The Etude Gallery of Musical Celebrities - August, 1909



 

ベートーヴェン「合唱」

 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 

エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ)

エリザベート・ヘンゲン(コントラルト)

ハンス・ホップ(テノール)

オットー・エーデルマン(バス)

バイロイト祝祭管弦楽団及び合唱団



1942年、ナチス・ドイツ時代に演奏するフルトヴェングラー。しかし彼は

1933年、ヒンデミッド(ナチスの意向に沿う作曲を拒否し弾圧を受ける)

事件に対し、ナチスと対立。1938年、ドイツのオーストリア併合後、ナチ

スによるウィーン・フィル解散を阻止。1939年、第二次世界大戦が勃発

するがドイツに残り、国内のユダヤ人音楽家を庇護した人物です。戦後、

戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受けるが、無罪判決を受

け、1947年に音楽界に復帰する。このCDは1951年に演奏されたも

ので、彼の最高傑作と言われています。1954年68歳にて死去。


 




私自身、ベートーヴェンの人生そのものに強い感動を覚える。ロマン・ロランの

「ベートーヴェンの生涯」という名著に触れて、その想いをまた新たに感じた。

この第九はベートーヴェンの魂の結晶とも言える素晴らしい作品であり、深く

そして強く心を揺すぶるものである。そして指揮のフルトヴェングラーこそ、

ベートーヴェンの訴えたかったものを真に聴くことができた偉大な天才である。

(K.K)


「心に響く言葉」1997.6/6を参照されたし


 
 


不朽の名演、バイロイトの「第9」


この録音は、1951年7月29日、第二次大戦後、初めてバイロイト音楽祭が再開

された記念すべき実況録音であり、フルトヴェングラーを語る上で最も重要な資

料といえよう。こんなにすばらしい「第9」は他に決して例が無いし、今後もこれ

以上の演奏が現われる可能性はきわめて薄い。フルトヴェングラーの特徴が

「第9」という大曲、名作を得ていやが上にも輝き、これほどまでに見事な演奏

を産んだのであろう。彼の棒の下、ベートーヴェンの音楽の本質が最も生き生

きと再現されている。しかし、ここでわれわれが感動するのは、結局のところ

ベートーヴェンの芸術の力に他ならないのであって、それだからこそ指揮者の

使命は重要なのだ。最近、演奏の客観性ということが叫ばれているが、「第9」

のような人間くさい音楽を表現するのに、指揮者が冷静であったら一体どんな

ことになるのだろう。指揮者が「第9」の魂と同じ高さ、同じ激しさ、同じ歓喜と

興奮の中に自ら生きなければ、決して真の生命は再創造される筈もないので

ある。 (中略) バイロイトでこの演奏を聴いたある人が「こんなに速いテンポ

をとっていいのか」と思ったそうだが、ああ、そのような理性的な聴き方こそ呪わ

れてあれ。この演奏の後で他の演奏に接すると、あまりの安全運転にかえって

反感をおぼえる。他の指揮者は単なる交通整理をやっているだけではないか。

あんなのを再創造とか再現芸術とか言うのはおこがましい。フルトヴェングラー

の表現でこそベートーヴェンの思想は生き、全人類は遥か星空の下、愛する父

に向かって連れ去られるのではあるまいか。なお、フルトヴェングラーの「第9」

の録音は他にも出ているが、部分的にはともかく、全体の深い感銘において、

このバイロイトの実況録音が抜きん出て優れている。

宇野功芳 (本CD パンフレットより抜粋引用)


 


「ベートーヴェンの生涯」 ロマン・ロラン著 片山俊彦・訳 岩波書店
より引用



親愛なるベートーヴェン! 彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々が、

それを賞賛した。けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりもさらにはるかに以上の者である。

彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。



世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。

愛する者を失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前にすわって何もいわずに、あきらめた

嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように、そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれ

の側にもある凡俗さに抗して果のない、効力の見えぬ戦のために疲れるときに、このベートーヴェン

の意志と信仰との大海にひたることは、いいがたい幸いの賜ものである。彼から、勇気と、たたかい

努力することの幸福と、そして自己の内奥に神を感じていることの酔い心地とが感染して来るので

ある。彼はあらゆる瞬間に自然と融合する体験を重ねることによって、ついにもろもろの深い精力

と融け合ったかのように見える。一種の恐怖を交えた賛嘆をベートーヴェンに対して持っていた

グリルパルツァーは彼についてこういった・・・「彼は、芸術が自然の本然的な気まぐれな諸要素と

溶け合うような恐るべき点まで達した」と。シューマンも「第五交響曲」について同じようなことを書い

ている・・・「この作をたびたび聴いていると、それは、生起するたびごとにわれわれの心を恐怖と

驚嘆で充たすような自然現象の力に似た避けがたい力をわれわれの上に影響させる」。また、

ベートーヴェンが心をうち明けていた友シントラーは・・・「彼は自然の霊をつかんだ」といっている。

まさにその通りである。ベートーヴェンは自然の力の一つである。そして、この元素的な一精力が

自余の自然を対手にして戦うありさまは、まことにホーマー的な偉大さを感銘させるところのすば

らしい見物である。



彼の全生涯は嵐の一日に似ている。・・・最初にはさわやかに澄んでいる朝。もの倦いかすかな

微風が吹く。しかし早くも不動の大気の中に、ひそかな威嚇があり、重苦しい予感がある。突如、

大きないくつもの影が横切り、悲劇的な雷鳴と、深いざわめきに充ちた沈黙と、猛烈な風の打撃

が来る。・・・すなわち、「英雄曲」と「第五」がそれである。しかし昼の光の明澄さはまだそのため

に傷つけられてはいない。歓喜は依然として歓喜であり、悲しみも希望も保ちつづけている。



けれども1810年以後、魂の平衡は破れる。照らす光が奇妙なものになって来る。最も明るいさまざ

まの思想からあたかも水蒸気のようなものが発ちのぼるのが見られる。それらは散ったり再び集結

したりしながら、憂鬱な気まぐれな曇りとなって心を翳らせる。音楽的な意想は、靄の中から一度

二度浮かび出たかと思うと再び靄に呑まれてまったく消滅したかのように見えることもしばしばで

ある。そしてそれがもう一度現われ出るのはただ楽曲の終わりに突風的にである。快活さそのもの

が一つの厳しく野生的な特性を持ち始める。あらゆる感情へ苦味がまじり込む。



夕闇が降りてくるにつれて、嵐は集積する。そして今や、稲妻を荷って膨張している重い真黒な雲の

団塊、・・・それが「第九交響曲」の最初の部分である。・・・大旋風の最高潮において急に闇が裂け

て、無明が天空から追い出され、意思の行為によって昼の光の明澄さが取り戻される。



どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか? ボナパルトのどの勝利、アウステルリッツのどの

赫々たる日がこの光栄に・・・かつて「精神」が果し得た最も輝かしい光栄、この超人的努力とこの

勝利との栄光に匹敵し得るだろうか? 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みその

もののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す・・・それを

世界に贈りものとするために、彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の

誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、

雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった・・・



「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」



(1815年10月19日、エルデーディト伯夫人に)


 



自己の内部へ閉じこもり、一切の人々から切り離された彼は、ただ自然の中に浸ることだけを

慰めとした。「自然がベートーヴェンの唯一の友であった」とテレーズ・フォン・ブルンスヴィックは

いっている。自然が彼の安息所であった。1815年に彼を織ったチャールズ・ニートがいっているが、

彼は、ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を完全に愛する人間を見たことがなかった。

自然はベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。「私ほど田園を愛する者はある

まい」とベートーヴェンは書いている。「私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する・・・」

({・・・森や樹々や雲が巌が返し与える木魂は人間にとってまったく好ましいものだ・・・」)彼は毎日

のようにヴィーンの郊外を散策した。暁から夜まで帽子もかぶらず日光の中または雨の中を、独り

で田舎を歩き廻っていた。「全能なる神よ! ・・・森の中で私は幸福である・・・そこではおのおのの

樹がおん身の言葉を語る。・・・神よ、何たるこの荘厳さ! ・・・この森の中、丘の上の・・・この静寂

よ・・・おんみにかしずくためのこの静寂よ!」




 


歓喜の歌 - Wikipedia より以下引用



ベートーヴェンは生涯にわたってシラーの詩集を愛読したが、実際に交響曲第9番ニ短調『合唱付』

作品125の第4楽章の歌詞に織り込むにあたって、3分の1ほどの長さに翻案している。冒頭にバリ

トン歌手が独唱で歌う“おお友よ、このような音ではなく…”は、ベートーヴェンが自分で考えたもの

であり、シラーの原詩にはない。



「歓喜に寄せて」



おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(ベートーヴェン作詞)



歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る



汝が魔力は再び結び合わせる
(1803年改稿)
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(1785年初稿:
時流の刀が切り離したものを
物乞いらは君主らの兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で



ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ



そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい



すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
薔薇の路をたどる



自然は口づけと葡萄酒と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ



神の壮麗な計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟よ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ



抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ



ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界よ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう


 

 芸術においても、学問においても、優秀な作品、平凡な作品を問わず、二流の作品は自己の

拡大であるが、第一級の作品、すなわち創造は、自己の放棄である。この真理がもうひとつ

はっきりわかっていないのである。なぜなら、第一級の作品と、二流の作品の中でも優秀な

作品とは、どちらも栄光の輝きにつつまれて、いっしょくたにされ、区別がつきかねるからで

ある。どうかすると、二流の作品の方がすぐれているとみなされることさえある。



シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」 より


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia




2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。




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