「アイヌの星」末岡外美夫・著 旭川叢書 第12巻








本書・序 野尻抱影(遺稿・昭和52年10月30日歿)


アイヌの星名が機縁で末岡外美夫氏と逢った頃、サビタの洋化したヒドラシジャが豪華な純白の花鞠を点け傘もつけて、

雨をふくんで八方へ枝支れていたのを覚えている。氏の行動は驚くべきもので時に西方の風を巻いてくるかと思えば

アイヌの国から土の香を一杯に詰めた魔法の袋を持ってやってくる。日毎に増えつづける氏の記録は私にとって大きな

楽しみのひとつであった。



アンデスを歩きロッキーを駆ける氏はコヨーテの吠ゆる叢にインディアンを尋ねてアイヌの古老の姿を求めた。その記録を

「アイヌの星」と題して出版することを勧めてきたのだが慎重な氏は一向にその気がなかったようである。とうとう私が友人

の編集者に紹介して出版に踏み切ろうと氏に迫って、この珠編が生まれた。氏はまだまだ考証が足りぬと言ふが、これほ

どの資料を足で集めて考証した例は近来に稀である。考証の範囲も氏の語学力と行動力で実に広い範囲にわたっている。



末岡氏は小島修介氏ら多くのひとたちの功を称えるが、「星の弟子としてこれらほどに努力して初めて約束を完遂した人も

余りない。十数星霜の星の弟子が十幾世紀も埋もれていたアイヌの星を再び夜空に揚げる拳に、老骨がその一端を担った

ことの喜びは譬えようのないものである。泉下の小島氏も同じであろう。



ひそと棲む梟かコタン吹雪して



昭和48年 夏


 


目次


序 坂東徹 野尻抱影 堂本義雄


第一章 春の星

第に章 夏・秋の星

第三章 冬の星

第四章 藻汐草のイカラカモイ

第五章 カントとノチゥ

第六章 マッコイワク(クは小文字)・流れ星

第七章 ムンヌゥエプノチゥ(プは小文字)・彗星

第八章 ニサッサウオッノチゥ・暁の明星

第九章 アロヌマンノチゥ(ンは小文字)・宵の明星

第十章 モシリカルクル(最後のルは小文字)・火星

第十一章 チュプとクンネチュプ(ンは小文字)

第十二章 霧の中の星々


参考文献

あとがき

星名索引


 


本書より引用



ギリシャの最高神ゼウス(zeus 昼間の空の神「太陽」)は天ー明るい空ーの神格化されたものであるが、綏遠地方を

中心に広大な北アジアに君臨した匈奴の諸汗も、毎朝東方に昇る太陽を礼拝し、夕には月に祈ったと伝えられている。

天を神格化するのは古代民族にとってごく当たり前のことであるが、北東アジアのシャマニズム圏で、天そのものを

神格化した民族はすくない。彼らにとっての天は、人間の行為と人間の生きていく世界を支配し指導する、精神的実在

すなわち最高の実在と、空間の物理現象および大地の生産に強大な力をおよぼす物質的実在の概念が、ひとつに

なったものであって、神と同一視されることは極めて稀であった。とくにモンゴル人は天を自然界の最高の部分として

崇拝するが、これに特別の神格や霊があるとは考えなかった。匈奴の日月礼拝の風習はやがてモンゴル人に引継

がれることになったが、神として礼拝をうける太陽も含めて、ここでは総ての神の上に天が存在した。



モンゴルの神々は天の意志の道具もしくは天の各種の能力であって、天はこれを諸神の目的にし、モンゴル人はこれ

らの能力を特殊の実在として擬人視したのである。


(中略)



北東アジアのシャマン圏はモンゴル帝国の成立によってかなり大きな影響をうけた。その東北端は東江元府の置かれた

ニコライエフスクに至っており、当然樺太からアイヌモシリへの影響を無視するわけにはいかないと思う。アイヌモシリに

広く存在していたアニミズムの精霊たちが、外部から押し寄せた強大なシャマニズムの洗礼を受けて変容したのが、

イナウを捧げられる謂る神々であったとしてもおかしくはないであろうと思う。渡米したシャマンたちの天にたいする考え

方は、先に述べたモンゴル人と略々同じであったとみて差支えなさそうである。モンゴルのテングリは、本来概念的な

天を意味したものであったが、オゴタイ汗の時代にはかなり具体的に神という格を与えられている。天の最高神として

のカントコロカムイ(ンは小文字)も、初期の頃は特定の神格を所持するものではなく、当時のモンゴル人がもっていた

天の概念と同じものであったと考えられる。


(中略)

着物に十字の星形をした文様の刺繍をみることが多いが、この星形はノチゥノカ(nociw・noka 星・の形)とかカムイシキ

(kamuy・sik 神の・目)(キは小文字)とよばれて悪魔除けになるといわれている。星は天上の神の目であるからその形

を身につけることによって、神の目に見守ってもらえると考えていたという説があるが、どうもこの説は疑わしい。文様

について、いろいろな見解があるようであるが、星形文様の実物を何回見ても神の目として特別に誂らえたものと思え

ない。文様に護符的な意義を持たせるとしたら、竜神やヨモギなどがデザインすればよいし、紋付のように系譜の

シロシ(sirosi・印)でもか描けば大いによかろうと思うのだが、そのようなものも見当たらない。ユカル(ルは小文字)に

でてくる人間臭い神は、「大きな星 星の間に こがねの小星 光となって ぞっくり 小袖のおもて 星の輝きが

相照り合う」(金田一京助『ユーカラ集』Z 耳輪の曲 昭和41年) というようにシャマンの服装よろしくキラキラとして

美しい。たしかにシャマンの装身具にはいろいろな意味があるが、それがそのまま文様になったとは考えられない。

モシリノカノチゥも星が神であれば、モシリカルカムイ(ルは小文字)かモシリカルノチゥ(mosir・kar・nociw 国造・神・星)

(ルは小文字)とでもよばれそうであるが、現実にはそのようなよび方はない。後述するようにノチウはケタなど何種かの

いい方があるが、いずれも神格を与えられていない。



モンゴルのドロン・ウボングや昴にたいする信仰をみると、単にシャマニズム圏に発生したものではなくて、中国の影響

をうけていることが判る。とくに昴などの信仰は、遊牧民の間に農耕文化が侵入してからのものである。



モンゴルのシャマニズムが、中国やヨーロッパの宗教・文化の洗礼をうけて変質しのちのものは、周辺の狩猟採集民族

の間にあまり波及しなかったし、アイヌモシリまで大きな影響を与えることなく終わったらしい。和人の往来がはげしく

なりだした15世紀頃のアイヌモシリのシャマニズムは、この地で自然に発生したものが宗教的発達の或る一段階で

停止したものであるとみるより、北東アジアから強力なシャマニズムの波が押し寄せたときの不備な宗教体系がその

まま残り、しだいに衰退していく過程で分断とアニミズムの再融合がおこなわれたとみた方がよさそうである。この

再融合の際に狩猟採集民として生活に直接結び付かない星の神々が消滅し、天は日月や雷という具象に結びついた

のではなかろうか。チヌカルクル(ルは小文字)を「我らを見守る神」というように、謂う星を神として崇拝した名残りの

ような星名にしばしばぶつかるが、これだけでその星がアイヌモシリで神であったとはいい難い。







イナゥルノカ・獅子座αγεζη



イナゥルノカについて語られる伝承の荒筋は、つぎのようなものである。



時代が下がって、沖から来た弁財船と交易がはじまると、部落(コタン)の人たちは外来の品物に目が眩んで、気がついた

ときには川口から山の手に至る主な漁場はことごとく和人の支配するところのなっていた。力のあるものは僅かな報酬を

目当に出稼に行き、権力を喪った老人たちは家に引き籠ってしまった。そのうちに、和人が勝手に領地を定めて部落まで

も支配しようとした。やがて武力による威嚇の前に次第に屈服する部落がでてきたが、それだけでなく筋目の正しい首長

までがその地位を追われ、パルゥンクル(par・un・kur 煽動・する・者 「弁舌家」)などが和人に取り入って首長に任命され

るような恐しい時代になってしまった。



アッケンの近くにあったコタヌカも例外ではなかった。老首長に代わって実験を握ったネトシは、会所の役人や運上屋番人

などの意のままになって部落の人々を虐使した。長期間に亘る出稼と安い労働賃金で部落はすっかり疲弊してしまった。

出稼の賃金は米飯で支払われ、与えられた酒も勘定の際に差引かれて手許に残る賃金は一銭もなく、部落で夫や子供

の帰りを待ち侘びる一家に持ち帰るみやげは何ひとつなかった。このような生活の繰り返しは、アイヌを捨鉢にさせて

しまった。若者を中核に、心ある男たちが集まって現状からの脱却を試みたが権力と物の魅力に取り憑かれたネトシの

一派に知られるところとなり、再生の企ては総て失敗に終わり、これに関与した人々たちは更に過酷な使役に追いやられ

た。老首長の一人息子のタラクルは、妻と二人の子供を流行病で亡くしてからは毎日が酒浸りの生活であったが、番人

やネトシたちの圧迫に耐えかねて再び立ち上がった若者たちの熱意に絆されてその先頭にたつことになった。



二冬が過ぎ、三度目の春を迎えた頃には、抵抗戦に疲れ果てたり酒の誘惑に負けた者たちの脱落が相つぎ、タラクルの

周囲には数人の若者が従うだけとなった。彼等は夜陰にまぎれて「punpe-pa wa kutu kan (鯨の頭から矢を射ろ)」という

合言葉にネトシの本拠を襲ったが、ネトシたちの策に陥って捕らえられるところとなる。ネトシは自分の一人娘をタラクル

と結び付けて、その後見人として正式の首長に納まるつもりで策をめぐらしたが、タラクルの反対にあって失敗に終った。



タラクルが役人の手に渡されて処刑が行なわれるという前夜、ネトシの娘が手引きしてタラクルを助け出した。星の降る

浜辺で、心ある部落の人たちと酒を汲み交わしたタラクルは、すでに形見となった父のイナゥルノカを頭に戴いて、ネトシ

の娘や部落の人たちの止めるのを振り切って暗い海へ入っていった。タラクルは、妻と子の呼ぶ声に誘われたのであろう

か、しだいに高くなる波を越えて沖にむかって遠ざかり、再び帰ることはなかった。タラクルの戴いていたイナゥルは逆巻く

荒波に吹き飛ばされ、潮に流され海の涯てから天に昇った。それがイナゥルノカである。



イナゥルノカはタラクルが沖に向かって去った季節に、暗い水平線の上に姿をみせる。昔は浜辺で一杯傾けながら暗い

海原の上に輝くイナゥルノカに語りかけている老人の姿を見掛けたものである。(V C)



ネトシとその娘は疱瘡を病んで死んだとも(V)、ネトシは流行病で苦しみ抜いて死んだが娘は幸福な一生を送った(C)

とも言われているが、語り手の伝えるところはまちまちである。



アイヌシモリの東南部に伝わるヤィサマネナと同じものが、北東海岸でイナゥルノカの伝承に付随して伝えられている。

和人による有形無形の圧迫から逃避するために、和人から購入した酒に酔い痴れなければならなかったアイヌたちが

歌うヤィサマネナは、その軽快な調子とは反対に冷え冷えと醒めた心の中の呻吟である。合の手を入れる者の声と、

歌い手の咆哮が海鳴りとなって酒席に満ちるとき、連なる人々の涙の中にイナゥルノカの光芒が一瞬の輝きとなって

見えたのであろう。







スワラノチゥ 金星(宵の明星)



クンチ(ンは小文字)で挑発されたアイヌの若者たちが望郷の涙の中で見た星を

スワラノチゥ(suwara nociw <suwara  栖原・nociw 星 『栖原の星』) という。



札幌の北海道神宮の境内に入ると、神宮の東側の林の中に開拓神社がある。昭和15年に建立されたもので、享徳の頃

から明治25年頃までの開拓功労者36名が祭られているが、その中の一人に栖原某の名を見出すことができる。アイヌ

シモリの宵の西空に輝く明星に与えられたスワラノチゥという唯一の和人の名前は、ある意味合いでアイヌシモリの開拓

功労者にふさわしいものであるかも知れない。スワラノチゥのいわれについて知里真志保は「ユーカラの人々とその生活」

の中で、つぎのように述べている。



「・・・・江戸の中期から末期にかけて、松前藩に存在した、いわゆる場所請負制度では、漁場の労働力として、各地で

アイヌを盛んに強制徴用にかけました。それを『クンチ』ち云ったのであります。『クンチ』は絶対命令でありますから、

一旦この『クンチ』にかけられると、否も応もなく、もちろん『クンチのがれ』などというようなうまいこともなく、父は子から、

夫は妻から、若者は愛人から、さながら生木を裂くように引きはなされ、遠く異国の海に連れ去られ、そこで長い間、

自由を奪われ、それはそれはつらい労働にこき使われたということであります。北の方のアイヌは宵の明星のことを

『スワラ・ノチウ』と云いますが、これは『栖原(すわら)の星』ということで、栖原というのは有名な場所請負人の名で

あります(註記 石狩13場所の一つトママイの請負人栖原屋、松前藩直領地)。この栖原の漁場では、漁の最盛期

になると、アイヌを昼夜の別なく働かせ、秋の日がとっぷり暮れて、東の空(註記 西の空の誤り)に宵の明星がきらきら

光る頃・・・と云いますから夜の9時頃になりましょうか、・・・その頃になってからやっと休めの号令がかかって、夕食に

ありつくことができたというので、アイヌはあの星を『栖原の星』と名づけたということであります。・・・」


(中略)


クンチ(kunci 公事からの借用語、強制徴用)に徴発されたアイヌたちはコタンから場所までの往復の賃金も食糧も与え

られない上に、場所では過酷な条件のもとで労働に従事しなければならなかった。アイヌを使役する場所請負人の心は

まさに「・・・蝦夷人を雇ふに、金銭はいらず、此方より持渡る物少し計遣はしてやとふ也。働の間に酒飯などあとふれば、

珍らしき振廻に逢たる心地にて悦べども、酒飯にあきたる時は呵りても、腹立たるには却て働かず。・・・因て酒飯をあた

へるにかけ引有。酒は椀に一ぱいを三四人の中へ、握りめしも三人の中(一つ遺し、如斯にして程よく気をつくればいつ

迄も働くなり・・・津軽紀聞」と書き残されていた通りのものであった。



秋になって漁場が盛んになる頃にホロケゥノチゥは西の空から姿を消し、ホロケゥノチゥと並んで輝いていたスワラノチウ

だけが残ったと言い伝えられている。スワラノチウが沈む頃になって、粗末な仮小屋の中で窓からさし込む星明りをたより

に、一握りに満たない米飯を水で飢えを忍ばなければならなかったアイヌの中に病人が続出したのは当然のことであるが、

住み馴れたコタンの土を踏めぬまま漁場で倒れたアイヌには、クワ(墓標)を立てることも許されず、穴を掘って埋めたまま

放置された。無事にクンチを終えてコタンに辿り着いたアイヌも、冬期の食糧の貯えもなく、狩猟に耐える程の体力も残って

いなかったので、一家で餓死に追い込まれる危険に直面した。幸いコタンのアイヌウタリが援け合うことで飢を凌ぐことは

できたが、夫の留居に和人に連れ去られた妻は川に身を投じたりイケマ(ikema)やスルク(ルは小文字)を呻ぅて身の証しを

立て、既にこの世の者ではなかった。このように心ない偽政者や商人たちが己の栄達や欲望のために強制したクンチは、

謂ての平和な共存社会(原始共産社会)を根底から覆し、アイヌが想像することもできなかった此の世の地獄を人為的に

創り出した。その張本人の姿が今もスワラノチウとして衆人の目に曝されているわけであるが、このような悪業の星は

世界にも類のないものである。



キリスト者であり、当時の婦人の中でも卓越した見識をもっていたバチラー・八重子氏に



悪人が父の残せる家こはし

とく去りゆけとせまりたる日

向井家のながらふ問わすれまじ

小野正次郎にされしこのこと



とまで憤りをぶつけられた小野正次郎とその一味の姿は、そのまま現代の栖原そのものである。現在の土地ブローカー

とか土地売買業者は、株式会社などという法人を仕立てて世間の信用を得ようとしているが、大部分は本質的に昔と

変わらない侵奪者であり、今でも人を騙して文書に捺印させるのを常套手段として恥じない彼等であるから、小野正次郎

のような者にとってみれば、法的に有効な文書を偽造してアイヌの土地を騙収することは朝飯前であったに違いない。

アイヌウタリを、限定した「給与地」に追い込み、その上、さらに狡猾な土地ブローカーが喰い荒らしていった有様は、同じ

人間の所業とは考えられないほど非情酷薄なものであった。



現在の法も文書第一主義で、騙取された人間の心情や真実に必ずしも有利な判決を下すものでなく、「騙された方が

悪い」という和人の論理が優先しているように、アイヌの土地や財産の侵奪にたいして「北海道旧土人保護法」な何の

役にも立たなかった。昔の話(ウエペケレ)でなく、現代の和人たちのおぞましい姿に接するたびに、バチラー・八重子

氏はキリスト教から抵抗者(レジスタント)へ傾斜して行ったに違いない。敬虔なキリスト者をして・・・。



君が血ぞうたりが中に流れいる

などかおそれん黒鳥どもを



=美貌の少年英雄ポィウンぺ(ンは小文字)〈poy・ya・un・pe〉の血がアイヌウタリの体の中に流れているのだ。黒鳥

(kunne・cikap=wen・kamiasi・cikap 悪い怪鳥=和人)どもを、なんで恐れることがあろうか。=と詠ませたのは

他でもない、和人と呼ばれる私たちの先輩であり、私たち自身であった、という点を深く銘記しなければならない。







チクサクル(ルは小文字) 鷲座 α

ウナルペクサイノチゥ(ルは小文字)の主星ウナルぺすなわち鷲座のα星を

チクサクル(cikusakur 〈ci 我等を・kusa 舟で渡す・kur 勇者 「舟人」)という。



根室の町から半島の西海岸沿に東へ2時間ほど歩くと、ノッカマップの岬につく。海岸線は切り立った急崖になっていて、

千島から吹き上げてくる激しい風は段丘の上にある樫の木を、異様な形にねじまげている。3、40メートルの高さにある

段丘の上面は風に侵された上に、多量の火山灰に覆われ一見なだらかな起伏に富んだ丘陵に見える。



夏になっても肌寒く、風の穏やかな日は北へ流れ下るノッカマップ川の谷間にからみつくように、乳灰色の霧が濃く淡く

渦巻いてゆっくりと流れて行く。陽が落ちて、コタンの跡に立っている足許に露がのぼってくる頃に天上から四方に幕が

落ちて行くように星の世界が開ける。東から天の川と共に立ち昇るチクサクルは薄絹を引いたような霧を通して、紅黄色

から黄色に、また時には紅色へめまぐるしく色を変えながら、滲んだ光芒を放つ。チクサクルが高度を増す程に星の数が

ふえて、天の川が沖から半島を跨ぐ頃にぬか星も一等星も区別がつきかねるくらいに、まわり一帯が輝く星々に覆いつく

されてしまう。



場所請負人たちの不法に抵抗して蜂起した国後・目梨のアイヌを、この岬の上で処刑した松前藩が、その跡に一尺角

高さ二間の角材を立てたのは180年ほど昔の、寛政元年(1789年)夏のことである。四角の稜を黒く、四面を赤く染めた

柱は、死者に手向ける墓標というよりも、アイヌの抵抗を粉砕した松前藩の記念碑とでもいうべきものであった。



蜂起に失敗したアイヌたちの一部は国後へ逃れた。残りの者は西別、野付、シベッの海路を選び、陸路を辿ってきた者

たちとシベッ川の上流で合流して、斜里山道からオホーツクの海岸を目指したが、彼等を待ちうけていたものは、

マウタラケ総酋長が率いる300名余りのウラシベッの「御味方」アイヌたちによる阻害と、その後に迫る恐ろしい飢と病

であった。



その昔は、アイヌウタリの、



男共は

漁に行き

マレック(鉤銛)を手に

川辺を

駆け

女共は

魚をかつぎに行く

魚の背負い縄を長々と

かつぎ合って

走る



楽園であったアイヌシモリも、心ない和人たちの手にかかって荒廃して行き、



戦争から離脱してくる者

空腹を抱えて逃亡した者

がやってくる、そのたびに

持ち物とか

刀などを

分け与え、引きとめて



生活の場を提供して、互に共存して行くことを勧めたアイヌたちも、松前藩や場所請負人などの老獪な画策によって、

やがて内部から分裂して本来の美しい心まで見失うことになる。


(中略)


松前藩に協力して同胞を裏切った、斜里・ウラシベッのアイヌたちの70年後の姿を、武四郎は「知床日誌」文久3年刊-の

中で、つぎのように書き留めている。



「(武四郎が斜里の海岸に近づいてみると、浜辺にホッキ貝などが)打上がるを腰の二重にもなる斗の爺婆や見る影もなく

破れて只肩に懸ける斗のアツシを着、如何にも菜色をなしける病人等杖に助り男子(セカチ)、女子(カナチ)等大勢勢其

汐干にあさりけるが、我等を見て皆寄来りし故其訳を聞に、舎里、アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫を持つ

べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る魚者舟方の為に身を自由に取扱われ、男子は娶る比に成ば遣ら

れて昼夜の差別なく責遣はれ、其年盛を百里の外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて暮す者多く男女共に種々の病

にて身を生れ附ぬ病者となりはて、働嫁のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く、又夫婦にて彼地へ遣らるる時

は、其夫は遠き漁場へ遣し、妻は会所また番屋等へ置て、番人稼人(皆和人也)の慰み者としられ、何時迄も隔置れ、

それはいなめば辛き目に逢うが故、只泣々日を送る事也。如此無道の遣ひ方に逢うが故に、人別も寛政中ハ弐千余

(文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人、安政五戌午改百七十三軒七百十三人)有しが今は漸々半に成しぞうた

けり。」



まさに、想像を絶する地獄の世界である。



名もない北の草花が咲く頃になると、宵の霧に霞む国後の方から二人の従者をしたがえて昇ってくるチクサクルを、彼等

はどのような想いで眺めていたことであろう。



遥か昔から

星居の空より

私の目を通して

見渡したところ

その昔は

この国に

カムイの手になる

壮麗な大地が広がり

カムイの創造した

壮大な山脈が連なり

葦の原野は

岸辺を覆い

浜へ流れ下る水は

さらさらと小波立ち

海は凪いで

平和そのもの

だったのに

和人の武士共が

鉄砲を

もって

沖から入冦してきた

武士共と

見知らぬ者共が

勝手な掟をもって

侵略してきたために

人々が

楽しく暮していた

国は

荒廃してしまった

それ故に

人々は

武士共に抵抗した

この激しい戦(いくさ)

武士の仕掛けた戦

に立ち向い

同胞の

真の強者

真の勇者ばかりが

一丸となって迎え打ち

非道な武士共に

狙いをつけて

矢を

非道な武士共

めがけて

射放てば

武士共は

みんな

魂消て

舟に乗る

いとまもなく

互にころげ合って

逃げて行く

のであったが

そのうちに

陸を通る戦

数多くの争いが

おこり

人々の住む大地には

血の雨が降り

この国へ

再び武士共が

引き返してきて

大勢の武士共が

人々の作った国

カムイの造った砦

その砦を囲んで

立ち並んだ

そのとき

一人の首長が

出迎えにでて

こう言った

「さあて

武士共よ

昔の人は

和人であっても

何事が起ろうとも

互に談判をして

そこでは

得心のいく約束を

結んだものであるが

どうして

こう悪い和人になり

下ったのだろうか

私共と

あなた方が

互に戦をすれば

共に傷つき苦しむ

ことになる

私共と

あなた方が

互に兄弟として

平和な定め

正義のとり決めを

相談して

締結しよう」

と述べたので

武士の首領の

顔つきが

醜くゆがみ

言葉が

からんで喉の奥で

憎悪の

いくつもの苦い言葉

沢山の雑言を

くり返していたが

そのうちに

武士共の間に

相談がまとまり

平和な定めに

同意した



それから

しばらくして

武士から

呼出がかかって

真の戦士ばかりが

出かけて行った

そのとき

卑怯な武士共に

四方を取り囲まれて

同胞たちは

あわれにも

残念なことに

殺されてしまった

その真夜中に

真の勇士

真の強者ばかりが

敵討ちのために

襲撃しようと

物音を忍ばせて

武士の砦

砦を取り囲んで

突然

恐ろしい雄叫び

喚声をあげた

そのとき

同胞の

大勢の者共の

気合の掛声と

雄叫びの声が

あい続き

卑法の武士共は

あわてふためき

それとともに

敗走し去った



それからは

この国の

男共は

どこの沢

であれ

浜辺に面した

カムイの創造した沢

その沢ごとに

人間のなすべき仕事

人間の養育と

カムイノミをして

いたので

あったが

そのうちに

一体何者なのか

弁財船の奴共が

この大地に

侵入して

この同胞たちを

殺戮してしまった

のである

ここで改めて

私の身上を

語り明かす

ものである

私の名は

チクサクル

である

この大地を

守らせるために

天上で

カムイたちが

相談し合って

決められた者が

私であるために

輝く星に

変身して

人間の国を

私の目を通して

守護する者である

このように

人の想いを

見通して

真実を観る

ものであるから

非情な和人共が

多くの人々を

甘言でたぶらかす

なりゆきを

私は知っていた

それ故に

あわれにも

多くの人々が

病み苦しむその度に

深い悲しみの心

悲痛となって

私の顔の面は

涙で濡れ

そのあげく

ついに耐えかねて

私の心は

怒り狂う

のである



(V) 村上フサ媼〈RN三一)







「ペウタケとて鯨鐘をあげ」とあるのは、悪魔払いや危急の際に男性が女性のようなかん高い声で叫ぶことで、このよう

な叫びをペゥタンケ(pewtanke)と言う。ペゥタンケは本来異変の際に女性が大声で叫ぶことであるが、急を要する場合は

男性も女性のような声で叫ぶとカムイが早く振り向いてくれるということから、男性も細く高い叫び声をあげると謂われて

いる。ペゥタンケはリミムセ(rimimse どしんどしんと音を立てる)あるいはマッリミムセ(mat・rimimse 女の・リミムセ)とも

言い、男性の叫び声をホコクセ(hokokse)あるいはオコクセ(okokse)と言うが、いずれもカムイを呼ぶ叫びである。日食に

気付いたアイヌモシリの人びとが反射的に取り得た行動といえば、稚内の記録にあるペゥタンケあるいはオコクセ程度と

いうのが本音であろう。つぎに各地に伝わる日食の際の儀式を紹介するが、いずれもニゥエン(niwen 悪魔払いの踏舞)

、ペウタンケが基本になっている。



〈T・U〉の地方

臼や桶を屋外に持ち出して

huwo hoy フウォ ホーイ

hoy oy ホーイ オーイ

と叫びながら、太陽の姿が旧に戻るまで打ち鳴らしている。



〈V・W〉の山地

手近くにある桶や木切れを力まかせに叩いて、

cupkamuy お日さま

hoy ホーイ

eray na あんたは死ぬよ

hoy ホーイ

yaynupa 息ふきかえせ

hoy ホーイ

と呼ぶ。・・・アイヌに伝承される歌舞詩曲に関する調査研究 知里真志保



〈U〉の地方

イナゥや杓子で天に水を振りかけて

cupkamuy お天道さまよ

tasum 病気が

hempan 早く

riten-kus-ne-na 治りますように

と祈る。



昭和11年(1936年)6月19日利子から斜里へ抜けた皆既日食は、白老の浜に点在していたコタンの上に、暗い影を

落した。当時白老のコタンクル宮本エカンマトク夫妻は正装して屋根にのぼり、エカシマトク氏がイナゥを捧げてチュプ

カムイの回復を祈る間、傍に水を入れた器を置いた妻は正座して枝で天に水を振り掛けたと伝えられている。



〈V・W・X〉の地方

男たちは欠けて行く太陽をめがけて蓬で造った矢を射掛け、女たちは身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、

cupkamuy 太陽のカムイよ

e-ray na あなたは重態だ

yayanu pa 甦れ

hoy oy ホーイ オーイ

と呼ぶ。



(V〉の東部海岸

器に清水を汲んできて、その水をイナゥや笹の葉で天に向かって振り掛け、心の中でチュプカムイの回復を祈るだけ

で、別に声を出して叫ぶようなことはなかった。

日食のときに叫ぶ呪文(?)の中には、つぎのような例(宗谷・名寄・X)

cupkamuy 太陽のカムイを

eatu 吐き出せ

eatu 吐き出せ

hoy oy ホーイ オーイ

もあるが、多少の差異はあっても日食の呪文や祈詩は、大体右にあげた程度のものである。



日食の現象を、怪獣や悪魔が太陽を捕えたり、あるいは呑み込もうとする現象だと考える信仰は世界的なものである。

ギリヤーク人は太陽の中にいるケムランカ(kem:ranka 太陽の・娘)が牡犬に喰われる現象がケムモント(kem:mont 太陽

が・死ぬ 「日食」)だと言い、天井の牡犬を追い払うために物を打ち鳴らして大声で騒いだり、牡犬を連れてきて食べ物

を与えて「太陽を旧通りに帰してやれ」と言い聞かせた。このギリヤーク人の口碑は、北欧の狼が太陽の女神ソルを

呑み込もうとした伝説と同類のものであろう。アイヌモシリの太陽を呑みこむ悪者はオキナ(ok-ina 鯨のばけもの)、

シトンペ(situ 山・un にいる・pe もの 「黒狐」)などと謂われているが、実のところ太陽を呑み込む悪者の正体がかなり

曖昧である。オキナあるいはシオキナ(si・okina 大きい・オキナ)と呼ばれているばけもの鯨は想像を越えた大きさで

上顎は天空にまで届き、天空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたというが、今となってはそのいきさつを詳かに伝える

オィナを聞くことは不可能である。



シトンペあるいはクンネスマリ(kunne 黒い・sumari 狐)と呼ばれる黒狐は、アイヌモシリの中部から北部にかけて割合

い軽んじられていたが、南部ではコタンを守護するほどの重いカムイとしてむしろ崇拝されていくらいなので、チュプカムイ

を襲う魔者として考えられない面の方が多い。





悪いカムイが

太陽のカムイを

呑み込もうとして

大口を開いていた時に

国造りのカムイが、

狐を

四千羽

ねずみを

四千匹

悪いカムイの

口の

中へ

投げ込んだ

ので

悪いカムイは

満腹になって

口を

閉じたので

人間たちは

助かった

のである。

狐や

ねずみは

人間に

恩を施してて

いるので

勝手に

人間の持っている物を

噛ったり傷つける

のである。

だから

決して

あまり悪く

言ってはならない。

悪く

いうと

ますます

害をなすもの

である



杉村キナラブック媼 他



 

Ainu.pdf へのリンク



APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 

 

2012年5月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



題・・・「お父さん、宇宙が、金環日食が、ここにもあるよ」・・・自宅近く



(K.K)



 

2012年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



2004年の金星の太陽面通過、太陽の右側に金星が写っています。(写真はNASAより引用)



今日の部分月食は厚い雲に覆われ見ることが出来ませんでした。



でもお陰で近くに天体観望できる開けたところを新たに開拓することが出来たので感謝です。



ところで、明後日の金星の太陽面通過ですが、上の写真は2004年6月8日の時のものです。



じゃあ明後日見逃しても数年後に見れるんだ、と思われたら大きな間違いで、次は105年先に

なってしまいます。



105年先というと、現在の赤ちゃんでも見るのは殆ど出来ず、その赤ちゃんの赤ちゃんが長生

きしてようやく見ることができるのだと思います。



私たちが明後日見る金星の太陽面通過、そして次に目にするであろう世代を想像するとき、

インディアンの言葉を思い出します。



☆☆☆☆



「私たちの生き方では、政治の決め事は、いつも七世代先の人々のことを念頭におきなが

ら行われる。



これからやってくる人々、まだ生まれていない世代の人々が、私たちよりも悪い世界で暮ら

したりすることのないように、できればもっと良い世界に生まれてこられるように心を配るの

が、私たちの仕事なのだ。



私たちが母なる大地の上を歩くときに、いつも慎重に一歩一歩進むのは、これから生まれ

てくる世代の人々が、地面の下から私たちのことを見上げているからだ。



私たちはそのことを、片時たりとも忘れない」



オレン・ライオンズ(オノンダーガ族)



「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」築地書館より



☆☆☆☆




(K.K)









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