未来をまもる子どもたちへ


 








 
 


パドレ・ピオ神父

1887年5月25日イタリアのピエトレルチナにて出生。16歳でカプチン・

フランシスコ修道会に入会。1918年8月5日夕方、目の前に現れたイエス

より聖痕を受ける。その後の全生涯を奉仕に捧げるとともに、数多くの奇跡

を行なう。1968年9月23日亡くなる。享年81歳。2002年6月16日、ヴァ

チカンのヨハネ・パウロ2世は、世界中から集まった50万人の信者の前で、

福者ピオ神父を462番目の聖人に列聖することを宣言した。







  



 


「ピオ神父の生涯」

ジョン・A・シュグ著

甲斐睦興訳 聖母の騎士社

ピオ神父が現代社会にとって最も必要とされる理由は、ピオ神父が我々を生き地獄から

救い、死者を煉獄の苦痛から救出して下さるからである。神父の外面を列記すると−奇蹟、

聖痕(両手、両足と脇には十字架刑による五つの傷)、二箇所同時存在、外国語の賜物(勉

強しなかった外国語を話せた)、読心術(見知らぬ人々の生活歴がピオ神父に判っていた)、

一日たりとも休まないで五十年間働き通した。−この事は、心の堅い罪人を近寄せ、疑り深

い、批判的無神論者を改心させるために、天の漁夫(神)が与えた餌である。」

「ピオ神父の生涯」より引用


 


目次

まえがき

感謝のことば

献詞

第一章 闘士

第二章 ピオ修道士

第三章 ピオ神父

第四章 聖痕への序曲

第五章 聖痕

第六章 目撃者の報告

第七章 噂と暴動

第八章 ミサ聖祭に於いて

第九章 サン・ジョバンニ・ロトンドに於ける司牧

第十章 霊的子供達

第十一章 現象

第十二章 二ヶ所同時存在

第十三章 神授の芳香

第十四章 ピオ神父の社会事業

第十五章 脚光、死と埋葬

第十六章 死を通過した生命

第十七章 あとがき

訳者あとがき





「ピオ神父と守護の天使」

アレッシオ・パレンテ著 甲斐睦興訳 フリープレス刊


 
 


ジェラルディン・ノラン女史の献辞

「世の中で最もよく最も美しい物は見ることができず、触れることさえできない。それらの

物は心で触れなければならない」 ヘレン・ケラー

私たちの愛すべきピオ神父に、熱心に心服している者の一人として、私はこの偉大な人物

に関する本のほとんど全部を読み尽くしました。ピオ神父と暮らす幸運を実際につかんだ

アレッシオ神父が、ピオ神父と天使たちについて本を書くことを知り、言うまでもなく私は喜

んでいます。


過去二、三年間、本書の著者は守護の天使たちとの(数多くの)御自身の体験を教えてく

れ、私はすっかり魅了されました! 天使が笑う、天使が泣く、天使が歌う、天使が自動車

を運転する、自動車を修理する天使、何でも屋の天使、多国語を話す天使・・・・について

記された本を読むことは、日常茶飯事とはいきません。私の心からの驚きは、本書が形成

されていくのを毎日注目しながら、もっと知りたいいう執着心に変わりました。


前述したように、著者はピオ神父のそばで長い年月を費やしたので、本書に取り入れられた

情報は、「確実な筋から」得られたものです。アレッシオ神父の仕事の重荷のため、または、

たぶん「悪魔の邪魔」により、はじめは痙攣したように著作は進みませんでしたが、神父も最

終的には腰を落ち着けて進めることができました。読者は本書のできばえにただ驚かれるこ

とと私は信じます。もちろん、本書に打ち明けられた多くの物語を信じないことは叱責されるべ

きではありません。しかし、これらの物語は空気の中(何もないところ)から引っ張り出された

ものではありません。逆に大多数の物語は、健全な人格の人物により記録され、アレッシオ

神父に対して証言されたか、打ち明けられています。


これらの天使の出来事は、長年、注意深く蒐集されました。著者のユーモアあふれる書き方

は、出来事の真実性を決して損なっていません。「ユーモアを使って説教できる」という、有名

なローマの作家ホレイショの言葉はここで立証されたように思われます。本書の目的は何が

何でも天使たちについて書くことではなく、私たち全員の前に、天の同伴者が私たち自身の

そばにいるという「古めかしい考え」を再び持ち出すことです。ピオ神父がおっしゃったように、

天の同伴者は、「私たちが神に愛想を尽かさせるときでさえ、私たちを見捨てません」。教会の

天使に関する教義はすでにこれを教えていますが、これらの本当の天使たちとピオ神父や神

父の霊的子供たちが実際に体験したことを取り上げ、これがいかに真実であるかを本書は教

えます。確かなメッセージが読者に快く伝えられ、まったくの沈黙のうちに私たち一人ひとりに

対して義務を遂行する、しばしば忘れられている同伴者のことを、他の人たちにも考えさせる

よう、私は希望します。一言で要約するならば、ピオ神父と天使に関する本書が、信仰してい

る人々の信仰を強め、信仰していない人々には信仰について少しでも興味を呼び起こすこと

を、私は確信しています。

ジェラルディン・M・B・ノラン


 


目次

ジェラルディン・ノラン女史の献辞

はしがき

ピオ神父の略歴

「私の幼少時の同伴者」

「天使が笑う!」

多国語を話す天使

悪魔の妨害

良き叱責

時間厳守の天使

しつこい天使

何でも屋の天使

地球を踏破する天使

収容所の中で

天国の郵便屋

天使の行列

天使のパン(パニス・アンジェリクス)

あなたの天使をミサ聖祭に送りなさい

天使は家に留まる

自動車を運転する天使

目覚めている天使

見えない同伴者

守護の天使に対する敬虔な祈り

天使は歌った

忙しい天使たち

24番と25番

アメリカ婦人メアリ

自動車修理工の天使

目に見える同伴者

空にいる天使たち

病者のための天使

微笑

天使たちの元后

聖母を讃えて

神の完全を映す鏡

読者に宛てて

文献

訳者あとがき







(大きな画像)


 
 


2008年4月24日

イタリア南部プーリア州サンジョヴァンニ・ロトンドのサンタ・マリア・デル・グラシエ教会。

ピオ神父の遺体が24日、死後40年にして掘り起こされ初めて公開された。上の写真は

その時のものである。尚、顔面は腐敗していたため生前の顔を模したシリコン製のマスク

をしている。一部の信者から「聖人は腐敗しない」との理由で、「聖人認定を取り消し」の

宗教裁判が起こされたようだが、アッシジの聖フランシスコ(遺体は腐敗している)と同じ

く、人々のために一日も休むことなく生きた清貧の人であり、腐敗あるなしが聖なる魂を

判断し、おとしめるものであっては決してならないと強く思う。


(K.K)


 





 



 





「聖母マリアは、なぜ、「出現」したのか」 いま、キリスト教に起きている超奇跡
S・フィナテリ神父 徳間書店 より以下抜粋引用




十字架の傷を身におびる


サンダミアノのマンマ・ローザに大きな影響を与えたと思われるピオ神父は、1966年、81歳の高齢まで生きていた。ピオ神父

は病気治療や人の心を見通すこと、また、同時に二箇所に存在するという、いわゆる「ビロカツィオ」などの奇跡で知られて

いるが、とくに有名なのは、彼が両手、両足および左胸に「聖痕」(スティグマ)をおびていたということである。



キリスト教の歴史で「聖痕」を受けた人は古来、かなりの数・・・一説によると320人・・・にのぼっているといわれる。よく知られ

ている、そして、おそらく最古のものといわれているのは、13世紀イタリアの聖者アッシジの聖フランチェスコのそれである。



フランチェスコの死の2年前、40歳をすぎてからの出来事であった。あるとき、アペニノ山脈のアルベルナ山の洞窟で祈って

いると、とつぜん天使があらわれ、彼の両手と両足と右胸に傷を与えたという。その目撃者だったチェラノのトマスは、後に

こう書いている。



「彼の手と足をつらぬいた釘のようなものが見えた。釘の頭は丸く、黒く、手と足と、それに胸に突き刺さっていた」



この傷が、キリストの十字架の傷を示していることはすぐにわかる。イエズス・キリストは十字架にかけられたとき、両手と

両足を釘で打たれ、右胸を槍でつらぬかれたのである。



復活の後にあらわれたイエズスは、使徒たちに自分が死んでよみがえったことを示すために、この5つの傷を見せ、また、

それに触れさせたのだった。



フランチェスコ以後、同じような「聖痕」(スティグマというラテン語は「しるし」の意味)を受けた人として、シエナの聖女カタリナ、

アビラの聖女テレジアなどの名があげられるが、現代ではドイツのテレーズ・ノイマンとこのピオ神父が有名である。



「聖痕」を受けるということは、つまりはキリストの十字架の傷をわが身に受けるということだが、このことは精神的にはすべて

の信者に求められていることである。パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ人への手紙2章

19節)といって、このことを表現している。



それは、キリストとともにこの世に対しては十字架につけられて死に、キリストの復活のいのちにあずかることを意味している。



これが精神としてだけでなく、肉体の上にも実際にあらわれるということは、それがたんなる抽象的な問題ではなく、具体的な

現実性を持ったものであることを、人々に想起させるためであるにちがいない。



ピオ神父の誕生



フランチェスコ・フォルジョーネは1887年5月25日、ローマの少し南のベネベント県にあるピエトラルチーナという小さな村に

生まれた。生まれた日は雨が降っていたという記録がある。



父は農夫のグラツィオ、母はマリア・ジョゼッパ。8人きょうだいの5番目だが、きょうだいのうち3人はまだ幼いうちに死んで

しまっている。



フランチェスコは少年時代、学校にも行けぬほど、一家は貧しかった。幼いころ、フランチェスコは泣き虫で、いつもめそめそ

していた。父は畑から疲れて帰るたびにこの泣き声を聞かされて、とうとう我慢ができなくなり、「もうこの子を捨ててしまえ」

とどなったことがあるそうだ。そのとき妻マリア・ジョゼッパは、「この子はイエズス様から私たちが与えられたもの。それを

そのまま受けねばなりません」と夫をいさめたという。この泣き虫のフランチェスコこそ、後のピオ神父なのである。



フランチェスコは虚弱な体質で、病気ばかりしていた。その少年時代についてはあまり知られていないが、ただ、生まれつき

きわめて宗教心があつかったようである。



病弱のせいもあろうが、よその子と遊ぶということはほとんどなく、いつも好んで、ひとり寂しい場所を求めて祈りにふけって

いた。両親も熱心なカトリック信者だったので、このことをむしろ喜んでいたようである。



フランチェスコが司祭を志したのは、11歳のときである。司祭になるには、まずラテン語を学ばなくてはならない。このころ、

父のグラツィオは一時、アメリカへ出稼ぎに出かけ、そのおかげでフランチェスコはラテン語の先生に月謝を払うことができた。



1902年、15歳のとき、カプチン会の神学生になるため試験を受け、合格した。カプチン会というのは、アッシジの聖フランチェ

スコの流れを汲む修道会である。フランチェスコ少年は、このアッシジの清貧の聖者をこよなく憧憬していたのである。



まず志願者として、フォージャ県にあるカプチン会の修練院へと送られた。このときつけられ修道名がピオである。



母との別れを、ピオは生涯忘れなかった。母はとぎれがちの声で、旅立っていくわが子にこう告げたのである。



「この別れは私にとってとてもつらいこと、でも、おまえは私の涙に心を動かされてはならない。神と聖フランチェスコが

お呼びになっている。おまえは行かなければならないよ」



きびしい1年間の修練期間中、母は一度修練院を訪れている。心配そうに、「息子はどうでしょうか」とたずねると、院長は

言った。



「あなたのお子さんは、私たちよりよっぽど立派な修道者ですよ」



魚が水を得たように、ピオは修道生活に順応していったが、ただ問題は彼の健康であった。「たいていパンのかけらが3つか

4つあるだけ」と彼自身も言っている粗末な食事は、いっそう彼を衰弱させた。



それでも無事に修練期を終え、神学校に学んで、めでたく司祭となったのは1910年である。ベネベントの司教座教会で行われ

た叙階式には、もちろん母も参加している。



あくる日、故郷のピエトラルチーナでミサをささげた。そして、そのまま故郷にとどまり、土地の教会を手伝うことになった。

教会の主任司祭は彼のおじで、健康のすぐれないピオをしばらく郷里で静養させようという修道会上長の配慮によるもの

であった。



「見えない聖痕」を受ける



静養かたがたといっても、赤ん坊に洗礼をさずけたり、子どもたちに教理を教えたり、教会の仕事はけっこう忙しかった

らしい。



この時期、ピオに一つの現象があらわれた。「見えない聖痕」と呼ばれるもので、ピオが23歳のときのことである。



2年後の1912年、彼は自分の聴罪神父に手紙でこう打ち明けている。



「私はもう1年以上も前から、受難を味わっています。毎週木曜から土曜まで、私の手、足、胸に傷のような痛みを感じるの

です。その痛みはとても激しく、手と足と胸がほんとうにつるぎで刺しぬかれている感じです。私がイエズス・キリストの愛と

受難に思いをめぐらしているとき、いつも起こることです」



さらに2年後の1914年、ピオはカプチン会の総長から、彼にとっては衝撃的な通告を受けた。ピオの健康状態は改善する

どころか悪化の一途をたどるばかりなので、修道会にこれ以上とどまることはできない。カプチン会を去って、以後は教区

付きの司祭として働けというのであった。



さいわい、フォージャのカプチン会管区長は、ピオの「事情」をよく理解していた。健康悪化の原因の要因には「見えない聖痕」

による心身の苦痛と疲労が大きく影響していたのである。とにかく管区長のとりなしによって、ピオはカプチン会にとどまること

ができた。



ピオのささげるミサが、「神秘の光に包まれる」ようになったのはこのころからである。これを証言したのは、同じピエトラル

チーナ出身の神父オルランドだ。



ピオのミサは、あるときは4時間もかかったという。ふつうなら30分ないし1時間ぐらいのものである。



ミサをささげている途中、ピオはしばしば宗教的エクスタシーの状態におちいり、石のように動かなくなってしまうのである。

その顔はときに苦悩に満たされ、ときに輝くような歓喜にあふれるのだった。



1915年4月、イタリアはついに第一次大戦に参戦した。その結果、全国に動員令が布かれ、司祭も衛生兵として動員される

ことになった。ピオ神父も例外ではなかった。



しかし、とうてい軍務に耐えられる健康状態ではなく、ピオ神父は郷里に戻される。6ヶ月後、ふたたび動員され、今回はナポリ

で数ヶ月軍務についたが、やはり結局、帰郷させられた。



この後、ピオ神父はサンジョバンニ・ロトンドの修道院に移され、ここで死ぬまで暮すことになる。



サンジョバンニ・ロトンドはユピテル(ジュピター)にささげられた神殿の遺跡が残っている古い町で、大天使ミカエル出現の

言い伝えで名高いモンテ・ガルガーノという山のふもとにある。モンテ・ガルガーノの聖ミカエルの礼拝堂には、アッシジの

聖フランチェスコも巡礼にきたことがある。



「聖痕」の診断と調査



1918年8月5日の日没のころのことである。その修道院の聖堂で、若い神学生の告解を聴いていたピオ神父のもとに、

どこからともなく「神秘的な人物」(とピオ神父は言っている)があらわれて、つるぎでピオ神父の心臓を突き刺したという。

同じような体験を、17世紀のアビラの聖女テレジアもしたと伝えられいる。



ピオ神父はこのことについて、聴罪神父への手紙でこう言っている。



「ほのおのつるぎのようなもので私の魂を刺し、私の心を燃やしました」



そして、同じ年の9月20日、ピオ神父はついに両手、両足、左胸に、目にはっきりと見える「聖痕」を受けたのである。



このとき、ピオ神父は修道院に一人きりでいた。その修道院のメンバーは3人で、ピオ神父のほかは院長のパオリーノ神父、

修道士のニコラだが、パオリーノ神父は近くの村へ説教に、ニコラ修道士は托鉢に出かけていた。



ピオ神父は聖堂の内陣で、ひたすらキリストの十字架の受難を黙想していた。以下、ピオ神父の手紙による。



「私は内陣にいました。快い眠りにさそわれ、私の五感はいい知れぬ静けさに沈んでいきました。とつぜん、稲妻が走り、

私の前に神秘的なふしぎな人物があらわれました。8月5日にあらわれたのと同じ人でした。違うのは、彼の両手、両足、

胸が血にまみれていたことです。これを見て、私は非常に恐れました。そのとき感じたことを、とうてい言葉では表現でき

ません。私は死ぬばかりでした。もしイエズスが私を支えてくださらなかったら、きっと私は死んでしまったでしょう。この

人物はすぐに姿を消しましたが、私の手、足、胸がつるぎで突き刺された感じで、血で真っ赤になっていました。私は

大きな苦痛をおぼえました。その苦痛は、いままでつづいています」



そのとき、その場所にはだれもおらず、したがってそれを目撃した人はいない。



その晩、帰院した院長パオリーノにもピオは何も告げず、このことについて沈黙を守った。手足や胸の傷あとは消えずに

残っていたが、ピオはこれを修道服の長い袖に隠し、気づかれないようにした。



しかし、8日目にパオリーノは事実を知った。それ以前に、一人の信者が、ミサをささげているピオ神父の両手のひらに赤い傷

を見つけて、これをパオリーノに知らせたのである。



パオリーノははじめ信じようとしなかったが、ピオ神父を自室訪れ、その目でこのことを確かめたのだった。



報告を受けたフォージャの管区長は、ロマネッリほか3人の医師をピオ神父のもとに送った。この3人の医師団は、ローマの

カプチン会総長から、ピオ神父の「聖痕」の事実を調査する正式の任命を受けた。



傷の診断とさまざまな調査が行われ、写真とレポートはバチカンにまで送られた。ピオ神父は、「私にとって、この診断と

調査の2年間がどんなに苦しかったか」



と書いている。



「聖痕」は50年後も変わらなかった



3人の調査医師団の一人、ローマの医師ジョルジョ・フェスタのレポートは、つぎのとおりである。



「左の手のひらの真ん中あたりに直径2センチほどの丸い傷があり、傷は赤味がかった褐色のかさぶたでおおわれていた。この

かさぶたはときどき落ちて、傷がよく見えた。傷は鮮やかな赤色で、いつも少し血がにじんでいた。傷の深さをじゅうぶんに調べる

ことはできなかった。右手のほうは、真ん中より少しずれたところに傷があった。



また、私は最初の診察のとき、彼の靴下を脱がせようとしたが、靴下は血だらけになっていた。両足の甲にある傷も、手のと

同じようなもので、いつも血がにじんでいた。傷は足の裏からも見えた。



左胸には、乳の下1センチほどのところに傷があり、傷は一見、さかさの十字架の形をしていた。たての長さは約7センチ、

横は4センチほどであった。十字架の形は、それほどはっきりしたものではない。傷の色は、手や足と同じであった」



右のレポートは最初の調査直後のものだが、フェスタはさらに、その50年後の1968年にこう証言している。



「この傷について、科学はとうてい適切な説明をなしえない。この傷はどれも、とつぜん、しかも同時にあらわれたもので、50年を

へたこんにちでも、これを受けたときの状態とまったく同じである」



50年後といえば、ピオ神父が81歳で亡くなる年である。そのときまで傷は最初の状態のまま、それ以上悪くもならなければ、よくも

ならなかったという。



噂を聞いて、ピオ神父のいるサンジョバンニ・ロトンドの修道院に世界各地から大勢の巡礼が集まったことは、前章でも触れたとおり

である。これに対して、ローマのカプチン会本部は、「ピオ神父を修道院内で独居させること、そして、説教したり、告解を聴いたり、

人々の前に出ることを禁じる」



と命令した。これにはバチカンの意向も働いていたらしい。ここでも教会当局は、徹底的に慎重な構えを見せたのである。



にもかかわらず、急速に人々の間に「聖痕」以外にもピオ神父の奇跡の評判が広がっていった。病気治癒、同時に二箇所に存在する

こと、あるいはピオ神父が通るとき、かぐわしい香りが立つ、というようなことである。やがて、右の禁令も解かれ、ピオ神父は自由に

活動できるようになった。



病気治癒の例としては、目や耳の不自由な人、小児マヒの子ども、また、腎臓ガンなどの場合が記録されている。



米軍の空襲を回避させる



これはどこまで奇跡といえるかわからないが、ピオ神父は告解のとき、告白者の心の底までよく見通すことがしばしばあった。



一例をあげれば、人を溺死させたことを告解にきたある婦人に対して、彼女の告解がすべて終わっても「まだ残っているはずだ」と

罪の赦しを与えようとしなかった。婦人はかつて胎児をおろしたことがあったのだが、その罪については口をつぐんでいた。ピオ神父は

婦人に何度も、「もっとよく自分を見つめなさい」とすすめ、とうとうその罪を告解させたというのである。これは、その婦人の証言によって

明らかにされた。



ピオ神父を慕って、全世界から告白者が集まった。第二次大戦後は、とくにアメリカ人が多かった。日本からの来訪者もいたといわれ

る。その人たちはそれぞれ自国語で告解したが、ピオ神父はこれをみんな聴き分けたという。彼はイタリア語とラテン語にしか通じて

いなかったのだが・・・。



第二次大戦末期の出来事として、こんなふしぎな話が伝えられている。



すでに南イタリアの一部は連合軍の手におち、パリの町は米空軍の基地になっていた。パリからほど遠からぬサンジョバンニ・ロトンド

にはいぜん独軍が居座っていたが、それだけに住民は米空軍の空襲を恐れた。ところが、これに対してピオ神父は、「大丈夫だ」と保証

を与えていたという。



しかし、ついに空襲敢行の日がきた。



爆撃機の編隊は、サンジョバンニ・ロトンドの上空に迫った。そのとき、司令官は空の行く手に両手を広げて立ちはだかる修道服姿の

神父の幻影を見たのである。司令官は恐れて空襲を中止し、編隊を引き返させた。こうして、サンジョバンニ・ロトンドは空襲をまぬかれ

たのである。



独軍撤退後、サンジョバンニ・ロトンドに入った米軍のその司令官は、修道院でピオ神父の姿を見て、



「あのとき空にあらわれた神父だ!」



と叫んだという。



同時に二箇所に存在するという「ビロカツィオ」の奇跡として、ダニエル修道士の証言がある。彼はたしかに、北イタリアの聖母の聖地

ロレトでピオ神父の姿を見たという。後にピオ神父にこのことを告げると、彼はそのころどこへも出かけていないと言った。さらにかさね

て問いただすと、



「それはまったくべつのことだ」



というなぞめいた言葉を残して去ったという。



いずれもいにしえの聖者伝説にも似たような、いかにもふしぎな話である。現代人にはかえって抵抗があるかもしれない。それに、

かんじんの証言がなんとなく尻切れとんぼの感じなのが残念である。あの米空軍の司令官にしても、サンジョバンニ・ロトンドで見た

「空中にあらわれた神父」について、あるいは自分の空中の異常体験について、もっと追求しなかったのだろうかという気がする

のである。



教皇ピオ11世とピオ神父



教皇ピオ11世の時代(1912〜1935)、ピオ神父は教会上層部の多くから、むしろ「偽りの光」として警戒の目をもって見られていた。

はじめは、公にミサをささげることすら禁じられていたくらいである。



ピオ11世自身は、ピオ神父の問題についてなんとか明快な結論を下すべく腐心していた。それで、有名なシリ枢機卿を加えた委員会

によって、この問題を討議させることにした。



その間、ピオ神父に公にミサをささげることを禁じる文書に、ピオ11世自身が署名するまでになっていたときのことである。教皇の執務室

にとつぜん、一人のカプチン会神父が案内も請わずに入ってきた。彼は両手を修道服の袖に隠し、ピオ11世の前にゆっくり進むと、

ひざまずいて教皇の足に接吻して、



「教会と魂の善のため、署名なさらぬように」



と告げた。



そして、教皇の祝福を求めて立ち去った。その出入りを、だれも妨げることはできなかったという。しかも、教皇の住居を護衛している

スイス衛兵にたずねると、一人としてそのような男の姿を見た者はいなかったという。



教皇はシリ枢機卿に命じて、さっそくサンジョバンニ・ロトンドの修道院長にたずねさせたが、そのとき、ピオ神父は聖堂で聖務日祷を

唱えており、どこへも出かけたことはまったくないとの返答であった。



ピオ11世は署名をやめ、逆に公にミサをささげることを許したが、これもピオ神父の「ビロカツィオ」の一例として伝えられている話で

ある。教皇や教皇庁高官の名まで登場するだけに、いいかげんな話とは思えないのである。



ピオ神父が信者たちに与えた宗教的勧告のいくつかを紹介しよう。



「子よ、何を望むか。神を愛するとは、その受難、その死者、その十字架にあずかることである」



彼自身が身に「聖痕」をおびたのは、まさにこのことの生きたしるしとしてであった。



「信者の生活は、自我に対するたえまない戦いである。苦しみによって、その美しさは保たれる」



「信者」という言葉を「人間」におきかえてもいいいかもしれない。そして、十字架こそその戦いのシンボルなのである。



「いつも神の摂理にあなたの信頼を置け。天も地も終わるが、主があなたに与えるご保護には終わりのないことを信じよ」



ピオ神父の死



ピオ神父は病弱の身ながら、満80歳を超える長寿を保った。しかし、年とともに疲労が激しく、健康状態は悪化した。



床に伏せるようになるまでは、毎朝5時にミサをささげ、終わるとまず男子の告解を聴き、つぎに女子の告解を聴いた。世界じゅうから

大勢の告白者が集まったことは、前に書いたとおりである。ピオ神父の毎日の仕事の主要部分は、人々の告解を聴き、その人々に

宗教的な勧告を与えることで占められていた。



また、世界各地から、毎日1万通にものぼるというたくさんの手紙が寄せられた。とても、そのすべてに目を通すことはできない。しかし、

ピオ神父は読まなくてもその内容を察知したといわれる。ピオ神父の意を体して、各国語に通じた7人の秘書が、手分けして返事を書い

ていた。



1968年9月23日午後1時ごろ、伏せっていたピオ神父はベッドから起き上がり、ベランダまで歩いていったが、すぐ顔じゅうに汗を吹き

出させてベッドに帰った。くちびるが真っ青になっているのを、つきそいのペレグリノ神父が見て心配した。ピオ神父は「だれも呼ぶな」

と言ったが、ペレグリノ神父のしらせで、他の神父たちと医師たちが部屋に入った。ピオ神父はもう口をきかず、手にロザリオをにぎっ

て、ささやくように「イエズス、マリア」と繰り返しつぶやいていた。息を引き取ったのは、午後2時半である。



葬儀には10万人の人が集まった。その中には、イタリア政府の代表もいた。パウロ6世は教皇に選出される前のミラノ大司教時代から、

ピオ神父を敬愛し、「ピオ神父は祈りと苦しみの使徒である」と言っていたのである。



ピオ神父の「聖痕」がイタリアじゅうを騒がせていたころ、私はローまで神学生だった。新聞記事でもよく読んだものだ。しかし、当時は、

私はむしろ疑問のほうが大きかった。



無心論者の医師から第一次大戦中に回心し、フランシスコ会の司祭となってミラノ聖心大学を創立したアウグスチーノ・ジェメリ神父が、

ピオ神父の「聖痕」について教皇の命を受けて調査した結果、「事実は否定できないが、自然的に説明できることだ」と言っていたが、

私もほぼ同じ意見だったのである。



しかし、いま改めてピオ神父にかんする何冊かの本を読んで、正直のところ新たな感銘をおぼえている。それはたんなる自然的なこと

ではなく、やはり、神のわざ、つまり超自然的な出来事としてでなければ理解できないのではないかという思いがしきりなのである。



たしかにピオ神父の多くの奇跡をめぐって、あまりにもふしぎな、いうなればできすぎた話が多すぎる。それがかえって抵抗感をおぼえ

させることは事実だ。



しかし、われわれ現代人は、事実をよく調べる前に、ただ「非合理的」というだけで頭から否定してしまうことが、ままありすぎるのでは

ないか。それはよく調べる前に信じてしまった昔の人の、形のうえだけ逆をいっているのにすぎないかもしれない。



「聖痕」にしろ「聖母出現」にしろ、あるいはほかの奇跡にしろ、信じるにしても否定するにしても、まずはよく調べることが必要だと

思うのである。







Pray, Hope and Don’t Worry - Issue 54 - January-March 2013 - Padre Pio DevotionsPadre Pio Devotions

Dreams of Padre Pio

Padre Pio presiding at a wedding
Giuseppe Di Sessa’s dear wife, Anna Maria, died in October1940. Giuseppe knew that he never wanted to remarry.
Two months later, Giuseppe went to see Padre Pio. Giuseppe told him about his wife’s death.
He explained to Padre Pio that he prayed for his wife every day and offered many sacrifices on behalf of her soul.
Padre Pio told Giuseppe that for the sake of his family, he should consider remarrying.
Giuseppe explained to Padre Pio that he had decided not to marry again. For a second time,
Padre Pio made the suggestion to him that he should remarry.
As Giuseppe was leaving, Padre Pio said to him, “I hope that you come back to San Giovanni Rotondo again.
As far as the question of a remarriage is concerned, you will see that I am right.”
Six years later, Giuseppe met a woman named Maria Grazia. Maria told Giuseppe about a dream she once had about Padre Pio.
In her dream, Padre Pio told her that she should marry.
She explained to Padre Pio that she had decided not to marry and told him that she felt called to another mission.
“Marriage too is a mission,” Padre Pio said to her.
“If marriage is a mission, then make it work out for me,” Maria replied. Then she woke up.
Giuseppe and Maria fell in love and when Giuseppe proposed marriage to her, Maria happily accepted.
After the wedding, Giuseppe and his new bride made a trip to San Giovanni Rotondo to see Padre Pio and to tell him the good news.


聖母子への祈り




2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 


2012年1月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



アイヌの「お産ばあちゃん」

写真は、アイヌの青木愛子さん(1914年〜1995年)の左手です。青木さんは、古代から継承

されてきた産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そしてウエインカラ(何で

も見える千里眼)を通してシャーマン的な役割を担ってきた方です。愛子さんのウエインカラ

は、初対面の人と対座した時だけでなく、電話の相手でもその人の過去と未来がわかる特

殊な力を持っていました。



同じく沖縄・奄美には現在でもシャーマンがいます。沖縄では「ユタ」(殆ど女性です)と呼ば

れていますが、例外なく全ての「ユタ」が出来るならユタにはなりたくなかった、と話されてい

ることは共通しています。それはユタが犠牲と奉仕に貫かれた生活を送ることを小さい頃か

ら見て知っていたからです。「ユタ」として神から召し出される人(自分の意思や世襲ではなく、

文字通り神のお告げを受け入れた人)にも、人には見えないものが見える千里眼を持つよ

うになります。



キリスト教ではアッシジの聖フランシスコが有名ですが、聖痕(イエス・キリストが磔刑となっ

た際についたとされる両手両足、脇腹の傷)を受けた人であり、千里眼を持つ人としても知

られたピオ神父(1887年〜1968年)がいます。ピオ神父は見ず知らずの人の過去や未来を

的確に言い当てただけでなく、二箇所同時に存在することや学んでいない外国語を話すこと

が出来、ヨハネ・パウロ二世から462番目の聖人に列聖されたのは死後34年経った2002年

のことでした。



このように宗教を問わず、千里眼の能力を授かった方は世界には沢山いることでしょう。私

もこんな能力があったらどんなにいいかなと内心思ったことはあります。一つの優越感みた

いなものをそこに感じたからでしょうね。でも冷静に考えると、この能力を持つことには大い

なる責任と義務も併せもたなければならないことを意味しているのではないかと思います。

そう考えると私にはとても耐えられそうにもないので「普通の人間で良かった」と感じますし、

一人一人違った形の「召し出し」があるのかも知れません。



一方、千里眼など不思議な能力、神からの授かりもの(そうでない場合もあります)としての

この能力を、自らの訓練によって自らの力によって勝ち取ろうと思う人も出てくるかも知れま

せん。多くの新興宗教の教祖がその部類に入るのではと思います。



この態度の本質を、ダライラマ14世も高く評価している、アレクサンドラ女史による「チベット

魔法の書」の中に紹介された一つの逸話が的確に言い当てているので紹介します。



「あるとき、釈迦が弟子たちを連れて旅をしていたとき、森の奥に佇む小屋の中に、一人の

疲れ果てた顔のヨギをみた。釈迦は立ち止まり、行をやって何年になるのかと尋ねた。『二

十五年になります』『そんなに長いこと苦行をして何を得たのか ? 』行者は得意気に答えた。

『水の上を歩いて川を歩いて渡れるようになりました』『哀れな人だ』と釈迦は同情の声をか

けた。『そのようなつまらないことに幾歳月も費やしてきたのか。小銭一枚出せば、船頭がす

ぐさま向こう岸まで運んでくれるだろうに』」



アイヌの青木愛子さん、沖縄・奄美のシャーマン、ピオ神父に共通していること。それは犠牲

と奉仕、そして「謙遜」ではないかと感じています。どんな超能力や奇跡(前にも申しましたよ

うに全て神からの授かりものとは限らないと思います)を行うことが出来ても、謙遜がないと

ころには、全てその意味を失ってしまうどころか、誤った道へと誘う主体者へと変貌していく

のではと思います。使徒パウロは別の表現でこう言っています。「たとい私が、人間と天使の

ことばを話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響きわたるどらにひとしい。たとい私が、預言

の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛が

なければ、無にひとしい。たとい私が、すべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、

愛がなければ、益するところがない。」



うーん、こんな偉そうなことを書いても運転中にゆっくり前を走る車がいると、独り言で「わが、

なんばしょっとか、トロトロ走りやがって、いてもうたろうか」と九州弁と関西弁が喧嘩し合い

完全に自分を見失っている、いや本来の僕が出てきますしね。「はぁー、なんとか穏やかに

せんとといけんばってん、むずかしかでごわす」であります。まあ僕の日常が全てこんな調子

ですので、僕がどんなに美辞麗句を並べても、ほどほど聞き流すのが無難なところかと思い

ます。



アイヌのお産おばあちゃん、青木愛子さんの言葉を聞きとった方が本の中で次のように記し

ていますが、最後にこの言葉を紹介して終わりにしたいと思います。



「一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人

が多い。何も見えないほど暗い人もある。明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に

対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、

無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているか

どうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。」



皆様にとって、そして世界の人にとって、2012年が平和と調和の道を歩むことが出来ますよ

うに願っています。



(K.K)


 







エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

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