Portrait of James Holy Eagle, Oglala Sioux,at age 102 (1992)
.「THE NATIVE AMERICANS」CD-ROM より







ウンデッド・ニーにおけるゴースト・ダンスと虐殺


1890年12月29日、現在のサウス・ダコタ州パイン・リッジ保留地で起こった悲劇。

ダコタ族の老人、非武装男子、女子供を含めた300人のインディアンがパイユート族

ウォヴォカが啓示を受けたとされたゴースト・ダンスを踊るためにこの地に集まってい

た。当時のインディアンのすべては合衆国に征服され、生まれ育った土地から追われ

続けており、そのような絶望感からの救済をこのゴースト・ダンスに求めていた。この

ゴースト・ダンスという踊りの非暴力的手段による救いの教えは次のようなものだった。

「良きことのみをなせ。互いに愛し合え、争いごとはしないように。白人とも平和に暮ら

すように。嘘をついたり、盗みをはたらいたりしてはならない。戦いを好んだ古い習慣

をことごとく捨て去り、私の教えに従うように。そうすればやがて、この彼岸において、

友人たちと再会するだろう。そこにはもはや死もなければ、病もなく、老いもないだろう

(「予言のゆくえ」の中の北山耕平氏の文)」。合衆国はこのダンスをインディアンの一

斉蜂起だと思い第七騎兵隊を呼びいれた。この騎兵隊の機関銃が火を吹いたのが

1890年12月29日の寒い雪が積もる日だった。逃げ惑う女子供たちまで容赦なく

撃ち殺したこの虐殺は、サン・クリークの虐殺(映画「ソルジャー・ブルー」の舞台)

と共にインディアンの記憶に刻まれている。「アメリカ・インディアン 死闘の歴史」

スーザン小山著 三一書房によると、今でもこの悲劇の日と同じような真冬の雪の

日、そこを吹き渡る風のなかにいつも女子供の泣き声が聞こえてくると付近の住民

は言っているという。アメリカの国家権力の横暴はベトナム戦争中の1968年3月

16日南ベトナムソンミ村でも繰り返されることになる。「ソンミの虐殺」と呼ばれる

この犠牲者は、女性と子供と老人ばかりの村人504人だった。「ソンミの虐殺」よ

り90年前に行われたウンデッド・ニーでの大量無差別虐殺、この虐殺を詳しく記し

た文献としてブラック・エルクが語った「終りなき夢と闘い」やレッド・フォックスが記

した「白い征服者との闘い」、 ディー・ブラウンの「わが魂を聖地に埋めよ」があり

参考にしていただければと思う。そしてこのウンデッド・ニーを舞台として80年後の

1973年、各部族のインディアンが自らの権利獲得や差別撤廃を掲げ、この地に

立つカトリック教会と交易所を占拠する事件が起こる。FBI(連邦保安官)や陸軍・

空軍が出動して銃撃戦が繰り広げられるが、インディアンを支持する声が数多く

ホワイトハウスに届き、また諸外国の支持もあって合衆国政府は実力による排除

を中止する。この第二次ウンデッド・ニーの指導者として有名なのがラッセル・ミー

ンズであり、デニス・バンクスであった。この占拠事件の詳細はデニス・バンクス

「聖なる魂」朝日文庫、クロウ・ドッグ著「魂の指導者クロウ・ドッグ」サンマーク

出版、そして闘いの最中に出産したマリー・ブレイブ・バード著「ラコタ・ウーマン」

第三書館に記されている。


(K.K)




 ブラック・エルクの言葉

 レッド・フォックスの証言
 ディック、ディック・フール・ブルの証言 
 アメリカン・ホースの証言
 サン・クリーク(サンドクリーク)の虐殺
 ゴースト・ダンスの歌



ブラック・エルクの言葉

「わが魂を聖地に埋めよ 下巻」

アメリカ・インディアン闘争史より引用



その時何人の者が死んだか知らない。いま老年という高みから

ふりかえってみても、殺された女や子どもが曲がりくねった谷に

沿って積み重なり、散らばっていたありさまを、当時のまだ若か

った私の目が見たままに思い出すことができる。そして私は、

その時血に染まった泥の中で何かが死に、それは吹雪に埋も

れてしまったということがわかる。人びとの夢がそこで死んだの

だ。それは美しい夢だった・・・・・国をまとめていたたがが外

れ、すべてがばらばらになった。もはや中心というものがなくな

り、神聖な木は枯れてしまった。


 


レッド・フォックスの証言

「白い征服者との闘い」より引用


兵隊たちと一戦を交えるという考えかたが、仮にほんの少しでもビッグ・フットの頭の

中にあったとしたら、彼はきっとあのポーキュパイン孤山の近くで最初に兵隊たちの

姿を見かけた時点で、そうしていたであろう。その地点でなら、彼は付近に散在する

孤山のあちこちに彼の勇士たちを配置し、彼らインディアンにはお手のものの戦闘

のやりかたをりっぱに展開してみせることができたであろう。そのような作戦ならまち

がいなくホワイトサイド少佐を敗走させていたであろう。そして少佐が援軍を待ってい

るそのあいだに、ブッグ・フットの氏族の全員は近くの「悪い土地」地域に逃げこむこ

とができたであろうし、その地域ではアメリカ軍の追跡はたとえ不可能とはいわぬま

でもひどく困難となったであろうことはまちがいないのだ。だが、あの時点ですでにまっ

たく無防備であったビッグ・フット一行は、ちょっとでも抵抗を示せばそれが氏族全員

の死を意味するものであるということを、よく知っていたのである。復讐心を満足させ

ようと待ちかまえていた兵隊たちにとって、インディアンたちが抵抗を試みようとした

ということ以外に、いったいどんな口実が必要であっただろうか。白人側の歴史によ

ると、インディアンの一人が身体検査を拒否し、兵隊と取っ組み合いをするそのごた

ごたのうちに誤って彼の銃が発射された、ということになっている。このときの大虐殺

に生き残った私の友人の多くは、その説明にたいして反駁を示している。インディアン

はそのとき誰一人として銃など持っていなかったし、取っ組み合いなどもしなかった、

と私の友人たちは言う。それはまず信ずるに足る話であるといえる。なぜなら、その

銃の発射後ただちにインディアンたちにたいするアメリカ軍の全面的な攻撃が開始

されたからである。丘の上のホチキス砲さえもが火を吹きはじめたのだ。歩兵、騎兵

そしてホチキス砲を含むすべての火気の同時の発砲とうこと自体が、兵隊たちが早く

から位置について合図を待っていたとう事実の強力な証拠なのである。したがって、

兵隊たちは、彼ら自らが具体的にこの事件を起こさねばならぬ以前から、すでにそ

れを予期していたもののようである。インディアンたちの方から先に戦いを起こすか

もしれない、とこのとき兵隊たちが考えることができた、という想定はまず困難であ

る。なぜなら、インディアンたちが不利な条件の下にあったことは、誰の眼にも明ら

かであったからである。インディアンたちの持っている銃は粗末なものばかりで弾薬

も不足している、ということを将校たちは知っていた。前日、インディアンたちがこの

野営地へ入ってきたときに、すでにそのことは観察されていたのである。インディアン

たちのすべての言葉と行動とは平和と服従のそれであった。たとえば、彼らは兵隊

たちの姿をみるとすぐ白旗をかかげたではなかったか。そして彼らは野営をはじめ

てからもずーっと、その白旗をかかげつづけていたではなかったろうか。それが兵隊

たちに撃ち落とされるまで。再び言えば、もしインディアンたちに戦闘の意志があった

とすれば、彼らはまずなんとしても、あのカスターとの戦いのときにもそうであったよう

に、第一に女子どもを安全な場所へ移動させていたはずなのである。インディアンた

ちは決してその家族の者たちを戦いの危険にさらすようなことはしなかったのだ。いま

から三五年前のことになるが、あの民族学者のジェイムズ・ムーニー夫人が私に一つ

の写しをくれた。それはムーニーがウーンデッド・ニーの大虐殺についてまとめた報告

書のコピーであり、ムーニー夫人はまた、それをどのような話のなかに使用してもよい

という権利をも私にくれた。ムーニーは稀にみる注意ぶかい著述家だった。彼は、ワ

シントンに送ったこの虐殺事件についての報告書のなかで、次のように述べている。

「最初の一斉射撃において、ホチキス砲はインディアンたちの野営地に照準されてお

り、天幕のまえにあつまっていた婦女子のあいだに嵐のような弾丸を撃ち込んだ。

そのホチキス砲は二ポンド砲弾を毎分五〇発の割合で注ぎこみ、すべての生きもの

を薙ぎ倒している。その怖るべき効果は、たとえば、ブルー・ホワールウインドという

名の生き残ったインディアンが全身に計十四ヶ所の傷を負い、彼女のかたわらには

彼女の二人の子どもが死んで横たわっていたという事実からも判断されよう」 数分

間のうちに二百名のインディアン婦女子と九0名の男たちとが殺されていた。そして

死にきれない多数が地上にもだえ苦しんでいた。死者の中に、酋長ビッグ・フットも

まじっていた。彼は粉砕された荷馬車のそばにもみくちゃになって横たわっていた。

一方、兵隊たちの側には、味方の銃砲の十字架砲火による六〇名の死傷者がでて

いた。インディアンたちの天幕は砲弾によって引きちぎられ、その幾つかはわれと

わが身をどうすることもできない負傷者のすぐ頭上で焔をあげていた。ようやく生き

残った小人数のインディアンたちは一目散に谷間に逃げこみ、しかし、狂気のよう

な多数の兵隊たちに追われ、あるいはホチキス砲を見舞われた。この追跡もまた

すなわち一つの虐殺であった、という以外に結論はありえない。幼児を背に負いあ

るいは抱きかかえて逃げまどう女たちもつぎつぎに撃ち殺された。抵抗はもうとっく

に止み、すべてのインディアンの戦士たちはすでに殺され、あるいは死につつあっ

たのである。この大虐殺のあとの情景は凄惨そのものであった。言葉では決して

この忌わしい光景を描写することはできない。母親たちは自らの血の中にのたうち

回り、あるいは茫然とすでに息絶えた幼児を抱き、あるいは驚きうろたえる子ども

の手を引いていた。父親たちは死の苦悶の最中にあって目が眩みながらもあたり

を這いまわって家族の者たちを探そうとする最後の努力にあがいていた。傷つい

た恋人たちは死の間際に互いの名を呼び合っていた。兵隊たちの遺体はただち

に戦友たちの手で片づけられた。負傷者たちには手当が加えられた。しかし、虐殺

された側のインディアンたちはそうはゆかなかった。兵隊たちは隠れているインディ

アンの婦女子を探し出して殺すことに夢中になっていて、すでに傷つき倒れた敵に

助けの手を差し伸べるということには気が回らなかった。大虐殺の三日後、最後の

銃弾が発射されて生存者の探索が終ったとき、アメリカ軍は傷ついた兵隊たちと

インディアンの捕虜たちとを連れてこの場を去り、パイン・リッジ居留地の本部に向っ

た。夕闇がおりてくる前に、吹雪が山々から吹き荒れてきて、あたかもこの忘れ得

ぬ犯罪の血の証拠を消そうとでもするかのように、戦場を白い布でおおった。


 


ウンデッド・ニーでのゴーストダンス

<間抜けな牡牛のディック、ディック・フール・ブル>が1967年と1968年に、

サウスダコタ州ローズバッド・インディアン保護特別保留地で語ったもの。彼は

ローズバッドにおける最後の横笛の製作者かつ演奏者で1976年に死んだ。

「アメリカ先住民の神話伝説」より引用


これは本当にあった話だ。そうでなかったら、どんなにいいだろう。これが起こった時、

私はまだほんの六歳か七歳の小さな少年だった。本当のことを言えば、私は自分の

年齢をはっきりとは知らない。国勢調査員がやってくる前に生まれたから、記録がない

んだ。私が小さかった頃、年老いた叔父にくっついて回るのが好きだった。なぜなら、

彼はいつも物語を聞かせてくれたからだ。かつて彼は、「新しい何かが風に乗ってやっ

てくる。新しいダンス、新しい祈りだ」と、言った。ゴースト・ダンスのことを言っていたん

だ。「<背の低い牡牛・ショート・ブル>と<蹴る熊・キッキング・ベア>が遠い旅に出か

けた」と、叔父は私に語った。「彼らははるか南の部族、パイユート族の一人の聖人に

会いに出かけた。この聖人には、死者を再び生き返らせたり、バッファローたちを連れ

戻せたりする力があると聞いたからだ」 叔父はこれをとても大切なことだと言い、私は

真剣に聞かなければならなかった。老叔父は続けた。


この聖人は、<背の低い牡牛>と<蹴る熊>に自分の帽子の中を覗かせた。そこに

彼らは、死んだ仲間たちが歩きまわっているのを見た。聖者は彼らに、「私はあなたた

ちに、食べると死んでしまう物を与えよう。しかし恐れることはない。私がまた、あなたた

ちを生き返らせるから」と言った。二人は彼を信じた。そしてそのある物を食べて死に、

気がつくと、自分たちは真新しくて美しい大地を歩いていた。そして自分の両親や祖父

母や白人兵士に殺された仲間たちと、話をした。友人たちは元気で、この真新しい世界

は昔のもの、つまり白人に破壊されてしまったあの世界のようだった。動物に溢れ、ア

ンテロープやバッファローたちが溢れていた。草は青々と高く伸び、そして遠い昔に死

んだ他の部族の人々もこの新しい土地で一緒に暮らしていたが、争いはなかった。

インディアン部族のすべてが一つの部族になり、お互いにわかりあえた。<蹴る熊>と

<背の低い牡牛>は辺りを歩きまわり、すべてを見て、喜んだ。その時に、パイユート

族の聖人が、彼らを再び生き返らせた。彼は二人に、「お前たちは見た。私のもたら

した新しい<土地>を。大地は、邪悪な白人たちがもってきた柵や線路や炭坑や電柱

のすべてと一緒に、毛布のごとくくつがえるだろう。するとその下には、再び命を得た私

たちの仲間全員と昔ながらのインディアンの大地があるだろう」と、言った。そのあと

聖者は、彼らに新しいダンス、新しい歌、新しい祈りを教えた。そして神聖な赤い絵の

具を与えた。彼は太陽さえも死なせた。太陽はすっぽり闇に覆われて消えた。そして

また太陽を生き返らせた。<背の低い牡牛>と<蹴る熊>は、私たちの所にこの朗報

をもって帰ってきた。いまでは至る所で、大地をくつがえすため、死者を生き返らせる

ために、この新しいダンスが踊られている。新しい世界がやってくるんだ。


この老叔父は私に語った。その後私は自分の目でこれを、つまりこの踊りを見た。人々

は互いに手を組み、歌い、ぐるぐる回って、太陽を見上げていた。ダンスの輪の中心に

は、小さい唐檜の木が置かれた。彼らは、太陽や月や星や鵲の絵が描かれた特別な

シャツを着た。彼らはぐるぐる回りつづけた。踊りはいつまでも続いた。ダンサーのうち

の幾人かが、まるで死んでしまったかのように、卒倒した。メディスン・マンらがもってい

たシーダーを燻した甘い香りのする煙を扇ぎかけてやると、また息を吹き返した。生き

返った人々は皆に、「俺たちは死んだ。月や宵の明星に出かけた。そこで死んだ父親や

母親を見つけたので話をした」と、報告した。この人々が生き返って目を覚ますと、手に

は星の石や月の石など、この地上のものとは違う種類の石が、握られていた。星や月

にいる動物の珍しい肉を掴んでいることもあった。ダンスの指導者は彼らに、このワナ

ギ・ワチピを踊るのを禁じる白人を恐れる必要はないと言った。彼らが身につけている

幽霊のシャツ(ゴースト・シャツ)は、白人のどんな弾をも通しはしないと言った。そうして

彼らは踊りつづけた。私はそれを見た。大地は決して戻らないし、死んだ縁者たちも生

き返ることはなかった。やってきたのは、兵士だった。理由は、誰にもわからなかった。

ダンスは平和に満ちたもので誰も傷つけたりしなかったが、白人はそれを戦のダンスだ

と考えたのだと私は思う。多くの人々が、兵士たちがしようとする事に恐れを感じた。

私たちは銃はもはやなかったし、馬もほとんど残されていなかった。私たちは白人に

すべてを頼っていたが、私たちが白人を恐れたように、白人たちも私たちを恐れてい

たのだ。その時、<座る牡牛・シッテング・ブル>がスタンディング・ロックで、ゴース

ト・ダンサーたちと一緒にいたために殺されたという話が広まって、人々は心底恐れ

を感じた。老人たちの中には、「パイン・リッジに行って、降参しよう。もし俺たちがそ

うすれば、兵士も撃ちはしないだろう。老<赤い雲・レッド・クラウド>が俺たちを守っ

てくれるだろう。そのうえそこなら、配給にもありつける」と、言った。そうして私の父母

と老叔父は、軽装馬車と老いた馬を手に入れ、私たち子供を連れて、パイン・リッジに

向かった。寒くて雪の降る日だった。楽しい旅ではなかった。大人たちがみんな不安

そうだったからだ。そして兵士らが私たちを止めた。彼らは大きな毛皮のコートや熊の

コートを着ていた。彼らは暖かく、私たちは凍えていて、私は自分にもこんなコートが

あればなあと思ったことを憶えている。彼らは私たちに、これ以上遠くへは行くなと、

ここに止まってキャンプを張れと言った。徒歩や馬や軽装馬車でやってくる全員の者

が、同じことを言われた。だからここにキャンプができていたけれども、食べ物も薪も

少ししかなく、兵士たちが輪になって私たちの回りを取り囲み、誰も逃げられないよう

にした。その時突然、聞いたこともない音が、おそらく五、六マイル離れた向こうで大

きな毛布を、それも世界中で一番大きな毛布を引き裂くような音がした。それを聞くな

り、老叔父の目から涙が吹き出した。祖母は死者に向かってするように鋭く泣き始め、

人々はあたりを走りまわり、泣いたり気がふれたようになった。私は老叔父に、「どうし

てみんな、泣いているの」と、尋ねた。彼は、「やつらが殺している。向こうにいる部族

の人たちを、やつらが殺しているからだ」と、答えた。父は、「あの昔 --- あれは兵士

が普通にもっている銃じゃない。人間をばらばらに --- 粉みじんに --- 引き裂く、大

鉱車銃の音だ」と言った。私には何のことかわからなかったが、皆が泣いているので、

私も泣いた。そして翌日 --- いや、あれは翌々日だったろうか。いや、やはり翌日だっ

たと思うが、ちょうど私たちはそこを通り過ぎた。老叔父は言った。「お前たち子供が、

これをしっかりと見ておくんだ。目に焼きつけて忘れるんじゃない」


ウンデッド・ニー川と呼ばれる小川のすばの渓谷の中には、人々の死体が、それも

ほとんどが女や子供の死体がそこらじゅうに散らばっていた。さまざまな姿勢でそこに

横たわったまま凍りつき、その動きも凍りついていた。その時兵士たちは死体を薪の

ように積み重ねていたのだが、私たちがそこを通り過ぎるのを嫌った。私たちにそこ

から離れろと、それも大急ぎで離れろと言った。老叔父は、「今はやつらの言う通りに

したほうがいい。でないと、俺たちもあそこに寝かされることになる」と、言った。そうし

て私たちはパイン・リッジに向かった。が、私は見てしまったんだ。死んだ子供に乳を

含ませながら死んでいる母親を。その小さい赤ん坊の頭には、星条旗をビーズで描い

た小さい帽子が被せられていた。


 


アメリカン・ホースの証言

「ネイティヴ・アメリカン 写真で綴る北アメリカ先住民史」より引用


男たちは、兵士からいわれたように、女たちとは離れた。そして、兵士に取り囲ま

れた。その後、村のはずれまで行ったが、そこでもやはり、兵士にすっかり囲まれ

た。銃弾が飛びかいはじめたとき、最初の一発を放った若者の近くに立っていた

インディアンたちは、いうまでもなく、みんな殺された。それから兵士は、銃やホチ

キス砲を、小屋にいる女たちにも向けた。小屋には、白旗が掲げられていたのに。

いうまでもなく、弾丸が放たれればすぐに、彼らは逃げた。男たちは、みなひとつ

の方向に、女たちは、べつべつの二つの方向に逃げた。こうやって逃げ道は3本

に分かれた。赤ん坊を抱いた女がひとり、もうすこしで白旗に触れようとしたところ

を、殺された。女も子供も、いうまでもなく、円形の村一帯を逃げまどい、死を迎え

た。白旗のすぐそばにいた母親は、幼い子を抱いたまま、銃弾を受けて倒れた。

赤ん坊は、母が死んだことを知らずに、乳を吸っていた。胸つぶれる、悲しい光景

だった。赤ん坊といっしょに、懸命に逃げる女たちが殺され、撃たれた。子供をか

かえ、からだが重たくなった女たちもまた、殺された。インディアンたちはみんな、

3つの方向に逃げて、そのほとんどが殺された。そのあと、死んでいない者、怪我

をした者は出てこい、危険はないという多きな声が聞こえてきた。そして、怪我を

していない少年たちが、隠れていた場所から姿を見せた。何人もの兵士が、その

姿を見るなり、子供たちを取り囲み、その場でなぶり殺した。

(オグララ・ラコタ族のアメリカン・ホース(1840−1908)は、その弁舌と交渉能力

で部族の指導者となった。また、勇敢な戦士でもあり、ボーズマン街道の戦いでは、

1860年12月、対フェッターマン戦闘に参加している。この戦いは、合衆国陸軍が

大敗を喫した戦闘のひとつである。1890円、アメリカン・ホースはゴースト・ダンス

信仰を嫌い、ビッグ・フットたちを説得してパインリッジ保留地に帰らせたが、結局

は、ウンディッド・ニーの大虐殺へといたった。アメリカン・ホースはワシントンDCを

何度か訪れ、1891年、上の胸をうつスピーチをおこなって、インディアン環境改善

の一役をになった。)


 


サン・クリークの虐殺(1864年11月29日)における証言

「増補 米国先住民の歴史」

インディアンと呼ばれた人びとの苦難・抵抗・希望より引用


ジェームズ・D・コナー大尉の証言

「われわれがインディアンの宿営地の見える地点に着いたのは、11月29日の夜明けで

した。シビングトン大佐が攻撃を命じ、命令は実行されました。大佐の連隊は約1000人

でした。インディアンの村には100から130のテントがあり、私の見るところ、500人から

600人のインディアンがいて、その大半は女と子供でした。翌日現場に行ってみますと、

男、女、子供の死体は、どれもこれもみな頭の皮をはがされていました。死体の多くは、

これ以上むごたらしくはできないほど切り刻まれ、男女、子供の見境なしに生殖器が切り

とられていました。兵士の一人が、自分は女の生殖器を切りとって、棒に突きさしてみん

なに見せてまわったといっているのを私は聞きました。・・・・・・・私の知っている限りでは、

こうした残虐行為はJ・M・シビングトン大佐もご承知の上でなされたものですし、大佐が

残虐行為を押しとどめようとしたとは聞いておりません。次のようなことも耳にしました。

生後数ヶ月の赤ん坊が馬車のまぐさ桶に投げこまれ、そのまま引いていかれ地面に放り

だされて死んだそうですし、兵士たちが女性の生殖器を切りとり、鞍の全部においたり、

帽子の上に乗せたりして行軍したなどの話はいくつも聞きました。」



クレーマー少尉の証言

「シビングトン大佐が連隊に前進を命じ、インディアンたちは川の方まで後退して、土手の

ところに身を隠しました。インディアンの指導者“ホワイト・アンチローブ(白いかもしか)が、

武器を持たずにわが軍の隊列に向かって両手をあげて走ってきたのですが、殺されまし

た。女や子供は身を寄せあっていましたが、わが軍の銃火はこの女と子供の群れに集中

しました。100人ほどいたインディアンの戦士は絶望的に抵抗してきました。インディアン

は全部で500人ぐらいでしたが、125人ないし175人が殺されたと思います。傷ついた

インディアンも、最後まで降伏しませんでした。死んだ者の頭の皮は、みんなはがされて

いました。「白いかもしか」だと確認できた死体の指は、切りとられました。兵力はわが方

が圧倒していましたので、発砲する必要はなかったと思います。インディアンが発砲した

のは、わが軍が何発も撃ってからあとのことでした。・・・・・・・私がシビングトン大佐に、

こんなインディアンを攻撃するのは、どう考えても殺人ではないかといいましたところ、

大佐は拳を私の顔に近づけ、“インディアンに同情する奴は馬鹿だ”とどなりました。

大佐はインディアンを殺しにきたのでした。状況がどんなであれ、インディアンを殺すこ

とを名誉なことと信じていたのです。」


 


ゴースト・ダンスの歌 

「アメリカン・インディアンの歌」から引用



1892年に、インディアン最後の大暴動が起こった。これが起きた原因は、連邦政府が、

その2年前から始まり西部の大半に広まった新宗教の儀式を弾圧しようとしたためである。

大平原から西海岸まで、また、コロンビア川からリオ・グランデ川までのインディアンの部族

に流布したこの新しい宗教の予言者は、じぶんを救世主であるとし、聖なる力を使えると

公言していた。彼は、ある踊りを儀式化したが、信者たちは、この世の秩序を神秘の力で

覆そうと虚しく試みながら、その狂乱的な儀式へ没頭していった。彼らは、踊りながら恍惚

となり、幻想を見たり死者たちと言葉を交わしたりした。救世主という概念は古く、キリスト

教の影響を受けるかなり以前からインディアン神話のなかにあったが、消えゆく民族とし

て当時の苦境が絶望的であったので、こうした宗教観が広く受け入れられたのだろう。

結局、政府が介入し、奇妙な礼拝に終止符を打った。ジェームズ・ムーニー氏がこの興味

深い現象を調査し、また、実際に予言者を発見したが、彼は、南西部の人里離れた渓谷

に住む、非常に穏やかな神秘家であることが判明した。この若者は、(純粋なインディアン

の血をもっていて、キリスト教の影響を受けたとは思えないが)その生涯と理論において、

奇妙なほどキリストに類似している。彼は、キリスト教と同じく無抵抗および人類の兄弟愛

を説いた。この事件では、われわれの政府がローマの役割を果たしたことになる。以下の

歌は、踊りながら歌われたが、渦巻きのイメージのなかに、来るべき偉大な変化に関する

神秘的で高揚する瞑想を表現している。不必要だと思われる反復は、簡潔を旨として

省略した。



1 幻滅


子どもたちよ 最初 わたしが白人を好きだったとき

子どもたちよ 最初 わたしが白人を好きだったとき

わたしは 彼らに 果物をあげた

わたしは 彼らに 果物をあげた



2 恍惚


子どもたちよ わたしの子どもたちよ

風といっしょに 頭の羽が 歌う −

風といっしょに 頭の羽が 歌う

子どもたちよ わたしの子どもたちよ



3 精霊の働き


子どもたちよ わたしの子どもたちよ

教えられた者たちに 哀れみを授けよう

なぜなら 一生懸命に踊り続けているから

そう 父なる方が言う



4 驚異(友人の霊に出会った際に)


なんと 月の光が 煌こうとしているのだろう!

今夜は、わたしが バッファローの肉といっしょに 馬に乗る



5 たつ巻(変化の力)が語る


おれが 渦を巻く

地の果てから 果てへ

長い羽根を身につけて おれが飛ぶ



6 ヴィジョン


子どもたちよ わたしの子どもたちよ

ほら! 大地が動こうとしている

父なる方が そう言うのだ



7 精霊の喜び


わたしは 黄色で 飛びまわる

わたしは 頭に 野バラをつけて 飛ぶ

高く − ヘイ エイ エイ!



8 啓示


子どもたちよ わたしの子どもたちよ

わたしこそが 頭に 明けの明星を身につけている

それを 子どもたちに見せよう

と 父なる方が言う



9 精霊の苦悩


父よ 私を哀れんでください

父よ 私を哀れんでください

わたしは 渇きのあまり 泣き叫んでいます

すべてが失われました − わたしには 食べ物がありません



10 祈り


父よ 明けの明星よ!

父よ 明けの明星よ!

わたしたちを見守ってください 夜明けまで 踊り続けました

わたしたちに哀れみを − ハイ アイ アイ!





2012年4月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ダウン症の女流書家【金澤翔子】の活動とパソコン教室日記 より引用



「ことだま」 金澤翔子さん・書 写真は他のサイトより引用



「ことだま」という言葉の響きにずっとひかれていた。



言葉というものは体の中から外の世界へ吹きだされる風、その風に乗ってつむぎだされていく。



昔の人はこの言葉に霊力があると感じてたが、そのように捉える感性を私は忘れてしまってい

るように感じる。



言葉に霊力があるから、決して嘘をついてはいけない。



これはアイヌインディアン世界の先住民族に共通する捉え方だったように思う。



しかし、私から吐き出される言葉から嘘が時どき出てしまう。



相手のことを考えた「いい嘘」もあれば、そうでない「わるい嘘」もある。



金澤翔子さんが書いた「言霊」に接すると、本来の言葉のもつ霊力を感じ、立ち戻らなければ

と感じてしまう。



(K.K)



虹の戦士たちへ







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