「ロミオと呼ばれたオオカミ」 ニック・ジャンズ著 田口未知・訳 エクスナレッジ
オオカミ(狼)の肖像を参照されたし。
本書より抜粋引用 さまざまな調査結果や目撃者の話によれば、つがいになったオオカミは、動物界ではほかに例がないほど強い絆を 築くそうだ。「死が2人を分かつまで」というわけだ。オオカミ研究者のゴードン・ハーバー博士は、雄のオオカミが死んだ つがいの雌(州が承認した捕食動物駆除計画で飛行機からハンターに撃たれて殺された)を見つけて、彼女を土に埋 め、その上に10日間覆いかぶさっていた例を報告している。 僕自身、10年近く前に似たような光景を目にしたことがある。クラレンス・ウッドと一緒に2頭のオオカミを殺して、はいだ 皮だけを持ち帰り、後日、その場所に戻ってみると、2頭の屍を取り囲むように足跡やその他の形跡が残っていたのだ。 2頭は大きな黒い雄と灰色の雌で、ほぼ間違いなく群れのアルファの雄と雌・・・群れの序列の最上位のつがい・・・ だった。死んだ仲間のもとに家族が集まってきたのだろう。その光景は今でも脳裏から消えず、僕がその後ハンター としての過去を捨て、別の道へと進む原動力になった。 オオカミの群れの関係性の緊密さを理解するもっと身近な手がかりとしては、飼い犬のことを考えてみるといい。人間 に対して無条件の忠誠と愛と犠牲を捧げる飼い犬の例は無数に記録されている。たとえば、火事で燃える家から赤ん坊 を救い出したり、死んだ飼い主の墓から離れようとしなかったり、家に帰り着くために何百キロもの距離を移動したり ・・・。そういうさまざまなエピソードが伝説、歴史、文学の中で語られてきた。飼い犬を表す総称[fido(ファイドー)]が、 ラテン語で「忠実な」を意味する[fidus]に由来するのももっともだと言えよう。 このように強い社会的な絆を形成し、維持する飼い犬の行動は、オオカミのゲノムに深く埋め込まれた性質から来て いる。狩りをし、子どもを育て、縄張りを守る・・・この3つは群れを存続させる重要な用件でもある。・・・という複雑な 集団行動には、飼い犬が僕らに対して示し、感動させてくれるのと同じくらいにひたむきな家族への献身を必要とする。 僕たちが犬たちの愛情に満ちた目をのぞき込んだとき、そこに見えるのは、人間が制御してきたオオカミの魂なのだ。 この2つの動物の大きな違いは、人間による選択的な繁殖のプロセスを通して、人間に忠誠心を向けるよう飼い慣ら されたかどうかだ。犬は、ただ人間に仕えるだけでなく、人間を愛するように教え込まれ、それと引き換えに人間は、 群れでの支配的役割を担う者として、犬たちに安全と食糧とリーダーシップを提供してきた。犬の行動を研究している 科学者の多くは、犬は人間とともに暮せるようにするために、一生子どものままの精神状態を保つようにつくりあげ られた、という説を支持している。一方、野生のオオカミは、これまでずっとそうだったように群れの仲間だけを信頼 する。そのため、人目を避けて影のように暮らす彼らに対して、人間は称賛と疑念と恐れが入り混じった感情を 持つのだ。 オオカミとの比較で言えば、同じ30年ほどの間に、僕は10頭を超えるグリズリーから突進され、追いかけられ、攻撃 された。ムースならその3倍は多い。ジョウコウジカの雄からも何度か急襲され、クロクマ数頭と雌のホッキョクグマ1頭 から歯をむき出しにして威嚇されtだこともある。さらに雄ジカの角をつかみ、素手やナイフで応戦しなければならな かったこともあれば、傷を負った雄のカリブーが頭を低く下げて角で僕を突こうとしたこともある。僕の周りでも、ヒグマ やグリズリーに襲われて怪我をした人が10人ほどいる(そのうちの何人かは友人で、1人は死亡した)。 だが、僕の知人(畜産家や罠猟師、数多くのハンターたちを含む)で、健康な野生のオオカミに襲われた人は1人も いない。ほんの少し噛まれたという話すら聞いたことがない。クラレンス・ウッドの古くからのイヌピアックの友人である ザック・ヒューゴは、14歳だった1945年にオオカミに襲われたそうだが、その行動ぶりから彼と父親は、そのオオカミは 間違いなく狂犬病にかかっていたと考えている。幸い、カリブーの毛皮の服がザックを守ってくれたという。 怖いもの知らずのオオカミは、しばしば狂犬病ではないかと疑われる。狂犬病のウイルスはアラスカの南東部から 南中部にかけてはほとんど存在しないが、北極圏や州の西部では突然ウイルスが広がることがあり、くすぶっていた 病気が数年おきに噴出する。致命的なウイルスは脳細胞を攻撃すると同時に破壊し、このウイルスに襲われた哺乳 動物は奇妙なほど従順になったり、恐怖心を見せなくなったりする。よろめいたり、よだれを垂らしたり、場合によって はやみくもに攻撃的になることもある。ザックの一件のほかに、アラスカでは何件か狂犬病のオオカミによる攻撃が 記録され、そのうち2件が死につながっている。噛まれた後に致命的な病気を発症したためだ。しかしそうしたリスク は、一般的な健康上のリスクに比べればきわめて小さい。 (中略) なぜ彼らは人間への攻撃をためらうのだろう? 長きにわたる共進化と自然淘汰を通して、人間はオオカミの遺伝子 の中に神格化された存在、または避けるべき重大な脅威として刷り込まれているのかもしれない。あるいは、人間は 自然界の他のどんなものとも似ていない奇妙な生き物なので、その異質性がオオカミの中に恐怖心を引き起こして いるだけかもしれない。いずれにせよ、オオカミは集団として、少なくとも人間が彼らを警戒するのと同じくらいは人間 のことを警戒している。つまり、人間がオオカミに対して抱く恐怖心はほとんど現実に即していないということだ。 となれば、オオカミに殺されるのは、とてつもなく不運なことと言える。おそらく宇宙ゴミのかけらが当たって死ぬくらい、 確率としては低いだろう。 2011年1月初旬、マイヤーズと同じように罪状認否を修正して裁判に臨んだピーコックは、やはり執行猶予付きの 判決(18ヶ月の懲役)を受け、罰金と賠償金も合わせて2600ドルの支払いを命じられただけにすんだ。そのほかには、 3年の執行猶予期間中の保護観察処分とアラスカでの狩猟と釣りの権利の剥奪を言い渡されのと、レヴィ判事の穏や かな訓戒を受けたくらいだった。それが州にできる最大限のことだった。オオカミも、死んだクマも、僕たちも、報われ ることはなかった。車に、州法の定める条件のもと、州のための正義が行使されただけだ。法制度は果たすべき役割 を果たした。僕たちのことは、僕たちでどうにかしなければならないということだ。 もちろん、僕たちは悲しんだ。当時も今も、何年もロミオと一緒に歩いてきたトレイルに入ると、いっそう胸が痛くなる。 つい、揺らめく影の中になじみの姿が見えないかと目を凝らし、風に乗って遠吠えが聞こえてこないかと耳を澄ます。 僕たちが見守ってきたものがきれいさっぱり消えてしまったことを悲しみ、1人ひとりが行えたかもしれない行動、あるい は行うべきではなかった行動について悔やんだ・・・そのときには気づくこともないままやり過ごしてしまった小さな選択 を、鳴り響く電話に出たきり外に出ていかなかったこと、その日にどのトレイルを進むかを気楽に決めたこと、それに、 コーヒーを飲みにどこかに立ち寄ったことも? いったい誰のどんな行為が無数の出来事の連続で構成されている 流れを変えることができたのだろうか? どうすればロミオはもっと走り続けることができたのだろう? それは誰にも わからない。 (中略) 公式見解・・・僕たちがニュースの断片で耳にすることや、当局から直接伝えられる内容・・・も、非常に辛辣なもの だった。人間がオオカミを愛したあまりに死に追いやった。よく考えもせずに彼をおびき寄せた、その利己的な行動を 考えれば完全に予想された結末だった、というものだ。この事件には4つの機関の捜査官が関与した。2つは州で、 もう2つは連邦機関の捜査官だ。彼らはこうした見解を信じるだけでなく、それこそが真実だと言った。彼らにとっては ほとんどいつも、自分たちが知るストーリーが正しいストーリーなのだ。 そう聞くと、ロミオの話は一見、野生動物が人間に慣れすぎたことが不幸な結果を招いた警告の物語に思えるかも しれない。だが、事実は物語とは必ずしも一致しない。ロミオは時間をかけて人間が慣れさせたのではなく、自ら やってきたのだ。最初のころは飼い犬とじゃれ合い、おもちゃを奪って遊んでいた。それは餌づけの産物のようには 見えなかった。そうした負の徴候はまったく見られなかったのだ。そして、彼を追い払うことはできなかった。そうしよう としても、戻ってきた。結局のところ彼は、鋭い感覚と知性を持つオオカミとして僕たちの近くで生きることを選び、 人間や犬たちと交流することを望んだのだ。それは彼自身の社会性によるだけでなく、僕たち人間のルールを次第に 理解することを通しての選択だった。 (中略) 僕はよく、数年前のあの春の日を思い出す。まるでそれが最後になるかのように、ロミオが雪の中で丸くなっていた 姿を・・・。静まり返った深夜、横で眠るシェリーと犬たちの寝息を聞きながら、僕はひとり、その光景を思い出し、 胸が苦しくなる。そして誰も起こさないように、静かに涙を流す。自分のために泣くのでも、オオカミのために泣くの でもない。僕たちすべてのために、ますます空虚になる世界に漂流する僕たちすべてのために泣くのだ。これほどの 悲しみから、どうやって希望を見いだせばいいのだろう? だが、この物語にはもうひとつの側面がある。それは、ぼんやりした光を発しては消え、また戻ってくる。暗い空を 横ぎるオーロラの光のように、ロミオという奇跡、そして僕たちが彼と一緒に過ごした年月を、誰も奪うことはできない。 憎しみではなく愛こそが、僕たちが背負う重荷なのだ。しかし、だからといって、その荷が軽くなるわけではない。 僕たちと一緒に過ごしている間に、ロミオは彼を見ようとやってきた何千という人々に驚きを与え、風景を生命力で あふれさせた。多くの人に、オオカミという種と僕たちが暮らす世界をもっと新鮮な目で見ることを教えた。知らず 知らず、あるいは気にもせずに、ただそこに自然体として存在するだけで、人々を近くに引き寄せた。友人と家族だけ ではなく、彼がいなければ一度も会うことのなかったであろう人たちをひとつの場所に集めた。 (中略) ロミオのおかげで、こうして僕を含めて、あらゆる背景を持つ人たちが出会い、お互いをよく知るようになった。そして 人々が親しくなり、顔なじみになることで、オオカミの存在と他人の存在を許容する空気もつくり出された。つまりロミオ は、僕たちの生活に共通の背景を与え、コミュニティの人々の距離を縮めたのだ。その結果、意見が異なる人とさえ、 たとえばオオカミにどう対処するかについて意見を戦わせている相手とさえ、直接考えや言葉を交換するチャンスが 生まれた。個人的にも集団としても、お互いにどんな人間であるかを知る機会になり、相手が何を信じているかも理解 できるようになった。こうして、オオカミはジュノーという町のストーリーに溶け込み、僕たちの一部になったのだ。 |
Book Review | A Wolf Called Romeo | Books and Bark
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How a Wolf Named Romeo Won Hearts in an Alaska Suburb
2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。 しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。 世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい 姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。 オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在 なのだと思います。 ☆☆☆ 2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。 オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。 熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると 限りなく低いのです。 また、丹沢の山中で星を見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が 死にかけています。 生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている 気がします。 写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。 誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、 「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。 |
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2013年8月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 本日8月23日の夜明け(6時14分)です。 夜明けが雲で覆われていたり、雨のときは投稿しませんのでご了承ください。 神奈川県でも地域によって異なると思いますが、厚木ではここ3週間ほど雨は殆ど降っていません。 夜明けの写真を撮る時間帯は、ベランダの植物の水やりも行っていますが、近所の畑の作物は 完全に参っています。 厚木には「阿夫利(あふり)神社」がある大山(1252m)があるのですが、川崎・宮前区の土橋という 地域には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきました。 「オオカミの護符」小倉美恵子著によると、日照りが続いた時は、朝早く若い衆が片道40キロもある 大山までの道をリレー方式で行き、大山山頂の滝から「お水」をいただき、昼過ぎには土橋に戻って 雨乞いをしたと書かれています。 リレー方式とは言え、昔の人の健脚には驚かせられます。 土橋にも息づいていた「オオカミ信仰」は埼玉の奥秩父や奥武蔵が源なのですが、若い頃に山に 夢中になっていた私は奥秩父や奥武蔵の山々が好きでした。標高はそれほど高くはないのですが、 周りの自然と自分が一体となっているという不思議な感覚をもたらしてくれたからです。 100年以上前、この山奥では「オオカミの遠吠え」がいたるところで聞かれていたことでしょう。映像 で見聞きする「オオカミの遠吠え」を聞くと、昔の人が何故オオカミを神と崇めていたのか分かるよう な気がします。いつかこの耳でオオカミの遠吠えを聞けたらと思います。 ☆☆☆☆ |
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2014年4月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 APOD: 2014 April 2 - Mars Red and Spica Blue (大きな画像) 火星が地球に最接近(写真はNASAより引用) 明日4月14日に火星が地球に再接近(マイナス1等級に輝く)しますが、お月様とも接近した姿が見られます。 写真は、3月末にスウェーデンで撮影された火星と「おとめ座」の1等星・スピカで、オークの木のすき間から 赤と青の対比する輝き(「はくちょう座」のアルビレオを思い起こさせます)が見えています。 アイヌの方は、スピカを狼(おおかみ)星という意味の「ホルケウノチウ」と呼んでいますが、日本語での語源 は大神(おおかみ)で、山の神として山岳信仰とも結びついてきました。 「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と日本書紀に記述されているようですが、ヨーロッパやイエロー ストーン国立公園で成功したように日本の森に狼を放すこと、それに対して異論や不安(恐怖)はあるかと 思います。 ただ私は、かつて日本の森を守っていた狼、彼らの遠吠えをこの日本で聞いてみたいと思います。 100年以上前に絶滅したと言われる日本狼、何処かで生き抜いていて欲しいと願っています。 |
2014年6月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 種を植えて4年目で咲いた合歓の木(ネムノキ)の花 前に住んでいた近くの山にあった合歓の木、その優雅な木に魅せられ、その種を集めていました。 こちらに引っ越し、そしてしばらくしてこの種を鉢に植えましたが、それは丁度4年前のことです。 合歓の木は葉に特徴があるのですが、咲く花も優雅さを湛えています。 山にあった合歓の木は、いつの間にか枯れていましたが、10年前この木の下で拾った種が、違う場所で新た生命を咲かせる。 子孫という形あるものだけでなく、「受け継ぐ」という神秘も感じさせられます。 ☆☆☆☆ そして、まだ寒さの厳しい夜、 彼が鼻面を星に向け、 長々とオオカミのように遠吠えをするとき、 声を上げているのは彼の祖先たちだ。 彼を通じて、もう死んで塵となってしまった祖先たちが、 鼻面を星に向け、何世紀もの時を超えて遠吠えしているのだ。 ジャック・ロンドン 「オオカミたちの隠された生活」ジム&ジェイミー・ダッチャー著 より引用 ☆☆☆☆ |