「我が魂を聖地に埋めよ」上下巻

アメリカ・インディアン闘争史 ディー・ブラウン著

鈴木主税 訳 草思社 より


 






真のアメリカの歴史を綴った名著。栄光の西部開拓の裏で何が

行われたのかをこの本は暴露している。そこには人間とも思わ

れない白人によって繰り返されるインディアンへの虐殺の歴史が

緻密な記録をもとに描かれ、またどのような迫害にあっても白人

との共存を模索していた崇高なインディアン首長の姿を見ること

が出来るであろう。このインディアンの側から書かれた真の歴史

書は1970年に出版されたものであるが、アメリカという国で何が

行われ、かつ日本においてもアイヌや沖縄の人々に多くの屈辱を

与えてきた私たち文明人のもつ残虐性の正体を今こそ、自ら問

うことが出来なければ、この世界は永久に光を失うかもしれない。

(K.K)


 




これは、インディアンの側から19世紀後半のアメリカ西部の歴史

である。この半世紀の間に西部の開拓は完了したがそれは同時

にインディアン征服の完了とも重なっている。すなわち1890年の

ウーンデッド・ニーの虐殺をもってインディアンの組織的抵抗は

終わりをとげ、同時にフロンティアも消滅した。1860年からわず

か30年間にシャイアン、ユート、アパッチ、スー、コマンチ、ナヴ

ァホ、カイオワ、アラパホの各部族は次々と滅ぼされた。白人に

とって土着アメリカ人であるインディアンとは、開拓されるべき自

然の一部であり、物理的に排除されるべきものでしかなかった。

フロンティア開拓にまつわる神話をアメリカ史はほこりとしている。

だがそこに犠牲となったインディアンの声がきかれることはまれ

である。著者は条約会議でのインディアンの発言の速記録などを

もとに本書をかきあげた。彼らの言葉は雄弁であり、詩的でさえ

あり、そのいたましい歴史とともにわたしたちの心を打たずには

おかない。・・・・・・・・・・・・・・・・本書より引用


 
 


われわれが何者であり、何をやってきたのか、またそれはなぜなのか、

われわれはほうんとうには知らなかったのだ。(ニューズ・ウィークより)


その時何人の者が死んだか知らない。いま老年という高みから

ふりかえってみても、殺された女や子どもが曲がりくねった谷に

沿って積み重なり、散らばっていたありさまを、当時のまだ若か

った私の目が見たままに思い出すことができる。そして私は、

その時血に染まった泥の中で何かが死に、それは吹雪に埋も

れてしまったということがわかる。人びとの夢がそこで死んだの

だ。それは美しい夢だった・・・・・国をまとめていたたがが外

れ、すべてがばらばらになった。もはや中心というものがなくな

り、神聖な木は枯れてしまった。ブラック・エルク(本書より)


 


本書・上巻 訳者あとがきより引用


ハリウッド製西部劇で、つねにアンチ・ヒーローの役割を担わされてきた多くの酋長たち ---

たとえばキャップテン・ジャック(十章)、シッテング・ブルやクレージー・ホース(十二章)、機略

縦横の雄弁家ジョセフ酋長(十三章)、そしてつねに凶悪残忍な男として描かれてきたアパッチ

族最後の酋長ジェロニモ(十七章)など --- の言葉を、本書でじかに聞いてみるが良い。少な

くとも彼らは、条約あるいは交渉の相手となった白人と同じような、いやそれ以上の知力と明敏

さと、そして人間性をそなえていたのである。彼らと比較してみれば、サンド・クリークの虐殺を

指揮したシヴィングトン(四章)、いまだに悲劇のヒーローとして偽りの名声に包まれ、その名を冠

した記念公園まで残されているカスター(十二章)などは、傲慢で無知な、血に飢えた偏執狂とし

か思われない。もちろん、中には善意で道理をわきまえた白人もいないわけではない(四章の

トール・チーフ・ウィンクップ、九章のトム・ジェフォーズとジョン・クラム、十四章のホワイト・ハッ

ト・クラークなど)。だが、個々の白人の善意は、勃興期のアメリカ資本主義の金と土地への

飽くなき要求の前ではついに無力でしかなかった。真の自然保護論者たる土着アメリカ人や、

彼らの貴重な生活物資たる野牛とともに、それらの白人の善意はしょせんフロンティアの神話

をかざる片々たるエピソードとして消えていくほかなかったのである。ところで、新大陸にわり

こんできた白人のウソは、土着アメリカ人からその土地をまきあげるための方便として使わ

れただけではなかった。白人は、自分たちのおかした侵略、暴行、詐欺、虐殺を正当化する

ためにもウソという方便に頼った。つまり、おのれに都合の悪い事実を歴史から抹消したの

である。文字によって自分たちの歴史を記録することを知らなかったが、土着アメリカ人が

コロンブスに「発見される」以前から、アメリカ大陸に存在し、猛烈な収奪とジェノサイドにあっ

て数こそ少なくなったけれども、現在まで存在しつづけてきていることは事実である。だが、

著者も序文で指摘している通り、その彼らが公刊されたアメリカ史の舞台に登場することは

ほとんどなかった。アメリカの歴史の中では、彼らはあたかも存在しなかったかのように、

あっさり無視され、抹殺されてきたのである。そのことがどういう意味をもつのか、筆者には

ここでにわかに答える用意がない。ただ、いろいろなことが明らかになりつつある現在、アメ

リカ史というものをここであらためて考えなおしてみる必要があるのではないかと思うだけで

ある。白いアメリカ人によって書かれた、土着アメリカ人や黒人抜きのアメリカ史という壮大

なウソを、われわれはこれまで読まされてきた。 --- そう言ったら言いすぎであろうか? 

ともあれこの本は、反アメリカ史(本多勝一「アメリカ合衆国」)を語ることにより、自由と民主

主義の本家とされてきたアメリカ合衆国が、いまヴェトナムで暴露しつつある姿こそ、その

歴史をつらぬく本性であることをわれわれに教えてくれているのだ。


 


目次(上巻)

はじがき

1 「彼らの態度は礼儀正しく、非のうちどころがない」

2 ナヴァホ族の長い歩み

3 リトル・クローの戦い

4 シャイアン族に戦雲せまる

5 パウダー・リヴァー侵攻

6 レッド・クラウドの戦い

7 「良いインディアンは死んでいるインディアンだけだ」

8 ドネホガワの栄光と没落

9 コチーズとアパッチ族のゲリラ戦士

訳者あとがき


目次(下巻)

10 キャップテン・ジャックの試練

11 野牛を救うための戦い

12 ブラック・ヒルズをめぐる戦い

13 ネ・ペルセ族の逃避行

14 シャイアン族の大移動

15 スタンディング・ベアー、人間となる

16 「ユート族は立ち去らねばならぬ!」

17 最後のアパッチ族酋長

18 幽霊の踊り

19 ウーンデッド・ニー


 


アメリカ先住民(アメリカ・インディアン)の歴史


本書・上巻より以下、引用抜粋。


1「彼らの態度は礼儀正しく、非のうちどころがない」



「いまペクォート族はどこにいるのか? ナラガンシット族、モヒカン族、ポカノケット族、またかつて強力だった他の多くの

部族のわが同胞たちは、いまやどこにいるのか? 彼らは、白人の貪欲と弾圧にあい、さながら夏の太陽にあたった

雪のように消えてしまったのだ。こんどはわれら自身が、戦わずして破壊に身をゆだね、家を、偉大な精霊に与えられた

われらの土地を、死者の墓とわれらにとって貴重で神聖なすべてのものを、むざむざ明け渡してしまうのか? 私は、

おまえたちが私とともに、『断じてそうはさせぬ!』と叫ぶことを知っている。」・・・・ショーニー族 テクムシ



それはクリストファー・コロンブスとともにはじまった。彼こそが人びとにインディオの名を与えたのである。かのヨーロッパ人

たち、つまり白人は、それぞれ異なった言語を話し、その言葉をインディエン、インディアナー、あるいはインディアンと発音

した。ポー・ルージュ、すなわち赤い皮膚(レッド・スキン)という言葉は、それよりあとに生まれたものだった。異邦人を迎え

る時の習慣に従って、サン・サルヴァドル島のタイノー族は、コロンブスとその部下たちに贈物を捧げ、彼らをていちょうに

もてなした。



「これらの人々は非常に従順で、平和的であります」と、コロンブスはスペイン国王と王妃に書き送った。「陛下に誓って

申し上げますが、世界中でこれほど善良な民族は見あたらないほどです。彼らは隣人を自分と同じように愛し、その話し

ぶりはつねにやさしく穏やかで、微笑が絶えません。それに、彼らが裸だというのはたしかですが、その態度は礼儀正しく、

非のうちどころがないのです」



当然こうした事柄は、未開のしるしではないにしても、弱さのあらわれとして受けとられ、硬直なヨーロッパ人たるコロンブス

は、確信をもって、「これらの人びとが働き、耕し、必要なすべてのことをやり、われわれのやり方に従う」ようにしむける

べきだと考えた。その後の四世紀あまり(1492年から1890年)にわたって、数百万のヨーロッパ人とその子孫たちは、自分

たちの生き方
をこの新大陸の住民たちに押しつけようとしてきたのであった。



コロンブスは、自分をもてなしてくれた友好的なタイノー族十人を誘拐し、スペインにつれ帰り、そこで彼らに白人の生き方

を教えようとした。その一人はスペインに着いてからじきに死んだが、その前に洗礼を受けさせてキリスト教徒にすることは

できた。スペイン人は最初のインディアンを天国に送りこめたことを非常に喜び、急いでこの朗報を西インド諸島全体に

ひろめた。



タイノー族とアラワク族はヨーロッパの宗教に改宗することを拒まなかったが、ひげを生やした大勢の異邦人たちが黄金や

珍しい石を求めて自分たちの土地を物色しはじめた時には、強く抵抗した。スペイン人は略奪をほしいままにし、村を焼き

打ちした。さらに、多くの男や女や子どもたちを誘拐し、船積みしてヨーロッパに送り、奴隷として売りとばした。アラワク族

の抵抗は、相手をして銃やサーベルの力に訴えさせるという結果を招き、部族全体が雑滅させられた。こうして、1492年

12月12日にコロンブスがサン・サルヴァドル島の岸に足を踏み入れてからわずか十年たらずのうちに、数十万の人びとが

ほろんでしまったのである。



新大陸の各部族間の通信はおそく、ヨーロッパ人の蛮行のニュースの伝播は、新たなる征服と植民地建設の急速な

ひろがりにほとんど追いつかなかった。しかし、英語を話す白人が1607年にヴァージニアにやってくるよりずっと以前に、

ポーハタン族はスペイン人の文明的な手練手管についての噂を耳にしていた。だが、イギリス人はもっと手のこんだ方法

を用いた。ジェームズ・タウンに植民地を建設し終わるまで平和を確保しておくため、彼らはワフンソナクックの頭に金の

王冠をのせてポーハタン王に叙し、その部族の者たちを働かせて、白人植民地に食物を提供させることを説得させた。

ワフンソナクックは反抗を訴える臣下の声に耳を傾けようとする気持ちと、イギリス人との約束を守ろうとする意志との

板ばさみになって動揺したが、白人のジョン・ロルフが娘のポーハタンと結婚してからは、明らかに自分がインディアンより

も白人に近いのだと考えたようだ。ワフンソナクックが死ぬと、ポーハタン族は蜂起して復讐を叫び、イギリス人をもともと

彼らがやってkちあ海の彼方へ追い返そうとした。だがインディアンたちはイギリス人の武器の武力を過小評価していた。

たちまちのうちに八千人のポーハタン族は一千人たらずに減ってしまった。



マサチューセッツでは、事態はいくらかちがったかたちではじまったが、結末はヴァージニアとほとんど同じだった。1620年

にプリマスに上陸したイギリス人は、新大陸の友好的な原住民たちから援助を受けなかったならば、その大半が餓死して

しまったにちがいない。サマセットという名のペマクィド族の者と、それぞれがマサソイト、スクァント、ホボマという名の三人

のワンパノーグ族の者が使者を買ってでて、旧大陸を逃れた巡礼者(ピルグリム)たちのところにやってきた。彼らはいず

れもいくらか英語を解したが、それは以前に岸にたどり着いた何人かの探検家たちから学んだものだった。スクァントは

一人のイギリスの船乗りにさらわれ、スペインで奴隷として売られたが、別のイギリス人に助けられて逃亡し、やがて国に

帰ることができた。彼とその他のインディアンたちは、プリマスの植民者を救いがたい子どもだと見なしていた。そして

部族の貯えから穀物を分けてやり、どこでどうやって魚をつかまえたらよいかを教え、最初の冬を無事に切り抜けさせた。

春になると、インディアンは白人に穀物の種子を与え、それを撒き、耕作する方法を教えた。



数年のあいだ、これらのイギリス人とその隣人のインディアンたちは平和に暮らしていたが、さらに多くの白人が続々と

船に満載されて岸に着いた。斧のひびきと伐り倒される樹木の音は、いまや白人たちがニュー・イングランドと呼んでいる

その沿岸の土地全体にこだました。植民地はしだいに混みあって、白人がごったがえすようになった。1625年に、植民地

の何人かがサマセットにペマクィド族の土地をさらに1万2千エーカーだけ分けてくれと求めた。サマセットは、土地が偉大

な精霊から与えられ、それは空のように限りがなく、誰が所有するものでもないということを知っていた。しかし、これらの

異邦人たちを彼らの奇妙なやり方でからかってやろうと考えて、サマセットは土地を譲渡するための儀式をとり行い、紙に

自分のしるしをつけて相手に与えた。これこそは、イギリス人植民者に与えられたインディアンの土地の最初の譲渡証書

であった。



だが、いまや数千人にふくれあがった植民者の大半は、わざわざそのような儀式をとり行なう手間をはぶいた。1662年に

ワンパノーグ族の大酋長マサソイトが死んだ時には、その部族の者は荒野に押し出されていた。マサソイトの息子の

メタコムは、団結して侵入者に抵抗しないかぎり、すべてのインディアンの運命は暗たんたるものになると考えた。ニュー・

イングランドの植民者は、メタコムをポカノケットのフィリップ王に叙して、その歓心を買おうとしたが、彼はナラガンシット族

をはじめその地域の他の部族と同盟を結ぶために努力を重ねた。



1675年、植民者による一連の横暴な行動に腹をすえかねて、フィリップ王はインディアン連合軍をひきいて戦争をはじめ、

各部族を滅亡から救おうとした。インディアンは五十二の植民地を攻撃し、そのうち十二を完全に破壊したが、数ヶ月の

戦闘ののち、植民者の火力によってワンパノーグ族とナラガンシット族はほとんど絶滅するに至った。フィリップ王は殺さ

れ、彼の首はその後二十年にわたってプリマスの町でさらしものにされた。捕らえられたほかのインディアンの女や子ども

といっしょに、フィリップの妻と子どもは奴隷として西インド諸島に売られていった。



オランダ人がマンハッタン島にやってきた時、ペーテル・ミネウィットはその島を六十グルデン相当の釣針とガラス玉で買い

取ったが、インディアンたちにはそのまま居残るようにすすめ、彼らの高価な生皮や毛皮をがらくた同然の品物と交換し

つづけた。1641年、ウィレム・キーフトはモヒカン族に貢税を課し、ラリタン族をこらしめるためにスターテン島に兵を派遣

した。だが、非があったのはインディアンの側ではなく、白人植民者の方だった。ラリタン族は自分たちを捕らえようと

する相手に抵抗し、兵隊は四人のインディアンを殺した。インディアン側が四人のオランダ人を殺して、これに報復すると、

キーフトは二つの村の全住民を眠っているあいだに虐殺せよと命じた。オランダの兵士は、男や女や子どもたちに銃剣を

突き立て、その身体を切りきざみ、さらに村に火を放ってそこを平らにしてしまった。



さらに二世紀にわたり、白人植民者が内陸を目ざして、アレゲニー山脈の細道をたどり、西に流れる川にそって大いなる

沼地(ミズーリ)に到達する過程ではこれと同じような事件が何度もくり返された。



東部の部族のうちで最強かつ最も進んでいたイロクォイの五部族は、平和のために努力を重ねたが、それは徒労に

終わった。自らの政治的独立を維持するため、数年にわたって血を流しつづけたあと、彼らはついに敗北のうき目を

みた。一部はカナダに逃れ、また西に活路を求めた者もあり、さらに保留地の監禁状態の中で余生を長らえた者も

あった。



1760年代に、オッタワ族のポンティアックは五大湖地方の諸部族を結集し、イギリス人をアレゲニー山脈の彼方に追い

返そうとしたが、果たせなかった。彼の大きな失策はフランス語を話す白人と同盟を結んだことだった。フランス人たちは、

決定的なデトロイト包囲のさなかに、ポー・ルージュ(赤い皮膚・インディアン)にたいする援助をひきあげてしまったので

ある。



それから一世紀のちに、ショーニー族のテクムシは、中西部および南部の諸部族からなる大連合軍を組織し、自分たち

の土地を侵略から守ろうとした。その夢は、1812年戦争の戦闘でテクムシが死んだためにはかないものとなった。



1795年から1840年にかけて、マイアミ族は戦いにつぐ戦いに明け暮れ、何度も条約に調印しては、彼らの豊饒なオハイオ

渓谷の土地を譲り渡してゆき、最後には譲るべき土地が皆無になってしまった。



1812年戦争ののち、白人移住者がイリノイ地方に流れこんできた時、ソーク族とフォックス族はミシシッピー川を渡って

逃げた。小酋長の一人ブラック・ホーク(黒い鷲)は後退をがえんじなかった。彼はウィネバゴ族、ポタワトミ族、キカプー

族を同盟させて、新しい植民地にたいして宣戦を布告した。だが、ウィネバゴ族のある集団が、白人の兵隊酋長から

二十頭の馬と百ドルの金で買収されてブラック・ホークを裏切り、彼は1832年に捕われの身となった。彼は東部に運ばれ

て監禁され、公開されて人びとの好奇の目にさらされた。1838年にブラック・ホークが死ぬと、成立したばかりのアイオワ

准州の知事は、その頭蓋骨を手に入れて、自分の執務室に飾った。



1829年、インディアンたちからシャープ・ナイフ(鋭いナイフ)と呼ばれていたアンドリュー・ジャクソンが合衆国大統領に

就任した。辺境にあって活躍していた頃、シャープ・ナイフとsの配下の兵隊は数千人におよぶチェロキー、チカソー、

チョクトー、クリーク、セミノールの各部族に属するインディアンを殺したが、これらの南部のインディアンの数はなお多く、

白人との条約で永遠に自分たちのものとして割りあてられた土地にしっかりしがみついていた。議会に送った最初の

教書で、シャープ・ナイフは、これらのすべてのインディアンをミシシッピ川以南に移住させるよう勧告した。「私は、

ミシシッピー川の西の広大な地方を彼らに分けあたえ・・・・インディアン諸部族がそこにとどまるかぎり、その保有を

認めることを妥当だと考える」と。



そのような法を制定したところで、東部のインディアンにたいする約束不履行の実例の長いリストにさらに一例をつけ

加えるだけだったにもかかわらず、シャープ・ナイフはインディアンと白人がともに平和に暮らすことはできないと確信し、

自分の計画によって二度と破られることのない最後の約束がかわされると信じた。1830年5月28日、シャープ・ナイフの

勧告は法律となった。



2年後、彼は陸軍省内にインディアン総務局をつくり、委員を任命して、インディアンたちの運命を左右するこの新しい

法律の適切な運用をはかった。さらに1834年6月、議会はインディアン部族との交易と交渉を規制し、辺境に平和を維持

するための法律を通過させた。こうして合衆国のミシシッピー川以西で、「ミズーリおよびルイジアナ州、あるいはアーカン

ソウー准州に含まれない」すべての部分はインディアンの住むところとなるはずであった。いかなる白人も、許可なくして

インディアンの土地で交易を行うことは許されず、またいかなる白人もインディアンの土地への移住を許されないことに

なった。合衆国軍隊は、この法の規定を侵害したことがわかれば、いかなる白人をも逮捕するはずであった。



だが、これらの法律が効力をあらわす以前に、新たな白人移住者の波が西に押し寄せ、ウィスコンシンおよびアイオワ

准州が形成された。そのためにワシントンの政策立案者たちは、「永遠のインディアン国境」をミシシッピー川からさらに

西経95度線へと移す必要にせまられた(この線は、現在のミネソタ・カナダ国境のウッズ湖から、ミネソタおよびアイオワ

州をたち切って南進し、ミズーリ、アーカンソー、ルイジアナ諸州の西の境に沿ってテキサス州のガルヴェストン湾に

達する)。インディアンを95度線の彼方にとどめ、許可なしの白人にそこを越えさせないために、ミシシッピー川にのぞむ

スネリング砦から南にのびて、ミズーリ河畔のアトキンソンおよびリーヴェンワース砦、アーカンソー河畔のギブソンおよび

スミス砦、レッド川にのぞむタウソン砦、そしてルイジアナのジェサップ砦に至る一連の軍事拠点に兵士が駐屯した。



時に、クリストファー・コロンブスがサン・サルヴァドルに上陸してから3世紀あまり、イギリス人植民者がヴァージニアと

ニュー・イングランドにやってきてから2世紀以上が経過していた。この時までには、岸辺でコロンブスを歓迎した友好的な

タイノー族は、完全に抹殺されていた。タイノー族の最後の一人が死ぬよりはるか以前に、彼らの単純な農耕文化は破壊

され、奴隷の働く綿作農業がそれにとってかわっていた。白人植民者は熱帯の森林を伐りひらき、耕作面積をひろげて

いた。綿は土壌を疲弊させた。森林という防壁にさえぎられない風は、畑を砂漠でおおいつくした。はじめてこの島を目に

した時、コロンブスはそこを「非常に広く、まったく平らで、樹々はこの上なく青々としている・・・・全体が鮮やかな緑に

染められていて目に快い」場所として描いた。コロンブスのあとからやってきたヨーロッパ人は、その植物とそこに住む

もの・・・・人間、動物、鳥、魚・・・・を根こそぎほろぼし、そこを荒地に変えてしまうと、あっさり見捨ててしまったので

ある。



アメリカの本土では、マサソイトとフィリップ王のワンパノーグ族が、チェサピーク族、チカホミニ族、大ポーハタン連合の

ポトマック族ともども、すでに消滅していた(ただポカホンタスのみが記述されているだけだった)。ペクォート、モンタウク、

ナンティコーク、マチャプンガ、カタウバ、チェロー、マイアミ、ヒューロン、エリー、モホーク、セネカ、モヒカンの各部族は

四散し、わずかな生き残りを数えるのみとなった(アンカスの名だけが記憶されていた)。彼らの音楽的な名前はアメリカの

土地と結びついていつまでも残ったが、その屍は燃えつきたおびただしい村落の中で忘れられ、あるいは2千万の侵入者

がふるう斧のために急速に消滅してゆく森の中で失われた。そのほとんどがインディアンの名前を持ち、かつては甘い水

をたたえていた流れは、すでに沈泥と人間の廃棄物でにごっていた。そして大地そのものも荒らされ、酷使されていた。

インディアンの目には、それらのヨーロッパ人が自然のすべてのもの・・・・生きている森とそこに住む鳥やけもの、草の

生い茂った林間の空き地、土地、そして空気そのもの・・・・を憎んでいるかのようにうつった。



「永遠のインディアン国境」の制定につづく10年間は、東部の諸部族にとって悪い時期だった。大チェロキー族は、白人

との戦い、病気、ウィスキーの害をしのいで100年あまりも生きのびたが、いまや抹殺されようとしていた。チェロキー族は

数千の人口を擁していたので、彼らの西部への強制移住は段階的にゆっくりと実施される予定だったが、その土地に

アパラチアの金が発見されたため、ただちに大規模な移動が要求されるに至った。1838年秋、ウィンフィールド・スコット

将軍の指揮する軍隊は、チェロキーをかり集め、収容所に押しこんだ(2、300人がスモーキー山中に逃げこみ、何年も

のちにノース・カロライナに小さな保留地を与えられた)。その収容所から、彼らはインディアン居住地域をめざし、西に

向かって旅立った。冬の長い旅の途中で、チェロキーの4人に1人が、寒さや飢えや病気のために命を落とした。彼らは

その行進を「涙の旅」と呼んだ。チョクトー、チカソー、クリーク、セミノールの各部族も、その南部の故郷をあきらめた。

北部では、ショーニー、マイアミ、オッタワ、ヒューロン、デラウェア、そしてかつては強力だった他の多くの部族が、

みすぼらしい品物や錆びた農機具、穀物の種子の袋をたずさえて、歩いたり、馬や馬車に乗ったりして、ミシシッピー川

の彼方へと旅立っていった。彼らのすべてが、誇り高い自由な平原インディアンの土地に、まるでつてをもたぬ避難民

となってたどり着いたのである。



避難民たちが「永遠のインディアン国境」に守られて落ち着くか落ち着かぬかに、軍隊がインディアンの土地を通って西に

進撃しはじめた。合衆国の白人・・・・たびたび平和を口にするが、めったに平和を実現したことのない者たち・・・・は、

メキシコのインディアンを征服した白人との戦いにおもむいたのである。1847年にメキシコとの戦争が終わった時、合衆国

はテキサスからカリフォルニアに至る広大な領土を獲得していた。その土地のすべては、「永遠のインディアン国境」の

西にあった。



1848年、カリフォルニアに金が発見された。2、3ヶ月のうちに、ひと山あてようとする数千人の東部人がインディアン・

テリトリーを通っていった。サンタ・フェ・トレールやオレゴン・トレールにそった地域に住み、狩猟を行っていたインディアン

たちにとって、許可を得て交易者やわな猟師や伝道師を乗せて走る乗合馬車を時どき見かけるのは珍しいことでは

なかった。だが、突如として街道に馬車があふれるようになり、それらの馬車は白人を満載していた。その白人たちの

大半はカリフォルニアの金を目当てにしていたが、中には東西に方向を転じてニュー・メキシコに向かったり、北西に

針路をとってオレゴン地方を目ざしたりする者もいた。



こうした「永遠のインディアン国境」侵犯を正当化するために、ワシントンの政策立案者は明白な宿敵という考えをひねり

出し、その言葉によって領土拡張熱を至上の高みへとひきあげた。ヨーロッパ人とその子孫は、宿命的にアメリカ全土を

支配するよう定められている、彼らは優秀な民族であり、したがってインディアン・・・・その土地、その森林、その鉱物資源

を含めて・・・・にたいして責任がある、というわけだった。その土地のすべてのインディアンを抹殺し、あるいは駆逐して

しまったニュー・イングランド人だけが、マニフェスト・デスティニー(明白な宿命)の考えに反対した。



モドク、モハヴ、ペイユート、シャスタ、ユマの諸部族、さらに太平洋沿岸のおよそ100を数える他のあまり知られていない

部族は、その問題についてまったく相談を受けなかったが、カリフォルニアは1850年に合衆国の第31番目の州に昇格し

た。そしてコロラドの山中で金が発見されると、新たに投機師の大群が平原を越えてむらがった。新しく広大な2つの准州、

すなわちカンザスとネブラスカがつくられ、平原の各部族の領土のほとんど全部をそこに組み入れた。1858年にミネソタ州

が州に昇格し、その境界は「永遠のインディアン国境」なる95度線の彼方に100マイルもひろがった。



こうして、シャープ・ナイフ・アンドリュー・ジャクソンによってインディアンとの交易と交渉を規制する法律が制定されてから、

わずか4分の1世紀にして、白人の移住者は95度線の北と南の両面からこれをおかし、さらに白人の鉱山師や交易者の

先行分子はあえて中心部にまで浸透したのである。



1860年代初頭のその当時こそ、合衆国の白人がおたがいに戦争をはじめた時期だった。それは青色服(北軍)と灰色服

(南軍)の戦い、すなわち南北戦争である。1860年には、アメリカの各州と准州にはおよそ30万人のインディアンがいたと

考えられ、その大半はミシシッピー川の西に住んでいた。さまざまな推定によれば、その数は最初の移住者がヴァージニア

とニュー・イングランドにやってきた当時にくらべて、2分の1から3分の1に減少していた。生き残ったそれらのインディアン

たちは、いまや東部と太平洋沿岸で膨張をつづける白人人口・・・・3000万あまりのヨーロッパ人とその子孫たち・・・・に

はさまれ、圧迫されていた。残されていた自由な部族が、白人の内戦で自分たちの領土にたいする圧迫が多少なりとも

緩和するだろうと信じたならば、彼らはじきに幻滅の悲哀を味わうことになったのである。



西部で最も数が多くて強力な部族は、スーあるいはダコタであり、それはいくつかのより小さなグループに細分されて

いた。サンティー・スーはミネソタの森林地帯に住み、すでに多年にわたって植民地の膨張に押されて後退をつづけて

いた。ムデカウントン・サンティーのリトル・クロー(小さい馬)は、東部の諸都市を旅する機会を得て、合衆国の力には

抗しうべくもないと確信した。彼はしぶしぶ自分の部族を説得して、白人の進む道を明け渡した。別のサンティーの指導者

ワバシャも不可避の事実を受け入れたが、彼もリトル・クローもそれ以上自分たちの土地を譲り渡すことは何としても

反対する覚悟だった。



大平原の西のはずれには、全員が馬を乗りまわし、完全な自由を満喫していたテトン・スーがいた。彼らは白人移住者に

屈服した森林地帯に住むサンティーの従兄たちをいくらか軽蔑していた。いちばん数が多く、自分たちの土地を守るおのが

能力に最も自信をもっていたのは、オグララ・テトンだった。白人が南北戦争をはじめた当時、彼らの傑出した指導者は

38歳の俊敏な戦士団酋長、レッド・クラウド(赤い雲)だった。まだ若過ぎて戦士にはなれなかったが、クレージー・ホース

(狂った馬)は聡明で恐れを知らぬ10代のオグララだった。



アトン・スーの一分派であるフンクパパ族のあいだでは、20代半ばの一人の若者がすでに猟人かつ戦士として名声を

博していた。部族会議の際に、彼は白人のいかなる侵略にも断固として反対した。その名はタタンカ・ヨタンカ、すなわち

シッティング・ブル(すわった雄牛)であり、ゴールという名の孤児の少年の良き師であった。オグララ族のクレージー・

ホースとともに、彼は15年後の1876年に一つの歴史をつくることになった。



まだ40歳には間があったが、スポッテド・テイル(まだらの尾)はすでに、西部のはずれの平原に住むブリュレ・テトン族の

主たるスポークスマンとなっていた。スポッテド・テイルは男前の柔和なインディアンで、すばらしい宴会と従順な女がことの

ほか好きだった。彼は自分の生き方と住んでいる土地が気に入っていたが、戦争を避けるためには喜んで妥協するつもり

だった。



テトン・スーと近い関係にあったのは、シャイアン族だった。ずっと以前には、シャイアンはサンティー・スーのミネソタに

住んでいたが、しだいに西に移住して馬を乗りこなすようになった。いまでは北方シャイアン族はパウダー川とビッグホーン

地方をスー族と共有し、近くに野営することもしばしばだった。40代のダル・ナイフ(鋭いナイフ)がこの部族の北に住む

グループの傑出した指導者だった(自分の部族の中ではダル・ナイフはモーニング・スター(明けの明星)として知られて

いたが、スー族は彼をダル・ナイフと呼び、同時代の記述の多くもその名称を用いている)。



南方シャイアン族はプラット川にそって南下し、コロラドおよびカンザス平原に村をつくった。南方の分派のブラック・ケトル

(黒い釜)は、若くして偉大な戦士となった。中年の終わりに達した彼は公認の酋長だったが、サザーン・シャイアンの若者

やホタミタニオ(ドッグ・ソルジャー=戦士団の一つ)は、男ざかりのトール・ブル(背の高い雄牛)やロマン・ノーズ(ローマ人

の鼻)のような指導者に追随する気持が強かった。



アラパホ族はシャイアンの古くからの協力者で、同じ地域に住んでいた。そのうちのある者はノーザン・シャイアンと行動を

ともにし、他の者はサザーン・レイヴン(小さなワタリガラス)が、当時の最も良く知られた酋長だった。



カンザス・ネブラスカの野牛(バッファロー)棲息地の南にはカイオワ族がいた。カイオワ族の老人の中にはブラック・ヒルズ

をありありと思い出せる者もいたが、この部族はスー、シャイアン、アラパホの連合勢力に押され南下した。1860年までに

は、カイオワ族は北部平原の諸部族と平和な関係を保ち、コマンチ族と同盟を結んでいた。コマンチの支配する南部の

平原に、入りこんでいたのである。カイオワ族は数人の偉大な指導者を擁していた。年とった酋長サタンダとローン・ウルフ

(一匹狼)、聡明な政治家キッキング・バード(陽気な小鳥)などである。



たえず移動し、多くの小集団に分かれていたコマンチ族は、部族全体を統轄する指導者を持たなかった。きわめて高齢

のテン・ベアーズ(10匹の熊)は、戦士の酋長というよりは詩人だった。1860年には、のちにコマンチ族をひきいて、その

バッファロー棲息地を守るための最後の闘争をすることになる混血のクアナ・パーカーは、まだ20歳になっていなかった。



乾燥しきった南西部には、スペイン人を相手に250年にわたってゲリラ戦を展開してきた古強者のアパッチ族がいた。

スペイン人は彼らに手のこんだ拷問と四肢切断の技術を教えこんだが、ついにこの相手を屈服させることはできなかった。

・・・・おそらく6000人足らずのいくつかのバンドに分かれていた・・・・が、その荒涼たる自然の恵みに乏しい土地を頑強に

守ることにかけては、彼らはすでに定評があった。60代の終わりにさしかかったマンガス・コロラドは、合衆国の友好条約

に調印したが、その領土に鉱山師や兵隊が流入したことで、すでに白人に幻滅していた。その義理の息子のコチーズは、

なお白いアメリカ人とうまくやっていけるだろうと信じていた。ビクトリオとデルシャイは白い侵入者を信用せず、つねに

白人を敬遠していた。50代になっていたが、なお生皮のように丈夫だったナナは、英語を話す白人に、自分がそれまで

ずっと戦ってきたスペイン語を話すメキシコ人と似たようなものだと考えていた。20代のジェロニモは、まだその実力を

発揮していなかった。



ナヴァホ族はアパッチと関係があったが、ほとんどの者がスペインの白人の生き方を見習い、山羊や羊を飼育し、穀物

や果物を栽培していた。この部族には、牧夫または織工として富み栄えたバンドもあった。ほかのナヴァホ族はひきつづき

遊牧民として暮らし、旧敵のプエブロ族や白人移住あるいは自分たちの部族の裕福な者を襲った。口ひげを生やし、背が

高くて、がっしりした体格の家畜飼育者、マヌエリトがその大酋長だった。彼は1855年のナヴァホ族の選挙で選ばれたので

ある。1859年に、数人の無鉄砲なナヴァホがその領土にいた合衆国市民を襲った時、アメリカ陸軍は罪人を追及する

かわりに、ナヴァホ族の泥の小屋を破壊し、マヌエリトとそのバンドの成員の所有になるすべての家畜を射殺するという

やり方で報復した。1860年までには、マヌエリトとナヴァホ族の彼の追随者たちは、ニュー・メキシコ北部およびアリゾナに

おいて、合衆国を相手に宣戦布告なしの戦いをくりひろげていた。



アパッチ族とナヴァホ族の領土の北のロッキー山中には、攻撃的な部族で、その南に住むより平和的な隣人をとかく

襲撃したがるユート族がいた。最も良く知られたその指導者のウーレイは、白人とのあいだに平和な関係を結ぶことを

望み、傭兵となって他のインディアン部族にあたることさえ辞さないほどだった。



西部の果てに住む部族のほとんどは、あまりにも小さく、あまりにも細分化されているか弱すぎて、さほどの抵抗力を

持たなかった。カリフォルニア北部とオレゴンの南部にいたモドク族は、1000人足らずの勢力をもって、自分たちの土地

を守るためにゲリラ戦を展開していた。カリフォルニアの植民者からキャプテン・ジャックと呼ばれたヤントプッシュは、

1860年にはまだ一介の若者にすぎず、指導者として試練にぶつかるのはそれから12年後のことだった。



モドク族の北西に位置したネ・ペルセ族は、ルイスとクラークの探検隊が1805年にその領土を通って以来、白人と平和

関係を保って暮らしていた。1855年に、この部族に属するあるバンドが、ネ・ペルセ族の土地を合衆国に植民地として

譲渡し、大きな保留地の内部にとじこめられて暮らすことに同意した。部族のほかのバンドは、ひきつづきオレゴンの

ブルー・マウンテンとアイダホのビタールート山脈のあいだを徘徊していた。北西部は広大だったので、ネ・ペルセ族は、

いつでも白人とインディアンの双方が自分なりに適当だと考えたやり方で利用しうるだけの土地はあると信じていた。のち

にジョゼフ酋長として知られるヘインモット・トーヤラケットは、1877年に戦争か平和かをめぐって重大な決断に迫られる

ことになるが、1860年には彼はまだ20歳で、酋長の息子だった。



ペイユート族のネヴァダ地方では、のちに西部のインディアンにたいして、短期間ながら強力な影響力をおよぼすことに

なるウォヴォカという名の未来の救世主が、1860年にはまだわずか4歳だった。



このあとの30年のあいだに、これらの指導者たちとさらに多くの者が、歴史と伝説の舞台に登場することになった。

これらの人びとの名は、彼らをほろぼそうとした者たちの名前と同じように、やがて広く知られるようになったのである。

老若を問わず、彼らのほとんどが、1890年12月に傷つい膝(ウーンデッド・ニー)においてインディアンの自由が象徴的な

終わりを告げるよりずっと以前に、大地に埋もれてしまう運命にあった。それから1世紀をへだてた、この英雄不在の

時代にあっては、あるいは彼らこそがすべてのアメリカ人のうちで最も英雄的な存在なのかもしれない。









アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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