「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社





オオカミの肖像 オオカミ(狼)の肖像を参照されたし。





(本書より引用)


わたしたちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。多くの人間では、人生についての話からオオカミ的

なものはほとんど消去されてしまった。けれども、このオオカミを死滅させては、わたしたちにとって危険である。サル

の策略は、最終的にはなんら成果を生まないだろう。サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるはず

だ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなたは発見するだろう。そしてこれをもたらしたのは、策略や

知恵や幸運ではない。人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。あなたは

いろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせるあなたではなく、策略

がうまくいかなかったあとに残るあなただ。もっとも大切なあなたというのは、自分の狡猾さに喜ぶのではなくて、狡猾

さがあなたを見捨てた後に残るものだ。もっとも大切なあなたというのは、自分の幸運に乗っているときのあなたでは

なく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。究極的には、サル的なものは必ずあなたを見捨てるだろう。

あなたが自分自身に問うことのできるもっとも重要な疑問は、これが起こったときに、その後に残るのは誰なのか、

という問題なのである。



なぜわたしがブレニンをこうも愛したのか、そしてブレニンが逝ってしまった後、なぜ彼のことがこれほど恋しいのか、

長い間わからなかった。それが今、ついに理解できたように思う。ブレニンはわたしに、それまでの長期間の教育で

学ぶことができなかった何かを教えてくれたのだ。わたしの魂のなんらかの古代的な部分には、まだ一頭のオオカミ

が生きているということを。



ときには、わたしたちの中に存在するこのオオカミに話をさせる必要がある。サルのひっきりなしのおしゃべりを静か

にさせるためにも。この本は、わたしができる唯一の方法で、オオカミを代弁する試みである。



 


(本書より引用)


けれども、自分が他者にすることは自分に戻ってくる。他者を搾取の対象、弱みをさらす者と見なしているち、この

ような姿勢がいつかは自分にはね返ってきて、自分についての考え方を決定的に傷つける。わたしが暗黙のうちに、

自分を弱みをさらす者と見なすのは、一生の間、他者をそのように見てきたからなのだ。わたしたちが自身の中に

つくりだす弱さは、根本的には、わたしたち自身についての、そしてわたしたちが行なう邪悪な行為についての一定

の考え方の中にある。わたしたちは許してほしいと哀訴する。鼻水をたらし、めそめそと情状酌量の事由を訴える。

ほかにしようがなかったのだと、自分自身に、そして聞いてくれる他の誰にでも言い聞かせる。それは本当かもしれ

ない。しかし、わたしたちの弱さは、弁明が重要であるかのように考える点にある。オオカミは弁明などしない。

オオカミは自分がすること、おそらくはしなければならないことをして、その結果を受け入れる。




邪悪な病気だとか、社会的な悪弊の結果だと考えるのは、究極的には、これまでわたしたちが入念に他者につくり

だしてきた無力さを、いまや自分自身の中にもつくってしまったからである。わたしたちは、もはや自分は道徳的な

評価を受ける価値すらないのだと考える。わたしたちが悪人であるなら、あるいは善人であるなら、それは他の何

か、道徳とは無関係の概念で説明をつけるべき何か、わたしたちが制御できない何かであるのだと考える。こうして

自身の道徳的な状態について言い逃れをし、邪悪をつくりだしたことへの責任を弁解することこそが、邪悪づくりの

究極的な表現である。これが、わたしたちが自分の魂にたゆみなく築きあげてきた弱さの、想像し得るかぎりもっと

も明快な表現である。道徳を実際には何か別のものであると考えるのは、あまりに明白な弱さであり、これが見え

ないのは人間だけであろう。わたしたちはもはや、弁解せずに生きられるほど強くはない。自分の確信にしたがっ

て行動する勇気がもてるほど強くすらないのだ。







社会契約論が示している第一の点は、わたしたちが特別にもつ人間的な、あるいはもっと正確にはサル的な権力

妄想である。この理論から導かれる結論は歴然としている。人は自分よりもはるかに弱い者に対しては、なんら

道徳的な義務はなくなるのだ。人が他の人と契約を結ぶのは、他の人が自分を助けてくれるからか、さもなければ

他の人が自分に害を及ぼすからだ。「君は助けが必要なのかい? 心配ないよ。ほかの人が助けを必要としている

ときに、君が助けることに同意するなら、ほかの人も君を助けてくれる。殺人、攻撃、奴隷化から身を守りたいって?

問題ないよ。君がほかの人にそれをしないことに同意するなら、ほかの人も君にそんなことはしないと同意してくれ

る」というわけだ。けれどもこれでは、自分を助けてくれたり害を及ぼす他者との間にだけ、契約を結ぶ理由がある

ことになる。契約という考え方全体が意味をもつのは、契約を結ぶ両者が少なくともほぼ同じ程度の力をもっている

と推定される場合だけなのである。契約を信じる人ならほぼ誰もが、この考え方で一致する。その結果、自分より

はるかに弱い人、自分を助けてくれることもできなければ、害を及ぼすこともできない人は、契約の枠の外に出され

ることになる。



だがここで、契約が文明、社会、道徳を正当化するものとして考えられたことを思い出してほしい。だから、契約の

枠の外に出る人は、文明の枠外に出されてしまう。それらの人は、道徳の範囲外にいる。だから、人は自分よりも

はるかに弱い人に対しては、道徳的な義務を負わないのだ。これが、文明を契約という視点から見ることの帰結で

ある。道徳の目的は、より多くの権力を集めることにある。これが、社会契約の理論が示す第一の点である。この

理論の基礎をなす最初の仮定である。野生と文明、どちらが本当に歯と爪を血に染めているのだろうか。


(中略)


詐欺師は決して成功しない、とわたしたちは自分自身に言い聞かせる。だが、わたしたちの内にあるサルは、これ

が真実でないことを知っている。不器用で、訓練を受けていない詐欺師は決して成功しない。詐欺師であることを

知られてしまい、その結果、苦しまなければならない。世間から締め出され、除け者にされ、軽蔑される。けれども、

わたしたちサルが軽蔑するのは、彼らの努力が不器用で、的はずれで、気が利かないところだ。わたしたちの内に

あるサルは、詐欺そのものを軽蔑するのではない。まさにその逆で、詐欺にあこがれる。契約は詐欺には報いない

が、巧妙な詐欺には報うのだ。



契約はわたしたちを文明化された人間にした、と思われている。ところが、契約は詐欺に対して絶え間ない圧力を

かけもする。わたしたちを文明人にしたものが、わたしたちを詐欺師に変えもしたのだ。しかし、これと同時に、契約

が機能するのは、詐欺が通常のことではなくて、例外的である場合だけである。もし誰もがいつも誰をも騙せるの

なら、どのような社会秩序も団結も崩壊してしまうだろう。そこで、契約はわたしたちを詐欺の探知者にもした。

ますます巧妙な詐欺師になろうとする努力と並行して、ますます巧妙な詐欺の探知者になる能力も発達する。人間

の文明、そして究極的には人間の知能は、軍事競争の産物であり、嘘は第一のミサイル弾道である。あなたが

文明化されていて、かつ嘘つきでないとしたら、おそらく、あなたが巧みな嘘つきではないからだろう。



こうしたことは、人間について何を語っているのだろうか。自分の貴重な財産である道徳が契約の中に据えられる

べきだなどと考える動物とは、どのような動物なのだろうか。公正な社会とは何かを見つけ出そうとするときに、

構成員が同意した仮説的な契約、という言葉で社会を考えようとする動物とは、いったいどんな動物なのだろう。

その答えはオオカミにとってははっきりしているが、サルにとってはそうではないようだ。答は詐欺師である。







なぜわたしはここにいるのだろう。四十億年もの盲目的で無思考な発展の後に、宇宙はわたしを生み出した。

それだけの価値があったのだろうか。真剣に疑問を感じる。いずれにしろ、神々がわたしに希望をくれず、地獄の

番犬セルベルスに首根っこを地面に押さえつけられて、「コン畜生」と言うためにここにいるわけではない。これは

幸せな瞬間ではない。しかし、これらの瞬間こそが最高の瞬間なのだと、今のわたしは知っている。わたしにとって

一番大切な瞬間だからだ。そして、これらの瞬間が大切なのは、これらの瞬間自体のためであって、わたしが何で

あるかを定義する上でこれらの瞬間が果たす役割のためではない。もし、わたしが何らかの形で価値があるとした

ら、もし、宇宙がなし遂げた価値あることの一つであるとしたら、これらの瞬間こそが、わたしを価値あるものにして

くれるのだ。



こうしたことをすべて明らかにしてくれたののは、一頭のオオカミである。このオオカミは光であり、この光が投げか

ける影の中に、わたしは自分を見ることができた。わたしが学んだことは事実上、宗教のアンチテーゼだった。宗教

は常に希望に訴える。キリスト教徒やイスラム教徒は、自分が天国に値する人間であるという希望をもつ。仏教徒な

ら、生と死の大きな車輪から解放され、涅槃に到達するという希望をもつ。ユダヤ=キリスト教では、希望は第一の

徳にまで昇格し、信仰と名づけ変えられた。



希望は人間存在の中古車販売員だ。とても親切で、とても納得がいく。それでも、彼を信頼してまかせることはでき

ない。人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である。最終的には時間がわたしたちからすべて

を奪ってしまうだろう。才能、勤勉さ、幸運によって得たあらゆるものは、奪われてしまうだろう。時間はわたしたちの

力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべて、所有できる

あらゆるものを時間はわたしたちから奪うだろう。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、

最高の瞬間にあったときの自分なのである。






2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




(大きな画像)



森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。



しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。



世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい

姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。



オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在

なのだと思います。



☆☆☆



2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。



オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。



熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると

限りなく低いのです。



また、丹沢の山中でを見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が

死にかけています。



生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている

気がします。



写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の

オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。



誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、

「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。



オオカミの肖像


 


2013年9月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ニホンオオカミ(埼玉県・猪狩神社の狛犬)・写真は他のサイト「こまちの通り道 -オオカミ像を求めて」より引用



若い頃、奥秩父の山々を縦走し、武甲山の山頂に着いた時には日が暮れてしまっていた。



慣れない夜道を歩くのは危険だと思い、山頂で一夜を明かそうと思ったが、このままでは死ぬと思うほど風が

強く、避難場所を求めて山頂付近を彷徨っていた。



すると3畳ほどの信仰遺物を発掘するための無人の小さな掘っ立て小屋があり、私はそこで眠れぬ一夜を

明かした。



最近、この山の登山口に狛犬(オオカミ)の像が置かれていたと知ったが、当時はその像があったことすら

記憶にない。



ニホンオオカミが最後に目撃されたのが1910年のこと、今から100年以上も前である。



しかし前の記事にも紹介した「オオカミの護符」によると、1933年(昭和8年)にはまだ奥秩父近くでオオカミ

の群れがいたとの言い伝えがある。



当時の私はニホンオオカミについて、またこの一帯がオオカミを崇めていた地域だとは知らなかったが、何故

か武甲山を初めとする奥秩父や奥武蔵の山々には惹かれていた。



遊牧民であるモンゴルの人にとっても、オオカミは神であり、自らを「蒼きオオカミの末裔」と名乗った。

勿論、家畜がオオカミに襲われることがあったが、それでもモンゴルの人々は彼らの生態に敬意を表していた

のである。



最後に「オオカミの護符」小倉美恵子著より引用しますが、いつかまた、この地を踏むことができればと願っている。



☆☆☆☆



千嶋章市さんは、「お札だけでなく神社のお犬さまもすげぇんだぃな」と、参道の狛犬にまつわる不思議な実話を

語り出した。それは、狛犬が猪狩神社にやってきた昭和8年のこと、狛犬は、隣の両神村(当時)をさらに越えた

小野鹿町(当時)から運ばれてきた。今のように舗装された道はなく、古池の人々が大八車に乗せ、山道を少し

ずつ進んだ。途中で日が暮れ、宿を借りた家で「不思議」は起こった。



狛犬を縁側に置いて休んでいると、狛犬を取り囲んでいる何かの気配がしたそうだ。人々は恐ろしくて見ることは

できなかったが、そのうちにオオカミが遠吠えを始めたという。山から本物のオオカミが下りてきていたのだ。朝に

なって恐るおそる狛犬を見に行くと、その周りにはオオカミの足跡がたくさん残されていたという。「あまりに石像の

出来栄えが素晴らしいので、オオカミが喜んで出てきたのだ」と、幼い千嶋さんは聞かされてきた。昭和5(1930)年

生まれの千嶋さんは、このときのことを鮮明に覚えており、近隣の人々も皆この話を信じたというが、今はもう知る

人が少なくなってきたことがとても寂しいようだ。



確かに猪狩神社の狛犬は、写実的でリアルな迫力に満ち、神社の雰囲気とあいまって、厳かな霊気すら感じられる。

千嶋さんは、何度も「ウソでないよ。本当の話だよ」と繰り返した。「それ、信じます」と言うと、あごけない表情を浮か

べ、嬉しそうに微笑んだ。「信じますとも」。なにせ、祖母が語る不思議な寝物語に背中を押されてこの旅に出た

私ですから・・・・。



☆☆☆☆




 

2013年8月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




本日8月23日の夜明け(6時14分)です。

夜明けが雲で覆われていたり、雨のときは投稿しませんのでご了承ください。



神奈川県でも地域によって異なると思いますが、厚木ではここ3週間ほど雨は殆ど降っていません。

夜明けの写真を撮る時間帯は、ベランダの植物の水やりも行っていますが、近所の畑の作物は

完全に参っています。



厚木には「阿夫利(あふり)神社」がある大山(1252m)があるのですが、川崎・宮前区の土橋という

地域には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきました。



「オオカミの護符」小倉美恵子著によると、日照りが続いた時は、朝早く若い衆が片道40キロもある

大山までの道をリレー方式で行き、大山山頂の滝から「お水」をいただき、昼過ぎには土橋に戻って

雨乞いをしたと書かれています。



リレー方式とは言え、昔の人の健脚には驚かせられます。



土橋にも息づいていた「オオカミ信仰」は埼玉の奥秩父や奥武蔵が源なのですが、若い頃に山に

夢中になっていた私は奥秩父や奥武蔵の山々が好きでした。標高はそれほど高くはないのですが、

周りの自然と自分が一体となっているという不思議な感覚をもたらしてくれたからです。



100年以上前、この山奥では「オオカミの遠吠え」がいたるところで聞かれていたことでしょう。映像

で見聞きする「オオカミの遠吠え」を聞くと、昔の人が何故オオカミを神と崇めていたのか分かるよう

な気がします。いつかこの耳でオオカミの遠吠えを聞けたらと思います。



☆☆☆☆


 


2013年8月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




関東地方は梅雨が明けたのですが、夜明けの時間帯に関しては7月中旬から雲に覆われた日が

続いています。しばらく夜明けの写真は投稿できないかも知れませんが、ご了承ください。



上の映像は、野生のコアラが民家に遊びにくるものを撮ったもののようです。本当に可愛いですね。



この映像を見ながら、100年前に絶滅したと言われる「日本オオカミ」が、今でもこの日本のどこか

で生きていて欲しいと願い、また出会いたいと思っていました。



「赤頭巾ちゃん」などで悪者にされることが多いオオカミ。しかし1995年以降、アメリカのイエロー

ストーン国立公園では森にオオカミを放つ試みをしておりますが、人を襲ったことはなく、逆に森の

生態系の回復に役立っていると聞いています。



近くの丹沢山系の森林は、増え続けている野生の鹿の食害により森が死につつあります。以前、

この山奥で何度か星空観望したのですが、必ずと言っていいほど近くで鹿の足音が聞こえてき

ます。



日本の古い記録ではオオカミが人を襲った報告が残されていますが、オオカミが人を襲うのは

狂犬病にかかったオオカミ、餌付けなどで人を恐れなくなったオオカミ(決して餌付けをして人に

慣れさせてはいけない)、子育て中に突如餌動物を失ったオオカミ(インドで起こった事件で、

村人がガゼルなどの過剰な狩猟により、子育て中のオオカミが自然餌を失った)に限られて

います。ちなみに狂犬病に関しては日本では50年前に撲滅されているそうです。



「一般社団法人 日本オオカミ協会」のサイトでは、「1990年代以降、フランス、スイス、ドイツなど

ヨーロッパ各地でオオカミが復活し、生息地を拡大しています。このため、ヒツジやヤギなどの

放牧家畜に被害が出ていますが、人身害は発生していません。」と書かれています。



今から100年前のオオカミへの偏見が満ちていた時代。あらゆる先入観を持たず、ありのまま

のオオカミの姿を記録したシートンの言葉を抜粋紹介します。以前の投稿にもこの言葉を書い

たのですが、シートンの偉大さを改めて感じさせると共に、日本でもオオカミを森に放つことへ

の議論が真剣になされることを願っています。



☆☆☆☆



この章で私は、オオカミの勇敢さ、騎士道精神、強さ、遊び好きな性格、忠誠心、獰猛さ、親しみ

やすさ、思いやり、英雄的な態度、それにやさしさなどについて、さまざまな証拠をあげながら

論じてきた。



悪意に満ちた人間社会のうわさ話に終止符を打ち、この動物の誠実で勇敢な姿を読者に示し

たいというのが、私の願いだった。



私はまるでごみ箱を引っかきまわし、なかからほんのひとかけらの金片を見つけ出そうとするか

のように、猟師たちから根堀り葉堀り聞き出し、小さな真実のかけらを見つけ、つなぎあわせよう

としてきた。



そうしたなかから読者に、この野生動物の本当の姿、本当の生活を少しでも察知してもらうことが

できただろうか。



こうして山と積んだすべての証拠を見て、望むならさらに手に入れることのできる大量の証拠が

あること、それに「ロボ・・・カランポーの王様」の物語(基本的に事実にもとづいている)に書かれ

たことを思い起こしていただければ、わかってもらえるのではないだろうか。



私がオオカミを心の底から愛していること、そして、私がオオカミこそは真の高潔さ、すなわち、

輝かしい動物界の英雄にふさわしい性格のもち主だと信じて疑わないことを。



「シートン動物誌2 オオカミの騎士道」紀伊国屋書店より抜粋引用



☆☆☆☆



 

2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。



APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue

(大きな画像)



火星が地球に最接近(写真はNASAより引用)



明日4月14日に火星地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。



写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から

赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。



アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源

は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。



「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー

ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと

思います。



ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。



100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。



 

2014年6月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




(大きな画像)



種を植えて4年目で咲いた合歓の木(ネムノキ)の花

前に住んでいた近くの山にあった合歓の木、その優雅な木に魅せられ、その種を集めていました。

こちらに引っ越し、そしてしばらくしてこの種を鉢に植えましたが、それは丁度4年前のことです。

合歓の木は葉に特徴があるのですが、咲く花も優雅さを湛えています。

山にあった合歓の木は、いつの間にか枯れていましたが、10年前この木の下で拾った種が、違う場所で新た生命を咲かせる。

子孫という形あるものだけでなく、「受け継ぐ」という神秘も感じさせられます。



☆☆☆☆

そして、まだ寒さの厳しい夜、

彼が鼻面を星に向け、

長々とオオカミのように遠吠えをするとき、

声を上げているのは彼の祖先たちだ。

彼を通じて、もう死んで塵となってしまった祖先たちが、

鼻面を星に向け、何世紀もの時を超えて遠吠えしているのだ。



ジャック・ロンドン
「オオカミたちの隠された生活」ジム&ジェイミー・ダッチャー著 より引用

☆☆☆☆





Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「死に至る病 (まんがで読破)」キェルケゴール・作 バラエティアートワークス

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作 & サンデル「正義とは」・ハーバード白熱教室

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像








夜明けの詩(厚木市からの光景)

美に共鳴しあう生命

祈りの散文詩集

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実


美に共鳴しあう生命