ワシントン連邦議事堂内にある帯状装飾のひとつ、「テクムセの死」


心に響く言葉

1996.11.10



Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)

 



ショーニー族の首長、テクムセ(テカムセ Tecumseh 1768-1813)

テクムセはインディアン最高の英雄の一人として上げられるほどの卓越した

勇気・指導力・慈愛を兼ね備えた人物として知られる。インディアンの多くの

英雄の中で、このテクムセはブラック・エルクと共に私自身に強く感銘を与

つづけている人物である。


 
 


朝起きたら、

太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、

感謝することだ。

どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、

それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。


ショーニー族の首長、テクムセ(1768-1813)の言葉

「インディアンの言葉」より引用


預言者ワバシャも「感謝」という項目の中で、次のように述べている。

”死”への恐怖 - これが、あなたの心に住み込まないような生き方を心掛けなさい。

朝、目が覚めたら真っ先に太陽の光に感謝しなさい。そして、生命と力に感謝しなさい。

今日も食べものがあり、生きるよろこびを感じることができることに感謝しなさい。・・・・・

もしも何も感謝するものがないように思える時は、自分にどこか間違ったところがあるも

のと思い、反省するがよい。食事をいただくたびに大霊に感謝しなさい。その一口分を

火に投げ入れて、「大霊よ、どうぞいっしょにお召し上がりください」と祈りなさい。


「レッドマンのこころ」 より引用


 
 


すべての人に敬う心を示しなさい。だからといって、ひれ伏してはいけない


「俺の心は大地とひとつだ」より引用


 
 


死の時を迎えながら胸の中に恐怖をいっぱい抱えこんでいる連中−−−−

そんな者の真似をしてはいけない。そいつらは往生際が悪く、めそめそ泣い

たり、違ったやり方で生きなおす時間が欲しいなどと祈ったりする。死出の

旅路の歌を歌いなさい。故郷に帰る英雄のように死ぬがいい。


「俺の心は大地とひとつだ」より引用


 
 


テクムセの高貴な精神性を垣間見させてくれるエピソードと彼の言葉・生涯


1812年の米英戦争、俗に言う「1812年戦争」において、米英双方がそれ

ぞれの捕虜の虐待を行っていた。その時、プロクター将軍の率いる英国軍に味方

をしていた大酋長のテクムセが、無抵抗の弱者をいじめるのは臆病者のすること

だと言って、制止しようとした。プロクターはこれが戦争というものの慣行だと

言って続行しようとした。するとテクムセは、では私とあなたとで一騎討ちをし

て、勝った方の考えに従おうではないかと迫った。これにはプロクターもあっさ

り引き下がったという。

「レッドマンのこころ」 より引用


1776年、テカムシが八才の時、アメリカ合衆国は英国に対して独立戦争を

始めた。英国はインディアンに彼等の土地を奪うことはしないと約束したので、

大多数のインディアンは英国側について戦った。ショウニー族も同様でアメリカ

軍に対して戦った。1780年にはテカムシは戦争が古ピクワに及び、アメリカ兵

らが彼等の家からショウニー族をおいたてようとして、火を放ち炎の中に村が

消えるのを見た。1781年、テカムシは初陣に参加した。ここでテカムシは兄が

傷ついているのを見て、恐怖におののき戦場から逃げ出した。その夜彼は自分

を臆病者と呼び、二度と恐怖は現わしはしないと誓い、その日限りでテカムシは

戦場には最後まで残って戦う男になった。独立戦争の終結とともに新しい開拓

者の群れが西武のインディアンの土地へぞくぞくとやって来た。彼等の数は日増

しに増え、北部のインディアンの土地はどんどん取られてしまった。ショウニー

族は彼等の狩りをする土地を守って開拓者を入れない様にと戦った。テカムシ

がわずか十五の時だった。彼はオハイオに運ばれてくる、開拓者の乗っていた

底の平たいボートを攻撃するショウニー族の一団に仲間入りした。この様な開拓

者のボートを攻撃した後で、ショウニー族が生け捕った捕虜を火あぶりにするの

を、テカムシは恐怖に震えながら見ていた。彼は白人を心から憎んだ。白人が

彼の一族に与えたのは苦しみだけだった。しかし彼は情を知り、無慈悲に相手

を苦しめるやり方には非常に気分を悪くした。突然彼は、年齢もその部族での

身分も気にかけず、奮然と立ち上がって年上の男達に、彼等のやった事は決し

て勇気のある行為でもなければ男のやる事でもない、「動物しかそんなむごい

事を無力な者にしない、人間のすべき行為ではない」と泣き叫んだ。年長の男

らは十五才の少年のこの言葉に恥を知らされた。テカムシはこの時自分の思っ

た事を、自分の言葉で話すと言う事がどんなに力を現わすかを始めて知った

のだ。これは人間を動かし歴史の歩みをかえる力強い武器ともなるであろう。

「三人の偉大なインディアン」より引用


 
 


テカムセはショーニー族の首長パクシンワを父に、クリーク族のメソタスケを母に

生まれ、父をダンモア戦争で、二人の兄をそれぞれアメリカ独立戦争とフォール

ン・ティンバーズの戦いで失った。こうした経験でテカムセは、家族の運命と、先

住民全体の運命を重ね合わせ、単独部族の反攻では、白人に抗し得ないという

主張を唱え始めた。1805年、ショーニー族預言者として知られるようになる弟

のテンスクワタワとともに彼は、飲酒やキリスト教信仰をはじめとする白人文化

の放棄と、先住民の伝統的習慣への回帰を説いた。1808年、彼らはインディ

アナ領地にさまざまな部族の数千の先住民が集住できるティペカヌーという集

落を拓いた。テカムセとテンスクワタワの先住民文化擁護の主張は、白人植民

の開始以来の先住民----白人関係の根幹を鋭くえぐっている。白人は先ず、

先住民が免疫力を失っている天然痘・麻疹・百日咳・インフルエンザなどの伝

染病の流行によって膨大な数の先住民人口を削減した。植民地期のニューイ

ングランド地方では、伝染病流行により先住民人口の5分の4が失われ、白人

入植のための「清掃」が済んだのである。さらに、白人商人が通商に際して持ち

込んだアルコール飲料は、先住民社会にとって新種の秩序撹乱の原因となり、

白人が推進した毛皮交易は、近代ヨーロッパ社会には自明であった営利欲を

先住民社会に育み、自然との共存という先住民社会の大原則を侵潤して、先

住民社会に破壊的影響を及ぼした。また、キリスト教信仰は先住民内の伝統

的な信仰に基づく人的結合関係や白人観に大きな影響を与えた。「白人は毒

蛇のようなものだ。冷厳に対せば弱々しくて害もないのに、甘やかして調子に

のせると、われら恩人に毒牙をむけるのだ」と1811年にテカムセはオーセー

ジ族に述べた。我々は、先住民----白人関係を機械的に衝突として捉えがち

であるが、若き日、白人教師から聖書・英語・歴史を学ぶとともに、白人との

戦争で家族を失ったテカムセは、経験から先住民間の部族の障壁を乗り越

えた連帯こそが、白人に先住民が対等に対峙する唯一の道であると判断し

た。彼は5大湖地方からメキシコ湾岸にいたる広大な地域の先住民部族を

歴訪し、先住民の大同団結により、アメリカ・イギリス・メキシコ勢力の間に、

先住民の緩衝地帯的独立空間を設置することを構想した。1812年米英戦

争が勃発するとテカムセはイギリスと同盟、2000名を超える先住民軍を率

いてデトロイトを包囲してアメリカ軍を降伏させた。翌13年にもテカムセは

アメリカ軍に大打撃を与えるが、イギリス軍との協調の乱れからカナダへ退

却を余儀なくされ、同年10月、テムズ川の戦いで夢半ばにして戦死すること

になる。テカムセによる先住民の大同団結の夢は、先住民が先住民として生

きることを目指していた。部族間の障壁を打破し、部族の個別意識を越えた

連帯の行方に、彼が具体的にどんなビジョンを抱いていたかは不明な点も多

い。しかし、テカムセは20世紀に入って、民族自決運動を支えるシンボル的

存在となるのである。


「ネイティブ・アメリカンの文学」より引用


 
 


アメリカ軍に対して各部族の大同団結の結束を呼びかけた時の彼の演説の

模様を紹介するが、テクムセは47歳の若さで悲劇的な最後を遂げることになる。

尚、この演説は1810−11年頃のものである。


兄弟たちよ・・・・わたしたちはみな、ひとつの家族だ。わたしたちはみな、偉大なる

精霊の子だ。わたしたちはおなじ道を歩いている。おなじ泉の水で、渇きをいやし

ている。そしていま、このうえなく重要なことがらを話しあうため、協議の火を囲ん

で、ひとつパイプをふかしているのだ。兄弟たちよ・・・・わたしたちはみな、友だ。

わたしたちはたがいの荷を背負い、助け合わなければならない。これまで、白人

の強欲を満たすため、父たち、兄たちの多くの血が水のように大地に流されてき

た。わたしたち自身もまた、大いなる邪悪の脅威にさらされている。赤い人間が

絶滅しないかぎり、彼らは静まらぬ。兄弟たちよ・・・・白人が、われらが大地には

じめて足を踏みいれたとき、彼らは飢えていた。毛布を広げる場所も、火をたく

場所もなかった。彼らは弱々しかった。ひとりではなにもできなかった。われらが

先祖たちは、彼らの苦痛をあわれみ、偉大なる精霊が赤い子供たちにくださった

ものを、惜しみなく彼らに分け与えた。ひもじいときには食べ物を、病めるときに

は薬を与え、眠るときには毛布を敷き、狩りをし、トウモロコシを育てるための土

地まで与えた。兄弟たちよ・・・・白人は毒蛇に似ている。寒いときには弱々しく、

害もないが、温まると元気になり、恩人に噛みつき、死に追いやる・・・・。兄弟た

ちよ・・・・白人はインディアンの友ではない。彼らは最初、ウィグワムを建てるに

足るだけの土地を望んだ。ところがいまは、日の昇るところから沈むところまで、

わたしたちが狩りをする大地すべてを手にいれなければ満足できなくなっている。

兄弟たちよ・・・・わが部族は勇敢だ。数も多い。だが、わが部族だけで立ち向か

うには、白人はあまりに手ごわい。どうかわが部族とともに、トマホークを手にして

ほしい。わたしたちがひとつになれば、大河の流れを、彼らの血で赤く染めるこ

とができるだろう。兄弟たちよ・・・・わたしたちがひとつにならないかぎり、彼らは

まず、わが部族を滅ぼすだろう。そしてつぎには、あなたたちが、いともたやすく

餌食になる。彼らはいくつもの、赤い人間の部族を滅ぼしてきた。なぜなら、赤い

人間は団結していなかったからだ。友人同士でなかったからだ。兄弟たちよ・・・・

わたしたちは団結せねばならない。同じパイプをふかさねばならない。たがいの

戦いをおのれの戦いとせねばならない。そしてなによりも、偉大なる精霊を愛さ

ねばならない。精霊はわたしたちとともにある。精霊はわれらが敵を滅ぼし、赤

い子供たちを幸福にするだろう。


「ネイティヴ・アメリカン 写真で綴る北アメリカ先住民史」より引用



「今、ペクォート族はいずこにありや。ナラガンセット、モヒガン、ポカネット、その他の

強力な部族のかずかずは、今いずこにありや。白人の貪欲と抑圧の前に、あたかも

夏の日を受けた雪のごとく消えてしまった。われわれは、民族としてロクな努力もする

ことなく、こんどは自分たちの番だと、破壊させられるにまかせるというのか。偉大な

る精霊によって贈られたわれわれの家、われわれの山河を、闘うこともなしに放棄し

てもよいというのか。われわれの先祖のをはじめ、われわれにとって大切な聖なるもの

全てを放棄してよいというのか。諸君は私と共に叫ぶに違いない・・・いや、断じて、

断じて、そうはさせぬ!と。」


「アメリカインディアン悲史」 より引用


 
 





 


傑出した指導者・テクムシ 「この大地、わが大地 アメリカ・インディアン抵抗史」より引用


インディアンの全指導者のうち、もっとも傑出していたのはテクムシだろう。彼はスーの領地にいたる

旧北西部の全部族を団結させて、白人侵入者への抵抗に努力した。ショーニー族を父に、クリーク族

を母にもったテクムシは、父を白人のフロンティア人の銃弾で失い、のちには二人の弟を白人との戦

闘で失うという悲運を味わった。しかし、30代には白人女性レベッカ・ギャロウェーと親しくなった。レ

ベッカはテクムシに聖書やシェークスピア、ギリシャ古典を読んできかせた。テクムシは彼女に求婚

した。レベッカは彼がインディアンとしての生活をやめ、白人としてくらすなら求婚に応じると答えた。

彼はしばらく考えたあと、レベッカのつけた条件を拒んだ。二人は別れた。


テクムシの描いた大きな夢、それは諸部族が連合戦線をつくり、白人の膨張に抵抗して土地を守る

ということだった。彼は勇敢な戦士であると同時に、すぐれた演説家だった。団結と抵抗を説く彼に、

多くの若者が心を動かされ、彼を支持した。


「ピークォート族はいまいずこ。ナラガンシット、モヒカン、ポカノブシット、その他、かつて勢威を誇った

あまたの同胞は、いま、どこに行ってしまったのか。われらが同胞は白人の強欲と抑圧によって消滅

したのだ。夏の太陽に雪が溶けさせるように。」


「われらもまた、白人と一線を交えずに解体してもよいのだろうか。われらが家々、偉大な精霊が恵み

給いしわれらが大地、いとしく神聖なわれらが同胞の墓、これらいっさいを奪われることを許してよいの

だろうか。共に叫ぼう、否、断じて否、と。」


このテクムシを助けた弟は、かつてはどうしようもない呑んだくれだったが、酒呑みの苦しみと禁酒家の

純粋で健康な生活を対比した啓示を夢でみて、心を入れかえた人物である。彼は「開いた扉」を意味す

る「テンスクワタワ」という名を自分につけた。「ショーニーの予言者」とも呼ばれていた。


テクムシとテンスクワタワは、若いインディアンを諸部族から集めることに成功した。インディアンの団結

に白人たちは驚き、のちに大統領になったウィリアム・ヘンリー・ハリソン将軍は、テンスクワタワに、奇跡

をおこして真の予言者であることを証明せよと迫った。イギリスの商人が語ったと伝えられるが、その商

人は1806年6月16日11時32分に、皆既日食がおこるだろうと予言者テンスクワタワが語った。テンスクワ

タワは太陽に「指示して」、そのとおり、11時32分に日食がおこった。インディアンはもとより、多くの白人

たちも予言の正確さに仰天した。それからというもの、テクムシ、テンスクワタワ兄弟の勢威はいっそう

強大なものになっていった。


ハリソン将軍のインディアン観は「最低の生き物」「どうしようもない酔っぱらい」というものだった。彼は

現在のインディアナ州の土地300万エーカーをインディアンから手に入れた。年をとり、気も弱くなってい

た首長たちに酒を呑ませ、さんざんおどし、一時金7000ドル、年賦1750ドルという条件を認めさせたの

である。しかしテクムセたちはこの条約は拘束力をもたない、自分たちは首長が売渡した土地に住みつ

づける、もし白人たちが追いだそうとするなら抵抗してたたかうと宣言した。1000人をこえる戦士がティペ

カヌーの村に集結した。テクムシとテンスクワタウはウォバッシュ川をカヌーで下り、ヴィンセンでハリソン

将軍と会見した。


テクムシはハリソンにこう語った。「どの部族にも他の部族に土地を売る権利はない。いわんや、あらゆ

るものを手に入れたがる他所者に土地を売る権利など、どの部族にもないのだ。・・・・土地を売る? も

し土地を売るなら、大気や雲や大洋もなぜ売らないのか。土地、大気、雲、大洋など偉大な精霊がその

子たちに使わせるためにおつくりになったのではないのか。白人たちを信用する手だてが果たしてわれ

われにあるのだろうか。イエス・キリストが地上に現れたときに、白人は彼を殺し、十字架にかけたでは

ないか。彼は死んだとあなたたち白人は考えた。しかしまちがっていた。」


こう告げたあと、テクムシは長椅子にハリソンと並んで座った。そして身体をハリソンにずんずんおし

つけていった。ハリソンは、もうこれ以上押されると椅子から落ちてしまうと文句をいった。テクムシは

笑っていった。そうだ、これこそ、白人がインディアンにしていることなのだ、と。


しかしハリソンはテクムシのように考えなかったのである。そのことはインディアナ准州議会での彼の

問いにあらわれている。「この地球のもっともよい場所のひとつを、自然のままに放っておき、僅かば

かりの下等な野蛮人の巣にしておいてよいのか。たくさんの人がくらせ、文明、学術、真の宗教の栄

える地たるように神がお定めになっている地を、このままにしておいてよいのか。」 むろん彼が期待

していた問いへの答えは「否」であった。


1811年11月、ハリソンは軍隊を率いてティペカヌーに向かった。テクムシは南部諸部族の支持を求め

にいっていて留守だった。テンスクワタワは先制攻撃をかけることに決めた。しかしインディアン軍は

敗北し、ハリソン軍はティペカヌーを焼き払った。のちに大統領選挙に出馬したハリソンの選挙スロー

ガンは「ティペカヌーの一戦のように対立候補タイラーをうちのめせ」だった。


テクムシが戻ったのは惨敗のあとだった。弟テンスクワタワの行為に怒って放逐した。以後、テンスク

ワタワは西部インディアンの諸部族をさまよい歩くしかなかった。ティペカヌーの戦い以後、インディアン

の抵抗は小さな部隊がばらばらに白人を攻撃するという形をとるようになった。多くの白人が殺された

り、土地を追われたりした。そしてインディアンの背後にはイギリスがあると米国側は考えた。これは

1812年の米英戦争の原因のひとつとなった。米英戦争はナポレオン対イギリス、スペイン、ロシアの

大戦争の一環としてたたかわれた戦争である。


テクムシのインディアン連合は、カナダに本拠をもつイギリスと同盟を結んでいた。イギリスとインディアン

の同盟軍はいくつかの戦闘で大勝利を収め、デトロイトを占領したりもしたが、イギリスは陸海軍の主力

をスペインにふりむけていた。増援部隊を北米にまわす余力はなかった。カナダにきた将校の多くは無能

な連中だった。やがてイギリス軍は撤退を余儀なくされる。テームズ川の戦いで、テクムシは後衛の任に

当ったが、米国軍の狙撃の的になり、何発も身体に弾丸をうけた。彼は耐えて部下を励ましたが、ついに

倒れて死んだ。部下は遺体を収容して埋めた。いまではどこに埋められたかを知る人はいない。その後

しばらくの間、米国人はテクムシが生きているのではないかと恐れつづけた。当時の米国人ですら、テク

ムシの偉大な構想と勇気、人間性に敬意を払っていた。彼は捕虜の拷問、殺害を許さなかったし、米国

人がインディアンの頭皮を剥いでも、部下が同じことをするのを禁じた。彼の死、そして米英戦争における

イギリスの敗北の結果、インディアンが米国人に一致して抵抗する機会は消滅した。


 


最後の野生インディアン「イシ」

真実のポカホンタス




2013年3月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。





(大きな画像)


フランス・アレシアで3月13日に撮られたパンスターズ彗星(写真はNASAより引用)



アレシアは、紀元前52年のローマ軍とケルトのガリア族との戦いの場所で、現在はアリーズ・サント・レーヌ

と呼ばれています。



ローマ軍との戦いに敗れたガリア族の指導者ヴィルサンジェトリクスは、他のガリア人たちの助命を願い、

ただ一人カエサルの前に投降しました。彼はローマに連行され6年後に処刑されますが、19世紀フランス

皇帝ナポレオン三世がアレシアの遺跡を発掘し、この丘にヴィルサンジェトリクスの像を建てることになり

ます。



20歳前後で族長になったヴィルサンジェトリクスは、ガリア諸部族(ガリア人[ガリアのケルト人]諸部族)を、

対ローマ統一部隊としてまとめ上げた優れた指導者であり、近代まではフランス最初の英雄、ガリア解放の

英雄とされていました。



ジャンヌ・ダルク、インディアンのテクムセ(テカムシ)、日本の天草四郎を思い起こさせます。






A Koskimo house

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


ワタリガラスの伝説

「森と氷河と鯨」星野道夫 文・写真 世界文化社 より引用。


今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと

聞くのだ。たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の

話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか。ワタリガラスがこの世界に森

をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の

中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚た

ちもじっと動くことはなかったのだ。ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中

から大きな火の玉が上がってきた。ワタリガラスはじっと見つめていた。すると

一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。彼の嘴は素晴らしく長く、それは

一羽のタカだった。タカは実に速く飛ぶ。「力を貸してくれ」 通り過ぎてゆく

タカにワタリガラスは聞いた。あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れ

なければならなかった。「力を貸してくれ」 三度目にワタリガラスが聞いた

時、タカはやっと振り向いた。「何をしたらいいの」 「あの炎をとってきて欲し

いのだ」 「どうやって?」 ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくる

と、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。「あの火の玉に近づいたなら、

頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」 若者は地上を離れ、ワタ

リガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続け

た。炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫

んでいたのだ。ワタリガラスは言った。「人々のために苦しむのだ。この世

を救うために炎を持ち帰るのだ」 やがて若者の顔は炎に包まれ始めた

が、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れ

た。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動き

だし、森の木々も伸びていった。それがわたしがおまえたちに残したい

物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを

見つめている。そのことを忘れるな。これからの時代が大きく変わってゆ

くだろう。だが、森だけは守ってゆかなければならない。森はわたしたち

にあらゆることを教えてくれるからだ。わたしがこの世を去る日がもうすぐ

やって来る、だからしっかり聞いておくのだ。これはわたしたちにとって

とても大切な物語なのだから。


(クリンギットインディアンの古老、オースティン・ハモンドが1989年、死ぬ

数日前に、クリンギット族の物語を伝承してゆくボブをはじめとする何人

かの若者たちに託した神話だった。この古老の最後の声を、ボブはテー

プレコーダーに記録したのだ。








夜明けの詩(厚木市からの光景)

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像

心に響く言葉

天空の果実