ファティマの聖母マリア
1917年5月13日、最初の「聖母出現」を受けた、9歳のルチア、いとこで8歳のフランシスコと6歳のヤシンタの兄弟。
The Day the Sun Danced: Fatima 1917
1917年10月13日、「太陽の奇跡」 この不思議な現象はポルトガルだけでなく、ヨーロッパ各国そして日本の新聞でも報じられた。
太陽がまぶしく輝くとともに、火の車のように回転した「太陽の奇跡」を告げる、当時のポルトガルの新聞 「オー・ディア・ジョールノ」の記事 「午後1時頃、雨はピタリとやみ、空を覆っていた雲は散り失せて、突然太陽が雲の間から輝きはじめた。 そして、太陽はたちまち灰色の光の円盤の中で火の車のように回転しはじめ、幾百条とも知れない光線を 四方に放たれ、回転するに従って光線の色が変化した。雲も、地も、木も、岩も、3人の小さな羊飼いも、 大群衆も、黄、赤、青、紫と次ぎ次ぎに色どられて行った。観衆はただ恍惚として動かず、かたずを?んで この光景に見入っていた。太陽はやがて大空を離れてジグザグに跳ね返りながら、群集の頭上で舞うの だった。太陽の回転は10分間ぐらいだった。参加者は一人残らずこの回転を目撃した。学者も、新聞記者 も、自由主義者もいた。そして、驚いたことには、数分前までは雨に濡れ、泥にまみれていた服がすっかり 乾いていた・・・。」 「奇蹟の聖地 ファチマ」矢代静一・文 菅井日人・写真 より以下、抜粋引用。 |
A Aparicao de La Salette e suas Profecias: Fatima, pagina 2
The Day the Sun Danced: Fatima 1917 1917年10月13日の正午、本来は高い位置になければならない太陽が、地に近いところに移動している。 天文ソフトで再現した、1917年10月13日(ポルトガル)の正午(地上風景は関係ありません) 1970年前後に作られたファティマのスライド写真 「Brunner & C.-COMO Printed in Italy」 50年近く経った現在、スライド写真は全て赤く変色しております。それぞれの画像をクリックすると 大きな画像とリンクしておりますが、私自身が色の修正をしたものと、スキャナーから読み込んだ 原版の両方を掲載します(2017年5月8日)。 (工事中です) |
||||
牧童の両親 |
幼い羊飼いと、「ひかり」 |
ルチアの生家 |
||
フランシスコとヤシンタの生家 |
天使が二度目に語りかけた場所 |
カペッソの丘の上 聖母マリアの 出現前に、天使が出現した場所 |
御出現の礼拝堂 |
|
1917年8月19日、4回目の聖母マリア の出現があったところ。 |
1917年8月19日、4回目の聖母マリア の出現があったところ。 |
御出現の礼拝堂のマリア像 「平和の女王」 |
夜の行列 |
|
病人の祝福 |
サンクチュアリ(聖域) |
御出現の礼拝堂 |
||
聖母 |
苦行の巡礼者 |
ファティマの聖母マリア |
苦行の巡礼者 |
サンクチュアリ |
十字架の道行 |
聖母マリアが子供たちに メッセージを託す絵 大聖堂 |
サンクチュアリ |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
夜の行列 |
御出現の礼拝堂 |
サンクチュアリ |
聖母マリア |
太陽の奇跡の教会 |
太陽の奇跡のステンドグラス |
聖体賛美式 |
|
11967年5月13日 パウロ6世 |
1967年5月13日 パウロ6世 とシスター・ルチア |
ファティマ当時の司教 Jose Alves Correia da Silva |
サンクチュアリ |
|
サンクチュアリに隣接するホテル 「Exercito Azul」 |
domus pacis |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
聖域の境内 |
カルバリ(ゴルゴタ) |
子供たちの特別な場所へ |
||
聖体賛美式 |
パウロ6世の像と十字架 |
|||
Segredo de fatima constituido por 3 partes. Visita Papa 1982年5月13日 ルチア と ヨハネ・パウロ2世 100 anos de Fatima: a “escandalosa traicao” da Irma Lucia A Imagem original de Nossa Senhora de Fatima foi esculpida com cedro do Brasil, em 1920 |
||||
「奇蹟の聖地 ファチマ」矢代静一・文 菅井日人・写真 1987年刊 より以下、抜粋引用。 80歳の花嫁 「第三の秘密」で語られている内容がなにを意味しているのかは、現代人である私たちにはたやすく想像がつくで はありませんか。この文章は、いま、バチカンの記録保存所に保存されています。(そして1980年、ヨハネ・パウロ 2世教皇がドイツを訪問したとき、この手記は真実であると答えたそうです)。 さて、1948年に、ルチアは聖テレジアがいたカルメル修道会に入会しました。きっと彼女は何度も繰返し、聖テレジア の言葉をつぶやいたことでしょう。 「私には、なんの価値もございません。私はなにも致しませんでした。私はただ愛しています。そして待っています」 ルチアがファチマを訪れたのは、聖母マリア御出現の年から50年もたった1967年のことです。ときの教皇パウロ6世 がファチマを初めて訪問するので、許しを得て同行したのでした。しかし、ルチアは数時間、ファチマの司教の許に いただけで、こっそりコインブラのカルメル会修道院に戻りました。ルチアはそっとつぶやきました。 「ファチマが世に知られれば知られるほど、私が、いよいよ世から忘れられますように」 彼女はいまも、お元気で祈りの毎日を過ごしておいでです。80歳のキリストの花嫁に平安あれ。 「ファチマ 巡礼者へのしおり」 ロメオ・マジョーニ・著 永田健二・訳 2001年刊 より以下、抜粋引用。 メッセージは確かに聖母の御言葉の中にあり、時に2つのことが目立って強調されています。それはまた、、聖母が 御出現のたびに繰り返し述べられていることです。「ロザリオを持って祈りなさい」、そしてイエスとマリアの御心を苦しめ る世界の罪を「償いなさい」ということです。 「償い」のテーマは、したがって、独自のメッセージです。その意味は聖母の直接の御言葉からはっきり分かります。 「すべての苦しみを神にささげてください。神はそれを、ご自身を傷つけた罪の償いのためにお受けになりたいと望んで おられます。また罪人の回心のためにささげてください」と。また修道女ルチアが記した手記のコメントからもそれが わかります。「この言葉はわたしたちに深い印象を与えました。それは、あたかもだれが神であられるか、いかに神が わたしたちを愛しておられるか、また、わたしたちから愛されることをお望みかを知らせてくれる光のようでした。また、 犠牲の価値をわたしたちに教えて、それがいかに神に召されるか、また、その犠牲に基づき、罪人の回心の恵みを お与えになられるかを教えてくれる光のようでした」。償いとはまず、神の愛を理解することです。神の救いの御業が 決定的なものであることを喜び、賛美と感謝で表し、愛をもってその御業に応えることです。それは償いを共にするもの としてその十字架にあずかることを意味します。わたしたちの苦しみがあたかもキリストの、世界の罪の「償い」となる ように、キリストの苦しみに一致させることを意味します。それこそ、幼い羊飼いたちがすぐに理解し、イエスとマリアの 御心への、目に見える形での愛の行いとして、彼らなりに実行したテーマなのです。ファチマのメッセージの核心を把握 し、それを各自の生活の中で実行していくためには、彼らの素朴さの中に入る必要があるのかもしれません。 ファチマから他のことを期待してはなりません。昔からの住民たちの家が立ち並ぶアリュストレールは、とても素朴な ままに残されています。この素朴な環境の中で、ヴァリーニョスからカベサオまでの、十字架の道行がいまだに行われ ています。そのときが天使の場所、ファチマに生きる、一番平和なひとときです。 |
OUR LADY OF FATIMA |
|||
「聖母マリアは、なぜ、「出現」したのか」 いま、キリスト教に起きている超奇跡 S・フィナテリ神父 徳間書店 より以下抜粋引用 第二次大戦勃発の予告 ポルトガルの首都リスボンから車で約2時間の小さな待ちファティマ。その町はずれの盆地、コーワ・ダ・イリアという ところが「聖母出現」の地である。当時、9歳のルチア、いとこで8歳のフランシスコと6歳のヤシンタの兄弟・・・この 3人がもの目撃者であった。 最初の「聖母出現」は、1917年5月13日のことだったが、その前の年に3人は「予兆」というべき体験をしている。 みずから「平和の天使」と名乗る「美少年」の「出現」を、3回にわたって受け、罪人の回心のために祈りと犠牲を 求められたというのである。 聖母は「白い輝くような衣の貴婦人」として、1917年の5月13日から毎月13日に、6ヶ月間つづけてあらわれ、 罪人の回心と世界平和のためにロザリオの祈りをすることをすすめた。聖母みずから、合掌している手にロザリオ をかけていたという。 1917年といえば、第一次世界大戦のまっただ中、3月にはロシアで革命が起こり、世界の庶民の平和への願い には、ひたすらなものがあったのである。 2回目の「出現」のときには、とくに、聖母の「汚れなきみ心」に対する崇敬が、キリストの望みであることが告げられ た。原罪の汚れに染まらず、母でありながら生涯おとめとして通した聖母マリアの「み心」を崇敬するとは、この退廃 的な時代に抗して、聖母の「純潔」を尊び、そのように生きよということであろう。 3回目の「出現」では、聖母は地獄の恐るべきありさまを、牧童にかいま見させたという。それは「燃えさかる火の 海」であったと、後年、ルチアは記録している。そして、聖母は、@ この戦争(第一次大戦)はまもなく終わるが、 しかし、人々が回心しないなら、「つぎの教皇の時代」に、もっと大きなわざわいが起きると「予告」する。これが、 第一次大戦の終結と第二次大戦の勃発の「予告」であるとされているものである。 また、A 聖母は「ロシアの回心」についてのべ、人々が聖母の光・・・すなわち、回心とロザリオの祈りと聖母の 「汚れなきみ心」に対する崇敬・・・の三つの勧告を実行すればロシアは改心するが、そうでなければ「ロシアの 謬説」は世界をおおうであろうと「予告」したという。 この二つの「予告」が明らかにされたのは、じつは20年以上もたって、1941年になってからのことである。それ まで、「だれにも語ってはならない」という聖母の言葉に従って、いっさいはルチアひとりの胸のうちにおさめられて きたのだ。「出現」の目撃者のうち、フランシスコとヤシンタは、何年もたたぬうちに世を去り・・・これも聖母の「予告」 どおりだったという・・・、1925年、17歳のとき、修道女となったルチアだけが、唯一の証人として残ったのである。 1941年といえば、すでに第二次大戦が始まっており、ソ連は連合国の一翼を担ってファシズムと戦っていた。 そのさなかに、当時33歳の彼女が、かつて聖母に告げられたという右の「二つの秘密」を公表したというのには、 どんな意味があったのだろうか。 ひとついえるのは、最初のほうの「秘密」だが、予告された「もっと大きなわざわい」は、すでに第二次大戦として 実現されていたということである。その実現を待って、ルチアは口を開いたのであろうか。 そして、聖母が告げた「秘密」には、まだ公表していないもう一つの部分があるという。これが世に「ファティマの 第三の秘密」と称され、世界終末の予言であると取り沙汰されているものである。 ファティマの「第三の秘密」とは何か? ファティマ地区を管轄化におくレイリアの司教が「出現」の事実を公にみとめたのは1930年、「出現」後13年の ことである。このとき、参集した巡礼は30万人を数えたという。そして、翌年、ポルトガルの全司教は、祖国を ファティマの聖母に奉献した。 1917年10月13日、ファティマいおける最後の「出現」のさい、はじめて「太陽の異変」という現象が起きた。日没 前、朝からの雨がはたとやみ、太陽がまぶしく輝くとともに、火の車のように回転して、約10分間つづいたのである。 聖母の「出現」を見たのは、ルチアら三人の牧童だけだったが、この「異変」は、各地からその場所に集まっていた 10万人もの人が目撃したという。そればかりか、3、40キロ離れたところでも、このふしぎな現象が眺められたこと が報告されているのである。 この事件は、ポルトガルはじめヨーロッパ各国の新聞が報道した。もちろん、それは「奇跡」などではなく、たんに 偶然生じた特異な自然現象であろうという解釈が多かった。 3人の牧童それぞれへの聖母の「出現」は、その後も何度かあったらしい。3人のうち2人が夭折し、ひとり残った ルチアが修道女になったことは、前にも書いたとおりである。ルチアはいまも健在で、コインブラの修道院で静かな 祈りの日々を送っている。最近では、1982年に、ファティマ巡礼の後、修道院を訪れた教皇ヨハネ・パウロ2世と 面談している。 ところで、いまだに公表されていないファティマの「第三の秘密」だが、その内容はすでにルチアによって文書として 書きしるされ、教皇庁に保管されているという。この文書を最初に手にしたのは、第二次大戦から戦後にかけての 教皇ピオ12世だが、彼はそれを開封しなかった。ルチアが「私が死ぬか、1960年まで開封しないこと」を、この 「秘密」を文書化する条件にしていたからである。ピオ12世は、1959年に没した。 後をついだヨハネ23世が、この文書にはじめて目を通した教皇であるといわれている。しかし、彼はこれを公表 しようとしなかったし、いっさいの言明を避けた。 つぎの教皇パウロ6世は、在任中に「出現」50周年を迎えたファティマに巡礼し、ルチア修道女を親しく接見もして いる。だれいうともなく「“第三の秘密”の文書を読んだパウロ6世は、あまりの恐ろしい内容に卒倒した」という噂が 流れたのは、このころである。パウロ6世が、その文書の抜粋を世界各国の教会首脳に送り、北海道のトラピスト 修道院長のもとにも届いているなどといわれたが「そんな事実はまったくない」と、同修道院の神父は否定している。 「第三の秘密」の内容は何か? もちろん文書に目を通したごく少数の人しか知るよしもないわけだが、それが ほんものの聖母のメッセージであるなら、世界終末の恐怖をあおるようなものでは、ぜったいないはずである。 世界の終末については、すでに福音書でイエズス・キリストによって語り尽くされている。そのときは必ずくるが、 それがいつのことか、天使も、キリスト自身も知らないという。そして、その終末は、新しい世への出発なのである。 希望のときであって、絶望や不安のときではない。前にもいったように、キリストの福音は希望と喜びを伝えるもの で、絶望や恐怖にいたずらに人をおとしいれることはないのである。聖母のメッセージなるものは、それが真に 聖母からのものであるなら、この福音の精神にのっとっているはずである。 「ファティマT」と「ファティマU」 ある神学者は、ファティマのメッセージを二つに分け、かりに「ファティマT」と「ファティマU」というふうに呼んでいる。 「ファティマT」というのは、1917年、ルチア、フランシスコ、ヤシンタの3人の幼い牧童が聖母の「出現」を受け、その 直後に彼らが明らかにした聖母のメッセージである。すなわち、罪人の回心と世界の平和のためのロザリオの祈り、 そして、聖母の「汚れなきみ心」を崇敬するということである。 しかし、3回目の「出現」のさいの2つの「予告」あるいは「秘密」、さらには「第三の秘密」についての言及は、20年 あるいはそれ以上も後になって、しかも、ルチアひとりによって明らかにされたもので、それはとうぜん「ファティマT」 とは区別されなければならず、これを「ファティマU」と呼ぶのである。とくに、「第三の秘密」の部分が書かれたのは、 1943年のこととされている。 「出現」の直後、3人の牧童が明らかにした、と私が書いたが、たしかに最初の「出現」の日の夜、ヤシンタは母親に すべてを報告し、その内容を兄のフランシスコもみとめたという。しかし、それが文書として残されたのは、6年後の ことである。村の主任司祭は、ルチアからもただちに聞き書きをとっているが、いま残っているその種の文書で、いち ばん古いのは、1918年6月の日付のものだ。 もちろん、当時、3人は文字を書くことができなかったから、自分では何も書き残していない。ルチアが文字を習い おぼえたのは、修道院に入ってからで、聖母のメッセージを自分で書きしるすためだったという。 ルチア自身が書いた記憶として現存しているのは、1935年、1937年、1941年(8月と12月)、そして、「第三の 秘密」の1943年のものだけである。最後のものにいたっては「出現」当時、9歳だった彼女は35歳になっている。 とうぜん、その内容に年数に応じた「発展」はありえたであろう。修道院で宗教生活を深めていったとすれば、なお さらである。また、たとえ修道院の奥深く世間から隔絶されていたとしても、時代・・・とりわけ激動の時代の影響は 受けざるをえないであろう。戦闘的無神論の国「ロシアの恐怖」などは、宗教の世界に閉じこもっていればいるだけ、 かえって増幅したかもしれない。 ファティマの「聖母出現」は、教会によって公認されている。公認というのは、それを公的に崇敬することが許される ということであって、つまり、その崇敬が信仰上、あるいは社会的にもよい結果を生んでいるとみとめられるということ である。 すでに何度も引いた「よい木はよい実を結ぶ」というキリストの言葉を、もう一度思い出していただきたい。逆に いえば、よい実を結ばないのは、よい木ではないのだ。これは、すべてのキリスト教の「ふしぎな現象」について いえることである。 |
|||
「奇蹟の聖地 ファチマ」 矢代静一・文 菅井日人・写真 講談社 1987年刊 劇作家である故・矢代静一氏の、まるで子供に語りかけるような視線から紡ぎだされる言葉。そして 「祈り」の場に漂う世界を、菅井氏は見事に写真という表現で読者に訴えかけてやまない文献である。 |
|||
「ファチマ―巡礼者へのしおり Romeo Maggioni・著 永田 健二・訳 2001年5月刊 (本書より引用) 1917年、聖母がポルトガルの小さな村、ファチマで御出現になり、人々に祈りと悔い改めをお勧めになりました。 現在ファチマは大勢の人びとの目的地であり、神がおられるのを肌で感じるお恵みの場所です。このしおりには 御出現の歴史、ファチマの場所への案内、十字架の道行、ファチマの聖母にささげるミサ、ロザリオの祈り、 ポルトガルにおける巡礼、そしてマリアへの祈りが記されています。 |
Maria, donna della carita(Benedetto XVI)
2012年6月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 聖母マリア(写真は私の家にあるマリア像です) これまで世界各地に聖母マリアが出現した。その中でカトリックの聖地となったものではルルド、ファティマが 有名かも知れない。 アッシジの聖フランシスコも「小さき花」で描かれているように、イエス・キリストやモーセの臨在を数多く受け ていた。 私自身の場合、過去に一度だけ神秘体験をしたことがある。苦しみを通り越して自分が息をしているかどう かわからなかった時のことであるが、ただそれは強いストレスにさらされた脳に快感物質が出たからだと今 は思っている。 ルルドやファティマに出現した聖母は真に神からの伝言だったが、私の場合は脳の防御反応でしかなかった と感じている。 本当に真偽を見極めるのは難しいと思うし、私には出来ない。 たとえ私の前に過去の偉大な聖人が出現しても私はそれを吟味し続けるだろう。 その現象を自己の心の奥深くに落としながら、それは真なのかと問い続けるだろう。 それは私のような疑い深い人間には長い時間を要するものかも知れないし、時間をかけなければならない ものだと思う。 ルルドやファティマで聖母を見た少女たち、彼女たちは純真無垢だけでは言い現すことができない何か、神か らの特別な恩寵を受けていたと感じられてならない。 (K.K) |
2017年5月29日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 揺さぶられた一枚(写真は他のサイトより引用) この写真は「太陽の奇跡」(1917年、大正6年)で有名なファティマという聖地での巡礼者の写真である。 根源的な問い「何故?」「何故?」 それは宗教・人種という外面的なものを突き抜けて、深遠なものへと目を向けさせていく。 そこにこそ十字架が立っているのだろう。 宗教者に限らず、私たちも含めて、他者(人間に限らず)を少しでも自身のうちに映像化させることが全ての起点かも知れない。 |
1917年10月13日(ポルトガル)の正午(地上風景は関係ありません)
(130) nossa senhora de fatima barroca - Pesquisa Google