Two Whistles - Apsaroke
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
先住民族の慈愛に満ちた豊穣な精神文化の底には、シャーマニズムと いう人類最古の宗教的・霊的知恵すべての総合である創始者の世界観 が流れている。しかし、霊的な求道から離れ教義に縛られた多くの宗教 から迫害され、初期の心理学から病的なものとの烙印を押されながらも シャーマニズムは現代に生き残ってきた。シャーマニズムが語りかける ものはシアトル酋長が言ったところの「人がいのちの織物を織ったので はない。その中の一本の糸にすぎないのだ」であり、「宇宙を自分自身 として体験すること」に目覚めることに尽きるのではないだろうか。この 人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統のシャーマニズム は人間・環境破壊が進む現代文明に警鐘を鳴らし続ける。そして何よ りもマイケル・ハーナーがいうところの「日常的リアリティの自己中心的 超越をはるかに超えたものである。それはもっと大きな目的、つまり 人類を救うための超越なのである。シャーマニズムにおいての光明と は、他の者が暗闇と考えるものを照らし出し、そのことによって「見」、 ・・・・・・・人類・・・・・・・のために旅をする能力」なのであり、それは、 「自己実現的人間は例外なく、自分自身のことを超えた目的に関心を 寄せている」(マズロー)ものである。その究極的な慈愛の姿をキリスト 教や仏教などに見ることが出来よう。ただこれらの大宗教において、 その慈愛を体現した魂は少数であることを認めざる得ない。先住民族 に流れている豊穣な精神文化を見るとき、シャーマニズムが持つ偉大 な世界観が現代において再生することを強く願わずにはいられない。 1998.6/7
1997.7/25 「インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム」参照されたし
「この人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統に関しては、 まだまだ多くの謎が残されている。シャーマニズムについて探求すれば するほど、人間の体、心、魂について認知されていない側面や可能性 があることがわかる。何千年もの長きにわたり、シャーマニズムの精神 は、人類を助け、癒し、導いてきた。それはこれからも、さらなるものを 与えてくれるかもしれない」 ロジャー・ウォルシュ
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「シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像」 ウノ・ハルヴァ著 田中克彦・訳 三省堂 ハルヴァの研究は、それにもかかわらず、本書が現れて30年余を経た今日 もまだその価値を失っていない。シャマニズムに関する本格的な研究書で、 ハルヴァとこの書の名を挙げていないものはない。というのは、19世紀から 1930年に至るまでの研究を、これほど集約的に、もれなく示している例は他に ないからである。すなわち本書は1930年代までのロシアとヨーロッパにおける シャマニズム研究における総決算である。 しかし本書の内容がよく示しているように、これは理論の書ではなく、何よりも、 なまの資料の書である。この意味で、訳者はこれを「シベリアの金枝篇」と呼ぶ にふさわしいものと考える。本書の価値の一つは、19世紀ロシアの各種紀要に 発表され、今日では利用するにもすこぶる困難な論文の要点を数多く引用して いる点にある。最近わが国で邦訳されて親しまれているM・エリアーデの著作 におけるシャマニズムに関する知識と材料は、ほとんど、このハルヴァ(ドイツ 名でホルンベルクとなっていることもある)に負うている。日本の理論好きの 読者は、理論から一歩下りて、シャマニズムに関して、いかに多年にわたる 多くの研究者の骨折りによって、こうした資料が集積されてきたかを、このハル ヴァの書を通じて知られるのもまた一興であろう。引用は大小300篇に近い論著 におよび、ロシア人の寄与が大きい。 これらの報告をものにした好事の士はどんな人物であったか。訳者はその 方面にも関心は浅くないが、とりあえずここではしょっておくとして、随所に引用 されるポターニンはオムスク流刑中のドストエフスキーと親交があったし、ブリ ヤートの研究には、そこに流された政治犯の関与が少なくなかったと指摘する にとどめておこう。 (本書・「訳者のあとがき」 より引用) |
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「アマゾンの呪術師(シャーマン)」 |
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「シャーマニズムの精神人類学」
人類の魂の源流であるシャーマニズムが持つ現代的意味を、科学者としての
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「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」 マックス・F・ロング著 林陽 訳 ビオ・マガジン この衝撃的な文献について自分の中で整理ができたところで、感想を載せたい と思います。尚、この文献は先に出版された「ホ・オポノポノ 奇蹟の原点 カフナ の秘法」と「ハワイアン超スピリチュアル カフナの秘法 実践篇」を一つに合冊し たものである。 ホ・オポノポノはハワイ先住民の呪術師(カフナ)たちが行っていた秘術のひとつ。 この本はホ・オポノポノをベースにカフナの秘術の全てを解き明かすために書かれ ている。キリスト教によって禁止される前、本物のカフナたちが行っていた様々な 奇跡をレポートし、その奇跡の仕組みを科学的に解明した。 (本書より引用) ハワイの先住民カフナ(「専門家」を意味)は「ポノ」(和)の名称のもとに、昔から 和解と癒しの儀礼を使い、人間関係の亀裂やそこから派生する各種の病を治療し てきた。しかし、今流通している「ホ・オポノポノ」とう名称が作られたのは最近のこと である。1980年8月に、本書の著者マックス・フリーダム・ロングのフナ研究所のメン バーであったモルナー・シメオナと当時の会長であったE・オサ・ウィンゴがロングの 研究を基礎に共同開発して命名したのが最初で、一対一あるいは家族対家族で、 祈りや告白、話し合い、許しを中心として行われる癒しの手法である。 しかし、最近の自己啓発ブームの中で突然現れてきた「ホ・オポノポノ」はそれとは 異なる。いわば簡略化したバージョンであり、本来のホ・オポノポノが成立する過程 で原典とされた本書の教えからは切り離されている。この興味深い現象について、 今のフナ研究所の代表者ヴィンス・ウィンゴ博士が驚くべき事実を明らかにした。 「それは30年前に試されて、益と害が同じくらい多く出ることが確認された、簡略版 は全部で12段階ある『上級ホ・オポノポノ』の一部にすぎない」というのだ。 (本書より引用) さらに面白いのが、日本語でもある「フナ」という言葉だ。フナの古体は「クナ」で、 神話の発祥地である出雲には、フナト(クナト)の神の伝説がある。イザナギ神が 黄泉の国から地上に戻る時に黄泉の力を封じるために付き立てた杖から化生し た神で、クナは「来るな」からきていると「日本書紀」にあるが、出雲井神社の社屋 (富家)は違うことを伝えている。これは作家の司馬遼太郎氏が初めて明らかにし たことである。 富家の口伝によれば、原出雲族は祖神クナトに率いられて、4500年前に海路日本 に渡来し、製鉄、紡績、農耕を教え、各地に国主を置いて治め、大国主神の先祖 になった。これはエジプトから太平洋に船団を組んで渡来したカフナの伝説の別 バージョンと思われる。 スクナヒコナ神の伝説もこれに絡む。スクナヒコナ(「クナ」に注目)も船に乗って 日本に渡来した。大国主神とともに日本を広く回り、温泉を堀り、種を撒き、医薬 と呪術の基礎を据えて、南海に旅立ったと「記紀」に伝えられている。このスクナ 族がハワイに渡ってカフナの祖になったと思われる。 これは私の一方的解釈ではない。ロング氏にフナの研究を託したハワイ・ビショッ プ博物館のブリガム博士によれば、「和歌山」という地名は船団を組んでハワイに 戻ってきたワケア神から取ったものである。博士の発言を「記紀」の記録が傍証す る。「記紀」の記述によれば、和歌山は呪術と医療の基礎固めをしたスクナヒコナ 神が南海に旅立った場所だった。ロング氏の研究を理解することにより、日本古来 のフナ学(霊学)を科学的に解明することも難しくないと思われるのである。 (本書 訳者後書 より引用) |
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「アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 伝承の知恵の記録」 青木愛子 述 長井博 記録 樹心社 青木愛子さん(1914年3月10日〜1995年10月24日)は、古代から継承されてきた 産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そしてウエインカラ(何で も見える千里眼)を通してシャーマン的な役割を担ってきた方である。愛子さんの ウエインカラは、初対面の人と対座した時だけでなく、電話の相手でもその人の 過去と未来がわかる特殊な力を持っていた。それは相手の血液の赤血球や白血 球の流れがまるで顕微鏡を見ているように見えることも意味していた。 愛子さんの産婆術に関しては本書に詳しく書かれているが、驚くべきことは5代目 の愛子さんに継承されたこの秘伝は1756年(宝暦6年)フィリピンのパギオシティー、 イゴロット族の聖地アシュラムから始まっていることである。この初代の産婆さん の名前は天静一(テンシンイチ)と言うが、その出身地など不明である。そしてこの 男性がアイヌに来て結婚し、産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしなが ら、夫婦で北海道各地のアイヌコタン(村)を巡回したという。 この南の島からの秘伝と聞くと、ハワイ先住民の呪術師(カフナ)たちが行ってい た秘術として知られている「ホ・オポノポノ」とアイヌには何か共通点があるのかも 知れない。ハワイ先住民のカフナは、エジプトのピラミッド文明時代、国内情勢が 悪化したため、最高の宝(呪術の秘法)を守るためエジプトを脱出し祖国(ポリネ シア)に辿り着いた民だという説がある。 またこの説では、カフナ12部族のうち10部族がインド洋経由で各地に秘術を植え 付けたが、祖国帰還の途中で日本にも渡り、古神道の呪術の基礎を据えたとい うのである。時代は異なると思うが、イスラエルの12部族のうち失われた10部族 を考えると、この数字はただの偶然なのか、それとも何か意味を持っているのだ ろうか。 私自身1980年頃かつてマルコス政権下のフィリピンのスラム街など、同級生や シスター達とフィリピンに行ったことがあるが、その旅行中にパギオにも立ち寄っ たことがあり、パギオの近くだったか記憶があやふやだが、森に住む先住民の 方にも会ったことを思い出す。その時は経済開発の名の下に住む場所を奪わ れていく先住民の現状を見ただけだった。 話は随分それてしまったが、青木愛子さんの後を受け継いだ長井博さん、そして 長井さんの次女へと途絶えることなく継承されていることに感慨深いものを感じて ならない。 (K.K) 赤ちゃんは喜びながら生まれてくる 青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて 来た産婆術(イコインカル)、診察、治療のための特殊な掌(テケイヌ)、薬草(ク スリ)、整体手法、あるいはシャーマンとしての技量(ウエインカラツス)をも駆使 (ウエポタラ)して、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍した。 本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見て、その言葉の一つ一つを丹念 に記録した、アイヌの信仰と文化の実態に迫る伝承の知恵の書。 (本書・帯文より引用) 見えないはずのものが見える 死者の霊が見える。例えば愛子の親しい友人が交通事故で死亡した。死亡して から四十九日の間は、その友人の霊が愛子の処に遊びに来るのが見えて、対話 する。愛子にとっては日常的なことなので恐ろしいという気持ちは起きない。四十 九日が来ると、既に死亡している友人の親族の霊が友人の霊と一緒に現れて歌 をうたったりする様子が見え、その声も聞こえる。これは四十九日で終る場合で ある。 この場合、愛子の親しい友人でなくとも、死者の霊を見ることがあり、四十九日を 過ぎた者の霊を見ることもある。これは完全にポクナモシリ(地獄)に堕ちている 霊であると解釈している。いわゆる自縛霊のことである。自縛霊は人間に限らず、 犬や猫等の動物である場合もある。 一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く 見える人が多い。何も見えないほど暗い人もある。暗い人の過去現在をウエイン カラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚醒剤、物欲 の強い様子が見える。明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に対して尽く している様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、 無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有し ているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。 (本書より抜粋引用) 五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。 |
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「マヤ文明 聖なる時間の書」 現代マヤ・シャーマンとの対話
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「ユタ」の黄金言葉 シャーマニズム、これは人類最古の宗教的あるいは医学的、心理的なもの |
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「ブラック・エルクは語る」
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ベア・ハート(ムスコギ・クリーク族長老)は1918年に生まれ、長い修行時代を
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「アンデス・シャーマン 宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観」 実松克義 著 現代書館 立教大学社会学部で学ぶ生徒は幸せだと思う。何故ならこの学部にはインディ アン研究の第一人者である阿部珠理さんと、ヤマ・アマゾン研究の第一人者実松 克義さんがいるからである。もし私が若く頭も良ければこの大学で学ぶことを選ん でいたと思う。その理由は三つある。一つ目は研究量だけに留まらず、如何にそ れを解りやすく砕いて説明できるかの才能を持っている点。二つ目はフィールドワ ークの技術が優れている点。三つ目は決して奢らず飾らない人間的な魅力を持っ ており平衡感覚に優れている点であり、それらの優れた特質は、文献にも良く反映 されているのではと思う。本書「アンデス・シャーマンとの対話」において、実松克義 さんはアンデス・アマゾン地域に住む十数人のシャーマンから話を聞き、背後にあ る世界観・宇宙観を探るだけに留まらず、シャーマンによる儀式にも参加している。 儀式では時には遺書を用意してまで探究しようとする。現在の日本でこのような真 摯な探究心をもっている研究者はあまりいないのではないだろうか。少し話は違う が、以前NHKの放送大学の「先住民講座」の中で司会のスチュアート・ヘンリ氏が イヌイットなど先住民族のカテゴリー分け必要だと指摘したのに対し、若いフィールド ワークをしている2人の研究者が共に「同じ民族でも一人一人違う」ことを強調され ていたが、それだったら別に外国まで行かなくても近くのお爺ちゃん、お婆ちゃんの 姿を追えばいいのである。何故、外国に住む先住民をフィールドワークの対象とし ているのか、その原点(自分が何故彼らに惹かれたのか)を忘れ、自分の研究対 象が唯一無二のものだと近視眼的な捉えかたに囚われていることに気づきもしな い。勿論このような研究者ばかりではないことを願うが、実松克義さんのような存在 がまだまだ日本には求められているのではと思う。話はそれてしまったが、本書で 展開されるアンデスの宇宙観、時間の流れなど興味深く、シャーマンでも考え方や 技法が一人一人異なる点も驚かされる。しかし、それでも土台には共通した世界観 ・宇宙観が宿っていることを本書から感じとれるのではないだろうか。 (K.K) だが最も特筆すべきなのは、アイマラ族が後年発展させた歴史的認識である。 ボリビアの人類学者マウリシオ・ママーニ・ポコアカによれば、現代アイマラ文化に は四つの歴史的段階を示すパチャが存在する。チャマック・パチャ(月の時代)、 ハナ・パチャ(文明の時代)、タキシン・パチャ(苦難の時代)、そしてクティ・パチャ (刷新の時代)である。これは歴史としてのパチャである。直線的時間としてのパチ ャ、進化論的なパチャと言ってもよいだろう。歴史としてのパチャはスペイン人征服 者による文化的破壊の後に発生した。それは民族の歴史の再評価と反省、新しい 意味付けという主体的行為の結果である。ここではパチャはすでに完成された過去 の世界観ではなく、時間とともに変化し、進化する概念である。これはパチャの概念 が、あたかも文化生成のマトリックス(苗床)であるかのように時代に応答し、発展す るダイナミズムを備えているからだと思われる。 世界は静止してはいない。絶えざる運動の中にある。そして人間はその運動を正し く導き、調和的世界を維持するために、努力しなければならない。 こうしたパチャの思想はすでに古代アンデスにおいて存在した。回転する十字架で ある。ティワナコ文明の先行文化であるチリパ文化には一つの興味深い表象が存 在する。俗にチリパの表象として知られるこの石のレリーフは、アンデスの宇宙観 の祖形とも言うべき世界を描いている。そこには太陽から発散する世界の四大要素、 エネルギーがベクトルとして描かれ、生成変化する生命の躍動が表現されている。 チリパ文化は初期のティワナコ文明に大きな影響を与えたのではないかと思われる。 それを示すのがチリパの表象に酷似する、「稲妻の石」と呼ばれるティワナコのレリ ーフである(写真参照)。興味深いことに、ここでは太陽の代わりにヒキガエルが中心 に描かれている。これはティワナコ文明におけるアマゾンの影響を示すものであろう か。非常に神秘的なティワナコ人の宇宙観が表現されている。 (本書より引用) |
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「アイヌの霊の世界」 藤村久和 小学館 全編対談という形式でアイヌの霊の世界、宗教観を掘り下げようとする力作 である。梅原猛、河合隼雄、そして京都大学の地理学・人類学、心理学、哲学、 動物生態学、社会学、民俗学の専門家がアイヌに深く関わってきた藤村久和 氏との対談を通してアイヌの文化について語り合ったのを収録した文献である。 特に梅原猛氏は言語学、宗教儀式などを通してアイヌ文化にこそ日本文化の 基層があることを問うている。 アイヌ文化はやはり宗教文化です。宗教に関心をもたないとアイヌ文化はわか らない。金田一さんなど宗教に関心をもたない。その点バチェラーはちがってア イヌの宗教に強い関心をもっているけれども、アイヌの宗教を物神崇拝の一語で 片づけている。みな物神崇拝だという。ところが、たとえばアイヌの熊祭を見ると、 たいへん興味深い考え方で、これはヨーロッパ人にはちょっと理解できない。カム イは天の一角に住んでいる。そのカムイがたまたま熊の仮面をつけて現れた。だ から熊を育て、それを殺すことによってカムイを熊という仮面から解放して神その ものに帰す。その儀式をまちがえると神に帰せないかもしれない。どうせ帰すなら ば喜ばせて帰さなければいけない。喜ばせて帰さないとまた熊になってこの世に 現れてこない。これは熊の本質は神で、われわれの見る熊は熊という仮面をか ぶった神の仮象であるという、そういう観念に裏づけされていると思う。 ところがそういう観念はヨーロッパにはないのです。あったとしてもずっと昔になく なった。ヨーロッパには犠牲という観念しかない。中国でもそうです。儒教では牛を 殺してささげる。犠牲としてささげる。ヨーロッパでもそうですね。だからアイヌの熊が 神であって、それを殺すことによって神に帰すという観念は、とても中国流の宗教 観念でも、キリスト教の観念でも理解できないものなのです。これはたいへん深い 考え方だと思う。日本人の心の底にはそういう考え方があるのではないかと思う。 (梅原猛 本書より引用) |
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「アイヌの星」 末岡外美夫・著 旭川叢書 第12巻 本書・序 野尻抱影(遺稿・昭和52年10月30日歿)より引用 アイヌの星名が機縁で末岡外美夫氏と逢った頃、サビタの洋化したヒドラ シジャが豪華な純白の花鞠を点け傘もつけて、雨をふくんで八方へ枝支れ ていたのを覚えている。氏の行動は驚くべきもので時に西方の風を巻いて くるかと思えばアイヌの国から土の香を一杯に詰めた魔法の袋を持って やってくる。日毎に増えつづける氏の記録は私にとって大きな楽しみの ひとつであった。 アンデスを歩きロッキーを駆ける氏はコヨーテの吠ゆる叢にインディアンを 尋ねてアイヌの古老の姿を求めた。その記録を「アイヌの星」と題して出版 することを勧めてきたのだが慎重な氏は一向にその気がなかったようで ある。とうとう私が友人の編集者に紹介して出版に踏み切ろうと氏に迫って、 この珠編が生まれた。氏はまだまだ考証が足りぬと言ふが、これほどの 資料を足で集めて考証した例は近来に稀である。考証の範囲も氏の語学 力と行動力で実に広い範囲にわたっている。 |
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「シャーマンへの道」
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「図説 シャーマニズムの世界」
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「ベロボディアの輪」 |
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「シャーマンの世界」
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奄美の美しい自然と、そこに生き、祈る人々を撮った素晴らしい写真集です。 |
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「神女(シャーマン)誕生
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「ビジュアル版 世界お守り大全」 デズモンド・モリス著 鏡リョウジ 監訳 東洋書林 日本でもその著作が知られる世界的に著名な動物行動学者が紹介す る世界中のお守りを紹介した本である。70カ国以上の国を旅し、その土地 で集めてきたコレクションも本書に紹介されているが、コレクションの写真 やその紹介文を見ているだけでも、こんなに多くのお守りが世界中にある のかと驚いてしまう。日本人にとって、「お守り」はとても身近にあるものと 言える。神社のお守りを身体の身近に置いている人とか「交通安全祈願」 として車などにつけている人も多い。シャーマニズムと同じようにそこには 「魔除け、呪術的な力」が宿っていると無意識の中で感じ取っているのかも 知れない。本書で紹介される「お守り」を通して、その土地の文化や風習、 そして伝説を知ることができるのは貴重であると共に、その「お守り」に 込められた祈願を聞いたような錯覚さえ覚えてしまう。 私は自問せずにはいられない。「もし、この本を今から百年後に誰かが |
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「瞽女 盲目の旅芸人 安達浩写真集」 安達浩著 京都書院 この写真集で初めて瞽女(ごぜ)という存在を知り、私は胸が熱くなる のを抑えることが出来なかった。彼女たちが生まれたのは明治から大正 初期にかけてである。勿論この時代に盲学校や点字などない時代である。 男性だったら按摩などの仕事に就くことが出来たかもしれないが、女性 の場合は瞽女しかなかったのではと思う。彼女たちの母親は娘が一人で 生きていけるよう幼い頃から心を鬼にして接してきたのだろう。そして6歳 ごろに瞽女に送り出す。現在でいうと小学校入学の時に家族と別れて 瞽女の修行に出るのである。別れの時の彼女たち、そして母親たちの 心中を想うと目頭が熱くなってしまう。最後の瞽女として有名な故小林ハル さんが「次に生まれたら虫になってもいいから眼の見える人生を生きたい」 と語っているが、この言葉の重みを理解できるのは視覚障害者の人たち だけであろう。しかし人びとは彼女たちを聖なる来訪者、威力ある宗教者 と歓迎した。それは本書に書かれているように、目が見えないことは、か えって霊界に通じ、神に直結する重要な要件であり、シャーマン的な役目 も彼女たちは担ってきたのである。瞽女は昭和52年に廃絶した。この写真 集はその最期の姿を写したものであり、歴史の一面を記した貴重な文献 である。 村に着くと、「瞽女宿」または「昼宿」といわれる宿に荷物を下ろして門付けに 生産業にかかわる動植物の孵化・発芽とその育成に関するものの二つが大き なものであった。こうした重大な信仰面が根底にあったから、農民は瞽女を手厚 くもてなしたのである。信州の飯田瞽女にいたっては、人びとの求めに応じ、こう した場合に、祓い詞を読んだり、祝詞を上げたり、お経を唱えたり、真言を誦して、 拝み・祓い・祈願などの宗教行為を行なっていた。まさに、芸能者瞽女が宗教者 でもあったのである。近年まで存続してきた語り芸人瞽女の生態に、神の子孫 祝福を代弁する民間宗教者の遺影を見ることができる。瞽女の年明きのヒロメ の祝言は、おそらくシャマンの神婚儀礼の遺風であろう。禁男の掟も、男を近づ けね神の妻の思想から出発していると思われる。目が見えないことは、かえって 霊界に通じ、神に直結する重要な要件でなかったかと思われる。 (本書より抜粋引用) |
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「シャーマニズム 古代的エクスタシー技術」 ミルチア・エリアーデ著 堀一郎 訳 ちくま学芸文庫 著者はシャーマニズムを「エクスタシーの始源的な諸技術」と定義する。その 担い手たるシャーマン、聖の専門家はいかにして誕生し、どのような活動を行 なうのだろうか。膨大な資料を駆使しつつ、シャーマンの召命と試練、象徴的な 死と再生、めざましい超能力や、それを支えるコスモロジーに説き及ぶ本書は、 比較宗教学あるいは宗教形態学の古典であるとともに、原初の世界と人間の 普遍的な型に迫ろうとする情熱的な思想の冒険行でもある。上巻には、イニシ エーションの諸相、衣裳と太鼓のシンボリズム、中央・北アジアのシャーマニズム、 宇宙論などのテーマを含む第8章までを収録。 「最も重視したのは、シャーマニズム的現象そのものを紹介することと、その イデオロギーを分析すること、その技術とシンボリズムと神話とを検討すること である」(序言)。著者の意図は明らかだ。実証的個別研究の一つとして本書を 遇しては、その意図を見誤ることになろう。「超歴史的」、「類似的」アプローチ から見えてくる宗教現象の普遍的古層こそが、エリアーデには重要だった。 世界の再神話化を目指す、すぐれて20世紀的な試みとして本書を読むことが 可能である。下巻には、南北アメリカ、東南アジアとオセアニア、印欧系諸民 族、日本を含む東アジアを扱う第9章を収録。解説 奥山倫明 (本書より引用) この書物は、われわれの知る限り、シャーマニズムを宗教学全般のパース |
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「アーバン・シャーマン」 |
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「時の輪」 古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索 カルロス・カスタネダ著 北山耕平訳 太田出版 最後に、この本、「時の輪」という本について書いておかなくてはならない。 カルロス・カスタネダが残した本は全部で十二冊ある。本書は、そのなかで は十一冊目にあたるものだ。十二冊目の最後の「無限の本質」も先頃邦訳 されたから、本書が出版されることによって、カスタネダの本の日本語化は すべて完了したことになる。そしてカスタネダの全著作のなかで、最も重要 なものが本書であることは間違いないだろう。この「時の輪」は、単なるこれ までの本からの引用などではない。カスタネダとされる人物が、生前にドン・ ファン・マトゥスとされるひとりのシャーマンから学んだ教えを、その言葉を 中心にして再整理したものである。この意味では本書は、それ以外の十一 冊のすべてを合わせたこらいの、いやもしかしたらそれ以上の重みを持た されているものなのである。もし一冊だけカスタネダの本を持って旅を続け るとしたら、わたしは迷わずこの「時の輪」を選ぶだろう。そしておそらくは ここに書かれてあるドン・ファンの教えの直接の言葉以外は、すべてが「た わごと」にすぎないものなのかもしれない。インディアンの人たちがそうした たわごとの書かれた本をなんのために使うかは、一連のシリーズを読まれ た方にはすでにおわかりと思う。カスタネダは、彼が誰であれ、ある意図を 持ってこれらの言葉を選び、おそらくは最初にそれを聞いたときのままに 戻すことを試みたのだ。それぞれの本ではばらばらに配されていたような 言葉が、本書においてはひとつの脈絡ある連結をもたらされて提供されて いる。ひとりのシャーマンの教えの核心の部分の全体像が、それを聞いた とされる人物によってこのように再整理されていたとは驚きではないか。 ドン・ファンのシリーズを読んだ人間の多くが、この膨大な記述のなかから ドン・ファンその人の言葉だけを書き抜いてあればいいのにと考える。実際 にそれを試みた人たちもたくさんいる。そしてほんとうにそれができるのは、 カスタネダ本人しかいなかったのである。彼は「時の輪」を残すべく残した のだ。 (本書 訳者あとがきにかえて 北山耕平)
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「シャーマニズムの世界」 桜井徳太郎 編 春秋社 ところが今日の新宗教の教祖は、ほとんどがそういうコースを辿らない。 神よりも人間の方に近づいて、民衆とともに悩み苦しみながら、ともども に苦悩からの離脱や解放をはかろうとする。カリスマ的権威を負うて民衆 に接するのではなくて、神の声をきき人々の訴えを神へと通ずる仲介者 的意義を重くみている。かれらのもつ宗教的レベルは必ずしも純粋絶対 的なものとはいえない。むしろ世俗的傾向が強い。民衆のなかにあって 民衆とともに歩み、その苦悩を自らのものとしながら救済的機能をはた そうとする。そうしなければ民衆がついてこないという理由もあろう。換言 すれば、これまでの教祖の多くがシャーマンからスタートして、脱シャーマン 化をはかることによって新宗教を組織したのに対し、近来に頻出する小 規模な新宗教の創始者たちは、逆にカリスマ的権威を払拭ふることによっ てシャーマン化したともいえよう。あるいは、それによって民衆化したといっ てもよい。南東の沖縄や東北地方の民衆が、既成の宗教団体へ編入され ることをきらって、あるいは宗教的意義を評価できなくて、ユタ・カンカカリャ・ ムヌス・イタコ・ゴミソなどの、教団的には無組織であり強烈な呪術性をも つ民間巫者と、より緊密な関係を保とうとする。そういう傾向がみられるこ とは、もっと注意してよいのではないだろうか。つまり、新しい民衆宗教の 動きと、そこに機能するシャマニズムとが、どのようにからみついているか。 それらが、疎外されて絶望する人びとの祈求するメシアニズムと、どう対応 しているか。現代が遭遇するもっともシリアスな課題に触れるシャマニズム を、もう一度根っこから掘り起こして検討する必要は、今日こそもっとも差し 迫っており、その解決はまことに重かつ大であるといえるのである。 (本書 シャマニズム研究の諸問題 より引用) |
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シャーマニズムの定義の次に私の興味を引いたのは、ひとりのシャーマン |
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「境界を超えて シャーマニズムの心理学」 ドナルド・リー・ウィリアムズ著 鈴木研二・堀裕子訳 創元社 本書の中心になっているのは、原書の副題からも推察できるように、カル
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「シャーマンの弟子になった民族植物学者の話 上下巻」 マーク・プロトキン著 屋代通子訳 築地書館 「シャーマンの弟子」を世に問うには、いまが絶好の時期であろう。環境が とてつもない勢いで破壊され、人口が目の回るような勢いで増えつつあるこ とを考えると、熱帯雨林と、その周辺に暮らす人々のこわれやすい文化を 保護するためには、少なくとも今世紀末までになんらかの手を打たなくては ならない。作家としての才能と科学者としての洞察力に恵まれた著者の手 になる魅力的な本書は、熱帯雨林保護のために大きな役割を果たすことだ ろう。マークは、熱帯雨林とそこに住む人々が存在することの意味の重さを、 人の心を動かさずにはおかない、痛切な言葉で訴えかけている。したがって この本は、植物学、民族植物学のみならず、人類学、熱帯医学、シャーマニ ズム、そして熱帯地方の環境保護に関心のある方ならどなたにも読んでいた だきたい傑作となっている (本書 序 リチャード・エヴァンズ・シュルツ博士 ハーヴァード大学植物博物館 より引用) |
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「奄美のシャーマニズム」 日本民俗学研究叢書 山下欣一著 弘文堂 奄美のユタの歴史は悲しい。それは、偏見と侮蔑と、はたまた島の人々 |
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「精霊の呼び声 アンデスの道を求めて」 エリザベス・B・ジェンキンズ著 高野昌子訳 翔泳社 本書は、著者エリザベス・ジェンキンズの魂の渇望から生まれた、精神 |
2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2013年4月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 「男は女の力を恐れている」 (写真は『アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち』から引用しました。) 中東やインドで起きている女性の悲劇を見るにつけ、私はそれを感じてならない。 恐らく太古の時代では多くが母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度)で あり、調和ある共同体をつくるために母系社会は最も基礎となるものだった。 縄文土器に見られる女性像などから、儀式を執り行ったのは主に女性だったのではないかとの説が あるが、沖縄・奄美のユタ(殆ど女性)を除いて、世界各地のシャーマンは圧倒的に男性が多い。これ はもともと女性は生まれながらに偉大な神秘が宿っていることを男性自身が認識しており、治癒など の儀式や部族の指導者(女性の意見だけで決める部族もある)は男性に任せるというのが自然の流 れになってきたのかも知れない。 母系社会の中では性犯罪が起きることは考えられないことであった。例えばアメリカ先住民と白人が 憎み戦っていた時代の証言「インディアンに囚われた白人女性の物語」の中でも、白人男性の捕虜と は異なり、女性捕虜が如何に大切に扱われてきたかを読むとることができる。 このアメリカ先住民の社会では、女性が男性の荷物を家の外に置くだけで離婚は成立し、その逆は なかった。 ただ現代のアメリカ先住民社会は、子供を親から無理やり引き離し、言葉・生活習慣・宗教などの 同化政策がなされた影響で、アルコール中毒、自殺、家庭崩壊、貧困が深刻な問題になっているが、 虐待や育児放棄の被害にあった子供たちを母系の集団の中で世話するため、現在でも孤児は存在 しない。 母系社会がいつから父系社会に転換したのか、、定住とそれによる近隣との闘争という説もあるが、 私の中ではまだ答えは見つけられないでいる。しかし肉体的な力による服従が次第に母系社会を 崩壊させ、それが暗黙のうちに様々な宗教に伝統として紛れ込んだのは事実かも知れない。 日本では菅原道真などに象徴される「怨霊」や「祟り」を鎮めるために、迫害者に近い人が神社などを つくり、祭り上げることで鎮めてきたが、同じように卑弥呼の時代は既に女性の力の封印が始まった 時期だと思う。また中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」も、宗教が関わりを持つ以前から民衆の間で 始まった説があるが、女性の力を封印させる側面もあったのだろう。 「男は女の力を恐れている」 無意識の次元にまで下ったこの感情を、あるべき姿へと開放させ、母系社会の意味を改めて問う時代 だと思う。 「アメリカ先住民」に限らず、「聖母マリア」、「観音菩薩」の存在は、暗にその意味を私たちに教えている ような気がしてならない。 ☆☆☆☆ 「女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。」 (チェロキの言い伝え) 「先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。」 ルネ・セノグルス(Renee Senogles) レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa) 「女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。」 オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え 「この星は、われわれがずっと生活してきた家である。 女性はその骨で大地を支えてきた。」 リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人 「女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と 女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し 始めるだろう。」 ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者 ☆☆☆☆ |
2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。 彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック (ピオ神父などが有名)にも見られる。 アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。 日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。 詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、 瞽女(ごぜ)もそうだった。 盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。 キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く 味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。 これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも 特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。 しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。 エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父) 悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など 過去の迷信と思っている人も多いだろう。 ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔) に苦しめられていた。 現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。 ハワイ先住民や南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが 書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。 ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。 宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る ものを未来の人類は見出すと思う。 ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。 真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い 嘆いている。 聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰 があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。 存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。 そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・ 慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。 私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。 ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。 写真は、惑星状星雲・NGC6543です。 |
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2012年9月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 本日9月2日撮影した、雨上がりの睡蓮と障碍を持ったメダカ メダカも他の生物と同じように不思議な生き物だ。 メダカは産卵時期には多くの卵を産むが、生き残るのはそれ程多くはない。孵化せずに 死んでしまうものもいれば、写真のメダカのように骨が変形して生まれてくるものがいる。 遺伝子の多様性は頭では理解しているつもりでも、同じ環境の下で育てているはずが 何故と問いかけたくなる。 インディアンのラコタ族の伝統では、障碍者は聖なる者であり、人々に何かを教えるため に遣わされた存在だと考えられていた。 そこでは「できない」ことではなく、「できる」ことに焦点をあてようとする世界観・人間観が あると「アメリカインディアンの現在 女が見た現代オグララ・ラコタ社会」の本の中で、 デイ多佳子さんが紹介している。 沖縄・奄美のシャーマン・ユタ。最初彼女たちは「目に見えないものが見え」「聞こえない ものが聞こえ」る体験を通してユタになるのが殆どである。 世界のシャーマンの中でも「神のお告げ」とも受け取れる稀有な現象は、沖縄・奄美特有 のものだと今まで思っていた。 しかし、これは世界中で起こっていることかも知れず、ただ私たちはその現象を安易に 精神的な病として片づけているのかも知れない。 勿論、本当に精神的な病に苦しんでいる人たちがいるのも事実だが、異質なものをある がままに受け止め、その意味を感じ取る風土が古代から受け継がれてきたのも事実で ある。 このような風土、世界観・人間観をもつ社会は、「あるがままの」存在の重さを感じること によって導かれるものかも知れない。 骨が変形しているメダカ、このメダカを見ていると何かを語りかけようとしている、とふと 感じてしまう。 (K.K) |
2012年12月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 古代マヤ文明の「チチェン・イッツァ遺跡」にあるEl Castillo(エルカスティージョ)とオリオン座 (マヤでは亀を意味しています)。写真はNASAより引用 立教大学社会学部の生徒たちは幸せだと思う。この学部には阿部さん、実松さんという優れた研究者がいる。 阿部珠理さんはアメリカ先住民(インディアン)研究の日本の第一人者であり、実松克義さんも南米の先住民 のシャーマニズム研究では第一人者である。お二人に共通することは熱い心と卓越した現地調査力、そして 研究者としての冷徹な視点と平衡感覚を併せ持っていることである。 この一人、宗教人類学者である実松克義さんが2000年に書いた「マヤ文明 聖なる時間の書」は、アメリカ大 陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を基に多くのシャーマンたちとの対話の中で、マヤの世界観を明らかにしていくこ とだった。 「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるものだ」、ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス(グ アテマラ・マヤ科学研究所の代表者)。 同じ民族のシャーマンでもその世界観や技法は微妙に、或いは大きく異なる。これは沖縄・奄美のユタもそうで あるが、しかしそれは彼らの中に流れる源流の底知れぬ深遠さを逆に教えてくれるのではないだろうか。人智 を超えた大いなる光の流れ(振動)、この光は一つとして同じものはない遺伝子をもつ生命の魂を共鳴させ、 まるで虹のように様々な色を映し出させているのかも知れない。 「マヤ文明 聖なる時間の書」、私のサイトに書いた当時の感想を以下に引用します。 ☆☆☆☆ マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。 マヤンカレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、そして人間の生贄の 儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。 しかしマヤ文明の根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼らの驚くべき 世界・宇宙観が見えてくる。 この神話によると人間の生贄の儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその 時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。 立教大学社会学部教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・シャーマンを6年にわたって現地調査 し、多くのシャーマンとの対話を通してマヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。 それは時間そのものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。 そこには人間の生贄の儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。 本書は本格的マヤ神秘思想研究の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。 ☆☆☆☆ |
2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ) (大きな画像) 実物の「縄文のヴィーナス」はこちら 土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。 今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の 高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。 今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって 知ったことだが)。 殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が 刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。 アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を 取り出し母親に抱かせた。 それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。 また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の 時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。 このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い 悲しみと再生の祈りが込められていると記している。 「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。 縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。 過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。 |
2017年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 私は「都民ファースト」の対象者ではない神奈川県民ですので、東京都でお好きにやってください、ただ神奈川県民には 迷惑をかけないように! でも考えてみると、このような考えや「都民ファースト」という考え方は、自分たちさえ良ければいい利己主義なんですね。 小池さんが最初にそのような気持ちでこの名前をつけたとは思いませんが、次第にその色彩が強くなってきています。 日本人って2011年の東日本大震災のことを忘れているんでしょうね。築地の耐震性などの問題は、私が勤めていた35 年以上前から消防署に何度も指摘されているにも関らず、その問題を最重要課題と捉えることができない日本人とマス コミ。 マスコミは、最近のNHKもそうですが、視聴率を上げることにご熱心であり、客観的・論理的に、そして道徳的に報道す る姿勢が失われていくのは当然の姿であると思います。 視聴率と同じくポピュリズム(大衆に迎合して人気をあおる政治姿勢、)の形成は政治家並びに住民そのものにも原因が あると思います。ナチスによるユダヤ人虐殺にしろ、ヒトラーは寧ろ国民の操り人形という側面もあったと思うこともあります。 ハンナ・アーレントはユダヤ人虐殺に主に関ったアイヒマンの裁判を通して「凡庸という悪」と言っておりますが、それは当時 のドイツ国民にも向けられた言葉かと思います。ただ、それと関連して使われることが多い「思考停止状態」という言葉。 この「思考停止状態」、周囲(マスコミなどを含めて)に流されやすい状態。これは奥が見えないくらい深く難しい問題です。 というのは知識階級の人の中にもそれが数多く見受けられるからです(むしろそちらの方が害が大きい)。 何も「私は絶対正しいことを言っている」と思っているわけじゃありませんよ。うーん、正直に言えば、心の中では若干どこ ろかそう確信している自分がいることを認めざるを得ないところがあります。その意味で私も利己主義・傲慢そのものです。 話は変りますが、偽薬でのプラセボ効果というものがあります。ある患者さんに、その病気とは全く関係のない、治癒効果 のない薬を「これはこの病気に一番効く薬です」と医者が言うと、実際に痛みが抑えられることもある(全員ではありません) という実験のことです。 このプラセボ効果は偽薬だけに留まらず、伝統的治療にも見出せるのかも知れません。興味深いのは、その実験過程で わかったことですが、「周囲の人たちが信じている」ことが、このプラセボ効果を大きくすることなんです。つまり、自分は 間違いだと思っているけれど、多くの人がそう言っているのなら、それは真実だろうと思い込んでしまうことです。 この実験結果と大衆迎合政治が生まれる背景、その関連性をどのように捉えていいのかわからないでいます。ただ「思考 停止状態」という言葉だけでは簡単に説明できない、もっと深いところから発しているという感じがしてなりません。 それは先天的に遺伝子に組み込まれた反応なのか、後天的に獲得されたものなのか。それはヒトラーのことでもわかる ように、状況によって悪い方向に、そしてある状況では良い方向に回転することもあると思います。それには前にも書き ましたが、常日頃から「中庸」を心がけることが大切ではないかと思います。置かれている状況は様々に変化し続けます が、その「中庸」の態度さえとっていれば、正しい回転を与えることが出来る。私が言っても何の説得力もありませんが、 現時点の私はそう感じます。 何か頭がこんがらがってきたので、くるくる回ってきます。フィギュアスケート選手のスピンのように回るんです。20回近く 高速で回るんですが、最初は平衡感覚が失われふらつくんですね。今でも体調が悪い日は必ずふらつきます。その日の 体調をこの回転で判断しているんですけど。これも盲目的な私の儀式の一つです。 昔の子供たちが使っていた独楽(こま)と同じように自分自身が回る。宇宙の天体にも少し関心があるので、惑星になった ような感じて自転するんですね。ところで、回転というと海外で話題になったハンドスピナーという、指で挟み回転させる おもちゃがあります。まだ購入するかどうか迷っていますが、長いものは高速で5分近くも回転し続けるらしいです。何故か 回転するものがすきなんです。 どんなに年をとっても、良寛さんみたいに、瞬時に子供の目の高さまで自分を低くすることが出来る。それが今の私の人生 の目標です。それが出来るかどうかではなく、方向性だけはもっていたいなと思っています。 豊洲移転延期による維持費の請求を 仲卸業者らが会見(2017年6月6日) |
Bear's Belly - Arikara
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)