「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」

岩田慶治 著 人文書館

第16回 南方熊楠賞 受賞






2012年4月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」



アッシジの聖フランシスコは神が創造した全てのものに神の息吹きを感じた、と表現してもいいかも

知れない。しかしサイトでも書いたように、私はその気づきとは違う次元、世界がありのままの姿で

映し出されている次元にフランシスコが立っていたのではないだろうかと感じてならなかった。



純度の高い鏡を持つ者においては、世界に存在するすべてのものが、その存在の重みそのものを

映し出している。



純度の高い鏡、それはアニミズムにも共通している。岩田慶治氏は「木が人になり、人が木になる」

の中で、アニミズムを次のように語り、この鏡の模範を鎌倉時代の禅僧・道元に見いだしている。



☆☆☆☆



「自分が鏡になってそこに天と地を映すといっても、鏡になるための・・・そのために精進努力する

・・・手がかりはない。



しかし、それにもかかわらず、自分のまえに、自分にたいして、天と地ではなくてそれが一体となった

全宇宙が訪れるということは、そのとき、自分がすでに鏡になっていたということである。



いわゆるアニミズム、あるいは本来のアニミズム経験というのは、木の葉のさやぎ、川の流れの音、

あるい草葉の露に全宇宙の規則をみることであって、その経験の時・処において、宇宙との対話が

成立しているのである。



つまり、自分が鏡になって、そこに天地を〈同時〉に映しているということである。」引用終わり。



☆☆☆☆



しかし、この鏡を持つということは別の姿を映し出すことになる。フランスの哲学者でレジスタンスでも

あったシモーヌ・ヴェイユは逆にこの鏡のために、人々の不幸がそのままの重さで映し出され彼女を

苦しめた。しかしそれでも彼女は力強く言う。「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」と。



聖フランシスコにとって心の故郷であった10坪にも満たないポルチウンクラの教会、そこでヴェイユは

生まれて初めて何かの力に逆らえずひざまずく。



自分に何が出来るか、それは決して大げさなことでないかも知れない。公園でガラスの破片が子供た

ちを傷つけないよう拾っている人もまた偉大な聖人だと私は思う。世間から大きな賞賛を受けなくとも、

どれだけそこに心を込めているか。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」は私にとって、「ラ・マンチャの男」と並んで生涯大事にし続ける

映画かも知れない。



☆☆☆☆



「太陽の歌」アッシジの聖フランシスコ



神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。

わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。

太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。

わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。

月と星はあなたのけだかさを受けています。

わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。

風はいのちのあるものを支えます。

わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。

水はわたしたちを清め、力づけます。

わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。

火はわたしたちを暖め、よろこばせます。



わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。

大地は草や木を育て、みのらせます。

神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、

病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。

終わりまで安らかに耐え抜く者は、あなたから永遠の冠を受けます。



わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。

この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。

大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。

神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。

第二の死は、かれを損なうことはありません。

神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、    

感謝します。



☆☆☆☆



(K.K)



 








本書より帯文・表紙より引用



自然に融けこむ精霊や樹木崇拝の信仰など、民族文化の多様な姿を通して、

東洋的世界における人間の営為を捉え直し、人間の存在そのものを問いつめ、

そこから人生の奥深い意味を汲み取ろうとする。




岩田慶治先生のこと・・・・杉浦康平(グラフックデザイナー)

ぼくが日頃尊敬する師の一人に、岩田慶治先生がいます。岩田先生はまず、アジアを

フィールドにした文化人類学者として知られ、その研究があらたなアニミズム論へと移

り、その後道元の研究を深められて、そのあげくに同時の存在、つまり、シンクロニシ

ティに想いをいたされた方なんだけど、この岩田先生が「ハッ」と驚くこととアニミズムの

結びつきを興味深く指摘しているんですね。「アニミズムは、山や自然のなかで、出会

いがしらにハッとして神を感じる、そのひとときになりたつ宗教だ。とびあがるほどおど

ろいたかとおもった、その一瞬に、こころがスーッとおちついてすきとおった感じになる。

そこに神がいたとしかいいようがない、『経験』なのだ」と。





animism online: 岩田慶治という人を知っていますか より写真引用


岩田慶治(いわた・けいじ)

1922年、神奈川県横浜に生まれる。京都大学文学部史学科卒業。同大学院文学研究科修了。

タイ、ラオス、カンボジア、マレーシア、インドネシア、フィリピン、スリランカの各地域で調査・研究

に従事。大阪市立大学教授、東京工業大学教授、国立民族学博物館教授、大谷大学教授を経

て、現在は、国立民族学博物館名誉教授・東京工業大学名誉教授。著書『日本文化のふるさと

−東南アジアの稲作民族をたずねて』(角川書店)、『草木虫魚の人類学−アニミズムの世界』

(淡交社)、『コスモスの思想−自然・アニミズム・密教空間』(NHKブックス)、『人間・遊び・自然』

(NHKブックス)、『カミの人類学−不思議の場所をめぐって』(講談社)、『道元の見た宇宙』(青

土社)、『岩田慶治著作集』(全8巻 講談社)




 


本書より引用


アニミズムの根本は何か。それは木にも、石にも、虫にも、鳥にも、もともと、カミが宿っている

ことを認め、そういうカミでいっぱいの自然を尊重しながら生きることだ。そうすると、木は木と

して宇宙の主人公になり、山は山として主人公、ひとは誰もかれも一人ひとりが主人公になる。

自分も、また、その仲間になって、風景が生き生きしてくる。これがアニミズムの本質なのだ。



一般に、アニミズムは未開人の宗教だと言われている。しかし、ホントはそうじゃない。未開人

だって・・・・そういう人がいたとしても・・・・何千年、何万年も地球とともに生きて、悩んで、考え

考えしてきたのだから、かれらの宗教、かれらの世界観を未熟だなどと言うわけにはいかない。

かれらのなかにだって、たくさんの哲学者がいたし、宗教家もいたに違いない。そういうかれら

が信じているカミなのだから、そのカミと出会い、そのカミの声を聞くのは、われわれの側に委

ねられた仕事なのだ。



それなのに、アニミズムのカミなんてダメだ。高木から下りてきて住民に供物を要求したり、お

どろおどろしい衣装をまとって人びとを恐怖におとしいれるのが関の山だ。それは現世利益を

旨とする民俗信仰より、もっともっと低級なものだ。そういう声がやかましいくらいだ。



しかし、宗教と文化をとり違えては困る。アニミズムは始めから終わりまで、祈りのなかの出来

事であって、欲望の渦巻く文化のなかの出来事ではないのだ。現代人は霊的な力、あるいは

直感の力が衰えてしまったから、その結果によってしか宗教の真偽を判定できない。その証拠

を求めようとする。しかし、カミの証拠なんて、どこにもないのだ。





宗教はわれわれに何をしてくれるのだろうか。こころのやすらぎを与えてくれる。もろもろの悩み

から救ってくれる。



いったいどういう方法で救ってくれるのだろう。もつれた糸をほどくように、宗教という薬が熱と痛

みを取り去ってくれるのだろうか。それとも、悩みのない、やすらぎの場所に連れていってくれる

のだろうか。その場所が、天国とか、極楽とか、浄土とか呼ばれるところなのだろうかそこへ行く

地図はどうなっているのだろうか。どうしたらそこへ行けるのだろう。乗り物、交通手段は何だろ

うか。



「経典を読めばくわしく書いてありますよ」、といわれるとその通りかもしれない。しかし、経典の

文章は今日から見て時代がたちすぎている。もっと生き生きとした童話や物語につくり直すこと

はできないだろうか。銀河鉄道に乗っていく。くるみ林をとおり、奇妙な鳥を捕らえ、雨雪のしずく

を飲みながら、星々のなかを走る。何となく、自分はイーハトーヴォ(宮沢賢治が描いた一種の

ユートピア)のなかにいるように思うけれども、銀河鉄道はそこを出発してどこかにたどり着こうと

しているのかもしれない。たどり着くべきところも、イーハトーヴォの内部にあるのだろうか。



禅宗の場合は、座禅として何事かを悟るのかもしれない。悟りの世界というのは一様で、外部か

らの批判を許さないのだろうか。それとも、悟りのなかにも、ヒマラヤの崇高な風景があり、熱帯

雨林の永遠の静けさがある。海の深さがあり、草原のざわめきがある。そういう多様な悟りの風

景のなかに、自分の風景を重ねあわせるのだろうか。



浄土宗の仏教なら、修行などに気を散らされることもなく、一直線に信の世界に入りこんでしまう。

それに違いないだろうが、浄土、あの世の表現ということになると、今後の問題じゃないだろうか。

蓮の花はわが家にも咲くし、時どき鳥が来て囀る。だからここも極楽だ、とはいえない。そこの住

人、つまり自分自身が悩んで、右往左往して、およそ信とは遠い生活をしているからである。



密教の場合は、寺も人も教義も、自然のなかにスッポリ入りこんでしまってたいへん結構である。

しかし、あのマンダラ図はもっと単純化できないものだろうか。私にとっては迷路と同じだ。悪口を

いっているのではない。私自身がもともと迷路なのだから。



どうも、日本の宗教は、発達しすぎた。くどい。山・川・草・木がいつも言っていることを、一つ一つ

人間語に翻訳しなくたっていいのだ。風景そのものが、そのなかに住む人間にとって宗教なのだ。



デジャ・ビュ(既視)と呼ばれる心理学の現象がある。初めて見た風景なのに昔どこかで見た風景

とそっくりだ。不思議というのだけれど、既視として見えているものは、私風にいえば、原風景なの

だ。自分が自分であることの証拠としての忘れえぬ風景なのだ。



無数のタネが同時に発芽して、一面の花園になってしまう。そこはどこだろう。私は宗教の世界に

おいては「そこ」が「ここ」で、「ここ」が「そこ」、「この時」が「あの時」だと思っている。素直にそう信じ

ている。信じているわけじゃない。その通りにみえるのだ。





人生というとらえどころのないものをとらえる。いや、とらえようとして悪戦苦闘していまった。人生

は眼に見えないものである。風のようなものといってもよい。空間に刻印をのこすこともなく、時間

に目盛りをきざむこともない。形もなく、色もなく、音もない。重さもない。だからこそ、無理を承知

でその人生をとらえてみたかった。その結果、ここで見いだしたことは次のようなことであった。



第一に、人生は文化という名のカプセルに包まれていること。別のいい方をすればカプセルとそ

の中味は別だということである。



第二に、文化をシンボルの体系とすれば、人生はその中にあって特に点滅する動的な象徴のカ

プセルに入っているということ。ここで象徴というのは文化を超えた世界に衝突したときの現象と

考えることができる。そしてもちろん、その前提として文化の向う側に文化を超えた世界があると

いうことになる。文化は海のなかの島のようなものである。



第三に、人生というものは眼に見えないものである。しかし、それは眼に見えないながらも常に

形をもとうとしている。そこで、その形を望ましい姿に造形する方法がある。われわれは人生と

いうものを造形する方法について考え、「つみあげる」「けずる」という二法を用いることにした。

そしてその結果を、絵について、人物について、庭について検討してみた。



第四に、こういう作業を通じて、わずかながら、わかってきたことがある。それは人生を二つの

場所の統一として、あるいは対応・変換の体系としてとらえるということである。ものの置かれて

いる場所とそれを映す場所、あるいは物と鏡、あるいは現世と他界。これらの二つの場所が構

成する空間に人生というものが出没し、去来しているということである。



第五に、鏡というと、すぐさま、ガラスの鏡を思いうかべるけれども、ほんとうは生死の場が鏡な

のである。その場が、その場だけが現世と他界、二つの世界を同時に映すことができる。鏡と

いうのは、眼に見えるものと同時に、眼に見えないものを映すから鏡なのである。人生はそこに

映っている。



第六に、その場、その場を言葉で解説することはできない。しかし、その場の風景として示すこ

とはできる。紙芝居のように、一枚一枚の風景を示し、それを重ね、それを取り換えていく。そう

いう方法によって人生を示唆することができる。



第七に、この小論を書いてきて、あるいは読んでくださって、何がわかっただろうか。私のいい

たいことは左の通りである。



人類が文化という名前の籠のなかにとじこめられていると、間もなく死ぬだろうということ。しか

し、文化の中にいて同時に文化を超えた世界に触れ、そこに出入りすることができるようになる

と、よりよく生きることができるだろうということ。もちろん、人間は無限に生きるわけではない。

しかし、文化を超えたものに触れると、それ以前とくらべて生死のかたちが違ってくる。簡単に

いうと、それまでは一人旅、それからは二人旅となる。一人はいうまでもなく自分自身、もう一人

は伝統的な用法にしたがって仏といってもよい。他者といってもよい。大地といってもよい。もっ

と簡単に地(じ)といってもよい。地(じ)が他者で柄が自分自身。



生死の単位が違ってくるのである。林のなかで巨木の梢がゆさゆさとゆれている。そういう処で、

その木の下で死んだら、死がすこしも怖ろしくないような気がする。しかし、われわれは現代人

だから、そんなことは考えもしない。不必要であるというかもしれない。それはそれでよい。しか

し、それでは巨木は悲しむだろう。


 


目次・・・・もののみちみちした空間



第一部 アニミズムの風景 

草木虫魚、森羅万象とともに

復権・・・・自然を尊重する世界観

傷のない宇宙・・・・カエルに学ぶ大地の調和

近景・遠景・・・・ふれあい通じて一体に

「眼にて言う」

投げ矢とマンダラ・・・・「同時」という不思議な物思い

迷路の一本道・・・・因果にかかわらない世界

宇宙の折り目・・・・賢治の視線

「そこ」が「ここ」で、「この時」が「あの時」

宗教を受け継ぐ・・・・その四つの方法

死を学ぶ・・・・シンボルやイメージでは役に立たない

風景による救い・・・・「ここ」が「そこ」



第二部 カミの所在

人と森が挨拶する

森の思想

イバン族と音の文化

木と対話する

林丘寺の日本の樹

無限の木と魂と

樹を見つめる

魂の在りかを探す旅

境界の向こう側・・・・ウル・バラム(バラム川上流部)



第三部 宇宙図の東と西

文化という額縁

日本文化と自分文化

宗教と儀礼

コスモスとマンダラ

大嘗祭の原型・・・・魂とは何だろうか

石とたましい

稲とカミと地球マンダラ

日本文化の原型、あるいはその土台・・・・北部ラオスの村にて

民族・自然・妖怪・・・・スムライ族調査ノート



第四部 コスモスの構造

カメレオンの目と自分という鏡

コスモス・イデー

見えるものと見えないもの

鏡になった自分



第五部 飛鳥は飛空

道元の宇宙

道元の眼 1.曇りなく見る 2.その映る場所 3.その自由な表現

道元の自然・・・・三つの言葉から

道元へのまなざし

飛鳥は飛空

売金は買金

悉有は仏性なり

カミの誕生する場



第六部 人間の一生・・・・風にそよぐ梢のような

はじめに

人生の軌跡 人生を旅する

文化のなかの人生 1.誕生 2.結婚 3.葬送 4.象徴の衣装

人生の表現 1.人生の場 2.人生をかたどる 3.二人の先達 4.自然をかたどる 5.歴史と人間

人生の風景

百代の過客

おわりに



付録1 ふしぎの場所、同時空間のフィールドワーク・・・・アニミズム体験のこと

付録2 存在の深みへ





2012年9月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

ニホンアマガエル(自宅にて撮影)



雨が降るとカエルが元気に鳴き出しますが、カエルは雨や湿ったところが好きだからと今まで

漠然と思っていました。



少し調べてみたら、カエルは肺呼吸と皮膚呼吸の両方をしており、乾燥した皮膚だと皮膚呼吸

が出来ないそうで、カエルの皮膚がいつも湿っているのはそのような意味があったんですね。



ところで昔の人は日照りが続くと「雨乞い」の儀式を行いましたが、雨の前兆を知らせるカエル

の存在を尊い天からの使いとと見ていた人も多かったのではと推察します。



話は昔に飛びますが、中国・殷の時代(紀元前17世紀から11世紀)では日照りが続くと巫女を

焼き殺す(焚殺)ことがあったようですが、儒教(孔子を始祖とする思考・信仰の体系)の「儒」は、

この焚殺される身分の人だったと言われています。そして「儒家」とは、雨乞いと人身御供の葬

式からお祭りまで含めた宗教的な行事を担当する伝統を持った階層だったようですが、詳しくは

わかりません。



同じ中国でも南部に住む先住民族は、春になるとカエルが彫られた銅鼓(どうこ)を激しく叩くそ

うです。その音が天地に響き渡り雨をもたらしてくれる、またこの儀式は多産を願っていると言

われています。



中国だけでなく、日本でも、そして世界でもカエルを天と地を結びつけるものとして神話や物語

に沢山登場しているのかも知れません。



アニミズムについて書かれた良書「木が人になり、人が木になる」岩田慶治著より以下抜粋

引用しますが、岩田さんは国立民族学博物館名誉教授の方です。



☆☆☆☆



カエルが水と陸をつなぎ、天と地をむすびつけるためのシンボルになっている。



そんなことは何事でもないじゃないかと思われるかもしれないが、天と地の仲が悪く、ことごと

に対立して調和がとれなければ、季節の運行に支障がでてくるし、農業と生活のリズムが狂っ

てしまう。



昔のひとは、白珪無?(はくけいむてん・白玉にキズひとつないありさま)といったが、それは

天地のあいだに割れ目がなく、宇宙にひび割れがないことをいったものだ。ひび割れのない

宇宙に住もうとすれば、必ずや、人間も争いをやめるだろう。



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年3月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



火焔型土器(縄文土器)の真価を初めて発見した岡本太郎



私は読んでいませんが、岡本太郎著「画文集・挑む」1977年、岡本太郎著「みずゑ」1952年2月号

「縄文土器論」の中で、「太陽の塔」で有名な芸術家、故・岡本太郎氏は次ぎのように記しています。



☆☆☆☆



○「偶然、上野の博物館に行った。考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不

思議なモノがあった。 ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。何だろう。・・・・

縄文時代。それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があっ

たのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃え

あがっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己

発見でもあったのだ。」



○「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと

執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を

主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」



☆☆☆☆



この縄文時代の火焔型土器は、岡本太郎氏より前に多くの考古学者や人類学者が目にしてき

ました。彼らは刻まれた文様などの解釈に悩んでいたのだと思います。しかし彼らの頭の中では

論理的思考しか働いておらず、土器が持つ「生命力」を感じることが出来ずにいました。この火焔

型土器(縄文土器)の再発見のいきさつを思うと、左脳の論理的思考だけでは真実は見えてこな

い、右脳の創造性や直感も如何に大事かを教えてくるのではと思います。この意味での「平衡感

覚」が「在るべき人間」に備わっていると私は感じます。



先に紹介した分子生物学者の福岡伸一氏は、「光の画家」として知られるフェルメール(1632年か

ら1675年)の作品に独自の解釈をした文献も出されているようです。学者の中でもこのような平衡

感覚が備わっている方はいますが、「在るべき人間」とは、知能や知識などで判断されるものでは

決してないと思います。



誰が話したか覚えていませんが、「毎朝、妻の寝顔を見ると、新しい女がいつもそこに眠っている」

という感覚。縄文人にとっては、一日一日が美や創造の再発見であったのかも知れません。



最後に私が尊敬する哲学者・梅原猛氏の岡本太郎氏に関する記述を紹介して終わりにします。

これは「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」梅原猛著からの引用です。



☆☆☆☆



この縄文土器の美を発見したのは、前にも述べたように岡本太郎氏である。美というのは、すで

に存在しているものであるが、やはりそれは誰かによって見い出されるものである。日本の仏像

の美を見い出したのは、フェノロサや岡倉天心であったし、木喰(もくじき)や円空(えんくう)の仏像

や民芸の美を見い出したのは柳宗悦なのである。縄文土器もそれまで、数多くの人が見ていたは

ずであるが、それが美であり、芸術であるとはっきり宣言するのには、やはり岡本太郎氏の前衛

芸術によって養われた審美眼を待たねばならなかった。



☆☆☆☆




(K.K)



 



Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「死に至る病 (まんがで読破)」キェルケゴール・作 バラエティアートワークス

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作 & サンデル「正義とは」・ハーバード白熱教室

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像







アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

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