「超訳 ブッダの言葉」

小池龍之介・編訳 ディスカヴァー








二つの道



ひとつの道は、みみっちい利益と名声を追い求める寂しい道。

もうひとつの道は、心の安らぎに至る真理の道。

私の生徒であろうとするならば、

世間の評価や名声など放っておいて、

孤独の中に自分の内面を探求するように。



法句経75



煩悩を焼き尽くす火を燃やせ



君よ、香(アロマ)を焚いて良い匂いを漂わせたり、

お祓(はら)いをしてもらったり、

護摩の火を焚いて儀式をしたら、

心が浄化されるなんて思い込まないように。

それは単なるうわべのことにすぎない。



君よ、私は護摩の火を焚いたりする代わりに、

心の内部に強烈な火を焚いて燃やす。

心の中に消えることなき火を焚いて、

いつも精神集中をしながら、

迷いなく煩悩を焼き尽くそうと努めている。



相応部経典



スピリチュアルなものや人に依存しない



ストレスにおびやかされて心に落ちつきがなくなると、人は神様を信じてそれに

依存しようとする。あるいはどこかの教祖様を信じ、あるいは守護霊を信じて拝

み、あるいはスピリチュアルな本を拝み、それらにすがろうとする。



こういった「スピリチュアルな」ものに依存したり「スピリチュアルな」人に洗脳され

たりすることで、現実から目をそらし、束の間の安心を得ようとする。



けれでもそれらは、安心できる拠りどころではない。

君がこれらに依存しても自由を奪われて洗脳されるだけで、ストレスを生み出す

心の仕組みは変わらないのだから。



法句経 188、189



知識から自由になる



内面を見つめる力や集中力や落ちつきといった能力を高めるトレーニングをする

かわりに知識を増やそうとするのは、愚か者の証。



哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増

やすことによって、記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、

頭が混乱するだけ。



「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだか

らこの知識を使ってみたいよー」などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、

知らず知らずのうちに知識に支配される。その知識のフィルターを通してしか物事

を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。



頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じ

るように。



法句経 72



私(ブッダ)の言葉にすら依存しない



君が川を渡るために筏(いかだ)をつくって、

川を渡ったあとでこう考えたとしてみよう。

「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と。

そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、

重たくて重たくて、まともに歩けはしなくなる。

それが君の業績であれ学歴であれ職歴であれ、この筏と同じこと。

私の言葉を教えも真理すらもまた、

この筏のようなものにすぎないのだから。

君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。



中部経典「蛇喩経」



序文 (本書より抜粋引用)


ブッダの言葉がシンプルなのと同じく、本書を製作した意図もまた、すこぶるシンプルです。

すなわち、読者がこの本を手に取り、どこかのページをパラッと開く。そこに並んでいるブッダ

の言葉がスーッと心に染み込んで、良き方向へと向かう風が吹きこまれるように、と。



その心に勇気の嵐が吹き、あるいは静けさが生まれ、あるいはハッと目が覚め、あるいはま

た執着(こだわ)っていたことを手放して心安らぎ、あるいは怒りの火が消えてゆく・・・これらの

「効き目」こそが狙いとするところです。



したがいまして、「学問的意義」や「深遠さ」や「お勉強」を求めて読まれますなら、きっとがっか

りされることでしょう。そうではなく、悟りしブッダによる、私たちの心の核心まで迫り揺さぶって

くる言葉に、素直に耳を澄ませていただければと思う次第です。



その言葉はてらいなくシンプルであるがゆえに、複雑なコムズカシイ心で受け取ると、何も入っ

てこないかもしれません。けれども、肩肘はらない素直な心でページをめくってくださいますなら、

きっと読むたびごとに毎回新たな風が心に吹きわたり、良き方向へと背中を押してくれることで

しょう。ひょっとすると、口ずさんでいただくのも味わいかたとして、とても好ましいかも知れません。



本書では、ブッダ自身が生きて古代インドで活躍していたころの語源を直弟子たちが暗記・暗誦

して伝えられてきたとされる古い経典たちから、高校生からそのおじいさまおばあさま世代まで、

どなたにもわかりやすそうなもののうち、筆者自身が気に入っているフレーズを選定して「超訳」を

施しました。さらに口調も、できるだけ広い年代の方にお読みいただけるよう、わかりやすさを心

がけました。



(中略)



ギラギラと太陽が照りつける過酷な環境のインド。ブッダが活躍した国では、厳しい環境のもと、

古代から、数学や科学の研究が発展したり、きわめて合理的な思考が育ったものでした。



強い日差しのもと、カラッとした思考が生まれていた土壌に、ブッダのすこぶる合理的かつ心理学

的アプローチも生まれた、と申すこともできるかもしれません。それに比べて私たち日本人はいき

おい、センチメンタルでじとっとした情感にとらわれるのを好みがちで、その気質はうっかりアレコレ

思い悩んでしまう元凶ともなりましょう。この日本的な湿気こそ、古代インドの智慧の太陽によって、

カラッと焼き尽くしてしまえば、ジメジメした心の湿度が下がって快適な風通しが得られることでしょう。


 


目次

序文

一 怒らない

二 比べない

三 求めない

四 業(カルマ)を変える

五 友を選ぶ

六 幸せ(ハピネス)を知る

七 自分を知る

八 身体(からだ)を見つめる

九 自由になる

十 慈悲を習う

十一 悟る

十二 死と向き合う

ブッダの生涯「超」ダイジェスト

あとがき

参考文献





2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



フィリピンの刑務所に服役している方が作った聖母マリア像で大切にしているものです。



随分前のテレビでブッダの足跡を追ったNHKの番組があり、梅原猛さんと瀬戸内寂聴さんが解説して

おられた。晩年のブッダが母親の故郷だったか亡くなった場所を目指していたのではないかとの問い

に、瀬戸内寂聴さんは「それはありません。ブッダはそれを超えた目的のために向かった」と話してお

られましたが、梅原猛さんは瀬戸内寂聴さんに対して「いや、仏陀の心の奥深くにはそれがあった」と

言っておられたのが強く印象に残っています。



ブッダ、そして梅原猛さんも生まれて1週間後に母を亡くしています。宗教学者の山折哲雄さんは梅原

猛さんのことを次ぎのように記しています。



「仏教にたいする梅原さんの心情の奥底には、母恋いの気持が隠されている。それは微かに沈殿して

いるときもあるが、激流となってほとばしることもある。梅原さんがしばしば語っているように、それは養

父母に育てられた体験からきているのかもしれない。とりわけ、母上に早く死なれてしまった辛い体験

が、その後の梅原さんの思想の形成に大きな影を落としているためなのであろう。その深い喪失感が、

梅原さんの文章に切迫した気合いをみなぎらせ、その言葉に美しいリズムを生みだす源になっている

のだと思う。」



ブッダ、そして梅原猛さんは同じ喪失感を味わったものだけしか理解しあえない次元で繋がっているの

かも知れません。



勿論、瀬戸内寂聴さんの「仏教塾」は万人に理解できる言葉で仏教を紹介している素晴らしい文献です

が、それと同様に梅原猛さんの「梅原猛の授業 仏になろう」はユーモアを交えながらも奥の深さを感じ

ます。また手塚治虫が書いた漫画「ブッダ」と共に、今読み始めている「超訳 ブッダの言葉」小池龍之介

・翻訳もそのような優れたものなのかも知れません。



私は読んだことはありませんが、当時の日本の哲学界の重鎮であった西田幾太郎や田辺元を梅原猛

さんは評価しながらも批判をしています。



「西田・田辺の精神はよろしい。西洋哲学と東洋哲学を総合して、今後の人類に生きる道を示すような

独創的な哲学を立てるという精神には大賛成です。だけど、もっとやさしく語れ、もっと事実に即して語れ

というのが、私の学生時代からの西田先生、田辺先生に対する批判です。」



専門家向けに書かれた本なら専門用語を駆使して書くことは当然かも知れません。しかし万人を対象と

するとき、敢えて難しい言い回しや専門用語を使うことは、自らの学問の使命を忘れているのではと感じ

てなりません。勿論私の読解力のなさがそう思わせている面もあるのですが、学問は人類に限らず地球

や地球に生きるもののためのものであるはずです。学問を自分自身の名声・名誉や金銭、社会的地位

を得るための手段としてしか捉えられない者は、哲学であれ科学であれ道を踏み外しているように思い

ます。



「母の愛を象徴化したような観音やマリア崇拝が、宗教の根源ではないか」と梅原猛さんは言っています

が、梅原猛さんが母の慈愛を観音様に重ね合わせるように、私は聖母マリアに重ね合わせているので

しょう。



ただ児童虐待などで母の慈愛を感じらずに育った子供たちは、物心がつくまえに母を亡くした方と同じよ

うな喪失感が横たわっているのかもしれません。



(K.K)



 


2012年4月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略



ティナ・シーリグ教授(写真は他のサイトより引用)



マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」に感銘を受けて、「スタンフォード白熱教室」の

ティナ・シーリグ教授のDVDを借りて見た。



スタンフォード大学は多くの企業家を生み出してきた大学として有名らしいのだが、その授業の中

でもティナ・シーリグ教授の手法(集団発想法)は常識を打ち破る新たな創造性を産みだしている。



私はまだ4巻の内2巻しか見ていないのだが、マインドマップなど様々な道具を利用しながら発想

方法を学んでいく。これまで特に印象に残ったのが「最悪のものと思える」ことから新たなものが

生まれる可能性があるということ。勿論、企業家を目指すための講座なのだが、私たち一般の

人間にとっても、日々の生活の中でそれらの手法は活かせるのではないかと思ってしまった。



ただ私の中で、マイケル・サンデル教授もそうだが、テレビに映る画面を見ながら言葉を聴いて

いると、それらの言葉が頭の中をすり抜けていくような感じになってしまう。脳の老化現象なのか

も知れないが、そのためこれらの講座を私は目を閉じて言葉を聴くようにしている。



しかし暗闇の中で言葉が降りてくると、何故この言葉を使ったのだろう、この言葉に隠された感情

は何だろう、などとイメージが新たな方向に膨らんでいくのが不思議だった。



チェスでも最近は頭の中で棋譜を追い続けるよう訓練している。強いアマチュアやプロ棋士だった

ら盤を見ない「盲指し」は誰でも出来るが、逆に「盲指し」をやり過ぎると脳にいい影響を与えないと

も言われている。チェスが強かった旧ソ連でこの研究結果が出たと記憶しているが、確かにイメー

ジの世界と現実とのかいりが人格を分断させてしまう可能性はあるのかも知れない。



この研究結果が本当のことなのかわからないが、イメージと現実の世界を常に行ったり来たりする

ことで脳の平衡状態が生みだされ、悪い影響を避けることができるのだろう。



家のベランダに置いてある睡蓮鉢では、睡蓮の葉が水中で大きくなり、メダカがもう卵を抱えている。

春、生命の躍動を感じてしまう季節だ。



☆☆☆☆



知識から自由になる(『超訳 ブッダの言葉』小池龍之介・編訳)より引用


内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった能力をトレーニングをするかわりに知識を増やそう

とするのは、愚か者の証。



哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、

記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。



「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだからこの知識を使っ

てみたいよー」などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、知らず知らずのうちに知識に

支配される。



その知識のフィルターを通してしか物事を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。



頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じるように。



法句経72



☆☆☆☆



(K.K)



 


2012年5月6日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




4月17日に投稿した「二番煎じは嫌だ」とも通じますが、ブッダの言葉の中で最も好きなものを紹介しようと

思います。



この言葉は後世にいい影響とそうでないものをもたらしたように思います。しかしブッダはそれ予見してい

ながら、それでも自分の教えが新しく生まれてくる人たちによってより深まっていくのを確信していたように

感じてなりません。



さまざまな宗教には多くの問題がありますが、それでもより洗練された姿になろうという方向性を感じます。



宗教の根源、沈黙でしか聴くことが出来ない次元に根を下ろした偉大な魂は道標として私たちを導いてく

れました。そして新たに生まれてくる魂が、今度はどんな景色をみせてくれるのか本当に楽しみです。



☆☆☆☆



君が川を渡るために筏(いかだ)をつくって、川を渡ったあとでこう考えたとしてみよう。



「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と。



そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、重たくて重たくて、まともに歩けはしなくなる。



それが君の業績であれ学歴であれ職歴であれ、この筏と同じこと。



私の言葉も教えも真理すらもまた、この筏のようなものにすぎないのだから。



君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。



中部経典「蛇喩経」



「超訳 ブッダの言葉」より引用



☆☆☆☆




(K.K)









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