未来をまもる子どもたちへ


オオカミの肖像




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2014年7月17日

「オオカミの肖像」という項目を作りました。



森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。しかし彼らオオカミの存在は、

人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。世界各地の先住民もオオカミも、西欧人

にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さ

なければいけないものだったのかも知れません。オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけ

でなく、私たち自身は何者かと問う存在なのだと思います。



 


2013年8月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




関東地方は梅雨が明けたのですが、夜明けの時間帯に関しては7月中旬から雲に覆われた日が

続いています。しばらく夜明けの写真は投稿できないかも知れませんが、ご了承ください。



上の映像は、野生のコアラが民家に遊びにくるものを撮ったもののようです。本当に可愛いですね。



この映像を見ながら、100年前に絶滅したと言われる「日本オオカミ」が、今でもこの日本のどこか

で生きていて欲しいと願い、また出会いたいと思っていました。



「赤頭巾ちゃん」などで悪者にされることが多いオオカミ。しかし1995年以降、アメリカのイエロー

ストーン国立公園では森にオオカミを放つ試みをしておりますが、人を襲ったことはなく、逆に森の

生態系の回復に役立っていると聞いています。



近くの丹沢山系の森林は、増え続けている野生の鹿の食害により森が死につつあります。以前、

この山奥で何度か星空観望したのですが、必ずと言っていいほど近くで鹿の足音が聞こえてき

ます。



日本の古い記録ではオオカミが人を襲った報告が残されていますが、オオカミが人を襲うのは

狂犬病にかかったオオカミ、餌付けなどで人を恐れなくなったオオカミ(決して餌付けをして人に

慣れさせてはいけない)、子育て中に突如餌動物を失ったオオカミ(インドで起こった事件で、

村人がガゼルなどの過剰な狩猟により、子育て中のオオカミが自然餌を失った)に限られて

います。ちなみに狂犬病に関しては日本では50年前に撲滅されているそうです。



「一般社団法人 日本オオカミ協会」のサイトでは、「1990年代以降、フランス、スイス、ドイツなど

ヨーロッパ各地でオオカミが復活し、生息地を拡大しています。このため、ヒツジやヤギなどの

放牧家畜に被害が出ていますが、人身害は発生していません。」と書かれています。



今から100年前のオオカミへの偏見が満ちていた時代。あらゆる先入観を持たず、ありのまま

のオオカミの姿を記録したシートンの言葉を抜粋紹介します。以前の投稿にもこの言葉を書い

たのですが、シートンの偉大さを改めて感じさせると共に、日本でもオオカミを森に放つことへ

の議論が真剣になされることを願っています。



☆☆☆☆



この章で私は、オオカミの勇敢さ、騎士道精神、強さ、遊び好きな性格、忠誠心、獰猛さ、親しみ

やすさ、思いやり、英雄的な態度、それにやさしさなどについて、さまざまな証拠をあげながら

論じてきた。



悪意に満ちた人間社会のうわさ話に終止符を打ち、この動物の誠実で勇敢な姿を読者に示し

たいというのが、私の願いだった。



私はまるでごみ箱を引っかきまわし、なかからほんのひとかけらの金片を見つけ出そうとするか

のように、猟師たちから根堀り葉堀り聞き出し、小さな真実のかけらを見つけ、つなぎあわせよう

としてきた。



そうしたなかから読者に、この野生動物の本当の姿、本当の生活を少しでも察知してもらうことが

できただろうか。



こうして山と積んだすべての証拠を見て、望むならさらに手に入れることのできる大量の証拠が

あること、それに「ロボ・・・カランポーの王様」の物語(基本的に事実にもとづいている)に書かれ

たことを思い起こしていただければ、わかってもらえるのではないだろうか。



私がオオカミを心の底から愛していること、そして、私がオオカミこそは真の高潔さ、すなわち、

輝かしい動物界の英雄にふさわしい性格のもち主だと信じて疑わないことを。



「シートン動物誌2 オオカミの騎士道」紀伊国屋書店より抜粋引用



☆☆☆☆



一般社団法人 日本オオカミ協会 を参照されたし。


 オオカミの護符
 ロミオと呼ばれたオオカミ
 オオカミたちの隠された生活
 オオカミと人間
 シートン動物誌2 オオカミの騎士道
 オオカミ 神話から現実へ
 狼が語る ネバー・クライ・ウルフ
 狼と人間 ヨーロッパ文化の深層
 哲学者とオオカミ




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この文献の詳細ページへ 「オオカミの護符」 

小倉美恵子・著 新潮社


西本教授によれば、群馬、栃木、埼玉、長野、東京、神奈川、山梨と広域にまたがり、
山が深い関東山地は、近代を迎えるまでニホンオオカミが数多く棲息していたとのこ
とだ。関東平野を取り囲むように、遺跡からもニホンオオカミの骨がたくさん出土する
のだそうで、御嶽の御師さんから教えられたとおり、武蔵の山々にはオオカミが生きて
いたのだ。

西本教授の話で特に興味深く感じたのは、オオカミは護符になる以前から信仰の対象
であった可能性が高いということだった。紙でできた護符は、文字が庶民に浸透する
ようになって生まれたものと思われるが、縄文時代には実際にニホンオオカミの牙や
手足の骨など身体の一部をお守りとして身につける風習があったという。『オオカミの
護符』は突然現われたのではなく、古代からのオオカミへの信仰がその背景にある。

「ニホンオオカミ絶滅から100年」というタイミングで行われたこの企画は、博物館のあ
る山梨県笛吹市御坂町の民家で、新たにオオカミの頭骨が発見されたことがきっかけ
になっている。山梨もまた、奥多摩、秩父に連なる大山塊の世界にあり、この機に企画
展に出会えたのは、関東の山々に棲んだオオカミのご加護にすら思えた。私はこの企
画の責任者である学芸員の植月学さんを訪ねた。

ここで、さまざまな種類の「オオカミの護符」が存在することを知った。なんと「オオカミの
護符」を発行する神社は武蔵御嶽神社のみならず、関東甲信から中部地方にかけての
山地に多く重なる。オオカミの頭骨を所蔵する家も多い。博物館が作成した資料冊子に
は、“オオカミ信仰”を伝える神社やオオカミの頭骨を所蔵する分布が地図上にわかりや
すく示されていた。

「オオカミの護符」を発行するオオカミ信仰の神社は奥多摩・秩父を中心とし、特に秩父
には密集している。このオオカミ神社の分布とニホンオオカミの棲息域は一致する。そし
て各神社から発行される「オオカミの護符」は、バラエティーに富み、個性的であった。

あるものは二頭のオオカミが向き合って座り、またあるものは黒いブチ柄の大きな身体
に愛嬌のある顔が描かれている。さらには手刷りと思われるような素朴なお札もあり、
それぞれに異なるデザインで、味わい深いものであることが私を感激させた。それは
「オオカミ信仰」が、上からの統一的な力によって流布したものではなく、それぞれの
地域の暮らしから生まれ、浸透していったことを物語っているように思われた。
縄文にさかのぼるオオカミへの信仰 (本書より引用)

 
 
この文献の詳細ページへ 「ロミオと呼ばれたオオカミ」

ニック・ジャンズ著 田口未知・訳 エクスナレッジ


そう聞くと、ロミオの話は一見、野生動物が人間に慣れすぎたことが不幸な結果を
招いた警告の物語に思えるかもしれない。だが、事実は物語とは必ずしも一致しない。
ロミオは時間をかけて人間が慣れさせたのではなく、自らやってきたのだ。最初の
ころは飼い犬とじゃれ合い、おもちゃを奪って遊んでいた。それは餌づけの産物の
ようには見えなかった。そうした負の徴候はまったく見られなかったのだ。そして、彼を
追い払うことはできなかった。そうしようとしても、戻ってきた。結局のところ彼は、鋭い
感覚と知性を持つオオカミとして僕たちの近くで生きることを選び、人間や犬たちと
交流することを望んだのだ。それは彼自身の社会性によるだけでなく、僕たち人間の
ルールを次第に理解することを通しての選択だった。

(中略)

僕はよく、数年前のあの春の日を思い出す。まるでそれが最後になるかのように、
ロミオが雪の中で丸くなっていた姿を・・・。静まり返った深夜、横で眠るシェリーと犬
たちの寝息を聞きながら、僕はひとり、その光景を思い出し、胸が苦しくなる。そして
誰も起こさないように、静かに涙を流す。自分のために泣くのでも、オオカミのために
泣くのでもない。僕たちすべてのために、ますます空虚になる世界に漂流する僕たち
すべてのために泣くのだ。これほどの悲しみから、どうやって希望を見いだせば
いいのだろう?

だが、この物語にはもうひとつの側面がある。それは、ぼんやりした光を発しては
消え、また戻ってくる。暗い空を横ぎるオーロラの光のように、ロミオという奇跡、
そして僕たちが彼と一緒に過ごした年月を、誰も奪うことはできない。憎しみでは
なく愛こそが、僕たちが背負う重荷なのだ。しかし、だからといって、その荷が軽く
なるわけではない。

僕たちと一緒に過ごしている間に、ロミオは彼を見ようとやってkちあ何千という
人々に驚きを与え、風景を生命力であふれさせた。多くの人に、オオカミという種と
僕たちが暮らす世界をもっと新鮮な目で見ることを教えた。知らず知らず、あるいは
気にもせずに、ただそこに自然体として存在するだけで、人々を近くに引き寄せた。
友人と家族だけではなく、彼がいなければ一度も会うことのなかったであろう人たち
をひとつの場所に集めた。

(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ 「オオカミたちの隠された生活」

ジム&ジェイミー・ダッチャー National Geographic


イエローストーン国立公園ほど、この栄養段階カスケードという現象が詳しく研究された
場所はない。この地域は20年も経たないうちに、まったくオオカミのいない土地から、
世界で最もオオカミ密度の高い場所の1つへと変貌したのだから、絶好の研究場所と
言えた。当初から生物学者も、この捕食動物の復活が他の動物相に何らかの影響を
与えるだろうとは予測していたが、場所によっては、予想よりはるかに深いレベルにまで
変化が達していた。

例えば、以前はワピチによる影響が甚大だった小川の土手沿いの土地で、ヤナギや
ポプラが復活し始めた。ひづめに踏み荒らされて崩れかけていた土手にも、野の花が
咲き誇るようになった。花は昆虫を養い、昆虫は密生したヤナギの木に巣をかけたり
小鳥の餌になる。木の下の水は、日陰になって冷たく澄む。水生昆虫にとってはずっと
住みやすい環境だ。また、お気に入りの食料と巣材が再び出現したおかげで、ビーバー
の活動が盛んになり、広々とした湿地帯がつくりだされた。その湿地帯を目指してカエル
やハクチョウ、カナダヅルもやってくるようになった。

オオカミが生態系の中にどのように組み入れられ、山火事のような他の大きな力と
関わりながらどのようにして栄養段階カスケードを生み出すか、科学者たちの研究は
まだ始まったばかりだ。上記のような深い変化が、オオカミの復活した土地すべてで
起こるわけではない。

だが、詳しい研究が進み、生物学者がさまざまな点をつないで線にしようと努力して
いる場所では、連鎖の道をたどっていくとオオカミへと行き着いた。ニジマスがカゲロウ
の幼虫をがぶりと食べるとき、はるかかなたでは食物連鎖の頂点に立つ捕食動物と
大型の被捕食動物がダンスを踊るように地上で駆け引きをしている・・・・この2つの
現象は、一見まったく無関係な出来事のように思えるが、実は深く複雑に絡まり合って
いる。「自然は一体」などといった抽象的な意味で言っているのではない。計量可能な
事実なのだ。 (本書より引用)


 
この文献の詳細ページへ 「オオカミと人間」

バリー・ホルスタン・ロペス著 中村妙子・岩原明子 訳 草思社


このあたりから、オオカミは痛ましい運命をたどるようになる。たとえばシャイアン族
のような狩猟社会では、誰もが賛美する長所・・・・勇気、狩猟の技術、忍耐・・・・を備え
ていることから、オオカミは尊敬に値する動物として祭り上げられていた。だが、人間が
農耕に従事し、都市を築くにつれて、このオオカミは、卑怯で、愚かで、貪欲な動物とし
て嫌われることになった。オオカミ自体は昔から変わらないのに、人間がオオカミの憎む
べき“獣性”をうんぬんしはじめたのであった。火刑の杭のまわりに立って、裁かれる
オオカミ人間を野次ったりしながら、人々は、自分が人間性を守り抜いていることを誇示
し、幸福感を味わったのである。そのように自己嫌悪を他者に負わせてみたところで、
けっして満足が得られるわけではなかったことは、まさに悲劇と呼ぶにふさわしい。いく
ら殺戮が行なわれようと、村の広場にオオカミが何頭積み上げられようと、オオカミ人間
といわれた人間を何人焼き殺そうと、それで終わりになるものではなかった。恐らくこれ
は、ナチスの手によるユダヤ人迫害とそんなに変わらないことだったのではないだろうか。
動物に対する虐待は忘れられやすいというにすぎない。だが、オオカミ人間の場合は、
彼らが紛れもなく人間であったことを肝に銘じなければならない。
(本書より引用)



人類学者のニコラス・グーブザーはヌナミウト・エスキモーについて、「彼らは物事の
究極の原因を求めたり、包括的な説明を試みたりしない」と書いている。ヌナミウト・エス
キモーにとっては、"オオカミの究極の実体”などというものは存在しない。彼らはオオカミ
をも、宇宙の一部として観察しているにすぎない。物事には知られていることもあれば、
隠されていることもある。オオカミについても、あることは知られているが、あることは知ら
れないままだろう。しかし、それについて気に病む必要はない・・・・ヌナミウトはこういうの
である。つまりヌナミウトの姿勢は実際的である。オオカミの毛皮に値打ちがあることを、
彼らは知っている(白人の観光客は、一頭の毛皮に450ドルも払ったりする)。ヌナミウト
はまた、オオカミを観察してその生活のスタイルから学ぶことによって、人はすぐれたハン
ターになり、カリブーばかりか、当のオオカミをも倒すことができると考えていた。オオカミ
を観察するうちに、ヌナミウトは自分のまわりの世界と一つになったような充実感を味わい、
自分の住む宇宙との密接なつながりを感じる。宇宙を構成するものからの隔絶感がある
かないか・・・・これがヌナミウトと生物学者の違いなのである。
(本書より引用)


 

この文献の詳細ページへ 「シートン動物誌2 オオカミの騎士道」 

今泉吉晴・監訳 紀伊国屋書店


この章で私は、オオカミの勇敢さ、騎士道精神、強さ、遊び好きな性格、忠誠心、
獰猛さ、親しみやすさ、思いやり、英雄的な態度、それにやさしさなどについて、
さまざまな証拠をあげながら論じてきた。

悪意に満ちた人間社会のうわさ話に終止符を打ち、この動物の誠実で勇敢な姿を
読者に示したいというのが、私の願いだった。

私はまるでごみ箱を引っかきまわし、なかからほんのひとかけらの金片を見つけ
出そうとするかのように、猟師たちから根堀り葉堀り聞き出し、小さな真実のかけら
を見つけ、つなぎあわせようとしてきた。

そうしたなかから読者に、この野生動物の本当の姿、本当の生活を少しでも察知
してもらうことができただろうか。

こうして山と積んだすべての証拠を見て、望むならさらに手に入れることのできる
大量の証拠があること、それに「ロボ・・・カランポーの王様」の物語(基本的に事実
にもとづいている)に書かれたことを思い起こしていただければ、わかってもらえる
のではないだろうか。

私がオオカミを心の底から愛していること、そして、私がオオカミこそは真の高潔さ、
すなわち、輝かしい動物界の英雄にふさわしい性格のもち主だと信じて疑わないことを。

(本書より引用)

 

この文献の詳細ページへ 「オオカミ 神話から現実へ」 

ジェラール・メナトリー著 高橋正男・訳 東宣出版


ところでいつの日か、フランスのどこかの森のなかから、決して不気味ではない、
むしろ音楽的とでもいえるオオカミの咆吼を聞くことができるだろうか。現在それを
聞くことができるのは、ヨーロッパでは、イタリア、スペイン、ポルトガル、旧ユーゴス
ラビア、ハンガリー、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア、ポーランド、ロシアなどの
人びとである。オオカミは今は駄目でも、あした、西暦紀元2000年には、人びとに
とってずっと素晴らしい、より自由な生活を知ることができる希望と進歩のしるしと
して現れて来るだろう。この地上の素晴らしい生活は野生動物なしにはなりたたない。
彼らのいない自然などその美しさも魅力もなくなってしまうだろう。

20年前に、「ヴォージュ山中にオオカミを再導入しよう」などと、だれがあえて言った
だろうか。あしたなら人びとの精神構造は進歩していることだろう。彼らは、今では
時代遅れの人たちによって広められていた不合理な寓話やコント、そして伝説を
信じないだろう。

あすになれば人びとは無知のままで死にたくはないという思いから、オオカミのほん
とうの姿を知ろうと努めるに違いない。

将来、あらゆる分野で責任を担うことになるのは現在の子供たちである。彼らはあら
ゆる形のもとで、生命の保護の責任者とならなくてはならない。

動物のために、とくに食料にならないからといって長い間害獣と考えられてきた動物
のために、よりよい未来を信じることは夢のような世界ではない。子供たちはいっぱん
に動物を愛しているから、夢の世界ではない。しかし彼らが皆ではないが成長するに
つれ、動物への興味を失っていくのは、大人たちが押しつける偏った読物やコントなど
に多少とも影響されたからである。今日では学校で、野生動物の世界についてほんと
うの姿を子供たちに教え始めた。こうした学校教育を受けている子供たちは次第に
多くなり、彼らの親よりはずっとオオカミを知るようになった。
(本書より引用)


ロイス・クライスラーは、夫とともにアラスカで暮らし、オオカミたちをまったく自由に
して育てたが、雌の愛犬のトーチとオオカミたちの関係を同じように報告している。
彼女の著書『トリガー、わが野生の家族』で、彼女がまず最初に五頭の大きなオオカミ
を守らなければならなかったのは、雌犬からだったと語っている。「オオカミたちは、
しきりにトーチに甘えたがっていたが、トーチは彼らの鼻面を噛むのだった。それで
仕方なく彼らは、トーチにはみせなかったあふれるばかりの愛情を私たちに向けて
きた。オオカミたちはとにかく愛らしかった。雌犬とオオカミたちは、心理的に異なった
世界に生きていた。オオカミたちは、ひじょうに優れた観察者である。彼らは人間が
野生の動物のおおらかさと呼んでいるものを持っている。私たちにはそれはずっと
深い何かであることは分かっていた。何かとは社会的責任の感覚である。オオカミ
たちの他の行動をみてみよう。私は、オオカミの雄も雌も、自分たちの子供でもない
子供のオオカミを育てたり、人間から守ったりすることをこの本で書いた。オオカミは
子イヌにたいしても同じようにする。食べ物を吐き戻すこともある。ずっと後になって、
私たちが育てたオオカミ、コーニは、一頭の子イヌを盗んできた。殺すためではなく、
育てるためだった。オオカミは子イヌが好きなのだ。さらに、退屈している動物がいる
と遊んでやる。ある日、散歩の帰り道のことだった。子イヌの鼻にヤマアラシの棘が
刺さってしまった。雌のオオカミのアラトナは、子イヌの周りをぐるぐる回り、うなりな
がら棘を取ろうと試みていた。いっしょにいた他のイヌたちは、まったく無関心だった。
またある時、新しくきたイヌが鎖に繋がれてないていた。すると、一頭のオオカミは、
イヌの側から離れないで、一晩中、そのイヌがないている間中、悲しそうにないていた。
その間、他のイヌたちは眠っていた。アラトナが、初めてイヌたちの喧嘩に巻き込まれ
た時、手酷くひっくり返されてしまった。そのあと彼女は、イヌなら乱闘には参加する
のにそうはしなかったばかりか、乱闘を止めさせようとした。どうしてよいか分からな
かったので、信じられないことに、攻撃者のイヌの尻尾を引っ張って、止めさせて
しまった」。
(本書より引用)

 

 
 

この文献の詳細ページへ 「狼が語る ネバー・クライ・ウルフ」 

ファーリー・モウェット著 小林正佳・訳 築地書店


約四百年前まで、人間に次いでオオカミは、北アメリカで最も成功し、最も広く
分布する哺乳動物だった。広範な証拠が示すところによれば、世界中でオオカミと
狩猟者は、憎悪や対立どころか、一方の存在が他方の存在の利益となるような
共生に向かう生活を謳歌していた。

しかし、ヨーロッパとアジアの人々が農業者や牧畜民になるため、自らの狩猟伝統
の遺産を捨てはじめて以降、人間はオオカミに対する古代的な共感能力を失い、
根深い敵対者となった。いわゆる文明化された人間は、事実、集合的観念の中から
本当のオオカミをすっかり取り除き、代わりに、でっちあげられたイメージ、すなわち、
ほとんど病的なまでの恐れと嫌悪を引き起こす悪魔的相貌を埋めこむことに成功
した。

ヨーロッパ人はこうした一連の観念をアメリカにもちこんだ。そしてわれわれ現代人
は、報奨金や報酬に動かされ、毒薬と罠とペテンと鉄砲を手に、さらには賢明な
技術がもたらしたヘリコプターや破砕擲弾(てきだん)などの武器とともに、オオカミ
に対する殲滅戦を遂行してきた。

ヨーロッパ人が侵略する前に北アメリカに生息していた二十四種のオオカミ亜種の
うち、七種が絶滅し、そのほかもほとんど絶滅の危機に瀕している。カナダ内陸
地域の南部、メキシコ、アメリカ合衆国のアラスカより南のほぼ全域から、オオカミは
効率的に駆除された。しかしなお、およそ二万頭が、ムース、シカ、カリブー、エルク
(北アメリカではオオシカを指す)と森林や北極圏のツンドラを共有している。

今では、飛行機、スノーモービル、オフロード車の使用により、多くのスポーツ・
ハンターたちがこれまで比較的侵入が難しかった地域に入りこむことが可能になり、
そこにいた「大型狩猟動物」たちは危険な水準にまで激減した。この事態が、
狩猟者、運動用具業者、ガイド、ロッジ経営者、そのほか経済的利点に関わる
陣営の、オオカミに対する怒りに満ちたいかさまの声に火をつけた。

「オオカミが狩猟動物を壊滅させている。われわれの狩猟動物を! オオカミを
滅ぼさなければならない」

こうした非難に誰が耳を貸しているのか。

政府は、耳を貸す。すべてではないにせよ、大部分の地方政府・州の漁業狩猟局は、
ほとんどスポーツ・ハンティング・ロビイストにとってのトロイの木馬(トロイア戦争の際、
ギリシャの将オデュッセウスは巨大な木馬を作り、その中に兵を潜ませ、トロイアを
欺いて勝利した)といってもよい。しかもロビイストはじつに巧みに組織化され、潤沢
な資金をもっている。メンバーたちは、狩猟動物を自然の捕食者から守り、スポーツ
として動物を殺す者たちが高性能は武器で殺戮するに十分な数の生きた標的を
確保することができるよう、政府に対しておよそ抵抗できない影響力を行使する。

政府狩猟局の飛び道具として雇われた生物学者たちとは異なるという意味で独立
した大勢の専門家たちの意見によると、オオカミはその餌となる動物種にとって、
長期的安泰を維持することに決定的な役割を果たしているという。また、人間に
とっては何の脅威でもなく、家畜被害についてはほんのわずかな影響しか及ぼさず、
ほとんどの場合、人間の居住地域や農業地域に生息さえしていないことに同意して
いる。これは、重要な真理である。

オオカミの運命は、実際のオオカミのあり方によってではなく、われわれが故意に、
しかも誤って押しつけたイメージ、残忍さの権化として神話化された無慈悲な殺し屋
という、現実には私たち自身の反転された自画像以上のものではないイメージの
せいで追いこまれてきた。私たちは、贖罪の山羊ならぶ贖罪のオオカミを作り出して
きたのだ。


 

この文献の詳細ページへ 「狼と人間 ヨーロッパ文化の深層」 

ダニエル・ベルナール著 高橋正男・訳 平凡社


私はオオカミの咆吼を哀愁があると書いたが、時代や立場の相違によって聞く
人々はさまざまな思いをもったに違いない。中世はおろか十九世紀まで、ヨーロッ
パでは戦乱が続いたり、疫病がはやったりしたあとにはかならずといっていいほど
たくさんのオオカミが現れ、戦場に置き去りにされた兵士やウマなどの死体をむさ
ぼり食ったという。そのような戦場の夜の闇を貫くオオカミの遠吠えは不気味だった
に違いない。ジェヴォーダン地方の孤立した極貧の農民たちは、暗いろうそくの光
の傍らで聞くオオカミの不吉な遠吠えを息をひそめて聞いたに違いない。事件の
真っただなかにいた人にとっては、想像もできないほど恐ろしい思いだったことだ
ろう。

本書でみたように、人間とオオカミは太古の昔からつい最近まに至るまで、さまざま
な関わり合いをもってきた。フランスからまったく姿を消してしまった現在でも、人々
の心のなかに生き続けている。オオカミほど人間といろんな意味で深い関係にあっ
た動物はいないのではないだろうか。農民にとっては家畜を奪う不倶戴天の敵で
あり、権力者にとっては力のシンボルになった。光と影、暁と暗黒、さまざまな相反
する両義性をもって、われわれの想像力を刺激する。

急激に増え続ける人間とその文明と称する乱暴な破壊に追われた野生の動物たち
は、絶滅するか、人間と共生することを余儀なくされた。しかしあるものはそれを拒否
して、人間から遠く離れたところへ逃げた。オオカミがそうだった。オオカミは人間に
服従することを拒否して、荒々しい野生を守った数少ない動物のひとつである。この
ような視点から、オオカミを歴史的に見つめたのが本書である。
(本書より引用)

 
この文献の詳細ページへ 「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」

マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社


わたしたちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。多くの人間では、
人生についての話からオオカミ的なものはほとんど消去されてしまった。けれども、
このオオカミを死滅させては、わたしたちにとって危険である。サルの策略は、
最終的にはなんら成果を生まないだろう。サルの知恵はあなたを裏切り、サルの
幸運は尽き果てるはずだ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなた
は発見するだろう。そしてこれをもたらしたのは、策略や知恵や幸運ではない。
人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。
あなたはいろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたという
のは、策略をめぐらせるあなたではなく、策略がうまくいかなかったあとに残る
あなただ。もっとも大切なあなたというのは、自分の狡猾さに喜ぶのではなくて、
狡猾さがあなたを見捨てた後に残るものだ。もっとも大切なあなたというのは、
自分の幸運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残さ
れたあなただ。究極的には、サル的なものは必ずあなたを見捨てるだろう。あなた
が自分自身に問うことのできるもっとも重要な疑問は、これが起こったときに、
その後に残るのは誰なのか、という問題なのである。

なぜわたしがブレニンをこうも愛したのか、そしてブレニンが逝ってしまった後、
なぜ彼のことがこれほど恋しいのか、長い間わからなかった。それが今、ついに
理解できたように思う。ブレニンはわたしに、それまでの長期間の教育で学ぶこと
ができなかった何かを教えてくれたのだ。わたしの魂のなんらかの古代的な部分
には、まだ一頭のオオカミが生きているということを。

ときには、わたしたちの中に存在するこのオオカミに話をさせる必要がある。サル
のひっきりなしのおしゃべりを静かにさせるためにも。この本は、わたしができる
唯一の方法で、オオカミを代弁する試みである。
(本書より引用)






「ロミオと呼ばれたオオカミ」

ニック・ジャンズ著 田口未知・訳 エクスナレッジ より抜粋引用




There Was Once a Wolf Who Loved Too Much.
And What Happened to Him Was a Crime.?|?Reader's Digest




しかし、オオカミとなると話は別だ。人々は、「オオカミ」と聞いただけで本能的に恐怖心を抱く。広く浸透して

いるその恐怖心は、ほとんど忘れられない遠い過去から引き継がれたものである。僕たちの深層心理には

「オオカミは人間を襲って食べる」という考えが刷り込まれているようだ。恐怖心は事実によるものではなく、

感情によるもので、オオカミを観察する時間などほとんど持たなかった人たちによってあおられてきた。おそ

らく彼らはライフルの照準器を通して、あるいはオオカミが罠にかかったときにしか、その姿を見たことが

なかったのだろう。



いずれにせよ、オオカミという動物には、人間の集団真理の奥深くにしまい込まれ、錆びついてしまった警報

ボタンを作動させる何かがあるようだ。どこかにそうした条件反射が生まれる背景があったに違いない。おそ

らく数千年前、あるいはそれよりももっと古い時代には、オオカミを取り巻く状況が異なっていたのだろう。そう

した恐怖心に加え、人間が自分たちのものと考える動物・・・家畜、ペット、食糧や娯楽目的で狩りの対象と

なる動物・・・を奪われるかもしれないという経済的、感情的な要素もあったに違いない。



論理的に考えれば、まぎれもない捕食動物であり、純粋で妥協を許さない荒野の象徴であるオオカミにとって、

僕たち人間が文明と呼ぶものは完全に相容れない環境ということになる。神話や寓話、物語には、『クマの

プーさん』から『クマゴロー(ヨギ・ベア)』まで、親切で人に愛されるクマの話はたくさんあるが、同じような

イメージでオオカミが登場する話はほとんどない。『赤ずきん』や『三匹の子ぶた』、そしてモンタナからウクライ

ナまで、その土地土地で伝えられる物語の中で、オオカミはほとんど悪夢との境目にいる凶暴な動物として

描かれている。



旅人を襲って食らいつくとか、群れで赤ん坊を連れ去るといった作り話のために、イギリスの清教徒(ピュー

リタン)が新大陸に移住を始める17世紀までに、ヨーロッパの大部分の国ではオオカミ撲滅の動きが始まって

いた。荒野は暗く、不吉で、恐怖に満ち、悪魔が支配する土地と見なされ、オオカミはその悪魔の手先だった。

アメリカ人の祖先が新しい大陸の開拓を始めたときに、旧世界でのその習慣を新世界に持ち込んだとしても

不思議ではない。



19世紀初めに北米大陸を探検したメリウェザー・ルイス と ウィリアム・クラークは、信じられないほど多くの

有蹄動物やオオカミがいることに驚いた。当時、この大陸で狩猟採集生活を送っていた先住民は、オオカミを

呪うのではなく、オオカミに敬意を払い、共存していた。ルイスとクラークも、西部の広大な平原で遭遇した

オオカミは攻撃的ではなかったと描写し、人間にとって脅威の存在ではないとはっきり書いている。知識と経験

に欠ける開拓者たちが大挙して西部に向かってからも(射程距離にいるオオカミに手当たりしだいに銃を

向けたことは間違いない)。オオカミが人間を襲ったとか脅したという報告は、当時は大げさに誇張した物語が

好まれたにもかかわらず、ごくわずかだった。



しかし、人間による狩猟と生態系の規模縮小により餌が減ったことで、生き残ったオオカミの中にはヨーロッパ

から持ち込まれた家畜を襲うものも現れた。そこで、牧場主たちは大々的にオオカミ撲滅計画を実施する。

しかも、銃やとらばさみ、毒入りの餌の散布など、あらゆる手段を使ってオオカミを殺すだけでは十分では

なかった。人間における虐殺の最悪の例を思い出させるような拷問器具が考案され、オオカミに対して使われ

たのである。餌の肉の中に釣り針を仕込まれたり、生きたまま焼かれたり、死ぬまで馬に引きずられたりした。

口とペニスを針金で縛った状態で野に放たれることもあった。こうした撲滅計画は、住民から連邦政府からも

有益な活動として支持を得られた。



このようにオオカミの大虐殺へと人々を駆り立てた不合理で容赦のない敵意は、いったい何を意味しているの

だろうか? それは、鳥類研究としても知られる自然保護主義者のジョン・ジェームズ・オーデュボンに関する

1814年の記事からうかがい知ることができる。



オーデュボンは旅の途中で1人の農夫と出会う。家畜の一部をオオカミに殺された農夫は、仕掛けていた

落とし罠で3頭のオオカミを捕らえたところだった。オーデュボンが見守るなか、農夫はナイフだけを持って穴の

中に飛び下りると、オオカミの足の腱を切り裂き(オオカミが怯え、まったく抵抗しなかったことにオーデュボン

は驚いた)、ロープで縛り、次に自分の犬を自由にした。農夫とオーデュボンの目の前で、犬たちは無力な

オオカミをずたずたに噛みちぎった。罠にかかったり、負傷したりしているオオカミは攻撃性を持たない。僕を

はじめ、そうした状況にいるこの動物を目にしたことがある者にとっては、それは大して驚くことではない。



それより注目すべきは、オオカミへの農夫の残酷な扱いに対して、オーデュボンが何も批判めいたことを述べ

ていないことだ。オーデュボンは自然保護主義者として世界的に知られ、その彼がこの出来事に暗黙の承認

を与えていることこそが、当時の人間のオオカミ観を知る重要な手がかりになる。社会史家のジョン・T・コール

マンは、「オーデュボンと農夫は、オオカミは死に値するだけでなく、生きているだけで罰されなければならない

という信念を共有していた」と書いている。



虐殺は続いた。西部に残された最後の抵抗の地では、さまざまな名で呼ばれる狡猾で悪名高い“アウトロー”

のオオカミの首に懸賞金がかけられた。うまく逃げおおせることが伝説になったオオカミほど狙われ、1940年

代初めまでには大虐殺はほぼ完了した。そうして北部のミネソタ、ウィスコンシン、ミシガンなど、オオカミが

まだ生き残っているいくつかの小さな飛び地が、かつては北米全域に広がっていた生息地のかすかな名残り

となった。



しかし、1970年代から90年代にかけて、希少な野生種の保護への関心が高まった。そしてオオカミの持つ

不変の魅力に後押しされて、かつての生息地の一部にオオカミを再導入することに成功した。イエローストーン

国立公園がその最たる例だ。もっとも、批判的な意見がないわけではなく、激しい論争も続いた。



それどころか、今世紀に入ってオオカミの個体数が増え、生息地が拡大するにつれ、批判は激しさを増して

いるように見える。今も西部の牧場主や大規模なアグリビジネス事業者からは猛烈な反オオカミのメッセージ

が発せられ、それがスポーツハンティングに関わる人たちの支持を得てさらに勢いを得ている。彼らはオオカミ

を野放しにすれば、その通り道にいるすべてのもの(彼ら自身を含む)が残らず餌にされてしまうだろうと主張

する。もちろん、彼らがオオカミが原因だと言い張る生態系の荒廃が、なぜ何千年前も前に起こっていなかった

のかという疑問については、うまくはぐらかしている。



人間とは違って、オオカミが他の種を絶滅に追い込んだという科学的根拠はまったくない。当然ながら、反

オオカミ陣営からは、無制限の虐殺や生態系の規模の縮小がオオカミではなく人間によって引き起こされた

もので、ルイスとクラークが報告したように、バイソンやシカやムースの群れの消滅を加速させたのは人間だ

と指摘されることもない。



十分な証拠に基づいた最近の研究によれば、オオカミのような最上位の捕食者は弱い個体をまびくことで、

捕食される側の動物の数を一定に保つという重要な役割を果たしていることがわかっている。その結果、生態

系のバランスを保つことにも貢献しているのだ。イエローストーンへのオオカミの再導入でも、環境に大きな

変化が生じた。たとえば、彼らのおかげで食い荒らされた植物や枯渇した川がよみがえり、アスペンハコヤナギ

などの植物や、ビーバーやツグミ、カットスロートトラウトといった多くの生物種が救われた。さらに、オオカミの

再導入によって自然な形で他の捕食動物が駆除された。若い狩猟動物や家畜をねらって襲うコヨーテの数が

減っているのだ。



しかし、こうした肯定的な影響にもかかわらず、人々の恐怖心をあおる誤った情報が、ローワー48州での

オオカミとの戦いに勢いを与え続けた。そうした状況はオオカミの最後のフロンティアであるアラスカでも

変わらない。





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2013年9月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ニホンオオカミ(埼玉県・猪狩神社の狛犬)・写真は他のサイト「こまちの通り道 -オオカミ像を求めて」より引用



若い頃、奥秩父の山々を縦走し、武甲山の山頂に着いた時には日が暮れてしまっていた。



慣れない夜道を歩くのは危険だと思い、山頂で一夜を明かそうと思ったが、このままでは死ぬと思うほど風が

強く、避難場所を求めて山頂付近を彷徨っていた。



すると3畳ほどの信仰遺物を発掘するための無人の小さな掘っ立て小屋があり、私はそこで眠れぬ一夜を

明かした。



最近、この山の登山口に狛犬(オオカミ)の像が置かれていたと知ったが、当時はその像があったことすら

記憶にない。



ニホンオオカミが最後に目撃されたのが1910年のこと、今から100年以上も前である。



しかし前の記事にも紹介した「オオカミの護符」によると、1933年(昭和8年)にはまだ奥秩父近くでオオカミ

の群れがいたとの言い伝えがある。



当時の私はニホンオオカミについて、またこの一帯がオオカミを崇めていた地域だとは知らなかったが、何故

か武甲山を初めとする奥秩父や奥武蔵の山々には惹かれていた。



遊牧民であるモンゴルの人にとっても、オオカミは神であり、自らを「蒼きオオカミの末裔」と名乗った。

勿論、家畜がオオカミに襲われることがあったが、それでもモンゴルの人々は彼らの生態に敬意を表していた

のである。



最後に「オオカミの護符」小倉美恵子著より引用しますが、いつかまた、この地を踏むことができればと願っている。



☆☆☆☆



千嶋章市さんは、「お札だけでなく神社のお犬さまもすげぇんだぃな」と、参道の狛犬にまつわる不思議な実話を

語り出した。それは、狛犬が猪狩神社にやってきた昭和8年のこと、狛犬は、隣の両神村(当時)をさらに越えた

小野鹿町(当時)から運ばれてきた。今のように舗装された道はなく、古池の人々が大八車に乗せ、山道を少し

ずつ進んだ。途中で日が暮れ、宿を借りた家で「不思議」は起こった。



狛犬を縁側に置いて休んでいると、狛犬を取り囲んでいる何かの気配がしたそうだ。人々は恐ろしくて見ることは

できなかったが、そのうちにオオカミが遠吠えを始めたという。山から本物のオオカミが下りてきていたのだ。朝に

なって恐るおそる狛犬を見に行くと、その周りにはオオカミの足跡がたくさん残されていたという。「あまりに石像の

出来栄えが素晴らしいので、オオカミが喜んで出てきたのだ」と、幼い千嶋さんは聞かされてきた。昭和5(1930)年

生まれの千嶋さんは、このときのことを鮮明に覚えており、近隣の人々も皆この話を信じたというが、今はもう知る

人が少なくなってきたことがとても寂しいようだ。



確かに猪狩神社の狛犬は、写実的でリアルな迫力に満ち、神社の雰囲気とあいまって、厳かな霊気すら感じられる。

千嶋さんは、何度も「ウソでないよ。本当の話だよ」と繰り返した。「それ、信じます」と言うと、あごけない表情を浮か

べ、嬉しそうに微笑んだ。「信じますとも」。なにせ、祖母が語る不思議な寝物語に背中を押されてこの旅に出た

私ですから・・・・。



☆☆☆☆




 

2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




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森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。



しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。



世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい

姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。



オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在

なのだと思います。



☆☆☆



2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。



オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。



熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると

限りなく低いのです。



また、丹沢の山中でを見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が

死にかけています。



生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている

気がします。



写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の

オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。



誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、

「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。


オオカミの肖像


 

2013年8月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




本日8月23日の夜明け(6時14分)です。

夜明けが雲で覆われていたり、雨のときは投稿しませんのでご了承ください。



神奈川県でも地域によって異なると思いますが、厚木ではここ3週間ほど雨は殆ど降っていません。

夜明けの写真を撮る時間帯は、ベランダの植物の水やりも行っていますが、近所の畑の作物は

完全に参っています。



厚木には「阿夫利(あふり)神社」がある大山(1252m)があるのですが、川崎・宮前区の土橋という

地域には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきました。



「オオカミの護符」小倉美恵子著によると、日照りが続いた時は、朝早く若い衆が片道40キロもある

大山までの道をリレー方式で行き、大山山頂の滝から「お水」をいただき、昼過ぎには土橋に戻って

雨乞いをしたと書かれています。



リレー方式とは言え、昔の人の健脚には驚かせられます。



土橋にも息づいていた「オオカミ信仰」は埼玉の奥秩父や奥武蔵が源なのですが、若い頃に山に

夢中になっていた私は奥秩父や奥武蔵の山々が好きでした。標高はそれほど高くはないのですが、

周りの自然と自分が一体となっているという不思議な感覚をもたらしてくれたからです。



100年以上前、この山奥では「オオカミの遠吠え」がいたるところで聞かれていたことでしょう。映像

で見聞きする「オオカミの遠吠え」を聞くと、昔の人が何故オオカミを神と崇めていたのか分かるよう

な気がします。いつかこの耳でオオカミの遠吠えを聞けたらと思います。



☆☆☆☆


 

2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。



APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue

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火星が地球に最接近(写真はNASAより引用)



明日4月14日に火星地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。



写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から

赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。



アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源

は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。



「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー

ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと

思います。



ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。



100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。



 

2014年6月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




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種を植えて4年目で咲いた合歓の木(ネムノキ)の花

前に住んでいた近くの山にあった合歓の木、その優雅な木に魅せられ、その種を集めていました。

こちらに引っ越し、そしてしばらくしてこの種を鉢に植えましたが、それは丁度4年前のことです。

合歓の木は葉に特徴があるのですが、咲く花も優雅さを湛えています。

山にあった合歓の木は、いつの間にか枯れていましたが、10年前この木の下で拾った種が、違う場所で新た生命を咲かせる。

子孫という形あるものだけでなく、「受け継ぐ」という神秘も感じさせられます。



☆☆☆☆

そして、まだ寒さの厳しい夜、

彼が鼻面を星に向け、

長々とオオカミのように遠吠えをするとき、

声を上げているのは彼の祖先たちだ。

彼を通じて、もう死んで塵となってしまった祖先たちが、

鼻面を星に向け、何世紀もの時を超えて遠吠えしているのだ。



ジャック・ロンドン
「オオカミたちの隠された生活」ジム&ジェイミー・ダッチャー著 より引用

☆☆☆☆




美に共鳴しあう生命







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アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

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