「風のささやきを聴け」

今を生きるインディアンたちのスピリット

チーワ・ジェームズ編 ハーディング・祥子訳

めるくまーる





モードック族の血を引き、テレビのプロデューサーとしてナショナル・ゴールデンマイク賞

などを受賞した著者がアメリカ・カナダ先住民56人にインタビューした証言集である。

強制移住や同化政策などにより苦難の道を歩かされたインディアンの多くが、自己基

盤を失い、それらがもたらした病巣により彼らの社会や家庭を崩壊させている現実。

この厳しい現実に対して、自らがインディアンであるという自己基盤を取り戻した彼ら

の生き方と言葉は、いにしえの勇者に劣らない逞しさと誇りに満ちている。本書では、

いにしえのインディアンの言葉をも紹介しているが、この時を超えた教えと祈りは今で

もインディアンの魂に新たな息吹を吹きこんでいることを実感させてくれる好著である。

2000年9月23日 (K.K)


 





我々は生き、死に、

そして草木のように、墓の柔らかい土から新しく生まれ変わる。

石はぼろぼろに砕け、磨滅し、

信仰はカビが生えて忘れ去られたとしても、

そこにまた新しい信念が生まれる。

今たとえ、村の信仰が埃(ほこり)にまみれていたとしても、

それは再び木々のようによみがえるだろう。


オールド・ワン(ワナパム族)

本書より引用





祖母の柔らかなしわ・・・・ローリー・エルダー(チョクトー族)

本書より引用


祖母から教わったいちばん大切なことにはとても深い意味があって、それは今でも僕の

中に、僕が細胞結合と呼ぶところの形で存在している。すなわち、文字どおり僕の体の一

部なのだ。それはある日、学校の帰り道で起きた。10代の少年の一団が、インディアン

の鬨(とき)の声を真似して、祖母をあざけりだした。「武器の斧と羽根はどこへ置いてき

たんだよ?」と彼らはやじった。祖母は僕の手をしっかり握り、少し足を速めはしたけれ

ど、それをのぞけば少年たちを気にしている様子はなかった。しかし信じがたいことが

起きて、僕はすくみあがってしまった。少年のひとりが祖母の顔に唾を吐きかけたのだ。

祖母は何もしなかった。唾をぬぐおうとすらしないで、黙ってそのまま歩きつづけた。まる

で、何ごともなかったかのように。僕は家についてもまだ、祖母がされたことの衝撃でぼ

う然としていた。すると祖母は、僕を座らせ、その出来事について話しはじめた。祖母と

真正面から向き合うと、頬にさっきの唾の乾いたあとが残っているのがわかった。「この

世の中には、あたしたちの生き方を知ろうとも、理解しようともしない人たちがいてね。

でも大切なのは、自分は誰であるかを知って、それを誇りに思うことなんだ。おまえは、

どうしてあたしが唾をぬぐわなかったのか不思議に思ってるんだろ?それはね、唾なん

てすぐに乾くってことを知ってもらいたかったからさ。そうさ、唾はいずれは乾く。でも、お

まえの心は絶対に死なない。それをわかってもらいたかったんだよ」 年のせいで、祖母

の顔には使いこんだ革のように、たくさんの深いしわが刻まれていた。けれど、祖母のし

わすべてに物語があり、そのしわの一本一本が、知恵の川なのだ。僕はよく、祖母の顔

に手を触れてみたが、感触は見た目とはまったく違っていた。祖母のしわは、彼女の抱擁

と同じくらい、柔らかくて温かかった。祖母は九四歳で死んだ。晩年はアルツハイマー病

を患い、ほとんどのとき、意識は別の世界に遊んでいた。死の直前、僕は祖母のもとに

駆けつけ、九ヶ月になる息子を会わせた。僕がベッドのかたわらにひざまつくと、スピリット

たちが特別な贈りものを与えてくれた。五分間、祖母の意識が完全に澄みきって、正気に

戻ったのだ。「おばあちゃん」僕は祖母の耳もとでささやいた。「僕だよ」 「ニタトービ、お

まえかい」祖母は年老いた美しい顔を、無数の笑いじわでくしゃくしゃにした。「おばあちゃ

ん、息子を見せに連れて来たよ」 祖母は両手を伸ばし、歯磨きのチューブを絞り出すか

のように、僕の息子をぎゅっと抱きしめた。意識が澄みきっていたこの間、祖母は、命の

環が僕の息子を彼女のところへ運んできたのを知っていた。僕たちはいっしょに座り、三

人は、環の中でひとつになった。祖母はとても安らかに死んだ。少なくとも僕は、そう信じて

いる。


 
 


ハーディング・祥子 本書「訳者あとがき」より引用


この本が、ネイティブ・アメリカンの「声」を集めたほかの本と少々違う点は、登場する

人々の多くが、元来、勇士でも、スピリチュアル・リーダーでもなく、ごく普通のネイティ

ブ・アメリカンたちだということです。語り手は時には若く、時には老人で、アルコール

依存症や、拒食症で苦しんだ人もいれば、ユーモアと創造力に富んだ人生を歩んだ

人もいます。ですから見方によってはこの本を「時代の証人」たちの証言を集めたも

のだと言うこともできるかもしれません。自分たちがたどってきた人生を、それぞれの

視点から、とつとつと、正直に、人に何かを教えようという意気込みすら持たず、静か

に語っているからです。しかし、まさにその気負いのなさゆえに、そのひとたちの人生

の背景に見え隠れする時代の流れの底から、彼らを支えてきた偉大なる哲学のよう

なものが、言葉ではない言葉として響き渡ってきます。そしてその響きこそが、この本

を証言集以上のものにしている何かなのです。現在、私たちはとてもきわどい時代に

暮らしています。多くの人たちが、誇りや愛や勇気を失った虚ろな心を抱えて、右往

左往しているかのように見えます。子供たちも大人たちも、空洞化した心をもてあま

し気味で、中にはやみくもに宗教に走ったり、人間としての道を踏み外す人たちさえ

います。こんなときに、単なる頭でっかちの、経験に裏打ちされていない言葉ではな

く、現実に自分たちの文化の危機に直面し、時代の荒波をくぐり抜けてきた人々の

生身の声に耳を傾けるのは、とても意味があることではないでしょうか。そしてその

語り手たちを支えてきた大きな何かに気がつくとき、人はもっと本当の意味での強さ

とやさしさを持てるはずです。本書に出てくる多くの人々は、ネイティブ・アメリカンの

哲学に立ち返ることで、本来の自分というものを見いだしています。けれども、ここで

彼らが伝えているのは、単に独自の文化に戻れと唱えるちっぽけな民族主義などで

はなく、それを超えた、もっと壮大な何かです。その何かを一言で説明することはと

てもできません。だからこそ、このようにたくさんの人たちが語るさまざまな人生を通

して、そこから自然に浮かび上がってくるものを理解する必要があるわけです。彼ら

の話を静かに聞き終わったとき、人はそこに一陣の風が吹き渡るのを感じるでしょ

う。そしてその風のささやきに耳を傾けるとき、答はそこにあります。ヴィジョン・クエ

ストに出かけたネイティブ・アメリカンが、静かに耳を澄まして、スピリットのささやき

に答を聞くように。


 


目次

はじめに

謝辞

スパーク

与えの輪

人生とは?

英語がわからない犬たち

ダンサー

スタミナ競争

上院議員への道

魂の戻るところ

ム・ルウェタム

奉仕の心

羊の囲いがもつパワー

小川

木に話かけて

ホワイトリバー・アパッチ魂

ナバホ族求む

火の中に落ちたコヨーテ

エア・ウォーカー

鷲のスピリット

銀のベルト

初恋

三人のロバート

鹿のスピリット

粘土にめぐり会うまで

リトル・ピープル

嵐を避ける場所

プナシの帰還

馬に乗ったチェロキーの少女

祖母の柔らかなしわ

年を取ってみると

馬のしっぽの話

監獄から石へ

光を求めて

金メダルへの道

ランナーの血

ひそやかに暮らすインディアン

内なる光

コロンブスの頭皮を剥いだ男

ひとつのインディアンの終わり

ドラム・サークル

毛布の温もりに戻って

ヤマネコに追われて

癒しの手をもつ女

ハクルベリーパイの思い出

クリー族の家族

イスレタ族の暮らし

ジェニーの手

ショニー族の血

ドングリの地

与える技

フィッシュ・ピープル

父さんの描いた車輪

トイレタイムの教え

なんてことのない人間

ウッミーとオッピー

ラコタの生き方


訳者あとがき


 


2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

約3億年途切れなく続いた遺伝子の継承 イチョウの樹

写真は、厚木市愛甲の熊野神社に立っているイチョウの大木です。僕にとって、樹というものは

自分を包み込んでくれる特別な存在かも知れません。



昔とある本に、樹に聴診器を当てると水分を吸う音が聞こえる、と書いてありました。疑うことを

知らなかった純真な僕(?)は、早速友達のお医者さんに「聴診器欲しいんだけど」とお願いした

ら、怪訝な表情をされました。「おい、俺の今までの品行方正さはお前が良く知っているだろう。

医者のくせにふざけた想像するなよ」(なんて言えるわけがない)。僕は丁寧に動機を説明し手

に入れることが出来ました。



確かに木に聴診器を当てると音がします。後で調べて解ったことですが、これは樹が水を吸い

上げる音ではなく、風が枝や葉を揺らしている音、地面を伝わってくる車や川の流れなどの音

のようです。現代科学が僕の夢を叩き割った瞬間でしたが、それでも立ち上がるのが九州男児

というものです(意味不明)。



話は変わりますが、ブラジルのインディオの世界観に「「この木が天をささえている。わたしたち

の部族がほろびる日が来たら、わたしはこの木を引きぬくだろう。わたしがこの木を引きぬけば、

天がくずれ落ちてきて、あらゆる人々が姿を消す。すべての終わりが来るのだ。」というのがあ

ります。先の投稿(ユングとホピの太陽の儀式)と同じように神話に横たわる深い意味を感じた

いです。



最後にインディアンの言葉と、悩んでいた青春時代に読んだ「生きがいについて」の中の文章を

抜粋引用します。「生きがいについて」を書かれた神谷美恵子さんは、ハンセン病(昔のらい病)

の患者の治療に生涯を捧げた精神科医でした。



☆☆☆☆



木に話しかけて
メアリー・ヤングブラッド(アリュート族、セミノール族)
「風のささやきを聴け」より引用



わたしはチュガチ・アリュートとセミノールの血を引いていますが、赤ん坊の頃に、インディアンで

はない両親に養女として引き取られました。両親はわたしにすばらしい家庭を与えてくれましたが、

インディアンが白人社会に溶けこむのは容易ではありませんでした。アリゾナでの小学校四・五年

のとき、わたしはクラスの子どもたちからたたかれたり、髪を引っぱられたり、胸をつねられたりし

ました。まあ、子ども特有の残酷さとでも言いましょうか。そんな子どもたちから逃げ出しては木の

茂みに身を隠し、暗くなってから家に戻ったものです。わたしは自分がインディアンであることがうら

めしくてたまりませんでした。お風呂に入って、石鹸で茶色い肌の色を洗い流せたらどんなにいい

だろうと思いました。カリフォルニアに引越したとき、わたしは生涯で最高の友に出会いました。そ

れは、家の近くの自然保護地域に立っていた巨大な樫の木です。その木はわたしの避難場所とな

り、また力にもなってくれました。わたしは毎日その木に登って、何時間も白昼夢を見て過ごしまし

た。彼女にブランディという名をつけ、紙と鉛筆をもってあがっては、枝の上で絵や文章を書きまし

た。わたしのこの木に対する思いには格別のものがありました。おまえは絶対にわたしを落とした

りしないわよね、たとえわたしが落ちても、必ず途中でつかまえてくれるわよね。わたしはよく、そん

なことを話しかけたものです。辛かったティーンエイジャー時代も、ブランディに悲しみを打ち明けて

は、しっかりと抱きしめ、抱きしめられて過ごしました。ブランディは、たとえ高校の卒業ダンスパー

ティに、茶色い肌をした女の子を誘ってくれる男子生徒などひとりもいなくても、悩むことはないと教

えてくれました。こうしてわたしはその木と、深い精神的つながりを築きあげたのです。そんなある日、

ブランディと一体になる必要に迫られて木のところまで行くと、赤いアリが木全体を覆っていました。

わたしはアリが怖くてたまりません。そこで必死に考えた末、わたしは木に、アリを追い払ってくれる

ようたのむことにしました。するとどうでしょう。アリはほんとうにいなくなったのです。みなさんは驚く

かもしれませんが、わたしは驚きませんでした。それからというもの、わたしがブランディを必要とし

ているとき、アリはいつも姿を消しました。友人や家族の中には、わたしの頭がおかしいと思う人も

いました。そして、自分がほかの人たちと違うと知ったの頃です。初めて自分をインディアンだと感じ

たのです。インディアンだからこそ、ブランディとの特別な関係を打ち立てることができたのだと。人

と違うというのはある意味で、気分のいいことでもあります。たとえ白人の世界で育てられても、わた

しはやはりインディアンだったのです。そしてインディアンであるということは、なんとすばらしいこと

でしょう! 生まれて初めてわたしは、自分がインディアンであることを誇りに思いました。これを機

に、人生もまた変わりました。わたしはクラシックフルートを学びはじめ、今ではインディアンフルート

を演奏しています。わたしのフルートは、手作りで、木製です。その木製のフルートに指が触れるとき、

わたしはそこにあのブランディを感じるのです。



☆☆☆☆



「生きがいについて」神谷美恵子著 より引用



足場をうしない、ひとり宙にもがいているつもりでも、その自分はしっかり下からうけとめて支えてくれ

たのだ。そして自然は、他人のようにいろいろいわないで、黙ってうけ入れ、手をさしのべ、包んでく

れる。みじめなまま、支離滅裂なまま、ありのままでそこに身を投げ出していることができる・・・・。



血を流している心にとって何というやすらぎであろうか。何という解放であろうか。そうして、自然のな

かでじっと傷の癒えるのを待っているうちには、木立の陰から、空の星から、山の峯から声がささや

いてくることもある。自然の声は、社会の声、他人の声よりも、人間の本当の姿について深い啓示を

与えうる。なぜならば社会は人間が自分の小さい知恵で人工的につくったものであるから、人間が自

然からあたえられているもろもろのよいものを歪め、損なっていることが多い。社会をはなれて自然に

かえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーのあの主張は、

根本的に正しいにちがいない。少なくとも深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、ど

んなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの

力・・・・それは彼の内にも外にもはたらいている・・・・によって癒され、新しい力を快復するのである。



☆☆☆



(K.K)


 
 


2012年2月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ホピ族カチナ



カチナとは精霊のことであるが、今から20年前に聞いた奇妙な話が心に残っている。当時

カトリック信者の掲示板があり、名前は失念したが、大学の講師の方も書き込みをしていた。

その方は哲学が専門で、一時デンマークだったか北欧に留学していたとき、その国のおばあ

ちゃん達が全く不思議そうな顔も見せず、当たり前のように「妖精を見たことがある」と話す

のを聞いて驚いてしまったと書き込んでいた。



私はまさかそんなことがあるわけがない、と最初に思ったが、その方がでたらめを書き込む

ような人でないことはそれ以前の書き込みなどなどから知っていたし、カトリック信者でもある

彼がそんな話を敢えて持ち出すわけがないと思い真剣に聞いていた。



私は妖精に限らず精霊を見たことはないのだが、それから何か違う世界がこの世にあるの

ではないかと漠然と感じたりもしていた。正直今でもこの話をどう捉えていいのか私にはわか

らないが、北欧のおばあちゃん達が見たものを否定することは、そのおばあちゃんの存在

自体を否定することに繋がることは確かなことだ。



自分の経験や価値観で、人の存在を否定することほど傲慢なことはない。相手の視点と同じ

目で見ることは不可能だが、自分が相手の視点まで降りていく(見下すという意味ではありま

せん)努力なしには自分との接点は見つからないだろうし、他者の存在という重みを自分の

心に感じることもない。



偉そうに書いてしまったが、過去に白人達がインディアンに自分たちの文化や宗教を強要

たのと同じように、私も他者に対して日常の生活の中で同じことをしているのではないかと

いつも思う。ただ相手の視点が他者を抹殺するようなものである場合は、戦うことを恐れては

いけないのかも知れない。



☆☆☆☆



トウモロコシ畑の片隅で、

鳥たちが歌声をあげ、

ひとつになった幸せを歌いあげるだろう。

彼らは、宇宙の力と、

あらゆるものの創造者との調和に合わせて

歌声をあげるだろう。

鳥が歌い、そして人々も歌い、

やがて命の歌がひとつになる。



ロングヘヤー・カチナの歌(ホピ族)

「風のささやきを聴け」より引用

☆☆☆☆



(K.K)



 







アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

天空の果実


インディアンの神話・預言・叡智を集めた文献に戻る