「火の神の懐にて」
ある古老が語ったアイヌのコスモロジー
松居友 著 小田イト 語り 洋泉社より
小田イトの言葉「妹、障害をもった和人のもらい子」を参照されたし。
アイヌの古老、小田イトさんの素朴な語り、その深い慈愛と祈りに満ちた世界観と いう気泡が、深い泉の底から静かに浮かびあがり、いつしか私の心に弾んでいた。 このアイヌ並びに先住民族の方々の視点なくして、どのように未来を語れるというの だろう。私たちの遥か太古に刻まれた記憶を呼び戻すこと、それは自分自身が何者 であるかを知る旅であり、未来への礎であることを改めて教えてくれるものである。 そして昔から語り継がれてきた伝説や神話が、どれほど深く子供の心を豊かに育ん できたのかを思い知らされてしまう。本書がまた優れている点は、児童文学の世界 に長い間関わってきた著者ならではの暖かい語り口と、スエデンボルグなどと対比 しながら展開する奥深さにもあるのだと感じられてならない。 (K.K)
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北海道を終いの住処ときめた著者が、ひとりのアイヌの古老とじっくり膝をまじえ、 話を聞いた。その古老の語ることばや生き方のなんと黄金のようにきらめいてい ることか。死と葬儀と引導渡し、臨死体験と死後霊、鮭の霊送り、熊送り、一匹の 蝿も神になるなど、神々と人間の交歓を描いて、アイヌの精神文化と豊かな世界 に私どもを誘ってくれる。(本書 帯文より)
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本書 まえがきより引用
私は、イトばあちゃんのなかにきらめくミクロコスモスをできるかぎり忠実にマクロコスモス の中でとらえ、多くの人々に共感し理解していただくために、だれにでもわかる描写で再現 するために最大限の努力をしたつもりです。この作品の目的は、あくまでもこのイトさんの 言葉からあふれる事実をふまえ、その言葉のなかにコンカニ(黄金)のようにきらめくコス モロジーをできるだけ浮き上がらせて描写することであり、大上段にかまえてアイヌ文化と は何かを解説するものではありません。ですからこの作品は、いわゆるアイヌ文化研究者 による調査報告とは異なります。アイヌ文化のような偉大な精神文化は、記録として博物 館や図書館の片隅に保存されることも必要ですが、新たな時代の思想として復活される ことこそが必要であると思うのです。
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本書・あとがきより 松居友 より引用
よくアイヌ文化は、アニミズムであるといわれます。アニミズムにはおそらく専門的にさまざまな解釈が あるものと思われますが、「広辞苑」をみますと「宗教の原初的な超自然観の一。有霊観と訳す。自然 界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を 有するとみなし、諸現象はその意志や働きによるものと見なす信仰」と出ています。アイヌ文化におい ても基本的にこの考えは当てはまっているように思えます。しかし信仰という言葉が加わりますと、私に はイトばあちゃんのおっしゃる神々と人間の関係が正確に語られているように思えなくなります。少なく とも、イトばあちゃんの語る神々と人の関係は、信仰よりももっと直接的に、祈りによって結ばれている ように思えるからです。イトばあちゃんにとって、人間(アイヌ)と神々(カムイ)は基本的に共存互恵の関 係で、両者を結ぶ霊的な言葉、言い換えるなら言霊が祈りであるのです。だから時にはチャランケとい って神に談判したりもするわけで、神にたいしては祈りを通して常に語りかけ、神も語りかけてくるので すからそこには神と人間の親密な関係が生じます。人間に祈られるから神々は存在し、神々が祈りに 応えるから人間も存在しえる。いわゆるカムイとアイヌの共存互恵の精神がそこには生きていて、神に たいしてしっかりした人間としての存在意識があるのです。その意味でアイヌ文化は、単なる人間中心 主義にたいするところの自然中心主義または神中心主義ではないといえましょう。なぜなら祈るものと しての人間の役割が、神々の世界のなかで厳しいまでに画然として定められているからです。自然界 は、カムイとして人間に感謝されたり祈られたりしてはじめて霊的により高い神格をもつのです。その 意味では、アペフチカムイ(火の神)はもっとも人間に身近で、祈りの中心となる大切な神様なのです。 アイヌの方々にとって、カムイにたいするアイヌすなわち人間のこの世での存在理由は、祈ることにあ るといって間違いないことでありましょう。ですから人間は決して祈りを怠ったり忘れてはなりません。 祈るということは、神に語りかけるということで、通常、火の神様を通してさまざまな神々に語りかける 形をとりますが、もちろん直接語りかけることもいたします。祈りの形にはさまざまあり、カムイノミや カムイオロイタク、イヨイタクコテなどその時の状態や状況によって違いますが、広く呪文や魔除け、 踊りや語りや生活のなかの礼儀作法もすべて祈りであるともいえそうです。その意味でアイヌの方々 の生活は祈りのうえに成り立っているといっても良いかと思います。なぜなら人間は、宇宙にたいして 非常に重要な責務を負っている、それが祈りだからです。人間が祈りを忘れたときに、人間の世界が 破滅に向かい、それとともに自然界も神々の世界も破滅に向かうのです。現在地球が破滅に向かっ ているとするならば、人間が自然界によって生かされてあることを忘れ、神にたいする感謝の気持ち を忘れ、物欲と利己主義におちいって自然界を破壊し本当の祈りを忘れているからでありましょう。 これはテイネポクナシリと呼ばれる地獄に落ちる人間の条件でありますが、当たっているように思え ます。この宇宙のなかで人間は、祈りを通して霊的な役割を持たなければならない存在です。さまざ まな神々にたいして好むと好まざるとにかかわらず、司祭の役割を持たなくてはなりません。霊を迎 え、感謝し、霊を送る、これができるのが人間であり、祈りは宇宙における人間の存在理由でもある のです。その意味では人間は万物の霊長です。最近は万物の霊長という言葉が誤解されていて、 西欧から来た人間中心のおごった考え方の元凶のようにいわれるのでありますが、霊長という言葉 のなかで人間の霊的な役割の持つ重い責任と意味が失われているからでありましょう。今の人間 は、物長と呼んだほうがよいかもしれません。ですからアイヌ文化を単純に自然中心、神々中心と 見るのは必ずしも正鵠を射てはいないように思われます。注意深く見ていきますと、逆に良い意味で 人間中心主義ではないかと思われるほど、人間の霊的な役割に比重を置いているからです。また 簡単に西洋と東洋とを対比させて、一神教と多神教との比較のうえでアイヌ文化を論じるのも危険 であるように思われます。じつはかつて私も拙著「昔話の死と誕生」のなかで、アイヌ文化を一神教 と多神教の対比のなかで考えて、より多く八百万神的な考えに共感を抱いたのでありますが、この 点こそは、イトばあちゃんに直接お話をうかがって視点が変わった重要なポイントでもあるのです。 東京にいるころに書いた「昔話の死と誕生」のなかで、私は狩猟採集文化のコスモロジーをユーカラ と日本の昔話の対比のなかで解き明かし、アイヌ文化を日本文化の基層として位置づけたのであり ますが、たしかにそれは基本的には今も正しいと思います。アイヌ文化と日本文化の間には、深い 共通点が見られます。しかし実際北海道に移住して、イトばあちゃんのお話をうかがううちに、アイヌ 文化が日本文化との比較のなかでのみ論じられるほど狭い文化ではないということをつくずく実感 せざるをえなくなったのです。とりわけ前掲書ではまだ明確になっていなかった、霊的な世界の構造 に関しては、最大の関心事としてしつこいぐらいに根掘り葉掘りイトばあちゃんにうかがったのであり ます。それがたとえばスエデンボルグが述べるところの霊界の構造や、ウノ・ハルヴァの書いた「シ ャマニズム」の宇宙像、そしてあげくの果てはキリスト教や仏教の基本理念となんら矛盾していない ことは、新たな発見であり驚きでありました。たとえばスエデンボルグの著作における天使や霊の 存在を、カムイという言葉に当てはめてみるならば、そこにはイトばあちゃんの話との驚くべき共通 点が多々見られます。スエデンボルグは、キリスト教では異端と見られていますが、霊と直接語り 合うようになった後に、聖書を天使の教えによって霊的な言葉で解釈した者として、その根本をキリ ストの言葉に置いています。また私がフィンランドのカレワラの研究所で見せていただいたフィン族 の熊送りの資料は、驚くほどイヨマンテと共通していて、フィンランドの方も唖然としていらっしゃった ように、西欧の古い習慣には、驚くほどアイヌ文化に近いものがあることも次第に明確になってくる と思われます。フィン族はアジア系であるのですが、ノルウェーの古い教会建築に見られる龍の姿 なども、霊場を守る神の竜神(カンナカムイ)との関係からたいへん興味深い問題です。また「シャ マニズム」には、死生観や方位、宇宙像のなかにイトばあちゃんと同じ考え方やコスモロジーが随 所に出てきて、アジアからヨーロッパをおおう世界観であることがわかります。このことは今後の 研究にとってシベリアから見た世界が一つのキーワードであり、狩猟採集文化が人類の基層の 文化として世の東西を問わずかなり共通していた証拠であるように思われます。その点でこの 分野での若い研究者の活躍が今後おおいに期待されます。さらに今回興味深かったのは、いわ ゆるキリスト教のミサ礼拝で行われている儀式の根本的な考え方が、イヨマンテと呼ばれる熊の 霊送りと非常に似通っていることです。とりわけカソリックのミサがよく似ており、神が肉体を持っ てこの世に現われ、その死によって復活し神の国に送り、神の肉を食べ血を飲むことによって 人が生かされてあることを感謝する点などは、基本理念が完全に共通しています。すなわちキリ スト教徒は、毎日曜日に神の肉を食べ血を飲み霊を送る、いわゆる霊送りの儀式を欠かさずし ているということで、祈りとは何かを考えるうえで非常に重要な点ではないかと思われます。また エクソシストと呼ばれる悪霊払いが存在していることや、原則として呪いが禁じられている点から 逆に呪いの効力を認めている点、また司祭は一般の会衆と違ってこの世の者のためだけでは なく、むしろ霊たちのためにも祈ることなどもカソリックの司祭の世界と似ています。思うにこの 北海道にも日本文化のルーツとしてのアイヌ文化に触れに来たという人も多くいて、それは間違 っていないのでありますが、その枠のなかだけで日本文化や東洋文化の独自性を求めても、 アイヌ文化に関してはあまり意味がないことを今は実感せざるをえないのです。とりわけアイヌ 文化を基層に置いた日本文化の独自性や、独特なアイデンティティーの証明などは、大海の 広がりをもったアイヌ民族のアイデンティティーの自覚にてって有害であるばかりか、アイヌ民族 自身にとってもあまり意味のないことのように思えます。それはおそらく近隣のアジアの諸民族 にとっても世界の民族にとっても同様で、単なる形を変えた大和幻想の肥大化による同和化に 過ぎないことでありましょう。
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目次 まえがき 誕生の丘、神々に囲まれて 移住、大地は個人の所有物ではない 家は聖堂であり主人は祭司 最初の記憶、父さんの死 彼岸への思い、墓標は死者を送る杖 天界の方位と世界像 死者の国は、どこにあるのか 死と葬儀と引導渡し 死後の霊の状態 先祖供養、死者の国における霊の成熟 〔付記〕ジョン・バチュラーの著作との符合と若干の考察 地獄とは霊の腐りゆく場所である カムイの本質は霊であり、善い霊と悪い霊がいる カバリ幻想 母さんの思い出、コタンの秋 春、カムイとともに生きる喜び 千船のばあちゃんは吟遊詩人 愛馬が死後、夢で自らの気持ちを訴える 娘時代、親友トヨちゃんとの思い出の日々 アイヌと和人、すぐれた精神文化は滅びない 妹、障害をもった和人のもらい子 子どもは神の国からくる 雀になった子ども 死者の語る夢の教え 丸木船と千歳川、鮭の霊送り 喜代作さんが熊を獲った話 霊を迎えもてなして霊を送る イヨマンテ、熊送りの思い出 霊送りに秘められたもの 一匹の蝿も尊い神になること アイヌ文化の復活 あとがき
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2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
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