「世界をささえる一本の木」
ブラジル・インディオの神話と伝説
ヴァルデ=マール 再話・絵 永田銀子 訳 福音館書店
アメリカ・インディアンと同じく大地に根をおろして生き続けるブラジル・ インディオの人々に語り継がれてきた美しい神話と伝説はインディアン のものと共通性が多い。大地の恵みを深く感謝して受け取ることが出 きる人々に国境・言葉の垣根は存在しないのだろう。またこの絵本に はインディオの血をひく著者による実に美しい世界が描かれている。 (K.K)
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「この木が天をささえている。わたしたちの部族がほろびる日が来たら、 わたしはこの木を引きぬくだろう。わたしがこの木を引きぬけば、天が くずれ落ちてきて、あらゆる人々が姿を消す。すべての終わりが来る のだ。」・・・同著の「シアナ・世界をささえる一本の木」より
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ヴァルデ=マール賛 オルランド・ビラス=ボアス 本書より引用
わが国のちょうど中央、いくつもの流れが合わさってゆたかなるシングー川となる 地域---水が時には静かな淀みをつくり、また時には激しく流れ、急流の岩にくだ け、また川岸の白い浜で渦を巻く土地---そこに、二十あまりのインディオの部族 が生活している。地理的に恵まれたその場所で、外界からの影響を受けずに、し あわせにくらしている。彼らがシングーのインディオである。彼らの歌、踊り、習慣 と信仰は、遠い過去から、時の流れの底からやってきたかのようだ。彼らの村に は、大きな楕円形をしたわらぶきの家が集まり、その姿は1500年代のブラジル、 つまりヨーロッパの船乗りたちを感嘆させた、謎にみちた緑の大陸ブラジルの姿を そのままとどめている。事実、インディオの地・シングー川上流域は、時の流れと 関わりのない大きな「緑の孤島」なのだ。そこではシングーの自然が時をきざん でいる。ヨコクビガメの産卵が終わると、黄色いピキの実の摘み取りがはじまる。 ヤツデグワが咲くころには水が減り、川辺の浜は白く輝く。森は蘭の花で祭りの ような美しさにあふれる。しかしインディオはそれにはかまわず、立ち止まりもせ ず、見向きもしない。その必要はない---彼もまた全体の中の部分、森の、川の、 色彩の、すべての一部だから。彼をわずらわせるものはない。インディオには年も 月も週も日もない。存在するのはただ、静かにあふれる時間だけ。そして彼は、 流れにうかぶ木の葉のように自然と一体になって、今という時を生きている。 インディオと彼らをとりまく環境とを、切りはなしてべつべつに語ることはできな い。インディオと森はひとつの風景をつくっているのだ。彼らは、森と同じように 自分たちを飾る。色とりどりの鳥の羽毛、ヤシの葉の緑、粘土の白、ベニノキの 赤、チブサノキの青。食べものは、木の枝にたれ下がり、黒い土にはぐくまれ、 澄んだ水底から生まれる。彼らの大きな家の屋根は、ファベイラスの木やパンヤ の大木の姿を思わせる。そして彼らもまた、インディオの造り主である英雄マブチ ニンが、木の幹に息を吹きかけてつくった人の末裔なのだ。画家ヴァルデ=マール は、このインディオの世界から霊感を受け、目にしたものすべてをキャンパスに うつした。彼は、森の人々の自然なくらしぶりも、感受性ゆたかにえがき出して いる。人物のおだやかな表情は、シングーの人々をよくあらわしている。彼が 好んで子どもを描くのは、故郷の小さな町で送った貧しい少年時代の思い出 があるからだろうか。もちろん、ジュルーナの民話に登場するシナアは、じつに 老人らしくえがかれている。人生には思いもかけぬことがおきるものだ。きのう まで鍬をふるっていた農民が、またあるときには事務員や店員として働いてい た男が、すべてをすて、キャンパスに向かうことになろうとは。美術学校にも 行かず、ただ自分の直感と芸術センスにつき動かされて、ヴァルデ=マール はブラジル最高の素朴画家のひとりとなった。インディオの神話を題材とした 本書の中で、ヴァルデ=マールはふたつの面を見せてくれる。絵を描く才能 と、物語を語るセンスを。彼の絵の背景は、つねに森でうめつくされている。 広大な森林は、上から見ると、ちょうど波うつ平原のように見える。波の谷間 では、木々の梢の緑がいっそう濃くなっている。そのニュアンスも、ヴァルデ= マールの絵筆はみごとにえがき出している。
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2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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