聖母子への祈り
(この聖母子像はフィリピンの刑務所に入っている方が創ったものです)
主の祈り |
天使祝詞 |
聖ミカエルに対する祈り・レオ十三世 |
今日の歌・リジュの聖テレーズ |
完徳の道より・イエズスの聖テレジア |
Vasari's Biography of Michelangelo より引用
天にまします われらの父よ 願わくは、み名の尊まれんことを、 み国の来たらんことを、 み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。 われらの日用のかてを、 今日われらに与え給え。 われらが人にゆるすごとく、 われらの罪をゆるし給え、 われらを試みに引きたまわざれ、 われらを悪より救い給え。 アーメン。
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めでたし聖寵満ち満てるマリア、主御身とともにまします。 御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝せられたもう。 天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え。 アーメン。
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(レオ十三世の作)
大天使聖ミカエルよ、 戦いにおいて、わたしたちを守り、 悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。 神がかれに命じてくださいますよう、伏してお願いします。 ああ、天軍の総師よ、 霊魂をそこなおうとして、 この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、 神のおん力によって地獄にとじこめてください。 アーメン。
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レオ十三世
私のいのちは一瞬 過ぎゆく一時 私のいのちは 私からのがれ去り 束の間に消え去る一刻。御身は知っておられます。 ああ私の神よ この地上で御身を愛するために 私には 今日だけしかないことを!
私は御身を愛します イエズスよ! 御身に向かって私の魂は憧がれる・・・・ 一日のためにだけ 私のやさしい支えとなってください 私の心に来て 統め 私に 御身のほほえみをお与えください ただ今日のためにだけ!
若し 将来が暗くても 主よ それは私には何でもありません! 明日のために祈る・・・・ああ 私はそんなことは出来ません・・・・ 私の心を清く保ち 私を 御身の陰でおおってください ただ今日のためにだけ!
明日を想うと 私は 自分の変り易さを恐れます 私の心の中に悲しみと 倦怠が生じるのを感じます けれども 主よ 私は試練も苦しみも欲します ただ今日のためにだけ!
やがて 永遠の岸辺で 私はあなたにまみえます 導きの聖なる水先案内よ あら波の上に 私の小舟を やすらかに導いてください ただ今日のためにだけ!
私は 私のイエズスを見たい 覆いなしに曇りもなしに けれど この地上でも 私は彼のお側にいるのです・・・・ 彼はその愛すべき みかおを おかくしにはならないでしょう ただ今日のためにだけ!
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私が今までに言ったことだけで、もうたいしたものだと思わないでください。 私はまだ、いわゆる盤に駒を並べたにすぎません。あなたがたは、念祷の 基礎になるものについて話してほしいとおたのみになりました。娘たちよ、 神は私を{徳という}この第一歩からお導きにならず、そのため私は今もま だ{前にお話ししてきた}徳の初歩さえ持っているはずはないのですが、そ れでも、ほかの基礎は知りません。チェス(西洋将棋)のゲームでは、駒の 動かしかたを知らない人は勝つことができないとお思いなさい。王手をかけ ることを知らないならば、詰手もさせないのです。この家ではそのような遊び はありませんし、あってはならないのですがら、こんな勝負の話など持ち出し て、あなたがたにしかられるでしょう。でも、これで神がまあいったい何という 母をあなたがたにくださったのかが、おわかりになるでしょう。彼女はこんな にむなしいことまで知っていたのです! とにかく、この遊びは、ときどきは してもかまわないと言われています。それならば、このチェスの手をここで 応用するのはどれほどかまわないかもしれません。もしたびたびこの手を 使えば、なんと早く“神なる王さま”を王手詰めにすることでしょう。そうすれ ば主はもう私どもの手からのがれることがおできになりませんし、逃げたい ともお思いにならないでしょう。このゲームでは、王さまにいちばん戦いをい どむことのできるのは女王駒で、ほかの駒はみな女王を助けます。さて、 それでは、謙そんほど、神なる王さまを降参させる女王はありません。この 謙そんこそ、主を天国から処女マリアのご胎にお引きよせしたのでした。 また私どもも、謙そんによって、髪の毛のただひとすじで、主を自分の霊魂 の中にお引きよせするのです。私をお信じなさい。謙そんを多く持つ者は 主を多く所有し、謙そんの少ない者は、主を持つことも少ないのです。愛な しでどうして謙そんがあり、またありえるのか、そして謙そんなしにどうして 愛がありえるのか、私にはわかりません。また、すべての被造物からの 大きな離脱なしには、この二つの徳は存在することができないのです。
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浅田カトリック教会にて 1996年7月5日撮影
2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年6月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 聖母マリア(写真は私の家にあるマリア像です) これまで世界各地に聖母マリアが出現した。その中でカトリックの聖地となったものではルルド、ファティマが 有名かも知れない。 アッシジの聖フランシスコも「小さき花」で描かれているように、イエス・キリストやモーセの臨在を数多く受け ていた。 私自身の場合、過去に一度だけ神秘体験をしたことがある。苦しみを通り越して自分が息をしているかどう かわからなかった時のことであるが、ただそれは強いストレスにさらされた脳に快感物質が出たからだと今 は思っている。 ルルドやファティマに出現した聖母は真に神からの伝言だったが、私の場合は脳の防御反応でしかなかった と感じている。 本当に真偽を見極めるのは難しいと思うし、私には出来ない。 たとえ私の前に過去の偉大な聖人が出現しても私はそれを吟味し続けるだろう。 その現象を自己の心の奥深くに落としながら、それは真なのかと問い続けるだろう。 それは私のような疑い深い人間には長い時間を要するものかも知れないし、時間をかけなければならない ものだと思う。 ルルドやファティマで聖母を見た少女たち、彼女たちは純真無垢だけでは言い現すことができない何か、神か らの特別な恩寵を受けていたと感じられてならない。 (K.K) |
2013年4月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 「男は女の力を恐れている」 (写真は『アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち』から引用しました。) 中東やインドで起きている女性の悲劇を見るにつけ、私はそれを感じてならない。 恐らく太古の時代では多くが母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度)で あり、調和ある共同体をつくるために母系社会は最も基礎となるものだった。 縄文土器に見られる女性像などから、儀式を執り行ったのは主に女性だったのではないかとの説が あるが、沖縄・奄美のユタ(殆ど女性)を除いて、世界各地のシャーマンは圧倒的に男性が多い。これ はもともと女性は生まれながらに偉大な神秘が宿っていることを男性自身が認識しており、治癒など の儀式や部族の指導者(女性の意見だけで決める部族もある)は男性に任せるというのが自然の流 れになってきたのかも知れない。 母系社会の中では性犯罪が起きることは考えられないことであった。例えばアメリカ先住民と白人が 憎み戦っていた時代の証言「インディアンに囚われた白人女性の物語」の中でも、白人男性の捕虜と は異なり、女性捕虜が如何に大切に扱われてきたかを読むとることができる。 このアメリカ先住民の社会では、女性が男性の荷物を家の外に置くだけで離婚は成立し、その逆は なかった。 ただ現代のアメリカ先住民社会は、子供を親から無理やり引き離し、言葉・生活習慣・宗教などの 同化政策がなされた影響で、アルコール中毒、自殺、家庭崩壊、貧困が深刻な問題になっているが、 虐待や育児放棄の被害にあった子供たちを母系の集団の中で世話するため、現在でも孤児は存在 しない。 母系社会がいつから父系社会に転換したのか、、定住とそれによる近隣との闘争という説もあるが、 私の中ではまだ答えは見つけられないでいる。しかし肉体的な力による服従が次第に母系社会を 崩壊させ、それが暗黙のうちに様々な宗教に伝統として紛れ込んだのは事実かも知れない。 日本では菅原道真などに象徴される「怨霊」や「祟り」を鎮めるために、迫害者に近い人が神社などを つくり、祭り上げることで鎮めてきたが、同じように卑弥呼の時代は既に女性の力の封印が始まった 時期だと思う。また中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」も、宗教が関わりを持つ以前から民衆の間で 始まった説があるが、女性の力を封印させる側面もあったのだろう。 「男は女の力を恐れている」 無意識の次元にまで下ったこの感情を、あるべき姿へと開放させ、母系社会の意味を改めて問う時代 だと思う。 「アメリカ先住民」に限らず、「聖母マリア」、「観音菩薩」の存在は、暗にその意味を私たちに教えている ような気がしてならない。 ☆☆☆☆ 「女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。」 (チェロキの言い伝え) 「先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。」 ルネ・セノグルス(Renee Senogles) レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa) 「女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。」 オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え 「この星は、われわれがずっと生活してきた家である。 女性はその骨で大地を支えてきた。」 リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人 「女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と 女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し 始めるだろう。」 ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者 ☆☆☆☆ |
2013年5月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) テントウムシ(天道虫)とネムノキ(合歓の木) 5月26日ベランダにて撮影 テントウムシはアブラムシ類や、種類によってはカイガラムシ類やハダニ類、うどんこ病菌を 食べる益虫として昔から尊ばれてきました。また太陽に向って昇り、枝の先端からでないと 飛び立たないことから、日本では「天道虫」として親しまれていました。 英語では「聖母マリアの使い」、ドイツ・スペイン語では「マリア様の虫」、フランス語では「神様 の虫」、イタリア語では「神の雌鳥」との意味があり、イタリアやアメリカでは、テントウムシが体 にとまると幸せが訪れると言われているようです。 ヨーロッパのある伝承では、無実の罪で処刑されそうになった男の肩にテントウムシが留まり、 男は息を吹きかけて逃がしてやりますが、そのテントウムシは違う男の肩に留まります。その 男はこのテントウムシを叩き潰してしまいますが、それを見ていた領主が不審に思い再調査し たところ、叩き潰した男が真犯人だとわかったことから「無実の人を救う虫」となったというもの もあります。 ネムノキ(合歓の木)、何故「合歓の木」と呼ばれたのかは、夜、葉を閉じる姿が眠っているよう に見えるとか、夫婦の交わりを意味すると言われていますが、私は手を合わせる行為、祈りの 姿に似たものをそこに感じます。 日の出とともに咲き、日の入りとともに花をしぼめる蓮や睡蓮は、エジプトやヒンズー教、仏教 では聖なる花ですが、合歓の木の姿を見て、そこに蓮や睡蓮と同じように太陽と共に生きたり 眠ったりする姿を重ね合わせた人がいたのかも知れません。 自然の営みを通して思い起こさせてくれる「祈り」の姿は、あるべき道から離れた心を呼び戻そ うとしているかのようです。 |
2014年10月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 皆様のすぐそばに、いつも笑いがありますように。 以前にも話したことだが、フィリピンに2週間ほど滞在したことがある。 そこでは独裁政治だったマルコス政権を打倒しようとする人々。 森に生きる先住民で、政府の政策によりその生存範囲を奪われる人々。 両親を日本兵に殺され、許すことへの祈りによって、会いにきてくれた男性。 スラム街での貧しくとも屈託のない子供たちの笑顔。 ハンセン病の隔離病棟での女性たちの笑顔。 これらの貴重な出会い、あれから30年近く経とうとしているのに消化しきれない自分がいる。 その中でも天使と出会ったと感じたのは、ハンセン病の隔離病棟での短い時間での触れ合いだった。 昔は「らい病」と恐れられた病気で、女性だけが収容されている病棟に入ったのだが、何を言えばわからなかった。 恐らく幼稚な仕草をしたためだと思うのだが、いつの間にか彼女たちに囲まれ笑われていた。 そして陽気な国民性にもよると思うのだが、彼女たちの笑顔に、心にあった壁は取り除かれていた。 無邪気な笑い、故郷や家族から引き離された人々が見せる笑顔。 どのような過酷な状況に置かれても、違った世界を垣間見させてくれる笑いに人は身をゆだねる。 天使がどのような目を持っているのか私は知らない。 しかし彼女たちの悪戯っぽい目の輝きは、乳児が生まれて初めて微笑むように、光に満ちていた。 |
2016年5月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 「聖テレジアの法悦」 ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598〜1680年)作 アビラの聖女テレサ(聖テレジア)、彼女が生まれた1515年はルネッサンスや宗教改革などの 激動の時期でした。 あるべき修道院の姿を希求した彼女は宗教裁判にかけられ投獄、書いた詩なども焼却されますが、 その後の彼女は16世紀におけるカトリック教会改革の原動力となっていきます。 現在でもカトリック神秘霊性の最高峰と言われる彼女の著作「霊魂の城」、その源となったのは、天使が 焼けた金の矢で彼女の心臓を貫いた時に感じた神への燃えるような愛でした。 ベルニーニによる像「聖テレジアの法悦」、天使が彼女を矢で射る像、その時の彼女の顔(写真は 他のサイトより引用)だけを撮ったものです。 宗教裁判や異端審問、話は変わりますが、これを題材にしたミュージカル映画「ラ・マンチャの男」 (ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン主演)は今でも私にとっては大切な宝物です。 真の「改革」とは、魂の奥底から突き上げてくる、自身の感情や知性などという自我を超えた次元 から、もたらされるものかも知れません。 |