ほくと未来ネットワーク:マイケル・サンデル より引用


   



2012年3月25日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

「NHK DVD ハーバード白熱教室 正義」



NHKの番組でサンデル教授の授業が印象深かったので、レンタルで借りて見た。教授の例え話は

勿論のこと、学生達の言わんとしていることを的確に掴み、対話を通して議論を深めていく技術。

現代に甦ったソクラテスなのではないかと感心してしまった。



また教授の質問に自分の意見を瞬時に見い出していくハーバード大学生の優秀さと同時に、その

道徳性の高さにも驚き、サンデル教授の「対話しながら善の一致を探る」姿勢は感動的すらあった。



ただこれらの対話の中で、質問に対し瞬時に反応できるとはどういうことだろうと考えてみた。確か

に教授から投げ掛けられた設問を常日頃から考察してきた結果とみることも出来るが、私たちは

身の回りに起きている多くの事象を、好き嫌いなど直感的な感情や過去の経験などに縛られ捉え

ていることが多いと思う。



相手の質問に対し自身の直感的な感情を排し、その質問の全体像を再構築させるためにはある

程度の時間が必要になるのではないかと感じてしまうのもまた事実だった。



現代では瞬時に論理的な反応を示すことが「頭がいい」という流れにあるのかも知れない。ただ

友達と土手に座り雨上がりの虹を見ながら、「どうして虹はいろいろな光を映し出すんだろう」という

友達の問いに、「それは空気中の水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて見えるんだ」

という答えと、「君の目に涙がなければ魂に虹は見えないんだ」という答え。そのどちらも併せ持つ

ことこそが求められているのかも知れない。



ちなみに「目に涙がなければ魂に虹は見えない」は北米ミンカス族のことわざから引用しました。



☆☆☆☆



人間の左脳と右脳の働きを理解した私の祖先たちは、個々人の中で左右の脳のコミュニケーション

を活性化させるために、これら学びの物語の原形を編み出したのです。



彼らは左脳が話し言葉(ないし書き言葉)を処理する傾向にあり、右脳がイメージ(アルファベットに

もとづかないアメリカ先住民伝来の手話を含む)を処理する傾向にあることを理解していたので、学

びの物語には、話し言葉で語りながら、同時に心のなかで鮮明なイメージを生み出すような工夫を

凝らしました。



それによって右脳が刺激され、左右の脳のコミュニケーションが活性化になるのです。



「知恵の三つ編み」
ポーラ・アンダーウッド(イロコイ族)著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 

2012年11月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




他の動画を見ていたら、偶然サンデル教授が日本で行った「震災後の民主主義の復活」という動画に

出会った。講演という時間的な制約のなかでも、聴衆者の相反する立場の意見が聴き、それを新たな

議論へと導くサンデル教授の手法にいつも感心してしまう。



本当ならもっと掘り下げた議論を聞きたかったけれど、一つ一つの問題を深く議論すれば膨大な時間

がかかるものだし、少し消化不良なものを感じたのも仕方ないことだと思う。



講義の内容とは関係ないが、サンデル教授や全ての聴衆者には同時通訳用の機械が渡されていたの

にも関わらず、聴衆者の日本人同士が自分の意見を言い合う場面で、相手の日本人に対して、英語で

応える日本人が何人かいた。



尊敬している山中教授の受賞会見でも感じたことだが、話の内容に共感することはあっても、日本人

同士の会話で日本語で話すことは私にとっては当たり前のことだと思っているし、日常の会話で英語

の単語を多く使いたがる人間に昔から違和感を感じていた。勿論、これは私自身英語が苦手なので

そう思うのかもしれない。



自分の考えや想い、それを如何に相手に正確に伝えるか、それは本当に難しいことで英語の単語を

使わず日本語だけを話せば解決する問題でも決してないし、日本語の特殊性(音訓読みなど)も関係

しているのだろうか。



西洋の言語が枝分かれして成立してきたのに対し、日本語は逆に様々な言語が一つの幹となってきて

いること。これは安部公房さんが提唱されてきたことで、母語の違う集団(弥生人と縄文人)の子供たち

が遊びの中で、自然に新しい文法や言葉が生まれてきたという説(「縄文 謎の扉を開く」を参照)がある。



ただ、見知らぬ人間相手に英語の単語を多用する人は、この説(子供の遊びの中で自然に)とは違う

次元にいるのではと感じてしまう。



話を最初に戻すが、講演後の中学生の言葉で、「いろいろな意見が聴けて面白かったし勉強になった」

という言葉、この柔らかな感受性はいつまでも忘れたくないものだと思う。



☆☆☆☆



追記 2017年6月1日 
「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人
 を参照されたし。





NHK DVD ハーバード白熱教室 DVD BOX [DVD]

【収録内容】



■DISC.1 ・第1回  「殺人に正義はあるか」  Lecture1 犠牲になる命を選べるか  Lecture2 サバイバルのための殺人

・第2回  「命に値段をつけられるのか」  Lecture1 ある企業のあやまち  Lecture2 高級な 「喜び」 低級な 「喜び」



■DISC.2 ・第3回  「「富」 は誰のもの?」  Lecture1 課税に正義はあるか  Lecture2 「私」 を所有しているのは誰?

・第4回  「この土地は誰のもの?」  Lecture1 土地略奪に正義はあるか  Lecture2 社会に入る 「同意」



■DISC.3 ・第5回  「お金で買えるもの 買えないもの」  Lecture1 兵士は金で雇えるか  Lecture2 母性 売り出し中

・第6回  「動機と結果 どちらが大切?」  Lecture1 自分の動機に注意  Lecture2 道徳性の最高原理



■DISC.4 ・第7回  「嘘をつかない練習」  Lecture1 「嘘」 の教訓  Lecture2 契約は契約だ

・第8回  「能力主義に正義はない?」  Lecture1 勝者に課せられるもの  Lecture2 私の報酬を決めるのは…



■DISC.5 ・第9回  「入学資格を議論する」  Lecture1 私がなぜ不合格?  Lecture2 最高のフルートは誰の手に

・第10回 「アリストテレスは死んでいない」  Lecture1 ゴルフの目的は歩くこと?  Lecture2 奴隷制に正義あり?



■DISC.6 ・第11回  「愛国心と正義 どちらが大切?」  Lecture1 善と善が衝突する時  Lecture2 愛国心のジレンマ

・第12回 「善き生を追求する」  Lecture1 同性結婚を議論する  Lecture2 正義へのアプローチ



【特典映像】 ・「ハーバード白熱教室@東京大学」   前編:「イチローの年棒は高すぎる?」(58分)

後編:「戦争責任を議論する」(58分) (10月3日・10日 NHK教育テレビにて放送)

・サンデル教授スペシャルインタビュー(70分)[未放送映像含]



<音声・字幕 切替機能付> 本編の講義部分については、音声(日本語吹替/英語オリジナル)、

および字幕(表示なし/日本語/英語)を選択することができます。

字幕は、「英語オリジナル」音声のタイミングに合わせて表示されます。 2010年 放送


 
 


「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂 より以下、抜粋引用



自由と正義は両立するか?



人々が文明社会の恩恵をこうむるには、人びとを統治する法律がなくてはなりません。市民には自分のために好き勝手な

ことをする自由がない、ということになりますが、その法律が市民の財産、安全、健康、基本的人権を守るのです。ただし、

それが認められるには、法律が公正とみなされなくてはなりません。



殺してはならない



正義を確保できるような社会のまとめ方について、哲学者からはさまざまな解釈が出されました。どんな種類の政治体制

でも、市民にルールを、つまり市民の安全を保護する法律を課します。個人の権利と自由をどの程度保護し、どの程度制限

するか、その両方がつりあうところがはっきりしていることはめったにありません。たとえば、トマス・ホッブスは生命と財産を

保護する権威主義政体を支持しましたが、その対極にあるジャン=ジャック・ルソーの意見は、人民が社会全体のために

法律を定めるべきだというもので、制約というより、自由の発見でした。



限度内の自由



ジョン・スチュアート・ミルは、そうした両極端の説の間をとって、英国自由主義を確立しました。ミルが影響を受けたのは、

道徳性は最大多数の最大幸福によって評価されると主張した、ジェレミー・ベンサムの功利主義的な考えです。ただし、それ

を政治にあてはめると、実際的な問題が出てきます。・・・・大多数の幸福が、一部の人の幸福を侵害するかもしれません。

ミルの主張によると、個人の幸福すなわち公益と考え、「自分がしてもらいたいように人にもしなさい」という原則に従って

行動するよう、人々を啓発するのが、社会の役目です。自分の幸福を追求する自由は誰にでもあるが、社会は「危害原則」

という制約を課すべきというのです。他の者に危害を加えないかぎり、人々には好きなことをする自由があるが、その限度を

超えれば自由を制限されるということです。そして、個人の行動が国家に関わりがある場合だけは社会が動くことになり、

政権や法律は、社会を守るためにしか、個人の自由に干渉すべきではなというのです。



公正さか、資格か?



「正義」の定義は何かということは、現代でもなお争点となります。米国の哲学者ジョン・ロールズとロバート・ノージックは、

それぞれ違った解釈を提唱しました。ロールズによると、正義とは公正の問題・・・・社会における権利、資源、地位の公正な

分配です。思考実験として、理想的な社会を想像し、そこではあらゆるものがどう分配されるかを考えてみました。ただし、

その社会で自分がどういう位置を占めているかはわかりません。その「無知のヴェール」(自分と他者の立場や能力がわか

らないこと)のせいで、私たちは私利私欲に影響されず、誰にとっても公平な社会をつくり出すことになるのだと言います。

一方、ノージックによれば、正義とは資格の問題です。自分が所有するものを、所有する資格がある場合が正義だというの

です。財産は公平に譲渡されなければならず、所有者間の同意なしに政権が処理に関与するのは、その財産を資格のない

者が入手した場合だけ・・・・たとえば、何かが盗まれた場合などだけです。



「唯一その名に値する自由とは、自分自身の幸福を自分なりに追求することだ。」 ジョン・スチュアート・ミル








「これからの『正義』の話をしよう いまを生き延びるための哲学」 マイケル・サンデル著 鬼澤忍・訳 早川書房

より以下、抜粋引用。



目的論的な論法は、正義について考える方法としては奇妙に思えるかもしれないが、ある程度の妥当性を

持っている。たとえば、大学のキャンパスで最もよいテニスコートを使用者に割り振るとしよう。料金を高く設定

し、最も高い使用料を支払う人を優先する手もある。あるいは、大学の重鎮である学長やノーベル賞を受賞し

た科学者などを優先するのも一つの方法だ。だが、著名な科学者二人は凡庸な試合しかできず、ボールを

ネットの向こう側に打ち込むのがやっとだとしよう。そこにテニスの大学代表チームがやってきて、コートを使わ

せてほしいと言う。科学者たちは粗末なコートに移り、よいコートを代表選手に譲るべきだろうか。優れたテニス

選手は最もよいコートを最も活用できるが、へたな選手はコートを無駄遣いするだけという理由づけができる

だろうか。



あるいは、ストラディヴァリウスのヴァイオリンが売りに出され、富豪のコレクターがヴァイオリニストのイツァーク・

パールマンより高値をつけたとしよう。コレクターはそのヴァイオリンを居間に飾りたいのだ。これは一種の損失

であり、不正だとさえみなせるのではないだろうか・・・競売が不公正に思えるからではなく、結果が不適切だと

いう理由で。こうした反応の裏にあるのは、ストラディヴァリウスは演奏されるものであって、装飾品ではないと

いう(目的論的な)考え方かもしれない。



古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢だった。プラトンとアリストテレスは、炎が立ちのぼるのは

本来の居場所である空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である地面に近づこうとする

からだと考えた。自然には意味のある秩序があると見られていた。自然を理解し、そのなかに占める人間の

居場所を理解するのは、自然の目的と本質的意味を把握することだった。



近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序と見る見方は影を潜めた。代わって、自然はメカニズムと

して理解されるようになり、物理的法則に支配されるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連

づけて解釈するのは無知ゆえの擬人化した見方とされるようになった。だが、そうした変化にもかかわらず、

世界を目的論的秩序と目的を持つ総体と見たがる傾向は完全になくなったわけではない。そうした見方は、

とりわけ、世界をそのように見ないよう教育されるべき子供たちに、根強く残っている。私がそれに気づいた

のは、幼かったわが家の子供たちにA・A・ミルンの『クマのプーさん』を読んでやったときだった。この物語が

呼び起こすのは、自然は意味と目的によって魔法をかけられ、動かされている子供らしい自然観だ。



本の冒頭で、プーさんは森を散歩していてオークの大木のところにやってくる。木のてっぺんから「ブンブンという

派手な音がした」。



プーさんは木の根元に座り、両方の前足でほおづえをついて、考え始めた。

プーさんはまず、こう思った。

「あのブンブンという音には、何か意味があるはずだ。あんなにブンブンいうんだから、意味がないはずが

ない。ブンブン音がするのは、誰かがブンブン音を出しているからで、ブンブン音を出すわけは、ぼくが知る

かぎり、ただ一つ。ミツバチだからだ」

それからプーさんはまた長いあいだ考えて、言った。「ミツバチであるわけは、ぼくが知るかぎり、ただ一つ。

はちみつをつくるためさ」

そしてプーさんは立ち上がって、言った。

「はちみつをつくるわけは、ただ一つ。ぼくが食べるためさ」。

それで、プーさんは木に登りはじめた。



ミツバチいついてのプーさんの子供っぽい考え方は、目的論的論法の好例だ。われわれの大半は、大人に

なるころにはこうした自然観を卒業し、おもしろいが古くさいと思うようになる。そして、科学において目的論的

思考を否定したばかりか、われわれは政治と道徳の世界でも、そうした見方をしなくなりつつある。だが、社会

制度と政治的慣行を考える際、目的論的な論法を捨て去るのは容易ではない。こんにち、生物学と物理学に

関するアリストテレスの著作を読み、内容を真に受ける科学者はいない。だが、倫理学と政治学の研究者は、

あいかわらずアリストテレスの道徳・政治哲学について読み、考察している。


(中略)


こんにち、われわれは、政治を特有の本質的目的を持つものとは考えず、市民が支持できるさまざまな目的

に開かれているものと考える。だからこそ、人びとが集団的に追及したい目的や目標をその都度選べるように

するために、選挙があるのではないだろうか?政治的コニュミティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれ

ば、市民がみずから決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値を押しつけ

られるおそれもある。われわれが政治に明確な目的や目標を付与されるのに二の足を踏むのは、個人の自由

への関心の表われだ。われわれは政治を、個人がみずから目的を選べるようにする手続きと見ている。



アリストテレスは政治をそのようには見ない。アリストテレスにとって政治の目的は、目的にかかわらず中立的

な権利の枠組みを構築することではない。善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。



あらゆる都市国家(ポリス)は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、

善の促進という目的に邁進しなければならない。さもないと、政治的共同体は単なる同盟

に堕してしまう・・・。また、法は単なる契約となってしまう・・・「一人ひとりの権利が他人に

侵されないよう保証するもの」となってしまう・・・本来なら、都市国家の市民を善良で公正

な者とするための生活の掟であるべきなのに。


(中略)


善良な生活の概念に対して正義は中立的であるべきだという考え方は、人間は自由に選択できる自己で

あり従前の道徳的束縛から自由であるという発想を反映している。こうした考え方が、すべてまとめて、現代の

リベラル政治思想の特徴である。「リベラル」という言葉によって私は、アメリカの政治論争で使われる場合

とは異なり、「保守主義」の対語を意味しているわけではない。実のところ、アメリカの政治論争の顕著な特徴

の一つは、中立的国家と自由に選択できる自己という理想が、さまざまな政治思想に広く見られることだ。

行政府と市場の役割をめぐる論争の多くは、個人がみずからの目的を追求できるようにする最良の方法を

めぐる論争だ。



平等主義のリベラル派のお気に入りは、市民的自由と、社会・経済における基本的権利・・・医療、教育、雇用、

所得保障などの権利だ。個人がそれぞれの目的を追求できるようにするためには、行政府は真に自由な選択

ができるような物質的条件を整える必要があると彼らは主張する。ニューディール政策の時代以来、アメリカの

社会保障制度を擁護する人びとが建前としてきたのは、社会の連帯とコミュニティの責務ではなく、個人の権利

と選択の自由だった。フランクリン・D・ローズヴェルトは社会保障制度を1935年に開始したとき、国民一人ひと

りがたがいに負う責務の表われとして導入したのではない。むしろ、民間の保険制度に似た構造にして、一般

税収入ではなく給料天引きの「保険料」を財源として。そして1944年にアメリカの社会保障制度の到達目標を

定めたとき、ローズヴェルトはそれを「経済的権利章典」と呼んだ。コミュニティを基礎とする理論的根拠を提示

するのではなく、そのような権利は「真の個人的自由」に不可欠であるとローズヴェルトは主張し、「困窮した

人間は自由な人間ではない」と付け加えた。



いっぽう、(こんにちの政界では、少なくとも経済問題に関しては保守派と呼ばれる)リバタリアンも、個人の

選択を尊重する中立的国家に賛同する(リバタリアンの哲学者であるロバート・ノージックは、行政府は「どの

国民に対しても徹底的に・・・中立」でなければならないと記している)。だが、リバタリアンは、そうした理想に

必要な政策に関しては平等主義のリベラルとは意見を異にしてきた。社会保障制度を批判する無干渉主義

として、リバタリアンは自由市場を擁護し、人間には自分で自分で得た金を保有する権限があると主張する。

「みずからの労働の果実が自分のものにならず、公共の富の蓄積の一部として扱われるならば、真に自由な

人間と言えるだろうか?」と問うたのは、バリー・ゴールドウォーターだ。彼は保守派のリバタリアンで、1964年

の大統領選の共和党候補だった。リバタリアンにとって、中立的国家に必要なのは、市民的自由と私的財産権

を確保する確固たる制度だ。彼らの主張によれば、社会保障制度の下では個人がみずから目的を選べず、

一部の人の利益のためにほかの人びとが抑圧されるのある。



平等主義者にとってもリバタリアンにとっても、中立を求める正義論は非常に魅力的だ。多元的社会にあふれ

かえる道徳的・宗教論争に政治と法律を巻き込まずにすむという希望を抱かせるからだ。そのうえ、そうした

正義論には、自分を束縛する唯一の道徳的責務を決めるのは自分自身であるという、人間の自由についての

独善的な考え方も見てとれる。



しかしながら、それほどの魅力にかかわらず、この自由観には欠陥がある。善良な生活をめぐって対立する

考え方のすべてに中立な正義の原理を見つけたいという望むにも、欠陥がある。



以上が、少なくとも私の到達した結論だ。これまで提示してきた哲学的議論と取り組む、そうした議論が社会

生活においてどう展開されるか観察してきた結果、私はこう思う。選択の自由は・・・公平な条件の下での選択

の自由でさえ・・・正しい社会に適した基盤ではない。そのうえ、中立的な正義の原理を見つけようとする試み

は、方向を誤っているように私には思える。道徳にまつわる本質的な問いを避けて人間の権利と義務を定義

するのは、つねに可能だとはかぎらない。たとえ可能であっても、望ましくないかもしれない。その理由を説明

してみたい。


(中略)


すでに考察した正義についての二つの考え方を思い出してみよう。カントとロールズにとって、正しさは善に

優先する。人間の義務と権利を定義する正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに

中立でなければいけない。道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならないと、

カントは主張する。ロールズの持論では、正義について考えるためには、特定の目的、愛着、善の構想を脇に

おいておかなければならない。それが、無知のベールに包まれて正義を考える際の重要な点だ。



正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方とは相容れない。彼は、正義の原理は善良な生活

に関して中立でありうるとも、あるべきとも考えていない。逆に、正しい国制の目的の一つは、善い国民を育成

し、善い人格を培うことにあると主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することは

できないと彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。



アリストテレスの正義についての考え方をカントとロールズが拒む理由の一つは、自由の入る余地がないと

考えるからだ。善い人格を涵養したり善良な生活について特定の考え方を支持したりしようとする国制は、

一部の人の価値観をほかの人たちに押しつけるおそれがある。自由で独立した、みずから目的を選べる自己

としての人間を尊重していない。



カントとロールズが自由についてこうした構想を抱くのが正しいとすれば、正義についても二人は正しいことに

なる。われわれが自由に選択できる独立した自己であり、選択に先行する道徳的絆に縛られないとすれば、

われわれはどの目的にとっても中立的な正しさの枠組みを必要とする。自己が目的に優先するなら、正しさは

善に優先しなければならない。



だが、もし、道徳的行為の物語的な考え方のほうが説得力を持つとすれば、アリストテレスの正義についての

考え方は再考の価値があるかもしれない。私の善について考えるには、私のアイデンティティが結びついた

コミュニティの善について考える必要があるとすれば、中立性を求めるのは間違っているかもしれない。善良

な生活について考えずに正義について考えることはできないし、望ましくさえないかもしれない。



正義と権利についての公的言説に善良な生活の構想を持ち込もうとするのは魅力的なやり方には思えない

かもしれないし、とんでもないとすら思えるかもしれない。結局、われわれのように多元的社会に生きる人びと

は、最善の生き方について意見が一致しない。リベラル派の政治理論は、政治と法律を道徳的・宗教的な

賛否両論から切り離すための試みとして生まれた。カントとロールズの哲学には、その意図が最大限に、

最もはっきりと表われている。



だが、この意図が成就することはない。正義と権利をめぐり白熱した議論が繰り広げられている問題の多く

は、賛否両論ある道徳的・宗教的問題をとりあげずには論じられない。国民の権利と義務をいかに定義するか

を決めるにあたり、善良な生活をめぐって対立する考え方を度外視することはできない。たとえできるにしても、

望ましくはないだろう。



公共の領域に入るにあたって道徳的・宗教的信条を忘れることを民主的国民に求めるのは、寛容と相互の

尊重を確保するための一法に見えるかもしれない。だが、現実には、その逆が真実となりうる。達成不能な

中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。本質的

道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。偏狭で不寛容な道徳主義を招くこと

にもなる。リベラル派が恐れて立ち入らないところに、原理主義者はずかずかと入り込んでくるからだ。



正義をめぐる論争によって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なく巻き込まれるとすれば、その議論をどう

進めていくかが問われてくる。宗教戦争に移行せずに善について公に論じるのは可能だろうか? 道徳に

より深く関与した公的言説はどんなものになるだろうか? そして、それはわれわれが慣れている種類の

政治論争とどう違うだろうか? これらは単なる哲学上の問いではない。政治的言説を再活性化しわれわれ

の市民生活を一新するあらゆる試みの中心にある問いなのだ。


(中略)


貧困層を助けるために富裕層に税を課すべきだとする哲学者たちは、効用の名の下に持論を展開する。

富者から100ドルを徴収して貧者に与えても、富者の幸福はごくわずかしか減らないが、貧者の幸福は大きく

増すと、彼らは推測する。ジョン・ロールズも再分配を擁護するが、彼が根拠とするのは仮説的合意だ。平等

な原初状態での仮説的社会契約を想像すれば、誰もが何らかの形の再配分を支持する原理に同意するはず

だ、と彼は主張する。



だが、アメリカ人の生活に広まる不平等を懸念する理由には、より重要なものがもう一つある。貧富の差が

あまりに大きいと、民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれるという理由だ。それがどういうことか、

説明しよう。不平等が深刻化するにつれて、富者と貧者の生活はいよいよかけ離れていく。富者はわが子を

私立学校(あるいは富裕層の住む郊外の公立学校)に入れ、残された都心の公立学校には、ほかに選択肢の

ない家庭の子供が通う。同様の傾向によって、恵まれた人びとは公立の教育機関や施設から離れていく。

民間のスポーツクラブが自治体のレクリエーション施設とプールにとって代わる。高級住宅地のコミュニティは

民間の警備員を雇い、公共の警察による庇護にあまり頼らなくなる。二台目や三台目の自家用車によって、

公共交通に依存する必要性がなくなる。という具合だ。富裕層は公共の場所やサービスを離れ、それらは

ほかのものには手が出ない人びとに残される。



その結果、二つの悪影響が出る。一つは財政的、もう一つは公民的な悪影響だ。まず、公共サービスの質が

低下する。そうしたサービスを利用しなくなった人びとが、自分たちの税金で支える気をなくすからだ。次に、

学校、公園、児童公園、コミュニティセンターといった公共の施設が、多種多様な職業の市民が出会う場で

なくなる。人びとが集い、市民道徳を学校の外で学ぶ場だった施設が数を減らし、まばらになる。公共の領域

の空洞化により、民主的な市民生活のよりどころである連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる。



したがって、功利や合意に及ぼす影響とはまったく別に、不平等な市民道徳をむしばむおそれがある。市場を

愛してやまない保守派と、再分配に執心するリベラル派は、この損失を見過ごしている。



公共の領域の衰退が問題だとすれば、解決策は何だろう? 共通善に基づく政治が主要な目標とするものの

一つは、公民的生活基盤の再構築だ。個人消費の可能性を広げるための再分配に焦点を当てるのではなく、

公共の施設とサービスを再建するために富裕層に課税する。そうすれば、富者も貧者も同じようにそうした

施設やサービスを利用したがるはずだ。



前の世代が州間自動車計画に多額の投資をしたおかげで、アメリカ人はかつてないほど大きな個人の移動性

と自由を手にしたが、そのいっぽうで、自家用車への依存、郊外スプロール化(都市が無秩序に広がること)、

環境の悪化、コミュニティを衰退させる生活様式という問題も生まれた。われわれの世代は、同じくらい大きな

投資を公民的刷新の基礎づくりに捧げてもいいはずだ。富者も貧者も同じように子供を通わせたくなる公立

学校、富裕層の通勤者にとっても魅力的な信頼性のある交通手段、公立の病院、運動場、公園、レクリエー

ション・センターを、民主的市民生活を共有する共通の場に引き寄せることができるような基盤である。



不平等の公民的悪影響とそれを払拭する方法に的を絞れば、所得の分配そのものをめぐる議論からは発見

できない政治的牽引力が見つかるかもしれない。また、分配の正義と共通善の関連性に光を当てる一助となる

かもしれない。





2013年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




ニーチェと宮沢賢治(写真は1年前に作ったレゴの蒸気機関車です)



ニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴される虚無主義(ニヒリズム)と「超人」思想。



私はニーチェの著作に触れたことがなく正しく読み取っていないかも知れませんが、、現世から目を背けている

当時の風潮に対して、彼は果敢な挑戦状を叩きつけたのだと思います。



しかし、来世のことだけを語る宗教への断罪と虚無主義。一部において何故彼がこう考えたのか納得はするも

のの、私たち一人一人は空気や水・食べ物など、地球や他の生命が養い創ったもののなかでしか生きられま

せん。人間は決して単独で存在できるものではありませんし、他のものとの関係性なくしては生きられないので

はないかと疑問に思ったのも事実です。



デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」からニーチェ、ハイデッガー。彼らの「個(人間)」だけを世界から切り

離した思索、人間中心主義が横行した西洋哲学に対して、梅原猛さんはその著「人類哲学序説」の中で鋭く

批判しています。



これらの西洋哲学者の対極にいるのが宮沢賢治先住民と呼ばれる人なのかも知れません。西洋哲学が

人間を世界から切り離して真理に近づこうとしていたのに対し、賢治や先住民は他のものとの関係性(繋がり)

を基軸に据え、賢治の場合は「銀河鉄道の夜」などの童話を通して私たち後世の人に想いを託したのでしょう。



賢治が言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、互いの繋がりを

真に肌で感じた者にしか発することが出来ない言葉なのだと思います。



梅原さんは前述した本の中で、宮沢賢治と江戸時代の画家「伊藤若沖」を紹介され、二人の思想の背景には

「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」(国土や動物・草木も仏性を持ち成仏できる意味)が

あり、縄文時代アイヌを含む世界各地の先住民の世界観に共通しているものがあると言われます。



またノーベル賞を受賞した福井謙一さんの言葉「科学はいまに、裁かれる日がくるだろう。自然を征服する科学

および科学技術から、自然と共生する科学および科学技術へと変わらなければいけない」を紹介されていました

が、科学技術文明の基となったデカルト以来の西洋哲学にも同じことが言えると主張されています。



私たちはデカルト以来の西洋哲学を、反面教師として捉える時期なのかも知れません。



ニーチェの「神は死んだ」、私は彼の思索の片鱗も理解できていないかも知れませんが、虚無としか映らない

状況のなか一筋の光りを見た女性がいました。



ニーチェの「超人」思想がヒトラーに悪用され、ハイデッガーがナチスの思想ではなくヒトラーの強い意志に魅了

されていた同じ頃、アウシュヴィッツの強制収容所で亡くなった無名の人ですが、賢治の銀河鉄道と同じように

多くの人の道標として、これからもその軌道を照らしていくのだと思います。



最後に、フランクル「夜と霧」から抜粋引用し終わりにします。



☆☆☆☆



それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。



「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。



「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを

追っていなかったからですの。」



その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっちの私のただ一つのお友達

ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。



外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。



病人の寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた

一本の緑の枝を見ることができた。



「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。



私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか? 

不思議に思って私は彼女に訊いた。



「樹はあなたに何か返事をしましたか? -しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」



彼女は答えた。



「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-私は-ここに-いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。」



☆☆☆☆









「ソクラテスの弁明 (マンガで読む名作)」プラトン・原作

日本文芸社 より引用


  







本書より引用


「国家の認めない神々を導入し、若者たちを堕落させた」として、既存の社会体制を

妄信する保守的な人々から告発されたソクラテス。死刑を免れる唯一の手段は自身

の弁明のみという状況の中、ソクラテスは一切の妥協を見せず、自己の所信を力強

く表明する。法廷のソクラテスを描いた表題作に加えて、脱獄を勧める老友との対話

「クリトン」と、毒杯を仰いで刑死するソクラテスの最後を収録。



 


「哲学大図鑑」 (大型本)

ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂 より抜粋引用




人生の目的



紀元前5世紀後半のアテネで暮らしたソクラテスは、若いころは自然哲学を研究し、宇宙の本性にかんするさま

ざまな説明を吟味したらしい。だが、その後ポリスの政治にかかわり、正義の本質といった、もっと地に足のつい

た倫理的問題に関心を傾注した。それでいて、議論に勝利することや金儲けのために議論することには、まったく

興味をもたず、同時代人と同程度の謝礼すら受けとらなかった・・・・ただ、私たちのみずからに適用しているさま

ざまな概念(「よい」や「悪い」、「正しい」といった)の土台を吟味するだけであった。なぜなら、ソクラテスの考えで

は、自分たちがなにものであるかを理解することこそが哲学の第一の課題だからだ。



このように、ソクラテスは、主として生き方の検討に関心を向けたが、自分の周りに敵を増やしたのも、人びとの

もっとも大事な信念(そのほとんどは、自分自身にかかわる)にたいする、ソクラテスの徹底的な問いかけのため

であった・・・・だが、彼は亡くなるときまで、この課題に取りくみつづけた。これは、プラトンが書きのこしているが、

法廷の場での本人の弁明によるなら、ソクラテスは無知の人生に直面するくらいなら死を選ぶ。いわく、「吟味され

ることのない人生など生きるに値しない」。だが、正確に言って、この人生の吟味とはなにを意味するのだろうか。

ソクラテスにとってそれは、私たちが毎日用いているものの、一度として真剣に考えたことのない本質的な諸概念

の意味を問いなおす過程であり、それらの真の意味と私たち自身の知あるいは無知をあらわすことであった。

ソクラテスは、「よい」人生を可能にするものはなにかを考えた最初の哲学者のひとりだ。その答えは、社会の

道徳規範をうのみにして生きるのではなく、正しいことをした結果として得られる心の平安だ。そして「正しいこと」

は、厳格な吟味によってのみ決定されうる。



ソクラテスは、徳のような概念は相対的だとする見解を退け、そうした概念は絶対的で、アテナイ市民がギリシャ

人だけにでなく、世界中の人びとにあてはまると主張した。ソクラテスの考えでは、徳(ギリシャ語の原語「アレテー」

は、この時代には「優れていること」ないし「なしとげられたこと」を意味した)は「もっとも所有に値するもの」であり、

実際のところ悪をなそうと望む者はひとりもいない。悪をなす人は、良心に逆らってそうしているのだから、内心で

は不快感を覚えているだろう。だれも私が精神の平安を求める以上、悪は私たちが選んでやろうとしていることで

はありえない。したがって、悪がなされるのは、知恵と知識が欠けているからだ。こうした考えからソクラテスは、

知識というただひとつの善と、無知というただひとつの悪しかないと結論した。知識は道徳性と分かちがたく結びつ

いており・・・・なにしろ、知識こそが「たったひとつの善」だ・・・・だからこそ私たちは絶えず自分の人生を「吟味」し

なければならない。



魂の配慮



ソクラテスの考えでは、知識は死後の生において不可欠だ。「ソクラテスの弁明」でプラトンの描くソクラテスは、

吟味を受けない人生についてのよく知られたことばの冒頭で、こう語る。「善と私がきみに語るいっさいのそのほか

の主題についての検討をせずには、一旦たりともすごすべきではないし、自分と他人についてのこの検討こそが、

真に人間になしうる最上のことだと言っておこう」。健康や高い身分よりも正しい知識を獲得することこそが、人生

の究極目標だ。それは娯楽や好奇心の類いとは一線を画す、私たちの存在理由そのものだ。のみならず、あらゆ

る知識はつまるところ自分についての知識だ。なにしろ、それこそがこの世におけるきみという人間をつくりあげ、

不死の魂を気づかう助けとなるのだ。「パイドロス」では、吟味を受けない人生を送ると、まるで酩酊したように、魂

は「混乱と錯乱」に行きつくと言われている。それにたいして、賢明な魂は不動の安定性をそなえており、どれだけ

放浪しても最後には目的へと導かれる。



 


「史上最強の哲学入門」飲茶・著 河出文庫 より以下、抜粋引用。


しかし、もし・・・・。もしもソクラテスが言うように、無知・・・・すなわち、自分が何ひとつ「ホントウ(真理)を知らず、

真っ暗な闇の中に放り出されて、訳もわからずにただ生きてるのだということ・・・・を深く深く自覚したこととした

ら・・・・。もうそんなことは絶対に言えない。これほど驚異的なことが目の前で起きているのに、それをそのまま

見過ごして退屈に生きていくなんて、絶対にありえない! そして、そのときにこそ、僕たちは真の意味で、「知り

たい」と願うのではないだろうか? 「学びたい」と思うのではないだろうか?



こうしたソクラテスの「無知の知」の呼びかけが、人々の心を揺さぶらないはずがなかった。特に、それは若者

たちの心に強く響いた。ソクラテスによって目を開かされた若者たちは、こぞってソクラテスへの弟子入りを志願

する。



その結果、ソクラテスは一躍有名な哲学の師匠として名を知られるようになるわけだが・・・・。そんなソクラテスの

名声は、彼に恥をかかされた政治家たちにとっては面白いはずがなかった。結局、ソクラテスは、政治家たちから

疎まれ、「若者を堕落させた罪」で裁判にかけられ死刑を宣告されてしまうのである。



逸話ではこのとき、ソクラテスの死刑執行の期間にはかなりの猶予が与えられ、いつでも彼は逃げられるように

なっていたといわれている。もしかしたら、政治家たちは、ソクラテスが惨めに逃げ出すのを民族に見せつけて、

笑いものにするつもりだったのかもしれない。



しかし、ソクラテスは逃げなかった。なぜなら、彼は、死の恐怖を目の前にしても決して揺らぐことのない真理・・・・

ホントウの何かを追究する人間であったからだ。



もし、喉もとに剣を突きつけられて、主張を撤回するとしたら・・・・。それは相対主義者と同じである。自分が心から

「ホントウに善い」と思って発言したことを、肉体が危険だからとおう理由で撤回するとしたら、そんなものはやはり

「ホントウに善いこと」などではない。状況によって、言うことが変わるものなど「ホントウ」ではないからだ。だから、

それだけはだめ。それだけはしちゃいけない。こうして、ソクラテスは、弟子たちが泣いて懇願するのを制して、

自ら毒杯を手に取り、それを一気に飲み干す。



まさにその瞬間である! 一人の人間が、真理の名のもとに、自ら命をたった瞬間。世界は、相対主義の思想

から逆の方向にゆっくりと傾き始めていく。なぜなら、ソクラテスが自ら毒を飲む行為とは、「この世界には命を

賭けるに値する真理が存在し、人間は、その真理を追究するために人生を投げ出す、強い生き方できるという

こと」の確かな証明であり、それがその場にいた若者たちの胸に深く刻まれたからだ。



シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)














2012年4月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


ティナ・シーリグ教授(写真は他のサイトより引用)



マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」に感銘を受けて、「スタンフォード白熱教室」の

ティナ・シーリグ教授のDVDを借りて見た。



スタンフォード大学は多くの企業家を生み出してきた大学として有名らしいのだが、その授業の中

でもティナ・シーリグ教授の手法(集団発想法)は常識を打ち破る新たな創造性を産みだしている。



私はまだ4巻の内2巻しか見ていないのだが、マインドマップなど様々な道具を利用しながら発想

方法を学んでいく。これまで特に印象に残ったのが「最悪のものと思える」ことから新たなものが

生まれる可能性があるということ。勿論、企業家を目指すための講座なのだが、私たち一般の

人間にとっても、日々の生活の中でそれらの手法は活かせるのではないかと思ってしまった。



ただ私の中で、マイケル・サンデル教授もそうだが、テレビに映る画面を見ながら言葉を聴いて

いると、それらの言葉が頭の中をすり抜けていくような感じになってしまう。脳の老化現象なのか

も知れないが、そのためこれらの講座を私は目を閉じて言葉を聴くようにしている。



しかし暗闇の中で言葉が降りてくると、何故この言葉を使ったのだろう、この言葉に隠された感情

は何だろう、などとイメージが新たな方向に膨らんでいくのが不思議だった。



チェスでも最近は頭の中で棋譜を追い続けるよう訓練している。強いアマチュアやプロ棋士だった

ら盤を見ない「盲指し」は誰でも出来るが、逆に「盲指し」をやり過ぎると脳にいい影響を与えないと

も言われている。チェスが強かった旧ソ連でこの研究結果が出たと記憶しているが、確かにイメー

ジの世界と現実とのかいりが人格を分断させてしまう可能性はあるのかも知れない。



この研究結果が本当のことなのかわからないが、イメージと現実の世界を常に行ったり来たりする

ことで脳の平衡状態が生みだされ、悪い影響を避けることができるのだろう。



家のベランダに置いてある睡蓮鉢では、睡蓮の葉が水中で大きくなり、メダカがもう卵を抱えている。

春、生命の躍動を感じてしまう季節だ。



☆☆☆☆



知識から自由になる(『超訳 ブッダの言葉』小池龍之介・編訳)より引用


内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった能力をトレーニングをするかわりに知識を増やそう

とするのは、愚か者の証。



哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、

記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。



「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだからこの知識を使っ

てみたいよー」などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、知らず知らずのうちに知識に

支配される。



その知識のフィルターを通してしか物事を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。



頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じるように。



法句経72



☆☆☆☆



(K.K)



 





Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「脳科学が解き明かす 善と悪」なぜ虐殺は起きるのか ナショナルジオグラフィック

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「野の百合・空の鳥」&「死に至る病 」(漫画) キルケゴール(キェルケゴール)

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

サンデル「正義とは」ハーバード白熱教室 & 「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「史上最強の哲学入門」飲茶・著 河出文庫

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」 リサ・ランドール著 塩原通緒・訳 NHK出版

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像








夜明けの詩(厚木市からの光景)

美に共鳴しあう生命

シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)

ホピの預言(予言)

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実


神を待ちのぞむ トップページ