「マヤ文明 聖なる時間の書」
現代マヤ・シャーマンとの対話
実松克義著 現代書林より
マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。マヤンカレンダー、 驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、そして人間の生贄 の儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。しかしマヤ文明の根底に流れている神話、 アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼らの驚くべき世界・宇宙観が見え てくる。この神話によると人間の生贄の儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた 退廃の時代であり、現代はその時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置し ていると言われている。立教大学社会学部助教授である著者は、グアテマラに暮らす マヤの末裔・シャーマンを6年にわたって現地調査し、多くのシャーマンとの対話を通し てマヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。それは時間その ものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。そこには人間の生贄の 儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。本書は本格的マヤ神秘思想研究 の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。 2000年6月9日 (K.K)
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実松克義(さねまつ かつよし) 立教大学社会学部教授
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ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレスの言葉 1926年生まれ、生粋のマヤのサセルドーテ・マヤ(シャーマン)であると共に、 サン・カルロス大学で40年にわたって哲学の教授を努め、弁護士、公証人で もある。彼は生涯にわたって古代マヤの伝統、特にアメリカ大陸最大の神話 「ポップ・ヴフ」の研究に打ち込み、その成果を世に問うためにつくられたグア テマラ・マヤ科学研究所の代表者である。 「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるものだ」
「でも、本当の意味でマヤ文明が発展するのはその後ですよね。そしてそれは西暦200年頃から 始まるいわゆる古典期において全盛期を迎える・・・・」 「そうじゃない。全く違うな。先ほども言った ように、第5段階は停滞と退廃の時代だ」 私はこれには驚いてしまった。マヤ文明の絶頂期といえ ばこの古典期であるというのが、定説なのである。ところが、ヴィクトリアーノはそのもっとも輝かしい 時代を、停滞の時代だと言うのだ。「マヤ文明の最盛期は200年ー900年頃のいわゆる古典期と いうことになっています。この時代に大都市が建設され、巨大なピラミッドが作られたのは間違いな く事実です。ティカール、カラコル、パレンケなどもこの時期に最盛期を迎えています。・・・・退廃の 時代とは・・・・」 「それは完全に誤解に基づく見解だよ。マヤ文明は古典期に突如として出現した わけではない。古典期に先行する長い発展の段階がある。マヤ古典期に巨大なピラミッドが作ら れたとすれば、それはそれまでの技術的蓄積の一結果に過ぎない。またそれ以前に巨大な都市 や建造物が存在しなかったわけでもない。天文学においてもそうだ。マヤ天文学における重要な 進歩はこの時期が始まるまでにはすでに終わっていた。あの正確なマヤのカレンダーの起源は 恐ろしく古いのだよ。だから私はこう言いたいのだ。むしろこの時代に目立つのはアハウ・テペウ、 チュチュ・ククマッツ、あるいは天の心、地の心に対する畏敬を忘れた人間の傲慢さと狂気である と・・・・」 「ひょっとしてそれは人間の生贄の習慣と関係があるのですか」 「まさにそのとおりなの だよ。この時代に人間を生贄に捧げる習慣が復活した」 「古代マヤ人が人間の生贄を行ったの は、夜の間に死の世界を旅して弱った太陽を復活させるためであるという説がありますね。つまり 世界の存続を確実なものにするために人間の血を捧げたのであるという・・・・」 「そんなバカはこ とを君は信じるのかね。生贄の習慣はもともと農業の発展と結びついている。これは文明の第二 あるいは第三段階で起きたことだ。この時代マヤ人はトウモロコシの栽培を始めた。したがって 彼らの精神は大地や地球という限られたものに縛り付けられていた。その時彼らは血がそうした 農作物を育てる優れた栄養であることを知った。こうしたことから生贄が収穫を保証する一種の 豊穣祭儀として発展することになる。しかしこの習慣はその後の文明の発展の過程でやがて消 滅する。だがこの第五段階にはそれがまた復活することになった」 「それは何故でしょう。なぜ 復活したんでしょうか」 「それは文明そのものが理性とバランスを失ってデカダンスに陥ったか らだ。そしてそれは自滅への道を歩むことになる」 「しかし」 ヴィクトリアーノはため息をつくよう に言葉を継いだ。「それでも最後の第六段階で起きたことよりはましだったかもしれない。第六段 階は文明の滅亡だ。君は西暦1524年にスペイン人征服者によりマヤ・キチェー王国が滅ぼさ れたのを知っているだろう。彼らによりマヤ文明の伝統は地上から抹殺されたのだよ」 「征服者 ペドロ・デ・アルヴァラードのことは聞きました。しかしマヤ文明の伝統は完全に失われたのです か」 「ああ、彼らは徹底的にそして組織的にマヤの社会と文化を破壊した。唯一残っているの はマヤのカレンダーと儀式だけだ」 ヴィクトリアーノはそう吐き捨てるように言った。よほど悔し かったのであろう。彼はかなり不機嫌そうであった。私は思わず自分が体験したマヤの伝統の すばらしさを述べてみたが、それがその場にふさわしい反応であったかどうかはわからない。 (本書 第13章 マヤ精神史 より引用)
「この世には必ず無知や誤解から、あるいは傲慢さからでたらめな風説を飛ばす人々がいるものだ。 われわれは知恵の力によってこうした愚かさから自由にならなければならない。マヤ人が運命論者 であったというのは全くの誤りである。それはマヤ文明を自由を知らない機械のような生命体の発明 として理解しようとする人々の傲慢さではないだろうか」ヴィクトリアーノは静かに、しかし威厳あふれ る口調でそう言い放った。「私の研究によれば古代マヤ人ほど人間的な要素に満ちている民族は稀 だと思う。“ポップ・ヴフ”を見るがよい。これは神話であり、詩であり、哲学であり、科学なのだ。彼ら は極めて知的で豊かな感性を持つ人間であった。そうした資質なしにどうしてあれほどの文化を創り 上げることができよう。マヤ人が時間にこだわったとすれば、それはそこに宇宙の真理があると思っ たからにすぎない。またマヤ人ほど調和という原理を徹底して考えた民族も少なかっただろう。“カバ ウィル”は対立の構造を示しているのではなくて調和的に世界が存在するための根本原理を表して いる。それは自然界あるいは人間界のあらゆる事柄が二つの異なった存在の協力によって生成発 展を遂げるという思想なのだ。男性と女性の関係もまたその例に漏れない。マヤ文化においては男 性と女性は見事に調和して相補的な関係を保っている。そこには性差別も不平等も存在しない。ただ 対等な立場による両者の協力関係があるのみだ。確かにわれわれの文明が一度滅びてしまったこと も事実だ。だがそれでもわれわれはまだあきらめたわけでもない。われわれ人間はただ理由もなく この世に生を受けているわけではないのだ。われわれには創造者から与えられた使命がある。その 使命とは良いものは守り悪いものは良くするということだ。これは単純なことではあるが、実現するの は非常に骨の折れることだ。その仕事はたぶん一代では終わらないかもしれない。だがわれわれの 未来、これから生まれる子孫のためにも継続する必要がある。たとえ私個人の肉体は滅びようとも 私の意思と仕事は子供たちに受け継がれてゆくはずだ。そして必ず努力が実を結ぶ時がやってくる。 その意味で人間の歴史は弁証法的な進歩の過程にあると考える。私はこれを“螺旋的進化”と名づ けたい” 彼は人指し指で渦を巻いて上昇する動きを示した。それはまるでアバハ・タカリックの儀式 で見た不思議な光の竜巻を思わせた。「人間は自分がどんなに有限な存在であろうとも、どんなに過 ちを犯す存在であっても、より高いものへの意思を持ち続けることによって、より良い方向に進むもの である。私はそう信じたい」 (本書 第13章 マヤ精神史 より引用)
やがて話題はマヤ文明の歴史のことになった。私は以前その歴史的段階についてのレクチャーを 受けたが、その中でもとりわけ現代とのつながりに関心があった。「以前にマヤの歴史的段階につ いて話をされましたね。その時に思ったのですが、ではマヤ文明の伝統とはもう滅んでしまったと お考えでしょうか」 「いや、そうは思わない。私は現在マヤ文明の歴史的段階の第七段階にいる ものと考えている。今から500年ほど前、マヤ文明は一度スペイン人征服者によって滅ぼされた。 だが完全にではない。マヤ人とマヤ文化は今でも生きている。われわれが今やろうとしているのは 失われた古代マヤの科学的伝統を研究して発掘し、現代に甦えらせることだ」 「よくわかりました。 ドン・ヴィクトリアーノ、それではあなたから見て現在の世界はどういう段階にあると思われますか」 「現在の世界はかつてマヤ文明が到達した最高の段階からはまだ程遠い段階にある。こうした比較 は単純に難しいが、しいて行うとすれば、第三段階の終わりあたりかもしれない。しかし非常に重大 な文明的危機に直面していると言えよう。例えばグローバリゼイションという現象がある。これは全 ての面で世界が標準されるということだ。どこに住んでいようとわれわれは同じような経験をしつつ ある。似たような衣服を着て、似たようなものを食べ、似たような娯楽を楽しんで、似たような行動 をし、似たような生活をしている。西欧文明の副産物として生まれた技術的発達、物質主義の結果 こうした現象が必然的に生まれることになった」 「たしかにそうですね」 「これは一見良さそうに見 えるかもしれない。表面的な意味での便利さ、快適さを実現しているからだ。特に物質主義は恐ろ しい速さで世界の隅々にまで広がりつつある。これは人間の欲望を刺激して止まることを知らな い。物質主義の力の下に今や世界は急速に標準化されつつあると言ってもよい。そして個々の 文化的伝統はそれほど特徴的ではなくなってきている。それはここグアテマラにおいてもやがて 大きな問題になるかもしれない」 「そうかもしれません。日本はすでにその洗礼を受けました。 異常とも言える経済的発展の結果日本社会は根底から変わりつつあります。今日本で起きてい るのは伝統文化の希薄化、もしくは消滅です。そのため日本人はアイデンティティーを失いつつ あるようにも思います」 「日本は世界でも最も技術文明が進んだ国だと思う。その中で固有の 文化に何が起きているのかは私にもある程度想像がつく。しかし文化とは本質的に深い精神的 な根を持っているものだ。それは別のもので置き換えることができない。だからそのルーツがなく なった時その社会は目的もなくさ迷うことになる」 「それはわかります。しかしそうした現象はただ 否定的な結果しか及ぼさないのですか。それによって新しいものが生まれる可能性はないので しょうか」 「おそらく非常に難しいだろう。ある意味ではこれは一種の文化的コスモポリタリズム につながるとも言える。しかしコスモポリタリズムとは正しい考えなのだろうか。私はそうは思わ ない。それは突き詰めれば世界を一つの言語、文化、社会でくくろうという試みだ。でもそれは あまりにユートピア的でうまくいかないだろう。いたずらに人間の精神基盤を奪うことになるから だ」 「ではそうした悪夢から抜け出すためにはどうすればよいのですか」 「それにはある決定 的な文化的革命が必要だ。文化の多様性を認めた上で全ての人間が共存できるような原則を 創り出さなければならない。そしてそのためには宇宙的調和に基づいた高いヴィジョンが必要に なるだろう」 「現在の世界が直面している危機はグローバリゼイションだけなのですか」 「そん なことはない。危機はどこにでもある。国際政治の世界、民族問題、人種差別、貧困の現実、 教育の退廃など挙げればきりがない。だがよりグローバルなレベルでは環境破壊という重大な 世界的危機が存在する。人間の活動による水や大気の汚染、森林の破壊による地球の砂漠 化、大気中の二酸化炭素の増加による温室効果、オゾン層の破壊、エル・ニーニョ現象など の気候の変化など深刻な問題が起きている」 「地球そのものが蝕まれているのですね」 「そうだ。君は中米を荒れ狂ったハリケーン・ミッチを覚えているだろう」 「ええ、二万人以上も の人々が亡くなったとか」 「これは人間の傲慢さに対するアハウ・テペウの怒りなのだ」 ヴィ クトリアーノはそう言うと感情をあらわにして、こぶしを握り締めた。「ではマヤの伝統にある叡智 は、そうした現代世界の危機的状況を救うことができるのでしょうか」 「私はマヤの思想的伝統 はそうした現代の危機的状況を救いうる重要な提言をしているのだと思う。またそれは今年一三 回にわたって行った公開討論会のテーマでもあった。マヤの思想の中で最も重要なもの、それは 一口で言えば調和の原理と言えよう。あるいは均衡の原理と言い替えてもよい。人間は幸福に 生きようと思えばこうした原理に基づいて生きなければならない。個人、家族、社会と文化、自然、 そして宇宙の中において」 「調和という考えは確かに現代文明が最も不得手とすることです。何故 なら文明の根本原理が経済的、あるいは物質的進歩にあるからです」 「調和という考えは物質的 進歩の思想とは相容れないものだ。物質的進歩は確かに生活における表面的な快適さを約束す る。だがそれは人間を精神的に幸福にするとはかぎらない」 「マヤの調和の思想と似たような考 えは他の宗教でもみられませんか? 例えばキリスト教でも神への信仰をとおしての心の平安を 説いています。その目指すところは同じなのではありませんか?」 「それは違う。まずマヤの伝統 では何事も強制されるということはない。全ては個人の自由意思だ。またキリスト教においては肉体 の罪を強調する。だから救済が必要になる。しかしこの救済はこの世では不可能だ。より程度の高 いもの、天国、あるいは永遠の生命はこの世にはない。すべては死んだあとのことだ。これは虚し いと思わないのかね。つまりキリスト教においては肉体と精神は本来的に敵同士であって、常に 相反しているのだ」 「ではマヤの伝統では全く違うのですか」 「マヤにおいては、すべてはこの世 で起きる。生も死も全てこの自然の中で、宇宙的循環の中で起きることだ。もし人間の幸福が重要 だとすれば、それはこの世で実現されなければならない。私の言うマヤの“科学”とは何よりその ための叡智を説くものだ。また精神を無理やりに肉体から引き剥がし、お互いを争わせるような ことはしない。確かにこの二つは異なったエレメントとして存在している。しかし両者は異質なもの としてお互いに協力し合う関係だ。マヤの二元論、カバウィルはご存知だろう。そこに働いている 根本原理は調和ということだ」 「でもそれはそう簡単に実現可能なことですか? われわれは 問題でがんじがらめになっているようにも思いますが・・・・」 「これは実践の問題だ。確かに生き るとは問題に直面することの連続であろう。だがわれわれが何かを実現しようとすればまずその 意思を持たなければならない。何故なら意思とはわれわれ自身の中のアハウ・テペウでもあるか らだ。調和の原理に従って理想的状態を実現しようという純粋な意思がある時、そこにはある 創造的な行為が生まれる。それは困難を乗り越えながらもより高い次元へと向かう。私はこの 展開を人間主義的弁証法と呼びたいと思う。あるいは調和の弁証法とも言えるだろう。この弁証 法はヘーゲルのそれのようにお互いに敵対するものの止揚ではない。マヤ的思想の根底にある 調和、あるいはカバウィルの原理に基づいた飛躍を意味する」 「それは最初に会った時にお聞き した螺旋的進化の考えと同じものでしょうか」 「そう言ってもよいだろう」 (本書 第14章 調和の弁証法 より引用)
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著者(実松克義)の言葉
マヤ人にとって時間とは必ずしも連続的なものではない。それは人間生活にさまざまな恩恵を 与えてくれるエネルギーであるが、同時に時と場合によっては生命や社会そのものをも破壊し かねないおそろしい存在であった。神秘の扉を開ける鍵ではあるが、その本質は極めて気まぐ れで凶暴なのである。そして時間は地上に生きる全ての生命に絶対的な影響力を持つ。それ はちょうど食料が生命の生物学的な維持を保証するように、宇宙における人間の存在を根底 から支えるものだ。初めに時間は過去を意味する。それは消し去ることのできない過去の営為 の集積である。しかし時間はまた未来をも意味する。何故なら過去はその強い影響力によって 未来を左右するものだからだ。そして時間とは現在そのものである。そこでは時間は実際に現 実世界を創り出している。したがってマヤ的な宇宙観では過去、現在、未来という単純な区分 はあまり意味を持たないことになる。言い換えるとわれわれが今生きているこの現在とは過去 から未来に及ぶ全ての時間を含んでいる。そこにあるものは宇宙の全存在である。このよう に、「時間」をとらえてきたマヤの時間思想は文明化された現代日本社会に生きるわれわれに とってどういう意味があるのだろうか。現代の日本社会において最も支配的であるのは西欧 文明に起源を持つ科学的時間概念である。この時間概念は時間を生命の内容とは全く無関 係に、直線的に流れる抽象的存在としてとらえる。その産物である時計は経過する時間を精 密に計測し、その貴重さを数量化してわれわれに教えてくれる。だが同時にそれはわれわれ を無機質に、機械的に縛るものでもある。われわれは文字通り、毎日を時間に縛られて働き、 学び、あるいは生活している。われわれはまた、年齢によって生き方を規定され、あたかも時 間の奴隷ででもあるかのように年老いていく。その意味では、科学的時間概念とはわれわれ から本来の人間性と自由を奪う意識にすぎない。もちろんわれわれの中にも依然として古代 から続いている日本的時間感覚が存在する。それはこの世界の全てが生成流転の中にある という意識である。この日本化した仏教思想から生まれた時間概念は独特の美しさを持つ無 常感の哲学を生み出した。こうした時間意識においては世界とは未来永劫に変化を繰り返す 存在である。ここでは時間とは虚しくうつろうもの、そして二度と帰らぬ生の象徴である。マヤ の時間概念はそうしてわれわれの時間観に対して、第三の道とでも呼べる時間思想を提示 しているのかもしれない。それは時間をより積極的に意味づけようとする試みである。世界 は時計の機械的な動きによって無機質に流れるものでもなければ、また無常に過ぎ去って 全てを無にするものでもない。それは世界に生命の息吹を与える創造的なエネルギーなの だ。それは無限に流れるものではあるが、同時に繰り返されるサイクルでもある。それは まず、ヴィクトリアーノ・アルヴァレスが言ったように、より高い次元を目指す根源的な螺旋 運動なのである。神聖暦において世界が二〇のナワールのサイクルによって展開されてい るというマヤの時間概念は確かにわれわれにとってわかりやすくはない。だがそれはあくま で文化的伝統の違いの問題である。それはマヤ文化における文脈の中では極めて自然な 結論である。古代マヤ人は極めて人間的な感受性を持った民族であった。すでに述べた ように二〇という数は人間の手足の合計を意味する。ヴィクトリアーノの見解を持ち出すま でもなく、明らかにマヤ人は二〇を完全数と考えた。そこにアハウ・テペウの叡智の全てが 凝縮されているのだ。また神聖暦の二六〇日は女性の妊娠の期間を意味する。ホセ・ナル シソ・タッシュの言ういわゆる生命の神秘がここにある。すると聖なる数十三とはその二つ をつなぐ虹のような存在であることになる。これは何という人間的な結論であることか! こうした視点から見直してみるとナワールという概念の中に存在する生命の内容の豊かさ に改めて驚かざるをえない。ここには人間の持つ性格、傾向、可能性、問題、そして存在 意義が網羅されているようにみえる。その意味でマヤのカレンダーは人間そのものを映し 出す鏡のような存在である。これは時間に投影された一種の「曼荼羅」であろうか。それそ れのナワールには明確な特徴があり、長所があり、欠点がある。それはまた生きるという 行為の中で具体的な知恵を授ける。何をなすべきかそこから導かれる。その意味でマヤ人 にとって「科学」とはまた倫理的な共同規範でもあったと言えよう。われわれは現在古いミレ ニアムが終わって、新しいミレニアムが始まる人類史の転換点に立っている。ただ残念な がらこの転換点はあまり幸福なものとは言えないようだ。現代の文明社会は問題だらけで あり、根本的な意味で世界は今や重大な危機に瀕している。そしてこの時期は奇しくも現在 のマヤの世界の時間が終わろうとする時期とほぼ重なっている。これは偶然であるとはい え、極めて象徴的である。われわれは今根底から生命の意味について考え直す時期にさ しかかっているのかもしれない。マヤ人は生命の神秘を深く哲学した民族である。彼らは その根本的解答を天体の運行に象徴されるような宇宙的展開の中に求めようとした。そし て「神としての時間」という唯一無二の思想に到達したのである。その哲学の全貌は神秘的 で、完全には理解できないにしても、それは何故かわれわれの思考を刺激する。それは また生きているとは何かと問いかけることでもある。 (本書 第15章 神としての時間 より引用)
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目次 まえがき プロローグ サンタモニカにて 生きたマヤの伝統を求めて シャーマニズムを巡る長い旅
第1章 神話の世界 神話「ポポル・ヴフ」の故郷・キチェー地方 フランシスコ・ヒメネスと「ポポル・ヴフ」の発見 マヤ・キチェー族の創世記「ポポル・ヴフ」 「双子」の英雄の物語 冥界シバルバーの征服 失われた歴史へのカギ
第2章 吉兆 マヤ民族直系の国グアテマラ 困難な旅 「最初の人間」創造からキチェー王国、マヤ統一へ マヤ民族の大移動と神々の黄昏 夜のサンタクルス・デル・キチェー イシル族の青年
第3章 精霊の住む洞窟 アロンソとフロレンシオとの出会い キチェー族の聖地クマルカハ 不思議な儀式 ウタトランの精霊ドゥエニョと闇の儀式
第4章 シャーマンの仕事部屋 トトニカパンのシャーマン、ベルナルドとの出会い ベルナルドの治療儀式 マヤの聖人サン・シモンの登場 ベルナルドとの対話 聖なる「石」の儀式 黒呪術師(ブルホ)の実在 マヤの十字架と四つのエレメント
第5章 太陽のカレンダー ホセ・ナルシソ・タッシュとの出会い 依頼人の運命を見る方法「ツイッテ」 ホセの祈りの声 「五人の博士」と目に見えない手術 マヤのカレンダーと「時間」の概念 カレンダーによるアディヴィナシオン 時間とは「距離」である
第6章 二つの顔を持つ神 現代マヤの信仰の象徴「サン・シモン」 作家エクトール・ガイタンとの対話 サン・シモンの成立 偉大なるサセルドーテ・マヤの予言 さまざまなイメージを持つ神 サンティアゴ・アティトランの「マシモン」 サン・シモンの二つの顔 年の神マムと聖人シモン
第7章 夢の教え サン・シモン信仰の総本山「サンアンドレス・イサパ」 ヴァルドー・ペレス・マロキンとの出会い ブルヘリーア(黒呪術)と魂の病気 三種類の「夢」 シャーマンと夢 「デスドブラミエント」または「運命のカメラ」
第8章 血の神秘学 生贄の儀式 マヤ文明と血の知識 ブラッド・レッティングー ガブリエル・レアンドロ=キエッヒ・チャンチャヴァックとの出会い 「死の神」サン・パスクァル 「血が語る」
第9章 魔術師の村 フロレンシオとの再会 運命を変えるシャーマン アロンソとの再会 アロンソの夜の儀式 魔術師アロンソ
第10章 異邦人 神父ブルーノ・フリソンとの出会い ブルヘリーアにまつわる怪事件 マヤの十字架とキリスト教の十字架の類似性 マヤの「時間」に関する対話
第11章 運命の哲学 ラ・レジェンダの儀式 フェルミン・ゴメスとの出会い 西暦2012年、終末は来るのか 真の聖なる時間の書「ポップ・ヴフ」 マヤの伝統の二元論的性格 聖なる十字架の意味
第12章 新しい波 若いシャーマンの夫婦 「火の見者」 カバウィールマヤの二元論 予知する女性シャーマン 太古の遺跡アバハ・タカリック 火の見者エドガーと「火の竜巻」
第13章 マヤ精神史 哲学者ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・フアレス マヤ文明は5000年前に始まった マヤ文明「六つの段階説」 「ポップ・ヴフ」にえがかれた真実の影 マヤの死生観 カレンダーと「時間」 螺旋的進化
第14章 調和の弁証法 キチェー語を学ぶ チャヴェスをめぐる謎 「ポップ・ヴフ」成立時の謎 世界創造の十字架 時間とは「生命の瞬間の連続」である 現代は第七の段階 調和の思想
第15章 神としての「時間」 マヤ・トルテカ文明説は正しいのか マヤ・カレンダーの起源をめぐる謎 世界創造とカバウィルの思想 聖なる時間とマヤの十字架 ピラミッドの底辺は世界を、高さは時間を 「マヤの時間思想」と新しいミレニアム
エピローグ モモステナンゴにて 起源への旅
附録 1.マヤ文明について 2.マヤ・キチェー神話「ポポル・ヴフ」とその現代語訳について 3.ウタトランの洞窟での儀式におけるアロンソ・グアチャック・イ・グアチャックの祈りのことば(原文) 4.マヤ神聖暦の20日(20ナワール)について 5・マムについて 6.マヤのカレンダーによるアディヴィナシオンの方法 7.1998年4月12日のアバハ・タカリックの儀式におけるエドガー・コヨイの祈りのことば(原文) 8.グアテマラ・マヤ科学研究所について 9.『マヤ・キチェー文化の根本原理 グアテマラにおけるマヤ・シャーマンによってなされた 聖なる書「ポップ・ヴフ」の解釈と研究』 10.キチェー語の表記について
主要参考文献
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2012年12月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 古代マヤ文明の「チチェン・イッツァ遺跡」にあるEl Castillo(エルカスティージョ)とオリオン座 (マヤでは亀を意味しています)。写真はNASAより引用 立教大学社会学部の生徒たちは幸せだと思う。この学部には阿部さん、実松さんという優れた研究者がいる。 阿部珠理さんはアメリカ先住民(インディアン)研究の日本の第一人者であり、実松克義さんも南米の先住民 のシャーマニズム研究では第一人者である。お二人に共通することは熱い心と卓越した現地調査力、そして 研究者としての冷徹な視点と平衡感覚を併せ持っていることである。 この一人、宗教人類学者である実松克義さんが2000年に書いた「マヤ文明 聖なる時間の書」は、アメリカ大 陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を基に多くのシャーマンたちとの対話の中で、マヤの世界観を明らかにしていくこ とだった。 「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるものだ」、ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス(グ アテマラ・マヤ科学研究所の代表者)。 同じ民族のシャーマンでもその世界観や技法は微妙に、或いは大きく異なる。これは沖縄・奄美のユタもそうで あるが、しかしそれは彼らの中に流れる源流の底知れぬ深遠さを逆に教えてくれるのではないだろうか。人智 を超えた大いなる光の流れ(振動)、この光は一つとして同じものはない遺伝子をもつ生命の魂を共鳴させ、 まるで虹のように様々な色を映し出させているのかも知れない。 「マヤ文明 聖なる時間の書」、私のサイトに書いた当時の感想を以下に引用します。 ☆☆☆☆ マヤ民族、それは私たちにどのような想像を植えつけていただろう。 マヤンカレンダー、驚くべき天文学的知識を持った偉大な天文学者、ブルホ(黒呪術)、そして人間の生贄の 儀式の存在など多くの謎に満ちた世界。 しかしマヤ文明の根底に流れている神話、アメリカ大陸最大の神話「ポップ・ヴフ」を紐解く時、彼らの驚くべき 世界・宇宙観が見えてくる。 この神話によると人間の生贄の儀式が復活した時代は、第五段階と呼ばれた退廃の時代であり、現代はその 時代よりも重大な危機を迎えている第七段階に位置していると言われている。 立教大学社会学部教授である著者は、グアテマラに暮らすマヤの末裔・シャーマンを6年にわたって現地調査 し、多くのシャーマンとの対話を通してマヤンカレンダーに代表される彼らの時間の捉え方を解き明かす。 それは時間そのものが生命を持った創造的存在であり、調和の思想だった。 そこには人間の生贄の儀式など存在しない世界・宇宙観が横たわっている。 本書は本格的マヤ神秘思想研究の第一級の書であり、あるべき未来の扉を開く鍵をも提示している。 ☆☆☆☆ |