「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社
オオカミ(狼)の肖像を参照されたし。
(本書より引用) わたしたちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。多くの人間では、人生についての話からオオカミ的 なものはほとんど消去されてしまった。けれども、このオオカミを死滅させては、わたしたちにとって危険である。サル の策略は、最終的にはなんら成果を生まないだろう。サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるはず だ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなたは発見するだろう。そしてこれをもたらしたのは、策略や 知恵や幸運ではない。人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。あなたは いろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせるあなたではなく、策略 がうまくいかなかったあとに残るあなただ。もっとも大切なあなたというのは、自分の狡猾さに喜ぶのではなくて、狡猾 さがあなたを見捨てた後に残るものだ。もっとも大切なあなたというのは、自分の幸運に乗っているときのあなたでは なく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。究極的には、サル的なものは必ずあなたを見捨てるだろう。 あなたが自分自身に問うことのできるもっとも重要な疑問は、これが起こったときに、その後に残るのは誰なのか、 という問題なのである。 なぜわたしがブレニンをこうも愛したのか、そしてブレニンが逝ってしまった後、なぜ彼のことがこれほど恋しいのか、 長い間わからなかった。それが今、ついに理解できたように思う。ブレニンはわたしに、それまでの長期間の教育で 学ぶことができなかった何かを教えてくれたのだ。わたしの魂のなんらかの古代的な部分には、まだ一頭のオオカミ が生きているということを。 ときには、わたしたちの中に存在するこのオオカミに話をさせる必要がある。サルのひっきりなしのおしゃべりを静か にさせるためにも。この本は、わたしができる唯一の方法で、オオカミを代弁する試みである。 |
(本書より引用) けれども、自分が他者にすることは自分に戻ってくる。他者を搾取の対象、弱みをさらす者と見なしているち、この ような姿勢がいつかは自分にはね返ってきて、自分についての考え方を決定的に傷つける。わたしが暗黙のうちに、 自分を弱みをさらす者と見なすのは、一生の間、他者をそのように見てきたからなのだ。わたしたちが自身の中に つくりだす弱さは、根本的には、わたしたち自身についての、そしてわたしたちが行なう邪悪な行為についての一定 の考え方の中にある。わたしたちは許してほしいと哀訴する。鼻水をたらし、めそめそと情状酌量の事由を訴える。 ほかにしようがなかったのだと、自分自身に、そして聞いてくれる他の誰にでも言い聞かせる。それは本当かもしれ ない。しかし、わたしたちの弱さは、弁明が重要であるかのように考える点にある。オオカミは弁明などしない。 オオカミは自分がすること、おそらくはしなければならないことをして、その結果を受け入れる。 邪悪な病気だとか、社会的な悪弊の結果だと考えるのは、究極的には、これまでわたしたちが入念に他者につくり だしてきた無力さを、いまや自分自身の中にもつくってしまったからである。わたしたちは、もはや自分は道徳的な 評価を受ける価値すらないのだと考える。わたしたちが悪人であるなら、あるいは善人であるなら、それは他の何 か、道徳とは無関係の概念で説明をつけるべき何か、わたしたちが制御できない何かであるのだと考える。こうして 自身の道徳的な状態について言い逃れをし、邪悪をつくりだしたことへの責任を弁解することこそが、邪悪づくりの 究極的な表現である。これが、わたしたちが自分の魂にたゆみなく築きあげてきた弱さの、想像し得るかぎりもっと も明快な表現である。道徳を実際には何か別のものであると考えるのは、あまりに明白な弱さであり、これが見え ないのは人間だけであろう。わたしたちはもはや、弁解せずに生きられるほど強くはない。自分の確信にしたがっ て行動する勇気がもてるほど強くすらないのだ。 社会契約論が示している第一の点は、わたしたちが特別にもつ人間的な、あるいはもっと正確にはサル的な権力 妄想である。この理論から導かれる結論は歴然としている。人は自分よりもはるかに弱い者に対しては、なんら 道徳的な義務はなくなるのだ。人が他の人と契約を結ぶのは、他の人が自分を助けてくれるからか、さもなければ 他の人が自分に害を及ぼすからだ。「君は助けが必要なのかい? 心配ないよ。ほかの人が助けを必要としている ときに、君が助けることに同意するなら、ほかの人も君を助けてくれる。殺人、攻撃、奴隷化から身を守りたいって? 問題ないよ。君がほかの人にそれをしないことに同意するなら、ほかの人も君にそんなことはしないと同意してくれ る」というわけだ。けれどもこれでは、自分を助けてくれたり害を及ぼす他者との間にだけ、契約を結ぶ理由がある ことになる。契約という考え方全体が意味をもつのは、契約を結ぶ両者が少なくともほぼ同じ程度の力をもっている と推定される場合だけなのである。契約を信じる人ならほぼ誰もが、この考え方で一致する。その結果、自分より はるかに弱い人、自分を助けてくれることもできなければ、害を及ぼすこともできない人は、契約の枠の外に出され ることになる。 だがここで、契約が文明、社会、道徳を正当化するものとして考えられたことを思い出してほしい。だから、契約の 枠の外に出る人は、文明の枠外に出されてしまう。それらの人は、道徳の範囲外にいる。だから、人は自分よりも はるかに弱い人に対しては、道徳的な義務を負わないのだ。これが、文明を契約という視点から見ることの帰結で ある。道徳の目的は、より多くの権力を集めることにある。これが、社会契約の理論が示す第一の点である。この 理論の基礎をなす最初の仮定である。野生と文明、どちらが本当に歯と爪を血に染めているのだろうか。 (中略) 詐欺師は決して成功しない、とわたしたちは自分自身に言い聞かせる。だが、わたしたちの内にあるサルは、これ が真実でないことを知っている。不器用で、訓練を受けていない詐欺師は決して成功しない。詐欺師であることを 知られてしまい、その結果、苦しまなければならない。世間から締め出され、除け者にされ、軽蔑される。けれども、 わたしたちサルが軽蔑するのは、彼らの努力が不器用で、的はずれで、気が利かないところだ。わたしたちの内に あるサルは、詐欺そのものを軽蔑するのではない。まさにその逆で、詐欺にあこがれる。契約は詐欺には報いない が、巧妙な詐欺には報うのだ。 契約はわたしたちを文明化された人間にした、と思われている。ところが、契約は詐欺に対して絶え間ない圧力を かけもする。わたしたちを文明人にしたものが、わたしたちを詐欺師に変えもしたのだ。しかし、これと同時に、契約 が機能するのは、詐欺が通常のことではなくて、例外的である場合だけである。もし誰もがいつも誰をも騙せるの なら、どのような社会秩序も団結も崩壊してしまうだろう。そこで、契約はわたしたちを詐欺の探知者にもした。 ますます巧妙な詐欺師になろうとする努力と並行して、ますます巧妙な詐欺の探知者になる能力も発達する。人間 の文明、そして究極的には人間の知能は、軍事競争の産物であり、嘘は第一のミサイル弾道である。あなたが 文明化されていて、かつ嘘つきでないとしたら、おそらく、あなたが巧みな嘘つきではないからだろう。 こうしたことは、人間について何を語っているのだろうか。自分の貴重な財産である道徳が契約の中に据えられる べきだなどと考える動物とは、どのような動物なのだろうか。公正な社会とは何かを見つけ出そうとするときに、 構成員が同意した仮説的な契約、という言葉で社会を考えようとする動物とは、いったいどんな動物なのだろう。 その答えはオオカミにとってははっきりしているが、サルにとってはそうではないようだ。答は詐欺師である。 なぜわたしはここにいるのだろう。四十億年もの盲目的で無思考な発展の後に、宇宙はわたしを生み出した。 それだけの価値があったのだろうか。真剣に疑問を感じる。いずれにしろ、神々がわたしに希望をくれず、地獄の 番犬セルベルスに首根っこを地面に押さえつけられて、「コン畜生」と言うためにここにいるわけではない。これは 幸せな瞬間ではない。しかし、これらの瞬間こそが最高の瞬間なのだと、今のわたしは知っている。わたしにとって 一番大切な瞬間だからだ。そして、これらの瞬間が大切なのは、これらの瞬間自体のためであって、わたしが何で あるかを定義する上でこれらの瞬間が果たす役割のためではない。もし、わたしが何らかの形で価値があるとした ら、もし、宇宙がなし遂げた価値あることの一つであるとしたら、これらの瞬間こそが、わたしを価値あるものにして くれるのだ。 こうしたことをすべて明らかにしてくれたののは、一頭のオオカミである。このオオカミは光であり、この光が投げか ける影の中に、わたしは自分を見ることができた。わたしが学んだことは事実上、宗教のアンチテーゼだった。宗教 は常に希望に訴える。キリスト教徒やイスラム教徒は、自分が天国に値する人間であるという希望をもつ。仏教徒な ら、生と死の大きな車輪から解放され、涅槃に到達するという希望をもつ。ユダヤ=キリスト教では、希望は第一の 徳にまで昇格し、信仰と名づけ変えられた。 希望は人間存在の中古車販売員だ。とても親切で、とても納得がいく。それでも、彼を信頼してまかせることはでき ない。人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である。最終的には時間がわたしたちからすべて を奪ってしまうだろう。才能、勤勉さ、幸運によって得たあらゆるものは、奪われてしまうだろう。時間はわたしたちの 力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべて、所有できる あらゆるものを時間はわたしたちから奪うだろう。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、 最高の瞬間にあったときの自分なのである。 |
2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。 しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。 世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい 姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。 オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在 なのだと思います。 ☆☆☆ 2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。 オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。 熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると 限りなく低いのです。 また、丹沢の山中で星を見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が 死にかけています。 生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている 気がします。 写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。 誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、 「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。 |
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2013年8月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 本日8月23日の夜明け(6時14分)です。 夜明けが雲で覆われていたり、雨のときは投稿しませんのでご了承ください。 神奈川県でも地域によって異なると思いますが、厚木ではここ3週間ほど雨は殆ど降っていません。 夜明けの写真を撮る時間帯は、ベランダの植物の水やりも行っていますが、近所の畑の作物は 完全に参っています。 厚木には「阿夫利(あふり)神社」がある大山(1252m)があるのですが、川崎・宮前区の土橋という 地域には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきました。 「オオカミの護符」小倉美恵子著によると、日照りが続いた時は、朝早く若い衆が片道40キロもある 大山までの道をリレー方式で行き、大山山頂の滝から「お水」をいただき、昼過ぎには土橋に戻って 雨乞いをしたと書かれています。 リレー方式とは言え、昔の人の健脚には驚かせられます。 土橋にも息づいていた「オオカミ信仰」は埼玉の奥秩父や奥武蔵が源なのですが、若い頃に山に 夢中になっていた私は奥秩父や奥武蔵の山々が好きでした。標高はそれほど高くはないのですが、 周りの自然と自分が一体となっているという不思議な感覚をもたらしてくれたからです。 100年以上前、この山奥では「オオカミの遠吠え」がいたるところで聞かれていたことでしょう。映像 で見聞きする「オオカミの遠吠え」を聞くと、昔の人が何故オオカミを神と崇めていたのか分かるよう な気がします。いつかこの耳でオオカミの遠吠えを聞けたらと思います。 ☆☆☆☆ |
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2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue (大きな画像) 火星が地球に最接近(写真はNASAより引用) 明日4月14日に火星が地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。 写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から 赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。 アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源 は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。 「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと 思います。 ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。 100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。 |
2014年6月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 種を植えて4年目で咲いた合歓の木(ネムノキ)の花 前に住んでいた近くの山にあった合歓の木、その優雅な木に魅せられ、その種を集めていました。 こちらに引っ越し、そしてしばらくしてこの種を鉢に植えましたが、それは丁度4年前のことです。 合歓の木は葉に特徴があるのですが、咲く花も優雅さを湛えています。 山にあった合歓の木は、いつの間にか枯れていましたが、10年前この木の下で拾った種が、違う場所で新た生命を咲かせる。 子孫という形あるものだけでなく、「受け継ぐ」という神秘も感じさせられます。 ☆☆☆☆ そして、まだ寒さの厳しい夜、 彼が鼻面を星に向け、 長々とオオカミのように遠吠えをするとき、 声を上げているのは彼の祖先たちだ。 彼を通じて、もう死んで塵となってしまった祖先たちが、 鼻面を星に向け、何世紀もの時を超えて遠吠えしているのだ。 ジャック・ロンドン 「オオカミたちの隠された生活」ジム&ジェイミー・ダッチャー著 より引用 ☆☆☆☆ |
Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent