Vasari's Biography of Michelangelo より引用

エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像



Saint Mary Lake at Sunrise Glacier National Park Montana



「悪とはたんなる何かの欠如ではありません。現実に力を持つ生きた霊的存在

 であり、異常で邪悪なものです。恐るべき現実です。つかみどころがなく、怖ろし

 いものです。このような現実の存在を否定したり、ほかの生き物とは違って神と

 は無関係な存在だと見なしたり、原因のわからない災厄を擬人化した想像上の

 存在にすぎないと考えるのは、聖書や教会の教えとはまったく正反対のことな

 のです。」


 1972年、第二バチカン公会議の後半を監督した教皇パウロ六世の言葉






「悪魔との戦いは・・・・現在でもまだつづいています。悪魔はまだ生きており、

 この世界で活動しているのです。現代のわれわれを取り巻く悪や、社会に蔓延

 する混乱、人間の不調和と衰弱は、すべてが原罪ゆえのものではなく、サタン

 がのさばって暗い行ないをしている結果でもあるのです」



 1987年、聖ミカエルの聖所を訪れたヨハネ・パウロ二世の言葉で、教皇在任中

 に少なくとも三回の悪魔祓いを執り行なったと伝えられている。



上の言葉は「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウィルキンソン著より引用

 




『ローマ典礼儀礼書』における悪魔祓いの正式な規則

○エクソシストはどんな場合でも、自分のところにやってきた信者がほんとう

に悪魔に憑かれているのか、それともたんに妄想をいだいているだけなのか

を見極めなければならない。それぞれのケースについて、その者が病気でな

いか、とくに精神性の疾患でないかを注意深く検討しなければならない。



○任務を引き受ける司祭は、清廉潔白な生活を送っており、知的で、勇気が

あり、謙虚であるべきだ。とくに重要なのは祈祷と断食である。



○悪魔祓いは、教会の規定に則って行なわなければならない。迷信じみた儀

式はどんなものも避けるべきである。



○憑依された者にその能力がある場合には、祈祷、断食、告解、聖体拝領に

よる悪魔祓いをしたいという気持ちにさせなければならない。



○悪魔祓いは、礼拝堂、教会、もしくは教会内の礼拝用の小部屋で、できるな

らば少人数で行なわれるべきである。十字架、マリア像を備える。両親、友

人、その信者を精神的に導いている者が儀式に参加することは、エクソシス

トが力を得るうえで重要だ。



○儀式は聖水の散布によってはじまる。悪魔に憑かれた者は苦しみだす。エク

ソシストは、苦しむその者に十字架を掲げる。悪魔の排除が一度で達成され

ない場合、必要ならば儀式を何度かくりかえし行なわなければならない。



○エクソシストはカソック、サープリス、紫色の頸垂帯を着用する。


「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウィルキンソン著より引用


 



アッシジの聖フランシスコ

「フランシスコは仲間と、その塔の中に引きこもった。夜のとばりが降り、彼が
寝ようとしていると、悪魔たちがやって来て、彼を棒で殴打した。フランシスコ
は仲間を呼んで言った、『兄弟、悪魔たちがわたしをひどく叩きました。一人
でいるのが怖いので、傍に居てください』。兄弟たちは、その夜はずっと、まる
で熱に浮かされたように体を震わせているフランシスコの傍に残り、夜通し
眠らず過ごした」。

ラ・ヴェルナに滞在中にも同様のことが起こっています。『ペルージャ伝』から
引用しましょう。

「この小部屋で彼は、多くの喜びを享受していたが、この同じ仲間に彼が語っ
たように、夜になると悪魔たちが、彼を非常に悩ませていた。ある時、彼は、
『悪魔たちが、どれほどの苦しみをわたしに与えているか兄弟たちが知った
ら、彼らはみんな、わたしを哀れに思い、すごく同情するでしょう』、と彼に打
ち明けたのである」。

フランシスコの歩みに立ちはだかる執拗で精気に満ちた悪魔の存在を認める
ことは、フランシスコにとって特別なことではありませんでした。なぜならフラン
シスコは悪魔の存在を現実のものと信じていたからです。しかし同時に、悪魔
の襲来に遭遇した時には(その結果としてでしょうか)神から見放された時に
感じる以上のひどい苦しみに打ちひしがれたのでした。何日も何日も、山のよ
うに分厚い鉛の壁の間に閉じ込められたようになっていました。祈ってもその
牢獄の戸を突破できなかったのです。


「聖フランシスコとその時代」ベラルド・ロッシ著より引用







Padre Pio(1887〜1968)


ピオ神父

ピオ神父の死の直前まで、悪魔の攻撃は続いた。八十歳の時、神父はひどく
衰弱し、寝返りを打つことさえできなかった。起き上がる時も、肘掛椅子に座
る時も、手助けが必要であった。しかしいつものようにロザリオの祈りをしな
がら椅子に座っていると、突然椅子からはねとばされて、床の上に投げ出さ
れるのだった。同僚は述懐する、「或朝、オノラト神父と私がコーヒーを飲み
に一階へ降りて行きました。ピオ神父は肘掛け椅子に座って居たし、その肘
掛けにはブザーがついていました。助けを呼ぶために、神父はブザーを押す
だけで良かったのです。すべて順調でした。五分後に、オノラト神父が戻って
行くと、ピオ神父が、『助けて! 助けて!』と声高に哀願しているのが聞こえ
て来ました。オノラト神父は部屋に走って行くと、ピオ神父は、なぐられ、あざ
だらけになって、床の上でもがいていました。」

「ピオ神父の生涯」より引用






ピオ神父が悪魔たちに攻撃された後、現れた天使が語った言葉

「ゴルゴダの険しい上り坂に従って行くために選ばれたことを、イエズスに
感謝しなさい。イエズスが命じて、私に世話をさせている霊魂よ、あなたに
対するイエズスの態度を喜びと深い感動で見つめています。あなたがこの
ように(悪魔により)いじめらるのを見ないで私が幸せになれると、あなたに
は考えられますか? 聖なる愛徳においてあなたの福祉を心から願う私
は、このような状態にあるあなたを見て、もっともっと喜びます。イエズスが
悪魔のこの攻撃を許されたのは、イエズスの同情があなたをもっと親愛な
者とし、荒野、ゲッセマネの庭や十字架上で拷問された御自身に似る者に
したいと思われるからです」


「ピオ神父と守護の天使」より引用

 




Roman Catholic Pope Leo XIII
Gioacchino Vincenzo Pecci
[Wednesday, February 20, 1878 - Monday, July 20, 1903]



聖ミカエルに対する祈り(文語体)

レオ十三世の作)


大天使聖ミカエル、

戦いにおいてわれらを護り、

悪魔の兇悪なる謀計に勝たしめ給え。

天主の彼に命を下し給わんことを伏して願い奉る。

ああ天軍の総帥、霊魂を損なわんとて

この世を徘徊するサタン及びその他の悪魔を、

天主の御力によりて地獄に閉じ込め給え。

アーメン。






各文献の前のをクリックすると表紙・目次並びに引用文が出ます。

   

「あくまとのインタビュー」 
    ドミニコ・モンドローネ神父 世のひかり社

決してなかったといってもいいほどです。わたしの体のなかに入って
きたあいつが、
みんな自分でやっていたんです。たしかに、そうです、
わたしに無理にそのことをさせ
ていたんです。その間、わたしはひじょ
うに苦しんでいました。誰かが、わたしの骨を
砕こうとでもするみたいで
したし、そうかと思うと、わたしを窒息させようとし、あるとき
は、わたし
の中から火がもえ出すような感じでした。こんなふうに、あいつはわたし
中であばれまわったのです。あの神父さまが祈りつかれて、止める
か、あるいは、聖
水を使わないで出かけていくときだけ、わたしはおち
つきました。わたしとしては、わ
たしの中にいるあいつが、わたしの大敵
だと分かっているのに、“あくまばらい”のあ
の神父さまが家に来るのを
望んでいなかったのです。それでわたしは、大声をあげ
て、“そいつを
入れるな、入れるな、決して入れてはならない”とくりかえしていたので

す。あいつはまた、わたしの中で、かれのことを豚といい、“あの豚が
帰った最後、わ
たしはおまえを殺して、連れて行くぞ”とおどしていまし
た。大学の同級生のひとり
が、この“あくまばらい”に何回も立ちあって
いました。かの女は、あとで、そのときの
ことをこう話してくれたのです。
“あのときのあなたの顔の恐ろしかったこと! まる
で野獣みたいでし
た。あなたは、もうれつに体をくぬらせ、暗い目をしていましたよ、
そし
て何をみているのか分からないほど空をさまよい、白い目をむいて、と
ても恐
かったわ”と。あのときに、わたしがはいた言葉ほど、ひどい言葉
はなかったといい
ます。それに、わたしは、釘や鉄の破片、かみの毛の
からんだ塊のようなもの、
割れたガラスの破片まで、吐き出し、不思議
にも口は傷つかず血を流すことがな
かったといいます。ある日、あの
神父さんが、この野獣に命令をくだしました。
“なぜわたしをみただけで、
それに祈りをとなえるのを聞いただけで、そんなにあば
れるのか、さあ
答えろ” そのときの返答を、わたしもよく聞くことができました。
“わたし
は、この人のなかに、自分の家にいるかのようにしていたいからだ。わ
しは、ここに、かくれていたいんだよ、それなのに、あなたは、わたし
をあかるみ
に出そうとするではないか。まさにわたしのしたくないことだ。
わたしは、知られた
くないんだ、あなたの命令なんか従いたくないよ、も
う、いいかげん出てうせろ、
豚め! いつか復讐をするぞ、かならずする
からな”と。ほんとうに、あの神父様
は、あれからまもなく、もう少しで奇妙
な自動車事故にあるところでしたが、やっと
のことで九死に一生を得たそ
うです。ああ、なんと苦しみにみちた三年間だった
ことでしょう。あの神父
様は、ついにわたしを救うのに成功しました。あのときの
ことを、わたしは
何一つおぼえてはいませんでした。ただ感じていたのは、たい
へんな疲れ
だけでした」。
(本書より引用)

 
 
 

「エクソシストとの対話」 
    島村菜津著 小学館 
    21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作

はたしてエクソシストとは何者なのか? エクソシズムは、日本人の私
が密かに思い
描いてきたような、悲愴で病的な印象を与えるものではな
かった。それはむしろ、驚く
ほど厳格な形式を持った宗教儀式だった。
もし、誰かに、"悪魔憑き”というのは、やっ
ぱり今でいう精神病なんでしょ
うねと聞かれたならば、いまの私は即座にちがうと答え
るだろう。彼らの
多くは、エクソシズムという儀式のもとでだけ別人のように変貌し、後

何とか日常生活をこなしているからだ。ヴァティカンが公式エクソシストの
活動を認知
するのは、そこに、天からの聖なる力が、司祭を媒介として、
地上の悪に苛まれる人間
の身体と魂を癒すという信仰に基づいている。
一方、イタリアの心理学者は、長い年月
をかけて練り上げられてきたエク
ソシズムの形式には、科学ではまだよく解明されてい
ない、病と心が癒さ
れるプロセスの謎が隠されているのだと目を輝かせた。エクソシズム

儀式の核になっているのは、一つには、司祭による"憑依した者”の尋問
である。この
やりとりは、悪魔という名の人生に襲いかかる不条理な悪と
個人とのドラマを紡ぎ出して
ゆく作業だともいえる。そして二つめの特徴
は、エクソシズム中にトランス状態に入った
相談者たちが吠え、唸り、身
を捩じって、獣めくことだ。中には、"憑いた者”が語り出さ
ないケースも、
対話など成立しないケースもある。だが、そんな場合でも大なり小なり

共通しているのは、この相談者の変化である。その動きは、見ようによっ
ては、だだを
こねる乳児のようでもある。言語を超えた身体表現とでもい
おうか、その奇妙な動き自
体がカタルシスをもたらし、精神活動に何らか
の影響を及ぼす。それは理性の目には
異様に映るが、現代社会の中で
ぎこちない反復的な動きを強いられている人間という
動物には、案外、
本質的な変容なのかもしれないと、いまの私にはそう思える。イタリアの
心理学者たちは、このエクソシズム中の"悪魔憑き”たちのトランス状態
を、世界中のシャーマンのそれに喩えた。エクソシストは、ラテン語で唱え
られる祈りの反復する単調なリズム、額への按手というスキンシップ、
聖水や十字架というアニミステックな装置を使って、彼らをトランス状態へ
と導いてゆく。すると、"悪魔憑き”たちは、トランス状態に入り、別世界
を旅するシャーマンのごとく、地獄行きを決行する。口を広げた恐怖の
淵、混沌の底に身を浸し、そこから這い上がってくる。90年代に脚光を
浴びているのは、このいわば「癒しとしてのエクソシズム」である。通って
くる人々の中にも、精神科や心理カウンセラーや内科を訪れても、思わ
しくない結果が得られない、原因も名称も曖昧な、現代病を抱える人が
増えている。ならば、エクソシストたちが世に問い続ける悪魔や悪霊と呼
ばれる「目に見えない存在」に、私はどれだけ近づくことができたのか。
残念ながら数年の取材では、何らかの答えを出せるには至らなかった。
カンディド神父は、それをどう考えていたのだろう。アモルス神父の本に
寄せた前書きで、神父はこう訴えている。「なぜ知性を有する目に見え
ない外的存在が、我々に影響を及ぼしうるかもしれないということを研究
する人は少ないのだろう」 一人のエクソシストがこつこつと40年間の
歳月をかけて行き着いた地平は、私にはまだまだ遠かった。私は、一人
のエクソシストの秘められた生涯のほんの断片を垣間見たに過ぎない。
だが、その断片の輝きは、数々の癒しやミステリアスな現象にもまして、
厳しい信仰と清貧を貫き、他者のために自らを消耗し尽くしたひとりの
宗教者の精神力に支えられていた。(本書 エピローグ より引用)

 
 
 

 「バチカン・エクソシスト」
    LAタイムズ ローマ支局長 トレイシー・ウィルキンソン著 
    矢口誠 訳 文芸春秋


ローマ・カトリック教会のお膝元であるイタリアで悪魔憑きが急増? 
しかも、あの
バチカンエクソシストを育成している? これはよくある
「闇に隠されたバチカンの秘密」などといった
タイプの陰謀説めいな話
ではない。一般にも公開されているまぎれもない事実だ。それでい
て、
わたしたちは現代における悪魔祓いの実態などはほとんどなにも知ら
ない。下手をすれ
ばカトリック教会のイメージダウンにもつながりかね
ない前時代的ともいえる儀式を、なぜバ
チカンは公認しているのか? 
そんな疑問に答えてくれるのが、本書『バチカン・エクソシスト』
である。

本書の著者トレイシー・ウィルキンソンはUPI通信記者を経て《ロサンゼ
ルス・タイムズ》の記者
となり、現在では同紙イタリア支局の支局長を務
めている。もともとはユーゴスラビア紛争関連
の記事をおもにあつかって
いた人で、ボスニアやコソボでの優れた活動が認められ、ジャーナ
リズ
ム界で権威があるとされるポルク賞を受賞しているという。このウィルキ
ンソンも、2005年
に教皇庁立レジーナ・アポストロール大学でエクソシスト
講座が開かれたニュースに興味を持っ
たひとりだったらしい。彼女は
実際にイタリアに住んでいるというメリットを生かし、長年にわたっ
て築き
あげてきた人脈と旺盛な取材力を駆使して、ジャーナリスティックな視点
から本書を書き
あげた。

しかし、なんといっても本書の最大の読みどころは、著者が実際に取材
したエクソシストや悪魔
憑きの犠牲者たちのエピソードが語られる部分
にある。ひとことでエクソシストといっても、その
活動ぶりはじつにさまざ
まだ。なかにはなかばいやいや使命を果たしている者もいるし、カルト

宗教すれすれの活動を行なっている者もいる。これとおなじことは、
悪魔憑きの犠牲者にもいえ
る。驚くのは、犠牲者のなかに現代科学を
信奉している現役の医師までもがいることだ。著者の
ウィルキンソンは
そうした人々に密着取材を行ない、彼らの偽らざる本音を引きだすと
同時に、
心の奥に隠された闇を解き明かしていく。その過程はじつに
スリリングであり、実話ならではの
迫力に満ちている。

(本書より抜粋引用)

 









「エミリー・ローズ」 DVD 



1976年、西ドイツ(バイエルン)で起きた事件を元にした映画。左下の
写真が
Anneliese Michel(アンネリーゼ・ミシェル)で1976年7月1日に
他界する。死因
は餓死寸前の栄養失調状態。彼女は1952年生まれだ
が、68年に原因不明
の震えや悪魔と思われる幻聴が始まる。両親と
司祭により2回教会に悪魔祓い
の要請をするが、証拠がないため却下
される。1975年、ようやく教会も許可を
だし、2名の司祭による悪魔祓い
が行われる。その結果、複数の悪魔に憑かれ
ており、その一人は外国
語訛りで話、自分をヒトラーを呼び、この声は録音され
裁判で証拠として
使われたそうです。映画は実際のものとは少し違いますが、
自分を犠牲
にして苦しみに耐えた崇高な魂がそこにはありました。
(K.K)


1976年にドイツで発生した保護責任者遺棄致死事件を題材に製作さ
れた。この事件は、ドイツ人のアンネリーゼ・ミシェルが病気と診断され、
長年治療していたが改善する気配無く、その後の異常行動からカトリッ
ク教会教区より正式に「悪魔憑き」と判断され、悪魔祓い(エクソシズム)
を実施中に栄養失調等で彼女が死亡したため、裁判となった事件であ
る。悪魔祓いの様子が写真や録音で詳に残っていたこと、その後、神父
が法廷で裁かれ、悪霊の仕業であるか、精神病であったのか(医療ミス
の可能性も内包)が、法廷の論争となった事。さらに、悪魔祓いの様子
が一部(海外)TV番組や、インターネットなどで公開された事。さらに、
この少女が美人で敬虔なるクリスチャンであった事などから、世間の
注目を浴びた。なお、Annelise Michelは、ドイツ語読みだと「アンネリーゼ
 ミヒャエル」だが英語読みだと「エミリーローズ ミッシェル」である。
日本での『エミリー・ローズ』の宣伝CMを見て、多くの人々が『エクソシス
ト』系のオカルトホラー映画だと認識させられたが、大半の場面は法廷
劇である。

ウィキペディアより引用)


下の映像は、実際のAnneliese Michel(アンネリーゼ・ミシェル)の写真
 と声を記録編集したものです。



 


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)作

「聖テレジアの法悦」(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂)

ベルニーニはこの礼拝堂の全てを設計したが、この「聖テレジアの法悦」もその中の一つで

聖テレジアに神の光が注ぎ、天使とテレジアを包み込んでいる姿を描いた。





「霊魂の城・・・神の住い」 アビラの聖女テレサ 聖母文庫より以下抜粋引用



第五の理由、それは神からの御言葉とともに、私にはどうしてだか分かりませんが、しばしば言葉を超えたことを霊魂は悟らされる

のです。このような照らしの方法については、他のところでももっと詳しく話しましょう。それは大変崇高で、そして霊魂を私たちの主

への讃美に導きます。なぜなら、ある人たち、殊にこれを体験した人、そしてその他の人たちも、こうした理解の仕方や言葉の相異

について、大変疑問を抱き、どうにも納得できずにいました。この人(おそらく聖女自身)は、主からこうした思想をあまりに度々いた

だいていたので、細心の注意を払ってそのことを観察したのを私は知っています。彼女が初めのころ一番疑ったのは、それが想像

からくる錯角ではないかということでした。悪魔からのものならば、もっと早くそうと分かります。とはいえ、悪魔は実に巧妙に光の霊

を偽装することができますが、私の考えでは、それはただ、言葉についてだけのように思われます。つまり、悪魔の言葉はひじょうに

明瞭でまるで真理の霊に話しかけられたように、本当によく分かるということです。けれども、悪魔は前に述べた効果を偽造すること

はできないでしょうし、霊魂内にあの平安も光も残すことができないでしょう。それどころか、不安と騒ぎが残るのです。でも、もし

霊魂が謙虚で、私が前に述べた通り、たとえ何を聞いたにせよ、何も行動に移そうとしないならば、悪魔はほとんど、いいえ、

まったく害を与えることができないのです。



もし主から恩恵や慰めをいただいたなら、それゆえ自分が優れていると考えたりしないかどうか、気をつけて観察しなさい。そして、

慰めの言葉が大きくなればなるほど、より当惑するようでなければ、それは神の霊からのものではないと信じるべきです。なぜなら、

もしそれが神からのものならば、いただく恩恵が大きければ大きいほど、霊魂は自分がますますはかない存在に思われ、自分の

罪はより強く思い起こされ、自分の姿は前にもまして忘れ去るのは確かにことだからです。霊魂は自分の利益を顧みず、意志も

記憶もただひたすら神の栄誉を求めることに努め、少しでも神の御意志から逸れることを恐れる心が強くなり、そして、霊魂は

こうした恩恵に決して相応しくなく、むしろ地獄にこそ相応しいという思いが激しくなるのです。祈りのうちに受けるあらゆる体験や

恩恵がこうした効果を生じさせるならば、霊魂は何も恐れることはありません。ただ主の御あわれみに信頼すべきです。忠実で

おいでになる主は、悪魔が霊魂を欺かれるのをお許しにならないでしょう。とはいえ、いつも恐れの心を保ちつつ歩むのはよい

ことです。



(第六の住い)






私は度々次のように考えました。空にある太陽は、その光線がひじょうに強いため、太陽は空にとどまっているままで、光線は

一瞬のうちに地上にとどいてしまいます。太陽と光線が一つであると同様に、一つである霊魂と精神は自分のいる場所にとどまり

ながら、正義の真の太陽からくる熱の力で何らかの高貴な部分が自分自身から飛び出すのではなかろうかと。結局、私は自分

の言っていることが分かっていません。ただ、私に分かることは、火縄銃に火をつけたとき、弾丸の飛び出すあの速さで、霊魂

の内部に一つの飛翔・・・私は他に何と呼んだらよいか分かりません・・・が行われます。それは、音はしませんが、あまりに

はっきりした動きなので決して錯角ではありえません。そして、霊魂が自己超越の状態にあるとき、霊魂に分かる限りにおいて、

偉大なことが示されます。霊魂が我に帰ったとき、霊魂はこの上もなく大きな益で満たされているので、自分の見たものと比べ

たら、塵にしか見えないこの世のあらゆるものをまったく空しく感じます。それ以降は、この世に生きることは大きな苦しみと

なり、前にはいつも楽しみを与えてくれたものを見ても、もはやそこには何の興味も見出せないのです。イスラエルの民が、

約束の地に送った使者たちが、その土地の様子を示す証拠を持ち帰ったように(民数記13・18〜24)、主も霊魂にその

行くべき国の幾らかでも示そうとお思いになったかのようです。それは、自分がどこに安らぎを見出しにいくのかを知ることに

よって、大変骨の折れるこの旅の労苦を霊魂が耐え忍ぶためなのです。このような一瞬のうちに過ぎてしまうことは、大した

益にはならないとあなたがたは思うかもしれませんが、それが霊魂に残す益はきわめて大きく、体験したことのある人でなけれ

ば、その価値を理解できないでしょう。



このことによって、悪魔の仕業でないことがよく分かります。また、自分の想像のせいにすることも不可能です。悪魔は、これ

ほどの効果、平和、安らぎ、利益を霊魂内に生じさせることはできませんし、殊に次の三つのことをひじょうに高い状態で霊魂

に示すことはできないでしょう。その一つは神の偉大さの認識です。神の偉大さについて多くを見れば見るほど、ますますよく

分かるようになります。第二に自己認識と謙遜です。あれほどの偉大な栄光に満ち満ちた創造主に比べれば、あまりに卑しい

この自分が大胆にも主に背き、そしてなおも主を仰ぎ見ようとしているのを知り、へりくだるのです。第三は、この偉大な主へ

の御奉仕に役立たない限り、この世のあらゆるものに対する執着の空しさを悟ることです。



(第六の住い)


 
 




聖ミカエルに対する祈り

レオ十三世の作


大天使聖ミカエルよ、

戦いにおいて、わたしたちを守り、

悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。

神がかれに命じてくださいますよう、伏してお願いします。

ああ、天軍の総師よ、

霊魂をそこなおうとして、

この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、

神のおん力によって地獄にとじこめてください。

アーメン。




浅田カトリック教会にて 1996年7月5日撮影




2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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