Two Whistles - Apsaroke

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


シャーマニズム(シャーマン)に関する文献



南アルタイルのオイラート人シャーマン




先住民族の慈愛に満ちた豊穣な精神文化の底には、シャーマニズムと

いう人類最古の宗教的・霊的知恵すべての総合である創始者の世界観

が流れている。しかし、霊的な求道から離れ教義に縛られた多くの宗教

から迫害され、初期の心理学から病的なものとの烙印を押されながらも

シャーマニズムは現代に生き残ってきた。シャーマニズムが語りかける

ものはシアトル酋長が言ったところの「人がいのちの織物を織ったので

はない。その中の一本の糸にすぎないのだ」であり、「宇宙を自分自身

として体験すること」に目覚めることに尽きるのではないだろうか。この

人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統のシャーマニズム

は人間・環境破壊が進む現代文明に警鐘を鳴らし続ける。そして何よ

りもマイケル・ハーナーがいうところの「日常的リアリティの自己中心的

超越をはるかに超えたものである。それはもっと大きな目的、つまり

人類を救うための超越なのである。シャーマニズムにおいての光明と

は、他の者が暗闇と考えるものを照らし出し、そのことによって「見」、

・・・・・・・人類・・・・・・・のために旅をする能力」なのであり、それは、

「自己実現的人間は例外なく、自分自身のことを超えた目的に関心を

寄せている」(マズロー)ものである。その究極的な慈愛の姿をキリスト

教や仏教などに見ることが出来よう。ただこれらの大宗教において、

その慈愛を体現した魂は少数であることを認めざる得ない。先住民族

に流れている豊穣な精神文化を見るとき、シャーマニズムが持つ偉大

な世界観が現代において再生することを強く願わずにはいられない。

1998.6/7


1997.7/25 「インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム」参照されたし


「この人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統に関しては、

まだまだ多くの謎が残されている。シャーマニズムについて探求すれば

するほど、人間の体、心、魂について認知されていない側面や可能性

があることがわかる。何千年もの長きにわたり、シャーマニズムの精神

は、人類を助け、癒し、導いてきた。それはこれからも、さらなるものを

与えてくれるかもしれない」   ロジャー・ウォルシュ



「プラセボ効果 信じる者は癒される」 ナショナル ジオグラフィック 2016年12月号を参照されたし


 










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この文献の詳細ページへ 「シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像」 
ウノ・ハルヴァ著 田中克彦・訳 三省堂

ハルヴァの研究は、それにもかかわらず、本書が現れて30年余を経た今日
もまだその価値を失っていない。シャマニズムに関する本格的な研究書で、
ハルヴァとこの書の名を挙げていないものはない。というのは、19世紀から
1930年に至るまでの研究を、これほど集約的に、もれなく示している例は他に
ないからである。すなわち本書は1930年代までのロシアとヨーロッパにおける
シャマニズム研究における総決算である。

しかし本書の内容がよく示しているように、これは理論の書ではなく、何よりも、
なまの資料の書である。この意味で、訳者はこれを「シベリアの金枝篇」と呼ぶ
にふさわしいものと考える。本書の価値の一つは、19世紀ロシアの各種紀要に
発表され、今日では利用するにもすこぶる困難な論文の要点を数多く引用して
いる点にある。最近わが国で邦訳されて親しまれているM・エリアーデの著作
におけるシャマニズムに関する知識と材料は、ほとんど、このハルヴァ(ドイツ
名でホルンベルクとなっていることもある)に負うている。日本の理論好きの
読者は、理論から一歩下りて、シャマニズムに関して、いかに多年にわたる
多くの研究者の骨折りによって、こうした資料が集積されてきたかを、このハル
ヴァの書を通じて知られるのもまた一興であろう。引用は大小300篇に近い論著
におよび、ロシア人の寄与が大きい。

これらの報告をものにした好事の士はどんな人物であったか。訳者はその
方面にも関心は浅くないが、とりあえずここではしょっておくとして、随所に引用
されるポターニンはオムスク流刑中のドストエフスキーと親交があったし、ブリ
ヤートの研究には、そこに流された政治犯の関与が少なくなかったと指摘する
にとどめておこう。

(本書・「訳者のあとがき」 より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「アマゾンの呪術師(シャーマン)」 
パブロ・アマリンゴ/語り 永武ひかる/構成・訳 地湧社


若い頃、その貧しさから偽造紙幣という悪に手を染めたパブロ・アマリンゴの
放浪と投獄の日々。しかし、ある女呪術師との出会いによって自らシャーマン
になっていたことに気づく。類まれな名治療師として多くの病気を治し、今でも
当時の手腕は語り草になっているパブロ・アマリンゴ自身が、人間、宇宙、精霊
について語る。平易な言葉で謙虚に語る彼の言葉には、人々のために誠実に
生きたシャーマンとしての義務と責任が横たわっている。現在のパブロ・アマリ
ンゴはシャーマンからは身を引いたが、シャーマニズム的精霊世界を描く彼の
絵には、世界各地の文化人類学者が関心を寄せ、自らも美術による教育を
無償で教えている。それはまた美術によって自然を大切に思う気持ちを高め
よう、という一つの環境教育でもあった。本書には、パブロ・アマリンゴが描いた
不思議な精霊世界の絵が七枚入っているが、この貴重なシャーマンとしての
証言を視覚化させたもので興味深い。尚、パブロ・アマリンゴ並びにその精霊
世界の絵はNHKでも詳しく放映されていた。

雑記帳「魅せられたもの」1997.10/17「奇跡」を参照されたし。

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「シャーマニズムの精神人類学」 
癒しと超越のテクノロジー 
ロジャー・ウォルシュ著 
安藤治+高岡よし子訳 春秋社


人類の魂の源流であるシャーマニズムが持つ現代的意味を、科学者としての
目と謙虚な視点で考察しているトランスパーソナル心理学第一人者による精神
医学の名著。著者ロジャー・ウォルシュはカリフォルニア大学の教授であり、臨床
に従事しながら、精神医学、人類学、哲学の教鞭をとっているが、精神科医とし
ては、スタニスラフ・グロフと並んでトランスパーソナルの活動を推進してきた中心
人物の一人である。本書はシャーマニズムの持つ多くの側面(人類学、宗教学、
民族学、社会学、医療・医学、精神医学、心理学、生態学)から特に精神医学と
心理学から接近した優れた研究書である。シャーマニズムという先住民族に流
れている源流、そして太古の昔、私たちの魂にも流れていた川に立ち戻ることな
しに「未来」は語れないのかもしれない。本書を通して、多くの方が人類のあるべ
き姿を考え行動してゆくきっかけとなることを願わずにはいられません。


われわれの課題は、自分たちの違いよりも類似性に目を向けなおし、相争い
合う集団や文化の二元論的差異を強調することから、自分たちが共通してもっ
ている人間性の統合的理解へ向かうことである。またわれわれを自然から隔て
られたものと考え、自然自体を部分と見なす断片的見方から、あらゆるものの
統合とつながりを認識するホリスティックなヴィジョンへとシフトさせることなので
ある。自分自身を他者や世界から切り離され、独立したものと見るか、あらゆる
ものに影響したり、影響されたりしているものと見るかを選択するのである。それ
は小さな選択ではない。自分自身、そして自分と世界との関係をどのように見る
かを選択する。そのしかたが世界とわれわれの運命を決めるかもしれない。
シャーマニズムほど明白に、自然やエコロジーを指向している伝統は少ない。そ
の世界観と技術の両方が、この指向性を支えている。それは自然を、人類が
密接なつながりをもち、究極的に依存している、広大で聖なる神秘と見る。また、
こうしたエコロジカルな見方を育てる直感的知恵や体験に触れるための簡単な
技術を提供する。つまりシャーマニズムは、古代の永遠の哲学と現代のエコロ
ジー・サイエンスの両方のホリスティックな見方に一致するものであり、その実践
方法は、こうした見方を支える体験を誘発するかもしれないということである。
したがってシャーマニズムは、地球と人類の両方の生存を保証する助けとなる
ような、世界や自分自身についての認識を培うという重大な課題において、こう
した哲学や科学をサポートすることができるかもしれない。    
(本書より、ロジャー・ウォルシュ)

 
 
この文献の詳細ページへ 「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」
     マックス・F・ロング著 林陽 訳 ビオ・マガジン

この衝撃的な文献について自分の中で整理ができたところで、感想を載せたい
と思います。尚、この文献は先に出版された「ホ・オポノポノ 奇蹟の原点 カフナ
の秘法」
「ハワイアン超スピリチュアル カフナの秘法 実践篇」を一つに合冊し
たものである。

ホ・オポノポノはハワイ先住民の呪術師(カフナ)たちが行っていた秘術のひとつ。
この本はホ・オポノポノをベースにカフナの秘術の全てを解き明かすために書かれ
ている。キリスト教によって禁止される前、本物のカフナたちが行っていた様々な
奇跡をレポートし、その奇跡の仕組みを科学的に解明した。

(本書より引用)



ハワイの先住民カフナ(「専門家」を意味)は「ポノ」(和)の名称のもとに、昔から
和解と癒しの儀礼を使い、人間関係の亀裂やそこから派生する各種の病を治療し
てきた。しかし、今流通している「ホ・オポノポノ」とう名称が作られたのは最近のこと
である。1980年8月に、本書の著者マックス・フリーダム・ロングのフナ研究所のメン
バーであったモルナー・シメオナと当時の会長であったE・オサ・ウィンゴがロングの
研究を基礎に共同開発して命名したのが最初で、一対一あるいは家族対家族で、
祈りや告白、話し合い、許しを中心として行われる癒しの手法である。

しかし、最近の自己啓発ブームの中で突然現れてきた「ホ・オポノポノ」はそれとは
異なる。いわば簡略化したバージョンであり、本来のホ・オポノポノが成立する過程
で原典とされた本書の教えからは切り離されている。この興味深い現象について、
今のフナ研究所の代表者ヴィンス・ウィンゴ博士が驚くべき事実を明らかにした。
「それは30年前に試されて、益と害が同じくらい多く出ることが確認された、簡略版
は全部で12段階ある『上級ホ・オポノポノ』の一部にすぎない」というのだ。

(本書より引用)



さらに面白いのが、日本語でもある「フナ」という言葉だ。フナの古体は「クナ」で、
神話の発祥地である出雲には、フナト(クナト)の神の伝説がある。イザナギ神が
黄泉の国から地上に戻る時に黄泉の力を封じるために付き立てた杖から化生し
た神で、クナは「来るな」からきていると「日本書紀」にあるが、出雲井神社の社屋
(富家)は違うことを伝えている。これは作家の司馬遼太郎氏が初めて明らかにし
たことである。

富家の口伝によれば、原出雲族は祖神クナトに率いられて、4500年前に海路日本
に渡来し、製鉄、紡績、農耕を教え、各地に国主を置いて治め、大国主神の先祖
になった。これはエジプトから太平洋に船団を組んで渡来したカフナの伝説の別
バージョンと思われる。

スクナヒコナ神の伝説もこれに絡む。スクナヒコナ(「クナ」に注目)も船に乗って
日本に渡来した。大国主神とともに日本を広く回り、温泉を堀り、種を撒き、医薬
と呪術の基礎を据えて、南海に旅立ったと「記紀」に伝えられている。このスクナ
族がハワイに渡ってカフナの祖になったと思われる。

これは私の一方的解釈ではない。ロング氏にフナの研究を託したハワイ・ビショッ
プ博物館のブリガム博士によれば、「和歌山」という地名は船団を組んでハワイに
戻ってきたワケア神から取ったものである。博士の発言を「記紀」の記録が傍証す
る。「記紀」の記述によれば、和歌山は呪術と医療の基礎固めをしたスクナヒコナ
神が南海に旅立った場所だった。ロング氏の研究を理解することにより、日本古来
のフナ学(霊学)を科学的に解明することも難しくないと思われるのである。

(本書 訳者後書 より引用)



 
  この文献の詳細ページへ 「アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 
    伝承の知恵の記録」
 
     青木愛子 述 長井博 記録 樹心社

青木愛子さん(1914年3月10日〜1995年10月24日)は、古代から継承されてきた
産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そしてウエインカラ(何で
も見える千里眼)を通してシャーマン的な役割を担ってきた方である。愛子さんの
ウエインカラは、初対面の人と対座した時だけでなく、電話の相手でもその人の
過去と未来がわかる特殊な力を持っていた。それは相手の血液の赤血球や白血
球の流れがまるで顕微鏡を見ているように見えることも意味していた。

愛子さんの産婆術に関しては本書に詳しく書かれているが、驚くべきことは5代目
の愛子さんに継承されたこの秘伝は1756年(宝暦6年)フィリピンのパギオシティー、
イゴロット族の聖地アシュラムから始まっていることである。この初代の産婆さん
の名前は天静一(テンシンイチ)と言うが、その出身地など不明である。そしてこの
男性がアイヌに来て結婚し、産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしなが
ら、夫婦で北海道各地のアイヌコタン(村)を巡回したという。

この南の島からの秘伝と聞くと、ハワイ先住民の呪術師(カフナ)たちが行ってい
た秘術
として知られている「ホ・オポノポノ」とアイヌには何か共通点があるのかも
知れない。ハワイ先住民のカフナは、エジプトのピラミッド文明時代、国内情勢が
悪化したため、最高の宝(呪術の秘法)を守るためエジプトを脱出し祖国(ポリネ
シア)に辿り着いた民だという説がある。

またこの説では、カフナ12部族のうち10部族がインド洋経由で各地に秘術を植え
付けたが、祖国帰還の途中で日本にも渡り、古神道の呪術の基礎を据えたとい
うのである。時代は異なると思うが、イスラエルの12部族のうち失われた10部族
を考えると、この数字はただの偶然なのか、それとも何か意味を持っているのだ
ろうか。

私自身1980年頃かつてマルコス政権下のフィリピンのスラム街など、同級生や
シスター達とフィリピンに行ったことがあるが、その旅行中にパギオにも立ち寄っ
たことがあり、パギオの近くだったか記憶があやふやだが、森に住む先住民の
方にも会ったことを思い出す。その時は経済開発の名の下に住む場所を奪わ
れていく先住民の現状を見ただけだった。

話は随分それてしまったが、青木愛子さんの後を受け継いだ長井博さん、そして
長井さんの次女へと途絶えることなく継承されていることに感慨深いものを感じて
ならない。

(K.K)



赤ちゃんは喜びながら生まれてくる

青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて
来た産婆術(イコインカル)、診察、治療のための特殊な掌(テケイヌ)、薬草(ク
スリ)、整体手法、あるいはシャーマンとしての技量(ウエインカラツス)をも駆使
(ウエポタラ)して、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍した。

本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見て、その言葉の一つ一つを丹念
に記録した、アイヌの信仰と文化の実態に迫る伝承の知恵の書。
(本書・帯文より引用)



見えないはずのものが見える
死者の霊が見える。例えば愛子の親しい友人が交通事故で死亡した。死亡して
から四十九日の間は、その友人の霊が愛子の処に遊びに来るのが見えて、対話
する。愛子にとっては日常的なことなので恐ろしいという気持ちは起きない。四十
九日が来ると、既に死亡している友人の親族の霊が友人の霊と一緒に現れて歌
をうたったりする様子が見え、その声も聞こえる。これは四十九日で終る場合で
ある。

この場合、愛子の親しい友人でなくとも、死者の霊を見ることがあり、四十九日を
過ぎた者の霊を見ることもある。これは完全にポクナモシリ(地獄)に堕ちている
霊であると解釈している。いわゆる自縛霊のことである。自縛霊は人間に限らず、
犬や猫等の動物である場合もある。

一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く
見える人が多い。何も見えないほど暗い人もある。暗い人の過去現在をウエイン
カラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚醒剤、物欲
の強い様子が見える。明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に対して尽く
している様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、
無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有し
ているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。

(本書より抜粋引用)

五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。
以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル(助産術)や
テケイヌ等は、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれている
ことになる。アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に
他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題に
なったようだ。真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射も
メスも使わずに手当てを行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告
しておきたい。二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は
二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を
送っている。しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコ
チャテク一人が判明しているだけである。
(本書より引用)


「ウテキアニ(育みわかちあう愛) 青木愛子ババの一周忌に思う」
を参照されたし


 
 

この文献の詳細ページへ 「マヤ文明 聖なる時間の書」 現代マヤ・シャーマンとの対話 
実松克義著 現代書林


マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。マヤン
カレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、
そして人間の生贄の儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。しかしマヤ文明の
根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼
らの驚くべき世界・宇宙観が見えてくる。この神話によると人間の生贄の儀式が
復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその時代より
も重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。立教大学
社会学部助教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・シャーマンを6年
にわたって現地調査し、多くのシャーマンとの対話を通してマヤンカレンダーに
代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。それは時間そのものが生命を
持った創造的存在であり、調和の思想だった。そこには人間の生贄の儀式など
存在しない世界・宇宙観が横たわっている。本書は本格的マヤ神秘思想研究の
第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。


マヤ人にとって時間とは必ずしも連続的なものではない。それは人間生活に
さまざまな恩恵を与えてくれるエネルギーであるが、同時に時と場合によっては
生命や社会そのものをも破壊しかねないおそろしい存在であった。神秘の扉を
開ける鍵ではあるが、その本質は極めて気まぐれで凶暴なのである。そして
時間は地上に生きる全ての生命に絶対的な影響力を持つ。それはちょうど食料
が生命の生物学的な維持を保証するように、宇宙における人間の存在を根底
から支えるものだ。初めに時間は過去を意味する。それは消し去ることのでき
ない過去の営為の集積である。しかし時間はまた未来をも意味する。何故なら
過去はその強い影響力によって未来を左右するものだからだ。そして時間とは
現在そのものである。そこでは時間は実際に現実世界を創り出している。した
がってマヤ的な宇宙観では過去、現在、未来という単純な区分はあまり意味を
持たないことになる。言い換えるとわれわれが今生きているこの現在とは過去
から未来に及ぶ全ての時間を含んでいる。そこにあるものは宇宙の全存在で
ある。このように、「時間」をとらえてきたマヤの時間思想は文明化された現代
日本社会に生きるわれわれにとってどういう意味があるのだろうか。現代の
日本社会において最も支配的であるのは西欧文明に起源を持つ科学的時間
概念である。この時間概念は時間を生命の内容とは全く無関係に、直線的に
流れる抽象的存在としてとらえる。その産物である時計は経過する時間を精密
に計測し、その貴重さを数量化してわれわれに教えてくれる。だが同時にそれ
はわれわれを無機質に、機械的に縛るものでもある。われわれは文字通り、
毎日を時間に縛られて働き、学び、あるいは生活している。われわれはまた、
年齢によって生き方を規定され、あたかも時間の奴隷ででもあるかのように
年老いていく。その意味では、科学的時間概念とはわれわれから本来の人間
性と自由を奪う意識にすぎない。もちろんわれわれの中にも依然として古代か
ら続いている日本的時間感覚が存在する。それはこの世界の全てが生成流転
の中にあるという意識である。この日本化した仏教思想から生まれた時間概念
は独特の美しさを持つ無常感の哲学を生み出した。こうした時間意識において
は世界とは未来永劫に変化を繰り返す存在である。ここでは時間とは虚しくうつ
ろうもの、そして二度と帰らぬ生の象徴である。マヤの時間概念はそうしてわれ
われの時間観に対して、第三の道とでも呼べる時間思想を提示しているのかも
しれない。それは時間をより積極的に意味づけようとする試みである。世界は
時計の機械的な動きによって無機質に流れるものでもなければ、また無常に
過ぎ去って全てを無にするものでもない。それは世界に生命の息吹を与える
創造的なエネルギーなのだ。それは無限に流れるものではあるが、同時に繰り
返されるサイクルでもある。それはまず、ヴィクトリアーノ・アルヴァレスが言った
ように、より高い次元を目指す根源的な螺旋運動なのである。(中略) われわ
れは現在古いミレニアムが終わって、新しいミレニアムが始まる人類史の転換
点に立っている。ただ残念ながらこの転換点はあまり幸福なものとは言えない
ようだ。現代の文明社会は問題だらけであり、根本的な意味で世界は今や重大
な危機に瀕している。そしてこの時期は奇しくも現在のマヤの世界の時間が終
わろうとする時期とほぼ重なっている。これは偶然であるとはいえ、極めて象徴
的である。われわれは今根底から生命の意味について考え直す時期にさしか
かっているのかもしれない。マヤ人は生命の神秘を深く哲学した民族である。
彼らはその根本的解答を天体の運行に象徴されるような宇宙的展開の中に求
めようとした。そして「神としての時間」という唯一無二の思想に到達したのであ
る。その哲学の全貌は神秘的で、完全には理解できないにしても、それは何故
かわれわれの思考を刺激する。それはまた生きているとは何かと問いかけるこ
とでもある。(本書 第15章 神としての時間 より引用)

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「ユタ」の黄金言葉 
沖縄・奄美のシャーマンがおろす神の声 
西村仁美 著 東邦出版


シャーマニズム、これは人類最古の宗教的あるいは医学的、心理的なもの
の源泉であるが、それをどのように自分の中に構築しようとも、摩訶不思議な
神秘的な次元に立っており、それに近づくことさえ出来ないのを感じる。また
シャーマニズムが持つ特性として、ある一つの教義に縛られることがないため、
それぞれの土地の風土や、そこに生きる人々の集合体としての意識(無意識
を含む)の指向性により、多種多様な形のシャーマニズムが世界各地で存在
してきた。しかし、形は異なるにせよシャーマンは自然の神々と人間を結ぶ架け
橋であり、それを通して、人々は霊的な教えに触れ、心と体を癒されてきた。
「ユタの黄金言葉」という、沖縄・奄美のユタ(シャーマン)11名の言葉を集めた
この文献に登場するユタの多くが女性であり、その召命は自ら選んだものや
世襲制ではなく、文字通り神の召しだしによって選ばれた特性を持つ人たちで
ある。このようなシャーマンとしての特性は、世界中においても、奄美・沖縄に
しか見られないものかも知れない。ユタは自然の神々や亡くなったた祖先を実際
に見たり、それらの声を聞いたりすることが出来る。そして心や体の悩みをもっ
て相談に来る人に対して、語りかける霊の声を代弁し助言するのである。この
行為は悩んで苦しんでいたりする人を助けることであり、相談者の心をあるべき
方向への導くものである。しかし、現代においてたとえ召しだしを受けても、ユタ
の道が険しいものであるため、その声に素直に従う人は少ない。実際この本で
紹介されている11人のユタの殆どが「なりたくてユタになったのではない。出来る
ならなりたくなかった」と述懐している。シャーマニズム、かつて世界中のシャー
マンは多くの迫害を受けながらも現代に生き残ってきた。昔NHKでも特集された
著名なシャーマン、パブロ・アマリンゴは言う。「よい呪術師にとって重要な三つ
の要素は、まず第一に謙虚なこと、そして愛があること、それから高い霊性を
持っていることだ。呪術師は学ぶための謙虚さ、悦びをもたらすための愛、より
よく生きるための霊性を備えなければならない。さらに、勇気があって強くなくて
はいけない」。奄美・沖縄ユタの言葉を聞いていると、紹介された11名全ての
ユタがこの3つの要素を持っていることに気づく。そして私たちもその視点を持っ
て生きていくことを求められているのだろう。そこにこそシャーマンが私たちに
伝えたい真実があるのではないだろうか。

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「ブラック・エルクは語る」 
J・G ナイハルト著 阿部珠理監修 宮下嶺夫訳 めるくまーる


私がインディアンの精神文化にひかれるようになった時から、どうしても読み
たいと思い続けた文献があった。ブラック・エルクが語ったこの「終りなき夢と
闘い」がそうである。しかし1973年に出版されたこの文献は既に絶版となり、
その後出た同じ原書の翻訳書「ブラック・エルクは語る」社会思想社も絶版と
なって久しい。しかしある古本屋を通してこのブラック・エルクの言葉に触れる
ことが出来た。この聖者ブラック・エルクが9歳のとき見た壮大なヴィジョン、
そしてその意味を探る道程においての白人との闘いと死に絶えようとする部族
への深い悲しみ。やがてブラック・エルクは多くの肉体的・精神的病を癒す力
が自らの中に宿っていることに気づき、人びとに聖なる輪の中に希望を見さ
せる聖者となってゆくが、その道も白人の飽くなき欲望のために消え去ろうと
していた。しかし最後にブラック・エルクの祈りの言葉に偉大なる精霊が応え、
聖なる木の根がまだ死んでいないことを告げる。そしてこの聖なる木を豊かに
花咲かせるのは、今この時代を生きている私たちとその子供たちの手に委ね
られているということを、ブラック・エルクはこの文献を通して彼の夢と希望を
私たちに託したのだ。・・・・・・・・幸いにしてこの文献は2001年7月に「ブラック・
エルクは語る」という題で出版された。


ワシチュ(白人)はインディアンから土地と資源を奪い、嘘を返す。ウソは食え
ない。戦わねばならぬ、退かねばならぬ。憤りと血と涙! つかのまの晴れ間
のようによぎる幸福! 虹と稲妻に輝き、嵐にさかまく壮烈なビジョンが、夢で
あり理念でありそして力である彼らの日々が、聖者ブラック・エルクによって語
られ、詩人ナイハルトによって綴られた。その切実さと生まなましさが、彼らと
私たちをへだてる時間と空間を飛び越えて迫る。・・・・・・・ベトナム侵略に胸を
傷め、公害にあえぐわれわれは、本書の中で、その原点にぶちあたった痛さを
感じないではいられない。アメリカの侵略は、ベトナムよりはるか以前に、国内
で始められていたのだ。インディアンが食べるためにだけ殺した野牛を、白人
たちは根こそぎ殺した。インディアンには大した用もない“黄色い金属(キン)”
のために白人たちは気ちがいのようになった。狂気の沙汰のゴールド・ラッシュ
は、先住民への侵略以外のなにものでもなかった。白人の町に初めて立った
ブラック・エルクは、白人の生き方はまちがっていると断じた。物と心の自然を
破壊する白人の文明を直ちに否定する、侵略される側の論理が、ここでは哀切
な挽歌となって展開される。
・・・・「終りなき夢と闘い」帯文より引用


心に残る言葉「ブラック・エルク(オガララ・ラコタ族)の言葉」を参照されたし
「ウンデッド・ニーにおけるゴースト・ダンスと虐殺」参照されたし

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「母なる風の教え」 
ベア・ハート著 児玉敦子訳 講談社


ベア・ハート(ムスコギ・クリーク族長老)は1918年に生まれ、長い修行時代を
経てメディスン・マンとなる。しかしその過程の道において、文明人には奇跡としか
表現することが出来ない現象を自らの体験を交えてさりげなく語っており、この
分野に関心を抱く方にはとても興味深いものがあるのだろう。ただ本書の素晴ら
しさはそんな摩訶不思議なことにあるのではない。謙虚・勇気・忠誠心・慈愛に満
ちた彼自身の人生そのものに、正にそこにこの偉大な聖なる魂を感じてならない。
勿論私自身が次のような状況に置かれたとき、とても彼のように祈ることは出来
ないだろう。それは私とは比べるもなく深い慈愛に立っている人だけしか言うこと
が出来ない言葉であり、メディスン・マンとして生きることを決意した人間からの
伝言である。「わたしはこれまでに、ありとあらゆる職業の人々、なんらかの形で
傷ついた人々と関わってきて、物事を正しい方向に導くように努力してきたが、
養子であるバビーが殺されたときほど、まじない師としても人間としてもつらいこと
はなかった。そのような試練に、人はどう立ち向かうのか? わたしは息子を殺し
た若者たちに、遠くからでも災いを及ぼすことができるような力を持っている。だが
そんなことをしたら、息子の命を奪った人間と同じになってしまう。聖なるパイプは、
復讐に使ってはいけないことになっている。そうしたことは、すべて神の手に委ね
なくてはならないのだ。わたしは心から神に祈った。“わたしは彼らのしたことを許
すことができませんが、その若者たちもまたあなたがお造りになったものです。愛
について語るのなら、すべての人類を愛さねばなりません。あなたにはわたしの
状況がおわかりだと思います。わたしは息子を愛していたので、今回のことを個人
的に受け止めてしまっています。本当は、あなたのようにその若者たちのことも愛
したい、でもできないのです。ですからあなたにお願いします。わたしを通して、あ
なたが彼らを愛し続けて下さいますように。そうすればわたしにも、あなたの愛の
働きを理解することができるでしょう。---- ただ言葉で語るだけでなく、実際の
体験として」。

 

 
  この文献の詳細ページへ 「アンデス・シャーマン 
     宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観」

     実松克義 著 現代書館


立教大学社会学部で学ぶ生徒は幸せだと思う。何故ならこの学部にはインディ
アン研究の第一人者である阿部珠理さんと、ヤマ・アマゾン研究の第一人者実松
克義さんがいるからである。もし私が若く頭も良ければこの大学で学ぶことを選ん
でいたと思う。その理由は三つある。一つ目は研究量だけに留まらず、如何にそ
れを解りやすく砕いて説明できるかの才能を持っている点。二つ目はフィールドワ
ークの技術が優れている点。三つ目は決して奢らず飾らない人間的な魅力を持っ
ており平衡感覚に優れている点であり、それらの優れた特質は、文献にも良く反映
されているのではと思う。本書「アンデス・シャーマンとの対話」において、実松克義
さんはアンデス・アマゾン地域に住む十数人のシャーマンから話を聞き、背後にあ
る世界観・宇宙観を探るだけに留まらず、シャーマンによる儀式にも参加している。
儀式では時には遺書を用意してまで探究しようとする。現在の日本でこのような真
摯な探究心をもっている研究者はあまりいないのではないだろうか。少し話は違う
が、以前NHKの放送大学の「先住民講座」の中で司会のスチュアート・ヘンリ氏が
イヌイットなど先住民族のカテゴリー分け必要だと指摘したのに対し、若いフィールド
ワークをしている2人の研究者が共に「同じ民族でも一人一人違う」ことを強調され
ていたが、それだったら別に外国まで行かなくても近くのお爺ちゃん、お婆ちゃんの
姿を追えばいいのである。何故、外国に住む先住民をフィールドワークの対象とし
ているのか、その原点(自分が何故彼らに惹かれたのか)を忘れ、自分の研究対
象が唯一無二のものだと近視眼的な捉えかたに囚われていることに気づきもしな
い。勿論このような研究者ばかりではないことを願うが、実松克義さんのような存在
がまだまだ日本には求められているのではと思う。話はそれてしまったが、本書で
展開されるアンデスの宇宙観、時間の流れなど興味深く、シャーマンでも考え方や
技法が一人一人異なる点も驚かされる。しかし、それでも土台には共通した世界観
・宇宙観が宿っていることを本書から感じとれるのではないだろうか。
(K.K)


だが最も特筆すべきなのは、アイマラ族が後年発展させた歴史的認識である。
ボリビアの人類学者マウリシオ・ママーニ・ポコアカによれば、現代アイマラ文化に
は四つの歴史的段階を示すパチャが存在する。チャマック・パチャ(月の時代)、
ハナ・パチャ(文明の時代)、タキシン・パチャ(苦難の時代)、そしてクティ・パチャ
(刷新の時代)である。これは歴史としてのパチャである。直線的時間としてのパチ
ャ、進化論的なパチャと言ってもよいだろう。歴史としてのパチャはスペイン人征服
者による文化的破壊の後に発生した。それは民族の歴史の再評価と反省、新しい
意味付けという主体的行為の結果である。ここではパチャはすでに完成された過去
の世界観ではなく、時間とともに変化し、進化する概念である。これはパチャの概念
が、あたかも文化生成のマトリックス(苗床)であるかのように時代に応答し、発展す
るダイナミズムを備えているからだと思われる。

世界は静止してはいない。絶えざる運動の中にある。そして人間はその運動を正し
く導き、調和的世界を維持するために、努力しなければならない。

こうしたパチャの思想はすでに古代アンデスにおいて存在した。回転する十字架で
ある。ティワナコ文明の先行文化であるチリパ文化には一つの興味深い表象が存
在する。俗にチリパの表象として知られるこの石のレリーフは、アンデスの宇宙観
の祖形とも言うべき世界を描いている。そこには太陽から発散する世界の四大要素、
エネルギーがベクトルとして描かれ、生成変化する生命の躍動が表現されている。
チリパ文化は初期のティワナコ文明に大きな影響を与えたのではないかと思われる。
それを示すのがチリパの表象に酷似する、「稲妻の石」と呼ばれるティワナコのレリ
ーフである(写真参照)。興味深いことに、ここでは太陽の代わりにヒキガエルが中心
に描かれている。これはティワナコ文明におけるアマゾンの影響を示すものであろう
か。非常に神秘的なティワナコ人の宇宙観が表現されている。
(本書より引用)



 
この文献の詳細ページへ 「アイヌの霊の世界」 
藤村久和 小学館


全編対談という形式でアイヌの霊の世界、宗教観を掘り下げようとする力作
である。梅原猛、河合隼雄、そして京都大学の地理学・人類学、心理学、哲学、
動物生態学、社会学、民俗学の専門家がアイヌに深く関わってきた藤村久和
氏との対談を通してアイヌの文化について語り合ったのを収録した文献である。
特に梅原猛氏は言語学、宗教儀式などを通してアイヌ文化にこそ日本文化の
基層があることを問うている。



アイヌ文化はやはり宗教文化です。宗教に関心をもたないとアイヌ文化はわか
らない。金田一さんなど宗教に関心をもたない。その点バチェラーはちがってア
イヌの宗教に強い関心をもっているけれども、アイヌの宗教を物神崇拝の一語で
片づけている。みな物神崇拝だという。ところが、たとえばアイヌの熊祭を見ると、
たいへん興味深い考え方で、これはヨーロッパ人にはちょっと理解できない。カム
イは天の一角に住んでいる。そのカムイがたまたま熊の仮面をつけて現れた。だ
から熊を育て、それを殺すことによってカムイを熊という仮面から解放して神その
ものに帰す。その儀式をまちがえると神に帰せないかもしれない。どうせ帰すなら
ば喜ばせて帰さなければいけない。喜ばせて帰さないとまた熊になってこの世に
現れてこない。これは熊の本質は神で、われわれの見る熊は熊という仮面をか
ぶった神の仮象であるという、そういう観念に裏づけされていると思う。

ところがそういう観念はヨーロッパにはないのです。あったとしてもずっと昔になく
なった。ヨーロッパには犠牲という観念しかない。中国でもそうです。儒教では牛を
殺してささげる。犠牲としてささげる。ヨーロッパでもそうですね。だからアイヌの熊が
神であって、それを殺すことによって神に帰すという観念は、とても中国流の宗教
観念でも、キリスト教の観念でも理解できないものなのです。これはたいへん深い
考え方だと思う。日本人の心の底にはそういう考え方があるのではないかと思う。

(梅原猛 本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ 「アイヌの星」 
末岡外美夫・著 旭川叢書 第12巻


本書・序 野尻抱影(遺稿・昭和52年10月30日歿)より引用

アイヌの星名が機縁で末岡外美夫氏と逢った頃、サビタの洋化したヒドラ
シジャが豪華な純白の花鞠を点け傘もつけて、雨をふくんで八方へ枝支れ
ていたのを覚えている。氏の行動は驚くべきもので時に西方の風を巻いて
くるかと思えばアイヌの国から土の香を一杯に詰めた魔法の袋を持って
やってくる。日毎に増えつづける氏の記録は私にとって大きな楽しみの
ひとつであった。

アンデスを歩きロッキーを駆ける氏はコヨーテの吠ゆる叢にインディアン
尋ねてアイヌの古老の姿を求めた。その記録を「アイヌの星」と題して出版
することを勧めてきたのだが慎重な氏は一向にその気がなかったようで
ある。とうとう私が友人の編集者に紹介して出版に踏み切ろうと氏に迫って、
この珠編が生まれた。氏はまだまだ考証が足りぬと言ふが、これほどの
資料を足で集めて考証した例は近来に稀である。考証の範囲も氏の語学
力と行動力で実に広い範囲にわたっている。
 
 

この文献の詳細ページへ 「シャーマンへの道」 
力と癒しの入門書 
マイケル・ハーナー著 吉福伸逸監修 高岡よし子訳 平河出版社


本書の著者マイケル・ハーマーを中心とする人類学者、一般人からネオ・
シャーマニズムには、大きく分けて二つの特徴がある。一つは古代から現代まで、
各地で綿々と受け継がれてきたシャーマニズムの伝統的形態を現代化 --- もし
くは西欧化というべきか ---し、誰もが体験できる形態に焼き直している点。これ
はシャーマニズムの民主化とも呼びうるもので、六〇年代以降、西欧で叫ばれて
いる宗教体験の民主化に呼応するものである。こうした民主化の動きは religion
(宗教)という言葉の変わりに spirituality (精神性/霊性)という言葉を使い、制度
宗教と一線を画して、個的体験としての宗教性が強調されていることによく現れて
いる。もう一つは、ハーナーの「シャーマン的意識状態」という用語からも明らかな
ように、シャーマンの旅に「意識」という角度からアプローチし、本来、人類学の
研究対象であった領域に心理学的要素を持ち込んでいる点である。
(本書・解説 吉福伸逸 より引用)


シャーマニズムにおいては、結局のところ他人を助けることと自らを助けること
の間に区別はない。他の人を助けることにより、人はより強力になり、自己充足
を果たし、喜びにあふれる。シャーマニズムは、日常的リアリティからの自分だけ
の超越にとどまらない。それは人類の役に立つという、より広い目的のための
超越なのである。シャーマニズムにおける光明とは他者が暗闇として認識してい
るものに光を当てることのできる能力であり、それにより、自らの親族すべて ---
このすばらしい大地の植物や動物 --- との精神的つながりを失いかけている
人類のために「見」て、旅をするのである。最後にジョシー・タマリンの詩を紹介す
る。シャーマンの道を探求している数少ないが、確実に増えつつある若い世代の
ひとりである。この詩は、誰も見つけてくれない道を見つけることができるのはシャ
ーマンの技法であることを思い出させてくれる。ある霊がシベリアのサモエド族の
シャーマンに語ったように、「シャーマニズム」を実践すれば、自分の道は自分で
見つけることができる」。・・・本書より引用

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「図説 シャーマニズムの世界」 
ミハーイ・ホッパール著 村井 翔訳 青土社


シャーマニズムの偉構、図像、儀礼などから、シャーマンの衣装、祭礼用具ま
で、シャーマニズム研究の第一人者が、自ら収集した貴重な図版や写真資料に
詳細な解説を加えた、シャーマニズム研究の集大成。尚、本書に紹介されてい
るのはシャーマニズム発祥の地と言われているユーラシア大陸各地のものである。


「再興されたシャーマニズムは物質主義にとりつかれた、自己中心的な現代の
文化に、開かれた、利他主義のイデオロギーを対置することに成功するだろう」   
ミハーイ・ホッパール (本書より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「ベロボディアの輪」
シベリア・シャーマンの智慧 
オルガ・カリティディ著 管靖彦訳 角川書店


本書はカルロス・カスタネダがヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンとの出会
いを描いた一連の書籍のロシア版と高く評価されているもので、シャーマニズム
の本場とも言えるシベリアの古代の叡智を見事に伝えることに成功している。
本書の原題は「聖なる伝統の輪に入る」という意味を持ち、著者の経験した驚く
べき体験を通して読者を、聖なる王国「ベロボディア」へとひきつけてゆく。


本書は最近、私の身に起こった出来事をつづった真実の物語である。シベリア
のノボシビルスクにある精神病院に勤務する私は、ある日、心に悩みを抱える
若者の訪問を受けた。それが事の発端だった。次々に不思議な出来事が重なり、
歴史的に神秘的な場所とみなされているアルタイ山に導かれた私は、そこでシャ
ーマンがするような驚くべき体験をし、数々の神秘的な啓示を授けられたのであ
る。(著者)

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「シャーマンの世界」 
ピアーズ・ヴィテブスキー著 
中沢新一・監修 岩坂彰訳 創元社


著者はケンブリッジ大学スコット極地研究所社会科学部長で宗教人類学者で
ある。またインド、スリランカ、シベリアへの20年にもわたる現地調査を行い、現
地のシャーマンと生活をともにしながらシャーマニズムを研究してきた人物である。
確かに本書は世界中のシャーマンに関して、客観的に見るだけの資料を数多く
の貴重な写真と共に公開した文献であり、シャーマンの全体像を把握するには
欠かせないかも知れない。ただ、あまりにも広範囲に書かれているため、その
実態を知るには別な文献を必要とするだろう。


シャーマニズムに魅せられる人々は、近年ますます増えている。本書では、
シャーマンが現在に至るまで何千年にもわたり実践し続けてきたことがらの全体
像を、ことさら神秘めかすことなく描くよう努力したつもりである。とくに注意を払っ
たのは、社会的な位置づけで、それはシャーマンの活動があくまで他者との相互
関係の中で意味を持つと考えるからである。シャーマン的伝統を持つ民族集団は
何千とある。そこで、その民族の中のシャーマンをできるだけ多く取り上げ、本書
全体を通じて、読者に彼らの住む村の光景や音やにおいまで感じ取っていただけ
るようにと配慮した。
(本書・はじめにより引用)

 
 
 

この文献の詳細ページへ 「奄美 神々とともに暮らす島」 
濱田康作 著 毎日新聞社


奄美の美しい自然と、そこに生き、祈る人々を撮った素晴らしい写真集です。
写真も素晴らしいのですが、序文にある「奄美・・・現代と古代が同居する“すべ
てが美しい島”」を書いた小林照幸さんの言葉がまた比類なき輝きを湛えてい
ます。この言葉を読んで改めてこの写真の数々を見ると、よりその深みが肌を
通して理解できるのではないでしょうか。少し長くなりますが、この小林さんの文
を掲載しましたのでお読みくだされば幸いです。私の父は船乗りでしたので、
ユタが真剣に海に祈りを捧げている姿が心に残ります。この奄美で幼少の頃を
過ごした大ばか者の私は、本当は幸せ者かもしれません。多くの人にこの写真
を、そして言葉を見て読んでもらいたいです。


美しい自然に抱かれ、精霊や神々と響き合って暮らす島人たちの表情は生気
に満ちている。死や闇の世界が身近にあるからこそ、生はいっそう輝くのだ。
大島、加計呂麻島、与路島、徳之島・・・。失われた日本の原型が、ここにある。
(本書 帯文より)

 
 
   

この文献の詳細ページへ 「神女(シャーマン)誕生 
徳之島に生まれた祝女2万6000日の記録 
松堂玖邇 著 フォレスト


松堂玖邇が体験した神仏との語らい、そして預言。その信憑性云々に関して
は、霊性などない私が言葉をはさむことは許されないが、ただシャーマンとして
の自覚が芽生えるまでの心の苦悩や葛藤を描いた本書は、ユタが神からの
呼び出しに応えていく心の軌跡そのものであり、その語り口は見聞きした者を
強くひきよせる不思議な力を持っている。心の揺れを実直に、そして何も装飾
しないで語る著者自身の誠実で謙虚な態度、それはシャーマンに共通するもの
であり、共同体やそこに生きる人間のため自己犠牲的な覚悟を選んだ者だけ
が発することを許された言葉の重みを感じずにはいられない。


シャーマニズムとは、はるか太古の時代に自然界の森羅万象を畏れ敬い、
絶対的なものとして捉えた人々の一つの心性とも言えるものです。大自然は
生きとし生けるものに空気を与えたり与えなかったりという差別はしません。
自然の恵みの中に、自然そのものとして存在し、その波動を自らの内に受け
入れて生きて行く、そのような人間の最古層の能力の一つがシャーマニズム
と呼ばれるものです。それは現在の組織化された宗教が発生以前の原初的
な形といえます。既存の制度化された宗教は民族の利害と結びついてほぼ
二千年を経た今日、実態としては空洞化し形骸化してしまいました。ところが
いますべてを地球規模で考えなければならない時代となり、そのような形骸化
された宗教では世の中を変える力に成りえなくなってしまったのです。だから
こそ、原初の力を秘めたシャーマニズムが復活しなければならないのです。
そして、神仏のエネルギーは生きた天性のシャーマンのエネルギーによって
保たれ続けられます。(本書 あとがき より抜粋引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「ビジュアル版 世界お守り大全」 
デズモンド・モリス著 鏡リョウジ 監訳 東洋書林


日本でもその著作が知られる世界的に著名な動物行動学者が紹介す
る世界中のお守りを紹介した本である。70カ国以上の国を旅し、その土地
で集めてきたコレクションも本書に紹介されているが、コレクションの写真
やその紹介文を見ているだけでも、こんなに多くのお守りが世界中にある
のかと驚いてしまう。日本人にとって、「お守り」はとても身近にあるものと
言える。神社のお守りを身体の身近に置いている人とか「交通安全祈願」
として車などにつけている人も多い。シャーマニズムと同じようにそこには
「魔除け、呪術的な力」が宿っていると無意識の中で感じ取っているのかも
知れない。本書で紹介される「お守り」を通して、その土地の文化や風習、
そして伝説を知ることができるのは貴重であると共に、その「お守り」に
込められた祈願を聞いたような錯覚さえ覚えてしまう。

私は自問せずにはいられない。「もし、この本を今から百年後に誰かが
読んだとして、彼らは我々の信じているものがなんと原始的であることか
とびっくりするだろうか、それとも、彼らはうなづいて、今だってみんな同じ
ことをしているじゃないかと言うだろうか」と。人類は今日我々が抱いてい
るマイナーな迷信のすべてを捨て去ることができるのか。または魔法に関
する全くあたらしい考え方が全人間社会に爆発的に拡がるのか、予言する
のは不可能だ。おそらくすべては、年月が進み、その技術的な進歩の結果
として、我々がどのくらい安らぎを得られるようになるのか、また不安をお
ぼえるようになるのかによるのだろう。技術の進歩は我々に多くの利便を
もたらし、安全の感覚を与えてきた。しかしながら、病気、怪我、老化や死
といった脅威に対する我々の恐怖が完全に解消されるまで、超自然的な
助力を何らかのかたちでわれわれは必要としつづけるだろう。暗く言葉に
出来ない心配や不安にさいなまされる限り、おそらくいつも、我々の生活の
中に、それは奇妙な小物として存在するであろう。奇妙な小物、その名は
ボディガード。 (本書より引用)


 
 



この文献の詳細ページへ 「瞽女 盲目の旅芸人 安達浩写真集」
安達浩著 京都書院

この写真集で初めて瞽女(ごぜ)という存在を知り、私は胸が熱くなる
のを抑えることが出来なかった。彼女たちが生まれたのは明治から大正
初期にかけてである。勿論この時代に盲学校や点字などない時代である。
男性だったら按摩などの仕事に就くことが出来たかもしれないが、女性
の場合は瞽女しかなかったのではと思う。彼女たちの母親は娘が一人で
生きていけるよう幼い頃から心を鬼にして接してきたのだろう。そして6歳
ごろに瞽女に送り出す。現在でいうと小学校入学の時に家族と別れて
瞽女の修行に出るのである。別れの時の彼女たち、そして母親たちの
心中を想うと目頭が熱くなってしまう。最後の瞽女として有名な故小林ハル
さんが「次に生まれたら虫になってもいいから眼の見える人生を生きたい」
と語っているが、この言葉の重みを理解できるのは視覚障害者の人たち
だけであろう。しかし人びとは彼女たちを聖なる来訪者、威力ある宗教者
と歓迎した。それは本書に書かれているように、目が見えないことは、か
えって霊界に通じ、神に直結する重要な要件であり、シャーマン的な役目
も彼女たちは担ってきたのである。瞽女は昭和52年に廃絶した。この写真
集はその最期の姿を写したものであり、歴史の一面を記した貴重な文献
である。

村に着くと、「瞽女宿」または「昼宿」といわれる宿に荷物を下ろして門付けに
廻る。家々の戸口に立って三味線を弾いて唄う。迎える村の人々とは、もう長い
なじみである。「今年も元気で来てくれてよかった」・・・・雪深い冬は旅をしない
瞽女さんたちを、村のだれもがそう思って歓迎し、世話をするのである。茶がふ
るまわれ、米やいくらかの金銭が渡され、世間話がはずむ。その米は「百軒米」
などと呼ばれ、多くの家から集めたので縁起がよいといって買う家もあったりする。
彼女たちは、ごく自然に村の日常にとけ込んでいる。・・・・かつて、このような“やさ
しい風景”が私の周りにもあったことを思い出し、それは彼女たちと初めて逢った
時の不思議な感動に重なっていった・・・・。二度目に逢いに出かけたときのこと、
近づいて行くと 「安達さん、来たのかい」 と先に声を掛けられて驚いた。私の
足音を覚えていてくれたのである。それから数年、写真を撮りに行くのか、彼女た
ちに逢いに行くのか、また私の内の“自然体の心”に下りて行くために出かけて
行くのか、わからないような日が続いた。今にして思えば、それはひとつのことで
あったような気がする。ある時は瞽女宿に一緒に泊まり、昼宿で食事を共にし、
戸口に立って声をかけたりもした。私はごく自然に深い呼吸をしていた・・・・。
1976年、「また来年・・・・」といって別れたのが、瞽女さんたちとの旅の最後になった。
中静さんが逝った。(本書 はじめに より抜粋引用)

瞽女に期待する民間信仰は、人間の生命の誕生と安全・保護に関するものと、
生産業にかかわる動植物の孵化・発芽とその育成に関するものの二つが大き
なものであった。こうした重大な信仰面が根底にあったから、農民は瞽女を手厚
くもてなしたのである。信州の飯田瞽女にいたっては、人びとの求めに応じ、こう
した場合に、祓い詞を読んだり、祝詞を上げたり、お経を唱えたり、真言を誦して、
拝み・祓い・祈願などの宗教行為を行なっていた。まさに、芸能者瞽女が宗教者
でもあったのである。近年まで存続してきた語り芸人瞽女の生態に、神の子孫
祝福を代弁する民間宗教者の遺影を見ることができる。瞽女の年明きのヒロメ
の祝言は、おそらくシャマンの神婚儀礼の遺風であろう。禁男の掟も、男を近づ
けね神の妻の思想から出発していると思われる。目が見えないことは、かえって
霊界に通じ、神に直結する重要な要件でなかったかと思われる。
(本書より抜粋引用) 



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  この文献の詳細ページへ 「シャーマニズム 古代的エクスタシー技術」
ミルチア・エリアーデ著 堀一郎 訳 ちくま学芸文庫


著者はシャーマニズムを「エクスタシーの始源的な諸技術」と定義する。その
担い手たるシャーマン、聖の専門家はいかにして誕生し、どのような活動を行
なうのだろうか。膨大な資料を駆使しつつ、シャーマンの召命と試練、象徴的な
死と再生、めざましい超能力や、それを支えるコスモロジーに説き及ぶ本書は、
比較宗教学あるいは宗教形態学の古典であるとともに、原初の世界と人間の
普遍的な型に迫ろうとする情熱的な思想の冒険行でもある。上巻には、イニシ
エーションの諸相、衣裳と太鼓のシンボリズム、中央・北アジアのシャーマニズム、
宇宙論などのテーマを含む第8章までを収録。

「最も重視したのは、シャーマニズム的現象そのものを紹介することと、その
イデオロギーを分析すること、その技術とシンボリズムと神話とを検討すること
である」(序言)。著者の意図は明らかだ。実証的個別研究の一つとして本書を
遇しては、その意図を見誤ることになろう。「超歴史的」、「類似的」アプローチ
から見えてくる宗教現象の普遍的古層こそが、エリアーデには重要だった。
世界の再神話化を目指す、すぐれて20世紀的な試みとして本書を読むことが
可能である。下巻には、南北アメリカ、東南アジアとオセアニア、印欧系諸民
族、日本を含む東アジアを扱う第9章を収録。解説 奥山倫明
(本書より引用)

この書物は、われわれの知る限り、シャーマニズムを宗教学全般のパース
ペクティヴのなかに位置づけつつ、その宗教現象全体を鳥瞰した最初のもの
である。だが、それはとりも直さず、この書物の持つ不備、近似値的性格、
危険性を示すものでもあろう。こんにち、シベリア、北米、南米、インドネシア、
オセアニアなど、種々のシャーマニズムに関する夥しい資料が提示され、また
他方、いろいろの意味で重要な多くの研究業績が、シャーマニズム(というより
は個別な型のシャーマニズム)の民俗学的、社会学的、心理学的研究の糸口
となった。だが幾つかの注目すべき例外(わけれもアルタイ語族のシャーマニ
ズムに関するハルヴァの業績)を除けば、シャーマニズムについての多くの研究
は、この極めて複雑な宗教現象を宗教学全般の枠内で解釈することを無視して
きている。ここでわれわれがシャーマニズムを研究し、理解し、紹介しようと試み
たのは、宗教学者としてである。われわれは、心理学、社会学、民俗学の視点
からなされたすばらしい業績の価値を低からしめようなどとは夢にも思わぬ。そ
のような研究業績はシャーマニズムのいろいろな面を知るのに不可欠であると
思う。だがわれわれは、それとは別のパースペクティヴもあると考えるわけで、
それがまさにこの書物で明確にしようと努力した点なのである。
(本書 序言 より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「アーバン・シャーマン」 
サージ・カヒリ・キング著 小林加奈子訳 VOICE


シャーマニズムとはヒーリングの一形態であり、ハワイのシャーマニズムは
シャーマニズムの一形態である。文化の違いにかかわらず、シャーマンに共通
して求められる資質がある。それは行動力と創造力だ。知識があっても行動し
ない者はシャーマンとして認知されない。シャーマンは神と共同創造する者とし
て全身全霊で人生を生きる。朽ちゆく木の形を美しいと思い、その姿に満足す
る人間もいる。しかし彫刻家は、その木の内的なエッセンスを別の形で表現し
たいと思う。シャーマンは彫刻家に似ている。そこには「木と一体になって新し
い何かをつくり出したい」という衝動があり、同時に「木を木としてありのままに
尊重し讃える」態度がある。シャーマンはそれをヒーリングとして表現する。
シャーマンは意識と肉体と環境を癒す。カスタネダの著書に登場する「呪術師」
が個人のパワーと悟りを探求するのに比べ、シャーマンは人と環境を癒す。す
べてのシャーマンはヒーラーであるが、その多くは「戦士の道」を歩む。ハワイ
のシャーマンのように「冒険者の道」を歩む者は少数である。一般に戦士の
シャーマンは「怖れ」「病気」「不調和」などを擬人化し、擬人化した対象と戦い
それを従えるための力と技術を磨く。冒険者のシャーマンは「怖れ」「病気」
「不調和」などを擬人化せず作用として扱う。そして「愛」「強力」「調和」をもっ
て対処する。あなたに怒りを向けている人物がここにいるとしよう。戦士の
シャーマンなら、その人物の否定的なエネルギーから身を守る強力な盾(心理
レベルの)を使う。冒険者のシャーマンは平静を保ち、自らが相手を癒す源泉
となるようエネルギーを調和する。戦士の道はたいてい孤独である。冒険者の
旅は道連れが多い。しかしそれぞれの道の達人になればなるほど見分けが
つきにくい。パワーのある者ほど愛情が深く(怖れがなくなる)、愛情が深い者
ほどパワフル(自信がある)になるからだ。私は両方の道を歩いてみた。その
結果、ハワイに伝わる冒険者の道が私にとって一番ふさわしく思えたのでこの
道を選び教えている。だが戦士の道を歩むシャーマンを私は尊敬している。
(本書 より引用)

 
 
  この文献の詳細ページへ 「時の輪」 
古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索 
カルロス・カスタネダ著 北山耕平訳 太田出版


最後に、この本、「時の輪」という本について書いておかなくてはならない。
カルロス・カスタネダが残した本は全部で十二冊ある。本書は、そのなかで
は十一冊目にあたるものだ。十二冊目の最後の「無限の本質」も先頃邦訳
されたから、本書が出版されることによって、カスタネダの本の日本語化は
すべて完了したことになる。そしてカスタネダの全著作のなかで、最も重要
なものが本書であることは間違いないだろう。この「時の輪」は、単なるこれ
までの本からの引用などではない。カスタネダとされる人物が、生前にドン・
ファン・マトゥスとされるひとりのシャーマンから学んだ教えを、その言葉を
中心にして再整理したものである。この意味では本書は、それ以外の十一
冊のすべてを合わせたこらいの、いやもしかしたらそれ以上の重みを持た
されているものなのである。もし一冊だけカスタネダの本を持って旅を続け
るとしたら、わたしは迷わずこの「時の輪」を選ぶだろう。そしておそらくは
ここに書かれてあるドン・ファンの教えの直接の言葉以外は、すべてが「た
わごと」にすぎないものなのかもしれない。インディアンの人たちがそうした
たわごとの書かれた本をなんのために使うかは、一連のシリーズを読まれ
た方にはすでにおわかりと思う。カスタネダは、彼が誰であれ、ある意図を
持ってこれらの言葉を選び、おそらくは最初にそれを聞いたときのままに
戻すことを試みたのだ。それぞれの本ではばらばらに配されていたような
言葉が、本書においてはひとつの脈絡ある連結をもたらされて提供されて
いる。ひとりのシャーマンの教えの核心の部分の全体像が、それを聞いた
とされる人物によってこのように再整理されていたとは驚きではないか。
ドン・ファンのシリーズを読んだ人間の多くが、この膨大な記述のなかから
ドン・ファンその人の言葉だけを書き抜いてあればいいのにと考える。実際
にそれを試みた人たちもたくさんいる。そしてほんとうにそれができるのは、
カスタネダ本人しかいなかったのである。彼は「時の輪」を残すべく残した
のだ。
(本書 訳者あとがきにかえて 北山耕平)



カルロス・カスタネダ - Wikipedia より以下引用

カルロス・カスタネダ(Carlos Castaneda、1925/31?年12月25日 - 1998年
4月27日)はブラジル生まれのアメリカの作家。その著書とされる本には、
UCLAで文化人類学を学び、ヤキ・インディアン呪術師ドン・フアン・マトゥス
(カチョーラ・ギッティメア Cachora (Kachora) Guitimea)の下で修行すると
ある。『魔女の夢』フロリンダ・ドナー(日本教文社)と、タイシャ・エイブラー
(Taisha Abelar) の著書"The Sorcerer's Crossing" に序文を書いている。
実在の人物ではなく哲学的パフォーマンスよって演じられた架空の人物で
はないかとの推測もなされている。またカルロス・カスタネダの最初の妻
Margaret Runyan Castaneda は著書 "My Husband Carlos Castaneda" で、
カスタネダの著作に書かれているような話は、物理的事実としては存在し
ないとしている。カルロス・カスタネダの一連の著作は、ニューエイジ運動
などに影響を与え、日本では中沢新一が紹介者的役割を担った人物の
一人である。執筆家の永沢哲がとりあげたり、漫画家の藤原カムイの初期
作品に影響が見られる。おなじく外薗昌也の漫画『ワイズマン』は直接の
影響関係にある。また、ネオ・シャーマニズムのリーダー的存在と見なされ、
心理療法家のアーノルド・ミンデルはその著『シャーマンズ・ボディ』でカス
タネダの示したメソッドを発展的に紹介している。 元格闘家の須藤元気が
自身のニューエイジ的著作で『呪術師と私』を紹介したことから再び注目さ
れている。1998年4月27日にロサンゼルスにて肝臓癌で死亡したとされて
いるが、彼の死については情報が少なく正確なことはわかっていない。


 


 
  この文献の詳細ページへ 「シャーマニズムの世界」 
桜井徳太郎 編 春秋社


ところが今日の新宗教の教祖は、ほとんどがそういうコースを辿らない。
神よりも人間の方に近づいて、民衆とともに悩み苦しみながら、ともども
に苦悩からの離脱や解放をはかろうとする。カリスマ的権威を負うて民衆
に接するのではなくて、神の声をきき人々の訴えを神へと通ずる仲介者
的意義を重くみている。かれらのもつ宗教的レベルは必ずしも純粋絶対
的なものとはいえない。むしろ世俗的傾向が強い。民衆のなかにあって
民衆とともに歩み、その苦悩を自らのものとしながら救済的機能をはた
そうとする。そうしなければ民衆がついてこないという理由もあろう。換言
すれば、これまでの教祖の多くがシャーマンからスタートして、脱シャーマン
化をはかることによって新宗教を組織したのに対し、近来に頻出する小
規模な新宗教の創始者たちは、逆にカリスマ的権威を払拭ふることによっ
てシャーマン化したともいえよう。あるいは、それによって民衆化したといっ
てもよい。南東の沖縄や東北地方の民衆が、既成の宗教団体へ編入され
ることをきらって、あるいは宗教的意義を評価できなくて、ユタ・カンカカリャ・
ムヌス・イタコ・ゴミソなどの、教団的には無組織であり強烈な呪術性をも
つ民間巫者と、より緊密な関係を保とうとする。そういう傾向がみられるこ
とは、もっと注意してよいのではないだろうか。つまり、新しい民衆宗教の
動きと、そこに機能するシャマニズムとが、どのようにからみついているか。
それらが、疎外されて絶望する人びとの祈求するメシアニズムと、どう対応
しているか。現代が遭遇するもっともシリアスな課題に触れるシャマニズム
を、もう一度根っこから掘り起こして検討する必要は、今日こそもっとも差し
迫っており、その解決はまことに重かつ大であるといえるのである。
(本書 シャマニズム研究の諸問題 より引用)

 
 

この文献の詳細ページへ 「チベットのシャーマン探検」 
永橋和雄著 河出書房新社


シャーマニズムの定義の次に私の興味を引いたのは、ひとりのシャーマン
候補者がシャーマン誕生にいたるプロセス(成巫過程)での試練についてで
ある。成巫過程には、大きく分けて召名と世襲の二つがあるという。召名は、
まさにカミに召されたように突発的に精神違和に陥り、人格転換をとげる
巫病を体験し、厳しい修練を経てシャーマン誕生にいたるプロセスである。
世襲は、精神違和や巫病の体験がないにもかかわらず、シャーマンである
親や師匠に弟子入りして、シャーマンとしての能力を獲得していくプロセスで
ある。カミに召されたシャーマン候補者は、突発的な精神違和から始まる長
くて辛い巫病体験の過程で、幾多の神秘的体験ともいえる試練を受けるの
だという。その神秘体験の一つが、専門家の言葉を借りると「呪的飛翔」と
いわれるもので、シャーマン候補者の魂が天上界に昇っていったり、地下界
へと降りていったりする異界遍歴というシャーマニックな旅の体験である。
もう一つが、「呪的燃焼」といわれるもので、自らの体内がまるで火炎に包ま
れ燃え盛っているかのような体験である。これ以外には、自らの体験が動物
によってずたずたに引き裂かれ、最後には食い尽くされてしまうという恐ろし
い「自己解体」の体験もあるという。また成巫過程における数多くの夢見の中
で、結果的にそれがカミのお告げであったと考えられる「夢告」を体験してい
ることもあるという。このような過程で長期にわたる試練を克服することにより、
人格転換を果たしたシャーマン候補者は、地域の人々に尽くすためのヴィジ
ョンを獲得するとともに、人智を超えた知識や知恵を授かるのだという。その
後は、師についてシャーマンとしての技術を学ぶことになる。その技術とは、
求められればいつでもトランス(忘我状態)に陥ることができる技術に始まり、
人の病を癒す治療技術、予言や託宣のための技術、等々。これらのシャー
マン儀礼執行に必要な諸々の技術を、師弟相承で修練し、霊的存在と直接
に交流する技術者としての「シャーマン誕生」にいたるのだと知った。ついに、
地域の「癒し人(ヒーラー)」となったシャーマンがその儀礼執行において、トラ
ンスと呼ばれる変性意識状態で直接行う霊的存在との交流とはいったいどの
ようなものなのか。その深層意識における神秘的なまでの体験を、生々しく
傍受してみたいという興味が膨らんでいった。私は、チベットの原野を駆ける
であろうシャーマンを求めて長い旅に出ることにした。その旅は、インド領
チベットのラダック、ザンスカールに始まり、ヒマラヤ南麓の国ブータンそして
中国チベット自治区にいたる、チベット仏教文化圏のほぼ全域を経巡るもの
となった。
(本書 プロローグ 微光を求めてシャーマンの森へ より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「境界を超えて シャーマニズムの心理学」 
ドナルド・リー・ウィリアムズ著 鈴木研二・堀裕子訳 創元社

本書の中心になっているのは、原書の副題からも推察できるように、カル
ロス・カスタネダ
の著書のうち最初の五冊を、ユング心理学の視点から分析
しようという試みである。カスタネダの著作は、アメリカはもちろんのこと日本
でも大いに注目されているけれど、このような分析の試みはおそらく初めて
ではないだろうか。こうした分析を通してアメリカの精神的再生の道をさぐろ
うというのが本書の主題である。しかしこの試みが意味を持つのは、アメリカ
においてだけではない。著者は遠い日本にいる私たちにも、精神的再生の
必要性とその具体的な方法論を示してくれている。つまり本書は、西洋文明
の影響下で理性一辺倒になっている全ての人々に向けたメッセージなのであ
る。このメッセージがカルロス・カスタネダの著作に基づいているのは、言う
までもない。そこで著者はカルロスの世界と私たちの日常を結びつけ、本書
の内容を身近で理解しやすいものとするために、いくつかの工夫をこらして
いる。第一にあげられるのは、「カルロスの経験そのもの」が、段階を踏んで
「呈示」されていることだろう。したがって読者は自然にカスタネダの世界に
導かれる。著者も言っているように、本書を読むにあたり「読者はカスタネダ
の著作について前もって知っている必要はない」のである。さらに、著者が
題材を広い分野に求めたことにより、内容が豊かに親しみやすくなったこと
ものべておかなければならない。取りあげられた分野は、神話、伝説、童話、
古典文学、東洋思想、文化人類学的知識などに及んでいる。著者が、分析
の臨床体験や様々な人々の夢、自らの日常生活におけるできごとを実例と
してのべているのも、読者にとって興味深いだろう。訳者も思わず自分の夢
を振り返ってみたくらいである。女性の生き方や心理に注目したフェミニズム
的観点も新鮮な刺激になっている。こうした著者の姿勢そのものが、まさに
「境界を超えて」いると言えるかもしれない。カスタネダの書くものは、じわじ
わと心の深いところに効いてくる。読者の中には、ウィリアムズ氏に案内さ
れカスタネダの世界をかいま見ているうちに、大きな渦に巻き込まれてしま
い、これは何なのだろうと途方に暮れる方があるかもしれない。しかし、そ
の混沌こそ大切なのだと思う。その中にじっとしているうちに、何かが変化
するのではないか。特に日常を見る目が変化し始めるのではないだろうか。
日常の生活は、それを理性で分析するのではなくイメージとシンボルという
視点からとらえる時、全く別の姿を現してくる。そこにはどんな深い意味が
あるのだろう。こう考える時、すでに個性あふれたそれぞれの心の旅が
始まっているのである。
(本書 あとがき 堀裕子 より引用)


カルロス・カスタネダ - Wikipedia より以下引用

カルロス・カスタネダ(Carlos Castaneda、1925/31?年12月25日 - 1998年
4月27日)はブラジル生まれのアメリカの作家。その著書とされる本には、
UCLAで文化人類学を学び、ヤキ・インディアン呪術師ドン・フアン・マトゥス
(カチョーラ・ギッティメア Cachora (Kachora) Guitimea)の下で修行すると
ある。『魔女の夢』フロリンダ・ドナー(日本教文社)と、タイシャ・エイブラー
(Taisha Abelar) の著書"The Sorcerer's Crossing" に序文を書いている。
実在の人物ではなく哲学的パフォーマンスよって演じられた架空の人物で
はないかとの推測もなされている。またカルロス・カスタネダの最初の妻
Margaret Runyan Castaneda は著書 "My Husband Carlos Castaneda" で、
カスタネダの著作に書かれているような話は、物理的事実としては存在し
ないとしている。カルロス・カスタネダの一連の著作は、ニューエイジ運動
などに影響を与え、日本では中沢新一が紹介者的役割を担った人物の
一人である。執筆家の永沢哲がとりあげたり、漫画家の藤原カムイの初期
作品に影響が見られる。おなじく外薗昌也の漫画『ワイズマン』は直接の
影響関係にある。また、ネオ・シャーマニズムのリーダー的存在と見なされ、
心理療法家のアーノルド・ミンデルはその著『シャーマンズ・ボディ』でカス
タネダの示したメソッドを発展的に紹介している。 元格闘家の須藤元気が
自身のニューエイジ的著作で『呪術師と私』を紹介したことから再び注目さ
れている。1998年4月27日にロサンゼルスにて肝臓癌で死亡したとされて
いるが、彼の死については情報が少なく正確なことはわかっていない。


 


 
  この文献の詳細ページへ 「シャーマンの弟子になった民族植物学者の話 
    上下巻」
 
     マーク・プロトキン著 屋代通子訳 築地書館

「シャーマンの弟子」を世に問うには、いまが絶好の時期であろう。環境が
とてつもない勢いで破壊され、人口が目の回るような勢いで増えつつあるこ
とを考えると、熱帯雨林と、その周辺に暮らす人々のこわれやすい文化を
保護するためには、少なくとも今世紀末までになんらかの手を打たなくては
ならない。作家としての才能と科学者としての洞察力に恵まれた著者の手
になる魅力的な本書は、熱帯雨林保護のために大きな役割を果たすことだ
ろう。マークは、熱帯雨林とそこに住む人々が存在することの意味の重さを、
人の心を動かさずにはおかない、痛切な言葉で訴えかけている。したがって
この本は、植物学、民族植物学のみならず、人類学、熱帯医学、シャーマニ
ズム、そして熱帯地方の環境保護に関心のある方ならどなたにも読んでいた
だきたい傑作となっている
(本書 序 リチャード・エヴァンズ・シュルツ博士 
ハーヴァード大学植物博物館 より引用)

 
  この文献の詳細ページへ 「奄美のシャーマニズム」 
日本民俗学研究叢書 
山下欣一著 弘文堂

奄美のユタの歴史は悲しい。それは、偏見と侮蔑と、はたまた島の人々
の熱烈な信仰と支持の狭間で、次第に隠微な存在を取りながら、秘やかに
その生命を受け継いできているものの歴史でもある。奄美の人々は、教養
の程度の如何にかかわらず、生活の実感としてユタの存在を理解している。
それは、深く、島の人々の精神生活を規定する存在でもあるからである。
筆者は、少年時代までを奄美で過したが、その時代を回顧してみると、まさ
に、日常的にユタの世界に住んでいたといえよう。無意識のうちに、ユタの
観点を通して日常生活を送り、霊魂を信じ、神を畏敬する生活であったと
思う。物心つくようになり、奄美の研究書をニ、三当たってみて、奄美の生活
のなかで、人々に一番身近かな存在であったユタが、単なる邪教迷信として
扱われている程度で片付けられているのに、大いなる疑問を持ったのであっ
た。従って、まず、奄美のユタの実態すなわちその存在形式を明らかにすべ
きだという視点から、ユタの成巫過程、呪術行為の二点に焦点を当て、19
56年以来、断続的に奄美諸島の調査を実施し、報告してきたのである。
そして、これらのユタの調査において提起されてくる問題についても、その
都度小論にまとめ、機会を得て発表してきている。本書では、これらの報告、
論考のなかから、奄美のユタの実態を明らかにすることに重点をおいてまと
めることにした。いささかなりとも、神秘のベールに包まれていた奄美のユタ
の存在を明らかにすることが急務だとの考え方からである。
(本書より引用)

「奄美 神々とともに暮らす島」
「奄美学 その地平と彼方」


 
  この文献の詳細ページへ 「精霊の呼び声 アンデスの道を求めて」 
エリザベス・B・ジェンキンズ著 高野昌子訳 翔泳社

本書は、著者エリザベス・ジェンキンズの魂の渇望から生まれた、精神
世界への冒険物語である。カリフォルニアの大学院で臨床心理学を学ん
でいたジェンキンズは、学問で満たされない心の「渇き」を体験する。目に
見える世界の彼方に、もう一つの世界があることを直感した彼女は、本能
に導かれるまま、南米ペルーのクスコへと移り住む。のっけからアンデス
の呪術的世界に放り込まれた読者は、インディオの儀式の闇に降臨する
山の精霊、アプの魅力に取りつかれるに違いない。著者とアプとの緊迫し
た駆け引き、アプの住む山への巡礼、仲間割れ、さらにアルゼンチンへと
舞台を移す息をのむストーリー展開は、まさに冒険小説顔負けの迫力に
満ちている。アンデスの土着信仰に根ざしたアプとは、呪術師の起こすま
やかしか、それとも現実か。聖なる秘物コズミック・プレートは、中世騎士
伝説に登場するあの聖杯なのか・・・・。数々の謎を秘めたまま、物語は
いよいよ「アンデスの道」の秘儀を明かす後半へとなだれ込む。
(本書より引用)





2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



過ちと回心



回心すること、新しく生まれ変わること、その真の意味を私は本当に理解できているの

だろうか。



私たちは先住民に対して、太古の時代から自然と環境に調和する人々と捉えているが、

1万3000年前のアメリカ大陸では現代の私たちがしてきたことと同じように、乱獲などで

31属の大型草食動物が絶滅されたと言われている。



これはアメリカ先住民に限らず、オーストラリアのアボリジニ(最近の研究で明らかに

なりつつある)など世界各地に共通することかも知れない。



過去と現代、同じ過ちを犯していたとしても、彼ら先住民と私たち現代人の決定的な

違いは、過去から学んだ「知の遺産の継承」(国立科学博物館の海部陽介氏が提唱し

ている進化の仮説)、この場合は「回心の継承」とも言うべきものがあるかどうかなの

かも知れない。



先住民は、過去の過ちから学んだ教訓、それが回心となって魂に刻まれたが故に、

1万年以上も渡って世代から世代へと受け継がれてきたのではないだろうか。



私たち現代人は、動植物の絶滅と共に戦争など多くの悲劇を目の当たりにしてきた

が、果してそこから得られた、揺らぐことのない教訓が1万年先の人類にまで共有さ

れたものになっていくのだろうか。またそこに回心と呼べるものが存在しているのだ

ろうか。



ホモ・サピエンス(現生人類)は1万3000年前に一時陸続きになったベーリング海峡

を渡ってアメリカ大陸に来たとされているが、アメリカ先住民の多くはそれを否定し、

「自分たちは天地創造の時に亀の島(アメリカ大陸)に置かれた」と主張している。



ミトコンドリアなどの遺伝子解析から見れば在り得ないことだが、真に回心し、新しく

生まれ変わったことを体感した人ならば「今、私たちは生まれ変わり、そして今、私

たちはここに立つ」と言えるのだと思う。



この回心、それはシャーマニズムアニミズムとも関わってくるが、私自身はシャー

マニズム・アニミズムは1万3000年前より遥か太古の時代に生まれたと思っている

し、その背景にはネアンデルタール人などの旧人と言われた人の存在があったの

ではと感じている。細々と、しかし脈々と受け継がれてきた精神が1万3000年前に

多くの人々に共有され花開いたのかも知れない。



話はそれてしまったが、回心、1万3000年前の現生人類が体感したこと、それは私

が想像するより遥か高い次元での回心であったと感じてならないし、次の世代へ

継承させるために、私たちはこの回心の真の意味を心に感じることから始めなけ

ればいけないのかも知れない。



(K.K)



 

 

2013年4月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「男は女の力を恐れている」



(写真は『アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち』から引用しました。)



中東やインドで起きている女性の悲劇を見るにつけ、私はそれを感じてならない。



恐らく太古の時代では多くが母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度)で

あり、調和ある共同体をつくるために母系社会は最も基礎となるものだった。



縄文土器に見られる女性像などから、儀式を執り行ったのは主に女性だったのではないかとの説が

あるが、沖縄・奄美のユタ(殆ど女性)を除いて、世界各地のシャーマンは圧倒的に男性が多い。これ

はもともと女性は生まれながらに偉大な神秘が宿っていることを男性自身が認識しており、治癒など

の儀式や部族の指導者(女性の意見だけで決める部族もある)は男性に任せるというのが自然の流

れになってきたのかも知れない。



母系社会の中では性犯罪が起きることは考えられないことであった。例えばアメリカ先住民と白人が

憎み戦っていた時代の証言「インディアンに囚われた白人女性の物語」の中でも、白人男性の捕虜と

は異なり、女性捕虜が如何に大切に扱われてきたかを読むとることができる。



このアメリカ先住民の社会では、女性が男性の荷物を家の外に置くだけで離婚は成立し、その逆は

なかった。



ただ現代のアメリカ先住民社会は、子供を親から無理やり引き離し、言葉・生活習慣・宗教などの

同化政策がなされた影響で、アルコール中毒、自殺、家庭崩壊、貧困が深刻な問題になっているが、

虐待や育児放棄の被害にあった子供たちを母系の集団の中で世話するため、現在でも孤児は存在

しない。



母系社会がいつから父系社会に転換したのか、、定住とそれによる近隣との闘争という説もあるが、

私の中ではまだ答えは見つけられないでいる。しかし肉体的な力による服従が次第に母系社会を

崩壊させ、それが暗黙のうちに様々な宗教に伝統として紛れ込んだのは事実かも知れない。



日本では菅原道真などに象徴される「怨霊」や「祟り」を鎮めるために、迫害者に近い人が神社などを

つくり、祭り上げることで鎮めてきたが、同じように卑弥呼の時代は既に女性の力の封印が始まった

時期だと思う。また中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」も、宗教が関わりを持つ以前から民衆の間で

始まった説があるが、女性の力を封印させる側面もあったのだろう。



「男は女の力を恐れている」



無意識の次元にまで下ったこの感情を、あるべき姿へと開放させ、母系社会の意味を改めて問う時代

だと思う。



「アメリカ先住民」に限らず、「聖母マリア」「観音菩薩」の存在は、暗にその意味を私たちに教えている

ような気がしてならない。



☆☆☆☆



「女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。」

(チェロキの言い伝え)



「先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト

たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し

ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは

この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。」

ルネ・セノグルス(Renee Senogles)
レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa)



「女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。」

オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え



「この星は、われわれがずっと生活してきた家である。

女性はその骨で大地を支えてきた。」

リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人



「女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と

女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む

のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と

の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し

始めるだろう。」

ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者



☆☆☆☆




 
 

2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 


2013年8月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


2013年8月13日、カナダ・オンタリオ州で撮影されたペルセウス座流星群(写真はNASAより引用)



私が住む厚木では流星群は雲で見えませんでしたが、古代の人はどんな想いで夜空を見上げて

いたのかなと想像することがあります。人類は夜空の星や天の川を通して、この世界とは異なる

世界があるのではと感じていたのかも知れません。



古代の人は天は3、7または9つの層があると信じ、その世界観がシャーマニズムの土台となって

いきます。



天の北極(世界樹)の周りを、太陽、月、彗星、惑星・星たちが異なる動きをしているのを見て、

天には幾重にも層があると思ったのも当然かも知れませんが、たとえその世界観が科学で否定

されようとも、彼ら古代の人が目を天へと向けつづけた視線。



その視線という方向性から産み出されたものは、宇宙創生から私たちを突き動かしている大い

なる力の輝きを宿した一つの形なのかも知れません。




 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)



 

2012年9月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

本日9月2日撮影した、雨上がりの睡蓮と障碍を持ったメダカ



メダカも他の生物と同じように不思議な生き物だ。



メダカは産卵時期には多くの卵を産むが、生き残るのはそれ程多くはない。孵化せずに

死んでしまうものもいれば、写真のメダカのように骨が変形して生まれてくるものがいる。



遺伝子の多様性は頭では理解しているつもりでも、同じ環境の下で育てているはずが

何故と問いかけたくなる。



インディアンのラコタ族の伝統では、障碍者は聖なる者であり、人々に何かを教えるため

に遣わされた存在だと考えられていた。



そこでは「できない」ことではなく、「できる」ことに焦点をあてようとする世界観・人間観が

あると「アメリカインディアンの現在 女が見た現代オグララ・ラコタ社会」の本の中で、

デイ多佳子さんが紹介している。



沖縄・奄美のシャーマン・ユタ。最初彼女たちは「目に見えないものが見え」「聞こえない

ものが聞こえ」る体験を通してユタになるのが殆どである。



世界のシャーマンの中でも「神のお告げ」とも受け取れる稀有な現象は、沖縄・奄美特有

のものだと今まで思っていた。



しかし、これは世界中で起こっていることかも知れず、ただ私たちはその現象を安易に

精神的な病として片づけているのかも知れない。



勿論、本当に精神的な病に苦しんでいる人たちがいるのも事実だが、異質なものをある

がままに受け止め、その意味を感じ取る風土が古代から受け継がれてきたのも事実で

ある。



このような風土、世界観・人間観をもつ社会は、「あるがままの」存在の重さを感じること

によって導かれるものかも知れない。



骨が変形しているメダカ、このメダカを見ていると何かを語りかけようとしている、とふと

感じてしまう。




(K.K)



 

2012年12月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



(大きな画像)

古代マヤ文明の「チチェン・イッツァ遺跡」にあるEl Castillo(エルカスティージョ)とオリオン座

(マヤでは亀を意味しています)。写真はNASAより引用



立教大学社会学部の生徒たちは幸せだと思う。この学部には阿部さん、実松さんという優れた研究者がいる。

阿部珠理さんはアメリカ先住民(インディアン)研究の日本の第一人者であり、実松克義さんも南米の先住民

シャーマニズム研究では第一人者である。お二人に共通することは熱い心と卓越した現地調査力、そして

研究者としての冷徹な視点と平衡感覚を併せ持っていることである。



この一人、宗教人類学者である実松克義さんが2000年に書いた「マヤ文明 聖なる時間の書」は、アメリカ大

陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を基に多くのシャーマンたちとの対話の中で、マヤの世界観を明らかにしていくこ

とだった。



「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるものだ」、ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス(グ

アテマラ・マヤ科学研究所の代表者)。



同じ民族のシャーマンでもその世界観や技法は微妙に、或いは大きく異なる。これは沖縄・奄美のユタもそうで

あるが、しかしそれは彼らの中に流れる源流の底知れぬ深遠さを逆に教えてくれるのではないだろうか。人智

を超えた大いなる光の流れ(振動)、この光は一つとして同じものはない遺伝子をもつ生命の魂を共鳴させ、

まるで虹のように様々な色を映し出させているのかも知れない。



「マヤ文明 聖なる時間の書」、私のサイトに書いた当時の感想を以下に引用します。



☆☆☆☆



マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。



マヤンカレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、そして人間の生贄の

儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。



しかしマヤ文明の根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼らの驚くべき

世界・宇宙観が見えてくる。



この神話によると人間の生贄の儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその

時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。



立教大学社会学部教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・シャーマンを6年にわたって現地調査

し、多くのシャーマンとの対話を通してマヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。



それは時間そのものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。



そこには人間の生贄の儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。



本書は本格的マヤ神秘思想研究の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。



☆☆☆☆



 

2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。










Bear's Belly - Arikara

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

美に共鳴しあう生命

ホピの預言(予言)

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