「狼と人間 ヨーロッパ文化の深層」ダニエル・ベルナール著 高橋正男・訳 平凡社
オオカミ(狼)の肖像を参照されたし。
(本書 「あとがき」高橋正男 より引用) ひとりの男が深い雪の森のなかを歩いて行く。やがて彼は立ち止まると、空を仰ぐようにして両手を口に添え、 「ウォオ・・・・・・・・」と、腹の底から絞り出すように、息の続く限り吠えると、その声に応えるかのように、今まで 雪を被って眠っていた野獣たちが立ち上がり、つぎつぎと吠え始める。オオカミである。人間とオオカミの咆吼 は相呼応するかのように続く。このシーンは野生動物のドキュメンタリー映画のラストシーンで、私がもっとも 好きな場面である。ひとつの咆吼は高低・強弱を織り混ぜる。つぎからつぎとオオカミたちの唱和する咆吼は、 昔から言い伝えられているような人間を恐怖におびえさせたというあの咆吼ではなく、滅びゆく種族への挽歌を 思わせる何かしら哀愁を帯びるものである。 私はオオカミの咆吼を哀愁があると書いたが、時代や立場の相違によって聞く人々はさまざまな思いをもった に違いない。中世はおろか十九世紀まで、ヨーロッパでは戦乱が続いたり、疫病がはやったりしたあとには かならずといっていいほどたくさんのオオカミが現れ、戦場に置き去りにされた兵士やウマなどの死体をむさぼ り食ったという。そのような戦場の夜の闇を貫くオオカミの遠吠えは不気味だったに違いない。ジェヴォーダン 地方の孤立した極貧の農民たちは、暗いろうそくの光の傍らで聞くオオカミの不吉な遠吠えを息をひそめて 聞いたに違いない。事件の真っただなかにいた人にとっては、想像もできないほど恐ろしい思いだったことだ ろう。 本書でみたように、人間とオオカミは太古の昔からつい最近まに至るまで、さまざまな関わり合いをもってきた。 フランスからまったく姿を消してしまった現在でも、人々の心のなかに生き続けている。オオカミほど人間と いろんな意味で深い関係にあった動物はいないのではないだろうか。農民にとっては家畜を奪う不倶戴天の敵 であり、権力者にとっては力のシンボルになった。光と影、暁と暗黒、さまざまな相反する両義性をもって、われ われの想像力を刺激する。 急激に増え続ける人間とその文明と称する乱暴な破壊に追われた野生の動物たちは、絶滅するか、人間と 共生することを余儀なくされた。しかしあるものはそれを拒否して、人間から遠く離れたところへ逃げた。オオカミ がそうだった。オオカミは人間に服従することを拒否して、荒々しい野生を守った数少ない動物のひとつである。 このような視点から、オオカミを歴史的に見つめたのが本書である。 |
(本書より引用) 世界や古代を見渡すと、他にも栄光に満ちた、善良で輝かしいオオカミがいた。中国では、オオカミは天空 の護り神、天狼星だった。ギリシャでは、オオカミは美の神、アポロンに捧げられていて、その姿は、硬貨に 刻まれた。褐色の巻き毛のオリンポスの神の傍らにオオカミがいる構図であった。モンゴルでは、高貴な一族 の太陽のシンボルだった。幾つものシベリアの部族はオオカミの一族の末裔であると自称している。ウイグル 族は、彼らの祖先は二頭のオオカミとひじょうに美しい二人の娘とが「空で」結ばれて生まれたのだという。 「中国の年代記によると、突蕨(とつけつ)族の武器には銀のオオカミの頭部が描かれていた」(ウノ・ハルヴァ 『アルタイ系民族の宗教的表象』)という。そして、恐ろしい、栄光に満ちた、勇敢なチンギス・ハンは蒼いオオ カミを祖先にもった。そのことは何かしら尊敬に似た思いを起こさせる。日本では、この大神(オオカミ)は 夜の見張り番だった。彼は他の野獣どもから柔らかい皮膚の人間を守った。しかし、オオカミをあまり信用し すぎないほうがよいだろう。オオカミは番犬であったが、頭に紐をつけられるのを嫌がった。「人間に飼われて いないオオカミはいつも森の夢を見る」と諺にある。オオカミは、主人が口籠(くつご)しなかった場合は、泥棒 と主人を見境なく引き裂いてしまう。というのは、オオカミがすぐかっとなり、暴力を振るう力の持ち主で、フン 族の王アッチラのように、子ヒツジなどは抵抗できないほど強力な破壊者だからである。 人間はオオカミにじっと見つめられると耐えられなくなる。その視線は闇を貫くという。そのことから、オオカミ はもっとも優れた道案内者と言われた。『黄金伝説』によると、暗黒しか見えない聖エルヴェにとっては、オオカミ は盲導犬になった。古代ルーマニア人にとっては、オオカミは死者の魂の道案内であった。「オオカミは森の 秩序を知っているからである」。そして老いた泣き女は故人のために歌った。 オオカミはお前を導くだろう 真っ直ぐな道を通って 王の息子の方へ 天国へ向かって オオカミの主人となった多くの聖人の中に、聖モーデル、聖テゴネック、聖ジャンティウス、聖マロ、聖女 デュルビーヌ、聖オドン、一頭のオオカミが道案内した盲目の聖エルヴェ、聖アンヴェルなどがいる。 アッシージの聖フランチェスコは有名なグッビオのオオカミにかしずかれていた。このオオカミはイタリアの この地方を荒らし回り、住民をパニックに陥れていた。フランチェスコはオオカミを訪ね、友好条約を申し 込んだ。条件はもしオオカミが住民を平和にするならば、住民が食料を提供するだろうということだった。 条件は尊重された。この異常な出来事は実際に起こった事実の伝説的な翻案だと思われる。グッビオ 共和国とこの地を荒らし回っていた山賊との間をとりもった聖人によって平和が結ばれたというのが事実 である。 もうひとつのひじょうに美しい伝説が聖ヨハネとヴェルノルのオオカミを登場させる。洞窟の中で一人の哀れ な隠遁者が苦しんでいた。その側に一頭のオオカミがいた。隠遁者が死んだら食べてやろうと待っていたに 違いない。そこにバプテスマの聖ヨハネの腰の骨が入った聖遺物匣を持った一人の十字軍兵士が通りかか り、まさに死なんとする者の呻き声を聞いた。彼は洞窟に入って剣の刃を光らせてオオカミを遠ざけた。そし て聖遺物匣の役をする金の小さな十字架を老人に差し出した。老人は熱心に十字架に接吻し、息を引き 取った。そのとき良心の問題が起こった。兵士は自分の剣で穴を掘り、死者を埋めるべきか、オオカミに 与えてしまうべきなのか。 「オオカミよ、お前は死体と十字架を見守るのだ。至福なる聖ヨハネの名において、私が帰るまで忠実に彼を 守れ」と告げた。翌日、オオカミは死者に傷をつけることなく見守っていた。静かに永遠の眠りについた老人の 手前に、手を十字架に差し伸ばして喉を噛み切られた一人の乞食が横たわっていた。この場所に、修道僧た ちが教会堂を建てた。それがヴェルノル教会堂である。聖ヨハネの日にはその教会まで今でも巡礼の行列が 行われている。 ポケ・デュ・オー=ジュセは十九世紀の中頃、マルシュ地方の城主と彼の村のオオカミ使いとの間に起こった 出来事を語っている。 (中略) 「私は、ある夜、シャトールーの森の中で、オオカミの大きな群れが通るのを見たことを、二人の男から聞いた。 二人は恐ろしくなって、一本の木に登った。そこからオオカミたちがある樵(きこり)の小屋の戸口で止まったの を見た。オオカミたちは恐ろしい声で唸りながら小屋を取り巻いた。樵が出て来て、わからない言葉でオオカミ に話かけながら、群れの中を歩きまわった。それからオオカミたちは、樵に何の危害も加えることなく立ち去って 行ったという。 これは農民の話であるが、他に教育を受け、良識もあり、事業に巧みでもあり、近くの森でしばしば狩りをして いた人々の話がある。彼らは、一人の老森番が村からはなれた四つ辻で、奇妙な身振りをしたのを、二人が 目撃したことを名誉にかけて私に誓った。二人の男は隠れて見ていると、十三頭のオオカミが現れ、その中の 強大な一頭が魔法使いに真っ直ぐに近寄って行き、甘える仕草をした。魔法使いは他のオオカミに、イヌに そうするように、口笛を吹いた。そしてオオカミを引き連れて森の奥深く入って行った。二人の証人は男につい ていく勇気がなく、恐れのあまり退散した。 このことは、あまり真剣に語られたものだから、私が意見をさしはさむことはできない。私は田園で育ったので、 私が見たわけではないが、私の周りの人々が受けているある幻覚があることを長い間信じていた。今日でも、 私は、どこまでが現実で、どこからが幻覚なのかをはっきり言うことはできない。私は飼い馴らされた猛獣の 調教師がいることは知っている。いったい野生の動物を手なずける者がいるのだろうか。以上の事実を私に 語った二人の人物が同時に夢でもみたのだろうか。それとも自称魔法使いが自分の慰めのために十三頭の オオカミを手なずけたのだろうか。私が固く信じていることは、二人の人物が同じことを同じように見、そして 彼らが真剣に語ったことである」。 |
2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。 しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。 世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい 姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。 オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在 なのだと思います。 ☆☆☆ 2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。 オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。 熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると 限りなく低いのです。 また、丹沢の山中で星を見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が 死にかけています。 生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている 気がします。 写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。 誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、 「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。 |
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2013年8月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 本日8月23日の夜明け(6時14分)です。 夜明けが雲で覆われていたり、雨のときは投稿しませんのでご了承ください。 神奈川県でも地域によって異なると思いますが、厚木ではここ3週間ほど雨は殆ど降っていません。 夜明けの写真を撮る時間帯は、ベランダの植物の水やりも行っていますが、近所の畑の作物は 完全に参っています。 厚木には「阿夫利(あふり)神社」がある大山(1252m)があるのですが、川崎・宮前区の土橋という 地域には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきました。 「オオカミの護符」小倉美恵子著によると、日照りが続いた時は、朝早く若い衆が片道40キロもある 大山までの道をリレー方式で行き、大山山頂の滝から「お水」をいただき、昼過ぎには土橋に戻って 雨乞いをしたと書かれています。 リレー方式とは言え、昔の人の健脚には驚かせられます。 土橋にも息づいていた「オオカミ信仰」は埼玉の奥秩父や奥武蔵が源なのですが、若い頃に山に 夢中になっていた私は奥秩父や奥武蔵の山々が好きでした。標高はそれほど高くはないのですが、 周りの自然と自分が一体となっているという不思議な感覚をもたらしてくれたからです。 100年以上前、この山奥では「オオカミの遠吠え」がいたるところで聞かれていたことでしょう。映像 で見聞きする「オオカミの遠吠え」を聞くと、昔の人が何故オオカミを神と崇めていたのか分かるよう な気がします。いつかこの耳でオオカミの遠吠えを聞けたらと思います。 ☆☆☆☆ |
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2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue (大きな画像) 火星が地球に最接近(写真はNASAより引用) 明日4月14日に火星が地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。 写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から 赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。 アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源 は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。 「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと 思います。 ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。 100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。 |
2014年6月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 種を植えて4年目で咲いた合歓の木(ネムノキ)の花 前に住んでいた近くの山にあった合歓の木、その優雅な木に魅せられ、その種を集めていました。 こちらに引っ越し、そしてしばらくしてこの種を鉢に植えましたが、それは丁度4年前のことです。 合歓の木は葉に特徴があるのですが、咲く花も優雅さを湛えています。 山にあった合歓の木は、いつの間にか枯れていましたが、10年前この木の下で拾った種が、違う場所で新た生命を咲かせる。 子孫という形あるものだけでなく、「受け継ぐ」という神秘も感じさせられます。 ☆☆☆☆ そして、まだ寒さの厳しい夜、 彼が鼻面を星に向け、 長々とオオカミのように遠吠えをするとき、 声を上げているのは彼の祖先たちだ。 彼を通じて、もう死んで塵となってしまった祖先たちが、 鼻面を星に向け、何世紀もの時を超えて遠吠えしているのだ。 ジャック・ロンドン 「オオカミたちの隠された生活」ジム&ジェイミー・ダッチャー著 より引用 ☆☆☆☆ |