「エデンの彼方」

狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社







本書より 引用



30年にわたるイヌイットとインディアンの研究をもとに、狩猟採集民と農耕民の文化の比較を通じて、人類の

歴史を根本から再考した類のない試み。



狩猟採集民は我々の同時代人である。我々は農耕民とその末裔である。狩猟採集民は一定の範囲の土地

に根ざした生活を送り、農耕民は創世記のカインに見られるように、地上を放浪する。一方は恬淡無欲な

定住生活者、他方は刻苦勉励の遊動民である。人類の歴史は、この全く異なる人々によって形成され、現在

に至った、と筆者は見る。



今日、本来の狩猟採集社会は失われたが、それは我々、農民とその末裔の力に侵されたからである。しかし

彼らは現代に生きている。本書で狩猟採集民の美質を多々明らかにした著者は、一方に与することなく、

正邪、善悪の二項対立を越えたところに、人間としてより良く生きる道が見出されることを示唆している。



本書 より引用


父母たちにしてみれば、わかりきった話だった。家々を回って生徒の就寝を見届ければいいではないか。

教師一同は唖然とした。いくら白夜だからとて、真夜中の太陽に照らされながら各戸を回り、子供たちに野球

をやめ、あるいは自転車を捨てて氷から上がり、家へ帰って寝るように言って歩くなど思いもよらないことで

ある。冗談ではない。教師から見れば、家庭の躾の問題だ。話は噛み合わず、何が変るでもなかった。



イヌイットは権威になびくことを潔しとしない。何ごとにつけ、親は子供を信じて判断を任せるのが普通である。

人は誰しも、当面する問題に自分で結論を出さなくてはならない。弱年ともいえども、生前、親類中から慕われ

た故人の名前と魂を受け継いでいる子供は一個の立派な人格である。この考えがイヌイットの生き方、広く

言えば、狩猟採集文化の根底をなしている。学校も大切に違いないが、その規律や論理はイヌイットの習慣

を前に一歩譲らなくてはならない。学校に何が求められているかは合意の問題で、教育の重要性に関して

イヌイットと教師の認識が一致すれば話は簡単だ。しかし、だからといって、学校の方式や権威を生徒に押し

つけることはイヌイットの考え方に馴染まない。親の立場を笠に着て、子供の人格の芯に生きている父祖を

ないがしろにすることは、ポンド・インレットに暮すイヌイットたちのとうてい承伏しかねるところだった。不都合

があるとしたら、その不都合を生じさせた当のカドルナート、すなわち白人の責任において問題を解決すれば

いい。家を建ててイヌイットをセツルメントに押し込んだのはカドルナートである。だったら、子供たちに就寝

時間を守らせるのも彼らの務めではないか。



自分たちの文化の根幹を維持しようとするイヌイットの驚異的な執念は見上げたものである。その執念が、

白人の発想でイヌイット集落の色彩を希薄にしたセツルメントの貧寒をよく補っている。イヌイットにとって

古風の伝承がいかに重要かを物語る光景である。6月の北極圏で子供たちに就寝時間を決めて強制する

ことを拒んだのは、イヌイット本来の生き方を貫こうという彼らの心意気だった。







1万年前、世界中の狩猟採集民は多種多様な言語を用い、さまざまな形態の文化を営んでいた。これは、

現在の狩猟採取民の多様性からも言えることである。アメリカ大陸の原住民は百を超す異なった言語を

話し、そのいずれもが話者に特定の種族、ないしは社会に対する帰属意識を懐かせるに足る際立った

響きを帯びている。北アメリカの亜北極から北極地方に広がる森林とツンドラ地帯は苛烈な自然環境で、

風景はどこもさして変りないが、そこに生きる狩猟採集民は相互に通じない千差万別の方言を話す。方言

は大別して四種類の語族に分けられ、語族間の差異は西ヨーロッパのロマンス語とアフリカ南部のバンツー

語の隔たりにも劣らない。カリフォルニアだけでも、原住民は推定、80種類もの異なる言語を話すとされて

いる。狩猟採取民の多様な言語はそれ自体、彼らが長い時間、固有の社会制度を維持してきたことの証

である。



言葉は社会と家族の構造に幅広い変化の可能性を付与する。その結果、個々の集団が、知識、信仰、理念

を体系化して伝承する方途は数知れない。そうした多様性にもかかわらず、あらゆる狩猟採集民はある特性

を共有している。それは狩猟採集民が生きている世界との間に確立した関係に基づく特性である。物質的な

充足は、環境を知ることによってもたらされるのであって、環境を造り変えて得られるものではない。数ある

狩猟採集の形態は、土地を管理することで成り立っている。選択的に森林を焼き、翌年の豊かな収穫を期し

て根を植え替えるなどはその例である。動物たちは生きていると死んでいるとを問わず、人間が敬意をもって

遇したとき、はじめて従容として狩りの獲物たることに甘んじる。それゆえにこそ、狩猟採集民にとって葬礼

の儀式は神聖である。受動的な農耕民とは異なり、彼らは豊かな収穫が約束されるように環境を保全する

困難な仕事に携わっている。何よりも、狩猟採集社会の経済、および精神構造の核心をなす観念は自然界

を今あるままに守ることである。すでにして、人間は理想の土地に生きている。変えるこてゃ害である、と彼ら

狩猟採集民は硬く信じて疑わない。



もう一つ、狩猟採集民の生き方で注目すべきことは、個人の意思を大いに尊重することである。どの集団も、

指導者というよりは技量において崇敬を集める狩りの名人がいる。しかし、その指示や助言に従うかどうか

は、あくまでも個人の選択である。狩りの先達は命令を強要しない。自分の意志は明らかにするが、それに

どう対応するかは個々の判断に任される。社会的な倫理規範は厳格ながら、上意下達や集団による制裁に

よってこれを強制する考えはない。人間の行為が霊界に及ぼす影響は、祟りに対する恐れを伴って理解され

ている。動物を正当に敬わず、禁忌をないがしろにすれば、報いは飢えと病であり、そのことは部族の神話

伝説に語られているし、現実に厄災に見舞われた場合、長老やシャーマンもこの考えに立って現状を分析し、

対応を検討する。狩猟採集民の社会にあって、個人と霊界の結びつきは何にもまして重要であり、その媒介

は夢や、瞑想、直感、とさまざまだが、選択の自由は各人にあって、社会的階級、序列に制約されることは

ない。



狩猟採集民の平等主義は、資源や収穫の分配方式にもはっきり現れている。広い範囲で狩猟採集すること

は、部族の成員すべてに同等の権利である。誰か一人、あるいは一家族が獲物を多くしとめれば、集団の

全員に食料が行きわたる。獲物を他者に分け与えるのは誉れの表現である。持てる者が配分し、持たざる

者が受給に与るなら、これすなわち成功者の面目だから、部族内に貧富の差はほとんど見られない。



個人を尊重して平等主義に徹している狩猟採集民は、相対的に人口が少なく、地域は過疎である。機動性が

求められる生活形態と、限りある資源が人口を抑制する。家族は同時に乳幼児二人の養育を歓迎せず、

3年の間隔を空けて出産するのが普通である。ここに、狩猟採集民の研究者がよく指摘する明らかな矛盾が

生じる。彼らは子供を溺愛する反面、窮乏に直面して口を多すぎるとなれば、嬰児殺しもためらわないので

ある。







人間集団はおしなべて、自分たちこそ最善の生き方をしていると考えがちである。そこから、ほかの生き

方をしている者たちも、許されれば自分たちのような優れた社会、宗教、道徳、経済、知識体系に移行する

はずだという、はなはだ軽率な発想が湧いて出る。この種の中華思想は、集団同士、相手を判断する際の

評価基準になっているが、実は、そこで下される判断は農業社会の必要によって正当化されるのである。

農耕民は組織的に新しい土地を獲得しなくてはならず、それに伴って安い労働力を確保し、多大な利益に

与れるとあって、何につけても優れた自分たちが収奪を働き、服従を強いるのは当然とする論理が罷り

通る。農耕民は歴史に疑問を感じない。狩猟採集民が農耕文化に鞍替えしたのは農業がいいことずくめ

だからだ、と彼らは合点している。ならば、何を称していいことと言うのだろうか。食料が豊かで、危険は少な

く、人は長生きして、個人間であれ、相異なる社会集団の関係であれ、暴虐は無用の沙汰である。



法律と、これを運用する制度が完備して、社会秩序は整然と保たれている。と、こう並べてみると、ここには

事実と虚構が混じり合っている。「古代」との対比で見る「現代」は、真実と欺瞞の綯い混ぜである。しかも、

牧師の説教、学校の教科書、社会進化論者の言説、世界銀行が発する指令、国際通貨基金の融資条件

など、何もかもがこの混合から成っている。農耕文化の恩沢をこうむっていない人種は、物質的にも社会的

にも極めて惨めであると高言して「我々」の優位を誇り、その文化が万人の希求すべき進んだ階段であること

を暗に教示する狙いがある。凝り固まった農業信仰は疑念をいっさい寄せつけない。



農業の世界的な普及は終了採集民の大半を絶滅に追いやった。だが、農耕民はある一つの理由で、彼ら

が得手とする戦争以上に多数の人命を奪った。病気を蔓延させたのである。


(中略)


これらの感染症を起こす菌やウィルスは、農耕に従事する宿主として風土病の病原巣となった。しかし、人は

抗体を作ってその病気に感染した集団が全滅することを防いだから、病原と抵抗力は人が適応できる範囲

で釣り合っていた。



狩猟採集民は感染症を知らず、従って、抵抗力もなかった。その狩猟採集民が農耕民と遭遇すれば、たち

まち病気を移されて滅び去ったとしても不思議ではない。かくてエデンの園を追われ、呪いを負って地に満ち

た放浪者たちは、その過程で新たな呪いを撒き散らした。征服者や移住者によってアメリカに持ち込まれた

病原菌は、武器によるよりもはるかに多くの先住民を滅ぼしたが、それ以前から、世界中で同じことが起きて

いた。農耕民は血と息を媒体に、目に見えない呪いを搬送した。



新石器時代を通じて、伝染病の影響は武力の比ではなかったことが知られている。インフルエンザ、麻疹、

水痘、その他、さまざまな病気で夥しい先住民が死亡した。北アメリカの一部では、先住民の実に75パー

セントが外来の疫病に斃れている。辛くも生き延びた部族は弱者となり、恐怖が記憶に焼き付いた。







狩猟採集民の知識は、自分の世界と、そこに生きとし生けるものの可能な限り密接な関係の上に成り立っ

ている。変身とは、完全なる知識の象徴である。狩人と獲物は互に相手の姿に変りえるほど密着して行動

する。そこまで相手を知り尽くすということにほかならない。狩り場で行動に正確を期するには、何よりもまず、

精神の自由が必要である。いっさいの束縛から解放され、快楽、憑依、酩酊など、あらゆる意識の変容を

肯定する覚悟がなくてはならない。境界の可変性、行き来を自由にする界面の透過性、多孔性は有用で

あって、そのことにいささかも不思議はない。



世界は絶えず移り変わって恒常性がない。が、無常もまた一種の常態である。狩猟採集民は手を加えて

世界を変えず、無常を知って世界に同化する。敬意を表し、世界の安泰に心を砕く。狩りの獲物である生き

物や、採集する草木の扱いに作法があるのはどの種族も同じで、これはすなわち、良好な関係を永続させ

る意思表示である。選択的な採集や、野生動物のあしらい方もこの考えが反映されている。イモ類の塊茎

は然るべき土壌に残して次の季節の収量を確保する。亜北極や草原地帯に住む一部の狩猟民は野を焼い

て、暮しの糧である木の実、草の実や、生活用具の素材となる植物を、倒木や蔓延る藪の被害から守る。

サケをはじめ、産卵のために川を上る魚類を大切にする漁方もさまざまある。西欧の科学ではこうした習俗

の実利を説明するかもしれないが、当の狩猟採集民にとって何よりも肝腎なのは、食糧を提供してくれる

自然との関係である。彼らは、間違ったことをしなければ、世界は今のまま続く、と信じている。彼らが食用

にする生き物や草木は敬意をもって遇されているこを知って喜び、将来にわたって地上から姿を消すことは

ない。



自然を敬うことと、管理することの違いは狩猟採集民に接する農耕民の態度を理解する上で極めて重要で

ある。農耕民の技術は、世界との関係ではなく、世界を変える能力を主眼としてしる。彼らの技術と知識は

この改造を持続しうるまでに発達した。農耕民は貴重な植物の種と家畜のほかに、自然を管理するシステム

を携えて新しい土地に移り住む。このシステムは情報の集積と特定の地理や所与の事実から独立した分析

的思考とで成り立っている。分析的、抽象的な理論から演繹によって結論を引き出す過程はもっぱら理性が

頼りだが、理性の依って立つところは排中律、すなわち、相矛盾する判断の中間に、どちらでもない第三の

立場はないとする単純明快な原理である。数理の二項対立は、ここにおいて農耕民本来の知的、道徳的

特性を示すキリスト教の二項対立と合致する。



一方、狩猟採集民は特定の地理や所与の事実を超越する抽象思考に縁がない。彼らの知識は夥しい事実

の複合である。おまけに、狩猟採集民はそれらの事実を囲っている境界が不安定であることを疑わない。

ある一つのものは、日常の現実とは無関係な理由で別のものに変りうる。狩猟採集民にとって、西欧文明

において「専門技術」を画する領域はおよそ判然としていない。狩りの成功は、その土地の野生動物との関係

にかかっている。狩猟採集民から見れば、「野獣」は農耕民が飼っている牛や馬よりはるかに大人しい。狩人

と生き物は相互依存の関係である。人と土地についても同じことが言える。生物と無生物を隔てる一線は

ない。例えば、オーストラリアの狩猟採集民の一部には、妊娠は「塵」、あるいは地にあるものの「情」が女性

の胎内に入って起きる現象だとする考え方がある。懐妊とは、ただ卵子が受精して胎児が育つだけのことで

はない。


(中略)


農耕民のすべてが絶対主義者というわけではない。ただ、資本主義の農業が狩猟採集民と出会う植民地の

開拓前線では、ユダヤ教とキリスト教がその最右翼に位置していよう。近代農業が膨大な余剰産物を作り出

した結果、市場は限られた地域の枠を超え、国際的な組織の関与を必要とする規模と、複雑な構造を持つ

までになった。この膨大な余剰産物、ひいては、さらに土地を獲得するための利益の追求と、体制維持に

必要な労働力と役人を管理統率する強固な階層制度への依存は相関している。経済が発展する中で、農業

はその社会の政治体制と不平等の構造を反映する。徹底した合理性と計画性は発展に必須の条件である。

言うまでもないことながら、ここにおいて、農耕民と狩猟採集民の精神構造は極度に隔たっている。



唯一神教の先兵たる宣教師が先住民と出会う亜北極や北極地方、アボリジニーと出会うオーストラリア、

サン族と出会うカラハリ砂漠など、いずれの場合も両者の物の見方、考え方には天と地の相異がある。が、

それはそれとして、ヒンドゥー教のインド亜大陸や、儒教、もしくは共産主義の中国のように、唯一神教を

掲げていない国家体制においても、先住民、なかんずく、狩猟採集民は絶対主義の支配下である。農耕民

と狩猟採集民の両極性はキリスト教世界の辺境に限ったことではない。



翻って、二つの民族が遭遇するところ、常に両極の対立が生じるかといると、決してそうはならない。農耕民

と狩猟採集民が何世紀にもわたって隣人の関係を保ち、農民が狩猟民に知恵を仰いでいる例もあれば、

余剰産物の創出と、それに伴う政治体制の発達が長いこと小規模に留まっている農耕社会もある。開拓前線

に特有の容赦ない経済拡張主義を正当化するのは、資本主義の成功という動機付けと、競合する国民国家

の野望という圧力だが、中央の経済活動から遠く隔たった地方には農耕に依存する先住民社会があって、

人々は憑依その他、シャーマニズムの手法を恃んで災害対策を講じ、明日を占い、意思決定を下している。

狩猟採集民における生類の霊と同様、農耕民にも地霊は存在するのである。



してみると、人間と人間以外のものを隔てる多孔性の壁は、狩猟採集民の独占ではない。現に、呪術によっ

て他者に干渉する農耕民族は各地にいて、特に西アフリカではこれが盛んである。インドでは、心霊術によっ

て収穫や子供の健康に影響を与える神々の心を鎮めることが広く行なわれている。中南米の農耕社会は

古来、幻覚剤を用いて霊界と交信し、霊力を授かる習慣である。だが、農耕民のシャーマニズムは多くが

日常生活からかけ離れた祭祀であり、序列や秩序の維持など、農業社会の発展に付随する問題を専らに

している。対するに、狩猟採集民のシャーマニズムはそれ自体が日常であり、あらゆる力の根源である。

土地を改造し、他者を支配するのではなく、自然界を観照することで培った狩猟採集民の観念からすれば、

知識とシャーマニズムは不可分である。







狩猟採集民の考え方は、詳細な知識と直感の微妙な組み合わせである。直接の体験と心象が融合して

真理を把握し、真理の命ずるところに従って彼らは行動する。農耕民の考え方は、精密な分析と演繹思考

よって確立された条理の体系である。狩猟採集民は周囲のすべてと調和の取れた関係を求める。精霊は

この関係の証左であり、象徴である。精霊が丁重に扱われて、人間としっくり折り合っている限り、狩猟採集

民は必要なものを手に入れることができる。農耕民は自身の責任において世界を管理し、造形して、収穫

を上げなくてはならない。発見を重ね、技術を革新し、次々に新しい土地を開拓して管理を強化すれば、

その分、収穫も安定する。正邪、善悪の二項対立はこの拡張の原理に基づく農耕民の意思表示である。

管理とは、周囲の環境から利用できる資源を選り分けて取り出すことであり、この企てを妨げるものは何で

あれ敢然として排除しなくてはならない。



狩猟採集民と半農半狩猟採集に生きる小規模な先住民社会の違いは、思考形態の問題としては捉えにくい。

先に述べた通り、霊性の概念や、人間界と霊界を隔てる境界についての理解は生き方の違いを越えて多くの

先住民に共通である。とはいえ、農耕民はすべて自然界を管理し、改造することを本領として、農地の保全と

新たな土地の確保に力を注ぐ。農耕民が相対的に高度な組織を実現し、攻撃性向を帯びているのはその

ような社会的、経済的な理由による。形態の異なる先住民社会が混在している地域も含めて、世界中のここ

かしこで農耕民が「未開」の狩猟採集民を忌み嫌い、狩猟採集民が「横暴」な農耕民を疎んでいるのは、決し

て偶然の結果ではない。過去五百年におよぶ植民地時代を通じて、進歩した農耕民は情容赦なく異人種を

抑圧し、狩猟採集民の生活圏だった広大な土地を奪った。異質な先住民社会の境界がどれほど複雑に重な

り合っていようと、狩猟採集民と農耕民の二項対立が、世界、ならびに人間の精神の形成について語るところ

は動かし難い。







世界はまた、歴史によっても作られる。人間が何を思い、何を知り、何を次代に伝えるべきか、すべては

言葉にある。世界がどのようにしてはじまり、人間が誕生して、生きる場所を見つけ、他者とどう付き合うか

を知るに至った経緯を語る言葉が歴史であり、言葉は人間に場所を与える証文である。「創世記」に描かれ

た天地創造の物語をはじめとする農耕民の歴史が彼らの生き方に意味を与える。狩猟採集民にも天地

開闢この方の歴史がある。ここに二通りの歴史が成立する。が、その後、農耕民の歴史は狩猟採集民の

歴史をほぼ圧殺した。



狩猟採集民の世界認識は、大方、彼らの言葉とともに忘却された。これによって、極めて特異で豊かな歴史

の一部が失われたのである。この先、一世代の間に、何百という狩猟採集民の言葉が消滅するのではない

かと危惧されている。人類にとってその損失は量り知れない。打ち重なる言葉の喪失は、人間の可能性の

幅を狭くする。



とはいえ、失われた歴史の重みを伝える、また別の歴史がある。狩猟採集民と農耕民の遭遇は、一方に

とっては喪失、他方にとっては利得の歴史だった。狩猟採集民が失ったものは取り戻す術もない。だが、

狩猟採集民とは、いったい何者か、彼らがどれだけ大地に根付いた生き方をしているか、農耕民との出会い

が何をもたらしたのか、そうしたことを世界中がきちんと知れば、いささかなりと埋め合わせの望みがなくも

ない。狩猟採集民の達成もさることながら、彼らが語り継いできた歴史にこそ、人類の未来を切り開く道が

ある。狩猟採集民がいなければ、悲しいかな人類の存在価値は逓減する。狩猟採集民がいることで、我々

は円満な全人たりうるのである。




Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「脳科学が解き明かす 善と悪」なぜ虐殺は起きるのか ナショナルジオグラフィック

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「野の百合・空の鳥」&「死に至る病 」(漫画) キルケゴール(キェルケゴール)

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

サンデル「正義とは」ハーバード白熱教室 & 「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「史上最強の哲学入門」飲茶・著 河出文庫

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」 リサ・ランドール著 塩原通緒・訳 NHK出版

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像








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