祈りの翼


Teresa van Avila (28 maart 1515 Avila ? 4 oktober 1582 Alba de Tormes (Sp))


St Teresa of Avila | Catholic Mystics, Visionaries, Stigmatist and the Miraculous | Pinterest

上の画像はフランスの新古典派の画家、フランソワ・ジェラールが

1819年から1820年にかけて描かれた「聖テレサ」である。





アビラの聖テレサ(洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)

イエズスのテレジア(Teresa de Jesus)、大テレジア、アヴィラの聖テレサ とも呼ばれている。

聖テレジア(アビラ)おとめ教会博士 1515 3/28−1582 10/4 1622年列聖

1515年、スペインのカスチリア洲アビラ市に生まれ。12歳のとき母親を亡くし、14歳のとき

アウグスチノ女子修道院にあずけられたが、健康を害し父親のところに戻る。19歳のとき、

高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩

慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問

などに襲われる。しかしこの苦しみを通して、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の

深い神秘の体験をすることになる。1562年本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」

をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めたが、改革を喜ばない他

の修道女から攻撃を受け宗教裁判にかけられ投獄される。しかし、十字架の聖ヨハネなどの

援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀における

カトリック教会改革の原動力ともなった。シエナのカタリナ、幼きイエズスの聖テレジアととも

に、女性としてはただ3人の教会博士の中に数えられ、1582年10月67歳で亡くなる。

(この紹介文は「完徳の道」「霊魂の城」並びに“Laudate”などの文を参考にしています)



アビラの聖女テレサとチェス

アビラの聖女テレサの詩






「霊魂の城・・・神の住い」 アビラの聖女テレサ 聖母文庫より以下抜粋引用


アビラの聖女テレサの『霊魂の城・・・神の住い』に寄せて

「霊に生きる人々の母」・・・アビラの聖女テレサ

鈴木宣明



ローマの・サン・ピエトロ大聖堂に入ると、この大バジリカを支えている数多くの柱がどっしりと立っている。その一本の

柱に、聖女テレサ像が飾られており、そこに「霊に生きる人々の母(マーテル・スピリトゥアリュム)」と刻まれているが、

この言葉は端的に聖女テレサの人生イメージを表していると言えよう。



聖女テレサ(1515年〜82年)は、「アビラの聖女テレサ」、「イエスの聖女テレサ」または「聖女大テレサ」などと敬愛され

てきているキリスト教神秘家、女子カルメル会改革者である。彼女がこの世に生を享けたのは、大航海時代、ルネッサ

ンス・ヒューマニズム期、近代国家主義の主権確立期であった。聖女テレサの時代は、その誕生2年後にはマルティン・

ルターによって始まる宗教改革期、パラレルに発展したカトリック刷新・反宗教改革期、トリエント公会議が開催され、

新時代を告げる歴史的瞬間であった。第二次世界大戦後ロマノ・グァルディーニやカール・ラーナーが『近代の終末』を

説き、すでに21世紀へのキリスト教的希望を呼びかけた、その偉大な、そして不幸なヨーロッパ近代の開幕が聖女

テレサの世紀であった。16世紀こそ、多くの聖人たちが世界史における救済史を担った「聖人の世紀」であった。



第2ヴァチカン公会議は神への信仰・希望・愛の実践を全教会に新たに呼びかけた。教皇パウルス6世は1970年9月27日

アビラの聖女テレサに、10月4日シエナの聖女カタリナに、「教会博士」(ドクトラ・エクレシエ」の称号を贈り、全世界に神へ

の信仰・希望・愛の輝かしい模範を示したのである。サン・ピエトロで捧げられた、9月27日の式典ミサにおいて、教皇は

アビラの聖女テレサを「偉大な人格者、実に人間的な魅力ある人格者」と称賛しつつ、「上智のカリスマの女性」、「祈りの

神秘を体験し告げた女性」、「女性の使命を完成した女性」、「教会の娘として奉仕に献身した女性」という主旨をもって

彼女の教会史的意義を説いている。



聖女テレサの人生と教えは、特に「カトリック信仰の真理」に生きるカリスマ、その「神を愛し、人を愛する」カリスマに光り

輝いている。聖女テレサは祈りの神秘について現代のわれわれに語りかける。祈りは、聖女テレサの人生と教えの泉で

あり、目的であった。神の秘儀観想に捧げた全人生から、絶え間なく命を燃やした現実体験から、そして神のカリスマの

導きの下に苦しみかつ喜びをもって味わった祈りの自己体験から、祈りの神秘を悟ったことは、聖女テレサの香高い功徳

である。


(中略)


前述のように、聖女は霊的直感のうちに見たものを「霊魂の城・・・神の住い」の記述の基礎にしたのである。1577年6月

2日、三位一体の祝日、トレドのサン・ホセ修道院において書き始め、そして6月18日には原稿25枚、最初の「三つの住い」

を書き上げた。しばらく中断した後、同年夏頃の7月、アビラのサン・ホセ修道院に帰る旅行中に15枚を書き、11月初旬

再び筆をとり、1577年11月29日脱稿した。このように、2ヶ月間で、聖女はカトリック神秘霊性の最高傑作を完成し、あたか

も遺言の手紙のように後世に残したのである。



この本に、聖女テレサは「カスティリョ・インテリオール=内心の城」(既刊の邦訳では『霊魂の城』)または「ラス・モラダス=

住い」(すなわち『神の住い』の意)と表題を呼び添えた。城のような霊魂内の神の住いについてのイメージは早くから聖女

のファンタジーのうちに描かれていた。少女時代に愛読した騎士物語のイマジネーションや朝な夕な眺めて育ったアビラの

城壁は聖女の心を、捕らえていたにちがいない。「イエスはある村(=カステルム)にお入りになった」(ルカ10・38)。この

聖句について、聖女は親しく黙想していたという。また、1556年頃、聖女が愛読していた、フランシスコ会士ベルナルディノ・

デ・ラレド(1485頃〜1562)の「シオン山登攀」には、「神の住いはダイヤモンドや宝石で建てられた堅固な城のような義人

の内にある」と書かれている。さらにまた、1565年の霊的直感において、聖女は鏡の形の霊魂を見た。この鏡は光の球の

ようで、その輝きを美しく放ち、あたりをくまなく照らしている。そして、光の球の中心には、キリストが最高の美しさを湛えて

座っておられる。そのように、聖女は「自叙伝」や「完徳の道」において描写している。「この宮殿、この城こそ、あなたがた

の霊魂である。・・・霊魂が清らかな諸徳で飾られているなら、それと比べられるような美しい宮殿はない。・・・その内に、

栄光の主は住んでおられる」(『完徳の道』29章)。「霊魂の城・・・神の住い」を書き始める少し前に、一つの詩のなかで、

「エレス・ミ・カサ・イ・モラダ=あなたはわたしの家、私の住い)と聖女は歌っている。


(中略)


聖女テレサは人間の霊魂を栄光の王の城のイメージで描写する。この霊魂の城はクリスタルからなっており、神の光に

満たされて輝く。さらに、霊魂の城には7つの住いがあり、その6つの住いが栄光の主がおられる第7の住いを包んでいる。

この最も奥の住いにおいて、神と霊魂との親しい愛の一致が行われる。確かに聖女テレサは無神論の概念を知らなかった

が、しかし、人間のアイデンティティの喪失を知っていた。彼女は、人間、その霊魂の美しさを再発見した。



聖女テレサは、霊魂内の第7の住いから神の光があまねく輝き、すべての住いを照らしているのを直感する。真昼のように

赤々と霊魂内の第6・第5・第4の住いを、夜明けのように第3・第2・第1の住いを柔らかく一重の光が包んでいる。



第1の住いにおいて、霊魂は自我の汚れを知り、主のへりくだりを畏れ、自我の無を実感する。霊魂はこの世のものに

魅かれ、神から遠く離れており、神の光に照らされていても神の親しい現存に気づいていない。



第2の住いにおいて、霊魂は神の呼びかけを聞き、この世のものにとらわれつつも、祈りをこめて光の神の呼びかけに

応じて神に自ら近づいていく、神もまた霊魂に親しく近づいてこられるのを体験する。



第3の住いにおいて、霊魂は神の御導きに従い、神でないものから離れ、愛の業に励み、神へと深まっていく。その霊魂

内に神の恩恵が豊かに働いている。



第4の住いにおいて、霊魂はその奥底に神の平和と甘美を実感し、神の恩恵が霊魂を満たし、霊魂内に神の現存が

溢れていく。



第5の住いにおいて、霊魂は完全に自我に死んで神だけを求め、神のみに生きるようになり、神を愛し神のために苦しむ

憧れが強く燃えつづけ、神は霊魂を親しく愛の一致へと引き入れてくださる。



第6の住いにいて、霊魂は神との絶え間ない愛の一致へと熱い憧れに燃え上がり、神による最後の清めを受けつつ、

神へと自己を超越していく。すなわち、「霊的婚約」の境地である。



第7の住いにおいて、太陽の光と輝きが一つであるように神と霊魂は一つになって、霊魂は神に満たされ、そして霊魂内

の神現存は一瞬意識されるだけでなく、絶え間なく意識されるようになる。それは、神と霊魂との、いわゆる「霊的結婚」の

境地である。



聖女テレサは神と霊魂との神秘的な愛の一致を、より強くイエスに従い、人々を愛するための「神からの瞬粋な贈りもの」

として感謝し讃美しつつ、人間の霊魂がどのように神秘に満ち、愛に光り輝くかを告げる。彼女自身が霊魂内の愛の神秘、

その美しさ、広さ、豊かさ、高さ、尊さを体験しているからである。聖女テレサは、人間がどこから来てどこへ行くのか、その

神の恩恵による人間実存を示す。彼女自身が「キリストとの友情体験」において、神は常により偉大な御者、より美しい

御者、より善なる御者、より真なる御者、より愛なる御者である神秘を体験しているからである。



1992年6月7日 聖霊降臨の祝日 上智大学研究室にて 鈴木宣明







「ミサの前に読む聖人伝」C.バリョヌェボ著 中央出版社 より引用


イエズスの聖テレジア(記念)




日本では戦国時代に当たる頃、テレジアは、スペイン中部のアビラで、12人兄弟の中の一人と

して生まれました。父親は服地を商う、信仰熱心な人でした。彼女は、幼い頃から、心が広く、

利発な、人気のある子どもでした。ある時、殉教者についての朗読を聞いて感激し、回教徒の

国に行って殉教したいと望み、兄をつれていっしょに家を出ましたが、幸か不幸か叔父と出会

い、連れ戻されました。また夜、ベッドで「天国の幸福はいつまでも終わることはない。地獄の

不幸も終わりがない」と自分に言い聞かせ、永遠なるものの重大さを悟ったといわれています。



少女時代には小説を読み、世間的な望むにかられたり、信仰の本を読んだり、シスターの姿を

見て修道女にあこがれたり、心は常に動揺しつづけました。20歳になった時、身体が砕けるよう

な反発を乗り越えて、やっとカルメル会に入会しました。その後、長い病のために入会時の熱も

さめ、「祈りをあまりせず、一日中おしゃべりで過ごし、霊的には冷淡な18年を過ごした」と彼女

は言っています。



けれでも神は、聖徳の道をより高く進むように力強く呼びかけ、聴罪司祭を通して導き、彼女は

再び熱心な信仰生活に戻りました。ある日、鞭打たれたキリストのご像を偶然見つけ、心臓が凍

りつくような痛みを感じ、その日からキリストへの忠誠を誓い、聖人への道を歩みはじめました。



彼女の神の特別な恵みは、その目でキリストをたびたび見るだけでなく、キリストの声を常に聞

き、神秘的な神との深く高い永続的な交わりを味わうということでした。その恵みによって、カル

メル会の改革の使命を、彼女の中に神は準備されたのでした。その使命とは、長い間にゆるん

だ規律を元に戻し、昔のように、非常に貧しく、厳しい祈りと苦行を中心とした姿に返って、跣足

カルメル会を創るということでした。



「多くの人が教会から離れたしまう時代ですから、キリストの少ない友だちである私たちは、真の

友だちでなければなりません」と彼女は言っています。このことばこそ、その改革の中心でした。

すなわち、この跣足カルメル会のシスターたちが、教会を守る人びとを祈りによって助けるという

ことが、彼女の望みでした。彼女はたくさんの困難、反対、迫害を乗り越えなければなりません

でしたが、20年の間に、スペインのあらゆる地方に17もの新しい修道院を造っていきました。そ

の一つの修道院にシスターが入居した時、どうしたことか食べ物がまったくありませんでした。そ

れでも彼女たちは落胆するどころか、夜中、空腹のまま笑って過ごしたことがありました。「悲し

い聖人は、つまらない聖人です」という彼女の考え方が、よくあらわれている話だと思います。



ところで、まもなく、カルメル会の改革は全世界へと広がっていきます。女子だけの小さな修道会

は、十字架の聖ヨハネを通して男子カルメル会の改革をも行ない、跣足カルメル会を生み、社会

に対して考えられないほどの影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック改革のひとつの原動力とも

なりました。そして今も、「鳩の家」と呼ばれる聖テレジアの修道院は全世界に広がり、1万5千人

のシスターが、熱心な信仰と愛の泉としての存在を確固たるものとしています。そのほかにも、

彼女の精神をもって宣教活動をする多くのシスターと、在俗会などがあります。



聖テレジアの生涯は、外部からの困難、苦労、犠牲、謙遜による十字架の道でしたが、勇敢に

これを克服し、神秘的体験を重ねていきました。「神を持っている人にとっては、他のものはいら

ない。神だけを持っていれば十分です」ということばが、彼女をよくあらわしていいます。彼女の

ように、神への熱心な愛を持つことができるよう祈りましょう。









「聖人たちの生涯 現代的聖者175名」池田敏男 著 中央出版社 より以下引用。


10月15日 アヴィラの聖テレジア


アヴィラの聖女テレジアは十字架の聖ヨハネと共に16世紀のスペインにおいて、カルメル会の神秘思想を樹立した。

その神秘生活では「神なきわれは無であり、われにとって神はいっさいである」という根本思想から出発し、被造物

から脱却して「自分の霊魂の根底において神と共に生き」、また「すべてにおいて神のおぼしめしを行なう」という

モットーを英雄的に実践した。



テレジアは1515年、スペインのアヴィラ市に生まれた。その両親は信心深い貴族で子女の教育に熱心だった。テレジア

は7歳のころから4つうえの兄ロデリコと共に読書好きの父親にもらった聖人伝をむさぼり読んだ。その影響で幼い

テレジアは近所の子どもと「修道院ごっこ」を好み、祈りや労働のまねをしたり、殉教者のように自分もみ教えのために

命をささげたいと思い、兄をさそって家を飛び出したりした。しかしそのときは幸い途中でおじに見つかり、家に連れ

戻された。



12歳のとき母を失った彼女は、母のいましめもないまま、周囲にちやほやされて目の欲、肉の欲にあこがれる心が

つき始めた。父親はこれを心配し、彼女が14歳のときアウグスチノ女子修道院に託して教育してもらった。



修院のきびしい知育、徳育の訓練を経てテレジアの心がけも大いに改まったが、まもなく健康を害し親もとに帰った。



その途中おじペトロに世間のはかなさをさとされ、また療養のかたわら聖ヒエロニモが聖女パウラや聖女オイストキウム

らに書き送った書簡を読んで修道女になろうと決心し、再三再四父に許可を願ったり、祈ったりしてようやく19歳の春に

アヴィラのカルメル会に入会した。



修練中、テレジアは病める修道女の看護を仕事にあてがわれた。その病気は誰もがいやがり、そばに近寄ることさえ

いやがるものだった。しかしテレジアはよくしんぼうしてけんお感に打ち勝ち、あいそよく病人を看護した。そのうえこの

病人の苦痛をへらすため「何かの十字架を与えたまえ」と祈った。



その願いは聞き入れられて、テレジアは3年間も病床にくぎづけにされ、全快後も病弱であった。これに加えて精神上の

苦悩にもだえた。それは高い理想をいだいてはいった修道院が、規則の弛緩と修道精神の低下ではなはだしく俗化して

いるという幻滅の悲哀と不満とであった。これと同時に霊的乾燥、念?に対するいやけ、信仰に関する疑惑などが次々

と彼女の魂を襲った。



このにがい体験で彼女は次の悟りを開いた。その一つはある日彼女が聖堂で祈っているあいだに、ふとイエズスのむち

打たれたもう場面の絵をながめて感動し、わが身の冷淡を深く恥じ入ったこと。



二つめはそのころ読んでいた聖アウグスチヌスの「告白録」にわが霊魂のあさましさを発見し、もっと熱心に修徳に努め

ねばならぬと痛感したことである。これが彼女の霊生の転機となり、、「魂の奥底で神と共に生きる」祈りと瞑想の深い

神秘に徹した。



テレジアの考えによれば、聖人になる道は自我の感情を喜ばす楽しみに道ではなく、自我の代わりにイエズスの精神を

いかす十字架の道である。



それでも彼女は「長時間の中にはわたくしどもでも聖人がたがついに獲得されるにいたったものを、神の御助けと自ら

の努力によって得られるということを確信します」と言って楽観的態度を示している。なおくわしいことはその著「霊魂の

城」にしるされている。



テレジアのたゆまぬ完徳への努力、神への全き自己奉献を神も深く喜びたもうたのであろう。イタリアの名彫刻家ベル

ニーニの製作した聖像に示されるように、神はある日天使をつかわして焼けた金の矢で彼女の心臓を貫かれた。それ

と同時に彼女は神に対する愛熱に燃えたつのをおぼえたという。



そのほかテレジアは、神のおぼしめしを受けて女子カルメル会の刷新に乗り出した。



長いあいが冷淡、不信心になれた多くの修道女らはこれを喜ばず、彼女に非難攻撃を浴びせた。その結果、彼女は

宗教裁判に訴えられ、骨身をけずる思いで書いた雅歌の注釈書は焼却を命ぜられ、身は幻想者、むほん人として投獄

された。しかし邪はついに正に勝たず、その改革は成功し、他の女子修道院はもとより男子修道院にも多大の影響を

与えた。



こうしてテレジアは苦業、犠牲、けんそんの十字架の道をあゆんで67歳を迎え、1582年、病気に倒れて幾度も「主よ、

わたくしは聖会の娘でございます」とくり返しつつなくなった。








「霊魂の城・・・神の住い」 アビラの聖女テレサ 聖母文庫より以下抜粋引用



このような黙想から二つのことを得ることができます。一つは、あたりまえのことですが、白いものは黒いものの傍らに置くと

ますます白く映えて見え、これとは反対に黒いものは白いものの側ではその黒さが際立つということです。二つには、私たち

が自分自身を知ると同時に神を知ることを努めるとき、私たちの知性と意志はいっそう高貴さをそなえられ、さらにあらゆる

善を行う力を与えられるようになるということです。これに反し、もし私たちがあわれさという、自分の泥から全然抜け出せず

にいるなら、このことを私たちにとても好ましくないものになります。先ほど大罪の状態にある霊魂から流れ出るものはきわ

めて黒くひどい悪臭を放つと述べました。このような状態から、主よ、私たちをお守りください。ここでも同様に、まったく同じ

というわけではありませんが、私はこの比喩を用いたいのです。私たちが常に自分の泥土のあわれさの中に沈みこんで

いる限り、私たちは決して恐怖・臆病・卑怯といった泥水から抜け出すことはないでしょう。たとえば、人が見ているか見て

いないかを気にかけたり、この道を行ったら何か悪いことが起こらないだろうかと心配したり、あの仕事を始めたものか

どうかを思い悩んだり、それは傲慢であるまいかと考えたり、自分のようなみじめなものがひじょうに崇高な祈りをしても

よいかと迷ったり、もし皆と同じ道を行かないならば人々から特別視されないだろうかと思ったりします。また、たとえ徳の

実行においても極端なことはよくない避けるべきであるとか、私はこんなに罪深いのだから高いところからいっそ落ちるだ

ろうとか、おそらくは途中で挫折して善良な人々に害を与えるだろうかとか、とにかく私のような人間は特別なことをすべき

ではないとかなどと考えたりしてしまいます。



おお、娘たちよ。悪魔はこのようにして多くの霊魂にどれほど大きな損失を与えたことでしょう。なぜなら、その人たちは

これらすべてのことを謙遜だと思い込んでいるからです。私は、これまで挙げてきたことの他にもまだ多くのことを述べる

ことができるでしょう。このように、私たちがいまだ正しく自己を認識するに至っていないところからきています。悪魔は

自己認識を歪めようとしているのです。もし私たちが自分自身から一歩も外に出ないでいるのなら、さらにもっとひどい

ことになってしまうのを、私は驚きません。ですから、娘たちよ、私たちは目を私たちの善きキリストに注いでいなければ

なりません。私たちはキリストの内に真の謙遜を学びます。そして諸聖人に私たちの目を注いでください。こうすることに

よって、前にも述べましたように、知性は高貴なものとなり、自己認識は私たちを卑しめたり、そして打つ砕かれたりしない

でしょう。自己認識は第一の住いであるとはいえ、もうすでに大変豊かで尊いのですから、この住いに入った人は、ここに

いる毒虫から逃れられればもっと進歩することができるでしょう。恐ろしいのは、悪魔が用いる巧妙な策略です。悪魔は

自己認識に至るのを妨げたり、そしてその進むべき道を失わせようとしています。



(第一の住い)





ここでは、もうすでに心の祈りを始め、第一の住いにとどまらないことが自分たちにとってどれだけ重要なのかを

悟った霊魂についてです。しかし、これらの霊魂は、多くの場合、世のとらわれの機会から離れていないので、第一

の住いを去る決心がまだしっかりつかないでいるのです。このことはひじょうに危険であり、そして神の大きな恩恵

でもあります。彼らは少なくとも少しの間、蛇や毒虫から逃れようと努め、それらを振り切ることはどんなによいこと

か、という考えを抱きます。ある観点において、このような霊魂は第一の住いの人たちよりずっと多く苦しまなけれ

ばならないのです。しかし、彼らには危険はそれほどありません。彼らは事態を理解しているように思えますし、さら

に城の奥深くへ入っていこうという大きな希望があるからです。彼らはもっと苦しまなければならない、と私が述べた

その理由は、第一の住いの人たちは言葉を話すこと、聞くことが不自由な人々のようだからです。聞こえないだけ

に、話せない苦しさは耐えやすくなります。ところが、耳が聞こえても話すことができない人にとっては、その苦しみ

を耐えるのはずっと大変であるからです。しかし、だからといって耳の聞こえないほうが望ましいとは、誰も決して

思いません。なぜなら、私たちが人の語ることを理解できることは、まことに大変有難いことだからです。そして、

ここの人たちは自分たちに対し主が繰り返して語りかけるその御呼びかけを聞きます。なぜなら、彼らは、いと高き

御者がお住いになるところにすでにどんどん近づいて、主が親しい隣人になっているからです。彼らはまだ自分の

慰め、仕事、喜び、そしてこの世のはかないことにとらわれています。また彼らは強い毒を持っており、近づくのは

危険だからです。それに、けものたちは騒がしく動きまわっており、それにつまづいてころばないのは不思議な

ことだからです。しかし、私たちの主の御あわれみと御いつくしみはひじょうに深いのです。私たちが主を愛し、

主と共に歩むように、主は私たちをたいせつにしてくださいます。ですから主は、私たちが主のもとに近づける

よう、私たちに繰り返し呼びかけ私たちが招いてくださるのをおやめにならないのです。それゆえ、哀れな霊魂

は主の御声に従えなくて悲しくなってしまいます。それだからこそ、私が述べたように、あわれな霊魂は主の御声

が聞こえないよりも、もっと苦しまなければならないのです。



(第一の住い)





ではここで、祈りにおける喜びと味わいの相異について語りましょう。喜びとは、私たちが黙想したり、主に

お願いしたりするときに感じる嬉しい気持ちをそう呼ぶことができると私は思います。これは、神の御助けが

そこに働くわけですが私たちの本性から生じるものです。神なしには、私たちは無力であるということを、私が

語るすべてにおいて悟らなければなりません。この喜びは、私たちの徳の行為そのものから生じ、私たちの

働きによって得たもののように思われます。確かに、徳の業を行うために自分自身を用いるなら、私たちは

当然喜びを感じるでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、このような喜びは、この世のいろいろな出来事から

も私たちは得ることができるでしょう。たとえば、突然大きな富が手に入るとか、急に私たちのこよなく愛する

人が姿を見せるとか、なにか重要な事態、たいせつなことに成功して皆から称賛されるとか、死んだと聞かさ

れた夫、兄弟、子供が生きて帰ってくるとか、いろいろな例があります。そして私は、こうしたことで、人が喜び

のあまり涙を流すのを見てきました。実はこの私も、そうした経験があります。これらの喜びが自然であるよう

に神的な事柄を通しての喜びもまた自然であるように私には思われます。地上の喜びもまた悪くはありません

が、ただ神的な事柄を通しての喜びは本質的により高貴さを持つのです。結局こうした喜びは、私たちの

本性そのものから始まり、神の内に終ります。一方味わいは、神から始まって、私たちの本性がそれを感じ

とり、前に述べた喜びと同じくらい、いいえ喜びよりずっと多く味わい楽しむのです。おお、イエス! 私は

このことについてはっきり説明できたらと、どんなに願っていることでしょう。私には、この二つの相異はとても

はっきりしているように思えるのですが、それを他の人に説明することはとてもできないのです。それゆえ、

どうか主が御説明くださいますように。


(中略)


今、このことを書きながら、私は前に引用した「ディラタスティ・コール・メウム・・・あなたは私の心を広くなさった

・・・」という詩篇の唱句について考えています。前に述べましたが、このような喜びは心から生じるのではなく、

他のところ、もっとずっと奥から、ある深みからでるような実感を私は抱いています。それは、霊魂の奥底に

あるに違いないと私は思います。これは後で分かったことですが、これについてはもっと後で話しましょう。

確かに、私は、しばしば私を驚かした諸々の神秘を自分自身の内に見るのです。さらにそこにどれほどの

神秘があることでしょう! おお、私の主よ、私の神よ、あなたの御業なんと偉大なことでしょう! ところが

私たちは愚かな牧童のようにこの世を歩きまわっています。私たちは、あなたについて何か理解している気

になっていますが、それは無に等しいに違いありません。なぜなら、私たち自身の内にさえ私たちが理解し

ていない素晴らしい諸々の神秘があるからです。私は「無に等しい」と申しましたが、それはあなたの内に

ある汲みつくすことができない豊かさと比べてという意味です。私たちは、表に現れるあなたの御業だけを

見ているに過ぎないのです。だからとって、あなたの栄光そのものが偉大でないということはないのです。



詩篇の唱句に戻りましょう。この言葉は、あの心の広がりを説明する助けになると私には思われます。前に

述べたこの泉の天の水が、私たちの霊魂の深みから湧き出ると、しだいに広がり、私たちの内面全体を

広々とし、そして霊魂になんとも言い表せないある恩恵をもたらすように思われます。その際、霊魂に贈ら

るものが何であるのかは、霊魂自身にすら悟ることができません。霊魂はあるかぐわしい芳香を味わいま

す。あたかもあの内面の奥底に、香り高い香料が撒かれたような炎があるかのように、とでも言いましょう

か。その炎は見られもしないし、またどこで燃えているかも見られません。でも炎の暖かさと香り高い漂い

が霊魂全体を深く包み、すでに述べたように、度々身体さえもそれに与ります。あなたがたは、どうか気を

つけて、私の言うことを理解してください。暖かさも香りも感じられないのです。あなたがたにこのことを理解

していただくために話していますが、それは感じられるものよりももっとデリケートなものなのです。まだこう

した体験のない人々は、それは真実そうである、ということを知るべきです。霊魂は、今私が述べている

よりずっと明らかにそのことを認識しているのです。これは、求めることのできるものではないのです。

なぜなら、私たちがどんなに努力しても、私たちはそれを得ることができないからです。この事実によって

も、それが私たちとは同質の金属ではなく、神の上智の、あの純粋きわまりない黄金であることが分かり

ます。このような状態では、霊魂の諸能力は、神と一致しているのではなく、神の内にうっとりと酔わされ、

そして一体それは何であるかと、ただ驚いて見ているばかりなのだと私には思われます。



(第四の住い)





さあ、娘たちよ! 急いでこの仕事に取りかかりましょう。自己愛や自己意思やこの世のあらゆるものに対する愛執を断って、

苦業・祈り・抑制・従順に献身し、そして私たちが知っているすべての善業を実践し、この小さな繭を造りましょう。私たちは、

なすべきことを、知っている通り、教えられた通りに実行しましょう。そして死にましょう。あの虫が自分の創造されたその目的

のために仕事を完成するとすぐ死ななければならないように。この無視も死んでしまいますように。そのときこそ、私たちは、

どのように私たちが神を見るか、そしてどのように私たちが神の偉大さの内に包まれているかを体験するでしょう。繭の中に

包まれている絹の虫のように、この繭の祈りの一致において神が御自分を意識させてくださる、という意味において、私たちは

「神を見る」と私は述べたのです。


(中略)


さて、私たちは、再び私たちの幼い蝶に戻り、この一致の状態で働く神の恩恵について、考えてみましょう。霊魂は主への奉仕と

自己認識において、進歩するよう努めているはずだと私たちはいつも了解しています。でも、もし霊魂がこの恩恵をいただくだけで

何もせず、安心しきって気を許した生活を送り、天国への道となる神の掟から逸れたりするようならば、あの虫から生まれた蝶と

同じ運命をたどることでしょう。蝶は、他の蝶が生まれるために種を残し、自分は永遠に死んでしまうのです。種を残すと私は

言いました。なぜなら、このように大きな恩恵は空しく与えられるのでなく、たとえ与えられた霊魂が自分自身のために恩恵を

役立たせることができないとしても、他の人々が恩恵を生かすことを神はお望みになると私は考えているからです。霊魂は前に

述べた望みや徳を持っているので、善のうちにとどまっている限り、いつも他の霊魂に益をもたらし、愛燃えによって暖かさを

彼らに分かち与えます。たとえこの愛燃えがもうすでに消えてしまっていても、霊魂は他の人々が進歩することを願い、そして

神を愛し神に奉仕する人々に与えられる恩恵について、彼らに知らせたいと願っています。


(中略)


この住いについてこれまでずいぶん述べてきたにもかかわらず、しかし、この住いにはまだ何か暗さが残っているような気が

私にはします。この住いに入れば、得るものはひじょうに大きいので、主からこのような超自然的恩恵をいただかない人々に、

この住いに至る希望が奪われていないことを知らせるのは、良いことでしょう。なぜなら、真の一致は、私たちの主の御助け

があれば至ることが十分可能であるからです。ただそのためには、私たちは自分の意思を放棄し、真剣に神の御意志と

私たちの意志との一致を目指して努力しなければなりません。おお、もう前にも述べたと思いますが、私たちの中で、いったい

幾人がこのこと口にし、神との一致の他は何も求めず、この真理のためには死ぬ覚悟であると思っていることでしょう! 私は

あなたがたに言います。何度でも繰り返して言います。あなたがたが主からこうした恩恵をいただいているのなら、前に述べた

あの甘美な一致を決して求めてはなりません。その一致(甘美な一致)の最も尊い点は私が今述べているこの一致(神の御

意志との一致)を源としているからです。私たちの意志が神の御意志としっかり一致していなければ、前に述べたあの状態に

達することはできません。おお、この神との一致こそ望むべきものなのです! そこに達した霊魂はなんと幸福でしょう。この

世でも天国でも平和の内に生きるでしょう。自分が神を失う何らかの危険な状態にあったり、神が背かれるのを見たりさえ

しなければ、この世のいかなる出来事も、病気や貧しさや死さえも、ただし神の教会に必要な人の死は別ですが、彼を苦し

めることはないでしょう。なぜなら、霊魂は、自分が願っていることを神が自分以上によくご存じであることをはっきり見ている

からです。



(第五の住い)





私たちにとってきわめてたいせつなことは、この隣人愛をいかに実行しているかを常に強く意識して生きることです。私たちが

隣人愛を完全な方法で実行するなら、私たちは、神愛が欠けることはありません。なぜなら、人間の本性は悪に傾くので、

隣人愛が神愛から、その根から、その源からこないなら、完全に働くことはない、と私は思っています。姉妹たちよ、このこと

は私たちにとって、真にたいせつなことですから、どんなに小さなことに至るまで自己認識に努めましょう。そして、祈りの最中

は、隣人のため、あるいは一つの霊魂の救いのために私たちは熱心に何かを行う気になっていますが、そうした立派な考え

は数には入れないでください。なぜなら、後で行いがそれに一致しないならば、私たちがそれを実行していると信じる理由など

ないからです。謙遜や、その他すべての徳についても同様なことが言えます。悪魔の企みはひじょうに恐ろしいものです。私た

ちが現実に私たち自身の徳と呼ぶことができない、ある徳を持っているように私たちに思い込ませるために、悪魔は激しく地獄

的な誘惑をするでしょう。それは理由のあることです。なぜなら、こうした考えはひじょうに多くの害を及ぼすからです。こうした

虚実の徳は、その源が悪い源ですから、常に空しい名誉欲を伴っています。一方、神によって与えられる諸徳は、この空しい

名誉欲や尊大さから自由になっています。


(中略)


隣人愛については私は他のところで(注・・・完徳の道7章)たくさん話しました。なぜなら、姉妹たちよ、もし私たちがこの隣人愛

に欠けるなら、私たちはすべてを失ってしまうからです。このようなことが起こらないように、主よどうぞお守りください。真の隣人

愛があるなら、いと高き御者があなたがたを、前に述べたあの一致に導いてくださると私は断言いたします。しかし、もし隣人愛

に欠けているなら、あなたがたはまだこの一致に至っていないのです。どうぞ私を信じてください。畏敬の念や喜びを味わい、

また静穏の祈りに入り、霊魂の諸能力の停止を幾らか体験したなら、あなたがたはすでに一致の状態に高められたと思うで

しょう。多くの人たちも、もうこれですでに完全に目的に達したと思うことでしょう。しかし、それは真実ではありません。隣人愛

をその完全さにおいてあなたがたにお与えくださるように、主に願ってください。いずれにせよ、いと高き御者にお委ねしなさ

い。あなたがたが力の限り努力し、隣人愛に努めるならば、主はあなたがたが望むこと以上の成果をお与えくださるでしょう。

たとえあなたがたは自分の権利を犠牲にしなければならないとしても、すべてにおいて姉妹たちの意志を尊重するように、

あなたがたの意志を抑制しなさい。またそれに対し、あなたがたの本性がひじょうに逆らうことがあっても、姉妹たちの利益の

ために自分の利益を忘れなさい。そして、隣人の労苦を引き受ける機会が与えられたなら、彼らのために進んで重荷を引き

受けるように努めなさい。犠牲を払うことなしにこの徳を実践できる、とあなたがたは考えないでください。花婿の私たちに

対する愛が彼自身にどれほどの犠牲をお払わせしたか、あなたがたはよく考えてください。主は、私たちを永遠の死から

救うためにこの上もなく痛ましい死、十字架上の死であがなってくださったのです。



(第五の住い)





この恩恵は霊魂内に大きな効果をもたらすので、霊魂は望みに心身を燃やしてていきますが、もう何を願ってよいものかも

分かりません。なぜなら、神が自分と共にいてくださるのが、霊魂にははっきり実感できるからです。でも、もし霊魂がこのことを

分かっているなら、霊魂はいったい何を望むのか、なんで苦しむのか、そして霊魂はそれ以上のどんな清いものを欲するのか、

とあなたがたは私に尋ねるでしょう。私には分かりません。ただ私が知っているのは、この痛みは霊魂の奥底まで浸みわたる

ように思われること、そして、霊魂を傷つけた御者がこの矢をお引き抜きになるとき、霊魂の奥底までそれと一緒に取り去られ

るように実感されるということです。霊魂の感じる愛の痛みはそれほどまで激しいのです。私の神は、赤々と燃える炉の火では

ないかと、今私は考えています。この火から、火柱が飛んで霊魂に触れます。それも、あの燃えさかる火の激しさを感じさせず

にはおかないような触れかたです。でも、この火柱は霊魂を焼き尽くすほど強くはありません。むしろ大変甘美なので、霊魂は

あの痛みを感じ続けるのです。火柱が触れただけで、こうした効果がもたらされるのです。私には、この比喩は、私が考えつい

たものの中で、最上のもののように思われます。なぜなら、この甘美な痛み・・・実際には痛みではありませんが・・・は、いつも

同じではありません。あるときは、大変長く続き、またあるときは、すぐに消え去ってしまいます。主は、お望みのままに霊魂に

語りかけてくださいます。それゆえ、人間のほうからは、どうすることもできません。ときとして、しばらく続くことがあっても、消え

たり、また戻ったりして、結局決して定着しません。それだからこそ、霊魂を焼き尽くすに至らないのです。霊魂がまさに燃え

上がろうとするときに火花は消え、霊魂は火花から受けたあの激しい愛の痛みを再び味わいたいと望み続けるのです。



(第六の住い)





第五の理由、それは神からの御言葉とともに、私にはどうしてだか分かりませんが、しばしば言葉を超えたことを霊魂は悟らされる

のです。このような照らしの方法については、他のところでももっと詳しく話しましょう。それは大変崇高で、そして霊魂を私たちの主

への讃美に導きます。なぜなら、ある人たち、殊にこれを体験した人、そしてその他の人たちも、こうした理解の仕方や言葉の相異

について、大変疑問を抱き、どうにも納得できずにいました。この人(おそらく聖女自身)は、主からこうした思想をあまりに度々いた

だいていたので、細心の注意を払ってそのことを観察したのを私は知っています。彼女が初めのころ一番疑ったのは、それが想像

からくる錯角ではないかということでした。悪魔からのものならば、もっと早くそうと分かります。とはいえ、悪魔は実に巧妙に光の霊

を偽装することができますが、私の考えでは、それはただ、言葉についてだけのように思われます。つまり、悪魔の言葉はひじょうに

明瞭でまるで真理の霊に話しかけられたように、本当によく分かるということです。けれども、悪魔は前に述べた効果を偽造すること

はできないでしょうし、霊魂内にあの平安も光も残すことができないでしょう。それどころか、不安と騒ぎが残るのです。でも、もし

霊魂が謙虚で、私が前に述べた通り、たとえ何を聞いたにせよ、何も行動に移そうとしないならば、悪魔はほとんど、いいえ、

まったく害を与えることができないのです。



もし主から恩恵や慰めをいただいたなら、それゆえ自分が優れていると考えたりしないかどうか、気をつけて観察しなさい。そして、

慰めの言葉が大きくなればなるほど、より当惑するようでなければ、それは神の霊からのものではないと信じるべきです。なぜなら、

もしそれが神からのものならば、いただく恩恵が大きければ大きいほど、霊魂は自分がますますはかない存在に思われ、自分の

罪はより強く思い起こされ、自分の姿は前にもまして忘れ去るのは確かにことだからです。霊魂は自分の利益を顧みず、意志も

記憶もただひたすら神の栄誉を求めることに努め、少しでも神の御意志から逸れることを恐れる心が強くなり、そして、霊魂は

こうした恩恵に決して相応しくなく、むしろ地獄にこそ相応しいという思いが激しくなるのです。祈りのうちに受けるあらゆる体験や

恩恵がこうした効果を生じさせるならば、霊魂は何も恐れることはありません。ただ主の御あわれみに信頼すべきです。忠実で

おいでになる主は、悪魔が霊魂を欺かれるのをお許しにならないでしょう。とはいえ、いつも恐れの心を保ちつつ歩むのはよい

ことです。



(第六の住い)





今話していることについて、幾らかでも理解していただけるように比喩を一つ見つけたいと思っているのですが、ぴったりしたものが

なさそうです。でもとにかく、次の話をしてみましょう。あなたがたが、王かあるいは高貴な方の部屋、・・・それはカマリンと呼ばれる奥の

部屋と思います・・・に入ったとします。そこには無数の種類のガラスの器や陶器、その他多くのものが、部屋に入ると一目でほとんど

全部見られるように飾ってあります。私も一度、アルバ公夫人の館で、こうした部屋の一つに案内されました。旅の途中でしたが、

アルバ公夫人のたっての懇請もあり、従順の御命令で訪問したのでした。部屋に入るなり、私は唖然としてしまいました。そして、

こんなに数多くの品物がいったい何の役に立つのかと考えましたが、物にはこれほどの相違があるのだと知り、そのことによっても、

神を讃美することができるのではないかと思いました。ところで、そんな体験が今ここで役に立つのを、私は嬉しく思います。私は、

暫くその部屋におりましたが、見るものがたくさんあるので、後ですぐみな忘れてしまいました。まるで何も見なかったかのように、

これらの品物が何一つとして記憶に残っていないのです。また、それが何でできていたかも述べられないでしょう。ただ、それを

全部見た、ということだけ思い出せるのです。今の場合もそうです。霊魂は、完全に神と一致して、私たちが霊魂の奥底に持って

いるはずのいと高き天の、あの部屋に入れられます。神は霊魂内にお住いになるのですから。このような住いがあるのは明らか

なことです。さて、たとえ霊魂がこのようなエクスタシーの状態にあったとしても、主は必ずしも、霊魂がこれらの神秘を見ることを

お望みになりません。なぜなら、霊魂は神を味わう喜びに浸りきっているので、この大きな幸福だけで霊魂は十分満たされるから

です。でも、ときとして神は霊魂をこの陶酔から引き出して、あの部屋も中にあるものを一瞬眺めさせるのをお好みになります。

それで、霊魂は、我に帰ったとき、神により示され、自分が見たあの偉大なことは覚えているのですが、その何一つ言い表すこと

はできません。また、神が示そうとお望みになったこと以上には、超自然的なことは、人間本性は悟ることができないのです。



(第六の住い)





さて、あの急激な精神の奪い去りに戻りましょう。それは、本当に精神が肉体から飛び出してしまうかのように思われますが、他方

その人が死んでいないことも明らかなのです。一瞬の間、少なくとも本人は、精神が身体の内にあるのかないのか分かりません。

霊魂は、私たちの生きている世界とはまるで違う別の世界に自分がそのまま運ばれたように思います。そこで、ある光を示される

のですが、この世の光とはあまりに違うので、たとえ一生かかってその光を他のものとともに作りあげようと努めても、それを達成

することは不可能でしょう。想像力や思考力を用いて、何年努力したところで、その千分の一すら理解することができない多くのこと

を、ただの一瞬の間に、その光は霊魂に教え示すのです。これは知的直感ではなく、感覚的直感です。私たちがこの世で、肉眼を

通して見るよりも、ずっとはっきり霊魂の目を通して、ものが見えるのです。そして、私たちは言葉なしに多くのことを悟らされます。

例えば、どなたか聖人を見れば、私たちはまるで長い間交際していたかのように認識するのです。



また、ときどき、霊魂の目で見ているもののうえに、知的直感で他のものが示されます。特に、生を取りまく多くの天使たちがそれ

です。肉眼でも霊魂の目でも何も見えないのに、何と言ったらよいか分からない不思議な認識によって、私が話していることや、

その他言葉では言い表せない多くのことが示されるのです。このことを体験したことがあり、私よりも才能のある方ならば、たぶん

よく説明できるでしょうが、私には大変難しいことのように思われます。このすべてが起こっている間、霊魂は身体の内にあるか

どうか、私には分かりません。霊魂が身体の内にあるとも、身体が霊魂なしであるとも、少なくとも私は断言したくありません。



私は度々次のように考えました。空にある太陽は、その光線がひじょうに強いため、太陽は空にとどまっているままで、光線は

一瞬のうちに地上にとどいてしまいます。太陽と光線が一つであると同様に、一つである霊魂と精神は自分のいる場所にとどまり

ながら、正義の真の太陽からくる熱の力で何らかの高貴な部分が自分自身から飛び出すのではなかろうかと。結局、私は自分

の言っていることが分かっていません。ただ、私に分かることは、火縄銃に火をつけたとき、弾丸の飛び出すあの速さで、霊魂

の内部に一つの飛翔・・・私は他に何と呼んだらよいか分かりません・・・が行われます。それは、音はしませんが、あまりに

はっきりした動きなので決して錯角ではありえません。そして、霊魂が自己超越の状態にあるとき、霊魂に分かる限りにおいて、

偉大なことが示されます。霊魂が我に帰ったとき、霊魂はこの上もなく大きな益で満たされているので、自分の見たものと比べ

たら、塵にしか見えないこの世のあらゆるものをまったく空しく感じます。それ以降は、この世に生きることは大きな苦しみと

なり、前にはいつも楽しみを与えてくれたものを見ても、もはやそこには何の興味も見出せないのです。イスラエルの民が、

約束の地に送った使者たちが、その土地の様子を示す証拠を持ち帰ったように(民数記13・18〜24)、主も霊魂にその

行くべき国の幾らかでも示そうとお思いになったかのようです。それは、自分がどこに安らぎを見出しにいくのかを知ることに

よって、大変骨の折れるこの旅の労苦を霊魂が耐え忍ぶためなのです。このような一瞬のうちに過ぎてしまうことは、大した

益にはならないとあなたがたは思うかもしれませんが、それが霊魂に残す益はきわめて大きく、体験したことのある人でなけれ

ば、その価値を理解できないでしょう。



このことによって、悪魔の仕業でないことがよく分かります。また、自分の想像のせいにすることも不可能です。悪魔は、これ

ほどの効果、平和、安らぎ、利益を霊魂内に生じさせることはできませんし、殊に次の三つのことをひじょうに高い状態で霊魂

に示すことはできないでしょう。その一つは神の偉大さの認識です。神の偉大さについて多くを見れば見るほど、ますますよく

分かるようになります。第二に自己認識と謙遜です。あれほどの偉大な栄光に満ち満ちた創造主に比べれば、あまりに卑しい

この自分が大胆にも主に背き、そしてなおも主を仰ぎ見ようとしているのを知り、へりくだるのです。第三は、この偉大な主へ

の御奉仕に役立たない限り、この世のあらゆるものに対する執着の空しさを悟ることです。



(第六の住い)





ある霊魂がたとえどれほど恵まれた状態にあるにせよ、自分がかつて哀れな状態にいたことを忘れてしまうとしたら、私はそれを安全

とはみなしません。それを思い出すことは、霊魂にとってつらいことであっても、しかし多くの点で役立つからです。たぶん私は、あまりに

悪かったから、ただ私がそう思うのかもしれませんし、いつも私の罪を記憶にとどめているのもそれが原因しているのでしょう。これまで

ずっと立派に生きてきた人たちはそう感じることはないでしょう。とはいえ、この死すべき肉体にとどまっている間は、私たちは常に過ち

を犯すことがありうるのです。私たちの主はもうすでにあらゆる罪をお許しくださっている、お忘れになっていると考えても、この苦しみ

にとっては何の慰めにもなりません。それどころか、地獄にしか相応しくない者に対しての主のあれほど大きな御いつくしみや、そして

お与えくださる諸々の恩恵を思うと、苦しみはいっそうつのります。聖ペトロや聖女マグダレナの大きな苦悩はこれだったと、私は思い

ます。神への激しい愛に燃え、あれほど多くの恩恵をいただいていて神の偉大さとみいつを悟っていた彼らですから、それはとてもやる

せない感情の入り交じった、耐え難い苦しみだったでしょう。



また、これほど崇高なことを味わっている人は、もうひたすら愛することのみ専心し、もはや私たちの主イエス・キリストの神聖な人性の

神秘を黙想したりしないだろう、とあなたがたは思うことでしょう。このことについては他の本で(自叙伝22章)詳しく書きましたが、私は

多くの反論を受けました。私は事を理解していない、と言われました。私たちの主が霊魂をお導きくださるいろいろな道があるが、初歩

の境地を越えたらもはやその後は、形体的なものを避けてただ神性の黙想に潜心するほうがよりよい、と言うことです。しかしこの道が

よい、と私に認めさせることはできないでしょう。私は間違っているのかもしれませんし、そして私たちはみな結局同じことを言っている

のかもしれません。でも私は、悪魔がこの道において私を欺こうとしたのを認識したのです。そして私はこの体験によって賢明になりま

した。それゆえ、私はもうすでに度々述べましたが(自叙伝22・23、24章)、あなたがたがこのことにおいて十分用心するように、

ここでもう一度話しておきたいと思います。これとは違うことを言う人を信じてはならない、と私は敢えて断言します。どうぞあなたがた

はこのことをよく考えてみてください。そして、他の本の中で(自叙伝22・26章)述べたのより、もっとはっきり説明するように私は努め

ましょう。というのは、このことについて、、ある方がもっと詳しく説明してくださったなら、私たちは正しく理解できたでしょう、と私は思う

からです。このようなことを一般的に語られると、私たちのように知性の乏しい者には、大きな害ともなりえるのです。



また、ある霊魂は、自分はもうキリストの御受難について考えることができないと思うでしょう。とすれば、聖なる乙女マリアや諸聖人の

生涯のことはなおさら考えられないでしょう。でもそれらを黙想するのは、私たちにとって本当に大きな益になり、慰めになるのです。

いったいその人たちは何を考えているのか私には見当がつきません。すべて形体的なものから離れて、絶えず愛に燃えているのは

天使の霊の特質で、私たち死すべき身体のうちに生きる者のすることではありません。私たちは、かつて身体を持ち、神のために

偉大な業を成し遂げた方々のことを思い、考え、彼らと共に生きるように努めなければなりません。まして、私たちは、自分から故意

に、私たちの宝であり、救いである主イエス・キリストのこの上なく聖なる人性から決して遠ざかったりしてはなりません。彼らは本当

にそんなことをしているとは信じられません。彼らはただ自分のことをよく理解していないのです。それで、こうして自分にも他の人に

も害を与えているのです。少なくとも、彼らはこの最後の二つの住いに入ることはないと私は確証します。善きイエスという案内者を

失うなら、彼らは道を見つけることができないでしょう。もし他の住いに安全にとどまっていられるなら、それだけでも大したものです。

主御自身が、「私は道である」(ヨハネ14・6)と言われました。また主は、「私は光である」(ヨハネ8.12)、「私を通らなければ、

誰も父のもとに行くことができない。私を見る人は私の父を見るのである」(ヨハネ14・6・7)とも語られました。これらの御言葉は

他の意味にとるべきだ、と彼らは言うでしょう。でも私は他の意味は知らないのです。今、述べた意味こそ真実であると私の霊魂は

いつも感じてきましたし、私にはこれがひじょうによかったのです。


(中略)


でも、霊魂は主の人性に思いを寄せて考えるよう努力するのがよいのです。なぜならそれによって、もっと崇高な祈りさえ、妨げられ

ないことを私は知っているからです。霊魂が度々主の人性について黙想しないのは、よいことと私は思いません。もし、このふつうの

祈りにおいて主が、そうしているうちに思考を停止させてくださるなら、それは大変喜ばしいことです。なぜなら、たとえ霊魂が望まなく

ても主が霊魂をその状態に置いてくださるからです。このような黙想を進めることは、霊魂にとって害とはならず、むしろ、あらゆる

益をいただくための大きな助けとなると、私は確信しています。ただ、私が初めに述べたように無理をして黙想に努めるなら、それは

害になりうるでしょう。また、それ以上高い状態に達した人は、そうできないだろうと私は思います。でも、できることもあるかもしれま

せん。神が霊魂をお導きになる道は様々だからです。けれどもこの黙想の道を行くことができない霊魂を責めたり、また、彼らを、

私たちの善きイエス・キリストの(人性の)神秘に隠されている、とても素晴らしい宝を味わうことができないなどと判断してはなりま

せん。主の人性の神秘をしばしば考えなくともよいと、霊的に高い方が言われたとしても、それを私は納得しないでしょう。



静穏の祈りに達し始め、そして主がお与えになる慰めや甘美な味わいを体験し始めるや、いつもこうして味わっているのがひじょうに

たいせつなことと思い込んで、それをある原則、あるいは手段とさえ考えている霊魂も中にはあります。どうか私を信じてください。

私がすでに他のところ(創立史6・1−7)で述べたように、そんなに陶酔に浸ってばかりいてはなりません。人生は長く、そして人性

には多くの試練があるのです。それを完徳をもって背負うためには、私たちは、私たちが従うべきキリストや使徒や諸聖人が、それら

をどのように忍んだかを考察する必要があります。善きイエスや聖なる御母は、私たちがそのみもとから離れ去るには、あまりにも

素晴らしい伴侶でいらっしゃいます。そして、主は私たちがときには自分の喜びや味わいを捨ててでも、主の御苦しみを自分の苦しみ

と感じることを大変お喜びになるのです。それに娘たちよ、祈りにおける喜びは、他に何もする暇がないほどいつも続くのではありま

せんから、なおさらです。もしそれが絶え間なく続き、それゆえ私が前に述べたことがどうしても実行できないと言う人がいたら、私は

それを疑わしく思うでしょう。あなたがたも、そのことを心に留めてください。力の限り努めなさい。もしそれで十分でないなら、修院長

にそのことを話し、没頭できる仕事を与えていただき、こうした危険から逃れなさい。この状態が長く続くようなら、少なくとも知性と

頭脳への危険はきわめて大きくなるからです。



(第六の住い)





でも、もし何も目に見えないならば、どうしてそれがキリストであるとか、聖人であるとか、あるいはまたいと栄ある聖母であるとか

分かるのかと、あなたがたは言うでしょう。霊魂はそれに答えることができないでしょう。また、霊魂は自分でもどうしてそうと分かる

のか、分からないのですよ。ただ霊魂はきわめて大きな確かさで、それを知っているのです。それが主であり、そして主が語りかけ

てくだされば、主を知るのははるかにやさしいでしょう。しかし、それが聖人であり、そして何も語らず、ただ主が霊魂の助けのため

に付き添わしてくださったように思われる場合には、分かるとすればそれはもう、ただ感嘆するばかりです。その他の霊的な恩恵も

同様で、言い表すことができません。でも、それらのおかげで、神の偉大な恩恵を悟るためには、私たち人間の本性がどれほど

低いもので、不可能であるかが分かります。このような直感の恩恵をいただいた者は、いと高き御者をほめたたえるほかありま

せん。そして、特別の感謝を捧げなさい。なぜなら、これらは、すべての人に与えられる恩恵ではないからです。霊魂は、大いに

有難く思い、これほど手をつくして霊魂を助けてくださる神に、もっとよくご奉仕するよう努めなければなりません。それだからと

いって、霊魂は、自分がより優れているなどと思うことはありません。反対に、この世で自分ほどわずかしか神にお仕えしない者

はいないと霊魂は感じています。なぜなら、自分は他の誰よりも多くを負っていると思っているからです。それで何か過ちを犯す

たびに、霊魂は内臓の奥深くまで刺し貫かれるように感じますが、それは、霊魂にとっては確かに当然のことでしょう。



あなたがたのうちで、主がこの道へお導きくださる人は、前に述べた霊魂にもたらされるこうした効果によって、それが思い違い

でも錯角でもないことが分かるでしょう。なぜなら、前にも述べましたが、もしそれが悪魔の仕業ならば、これほど長く続くことも、

霊魂にこれほど著しい利益を与えることも、これほど大きな内的平和をもたらすこともできないと私は思うからです。それは悪魔

のやり方ではありませんし、たとえ望んだところで、悪魔のような悪い者は、そのような善いことができるはずがありません。

霊魂にはたちまち自尊心や思いあがりが湧き上がり、そして自分は他の人よりも優れていると思ってしまうでしょう。でも霊魂が

このように絶えず神と一致し、神のことに考えを集中しているのを見て、悪魔は霊魂にひどく怒って、たとえ一度は霊魂を乱そう

と試みたとしても、何度も繰り返すことはしないでしょう。また、神は忠実でおられるので、ひたすらいと高き御者をお喜ばせし、

その栄誉と栄光のために命を捧げることのみを望んでいる霊魂に、悪魔が影響を及ぼすことをお許しにならないでしょうし、そし

てすぐに迷いから覚めさせてくださるでしょう。



(第六の住い)





姉妹たちよ、この霊的な道についてはもう十分話したので、もうその他に言うべきことが残っているはずはないと思っていること

でしょう。でもそれは大違いです。神の偉大さも、またその御業も無限です。いったい誰が神の御あわれみとその偉大さを語り尽くす

ことができるでしょうか。それは不可能なことです。ですからあなたがたは、今まで述べてきたことやこれから話すことに驚かないで

ください。それすら、神について語るべきことの一片に過ぎないのです。こうしたことを神がある人にお伝えになり、その人を通して

私たちが知るようになれるのは、神が私たちにくださる大きな御あわれみです。神が被造物とお交わりになることを知れば知る

ほど、私たちは主の偉大さをますます讃美し、また主がこれほどお楽しみくださる霊魂というものを軽視しないよう努めるでしょう。

私たちの誰もが霊魂を持っています。しかし、私たちは神の似姿として造られた被造物に価するほどには霊魂を尊重しません。

それゆえ霊魂のうちにある偉大な神秘が、私たちには分からないのです。どうかあいと高き御者よ、お望みなら私のペンを動かし

てください。まだ話すべき多くのことを、そして神がこの第七の住いにお入れになった人たちにお示しになることを、どうしたら幾ら

かでもあなたがたに説明できるかを私に悟らせてください。こう言って、私はいと高き御者に何度も願いました。主の御名がます

ますほめたたえられるよう、その御あわれみを知らせるのが私の目的であることは主がご存じでいらっしゃいます。



(第七の住い)





霊的婚約は、それとは違い、しばしば離れます。「一致」そのものの恩恵もまた違うのです。一致というのは、二つのものが一つに

なることですが、私たちがふつう見ている通り、その二つは離れることができます。そして結局それぞれが独立して存在しています。

主のこの一致の恩恵は早く過ぎ去り、その後霊魂はあの友なしに、つまり友の現存による愛の交わりの実感なしに残されます。

ところが、主のもう一つの恩恵(霊的結婚)では、そうではないのです。「一致」はちょうど二本のローソクがぴったり合わさって

それぞれの光がただ一つになったもの、あるいは芯と光とろうで一つのローソクをつくっているようなものと言うことができるで

しょう。つまり、後でローソクを別々に引き離すことはわけなくでき、それでもとの二本のローソクになりますし、また芯とろうを分け

ることもできます。霊的結婚では、あたかも水が天から川に、あるいは泉に落ちてくるようで、すべては同じ水になってしまい、

川から流れてきた水と天から落ちてきた水とを分けることも離すこともできません。また海に注がれた小さな川のようで、もう海か

ら分かれることができません。あるいは二つの窓から室内に射し込む強い光のようで、入るときは別々でも、両方のすべての光

は一つの光になってしまいます。



(第七の住い)





霊魂は主を味わいたい、死にたいと、あのように苦しみ悲しんできたのをあなたがたは見てきました。しかし、今は霊魂は神に

ご奉仕したい望みがあまりに強いので、自分たちの働きで神が讃美され、もしできれば誰かが進歩するようにと熱望しています。

もしそれによって、たとえどんなにわずかでも主が讃美されるなら、霊魂はあとまだ長い年月を最も苦しい試練を忍びながら生き

たいと思います。このことが最も私を驚かせることです。霊魂は、身体を離れればすぐに神を味わえるのだと確かに知っていて

も、まったく心に留めません。そして霊魂は、聖人たちの受けておられる栄光のことを考えても、自分はまだそこに入りたいと

望みません。霊魂の幸福は、もしできれば十字架につけられた御者を何らかの方法でお助けすることなのです。主がこれほど

背かれているのを見るとき、また、あらゆるものから超越して主の栄誉を本当に心にかける人が実に少ないのを見るとき、

霊魂は特にそう感じます。



ときとして、このようなことを霊魂は忘れます。そして神を味わいたいと望み、このさまよいの地を去りたい思いが、霊魂内に

せつなく胸によみがえってくるのは事実です。霊魂は、自分が主にわずかしかお仕えしていないのを見るときは特にそう思い

ます。でもすぐに気を取り直し、自分自身の内に絶えず共にいてくださる主を見つめて、それで満足します。そして霊魂は、

この生きようという望みを、自分が主にお与えできるいちばん高価な供物として、いと高き御者にお捧げします。しかし、霊魂

は死に対しても少しの恐れも抱かず、むしろ、死は甘美なアロバミエントぐらいに思えるのです。とにかく、極度の苦悩を伴った

あの望む(死への望み)をお与えになった御者が、今はそれとは違うこうした望みを与えていらっしゃいます。主は永遠に

尊ばれ、讃美されますように。


(中略)


このことをよく考えてください。私がどんなにあなたがたに願っても足りない、とても重要なことだからです。十字架につけられた

御者にあなたがたの目を注ぎなさい。そうすれば、すべてはまったく無となってしまうでしょう。いと高き御者があれほどの偉大

な御業と恐ろしい苦しみによって御自分の愛を示してくださったのに、どうしてあなたがたはただ言葉だけで主をお喜ばしよう

と思うのですか。人間が真に霊的になるとはどんなことか、あなたがたは知っていますか。それは神の奴隷となり、そして奴隷

としての印、すなわち主の十字架の焼印をいただくことです。それはまた、己れの自由を完全に主に捧げて、主御自身がそう

でいらしたように、全世界の奴隷としての己れを与えることができるようにすることです。このように扱われることは辱めでもなん

でもなく、それどころか大きな恩恵でさえあるのです。もしこの決心がつかないのなら、大きな進歩を気づかうこともないでしょう。

なぜなら、前にも述べた通りこの建物全体の基礎は謙遜だからです。もし真の謙遜がないなら、あなたがたのために主はこの

建物を高くそびえさせてはくださらないでしょう。さもなくば砂上の楼閣となるからです。姉妹たちよ、よい基礎を築くために、めい

めいが皆の中で最も小さい者、皆の奴隷となるように努めなさい。何をどのようにしたら皆を喜ばせ、そして皆に奉仕できるかを

考えなさい。なぜなら、このようにすれば、それは他の姉妹たちよりむしろあなた自身のためとなり、そしてあなたの城が崩れない

ための堅固な土台をすえることになるからです。



(第七の住い)





ここでは七つの住いしか説明していませんが、そのそれぞれに多くの住いが、上にも下にも左にも右にもあり、そしてそこには

美しい庭や泉、その他とても楽しいものがあるので、あなたがたは、その城を御自分の写し、御自分に似たものとしてお造りに

なった偉大な神の讃美に全身全霊をかたむけたいと思うことでしょう。あなたがたが主についてもttよく知るようにとの御命令で

書いたこの本の中に、もし何かよいものがあなたがたが見つけることができたなら、それは、あなたがたを喜ばせようとしている

いと高き御者がお話くださったのだと真に思ってください。悪いことがあったなら、それは私が言ったことです。



この私の神、主に、あなたがたがご奉仕するよう、幾らかでも助けたいと思う私の熱い望みにより、あなたがたに切に願います。

この本を読むたびに、私の名において、いと高き御者を熱く讃美してください。そして教会の発展と、ルター派の人々に光を、

また私のためには罪の許しと煉獄からの救いを願ってください。あなたがたがこの本を読むころには、私はおそらく神の御あわ

れみによって煉獄にいることでしょう。それも、学者の方が検閲なさって、出版が許されればのことです。もしこの中に何か誤り

があるならば、それは私の知識の不足によることで、私はすべてにおいて聖なるローマ・カトリック教会の判断に従います。

ローマ・カトリック教会においてこそ私は生きています。そして、ローマ・カトリック教会において生き、死ぬことを私は宣言し、

誓約します。私たちの主なる神が永遠に尊ばれ、讃美されますように。アーメン、アーメン。



アビラの聖ヨゼフ修道院において、1577年聖アンドレアの祝日の前夜、

永遠に生き、支配される神の栄光のために、これを書き終わりました、アーメン。



(第七の住い)







IDLE SPECULATIONS: The Patron Saint of Chess players
Hans Mielich (1516-1573) Duke Albert V of Bavaria and his consort Anna of Austria playing chess 1552 From BSB-Hss Cod.icon.
429 Kleinodienbuch der Herzogin Anna von Bayern - BSB Cod.icon.
429 Munchen 1552 - 1555 Manuscript Bayerische Staatsbibliothek, Munich





イエズスの聖テレジア著 「完徳の道」 ドン・ボスコ社より引用


私が今までに言ったことだけで、もうたいしたものだと思わないでください。

私はまだ、いわゆる盤に駒を並べたにすぎません。あなたがたは、念祷の

基礎になるものについて話してほしいとおたのみになりました。娘たちよ、

神は私を{徳という}この第一歩からお導きにならず、そのため私は今もま

だ{前にお話ししてきた}徳の初歩さえ持っているはずはないのですが、そ

れでも、ほかの基礎は知りません。チェス(西洋将棋)のゲームでは、駒の

動かしかたを知らない人は勝つことができないとお思いなさい。王手をかけ

ることを知らないならば、詰手もさせないのです。この家ではそのような遊び

はありませんし、あってはならないのですがら、こんな勝負の話など持ち出し

て、あなたがたにしかられるでしょう。でも、これで神がまあいったい何という

母をあなたがたにくださったのかが、おわかりになるでしょう。彼女はこんな

にむなしいことまで知っていたのです! とにかく、この遊びは、ときどきは

してもかまわないと言われています。それならば、このチェスの手をここで

応用するのはどれほどかまわないかもしれません。もしたびたびこの手を

使えば、なんと早く“神なる王さま”を王手詰めにすることでしょう。そうすれ

ば主はもう私どもの手からのがれることがおできになりませんし、逃げたい

ともお思いにならないでしょう。このゲームでは、王さまにいちばん戦いをい

どむことのできるのは女王駒で、ほかの駒はみな女王を助けます。さて、

それでは、謙そんほど、神なる王さまを降参させる女王はありません。この

謙そんこそ、主を天国から処女マリアのご胎にお引きよせしたのでした。

また私どもも、謙そんによって、髪の毛のただひとすじで、主を自分の霊魂

の中にお引きよせするのです。私をお信じなさい。謙そんを多く持つ者は

主を多く所有し、謙そんの少ない者は、主を持つことも少ないのです。愛な

しでどうして謙そんがあり、またありえるのか、そして謙そんなしにどうして

愛がありえるのか、私にはわかりません。また、すべての被造物からの

大きな離脱なしには、この二つの徳は存在することができないのです。



娘たちよ、私がどうして徳のお話をするのか、とお思いになるのでしょう。

あなたがたに徳をお教えする本ならもうじゅうぶん以上に持っていらっしゃい

ますし、あなたがたはtだ観想についてお聞きになりたいだけでしたのに。では

お返事します。もしあなたがたが、黙想について話してほしいとおたのみに

なったのなら、そのお話はできたはずです。そして、たとえ徳はなくても黙想を

実行なさいと、あなたがた皆さんにお勧めしていることでしょう。というのは、

黙想こそ、すべての徳をおさめるための基礎ですから。そして黙想をすること

は、キリスト信者の生活の、一つの条件ですから。だれも、たとえどんなに堕落

した人でも・・・、もし神がこんなにすばらしいことをしたいという望みを起こさせ

てくださったなら、それを怠ってはなりません。これについては、私はもうほかの

ところで書きましたし、また、多くのかたもお書きになっています。そのかたがた

は、よくわかって書いていらっしゃるのですが、私は確かに自分の書くことが

わかっていません。それは神がご存じです。



けれども、娘たちよ、観想ならば、またまったく別なのです。これが私どもが

みな、まちがえてしまう点で、だれかが毎日、いくらかの時間を自分の罪を

考えるためにあてると(これは、名ばかりのキリスト信者でないならば当然の

義務です)、たちまち人びとはかれをりっぱな観想者扱いにし、りっぱな観想

者が持っているべきはずの高い徳を、すぐかれに期待してしまいます。本人

自身さえ、それを望むのですが、それはまちがいです。かれは初めに駒の

ならべかたを知らず、ただ駒の種類さえわかっていれば、それで王手がかけ

られると思ったのでした。でもそうは行きません。この王さまは自分をすっかり

さしあげる者にしか、ご自分をお渡しになりません・・・。

(エスコリアル原稿 第十六章)





聖母子への祈り




2016年6月14日の夜明け(3時59分〜4時38分)の空と、虹です。




Davis Museum, Wellesley College, Francisco Alcaraz’s Saint Teresa of Avila

Boston MA: Immersed In Art ? Good, Bad and Yours


Untitled Flashcards - Art And Art History 2302 with Elkins at Baylor University - StudyBlue

「聖テレジアの法悦」(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂)

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)作
「アビラの聖テレサ」


Naamloos ? cruello: Ecstasy of Saint Teresa by?Gian...




 キリストは姦淫の女をゆるされた。罰するというようなふるまいは、地上の生活が十字架上で

終るような生涯にとっては、ふさわしくないものであった。しかしながら、キリストは、刑罰のおきて

を廃するように命じられたわけではない。つづけて、石を投げてもよいと言っておられるのである。

だから、石を投げるのが正しい場所ならば、まずかれが第一に石を投げたもう。こうして、かれは、

義人から食べものを与えられる飢えに不幸な者のうちに住みたもうとともに、義人から罰をうける

罪ある不幸な者のうちにも住みたもう。このことを、かれは口で言われたわけではないが、一般の

法律に従って罪人として死にたまうことにより、十分はっきりとお示しになったのである。



シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」 より


2016年3月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





マグダラのマリア
「ナショナル ジオグラフィック」2012年3月号 より写真引用

長年の念願がかなって、マグダラのマリアの遺骨を見にプロバンスを訪れた女性の写真です。

☆☆☆

FB友達の安井さんから教えていただいたカラヴァッジョ(1573〜1610年)展が国立西洋美術館で開催され、

400年近く行方不明だった「マグダラのマリア」が世界初公開されております。




2016年5月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「聖テレジアの法悦」


ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598〜1680年)作


アビラの聖女テレサ(聖テレジア)、彼女が生まれた1515年はルネッサンスや宗教改革などの

激動の時期でした。



あるべき修道院の姿を希求した彼女は宗教裁判にかけられ投獄、書いた詩なども焼却されますが、

その後の彼女は16世紀におけるカトリック教会改革の原動力となっていきます。



現在でもカトリック神秘霊性の最高峰と言われる彼女の著作「霊魂の城」、その源となったのは、天使が

焼けた金の矢で彼女の心臓を貫いた時に感じた神への燃えるような愛でした。



ベルニーニによる像「聖テレジアの法悦」、天使が彼女を矢で射る像、その時の彼女の顔(写真は

他のサイトより引用)だけを撮ったものです。



宗教裁判や異端審問、話は変わりますが、これを題材にしたミュージカル映画「ラ・マンチャの男」

(ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン主演)は今でも私にとっては大切な宝物です。



真の「改革」とは、魂の奥底から突き上げてくる、自身の感情や知性などという自我を超えた次元

から、もたらされるものかも知れません。




聖母子への祈り



2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



フィリピンの刑務所に服役している方が作った聖母マリア像で大切にしているものです。



随分前のテレビでブッダの足跡を追ったNHKの番組があり、梅原猛さんと瀬戸内寂聴さんが解説して

おられた。晩年のブッダが母親の故郷だったか亡くなった場所を目指していたのではないかとの問い

に、瀬戸内寂聴さんは「それはありません。ブッダはそれを超えた目的のために向かった」と話してお

られましたが、梅原猛さんは瀬戸内寂聴さんに対して「いや、仏陀の心の奥深くにはそれがあった」と

言っておられたのが強く印象に残っています。



ブッダ、そして梅原猛さんも生まれて1週間後に母を亡くしています。宗教学者の山折哲雄さんは梅原

猛さんのことを次ぎのように記しています。



「仏教にたいする梅原さんの心情の奥底には、母恋いの気持が隠されている。それは微かに沈殿して

いるときもあるが、激流となってほとばしることもある。梅原さんがしばしば語っているように、それは養

父母に育てられた体験からきているのかもしれない。とりわけ、母上に早く死なれてしまった辛い体験

が、その後の梅原さんの思想の形成に大きな影を落としているためなのであろう。その深い喪失感が、

梅原さんの文章に切迫した気合いをみなぎらせ、その言葉に美しいリズムを生みだす源になっている

のだと思う。」



ブッダ、そして梅原猛さんは同じ喪失感を味わったものだけしか理解しあえない次元で繋がっているの

かも知れません。



勿論、瀬戸内寂聴さんの「仏教塾」は万人に理解できる言葉で仏教を紹介している素晴らしい文献です

が、それと同様に梅原猛さんの「梅原猛の授業 仏になろう」はユーモアを交えながらも奥の深さを感じ

ます。また手塚治虫が書いた漫画「ブッダ」と共に、今読み始めている「超訳 ブッダの言葉」小池龍之介

・翻訳もそのような優れたものなのかも知れません。



私は読んだことはありませんが、当時の日本の哲学界の重鎮であった西田幾太郎や田辺元を梅原猛

さんは評価しながらも批判をしています。



「西田・田辺の精神はよろしい。西洋哲学と東洋哲学を総合して、今後の人類に生きる道を示すような

独創的な哲学を立てるという精神には大賛成です。だけど、もっとやさしく語れ、もっと事実に即して語れ

というのが、私の学生時代からの西田先生、田辺先生に対する批判です。」



専門家向けに書かれた本なら専門用語を駆使して書くことは当然かも知れません。しかし万人を対象と

するとき、敢えて難しい言い回しや専門用語を使うことは、自らの学問の使命を忘れているのではと感じ

てなりません。勿論私の読解力のなさがそう思わせている面もあるのですが、学問は人類に限らず地球

や地球に生きるもののためのものであるはずです。学問を自分自身の名声・名誉や金銭、社会的地位

を得るための手段としてしか捉えられない者は、哲学であれ科学であれ道を踏み外しているように思い

ます。



「母の愛を象徴化したような観音やマリア崇拝が、宗教の根源ではないか」と梅原猛さんは言っています

が、梅原猛さんが母の慈愛を観音様に重ね合わせるように、私は聖母マリアに重ね合わせているので

しょう。



ただ児童虐待などで母の慈愛を感じらずに育った子供たちは、物心がつくまえに母を亡くした方と同じよ

うな喪失感が横たわっているのかもしれません。



(K.K)



 






2012年6月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


聖母マリア(写真は私の家にあるマリア像です)



これまで世界各地に聖母マリアが出現した。その中でカトリックの聖地となったものではルルド、ファティマが

有名かも知れない。



アッシジの聖フランシスコも「小さき花」で描かれているように、イエス・キリストやモーセの臨在を数多く受け

ていた。



私自身の場合、過去に一度だけ神秘体験をしたことがある。苦しみを通り越して自分が息をしているかどう

かわからなかった時のことであるが、ただそれは強いストレスにさらされた脳に快感物質が出たからだと今

は思っている。



ルルドファティマに出現した聖母は真に神からの伝言だったが、私の場合は脳の防御反応でしかなかった

と感じている。



本当に真偽を見極めるのは難しいと思うし、私には出来ない。



たとえ私の前に過去の偉大な聖人が出現しても私はそれを吟味し続けるだろう。



その現象を自己の心の奥深くに落としながら、それは真なのかと問い続けるだろう。



それは私のような疑い深い人間には長い時間を要するものかも知れないし、時間をかけなければならない

ものだと思う。



ルルドやファティマで聖母を見た少女たち、彼女たちは純真無垢だけでは言い現すことができない何か、神か

らの特別な恩寵を受けていたと感じられてならない。




(K.K)



 

2014年10月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。


皆様のすぐそばに、いつも笑いがありますように。



以前にも話したことだが、フィリピンに2週間ほど滞在したことがある。



そこでは独裁政治だったマルコス政権を打倒しようとする人々。



森に生きる先住民で、政府の政策によりその生存範囲を奪われる人々。



両親を日本兵に殺され、許すことへの祈りによって、会いにきてくれた男性。



スラム街での貧しくとも屈託のない子供たちの笑顔。



ハンセン病の隔離病棟での女性たちの笑顔。



これらの貴重な出会い、あれから30年近く経とうとしているのに消化しきれない自分がいる。



その中でも天使と出会ったと感じたのは、ハンセン病の隔離病棟での短い時間での触れ合いだった。



昔は「らい病」と恐れられた病気で、女性だけが収容されている病棟に入ったのだが、何を言えばわからなかった。



恐らく幼稚な仕草をしたためだと思うのだが、いつの間にか彼女たちに囲まれ笑われていた。



そして陽気な国民性にもよると思うのだが、彼女たちの笑顔に、心にあった壁は取り除かれていた。



無邪気な笑い、故郷や家族から引き離された人々が見せる笑顔。



どのような過酷な状況に置かれても、違った世界を垣間見させてくれる笑いに人は身をゆだねる。



天使がどのような目を持っているのか私は知らない。



しかし彼女たちの悪戯っぽい目の輝きは、乳児が生まれて初めて微笑むように、光に満ちていた。





2015年7月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「白鳥のロザリオ」 画像の赤い部分



10数個の繋がった星の並び、この並びは「はくちょう座の鎖」と外国では呼ばれますが、「はくちょう座」には鎖よりもロザリオ

(数珠)と表現するほうが相応しいと思い「白鳥のロザリオ」と自己流に命名しました。



この「はくちょう座」にアルビレオ(美しい二重星)が輝いていますが、今私達が見ているアルビレオは約386年前の光です。



日本では天草四郎が生きていた時代ですが、天草四郎が島原の乱で亡くなった後、幕府軍に捕らえられた四郎の母は「今ごろ

四郎は白鳥になって伴天連(バテレン)の国へ向かっているでしょう」と言ったとの説(定かではありません)があります。



「白鳥のロザリオ」



この星のつながりを見るには、望遠鏡ではなく双眼鏡で見るのが最適です。これはアルビレオの二重星(色の対比が美しい)

にも言えます。



過去のこと、未来のことなど様々な想いを、星に投影して見るのもいいものですね。


 


Ensina-me a Rezar.: Jesus e as tradicoes!




A Koskimo house

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


ワタリガラスの伝説

「森と氷河と鯨」星野道夫 文・写真 世界文化社 より引用。


今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと

聞くのだ。たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の

話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか。ワタリガラスがこの世界に森

をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の

中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚た

ちもじっと動くことはなかったのだ。ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中

から大きな火の玉が上がってきた。ワタリガラスはじっと見つめていた。すると

一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。彼の嘴は素晴らしく長く、それは

一羽のタカだった。タカは実に速く飛ぶ。「力を貸してくれ」 通り過ぎてゆく

タカにワタリガラスは聞いた。あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れ

なければならなかった。「力を貸してくれ」 三度目にワタリガラスが聞いた

時、タカはやっと振り向いた。「何をしたらいいの」 「あの炎をとってきて欲し

いのだ」 「どうやって?」 ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくる

と、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。「あの火の玉に近づいたなら、

頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」 若者は地上を離れ、ワタ

リガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続け

た。炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫

んでいたのだ。ワタリガラスは言った。「人々のために苦しむのだ。この世

を救うために炎を持ち帰るのだ」 やがて若者の顔は炎に包まれ始めた

が、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れ

た。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動き

だし、森の木々も伸びていった。それがわたしがおまえたちに残したい

物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを

見つめている。そのことを忘れるな。これからの時代が大きく変わってゆ

くだろう。だが、森だけは守ってゆかなければならない。森はわたしたち

にあらゆることを教えてくれるからだ。わたしがこの世を去る日がもうすぐ

やって来る、だからしっかり聞いておくのだ。これはわたしたちにとって

とても大切な物語なのだから。


(クリンギットインディアンの古老、オースティン・ハモンドが1989年、死ぬ

数日前に、クリンギット族の物語を伝承してゆくボブをはじめとする何人

かの若者たちに託した神話だった。この古老の最後の声を、ボブはテー

プレコーダーに記録したのだ。








エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像

公開されていないバチカン宮殿奥の芸術

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実


「アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)」にもどる



AllPosters