感じるようになった。そして、その作品を生み出した人々への共感
は深まるばかりであった。

人間とは何か。自己とは何か。健康であった頃に得た生命科学の知識と、
動けなくなってから見えてきたせ界の融和を図るべく思索を深めていった。
私にとって、研究とは神に語りかけることであったので、科学知識と精神世界
の融合を試みることには何の抵抗も感じなかった。先人たちの書き残した
たくさんの書物にも触れた。

そして、ついに私は「本来の自己」とは、36億年の歴史を背負ったDNAであ
ると考えるに至った。この想像を絶するような時間の中に私たちは神を見る
のではないか。36億年の歴史を持つDNAの発する強い力と、たかだか数万
年の歴史しか持たない自我との間の葛藤に苦しんでいたのが人間ではないか。

神は一人ひとりの心の中にある。そして、本来の自己と自我との葛藤を超え
た所に、安らかな美しい世界がある。これは私が病気という挫折と引き換え
に実感として手に入れたものである。

世界は美しい。苦しみは超越できる。人間はすばらしい。生きとし生けるもの
すべては尊く、中に神を宿している。芸術も化学も苦悩までもが、きらきらと
光り輝く世界に人間の精神は到達することができるであろう。
(本書より引用)

 
   「生きて死ぬ智慧 心訳 般若心経」
 文・柳澤桂子 画・堀文子 英訳・リービ英雄 小学館

私たちは生まれ落ちるとすぐ、母親の乳首を探します。お母さんのお腹
の上に乗せてやるとずれ上がってきて、ちゃんと乳首に到達します。また、
生まれたときに最初に世話をしてくれた人になつきます。その人が見え
なかったり、声が聞こえないと泣きわめきます。このように、生まれ落ちた
時点ですでに、ものを自己と他者というふうに振る舞います。これは本能
として脳の中に記憶されていることで、赤ちゃんが考えてやっていること
ではありません。

けれどもこの傾向はどんどん強くなり、私たちは、自己と他者、自分と他の
ものという二元的な考え方に深入りしていきます。元来、自分と対象物とい
う見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になります。自分のまわり
にはいろいろな物があり、いろいろな人がいます。

ところが一元的に見たらどうでしょう。二元的なものの見方になれてしまっ
た人には、一元的にものを見ることはたいへんむずかしいのです。でも私
たちは、科学の進歩のおかげで、物事の本質をお釈迦さまより少しはよく
教え込まれています。

私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質
の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。
私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいると
ころも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが
宇宙を一元的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の
中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。

あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。
物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。
一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。

このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、
何事も淡々と受け容れることができるようになります。

これがお釈迦さまの悟られたことであると私は思います。もちろん、お釈迦さ
まが原子を考えておられたとは思いませんが、ものごとの本質を見抜いてお
られたと思います。現代科学に照らしても、釈尊がいかに真実を見通してい
たかということは、驚くべきことであると思います。

(本書より引用)

 
 「愛蔵版DVD BOOK 生きて死ぬ智慧」
 文・柳澤桂子 画・堀文子 小学館

生命が誕生してから四〇億年。その間に八回以上も地球は大変動にさらさ
れて、生命は大絶滅を起こしている。隕石の衝突により、地球は燃え上がり、
海は煮えくりかえり、蒸発して塩が残ったが、その塩までも焼けてしまうような
大事件が起こっているのに、わずかな生命が生き延びたのである。またある
ときは、地球の温度が下がって全球凍結が訪れた。地球のすべてが凍った
とき、わずかに流れ出る高熱の湯のおかげで少数の生物が生き延びた。いま
から二億五000万年前の大絶滅は一番規模が大きく、地球上の生物の九五
パーセントの種が絶滅したという。私たち人類の祖先は、生き残った五パーセ
ントのなかに入ったのである。

もし奇跡という言葉が、この世でたったひとつの不思議にしか用いられないな
らば、いま、いのちが存在している事実そのものを挙げるしかない。一個の
生命が発生してくる過程もまた神秘に満ちている。これらを知れば知るほど、
子供たちは自分がいかに奇跡に満ちた存在であるかを理解するであろう。
そして、他のいのちのたいせつさにも思いを馳せるであろう。このような教育
こそ、いま求められていると私は考える。

宗教に親しみ、あるがままの自分を受け容れられるようになった人は、苦しみ
を受け容れることができる。とくに老いの苦しみは、言葉ではいいあらわせな
いような寂しさと苦しさを伴う。このようなときに、あるがままの自分を受け容
れる修行をつんでおくことは、これからの社会にとって、ぜひとも必要なことで
あると思う。この本とDVDが、日本人の心を養うために少しでも役立てば幸い
である。

(本書より引用)

 
 「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」
 福岡伸一 著 木楽舎

生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取
した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身は
こうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。だから、私た
ちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月の自分とはまったく別物に
なっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを
作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜け
る」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」
べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの
身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎな
いからである。

つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私
たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ
自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命
の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私は
この概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的
平衡」と訳したい。英語で記せば dynamic equilibrium (equi =等しい、
librium=天秤)となる。

ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。
「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。

(本書より引用)

 
 「生物と無生物のあいだ」
 福岡伸一 著 講談社現代新書

生命とは何か? それは自己複製するシステムである。DNAという自己
複製分子の発見をもとに私たちは生命をそのように定義した。

ラセン状に絡み合った二本のDNA鎖は互いに他を相補的に複製しあうこと
によって、自らのコピーを生み出す。こうしてきわめて安定した形で情報が
DNA分子の内部に保存される。これが生命の永続性を担保している。確か
にそのとおりである。

しかし、私たちが海辺の砂浜で小さな貝殻を拾ったとき、そこに生命の営み
のあとを感じることができるのは、そして貝殻が同じ場所に同じように散在
する小石とはまったく別の存在であることを半ば自明のものとできるのは、
そこに生命の第一義的な特徴として自己複製を感じるからだどうか。おそら
くそうではない。

自己複製が生命を定義づける鍵概念であることは確かではあるが、私たち
の生命観には別の支えがある。鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、
その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであること
に、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったにしても気づいていたので
ある。

(本書より引用)

 
 「いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる」
 柳澤桂子 著 小学館

宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。それは、
生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。

それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるの
だろうか。爬虫類(ワニなど)になると、すでに自己意識のあることは外か
ら見ていてあきらかだろう。

いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識
は、自我の確立とともに人格神(一神教)の認識に進化する。そこでは、
人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、その人格神の超人的能力
を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。

しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して、
“神なき神の時代”に入ることができると、私は考える。つまり、私たちの
こころに「野の花のように生きられる」リアリティーを取り戻すために、必
ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。もはや何かに頼らなければ
生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に
頼らずに、神の前に、神とともに生きるのである。

宗教学では、このように信仰が進化するとう考えは否定されているようだ
が、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。
私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうる
と信じている。

(本書より引用)

 
 「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」 
 柳澤桂子 著 草思社

いのちには36億年の歴史の重みがあり、100年の意識の重みがあり、
その人をとりまく多くの人々に共有されるものであるという側面がある。死
は生命の歴史とともに民族の歴史、家系の歴史、家族の歴史、個人の
歴史すべてを包容するものである。このように大きな視点で生や死をとら
えなければ、人間は死を私物化して意のままに支配し、かぎりなく傲慢に
なるであろう。

36億年の生命の歴史のなかに時をおなじくして自己意識と無を認識する
能力をあたえられ、死の刻印を押されたものとして、また、死をおそれる
ことを知ってしまったものとして、おたがいに心を通わせ合い、深く相手を
思いやることが、生の証のように思えるのである。

死ばかりでなく、老いもまた避けることのできない私たちの運命である。個
体の寿命がのびたことによって、老いの苦しみを感じる期間も長くなって
いる。老いていく人々の苦しみを思いやるとともに、そこから多くのものを
学びたいと思う。

私たちは、死を運命づけられてこの世に生まれてきた。しかし、その死を
刑罰として受けとめるのではなく、永遠の解放として、安らぎの訪れとして
受け入れることができるはずである。また、死の運命を背負わされた囚人
として生きるのではなく、誇りと希望をもって自分にあたえられた時間を
燃焼し尽くすこともできるはずである。

今日も私たちは死にむかって一日を歩んだ。夕日に向かってその一日を
思うとき、死への一日としての重みにたえる時を刻んだということができる
であろうか。

(本書より引用)

 
 「柳澤桂子 いのちのことば」
 柳澤桂子 著 集英社

生きものとしての私たちを考えると、「生きる価値のない生」というものは
ないと思います。ある頻度で遺伝的に障害をもった子供は生まれてきますが、
そうした多様性が維持されるシステムこそが遺伝子の本質なのです。

障害児を中絶するケースが多くなると、障害をもった子供を産むことに罪悪
感を感じるようになるのではないかと心配する人もいます。人類という集団の
中には、かならず、ある頻度で障害をもった子供が生まれてきます。すべての
障害児を中絶しても、障害児は次々と生じてきます。それが、私たちのもつ
遺伝子の本質なのです。

私たちが生まれるときにどのような遺伝子を授かるかは、誰にもきめること
ができません。障害をもっている人は、私が受け取ったかもしれない障害の
遺伝子を、私に代わって受け取ってくれた人です。障害をもった人が快適に
過ごせるように、私たちはできるかぎりのことをしなければならないと思うの
です。


孫の顔を見るたびに、「すまない」という気持ちが働く。そうではなくて、「十分
に生きることを楽しんで」といえるように、私たち、地球の先住者は、できるかぎ
りの対策を講じなければならない。

(本書より引用)

 



 「永遠のなかに生きる」
 
柳澤桂子 著 集英社

死は生の終着点のように思われていますが、けっしてそのようなものでは
ありません。死は生を支え、生を生み出します。受精の際にはたくさんの精
子が死にますが、残された一つの精子によって生命が誕生します。一つの
生のためにおびただしい数の死が要求されます。死は生とおなじように、ダ
イナミックな営みなのです。

生命の歴史の中では、生と死はおなじ価値をもっています。生きている細胞
より死んだ細胞の数の方がずっと多いという意味において、生命の歴史は
死の歴史であるということもできます。40億年の生命の歴史の中に編み込
まれた死を避けることはできないし、それは避けてはならないものです。死に
よってこそ生は存在するのであり、死を否定することは生をも否定することに
なります。

多細胞生物にとっては、生きるとは少しずつ死ぬことです。私たちは、死に向
かって行進する果てしなき隊列です。40億年もの間書き継がれた遺伝情報
は、個体の死によって途絶えます。個体は40億年の時間に終止符を打ちま
す。しかし、その遺伝情報は生殖細胞に組むこまれて生きつづけます。この
ように見てくると、私たちが日ごろ意識している死は生物学的な死とはかなり
異質なものであることがわかります。

(本書より引用)

 
 「エレファントム 象はなぜ遠い記憶を語るのか」
 
ライアル・ワトソン著 福岡伸一・高橋紀子 訳 木楽舎

2008年夏、ライアル・ワトソン博士の他界を知らせてくれたのは、弟のアン
ドリュー・ワトソン氏でした。ワトソンさんは、晩年、オーストラリア・クィーンズ
ランド州のアンドリュー氏宅に身を寄せていました。まだ60代で、普通なら元
気なはずでしたが、脳梗塞を何度か患っていたのです。

最期の地となったのは太平洋岸に近い小さな町で、ワトソンさんとアンドリュ
ー氏夫妻は、よくその海岸を散策していました。おそらくそのとき、彼は告げ
ていたのでしょう。自分の遺骨はこの海に撒いてくれと・・・・。

アンドリュー氏一家がワトソンさんの遺骨を抱いて海岸に出ると、沖合いに
ザトウクジラの小さな群れが来ていたそうです。その時期、ザトウクジラが
回遊してくるのは珍しいことでした。一家が散骨を済ませると、ザトウクジラ
たちは東に向かって泳いで行ったそうです。それを見てアンドリュー氏は「皆、
ゾクッとした」と言います。

ワトソンさんに先立つこと5年前(2003年)、アリス夫人はアメリカ・サンタフェ
で亡くなりましたが、その遺骨はワトソンさんの手でハワイ沖に散骨されまし
た。アリス夫人の遺骨を魚の餌に混ぜ、二人がよく一緒に潜りに行った海に
撒いたのです。

「そうすると、魚に食べられて、いろいろな所に行けるから・・・・」

オーストラリア東海岸沖でワトソンさんの遺骨を「食べた」ザトウクジラたちは、
南太平洋を渡ってペルーに向かい、そこを経由して最終的にハワイ沖に向
かったはずです。

アンドリュー氏からのメールには「兄もクジラに運ばれて、二人はハワイ沖で
再会するのだろう」と書かれていました。ワトソンさんは、本書の第6章で「クニ
スナの太母とシロナガスクジラの対話」を記していますが、同質とも思える二つ
の情景は「出来すぎた偶然」なのでしょうか。

〈本書 解説にかえて(内田美穂)
より引用〉

 

宇宙・量子力学


をクリックすると表紙・目次並びに引用文が出ます。

 

 「ファー・アウト 銀河系から130億光年のかなたへ」 
マイケル・ベンソン 著 檜垣 嗣子 翻訳 新潮社

未公開写真を含む本書の宇宙の神秘的な姿には「自分とは何者か?」と
常に問いかけてくるようだ。そこには宇宙の歴史、人類の歴史、そして自分
自身の歴史が一体となって、自分という一個の存在にその疑問を語りかけ
てくる。この「ファー・アウト」を見て多くの人がそう感じてしまうのだろう。神秘
的な写真に留まらず、ある天体の光が地球に向けて旅立つその時の地球・
人類の様子も描かれ、前に発した疑問に否応なく連れ戻される。ただ美しい
写真を網羅した写真集などではなく、これは一つの宗教や哲学の息吹をも吹
き込む迫力を持った傑作写真集である。


半世紀にわたる天文学の成果が記録された、写真という素晴らしく美しい
遺産を厳選する・・・『ファー・アウト 銀河系から130億光年のかなたへ』の製
作作業は数年に及んだ。選び抜いた画像を20の章に構成し、わかりやすい
解説と細かいキャプションをつける。そこには著者マイケル・ベンソンが巧み
に組み合わせた、映画づくりにたずさわる者ならではの語り口と、芸術写真
を扱うキュレーターの手法がある。様々な天文現象について説明を受けなが
ら、ワイドショット、ミディアム、クローズアップと接近していけるので、専門知
識のない読者でも映画館のワイドスクリーンを見ているような感覚を味わえる。
また、これが初めての公開となるものも多い本書の画像は、どれをとっても
天体写真の傑作といえるだろう。

本書の画像には、ハワイ州マウナ・ケア山のカナダ・フランス・ハワイ望遠鏡、
チリ・アンデスのヨーロッパ南天天文台、カリフォルニア州パロマー天文台、
オーストラリアのアングロ・オーストラリアン天文台など地上の望遠鏡で撮影
されたものと、地球の周回軌道上にあるハッブル、スピッツァー両宇宙望遠
鏡で撮影されたものの両方がある。だが、こうした高度な設備でとらえられ
た光景に交じって、優れたアマチュア天体写真家の作品が収録されているこ
とにも注目したい。

地球との距離数百光年から130億光年先までの年表をもとにつくられた本書
には、テーマとなる天体の光が太陽系に向かって長い旅を出た頃、地球とい
う惑星で何が起きていたかを描いたエッセイも盛り込まれている。国際的に
高い評価を得た「ビヨンド 惑星探査機が見た太陽系」の続編・姉妹編となる
本書は、望遠鏡発明400周年にふさわしい作品である。


カラー228点、折り込み3点を収録
(本書より引用)

 

 「ビヨンド Beyond 惑星探査機が見た太陽系」 
マイケル・ベンソン 著 檜垣 嗣子 翻訳 新潮社

一つ一つの惑星探査機が虚無の空間を長い時間をかけて到達し、そこで
捉えた惑星たちの姿。それはあまりにも荘厳で、見る者を圧倒してならない。
そして自分自身の存在そのものを、宇宙という尺度の中で考えさせられるほ
どの迫力を持った貴重な写真集である。この写真集には過去の惑星探査機
が撮影した数多くの中から特に優れたもの295点が収録されており、それぞ
れの惑星たちの解説も一級品である。


太陽系の、地球以外の惑星から見ると、宇宙旅行をなしうる生命体が太陽
から3番目の
天体に存在する可能性はますます高まっている。起伏に富んだ
赤錆色の火星や、木星
の火山性衛星イオ、薄く優美な土製の環に口がきけ
たなら、その生命体がどんな風に見
えるかを教えてくれたことだろう。それは
決まって、硬い金属のよろいをまとってやってく
る。猛スピードで移動しながら、
ガラスの目やその他の感覚器官を使って休むことなく
パンしたりスキャンした
りする。それは太陽エネルギーを吸収することもあれば、原子力
を動力源に
使うこともある・・・・前者は見事にシンメトリーな翼によって、後者は極めて

動的な知覚機器に影響を与えないよう、支柱のような腕の先にのせられた原
子力電
池によってエネルギーを確保している。またそれは、見るもの知覚する
ものすべてを・・
・・文字通りひとつ残さず、すべてを・・・・ふるさとの惑星へと報
告している。情報は傘型
高利得アンテナを通じて、0と1からなる高速のデジタ
ル化された“声”となって、遠くふる
さとに届けられるのだ。

その声の報告は、言葉を使わない。画像を送っているのだ。何千枚もの画像
を。こうし
て私たちは金星を見る。雲のヴェールは、1990年代に探査機マジェ
ランが、驚異的なま
でに解像度の高いレーダーを取り払ってしまった。虚空か
らぼんやり姿をあらわす水星
のいかめしい、太陽にさらされた表面は、1970
年代にマリナーが撮影し、近年再処理
がほどこされた写真のなかで驚くほど
鮮やかに見える。赤茶けたぎざぎざの、立体的
な火星の谷や火山は、1970年
代のバイキング軌道船から現在の偵察ミッションにいた
る画像によって、非常
に細かな部分まで明らかにされている。いくつもの衛星をもつ木
星の荘厳さ、
土製の美しいリング、そして外惑星の冷たい郡青色の輝きも、旅人ボイ
ジャー
や、ふさわしい名を得たガリレオによって解き明かされている。


過去40年間、太陽系を探検すべく打ち上げられたロボットの小さな一団は、目
を見張
るほど幻想的な作品を無数にうみだしてきた。それは、風景写真として
の頂点を極め
た作品として評価され得るものである。「ビヨンド 惑星探査機が
見た太陽系」は、ロ
ボットによる宇宙探査史上もっとも見応えのある画像を集
めることで、見る者の心に
畏怖の念を起こさせるような、視覚で語る惑星旅行
の物語をつくりあげている。


カラー・白黒合計295点の写真を掲載。
(本書より引用)

 
   未来への提言「リサ・ランドール 異次元は存在する」 
リサ・ランドール+若田光一 NHK出版

(本書より引用)
おもしろいことに、わたしが5次元世界の概念から感じたことも、ある意味、
今、あなたがおっしゃったことに、よく似ているような気がします。それは神を
感じるような経験ではありませんが、目に見えない5次元に思いをめぐらせて
いると、「宇宙の神秘に対する畏敬の念」が湧きあがってくることがあります。
研究に没頭していると、あまりに課題に集中しすぎて、今、自分が何をしよう
としているのか、ということを見失いがちです。でも、人から自分の研究につ
いて尋ねられると、一歩ひいて客観的に状況を捉えることの重要性を思い出
し、「いったいこの研究はどんな意味をもつのか」と改めて自分に問うことに
なります。物理や科学という観点からではなく、もっとフラットな目で自分の取
り組んでいることを見つめてみると、それがどれだけ奇抜な発想であるかとい
うことにハッと気づかされることがあるのです。そのときに、宇宙には観測可能
なもの以外に想像を絶するほど多くの事象が存在することを改めて強く感じ、
宇宙の神秘に対して、畏敬の念を抱きます。

若田・最後に今世紀を生きるうえで、あなたが最も大切にしたいものは
何でしょうか。

探究心、理解力、友情、この三つですね。探究心、すなわち、「なぜ物事は
今日、わたしたちに見えるように現れているのか」・・・・それを知りたい、解き
明かしたい、そう思うことは、人間が生きていくうえでの考え方の基礎になりま
す。けれども、目の前にある世界だけを見ていては、人は往々にして間違った
仮説を立ててしまいます。自分以外の人間を理解する力、自分以外の文化や
世界を理解する力が、より深い大きな意味での理解に結びついていくのだと
思います。わたしの研究にとって、そして人生にとって不可欠なのは、お互い
にこうした関係を築くことのできた友人たちなのです。

 
 「大宇宙 完全版―空間編と時間編を、この一冊に!」
(ニュートンムック Newton別冊)

人類は,夜空に輝く星たちをながめながら,宇宙に対してさまざまな疑問を
抱いてきました。

宇宙は,いったいどこまで広がっているのだろうか? いつどのようにして生ま
れたのだろうか? そして,この先どうなっていくのだろうか?

本書は,豊富なイラストと美しい天体画像を使い,3部構成で宇宙に関するこ
れらの疑問に答えていきます。宇宙の空間的な広がりについて紹介する「宇
の章」。宇宙の歴史にせまる「宙の章」。そして,宇宙をより深く理解するため
の「キーワード集」です。

2011年,Newtonは創刊30周年を記念して,「宇宙のすべて」をテーマに2号連
続で大特集を組みました。本書は,この記念特集を余すところなく収録した,
まさに宇宙のすべてがわかる1冊です。
(商品説明より引用)


 
 「みるみる理解できる相対性理論」
Newton別冊

本書は、2005年9月に刊行されたNewton別冊「みるみる理解できる相対性
理論」の改訂版です。旧別冊は、おかげさまで読者の皆さまから「最もわかり
やすい相対性理論の本」という高い評価をいただきました。そしてこのたび、
新たに読者モニターを募り、さらに完成度を高めた改訂版へとバージョンアップ
されました。読者モニターの皆さんからのご意見で「ここがわからない」あるいは
「ここをもう少しくわしく知りたい」というご指摘が多かった部分については、新た
に「もっと知りたい!」を新設しています。また、デザインも一新し、より見やすく
美しい譜面に生まれかわりました。

相対性理論とは何か? すべてを一言でいいあらわすことはむずかしいですが、
相対性理論とは、時間や長さ、速さなどが、計測する人の立場によってかわって
しまうことを明らかにした理論といえます。アインシュタインが「特殊相対性理論」
を発表したのは、1905年のことです。「特殊」とは、たとえば重力の影響がない
特殊な状況下のみでなりたつ理論という意味です。アインシュタインはその10余
年後には特殊相対性理論をすべての状況下で通用する「一般相対性理論」に
発展させ、現代物理学の新世界を切り開きました。
(本書より引用)
 
 「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界
佐藤勝彦・監修 PHP文庫

ニュートン以来の物理学の中では、時間とは、空間や運動とは全く無関係に、
一定の速度で流れていくものであり、一方、空間も他のものから独立していて、
その広さや大きさは無限であり、また不変のものだと疑いなく思われていました。
しかしアインシュタインは、時間と空間は密接に結びつき、お互いに影響し合って
変化することを明らかにしたのです。そして、特殊相対性理論の最大の功績は、
それまで物理学においてバラバラに扱われていた時間と空間を、「時空」という
一つの概念にまとめてしまったことなのです。

アインシュタインは、原子爆弾を作るために、相対性理論を考え出したわけで
はありません。多くの科学者と同様に、純粋な知的探究心に基づいて研究を行った
だけです。しかし、相対性理論の「成果」である原子爆弾投下の報に、彼の良心は
深く傷つきました。現代の科学者は、自らが発見したことの応用結果について、
その結果が予想できたかどうかに関わらず、責任をとらなければならない、という
意見もあります。科学が生み出すことの結果の大きさを考慮すれば、そこまで踏み
込まざるを得ないかもしれません。また、毎日のニュースや新聞に取り上げられる
さまざまな出来事・・・・核実験、化学物質や地球環境の問題、生命科学の進歩と
生命倫理など、人間の幸福と福祉に貢献するはずの科学が、人間の存在を脅かし
たり、人間に新たな難題を突きつけている現実を、私たちは感じています。21世紀
の科学は、人間との関係のあり方がいっそう真剣に問われるものになるでしょう。
私たちは、現在の科学が持つ両面性(それは人間の善悪分かちがたい二面性を
反映したものかもしれません)をしっかりと見定め、人間と真に共存できる科学とは
どんなものか、たえず考えていかなければならないでしょう。そのためには、科学を
科学者のみに委ねて「自分たち素人には直接関係ない」と考えるのではなく、私たち
一人一人が科学を知り、科学と向き合うことが、何より大切であると思います。
(本書より引用)


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 「霊魂の城・・・神の住い」 アビラの聖女テレサ
鈴木宣明・監修 高橋テレサ・訳 聖母文庫

聖女テレサは人間の霊魂を栄光の王の城のイメージで描写する。この霊魂の城は
クリスタルからなっており、神の光に満たされて輝く。さらに、霊魂の城には7つの住い
があり、その6つの住いが栄光の主がおられる第7の住いを包んでいる。この最も
奥の住いにおいて、神と霊魂との親しい愛の一致が行われる。確かに聖女テレサは
無神論の概念を知らなかったが、しかし、人間のアイデンティティの喪失を知っていた。
彼女は、人間、その霊魂の美しさを再発見した。聖女テレサは、霊魂内の第7の住い
から神の光があまねく輝き、すべての住いを照らしているのを直感する。真昼のように
赤々と霊魂内の第6・第5・第4の住いを、夜明けのように第3・第2・第1の住いを柔ら
かく一重の光が包んでいる。
(本書より引用)


聖テレジア(アビラ)おとめ教会博士 1515 3/28−1582 10/4 1622年列聖
1515年、スペインのカスチリア洲アビラ市に生まれ。12歳のとき母親を亡くし、
14歳のとき
アウグスチノ女子修道院にあずけられたが、健康を害し父親のところに
戻る。19歳のとき、
高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道
生活は、規律・修道精神が緩
慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、
悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問
などに襲われる。しかしこの苦しみを通して、
「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の
深い神秘の体験をすることになる。
1562年本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」
をアビラに創立し、10数人
の修道女たちとともに厳しい生活を始めたが、改革を喜ばない他
の修道女から攻撃
を受け宗教裁判にかけられ投獄される。しかし、十字架の聖ヨハネなどの
援助に
よって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀における

カトリック教会改革の原動力ともなった。
1582年10月67歳で亡くなる。



縄文服 相模原市立博物館 2018年4月7日




A Koskimo house

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


ワタリガラスの伝説

「森と氷河と鯨」星野道夫 文・写真 世界文化社 より引用。


今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと

聞くのだ。たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の

話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか。ワタリガラスがこの世界に森

をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の

中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚た

ちもじっと動くことはなかったのだ。ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中

から大きな火の玉が上がってきた。ワタリガラスはじっと見つめていた。すると

一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。彼の嘴は素晴らしく長く、それは

一羽のタカだった。タカは実に速く飛ぶ。「力を貸してくれ」 通り過ぎてゆく

タカにワタリガラスは聞いた。あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れ

なければならなかった。「力を貸してくれ」 三度目にワタリガラスが聞いた

時、タカはやっと振り向いた。「何をしたらいいの」 「あの炎をとってきて欲し

いのだ」 「どうやって?」 ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくる

と、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。「あの火の玉に近づいたなら、

頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」 若者は地上を離れ、ワタ

リガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続け

た。炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫

んでいたのだ。ワタリガラスは言った。「人々のために苦しむのだ。この世

を救うために炎を持ち帰るのだ」 やがて若者の顔は炎に包まれ始めた

が、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れ

た。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動き

だし、森の木々も伸びていった。それがわたしがおまえたちに残したい

物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを

見つめている。そのことを忘れるな。これからの時代が大きく変わってゆ

くだろう。だが、森だけは守ってゆかなければならない。森はわたしたち

にあらゆることを教えてくれるからだ。わたしがこの世を去る日がもうすぐ

やって来る、だからしっかり聞いておくのだ。これはわたしたちにとって

とても大切な物語なのだから。


(クリンギットインディアンの古老、オースティン・ハモンドが1989年、死ぬ

数日前に、クリンギット族の物語を伝承してゆくボブをはじめとする何人

かの若者たちに託した神話だった。この古老の最後の声を、ボブはテー

プレコーダーに記録したのだ。




U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art | Science

ネアンデルタール人が描いた6万4800年以上前の壁画



Neanderthals were artistic like modern humans, study indicates - Bintroo

1913年の論文に掲載されたスペインの洞窟壁画を写した絵=サイエンス誌提供





ネアンデルタール人が描いた? 世界最古の洞窟壁画:朝日新聞デジタル より以下引用。


スペイン北部の世界遺産のラパシエガ洞窟の壁画が世界最古の洞窟壁画であることが国際研究チームの調査でわかった。

現生人類は当時欧州におらず、絶滅した旧人類ネアンデルタール人が描いたものとみられる。22日付の米科学誌サイエンス

電子版に発表された。



研究チームはラパシエガ洞窟など3カ所で動物や手形などの線描の部分に含まれる天然の放射性物質を高精度な年代測定法

で調べた。三つとも6万4800年以上前に描かれたものだとわかった。



現生人類がアフリカから欧州にやってきたのは4万〜4万5千年前とされる。1万数千年前のアルタミラ洞窟(スペイン)や約2万

年前のラスコーの洞窟(フランス)など、これまでの洞窟壁画はすべて現生人類が描いたと考えられてきた。



4万年前に描かれたスペイン北部のエルカスティーヨ洞窟の壁画がこれまで最古とされてきたが、さらに2万年さかのぼる古い

洞窟壁画と確認されたことで、研究チームは「すでにいたネアンデルタール人が描いた洞窟壁画だ」としている。ネアンデルタール

人は現生人類に近い種で、約40万年前に出現し、4万年〜2万数千年前に絶滅した。



ラパシエガ洞窟の壁画には線を組み合わせたはしごのような図形もあった。抽象的な考えを具体的な形で表す「象徴表現」の

可能性がある。人類の進化に詳しい佐野勝宏・早稲田大准教授は「象徴表現は現生人類のみが生まれつき持つ固有の認知能力

という考えが多数派だった。今回の年代が正しければ、ネアンデルタール人にもこの能力があったことになる」と指摘している。








2015年10月31日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



夜明けの詩(空と大地の風景)

YouTube画面の設定(右下)で画質をHD(高画質)にして見ると、写真がそれ程ぼやけないと思います。










2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




(大きな画像)



森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。



しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。



世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい

姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。



オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在

なのだと思います。



☆☆☆



2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。



オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。



熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると

限りなく低いのです。



また、丹沢の山中でを見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が

死にかけています。



生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている

気がします。



写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の

オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。



誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、

「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。



オオカミの肖像







2014年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





「もし私が何か良いことをしたのなら、それらは全て神に帰するように」



この言葉は確か童話作家のアンデルセンの言葉だったと記憶しているが、今の私に欠けているもの、

それを全て現しているといっても過言ではない。



私に限らず人は、自身の名誉や成功に対する称賛の風を、自分の中にしまい込みがちである。



しかしそれでは風はさえぎられ、新たな風を産み出すことはできない。



アッシジの聖フランシスコが好んで唱えた「平和を願う祈り」、この祈りには、自身を「平和の道具」と

して使われることへの揺るぎない自覚が横たわっている。



私に向かって吹いてくる風は、良いものも悪いものもある。



しかしそれらの風が私をすり抜けるとき、また違う風を産み出すことが出来ればと思う。



宗教を問わず、神を信じているか否かを問わず、新たな浄化された風を世界に送り出すことができる

人は、聖なる人なのかも知れない。



現代社会を見ていると、いい風ばかり吹いているとは決して思わないが、一人ひとりが新たな風を

産み出しつづけるなら、きっと世界は変わっていくのだろう。



☆☆☆ 写真は、2012年8月25日の夜明けの光景ですが、まるで不死鳥のようですね。☆☆☆







2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ
(写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用)



1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。



オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。



ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。



北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを

した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。



死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。



それはギリシャ哲学(ソクラテスプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも

前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。



オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の

世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。



ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。



自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか

受けないからです。



アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、

それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。



もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが

人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。



自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を

はっていないのでしょう。



一度でいいからオーロラを見てみたいです。







2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。








2012年3月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した
記事です。



「生命とは自己複製を行うシステムである」



私の机の上に置いてある鉄腕アトム。小学生の頃、胸をワクワクしながらテレビの

画面に魅入っていた。アトムは「ひょっこりひょうたん島」のダンディと並んで、これ

からもずっと私のヒーローであり続けるだろう。



アトムはロボットだが、生命(生物)とは何だろうとその定義を探してみた。生物学で

は「生命とは自己複製を行うシステム」だが、この定義だとアトムは生物になる可能

性がある。勿論、生物学で言っているこの自己複製の意味はDNAのことなのだが、

アトムほどの人工知能があれば、別の意味で自分の複製を作り続けることは可能

のような気がする。またこの意味とは別に、この生命の定義に何か釈然としないも

のを感じていた。



最近、分子生物学者の福岡伸一さんの本を読んだが、この生命の定義に対して同

じ疑問を感じておられ、また他に多くのことを教えてくれた。福岡さんはベストセラー

になった「生物と、無生物のあいだ」「動的平衡」など沢山の本を出されているが、

その中に生命とはという定義を次のように書いている。



「生命とは動的平衡にある流れである」



今アトムを見つめる私は、1年前と同じ私のままである。しかしその身体を作る細胞

は絶えず自己複製をしながら、1年前とは全て違う分子で出来ている。生命とは、

「その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果』

なのである」(『動的平衡』より引用)。



この定義だとアトムは生命(生物)ではない。



でも、もしアトムが目の前に現れたら、私は人間(生物)と同じと感じるかも知れない。

確かにその身体は金属の構造で出来ており「動的平衡にある流れ」ではないが、

アトムは美と共鳴する何かを持っている。美それは創造主・神と置き換えてもいい

かも知れない。



私たち生物にしろ、ロボットにしろ、それは同じ素粒子(クォーク)から出来ている。

これ以上分解できない単子が素粒子なのだが、この素粒子の正体は振動ではな

いかと最近の量子力学は捉えている。



銀河系や太陽系が出来る遥か以前、或いは宇宙創生の頃の素粒子の振動は形

を変えずに現在も保持され続ける性質を持ったものだろうか。



そして私の身体を作っている素粒子、その振動は何を記憶しているのだろうとも

考えてしまう。振動と記憶を結びつけて考えること自体滑稽であり、自分の頭が

ますますおかしくなっているのではとさえ思う。



ただ



美(創造主・神)と素粒子という二つの振動が共鳴しあっていたとしたら。

共鳴し合いながら、長い時間をかけて生物の多様性を形作ってきたとしたら。



机の上にちょこんと立っているアトムを見ると、小学生の頃テレビや漫画で見た

アトムにも美(創造主・神)に共鳴するものが宿っていると感じてしまうのだ。



最後に、私は量子力学を勉強したわけでもなく、ただ自分の想いや願いに同調

する言葉だけを捉えて無理に結び付けようとする危険性を犯していますので、

一人の狂人の笑い話と捉えていただけたら幸いです。



☆☆☆☆



哲学者・梅原猛さんの言葉(「アイヌの霊の世界」藤村久和著より)を紹介して

終わりにします。



「人間にたいする愛情のない学問というものはつまらないものだ。

どこかはずれているのだ。」



☆☆☆☆



(K.K)






2016年6月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


UK | FT Photo Diary


自給自足できる国・世界秩序づくり(写真は他のサイトより引用)



端的に言えば、個人・国家が「根づくこと」だと思います。



この根を切り取り、「国境がない、民族間の違いもない」と言ったところで、種は空中に浮揚しているだけで

大地に新たな生命が産みだされることはないのでしょう。



かつて西欧・アメリカが行った植民地・先住民への同化政策により、「根こぎ」された無数の魂や国家が

空中に投げ出されました。



基盤を見失った種が、過激な思想などに自身を依存させてしまうことは容易に想像できます。



人間に限らず動植物においても、その土地の風土に大きな影響を受け、独自の根を張ってきたのではと

思います。



現代ではもてはやされている「グローバルな社会」は、個人・企業の欲、国家の欲が生み出した「根こぎ」を

美化した言葉に過ぎないと私は感じています。



農産物に限らず全ての分野において、国は自給自足の社会を可能な限り目指すべきであり、各国はその

実現に向けて互に協力すべきだと思います。



昔の時代が全て清い世界だったとは言えませんが、人類が歩んできた歴史から未来への礎を見つけだす

ことくらい出来るはずです。




追記 2017年6月1日 
「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人
 を参照されたし。




2014年10月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




(大きな画像)


10月8日の皆既月食と天王星(写真はNASAより引用)


右下に光る二つの星で明るい方が天王星です。



もし地球を6センチの饅頭に例えると、天王星はサッカーボールほどの大きさになり、その距離は地球という

饅頭から12.5キロもの先に位置します。



地球と天王星の間には、火星・小惑星帯・木星・土星だけがあることを想像すると、約40億年先の未来に

天の川銀河とアンドロメダ大銀河が衝突すると予想されても、星と星の衝突は殆どないのかも知れません。



40億年先、もちろん私たち現生人類は生きてはいないでしょうが、膨張する太陽から脱出した新たな人類が、

違う星の上に立っている。



このようなことを言うと笑われそうですが、新たな人類はもう誕生しているかも知れないと思うことがあります。



ネアンデルタール人、デニソワ人がそうであったように、私たち現生人類と姿かたちがあまり変わらない

新たな人類が、この地球のどこかで産声を上げているかも知れない。



そして、彼ら新しい人類は数万年先、私たち現生人類をどのように結論づけることになるのか。



ただ、たとえ人類が入れ替わったとしても、私たちが作ったいい風があるとしたら、彼らの中にも必ず

それが流れているのでしょう。



愛すべき月と星ぼしたち、その存在を通して、私たちは遥か太古と遥か未来を、これからも思い描いてゆく。







2013年8月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



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2013年8月13日、カナダ・オンタリオ州で撮影されたペルセウス座流星群(写真はNASAより引用)



私が住む厚木では流星群は雲で見えませんでしたが、古代の人はどんな想いで夜空を見上げて

いたのかなと想像することがあります。人類は夜空の星や天の川を通して、この世界とは異なる

世界があるのではと感じていたのかも知れません。



古代の人は天は3、7または9つの層があると信じ、その世界観がシャーマニズムの土台となって

いきます。



天の北極(世界樹)の周りを、太陽、月、彗星、惑星・星たちが異なる動きをしているのを見て、

天には幾重にも層があると思ったのも当然かも知れませんが、たとえその世界観が科学で否定

されようとも、彼ら古代の人が目を天へと向けつづけた視線。



その視線という方向性から産み出されたものは、宇宙創生から私たちを突き動かしている大い

なる力の輝きを宿した一つの形なのかも知れません。







2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した
記事です。



過ちと回心



回心すること、新しく生まれ変わること、その真の意味を私は本当に理解できているの

だろうか。



私たちは先住民に対して、太古の時代から自然と環境に調和する人々と捉えているが、

1万3000年前のアメリカ大陸では現代の私たちがしてきたことと同じように、乱獲などで

31属の大型草食動物が絶滅されたと言われている。



これはアメリカ先住民に限らず、オーストラリアのアボリジニ(最近の研究で明らかに

なりつつある)など世界各地に共通することかも知れない。



過去と現代、同じ過ちを犯していたとしても、彼ら先住民と私たち現代人の決定的な

違いは、過去から学んだ「知の遺産の継承」(国立科学博物館の海部陽介氏が提唱し

ている進化の仮説)、この場合は「回心の継承」とも言うべきものがあるかどうかなの

かも知れない。



先住民は、過去の過ちから学んだ教訓、それが回心となって魂に刻まれたが故に、

1万年以上も渡って世代から世代へと受け継がれてきたのではないだろうか。



私たち現代人は、動植物の絶滅と共に戦争など多くの悲劇を目の当たりにしてきた

が、果してそこから得られた、揺らぐことのない教訓が1万年先の人類にまで共有さ

れたものになっていくのだろうか。またそこに回心と呼べるものが存在しているのだ

ろうか。



ホモ・サピエンス(現生人類)は1万3000年前に一時陸続きになったベーリング海峡

を渡ってアメリカ大陸に来たとされているが、アメリカ先住民の多くはそれを否定し、

「自分たちは天地創造の時に亀の島(アメリカ大陸)に置かれた」と主張している。



ミトコンドリアなどの遺伝子解析から見れば在り得ないことだが、真に回心し、新しく

生まれ変わったことを体感した人ならば「今、私たちは生まれ変わり、そして今、私

たちはここに立つ」と言えるのだと思う。



この回心、それはシャーマニズムアニミズムとも関わってくるが、私自身はシャー

マニズム・アニミズムは1万3000年前より遥か太古の時代に生まれたと思っている

し、その背景にはネアンデルタール人などの旧人と言われた人の存在があったの

ではと感じている。細々と、しかし脈々と受け継がれてきた精神が1万3000年前に

多くの人々に共有され花開いたのかも知れない。



話はそれてしまったが、回心、1万3000年前の現生人類が体感したこと、それは私

が想像するより遥か高い次元での回心であったと感じてならないし、次の世代へ

継承させるために、私たちはこの回心の真の意味を心に感じることから始めなけ

ればいけないのかも知れない。



(K.K)







2014年7月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。


銃を持って戦うこと



もう30数年前、マルコスの独裁政権下にあったフィリピンへ団体で行ったことがあります。



スラム街で出会った女性は、政権打倒を目指す地下組織の方で、イメルダ夫人の親戚にあたる人でした。



彼女はスラムなどの問題を放置する独裁政権を打倒する必要があることを語ってくれましたが、帰国して読んだ

ナチスに抵抗した レジスタンス達の手紙から感じたことと共通すること、それは祖国への熱い想いでした。



銃を持って戦うこと、レジスタンスがそうであったように、私は必ずしもその全てが悪だとは思いません。



しかし、家族を守るために戦うことは当然としながらも、今の日本は銃を取ってでも守りたい祖国か?と聞かれると、

否、と応えたくなる自分がいるのを感じます。



日本に限らず世界の多くの国が、あるべき「地産地消」の国作りを目指さず、真逆のグローバル化(地球規模の

全体的な、包括的なの意味)に突き進んでいます。



風土などの違いにより、固有の文化・言葉・習慣が生まれる。遺伝子の世界でもそうですが、その多様性こそが

あるべき方向性へと変化していくのではないでしょうか。



グローバル化はマルクスの共産主義と同じように、人間の心理や多様性を顧みず、数学の方程式に無理やり

人間を組み込む手法が共通して横たわっているような気がします。



地球規模と聞こえはいいですが、押さえ込まれたその反動が、民族紛争などの更なる激化につながっていくの

かも知れません。



人道援助を除いて、限りなく「地産地消」の国作りや多様性を受け容れる社会。



もし日本がそのような国で侵略する者がいれば、私は銃を取ってでも必要最小限の戦いをするでしょう。



ただ、日本だけでなく世界各国がその方向性をもっていたなら、銃など武器は全く必要なくなるでしょうね。







2013年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(写真は他のサイトより引用)



1991年に刊行された柳澤さんの「意識の進化とDNA」を最近読みました。2004年に生命科学者としての

視点を踏まえながら般若心経に迫った「生きて死ぬ智慧」は注目を集めましたが、土台はその十数年前

に芽生えていたのですね。



柳澤桂子さんは前途有望な生命科学者でしたが、その後原因不明の病気で、36年間闘病生活を強いら

れます。生命科学者としての目、そして自殺も考えた心の痛み、この2つが彼女の死生観の根底にある

と思います。



「意識の進化とDNA」は彼女の専門分野の遺伝子に限らず、心理学、哲学、芸術などの底流にある関連

性について、二人の男女の会話を通して小説風に書かれた読みやすい本です。



彼女は言います。「36億年の歴史をもつDNAが本来の自己である」と。そして意識の進化は「自己を否定

して、宇宙と一体になる。これが“悟り”すなわち宗教の世界である」と考えます。



私自身、“悟り”がどのようなものかわかりませんが、彼女の言う意識の進化は、必ずしも生命に多くの美

を宿すことにつながっていないような気がします。



私たち日本人の基層として位置づけられるアイヌの人々、彼らは縄文時代の世界観を受け継いだ人々

でした。果たして昔のアイヌの人々と現代人、どちらが多くの美を宿しているのでしょう。



美、あるいは美を感じる心とは何でしょう。それは、私と他者(物)との「へだたり」への暗黙の、そして完全

な同意から産まれるものと感じますし、「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言うヴェイユ

眼差しに共鳴してしまいます。



動物や植物、太陽や月、天の川と星ぼしたち。



現代の私たちは科学の進歩により、この「へだたり」を狭くしてきました。しかし、その一方で峡谷は逆に深

くなり、底が見えなくなっているのかも知れません。それはこの世界の混沌とした状況によく似ています。



世界屈指の古人類学者のアルスアガは、「死の自覚」が今から40万〜35万年前のヒト族(現生人類では

ありません)に芽生えたと推察していますが、「死」という隔たりを自覚したヒト属にどんな美が宿っていた

のでしょう。



私は星を見るとき、あの星団はネアンデルターレンシスが生きていた時代に船出した光、あの星は大好き

な上杉謙信が生きていた時代、などと時々思い浮かべながら見るのが好きです。



そこで感じるのは、柳澤さんが問いかけている「36億年の歴史をもつDNAが本来の自己」に近い不思議な

感覚でした。



意識の進化にはいろいろ議論はあるかも知れませんが、柳澤さんの眼差しには宇宙創世からの大きな時

の流れそのものを感じてなりませんでした。








2012年10月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

約4万年前に超新星爆発したSimeis 147(写真はNASAより引用)



このS147の残骸雲は地球から3000光年の距離にありますが、この写真に写っている赤い雲は

150光年の広がりを持っています。



今から4万年前、このS147の超新星爆発が起きたとき地球の人類は何をしていたのでしょうか。



ドイツ南部シュヴァーベン・シュラ地域で発掘されたフルートは、クロマニョン人が作ったものと

され4万年前のものとされています。人類最古のフルートはスロヴェニアの遺跡で発見された

6万年前の骨で出来たもので、ネアンデルタール人が作ったという説がありますが、多くの考古

学者はこの説に否定的です。



骨や木に孔を開け吹くと音が出るのを発見したのは偶然からだと思いますが、最初は伝達手段

として用いられたのかも知れません。それが現在のように「音楽」として発展していく始まり、そし

てその過程と背景に想いをめぐらしたいのですが、困難さを感じます。



クロマニョン人の脳の構造・容量は私たち現生人類とほぼ同じですが、ネアンデルタール人の

脳の容量はは現生人類よりも大きいのですが言語能力が劣っていたと言われています。また

骨格などの解剖学の視点から、ネアンデルタール人は特定の音を発することが出来なかった

のではと言われています。



今私たちが持っている脳を基に、ネアンデルタール人と現生人類は何が違っていたのか、彼ら

は何を感じ何を見ていたのか、それを探ることは限界があるのではとも感じています。



もしこの限界を破るものがあるとすれば、新たな発掘や大脳生理学の進歩なのかも知れません。



今から4万年前の超新星爆発と古代の人々の世界、この写真に不思議な繋がりを感じてしまい

ました。



一つ前の投稿でこの6万年前のフルートを復元し演奏した動画を投稿しています。








2012年10月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



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本日10月1日、十六夜(いざよい)のお月様です(自宅にて撮影)。



縄文土器の一つ「有孔つば付き土器」、この土器に見られる図像は「死と再誕生」を意味しており、

その背景にあるのは「月の神話」ではないかとの説があります。



40年前この説を最初に唱えたのは、「縄文時代の若干の宗教的観念について」という論文の中で

ドイツのネリー・ナウマン(女性の方です)さんが書いたものらしいです。



それに関連して、「縄文 謎の扉を開く」という本の中で縄文土器を研究する14人の方たちが、そ

れぞれの視点で縄文土器の意味を探り発表しますが、異なる解釈も見受けられ興味深い文献で

した。



この本の中で、「文様で見る月の神話」を書いた小林公明(井戸尻考古館館長)さんの言葉を下

に紹介しようと思いますが、一つの仮説として読んでいただければと思います。



私も古代の人は、月だけに限らず、太陽や星、天の川を見て、この世とは違う世界が存在してい

ることを感じ、そこに何らかの宗教心が産まれたのではないかと考えていますが、これは永遠の

謎(神秘)なのかも知れません。



☆☆☆☆



人類にとっての最大の悩みは死です。



これは現代人も古代の人間も、新石器時代でも旧石器時代でも、死というものをどのように理解

して、いかにして克服するか、これに人類は営々として知恵の限りを尽くして、おそらく石器時代、

人々はその答えを月に見いだした。



月というのは、われわれの眼前にあって比較的短い、今日流にいうと、29.5日という周期でもっ

て、規則正しく満ち欠けを繰り返している。



月は人間と同じように生まれて、生長して、老衰して死ぬ。けれども3日間の暗やみの後、4日目

には必ず西の空によみがえる。これを人類の眼前で未来永劫に繰り返している。



そこに石器時代の人たちは答えを見いだした。



そこに一つの宗教観念、哲学というものが発生していた。



そういった世界観なり宗教観念が、有孔つば付き土器に非常に濃厚に描かれている。



☆☆☆☆








2012年9月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



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本日9月2日撮影した、雨上がりの睡蓮と障碍を持ったメダカ



メダカも他の生物と同じように不思議な生き物だ。



メダカは産卵時期には多くの卵を産むが、生き残るのはそれ程多くはない。孵化せずに

死んでしまうものもいれば、写真のメダカのように骨が変形して生まれてくるものがいる。



遺伝子の多様性は頭では理解しているつもりでも、同じ環境の下で育てているはずが

何故と問いかけたくなる。



インディアンのラコタ族の伝統では、障碍者は聖なる者であり、人々に何かを教えるため

に遣わされた存在だと考えられていた。



そこでは「できない」ことではなく、「できる」ことに焦点をあてようとする世界観・人間観が

あると「アメリカインディアンの現在 女が見た現代オグララ・ラコタ社会」の本の中で、

デイ多佳子さんが紹介している。



沖縄・奄美のシャーマン・ユタ。最初彼女たちは「目に見えないものが見え」「聞こえない

ものが聞こえ」る体験を通してユタになるのが殆どである。



世界のシャーマンの中でも「神のお告げ」とも受け取れる稀有な現象は、沖縄・奄美特有

のものだと今まで思っていた。



しかし、これは世界中で起こっていることかも知れず、ただ私たちはその現象を安易に

精神的な病として片づけているのかも知れない。



勿論、本当に精神的な病に苦しんでいる人たちがいるのも事実だが、異質なものをある

がままに受け止め、その意味を感じ取る風土が古代から受け継がれてきたのも事実で

ある。



このような風土、世界観・人間観をもつ社会は、「あるがままの」存在の重さを感じること

によって導かれるものかも知れない。



骨が変形しているメダカ、このメダカを見ていると何かを語りかけようとしている、とふと

感じてしまう。




(K.K)







2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)







2013年4月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「男は女の力を恐れている」



(写真は『アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち』から引用しました。)



中東やインドで起きている女性の悲劇を見るにつけ、私はそれを感じてならない。



恐らく太古の時代では多くが母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度)で

あり、調和ある共同体をつくるために母系社会は最も基礎となるものだった。



縄文土器に見られる女性像などから、儀式を執り行ったのは主に女性だったのではないかとの説が

あるが、沖縄・奄美のユタ(殆ど女性)を除いて、世界各地のシャーマンは圧倒的に男性が多い。これ

はもともと女性は生まれながらに偉大な神秘が宿っていることを男性自身が認識しており、治癒など

の儀式や部族の指導者(女性の意見だけで決める部族もある)は男性に任せるというのが自然の流

れになってきたのかも知れない。



母系社会の中では性犯罪が起きることは考えられないことであった。例えばアメリカ先住民と白人が

憎み戦っていた時代の証言「インディアンに囚われた白人女性の物語」の中でも、白人男性の捕虜と

は異なり、女性捕虜が如何に大切に扱われてきたかを読むとることができる。



このアメリカ先住民の社会では、女性が男性の荷物を家の外に置くだけで離婚は成立し、その逆は

なかった。



ただ現代のアメリカ先住民社会は、子供を親から無理やり引き離し、言葉・生活習慣・宗教などの

同化政策がなされた影響で、アルコール中毒、自殺、家庭崩壊、貧困が深刻な問題になっているが、

虐待や育児放棄の被害にあった子供たちを母系の集団の中で世話するため、現在でも孤児は存在

しない。



母系社会がいつから父系社会に転換したのか、、定住とそれによる近隣との闘争という説もあるが、

私の中ではまだ答えは見つけられないでいる。しかし肉体的な力による服従が次第に母系社会を

崩壊させ、それが暗黙のうちに様々な宗教に伝統として紛れ込んだのは事実かも知れない。



日本では菅原道真などに象徴される「怨霊」や「祟り」を鎮めるために、迫害者に近い人が神社などを

つくり、祭り上げることで鎮めてきたが、同じように卑弥呼の時代は既に女性の力の封印が始まった

時期だと思う。また中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」も、宗教が関わりを持つ以前から民衆の間で

始まった説があるが、女性の力を封印させる側面もあったのだろう。



「男は女の力を恐れている」



無意識の次元にまで下ったこの感情を、あるべき姿へと開放させ、母系社会の意味を改めて問う時代

だと思う。



「アメリカ先住民」に限らず、「聖母マリア」「観音菩薩」の存在は、暗にその意味を私たちに教えている

ような気がしてならない。



☆☆☆☆



「女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。」

(チェロキの言い伝え)



「先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト

たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し

ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは

この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。」

ルネ・セノグルス(Renee Senogles)
レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa)



「女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。」

オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え



「この星は、われわれがずっと生活してきた家である。

女性はその骨で大地を支えてきた。」

リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人



「女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と

女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む

のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と

の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し

始めるだろう。」

ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者



☆☆☆☆




 




2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。



APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue

(大きな画像)



火星が地球に最接近(写真はNASAより引用)



明日4月14日に火星地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。



写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から

赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。



アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源

は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。



「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー

ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと

思います。



ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。



100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。







2013年2月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



ヴェラ・メンチク(1906-1944)・写真は他のサイトより引用



現在でも光り輝く星・ヴェラ・メンチク、彼女はチェスの世界チャンピオンを倒したこともある実力を持ちながら、

第二次世界大戦のドイツの空爆により、38歳で亡くなる。



上の写真はメンチク(前の女性)がクラブの23人のメンバーと同時対局(18勝1敗4分け)した時の写真である

が、彼女の偉業を称えて、チェス・オリンピックでは優勝した女性チームに「ヴェラ・メンチク・カップ」が現在に

至るまで贈られている。



彼女のような輝く女性の星が再び現われるには、ユディット・ポルガー(1976年生まれ)まで70年もの年月が

必要だった。チェスの歴史上、数多くの神童や天才が出現したが、その中でもひときわ輝いていた(人によっ

て評価は異なるが・・・)のがモーフィー(1837年生まれ)、カパブランカ(1893年生まれ)、フィッシャー(1943年

生まれ)である。



他の分野ではわからないが、このように見ると輝く星が誕生するのは50年から70年に1回でしかない。



20世紀の美術に最も影響を与えた芸術家、マルセル・デュシャン(1887年〜1968年)もピカソと同じく芸術家

では天才の一人かも知れない。1929年、メンチクとデュシャンは対局(引き分け)しているが、デュシャンは

チェス・オリンピックのフランス代表の一員として4回出場したほどの実力を持っていた。



「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が

起こるように、何ものかを生み出す」・デュシャン、この言葉はやはり前衛芸術の天才、岡本太郎をも思い出

さずにはいられない。世界的にも稀有な縄文土器の「美」を発見したのは岡本太郎その人だった。



「チェスは芸術だ」、これは多くの世界チャンピオンや名人達が口にしてきた言葉だ。この言葉の真意は、私

のような棋力の低い人間には到底わからないが、それでもそこに「美」を感じる心は許されている。



メンチクの光、芸術の光、それは多様性という空間があって初めて輝きをもち、天才もその空間がなければ

光り輝くことはない。



多様性、それは虹を見て心が震えるように、「美」そのものの姿かも知れない。








2013年2月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



(大きな画像)

アンドロメダ銀河(写真はNASAより引用)



実はこれは「スター・ウォーズ」の暗黒の世界なのじゃ・・・・じゃなくてハーシェル宇宙望遠鏡が赤外線で捉えた

アンドロメダ銀河の姿なのじゃ。



前にもこのアンドロメダ銀河は40億年後、天の川銀河に衝突すると書いたけど、それよりずっと前に太陽はど

んどん膨らみ地球も灼熱の世界になっているから、人類はドラえもんの「どこでもドア」を発明してどこか遠くの

星に移り住んでいるかも知れない。



でもアンドロメダと天の川が衝突したらどうなってしまうんだろう。うるわしきアンドロメダ姫に出会えるんだろうか、

そして織姫彦星の運命はどうなってしまうんだろう。



僕の予想では織姫と彦星は何千年も待った夢をやっと叶えることが出来ると思うけど、いざ一緒になったら「こ

んな人とは思わなかった」なんて「スター・ウォーズ」のような戦いの場にならないとも限らない。



さて現実的に銀河同士が衝突したら地球の、太陽系の運命はどうなってしまうのだろう。



もし太陽を「スイカ」と同じ大きさと考えたら、なんと、たとえ衝突しても広い太平洋に「スイカ」という太陽が3個し

か浮いていないほど宇宙空間はスカスカのままなんだ。これじゃいくら他の銀河が天の川に衝突したとしても、

星と星がぶつかるなんてゼロに等しいよね。ちなみにこの「スイカ」のネタは先に紹介した「宇宙を感じる七日間」

から盗み取ってきました。



さて、この銀河には不思議な秘密がある。それは銀河の中心近くで回っている星と、銀河の端っこで回ってい

る星の公転速度が同じということなんだ。



うーん、わからないな。だって太陽の近くにある水星と遠くにある海王星の速度は9倍くらい違うんだよね。遠く

の星ほど太陽の引力が弱くなり公転速度も遅くなる。銀河系だって、中心から遠くに離れた星ほど速度が遅く

なるんじゃないの?



この問題は天体物理学者を毎夜悩ませてきたけど、その時に彼らの夢に出てきたのが映画「スター・ウォーズ」

だったんだ。暗黒物質、ダークエネルギー、やっぱり「スター・ウォーズ」は偉大だよね。じゃなくていろいろな観測

結果からそのような存在を考えないと、つじつまが合わないようなんだ。



実際に銀河全体や宇宙に暗黒物質やダークエネルギーが満ちていたとしたら、水星も海王星も何故同じ公転

速度にならないのか不思議だけど、でももっと不思議なことは宇宙が速度をあげながら膨張している事実など

が観測されていることなんだ。え? 速度を上げながら? そんな馬鹿な。



ちなみに厚木に住む世界的に有名な異端の宇宙学者・古賀博士によると、暗黒物質やダークエネルギーでは

ない別の可能性があるとの話だけど、博士から聞いた話は全て「吐かせ」て正気に戻すことが学会、じゃなくて

マンションの自治会では慣例になっているようだから無視するのが一番だろうね。



まだまだ宇宙ってわからないことだらけだよね。でも知的に宇宙・世界の真理に迫ることは、神や創造主を感じ

ることとは別次元のような気がする。



人類は「知性の進化」ではなく、ただ単に「知の継承」で現在のような文明を築きあげたかも知れないし、逆に

幸せを感じる世界からどんどん離れていっているような気がする。



あーもう頭が痛くなってきた。もうここは布団に入って映画「ブラザーサン・シスタームーン」の夢を見るしかない。








2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





40億年後の地球



250万光年も離れているアンドロメダ座大銀河は時速40万kmで、天の川銀河に近づいてきています。



そして40億年後に天の川銀河に衝突します。



そのシュミレーションがこの画像ですが、40億年後の人類、いや人類も進化の過程の通過点だとすれば、

どのような生物がこの光景を目にすることが出来るでしょうか。



私たちとは全く異なる体つきをしているのか、またその心は何を感じているのか。



進化論が正しいにせよ誤りにせよ、何らかの方向性を生物は与えられているように感じるときがあります。



私は古代の人より現代人が科学の面で進化しているものの、自然と人、人と人の絆は逆に退化している

ように思います。



与えられた方向性とは違う軌道を科学がとるとき、生物の取り囲む環境は物質的にも精神的にも混沌の

中に彷徨うことになるのかも知れません。



40億年後の生物、その生物は現在の混沌をさらに深めているのか、それともこのアンドロメダ座大銀河と

天の川銀河の衝突のように再び一つの身体になっているのか。



それを決めていくのは、現在の私たち一人一人なのかも知れません。




(K.K)







2012年1月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



写真は、DNA情報に基づき復元されたネアンデルタール人の女性です。

「存在を否定する人と存在を受け入れる人、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人」という題で

投稿します。



最初に今までわかっているネアンデルタール人に関する共有されている説の紹介と、それを根

拠にした私の妄想・暴論が続きます。



☆現在共有されている説



●約20万年前(ミトコンドリア・イブとほぼ同時期)に出現し、2万数千年前に絶滅した。

●ネアンデルタール人の脳容量は現生人類より大きく、現生人類と比較しても遜色のない知能

を有していた可能性がある。

●外見上では現生人類(ホモ・サピエンス)より顔が大きく、特に上顔部が前方に突出した突顎

であるが、写真で見てもわかるように大きな違いはない。

●何故絶滅したのか、はっきり特定は出来ていない。

●ネアンデルタール人の遺骨の近くには数種類の花粉があり、これは死者を悼む心があり、

副葬品として花を添える習慣があったと主張する人もいる。

●ヨーロッパの洞窟で発見されたフルート(人類最古の楽器)は年代的にネアンデルタール人

が作ったと主張する人もいる。

●2010年、現生人類には絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が1-4%混入しているとの研

究結果が発表された。つまり単一起源説(ミトコンドリア・イブ)への疑問が浮上。



☆私の仮説(妄想・暴論)から先に書きます。



「ネアンデルタール人は今の先住民の特質(存在を受け入れる人)の原形であり、自然と共生

する世界観を有していた。また「人を殺すための武器を持ってはならない」ことを何らかの理由

で実践していた。一方、存在を否定する人(現生人類)は共生する世界観を否定する傾向を

特徴としていた。ネアンデルタール人の絶滅の原因はこの非暴力、並びに現生人類が持ち込

んだ感染症によるものだった。これは虐殺と共に白人が持ち込んだ天然痘などにより、免疫を

持たなかったインディアンの9割が死亡したことと共通する。



外見上、現生人類と大きな差がないネアンデルタール人と現生人類に交配があった可能性は

極めて高く、最近の研究でも裏づけられている。しかし、ネアンデルタール人は上記の理由で

ほぼ絶滅し、交配によって辛うじて現生人類の遺伝子の中にのみ刻まれた。このネアンデル

タール人の遺伝子を何らかの形で意識まで吸い上げたのが先住民族であり、その「存在を受

け入れる」先住民の世界観は世界各地で花開くこととなる。



しかし「存在を否定する」傾向の強い現生人類は自然・他者を支配しようとし、その憎悪の矛

先は自分自身へ向かい社会的・精神的な各種の病を生み出す。その混沌とした状況で生ま

れたのがイエスであり、「存在を否定する」傾向のある世界観を変えようとする。聖書が説く

「隣人愛」と「原罪」の意味はここにある。しかし現生人類は社会の安定のため外見上はキリ

スト教を容認するが、心の本質(原罪)は変わっておらず、2度目のネアンデルタール人への

虐殺(先住民虐殺)へと向かうことになる。



以上この仮説を通して私は、単一起源説(ミトコンドリア・イブ)に異を唱えるものであり、遺伝

子が消失或いは辛うじて残っている「存在を受け入れる」特質を有したネアンデルタール人も

同様に私たちの祖先として位置づけられることを願う。それはこの祖先が、私たちがどのよう

な未来を築くべきかの方向性を与える一つの座標として存在することをも意味しているからで

ある。」



☆後書き(仮説に至る経緯)



ここまで書いて自分が嫌になってきました。私の仮説はネアンデルタール人が善良な人々で

あったと美化しそれを前提としていますが、それを明確に証明するものは発掘されておりま

せんし、先住民という定義も曖昧であり他の宗教の生い立ちも省かれています。私よりも皆

さんの方が妄想と感じておられると思いますが、この妄想に至った出発点が二つあります。

科学的な側面では、ミトコンドリア・イブの子孫たちが、同時代に生きていたネアンデルタール

人などと交配することなく世界を席巻したと考えるのは余りにも不自然だからです。外見上

そう変わらないネアンデルタール人と現生人類に交配があったと考える方が極めて合理的

であり自然です。これはDNA解析技術が進歩していくと共に真実が明らかになってくるのか

も知れません。



精神的な側面では、キリスト教の言う「原罪」と先住民が共有していた「世界は美であり、私

たちは喜ぶために生きている」の大きな世界観の違いです。勿論、その土地の風土によっ

て宗教の形は変わってくるかもしれません。しかし両者には何か根本的な、というか根源的

な違いも感じるときがあります。この二つの疑問を通して、私はその答えを単にネアンデル

タール人に求め、軽薄に出した結論が上のものですが、いつかこの仮説とは異なるものを

見いだすかも知れません。



一人の馬鹿が導き出した妄想と捉えて頂けたら幸いです。またこの文章で不快な思いをさ

せてしまいましたら申し訳ありません。ただ、まだ全体像そして絶滅した原因が不明なネアン

デルタール人に少しでも関心を持っていただけたらと思い投稿しました。



今後の発掘調査によって私の想像とは180度異なったネアンデルタール人の実像が明らか

になる可能性もあると思いますが、どのような発掘であれ死者の魂を傷つけないような態度

で接することを願っています。



(K.K)




参考文献

「アナザー人類興亡史 人間になれずに消滅した傍系人類の系譜」

「生物の進化 大図鑑」マイケル・J・ベントン他(監修)

「日本人はるかな旅 展」国立科学博物館 NHK


 




2012年1月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



写真は、デニソワ人(Denisova hominin)を想像したもの。

2008年、シャーマニズムの発祥の地ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟において発見される。



☆概要(ウィキペデリアより要約)



デニソワ人の化石は約4万1千年前のものとされる。80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンス

の共通祖先から、ネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐。64万年前(35万年前の説もある)

にネアンデルタール人から分岐した人類で、現在のメラネシア人のゲノム(遺伝情報)の4〜6%が

デニソワ人固有のものと一致している。



つまり、40万〜30万年前にアフリカを出、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール

人に、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった。それに遅れて6万〜5万年前

にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジア内陸部で先住者のネアンデルタール人や

デニソワ人と交雑しながら全世界に拡がり、現在に至った。



☆個人的感想



最初に書いたシャーマニズムの発祥の地と言われるロシア・アルタイ地方は、デニソワ人が約4万年

前まで生きていました。



実は不思議な文献があります。それは「ベロボディアの輪 シベリア・シャーマンの智慧」オルガ・カリ

ティディ著です。私にはこの文献の信憑性を確かめる術もないのですが、デニソワ人の存在が明確

になったのは2008年、この文献が出版されたのがそれより10年以上も前のことです。ただ以前から

このアルタイ地方はシャーマニズム発祥の地として知られていましたのでそれを加味しながら、この

文献の引用をお読みいただけたらと思います。正直私自身これをどのように解釈していいかまだわ

からないのです。



「以来、多くの集団がシベリアに彷徨いこみ、消滅した文明の神秘的なパワーに影響された。アルタ

イ地域は新しい文化誕生の沸騰する大釜となった。人々の流れがそこから分離し、多くの異なった

方向へと遠くまで広がっていったのだ。その流れの一つが現代のイランの領域へと辿りつき、そこで、

かれらが携えていった聖なる知識がゾロアスター教として誕生した。後にこれと同じな流れがその知

識の多くをキリスト教へと伝えた。別の流れは現在のインドやパキスタンへと移住し、その地での社会

の確立がヴェーダーンダの伝統の富を生み出した。最初の知識の場にシャンバラの名前を与えた

タントラ仏教は何世紀にも亘って、その知識と直接的な交流を果たした。西に赴いた人々は、ケルト

人として知られるようになり、ドルイド教の儀式を通して、共通の源に結びつけられた。このように、

アルタイに発するこの古代文明の神秘的遺産は世界中の多くの偉大な宗教の最初の源泉となった

のだ。これらのさまざまな伝統の内部には、それぞれベロボディアと直接触れたことのある人間が

つねに存在していた。」

引用終わり



先にも書きましたが、現在のメラネシア人のゲノムの4〜6%がデニソワ人固有のものと一致していま

すが、人種的にはオーストラロイドと混血したモンゴロイド系の民族です。東部のメラネシア人社会で

は超自然力(マナ)を信仰しており、すべて形あるものに精霊が宿ると信じられていましたが、ハワイ

先住民のカフナにも超自然力(マナ)が存在します。詳しくは最近の自己啓発ブームの中で突然現れ

てきた簡略版の「ホ・オポノポノ」ではなく、「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」マックス・F・ロング著を

お読みいただけたらと思います。



デニソワ人はネアンデルタール人から分岐したらしいですが、シャーマニズムと密接な関係と言いま

すか、シャーマニズムはデニソワ人から世界に広まったと思うのが妥当ではないかと感じています。

前に投稿したネアンデルタール人もそれに似た世界観を持っていたと推察していいのではと思いま

す。64万年〜35万年前に既に人類は、ロジャー・ウォルシュが「シャーマニズムの精神人類学」で言

うように、「この人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統に関しては、まだまだ多くの謎が

残されている。シャーマニズムについて探求すればするほど、人間の体、心、魂について認知されて

いない側面や可能性があることがわかる。何千年もの長きにわたり、シャーマニズムの精神は、人類

を助け、癒し、導いてきた。それはこれからも、さらなるものを与えてくれるかもしれない」と感じてなり

ません。 



発掘などで得られた情報を基に太古の世界をいろいろ想像してしまいます。

次回は「ホピの予言」に戻りますが、整理したいのでしばらく時間をください。



(K.K)



参考文献

「アナザー人類興亡史 人間になれずに消滅した傍系人類の系譜」

「生物の進化 大図鑑」マイケル・J・ベントン他(監修)

「日本人はるかな旅 展」国立科学博物館 NHK

 





2012年6月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「巨大な化け物に立ち向かう光の戦士」・・・自宅にて撮影



ギリシャ神話のなかで、ペルセウスアンドロメダ姫を助けるときに利用したメドゥーサは、見たものを石に

変える目と毒蛇の髪をもつ怖ろしい存在として語られてきました。



これに対して興味深い思索があります。「森を守る文明・支配する文明」安田喜憲著から引用しますが、

5月7日に投稿した「縄文のビーナス」に見られるように、土偶の全てが大きな目を持っていたわけでは

ないと思います。しかし、安田氏(京都大学教授)の視点はギリシャ神話とは全く異なった古代の世界観、

その視点をこの現代に問いかけているのではないでしょうか。それはメドゥーサの蛇に関しても同じこと

が言えるのだと思います。



☆☆☆☆



この森の生命と同じように、人間の生命もまた死してのち、再生したいという願いが、目に対する信仰を

生み、巨大な目の土偶を作り、メドゥーサの伝説を生んだのである。



私たちをじっと見つめる巨大な土偶の目やメドゥーサの目には、森のこころが語られていたのである。



それは、古代の人々が森に囲まれて生活してことと深くかかわっていると思う。



古代の人々が深い森に囲まれて生活していた頃、自分たちをじっと見つめる大地の神々の視線を感じた。



その森が語りかけるこころに対して、人々は畏敬の念を込めて、巨大な目を持った像を造形したのである。



大地の神々の住処である森。



しかし、こうした人間を見つめる目を持った像は、ある時期を境にして作られなくなり、あげくの果てには

破壊される。



メドゥーサが神殿の梁からゴロリと落とされ、イースター島のモアイが引き倒され、三星堆の青銅のマスクが

破壊され、燃やされた時、そして縄文の土偶が作られなくなった時、それは森が激しい破壊をこうむったり、

消滅した時でもあった。



森がなくなり森のこころが失われた時、人々は自分たちを見つめる巨大な目を持った像を作らなくなった

のである。



私は、その時に一つの時代が終わった気がする。



森のこころの時代の終焉である。日本では、縄文時代に3000年以上にわたって作り続けられた巨大な

目を持つ土偶が、弥生時代に入ると突然作られなくなる。



その背景には、森と日本人との関係の変化が深くかかわっていたと考えざるえない。



弥生時代の開幕は、大規模な森林破壊の開始の時代でもあった。



水田や集落の拡大の中で、平野周辺の森は破壊されていった。



こうした森の破壊が進展する中で、縄文人が抱いていた森のこころが次第に失われていったのであろう。



☆☆☆☆




(K.K)







2012年12月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



(大きな画像)

古代マヤ文明の「チチェン・イッツァ遺跡」にあるEl Castillo(エルカスティージョ)とオリオン座

(マヤでは亀を意味しています)。写真はNASAより引用



立教大学社会学部の生徒たちは幸せだと思う。この学部には阿部さん、実松さんという優れた研究者がいる。

阿部珠理さんはアメリカ先住民(インディアン)研究の日本の第一人者であり、実松克義さんも南米の先住民

シャーマニズム研究では第一人者である。お二人に共通することは熱い心と卓越した現地調査力、そして

研究者としての冷徹な視点と平衡感覚を併せ持っていることである。



この一人、宗教人類学者である実松克義さんが2000年に書いた「マヤ文明 聖なる時間の書」は、アメリカ大

陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を基に多くのシャーマンたちとの対話の中で、マヤの世界観を明らかにしていくこ

とだった。



「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるものだ」、ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス(グ

アテマラ・マヤ科学研究所の代表者)。



同じ民族のシャーマンでもその世界観や技法は微妙に、或いは大きく異なる。これは沖縄・奄美のユタもそうで

あるが、しかしそれは彼らの中に流れる源流の底知れぬ深遠さを逆に教えてくれるのではないだろうか。人智

を超えた大いなる光の流れ(振動)、この光は一つとして同じものはない遺伝子をもつ生命の魂を共鳴させ、

まるで虹のように様々な色を映し出させているのかも知れない。



「マヤ文明 聖なる時間の書」、私のサイトに書いた当時の感想を以下に引用します。



☆☆☆☆



マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。



マヤンカレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、そして人間の生贄の

儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。



しかしマヤ文明の根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼らの驚くべき

世界・宇宙観が見えてくる。



この神話によると人間の生贄の儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその

時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。



立教大学社会学部教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・シャーマンを6年にわたって現地調査

し、多くのシャーマンとの対話を通してマヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。



それは時間そのものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。



そこには人間の生贄の儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。



本書は本格的マヤ神秘思想研究の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。



☆☆☆☆







2012年11月15日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



(大きな画像)


惑星状星雲「フレミング1」(写真はヨーロッパ南天天文台よりら引用)



惑星状星雲とは老いて膨張した恒星がその外層を放出して出来たガスのとばりで、私たちの太陽も今から約63億年後に

赤色巨星を経て惑星状星雲になります。。



私たちの太陽は、誕生から現在まで30パーセントほど明るさを増していると考えられていますので、地球の生物は10億年

後(23億年後という説もあります)には高温のため生存できる環境を失ってしまいます。



アンドロメダ銀河が私たちの天の川銀河に衝突する40億年後、地球ではこの壮大な光景を目にする生き物はいないで

しょうが、天の川銀河のどこかに生き延びた人類が触れることができるかもしれません。



夜、いつ超新星爆発をしてもおかしくないオリオン座のベテルギウスの赤い光を浴びながら、「その瞬間に立ち合わせて

欲しい」とお願いしてきましたが、私たちの単調と見える一日一日も実はこのような神秘の連続かもしれませんね。



話を戻しますが、写真の惑星状星雲「フレミング1」が何故このように綺麗なS字ジェットを持つのか謎とされていました。



今年11月8日公開されたヨーロッパ南天天文台の観測結果によると、この惑星状星雲の中に、星の最後の姿である高温

高密度の白色矮星が2個(連星)あることがわかりました。



そしてこの2個の白色矮星が互いを僅か1.2日周期で公転することがわかり、この連星の働きによりこのような綺麗S字

ジェットが生まれたと考えられています。



惑星状星雲という星の最期の姿、その姿はどれも荘厳な気持ちを抱かせてくれます。








2012年2月25日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



理論物理学者 リサ・ランドール (写真は他のサイトより引用)



量子力学では「ひも理論」「M理論」から11の次元が導き出され、ハーバード大学教授である

リサ・ランドールは5次元宇宙の姿を私たちに提示しています。



ここまで来たら私には理解不能ですが、一つ言いたいことがあります。



それは4次元〈この3次元の世界+時間〉の他に違う次元があるとでも言ったら、つい最近ま

で気が狂っていると思われたことでしょうし、私もそう思っていました。



しかし、とんでもない空想物語としてしか捉えられなかった異なる次元が、現在多くの学者に

よって真面目に研究され主流になりつつあります。



ここから教わることは、たとえどんなに突拍子もない話でも排除してはいけないということなの

だと思います。



科学はたった一つの発見でそれまでの定説が打ち消される可能性を常に秘めており、今私た

ちが常識と捉えていることも100年先の未来では化石としての意味しか持たないのかも知れ

ません。



難しいことかも知れませんが、常にあらゆる可能性から目を背けてはいけないと感じています。



(K.K)



 





2012年3月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



宇宙ステーションから見た地球の夜景とオーロラ



オーロラは美しい、しかしこの地球の夜景が、地球全体を覆う火のようにも感じてなりませんでした。



宇宙飛行士、若田光一さんの言葉を紹介します。この言葉は、NHK未来への提言「リサ・ランドール 

異次元は存在する」NHK出版から引用しました。

☆☆☆☆



宇宙旅行を体験したあと、たくさんの方から、宇宙に飛び立つ前と比べて人生観が変わるようなことが

あったかと、聞かれます。実は大学生のときに、立花隆さんの『宇宙からの帰還』というアポロの宇宙

旅行士たちへのインタビューを収載した本を読みましたが、そのなかに、宇宙飛行中、あたかも神の

神秘に触れたかのような経験をしたという宇宙飛行士の発言があったのが強く印象に残っています。

そんなこともあって、わたし自身もこの宇宙飛行が自分にもたらす影響にとてもワクワクしていたのです

が、実際に最も強く感じたことは、「地球の環境を守らなければいけない」という使命感のようなものでした。



ランドール・「なぜそう思われたのですか。」



フランク・ドレイク博士は、この全宇宙に、わたしたち人間や宇宙人のような知能の高い生命が存在する

可能性を示唆する「ドレイク方程式」を提唱しました。わたしも、オアシスのような美しい地球を眺めている

と、過去、現在、あるいは未来において、宇宙のどこかに何らかの文明が存在するかもしれないと強く感じ

ました。もちろん、その文明を築いた人びとが自分の文明自体を破壊してしまうほど愚かでなければの話

です。同時に、わたしたちも自らの文明を破壊するようなことがあってはならないと思ったのです。宇宙を

探査しフロンティアへと挑んでいく一方で、もっと地球の環境を守っていかなければと実感しました。



☆☆☆☆



若田光一(わかた・こういち)

1963年生まれ。九州大学大学院工学府航空宇宙工学専攻博士課程修了。1992年、ISS(国際宇宙ステー

ション)の「きぼう」日本実験棟の組み立て・運用に備え、NASDA(現JAXA・宇宙航空研究開発機構)の宇

宙飛行士に選ばれる。翌年、NASA(アメリカ航空宇宙局)からMS(ミッション・スペシャリスト。搭乗運用技

術者)に認定される。1996年、日本人初のMSとしてスペースシャトルに搭乗、ロボットアースの操作などを

担当。2000年にもMSとして搭乗し、ISSの組み立て作業に携わった。その後、日本、アメリカ、カナダ、ヨー

ロッパ、ロシアでのISSシステム訓練、冬山や海底での極限環境訓練を重ね、高い技術とリーダーシップが

評価され、日本人初のISS長期滞在クルーに任命された。








2012年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



東工大クロニクル-No.402


下に紹介する研究に留まらず、幅広い分野の叡智を結集させた国家プロジェクトを立ち上げ、

実用化に向けての一歩を早く踏み出してほしい。



そして縄文時代に戻ることは出来なくとも、またたとえ都会に住んでいても、人と自然が共鳴

する場を時間をかけて創造していくこと。



自分に何が出来るかわからないが、その方向性だけは見失いたくない。




(K.K)







2012年7月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

写真はNASAより引用



東京で何をしていいか彷徨っていた時、駅で若い女性に声をかけられ行った先が統一教会の

信者が生活する施設だった。そこで僕は20代後半くらいの医療関係の雑誌をを編集している

女性と会い、一年間くらいここに通って彼女といろいろなことを話した。世間で問題になりつつ

ある時期だったが、彼女は僕の考えをじっくり聞いてくれたように思う。



独りぼっちで何かを求めていた僕は「あーあ、こんな女性がいつも近くにいてくれたらいいな」と

思ってばかりで、統一原理など聞いても全く頭に入ってこなかった。ただ、彼女が大勢を前にし

て統一原理を話す眼差しや口調は、僕と話すときの彼女とは別人だった。



就職したとき、ある友人が高橋桂子さんの講演を聴きにいかないかと誘われた。彼女は自身

のことを「キリストブッダを統合した上の次元にいるもの」という話を聞きながら、またしても

僕は「あーあ、こんな綺麗な女性と結婚できたらいいな」と思って聴いていた。



まあ男性だったら女性にこのような想いを抱くのは極自然なことなのだが、何が彼女たちから

自分を離したのかを思うと今でもはっきりしない。



ただ母の存在神秘体験(今思うと疑問だが)かも知れないと思うことがある。母親に関しては、

どんなに宗教家が美辞麗句を並べても、母の子への無償の愛という行為に勝るものはない。



それと奄美などの自然、美しいものでありながら怖い存在でもあった自然。それらの記憶が道を

外れそうになった自分をあるべき所に戻そうとしたのかも知れない。



様々な宗教、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは「さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて

同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです」と言い、インド

の偉大な師であったラマナ・マハリシが様々な宗教について問われたとき沈黙で応えたように、多

くの人も宗教はどこかで結びついていると感じていても、その源泉ははっきりとはわからない。



恐らく何千年、何万年先でないとその姿は明らかにならないような気がするし、それだけの時間を

かけなければいけないものだと思う。



私が若い頃出会った女性、もう高齢だとは思うが「幸あれ」と願いたい。



☆☆☆☆



写真は、地球から約3000光年離れた位置にあるキャッツアイ星雲(NGC 6543)の姿です。



鋭い猫の目を思わせることからこの名前がつけられましたが、実際は死にゆく星から放出された

ガスとちりの造形です。



不思議なことにこの放出は1500年ごとに現れ、それが同心円状の構造やジェットに見ることができ

ますが、何故この質量放出が1500年ごとに繰り返されるのかまだわかっていません。



☆☆☆☆




(K.K)







2013年6月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



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バタフライ星雲(惑星状星雲 NGC6302)(写真はNASAより引用)



惑星状星雲は恒星が死の間際に膨張し、ガスを放出する姿のことですが、まるで宇宙空間を羽ばたく

蝶のようですね。



この星雲は「さそり座」の近く、地球から約3800光年離れたところにありますが、この恒星のガスの

放出は、2200年にわたり時速96万キロ以上の速さで広がりつつあるようです。



私たちの太陽も約63億年後に、赤色巨星から惑星状星雲になっていきますが、気が遠くなる未来ですね。



未来で思うのですが、現生人類(今の私たち)の寿命ってどのくらいなのかと考えたことがありました。



と言いますのも、現生人類が進化の最終段階であると断言することは誰もできないと思ったからです。



1万2000年前まで生きていたフロシエンシス(「指輪物語」で登場するホビットに例えられる)は約6万年、

現生人類が出現する前のネアンデルタレンシスは約30万年、ネアンデルタール人と現生人類の最後の

共通祖先ハイデルベルゲンシスは40万年の寿命を持っていました。



私たち現生人類がアフリカで誕生したのは約20万年前と言われていますが、たとえどの地点に現生人類

が置かれていても、私たちは今ここに生きている、ことは揺るぎない事実なのかも知れません。



地球上に生命が誕生して以来、多くの生命がそうであったように。



☆☆☆☆








2013年4月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





昨日、電王戦という将棋のプロ棋士とコンピューターの対戦でコンピューターが圧勝(3勝1敗1分け)した。



人間の最後の砦、A級棋士も負けたのだが、振り返ればチェスは1997年に人間チャンピオンがマッチで負

ている。その当時の掲示板では、多くの将棋ファンが「だからチェスは将棋より劣った競技だ」と主張して

いたが、そこに未来の将棋の姿を予見したものは殆どいなかった。



これは何もチェス・将棋・囲碁などの盤上競技だけに当てはまるものではないと思う。



1986年のチェルノブイリ原発事故など世界中で多くの事故や事件が起きてきたが、それを対岸の火事とし

てしか捉えなかった人々。私も含めて多くの人がそのような態度を取ってきたのだが、何故それらのことを

我が事として捉えることが出来なかったのか。



当時の私自身の視点、感受性のどこに問題があったのか。



それを想うと私自身とても偉そうなことは言えない。



人間は過去からの知の遺産を継承して現在の文明を築いてきたが、過去の過ちから感じたことの継承が、

果たして現在の文明にどれほど備わっているのだろうか。



今回の人間とコンピューターの対戦、それを通していろいろなことを思い巡らせてしまう。




 




2013年5月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



(大きな画像)


テントウムシ(天道虫)とネムノキ(合歓の木) 5月26日ベランダにて撮影



テントウムシはアブラムシ類や、種類によってはカイガラムシ類やハダニ類、うどんこ病菌を

食べる益虫として昔から尊ばれてきました。また太陽に向って昇り、枝の先端からでないと

飛び立たないことから、日本では「天道虫」として親しまれていました。



英語では「聖母マリアの使い」、ドイツ・スペイン語では「マリア様の虫」、フランス語では「神様

の虫」、イタリア語では「神の雌鳥」との意味があり、イタリアやアメリカでは、テントウムシが体

にとまると幸せが訪れると言われているようです。



ヨーロッパのある伝承では、無実の罪で処刑されそうになった男の肩にテントウムシが留まり、

男は息を吹きかけて逃がしてやりますが、そのテントウムシは違う男の肩に留まります。その

男はこのテントウムシを叩き潰してしまいますが、それを見ていた領主が不審に思い再調査し

たところ、叩き潰した男が真犯人だとわかったことから「無実の人を救う虫」となったというもの

もあります。



ネムノキ(合歓の木)、何故「合歓の木」と呼ばれたのかは、夜、葉を閉じる姿が眠っているよう

に見えるとか、夫婦の交わりを意味すると言われていますが、私は手を合わせる行為、祈りの

姿に似たものをそこに感じます。



日の出とともに咲き、日の入りとともに花をしぼめる蓮や睡蓮は、エジプトやヒンズー教、仏教

では聖なる花ですが、合歓の木の姿を見て、そこに蓮や睡蓮と同じように太陽と共に生きたり

眠ったりする姿を重ね合わせた人がいたのかも知れません。



自然の営みを通して思い起こさせてくれる「祈り」の姿は、あるべき道から離れた心を呼び戻そ

うとしているかのようです。








2013年10月14日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




(大きな画像)


本日14日のお月様と17時頃の光景です。


一年前に九州から母が来たとき、双眼鏡で木星の衛星たち(ガリレオ衛星)を見てもらったが、これらの配列が

裸眼でも見えていると言った。



83歳になる母の視力がどれほどのものなのか詳しくは知らないが、双眼鏡で確認できる衛星の配列が、何も

使わない裸眼で見えるとは信じられず耳を疑った。



ただ、中国の斉の天文学者・占星術師の甘徳が、ガリレオが望遠鏡で木星の衛星を見つける遥か2000年も

前(紀元前364年)に木星の傍らにこれらの星があることを記録していることを考えると、人類の歴史上、名は

知られていない沢山の人の目に見えていたのかも知れない。



月のクレーター、これも双眼鏡でないと確認できないが、木星の衛星と同じで、月にはでこぼこしたものがある

と見ていた人もいたのだろう。



科学の進歩により今まで見えなかった実体が明確にわれわれ人類に映し出されつつある一方、心はどう変化

しているのだろう。



今日は双眼鏡で月を見ながら、その光に吸い込まれてしまっていた。



☆☆☆☆







2015年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





根拠のない妄想体操にいれこむ私。



20数年前から夜明けの時間に一つの運動をしている。

それはフィギュアスケートのスピンのように、時計回りに21回くるくる回転するのだ。

実は、これは前の大戦で戦闘機パイロットを選抜するための重要な適性試験だった。

くるくる10回くらい回って直ぐに、真っ直ぐ歩くことが出来れば合格、できなければその時点で不合格となる。

勿論、私はその試験にに合格するためにくるくる回っているのではないし、

恒星のまわりを公転・自転する星の境地に立ちたいと願ったりもするが、全く掴めきれないでもいる。



ただ、思考が右や左に流されようとする時に、中心に戻してくれる働きを、この回転運動がもたらしてくれて

いるのではと最近感じることがある。軸がしっかりしている人ほど、右や左の意見に耳を傾けることができる

(私にその力があるかどうか甚だ疑問だが)。

別な言い方をすれば、大地に根をはっていなければ、浮遊病のように空中を漂い、何か強い力に拠り所を

求めざるを得ない。

ヒトラーは、ドイツ全体を覆っていたユダヤ人への反感と浮遊病を巧みに利用したに過ぎない。



私が好きな絵本の一つに「ねっこぼっこ」がある。

著者オルファースは20台半ばで修道院に入るが、第一次世界大戦のさなか34才で亡くなった。

大地の奥深くに視線を落とすことができた彼女の感性、その世界を一人ひとりが宿していたら、

彼女の死からもう直ぐ100年の現代は今と異なった世界だったのかも知れない。






2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。








2015年10月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







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先日9月28日ののスーパームーンと皆既月食(写真はNASAより引用)



大西洋方面(ヨーロッパやアフリカ、南北アメリカ)ではこの二つの現象が重なり合いましたが、次にこの

二つの現象が見えるのは18年後の2033年です。



北海道のアイヌと共に、縄文人の遺伝子の多くを引き継ぐ沖縄、彼ら沖縄の人々の月への想いはどの

ようなものだったのか。



「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書より以下引用します。



<月の神>



◎月も、太陽と並ぶ久高島の最高神である。



月神は<マチヌシュラウヤサメー>(マチは待つ、シュラは美しい、ウヤサメーは尊い親の意)といっている。



月の光の柔らかなイメージが女性のイメージと同質と考えたのか、月神は神女たちの象徴で、家レベルでは

根神が、シマレベルでは外間ノロがその司祭者である。



また月は女親であって産む能力を持っていて、久高一人一人の命に責任があると考えられ、出生のとき、

結婚のときは月神に報告し守護を頼む。年始めの健康願いも月神に祈る。



穀物を生産する力も月神で、麦、粟で作った濁酒は月神の守護力を持った尊いものである。麦、粟の

農作祈願祭祀はこの濁酒を神女たちが「共飲して」おこなわれる。



太陽が一日の周期を考えるのに対し、月は一ヶ月の周期で考えられる。つまり、月の満ち欠けによって

月日を読む。



月もその光によって守護力が発揮されると考え、十三、十五、十八夜は守護力が強い吉日と考え、祭祀の

適日である。イザイホーも十五の満月の夜から始める。一年で月神の守護力である月光が最も充実して

いるのは旧暦八月の十五夜である。



この満月の夜に穀物の豊作と神女たちの健康願いがおこなわれる。月神も太陽神と同じく地上に降臨

することはなく、香炉もないまま、神饌を供える高膳が外間殿にあるだけである。月神を象徴する色は白である。

また月は普通、チチと呼ばれている。なお、日食は月神と太陽神の逢引といわれている。








2016年1月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




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相模川(相模原市と厚木市を間に流れる川)の近くにある田名向原遺跡。



FB友達の安井さんに教えていただいた、旧石器時代や縄文時代、そして古墳時代の遺跡が一箇所に残る

貴重な所を訪れました。



何故このような川の辺に居を構えたのか、そして何故100キロ以上も離れた長野県和田峠などの黒曜石が

多く使われたのか。



10数年前に私はこの近く(川を挟んで厚木側)に住んでおりましたが、まさかこのようなところで当時の人々

が生活した遺構が発見されていることは驚きであり知りませんでした。



旧石器時代から縄文時代、弥生を経て古墳時代の時間のうねりの中で、この遺構にいた人の生活は

どのような変化を見せたのでしょう。



それは良くも悪くも、いろいろな想いが込められているように感じます。



それは発掘されたものを通して、ある程度は推察できるかも知れませんが、その殆どが失われた記憶です。



ただ、私たちの身体の中には彼らの遺伝子が残っていることを忘れていはいけない、この遺跡を訪れて

何故かそう感じてしまいました。







2016年3月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



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不死鳥のオーロラ(写真はNASAより引用)


アイスランドにて昨年9月に撮影されたものですが、オーロラを見に集まっていた人々が帰った午前3時30分、

光が弱くなっていたオーロラが突然空を明るく照らします。



場所はアイスランドの首都レイキャビクから北30kmにある所で、流れている川はKaldaと呼ばれています。



画像中央やや上にはプレアデス星団(すばる)が輝き、山と接するところにはオリオン座が見えます。不死鳥の

頭の部分はペルセウス座と呼ばれるところです。



☆☆☆



この不死鳥のくちばしの近く、やや右下に明るく輝く星・アルゴルが見えます。



アラビア人は「最も不幸で危険な星」と呼んでいましたが、それはこの星が明るさを変える星だったからです。



イギリスの若者グッドリックは、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体(子供の時の猩紅熱が原因)でした

が1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を追いつづけ、この星が明るさを変えるのは暗い星がアルゴルの

前を通過することによって起こる現象ではないかと仮説を立てます。



1786年、その功績によりロンドンの王立協会会員に選出されますが、その4日後にグッドリックは肺炎により

22歳の若さで他界してしまいます。



グッドリックの仮説が認められたのは100年後(1889年)の分光観測によってでした。



今から230年前の話です。



不死鳥のオーロラ、多くの魂が光の中で飛翔していますように。










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