「イシ」北米最後の野生インディアン
シオドーラ・クローバー著 行方昭夫 訳 岩波書店 より引用
アメリカ・インディアンのヤナ族は3千人いたと推測されているが、 その多くが白人の虐殺により死に絶えていたと思われていた。しかし、 1911年8月29日、一人の飢餓寸前の老インディアンが捕らえられる。 この男こそヤナ族最後のインディアンの「イシ」だった。イシは家族数 名と共に虐殺から逃れ山中に逃げ込むが、測量のために入っていきた 白人に見つかり、ばらばらとなる。恐らくイシ以外の者はなんらかの 理由で死に、イシは五年間も孤独な一人だけの生活を続けるのだが 彼の行動範囲はますます狭くなり、その日の糧を得ることも難しかっ たのだろうと思われる。この著書はイシの部族ヤナ族が如何にして 白人達の虐殺に会ってきたかを歴史的資料を駆使して再現したもの であると共に、イシが保護され死に至るまでのカリフォルニア大学博 物館の良き理解者の下で過ごした数年間の彼の人生を綴っている。 尚、著者の娘であるル=グウィンは有名なファンタジー「ゲド戦記」を 書いた人であり、そこにはインディアンやユングの考え方がちりばめ られている。
「そのようにして、我慢強く何も恐れずに、アメリカ最後の野生インディ アンはこの世を去った。彼は歴史の一幕を閉じる。彼は文明人を知恵 の進んだ子供---頭はいいが賢くはない者と見ていた。われわれは多 くのことを知ったが、その中の多くは偽りであった。イシは常に真実で ある自然を知っていた。彼の性格は永遠に続くものであった。親切で、 勇気があり、自制心も強かった。そして彼はすべてを奪われたにも拘ら ず、その心にはうらみはなかった。彼の魂は子供のそれであり、彼の精 神は哲学者のそれであった。・・・・・・・・・・サクストン・ホープ
ホープはカリフォルニア大学医学部の教師であり、イシと親交があった。 またイシが現代文明に生きる人々を見て、新しいものを創る知性には 長けているものの、精神的には子供であると言った言葉が忘れられない。 (K.K)
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2011年12月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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目次 序文 「イシ」再版に寄せて U・K・ル=グウィン 第一部 ヤヒ族イシ プロローグ 畜殺場のほとり 第一章 黄金の国の銅色の人々 第二章 生きている種族 第三章 死に瀕した種族 第四章 全滅のエピソード 第五章 長い潜伏 第六章 ヤヒ族の消滅
第二部 ミスター・イシ プロローグ 刑務所のほとり 第七章 イシの新しい世界 第八章 博物館での生活 第九章 器用な人 第十章 最良の年 エピローグ 博物館での死
感謝の言葉 シオドーラ・クローバー 訳者あとがき 行方昭夫
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1911年保護されたときのイシだが、発見当時つけていた首からかけていた装飾品 など写っておらず、白い下着は連れて行かれた警察で着せられたものと思われる。 |
From the left: Sam Batwi (Northern/Central Yana Indian), Dr. A.L. Kroeber
(University of California Anthropologist) 右端がイシで、中央がイシを保護し親交があったクローバー博士(保護された1911年に撮影)
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私の父で人類学者のアルフレッド・クローバーは、イシをもっとも親しく知っていた人物の 一人であったけれど、イシの物語を執筆するのを望まなかった。その理由はよくは知らな ない。父が私たち子供にイシの物語をしたという記憶はない。イシのことを初めて耳にし たのは、両親が父の同僚で以前からイシについての資料を集めていたロバート・ハイツ ァーと伝記執筆の相談を始めた時だった。どうして父がイシのことを口にしたがらなかっ たか、私には想像がつくような気がする。一番大きな理由は心の痛みであろう。1900 年にカリフォルニアにやってきた父は、無数のインディアンの部族や個人が破滅させられ 殺されるのを目撃せねばならなかったに違いない。カリフォルニア原住民の言語、暮らし 方、知恵などについての情報を、大量殺戮が完了する以前に、少しでも多く蒐集すると いうのが、何年にもわたる父の仕事であり、このため父は殺戮の目撃者となったのだ。 ナチによるユダヤ人大量虐殺に等しいインディアン撲滅の生き残りであるイシは、父の 親しい友人かつ教師となった。それなのにそれから僅か5年後に結核・・・・これまた白 人からインディアンへの死の贈物である・・・・で死亡する。どれほどの悲しみや怒りや 責任感に父は悩んでいたことだろう! イシの遺体を解剖するという話があった時、父 が「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ、と私の代りに 言ってやりなさい。われわれは自分らの友人の味方でありたいと思います」と記したこと で、父の苦悩は理解できる。イシの死後40年経っても、イシの物語を語ろうとする試み るならば、あのやり場のない怒りがこみ上げてくる・・・・父はそのように信じていたのか も知れない。実際にイシの物語を書くことになったのは、私の母シオドーラ・クローバー であった。母はイシにじかに会ったことがないので、父の味わった激しい感情を直接感 じなくて済んだのだ。執筆中、母は父の助力を仰いでいたが、本の出版を見ずに父は 他界した。カリフォルニア征服の身の毛のよだつ物語を語り、人間が「文明、進歩、明白 な天命」の美名のもとに行なう悪事を再確認するというのは、母にとって困難で時間を 要する仕事であった。しかし母は、ひるむことなく、客観性を重んじ、しかも深い共感を こめてイシの物語を語った。イシその人も母の仕事に協力したと思う。彼の寛大で聡明 な精神が暗い道を進む母の行く手を明るく照らしてくれたのであろう。本書の読者にも イシは同じようなことをしてくれていると思う。「イシ」はベストセラーとなり、今では万人の 書となっている。本書が力となって、アメリカ西部史に関する人びとの考え方は変化した し、また、一個のヒューマン・ドキュメントとして無数の読者を感動させてきた。「イシ」を 世に送ってから亡くなるまで、母のもとには読者から感謝の手紙が届いたが、そのほと んどすべてに「読んで泣きました・・・・」と記されていた。それは理不尽な殺戮への恥の 涙というだけでなく、悲惨さの中で美しいものに出会った喜びの涙だと思う。
イシの足は“幅広で頑丈、足の指は真直ぐできれいで、縦および横のそり具合は完璧で” あった。注意深い歩き方は優美で、“一歩一歩は慎重に踏み出され・・・・まるで地面の 上をすべるように足が動く”のであった。この足取りは侵略者がはいた足で、どしんどしん に歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせ ながら軽やかに進む歩き方だ。イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ残した足跡は ・・・・もしそれに注目しようとしさえすれば・・・・おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に 悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えてくれることだろう
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「伝説のアメリカン・ヒーロー」西江雅之著 岩波書店より引用
1915年3月25日、イシは結核で死んだ。数ヶ月前から体調を崩し、種々の手当を受け、 一時は回復に向かったが、その甲斐もなく、野生の人、イシはこの世から消えた。文明の 世界での生活は、3年半あまりであった。イシの最期が近くなった時、クローバー教授は 出張中であった。その旅先から、彼は博物館に手紙を書いている。「もし、イシが死ぬよ うなことがあったならば、できる限りイシの世界での風習通りに葬儀を行うように。学問の 名を借りての遺体処理、解剖などは決してさせないように。そんな学問は犬にでも食われ てしまったほうがよいのです。責任は、すべて私が持つようにします」 イシは死んだ。遺体 は最後のヤヒ人として、弓矢、ドングリの籠、貝殻のビーズ等、数少ない遺品と共に火葬 にされた。その煙は、高く高くアメリカの空に昇り、そして消えた。
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「風のささやきを聴け」チーワ・ジェームズ編 ハーディング・祥子訳 めるくまーるより引用
1911年、アメリカ最後の野生インディアンであるヤヒ族のイシは、先史時代の世界 からひょっこり現われ、ぎょっとするよぅな、刺激的で途方もない、新しい世界に出く わした。彼の死から五年たって、友人であるサクストン・ポープ博士はこう語った。
彼の目には、我々は小賢しい子ども。 要領はいいが、知恵がない。 我々はたくさんのことを知っているが、その多くはまちがっている。 彼はつねに真実である自然を知っていた。 彼が知っていたのは、永遠に変わらない性質のもの。 彼はやさしかった。 勇気と自制心をもっていて、 何もかも取りあげられても、うらむこともなく 子どもの心と、哲学者の精神をもっていた。
サクストン・ポープ博士
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河合隼雄著「ナバホへの旅 たましいの風景」朝日新聞社より引用
アンダーソンさんの話を聴きながら、私は「ゲド戦記」のことを思い出していた。大切な ことを論理的、合理的に説明したり伝えたりできないときに、文学はそれを可能にして くれる。ひとつの作品を読みすすんでゆくうちに、大切なことが伝わってくる。ナバホ (のみならず、アメリカ先住民)のメディスンマンたちのしていることの本質を知りたいの なら、むしろ、ル=グウィンの「ゲド戦記」を読むのが一番だと言いたい。この「ゲド戦 記」(全4巻)の第1巻「影との戦い」の邦訳が出版されたのが1976年である。私はそ の直前に「影の現象学」という書物を出版したところだったので、その題名に惹かれ て読んだのだが、深い感動を味わった。著者がユングの考えを踏まえているだろうと は思ったが、それよりも心を打たれたのは、この書物がキリスト教を離れ、東洋思想、 特に老荘の思想に裏打ちされて書かれていると感じたことであった。ここまで東洋思 想を自分のものにして児童文学のファンタジーとして作品を生み出すのは並大抵の ことではない、と思ったのである。ところで、最初私が老荘をベースにしていると感じ たことは、実はアメリカ先住民の知恵だったのである。私が「ゲド戦記」をあまりにも 好きになり、誰彼なしにすすめていたとき、鶴見俊輔さんにもすすめたが、鶴見さん も大いに感激され、「あれは素晴らしい、あの素晴らしさの秘密は“イシ”ですよ」と 言われたことが印象に残っている。「イシ」はお読みになった人も多いことだろう。 「イシ」は、この書物の副題「北米最後の野生インディアン」の名前である。白人に 侵略され、隠れて何とか生きのびていたヤナ族の最後の一人として、イシは1911 年8月にひょっこりと白人の前に姿を現す。その彼を引き取り、深い親交を結んだ文 化人類学者、アルフレッド・クローバーは、アーシュラ・ル=グウィンの父親であり、 イシに関する記録をまとめ、書物として出版したのは、彼女の母親、シオドーラ・クロ ーバーである。つまり「ゲド戦記」の著者は当時としては珍しく、「アメリカ・インディア ン」の深い知恵を尊敬の念をもって吸収できる立場にあったのだ。そして、その知 恵はまさに老荘に通じるものがあるので、当時これらのいきさつを知らずに書物を 読んだ私は、これは老荘だと感じたわけである。もちろん、ル=グウィンは老荘に ついても造詣が深いので、私の第一印象もまったく的外れだったわけではないが。 ところで「ゲド戦記」には、ゲドという若者が修行をして「魔法使い」になってゆく過程 が語られている。この魔法使いはファンタジーの世界でのことだが、その本質は メディスンマンと同じと言っていいだろう。つまり、著者はおそらく両親から「イシ」 のことを詳しく聞いたことだろうし、メディスンマンのことも、当時の一般の人たち のように「迷信」とか「異常」とかの偏見なしに知ることができたのに違いない。そ して、その本質を一般人に伝えるにはファンタジーという作品にするのが最適と 考えたのだろう。メディスンマンのことを知りたい人は、ぜひ「ゲド戦記」を読んで いただきたい。ゲドは魔法使いになるために、薬草のことや、呪文、歌、いろいろ なことを学習してゆくのだが、これらの過程はメディスンマンの修行そのままと言っ ていいだろう。ところで、そのなかに次のような一節がある。ゲドが大魔法使いオ ジオンの弟子にしてもらい、彼の家までともに旅をする。ゲドは旅の途中でもいろ いろ教えてもらうことがあろうと期待するが、期待に反してオジオンは何も教えな い。しびれを切らして、とうとうゲドは「修行はいつになったら始まるんだね?」と 訊く。「もう始まっておるわ」というのがオジオンの答えであった。それにしてはま だ何も教わっていないとゲドは訝るが、オジオンは「それはわしが教えておるもの が、まだ、そなたにわからないだけのことよ」と言う。あるときオジオンは、「聞こう というなら、静かにしていなくては」とも言う。アンダーソンさんと話し合っていると き、私がこれらのことをはっきり思い出せたら、もう少し質問を差し控えたことだろ う。魔法使いは風を呼んだり雨を呼んだりする術を習う。しかし、それはよほどの ことがない限り使ってはならないのだ。指導者は弟子たちを戒めて、どこかにうっ かり雨を降らせると、他の場所の旱魃を引き起こす原因になるかもしれぬ、「東 海域におだやかな天気をもたらせば、それと気づかず、西海域に嵐と破壊を呼ぶ ことにもなりかねないのだ」と説く。そして、結局のところ大魔法使いになればな るほど、何もしなくなってゆくのだ。このような考えの根本に均衡と調和の論理が あることは、誰しも気づくことだろう。大宇宙の均衡に身をまかせるとき、人はだん だん無為に近づくだろう。これはアメリカ先住民の知恵だったのだ。ナバホではそ のことを、前にも述べたように「ホッジョー」ということばで表している。
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「この大地、わが大地 アメリカ・インディアン抵抗史」、「化石としてのインディアン」より引用
1911年8月のある暑い朝のこと、カリフォルニア北部のオローヴィルで一人の不審な男が みつかった。男は畜殺場の外で犬に囲まれ、脅えていたところを発見されたのである。地 元の保安官は犬を追い払い男を逮捕した。男はインディアンであり、喪に服しているという 印に髪の毛を焼いていた。英語もスペイン語もわからず、オローヴィルの牢獄に諦めきっ た表情で座っていた。彼は射殺されるかリンチにあるかどっちかだと思っていたらしい。半 世紀前ならそれがインディアンの運命なのだから。しかし時代は変わっていた。19世紀最 大の皆殺しのおこった北カリフォルニアでも、「野生」のインディアンは珍しがられ、ある種 の同情も買いもした。保安官は捕らえたインディアンに食糧を与え、カリフォルニア大学の 文化人類学者で、この州のインディアンの専門家であるアルフレッド・クローバーの到着を 待っていた。
やってきたクローバーは、やさしい態度で身ぶりや絵を使って事こまかに質問した。その 結果信じられないような事実が判明した。インディアンはヤナ部族の南方の一氏族ヤヒ の一員だった。ヤナ部族は1870年代におこった大規模な掃討作戦で全滅したと考えられ ていたが、そうではなかった。クローバーと男の間がうちとけてくるにつれて、男はびっくり するような物語を話しはじめた。男は自分のことを「イシ」(人間)と呼んでいた。自分の名 を口にするのはタブーだったからだ。イシは7人のヤヒの一員として育った。彼が子供の ころの1870年代はじめの虐殺で、ヤヒは7人しか生き残らなかったのである。生き残った のはイシ、彼の祖父母、伯父、母、彼と同年輩のいとこである少年一人、少女一人だけ だった。彼らは鉄道のみえる所でくらしていたが、白人との接触を注意深く避け、狩りや 漁をしたり、どんぐりや野いちごを拾ったりして命をつないでいた。ラッセン山近くの森に 囲まれ、岩の多い谷が彼らの生活圏で、ここは先祖以来の狩りの場所でもあった。
イシの祖父母は老衰で死に、いとこの男の方は白人の家に食糧を盗みに入り、みつかっ て殺された。一族の数は減っていった。1908年、送電線工事の労働者がイシたちの隠れ 家をみつけて入ってきた。四人は二手に分かれて逃げた。イシのいとこは年を取って走 れない伯父を背負って姿を消した。イシは老母を背負って安全な場所に逃げ、母親が死 ぬまでそこに隠れつづけた。母を失ったイシは悲しみと孤独で絶望し、白人居住地に下り てきたのだった。この最後の「野生」インディアンは、彼の部族の大半が出会ったのと同じ 運命に出会う、つまり白人に殺されることを覚悟していたのである。
しかし白人の気持ちは変化していた。イシは殺されなかった。もう戻るべき部族をもたない イシに、クローバー教授はサン・フランシスコにあるカリフォルニア大学の博物館に住むよう に頼んだ。イシはこれをうけいれ、博物館員として、ほとんどのインディアンがもうとっくに忘 れてしまった伝説的な技術を披露する仕事をうけもった。博物館にやってくる何千人もの 参観者はイシに話しかけた。イシは英語の単語を何百か覚えるようになり、ヨーロッパから の移民の一世ほどには話せるようになった。イシは、気持ちがやさしく、威厳も備えていた から、大学では大いに親しまれる存在になり、友人もたくさんできた。はじめて黒人に会っ たとき彼はびっくりしたが、東洋人に会ったときは平気だった。白人の友人に向かって、こ の人たちはインディアンの部族だといって安心させたほどだ。
イシは大学社会の習慣を身につけ、上品にふるまうことができた。しかし病気には抵抗力が なかった。博物館で数年暮らしたあとで結核にかかった。取乱さずに死を覚悟し、大学の友人 たちに、ヤヒ流の葬儀をおこなってくれるように頼んだ。大学の施設の中でイシが最もこわがっ たのは、死体が並べてある医学部の解剖室だった。
イシは1916年5月に死んだ。彼が死ぬとすぐに、大学の一部の人間からクローバーに対して、 イシの死体を引渡せという要求がおこった。「未開人」の標本がただで解剖できるのだから、 と彼らは主張したのである。「科学のためだなんていうのなら、そんな科学など地獄に行くが よい。」クローバーは要求をはねつけた。何人かの友人とともに、ヤヒの習慣どおり遺体を 火葬に付し、遺骨を骨つぼに収めて白人墓地に葬った。これも習慣どおり、一張の弓、五本 の矢、どんぐり製の食物、そして身のまわりの品と装身具を入れた袋ひとつを副葬品とした。
「イシはわれわれ白人を頭のよい子供というように考えていた。」イシの友人の一人サクス トン・ポープはこういった。「利口だが、賢いとはいえない、と。たしかにわれわれは物知りだ。 しかしその知識の多くは間違っている。これに反して、イシは自然を知っていた。つねに真実 そのものである自然を知っていた。彼の性格の長所はすりへったりするようなものではなかっ た。勇気と自制心の持主だった。いっさいを奪われても、やさしい気持ちを失うことはなかっ た。彼の魂は幼子のように無垢で、心は哲学者のそれだった。」
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