Day-dreams (Piegan)

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


ジェメツ・プエブロ族の母子(1912年)

「アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち」明石書店の画像から


Kutenai maiden

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)




アメリカ・インディアン女性への賛歌

以下の言葉は「アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち」明石書店より引用



女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。


(チェロキの言い伝え)





先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト

たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し

ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは

この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。


ルネ・セノグルス(Renee Senogles)

レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa)





われわれの宗教では、この星は女性である。われわれを

生かしておいてくれるこの星はもっとも重要なもので、われ

われはかの女の恵みを受けて育っている。


メアリ・ゴーファー(Mary Gopher) オジブワ





女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。


オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え





この星は、われわれがずっと生活してきた家である。

女性はその骨で大地を支えてきた。


リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人





女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と

女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む

のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と

の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し

始めるだろう。


ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者





わたしは若い者に、われわれの女性がいてくれたおかげで自分たち

らしさを保つことができたのだと言い聞かせている。わたしは世界中

の人びと、わたしの子供たちにかの女たちの功績を伝えたいのだ。

いいか、かの女たちはただの女ではない。英雄なのだ。


ラッセル・ミーンズ(Russell Means)

オグララ・ラコタ・パトリオット(Oglala Lakota Patriot) 1995


 
 


白人の世界ではつい最近になってやっと、女性もまた知性があるのだから女性にも

投票権をあたえてもよいだろう、ということがわかったのである。インディアンはすでに

原始の時代にそのことに気づいていた。多くのインディアン部族のあいだでは、部族

会議のメンバーになる男を女性が選んでいた。それらの男たちの誰かが何か不都合

なことをしでかせば、女たちはその男を解任することができた。女たちはまた、子ども

が七歳になるまでのしつけには完全な発言権をもっていた。ときには女たちも戦闘に

参加し、敵の馬を追い散らしたり、おとりとなって主要な戦闘の場から敵兵を他の場所

へおびき寄せたりもした。かつてあるインディアンが言った。「われわれはずっと昔か

ら、女たちのなかには男よりも賢いものがいることを知っていた。酋長の生みの親は

女なのだから、彼女もまた酋長と同じように賢いにちがいない」


レッド・フォックスの言葉

「白い征服者との闘い」より引用



「母系社会研究会」

インディアンもそうだったが、かつて日本の祖先たちは母系社会の

中で、精神的にも社会的にも、そして未来への責任という意味でも

均衡ある態度を選択することが出来たと感じられてならない。この

「母系社会研究会」のサイトはそれを深く掘り下げている興味深い

ものである。



「ホピの太陽の下へ 女三人、アリゾナを行く」羽倉玖美子著

「母なる大地に抱かれて」 より引用


翌日、ズニとナバホのマリーンと一緒にビッグマウンテンにあるキー・シェイの家に向かう。

正しくは、キー・シェイの妻の「エルシィ・シェイの家」だ。マリーンはエルシィの娘にあたる。

ナバホもホピも母系制社会なので、家や畑は母から娘へと女性が継いでいく。住む場所が

あって、食べるには困らないということだ。父親が誰であろうともその女性が生んだ子供に

は違いなく、非嫡子と嫡子などの差別もない。温かく万物を育成し、包み込むような精神性

を感じる。



生まれた子どもは母の氏族(クラン)に属し、母の元で成長する。母が社会結合の中心だ。

離婚する時は簡単だ。女性が男性の持ち物をバッグに詰め、戸口に置くと離婚成立だそう

だ。「母系社会」というのも、インドネシアや中国の南部など、地域によって細かな違いはあ

るが、卑近な例を出して簡単にいうと、マンガ「サザエさん」のマスオさんスタイルだ。私の

周囲でも女性の家庭に男性が婿養子に入るという方が、嫁姑の争いはなく、平和な家庭が

多いように思われる。



女性の身体は、月経や出産など自然のリズムを内包し自然と共鳴する。それをマイナス

要因としない文化は、ヒトの男性のみならず他の生物にも無理強いしない。ヒトと他の生物

を分けることなく、生命共同体としてヒトもその一部だと考える文化をもった人々が生きた

場所は、大きく変わることがない。ユッカの葉をかごを作る分だけ切りとると、また新たな

葉が中心から生えてくる。トウモロコシもカボチャも豆も、昨年の命をまた今年つないでい

く。当たり前に見える自然の事象を創るもと、それはすべての命に活動力を与えている。

自然と共に生きる人々は、その力を感じ、それに対しての感謝を忘れない。



自然のサイクルの中で、自然の一つとして生きていくナバホやホピには「父系制」という発

想は生まれない。もともと「土地を所有する」という概念は、アメリカインディアンにはなかっ

た。大地は、地球に生きるすべての生命の母であり、父はその大地に生命の糧を与える

ものである。



私がアメリカインディアンの世界観に惹かれる理由の一つは、このような母系制を軸とした

ものだからにほかならない。私自身が非嫡子だということと、私が育った時代に当然のよう

にあった性の違いによる役割分担は、私が私という個性を生きる上で息苦しさを感じさせる

ものだった。



母は、望むべくして私を妊娠したわけではなかった。母は絶望のあまり自殺未遂もし、周囲

の非難の目にさらされながら、真実を誰にも話さず私を出産した。私の父にあたる人の家

で、しばらく暮らした母は、歓迎されざる雰囲気に耐えかね、ほどなく私をつれて実家に戻っ

た。母が入院した時に、二歳にならぬ私を即座に他人の家に養女に出したのは、母の親族

だった。



私と母の存在は、父系を是とする価値観の社会では忌むべきもので、親類たちは自分たち

の目の前から私の存在を消したかったのだと思う。私も母も、本来ならば協力し合って生き

ていかねばならない共同体の中から閉め出されたわけだ。彼女は、いまだにそのことを十

字架のように背負って生きている。



養女に行った先は、明治と大正生まれの夫婦の家庭だった。悪意はなかったのだろうが、

そこで「女々しい」「女のくせに」「女だてらに」「女が腐ったようなヤツ」など、否定的なニュア

ンスを持って「女性性」が語られることは、少女の頃に知った「非嫡子」という事実に上乗せ

するように、自分自身が否定されて存在していると感じられた。そして、「女らしさ」という外

側からの規制は、シャボン玉のようにあふれてくる様々な夢を壊す針のように思春期の少女

には思われ、フェミニズムの世界に答えを求めたりもした。



成人し、アメリカインディアンの世界に出会った時に、シンプルに母なる地球の子どもの一人

として、私が私であってよいという地点に立てたのだ。それは、古代、地球上のどこにもあっ

た生き方だったろうし、私の意識の奥深くに眠っている「心のふるさと」に出会ったような感覚

だった。「母なる」ものを敬うアメリカインディアンの生き方を知ることは、「女性性」を生きる

者への肯定のエールとして感じ、ヒトが生きるということを、大きな生態系の中で考えるきっか

けでもあった。



私がアメリカインディアンの地に行くということは、精神的な意味で、故郷に還るようなき持ち

であった。そして、これまでの私の人生に起こったことが、このような出会いを生む必然だっ

たのだと思えて、感謝の念のようなものさえ私の内から湧いてくるのだ。


 


「アメリカ先住民を知るための62章」阿部珠理・編著 第34章「ジェンダー」佐藤円 より抜粋引用


以上のような先住民の男性としての役割に不向きな男性には、女性として生きる機会が用意されている部族もあった。

彼らは一般にベルダーシュ(あるいはバーダッシュ)と呼ばれているが、肉体は男性でも女性の衣装を身にまとって女性

のように振る舞い、他の女性たちと一緒に女性の仕事にいそしんだ。彼らはいわば第三のジェンダーとして先住民社会

から認められ、部族によっては特別な能力をもつ存在として重用されていた。



次に先住民の親族制度からジェンダーを見てみると、アメリカ合衆国の北東部、南東部、南西部では、ほとんどの部族

において母系制が一般的であった。それらの部族では、結婚した夫婦は妻の家族と同居するか、妻の家族の近くに住む

ことが普通だった。また、母親こそが家族関係の中心で、生まれた子どもも母親から親族的アイデンティティを継承して、

妻側の親族の一員となった。妻は夫に経済的に依存しておらず、離婚も双方からの申し立てが可能で、離婚したら、家

は妻の財産であったため、夫が荷物をまとめて出ていった。母系制の社会では、母親の親族の男たちが子どもの養育に

責任をもつことが多かったため、離婚や死別によって父親を失った子どもも生活には困らなかった。この母系制における

父親という存在の希薄さは、男性の社会的役割が時として命の危険をともなうものであったため、万が一父親がいなく

なっても子どもの養育に困らないための仕組みであったと考えられる。



このように母系制が多数派を占めていたアメリカ先住民のなかで、平原地方の部族ではむしろ父系制が多かった。その

ような部族では、結婚した夫婦は夫の家族の近くに住み、父親が家族関係の中心で、生まれてきた子どもも父親の親族

の一員となった。しかしこのような父系制の部族でも、狩猟に加え農耕を行っていたところでは、女性が安定して食料を

確保できる作物の栽培という重要な仕事を担っていたため、必ずしも男性優位ではなかった。ところが平原地方に暮らす

部族の間に白人から手に入れた馬の使用が広まり、もっぱらバイソン狩りに依存した生活に転換すると、それを担った

男性たちの社会的影響力が増し、女性が男性に対してより従属的になっていったと考えられる。





本書 第53章「ベルダーシュ・・・『例外』を認める大らかな社会の象徴」」石井泉美 より抜粋引用


ベルダーシュとは、男性でも女性でもない「第三の性」として位置付けられ、アメリカ先住民の部族社会に存在を許された

人びとのことである。生物学的には男性、または女性であるが、身につけるものから発する言葉や声音、立ち振舞い、

果たすべき役割にいたるまで、生物学上の性とは反対の、もう一方の性とそれを模倣し、日々の生活もそのように過ご

す。ベルダーシュは男女ともにおり、文献上その存在が確認されているのは、アメリカ西海岸からミシシッピ川流域と五大

湖周辺までの広大な地域と東部フロリダ半島に、113の部族を数える。



女性のベルダーシュに限定すると、確認されている部族は30にとどまり、その分布も大平原以西に限られる。つまり、

ベルダーシュとは、先住民社会のどの部族においてもその存在が認められるわけではない。また、女性として生まれ

男性のように振る舞うベルダーシュよりも、男性として生まれ女性のように振る舞うベルダーシュの方が一般的であった。



先住民社会における、男性でもなければ女性でもないベルダーシュの存在は、一体どのように捉えたらよいのであろう

か。まず、彼らは「女々しい」や「男女」といった、からかいや嘲り、侮蔑の対象としてみなされたわけではなかった。異端

視され、社会の片隅で細々と暮らさなければならない人びとではなかった。ベルダーシュとは、先住民社会において、

畏敬、あるいは部族によっては畏怖の念を抱く対象とされた人びとであったのである。しかしながら同時に、先住民社会

とは、男女のあり方を性別による役割分業を明確化することで規定している社会でもある。ベルダーシュという、男性でも

ない女性でもない、どっちつかずの存在がなぜ先住民族たちの間で許されたのかを、「二分法」と「相互補完性という

先住民社会に共通の概念を基に考えてみたい。


(中略)


このように男女の役割が明確に規定され、その行為がアイデンティティの形成にもつながるのであれば、男女の境界線

を越えるベルダーシュの存在は一切許されないように思えるが、実際は違った。生物学上の役割として期待されたジェン

ダー・ロールを果たさずとも許されたのは、他の人にはない能力、特に超自然的な力が彼らには備わっていると考えられ

たためであった。



ベルダーシュの存在が確認されている部族社会においては、幼児期に本人が示した興味関心、または啓示体験のいず

れかがベルダーシュの誕生を決定づけたと考えられている。子どもが生物学上の性とは別の性がジェンダー・ロールに

興味を示した場合、その子がベルダーシュとして過ごしていけるようサポートするのが大人たちの役目であった。子どもの

意思確認のため、テストを行う部族もあったという。例えば、ノーザン・パイユート族では、候補となる少年を一枚の大きな

紙、または乾いた草の上に座らせ、弓と矢を一方に、もう一方には女性が手工芸品をつくるときに必要となる道具を置

き、座っている場に火を放って少年が逃げるときにとっさに手にしたものが彼の運命を決めると考えた。南西部に住む

パパゴ族においても、「藪テスト」なる実施が必須であり、場合によってはそのテストは何度も繰り返された。藪の中に入れ

られた少年は、放たれた火から逃れるとき弓矢とかごをつくる材料のどちらを手にするか、何度も試されたという。危険

極まりない状況に幼い子を置き、二者択一を迫るこの方法は、最初のテストで手にしたものと2回目以降のテストで手に

したものが違っていても構わない。つまりベルダーシュにはならないという選択をしてもよいということを表していた。





2013年4月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「男は女の力を恐れている」



(写真は『アメリカ先住民女性 大地に生きる女たち』から引用しました。)



中東やインドで起きている女性の悲劇を見るにつけ、私はそれを感じてならない。



恐らく太古の時代では多くが母系社会(母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度)で

あり、調和ある共同体をつくるために母系社会は最も基礎となるものだった。



縄文土器に見られる女性像などから、儀式を執り行ったのは主に女性だったのではないかとの説が

あるが、沖縄・奄美のユタ(殆ど女性)を除いて、世界各地のシャーマンは圧倒的に男性が多い。これ

はもともと女性は生まれながらに偉大な神秘が宿っていることを男性自身が認識しており、治癒など

の儀式や部族の指導者(女性の意見だけで決める部族もある)は男性に任せるというのが自然の流

れになってきたのかも知れない。



母系社会の中では性犯罪が起きることは考えられないことであった。例えばアメリカ先住民と白人が

憎み戦っていた時代の証言「インディアンに囚われた白人女性の物語」の中でも、白人男性の捕虜と

は異なり、女性捕虜が如何に大切に扱われてきたかを読むとることができる。



このアメリカ先住民の社会では、女性が男性の荷物を家の外に置くだけで離婚は成立し、その逆は

なかった。



ただ現代のアメリカ先住民社会は、子供を親から無理やり引き離し、言葉・生活習慣・宗教などの

同化政策がなされた影響で、アルコール中毒、自殺、家庭崩壊、貧困が深刻な問題になっているが、

虐待や育児放棄の被害にあった子供たちを母系の集団の中で世話するため、現在でも孤児は存在

しない。



母系社会がいつから父系社会に転換したのか、、定住とそれによる近隣との闘争という説もあるが、

私の中ではまだ答えは見つけられないでいる。しかし肉体的な力による服従が次第に母系社会を

崩壊させ、それが暗黙のうちに様々な宗教に伝統として紛れ込んだのは事実かも知れない。



日本では菅原道真などに象徴される「怨霊」や「祟り」を鎮めるために、迫害者に近い人が神社などを

つくり、祭り上げることで鎮めてきたが、同じように卑弥呼の時代は既に女性の力の封印が始まった

時期だと思う。また中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」も、宗教が関わりを持つ以前から民衆の間で

始まった説があるが、女性の力を封印させる側面もあったのだろう。



「男は女の力を恐れている」



無意識の次元にまで下ったこの感情を、あるべき姿へと開放させ、母系社会の意味を改めて問う時代

だと思う。



「アメリカ先住民」に限らず、「聖母マリア」、「観音菩薩」の存在は、暗にその意味を私たちに教えている

ような気がしてならない。



☆☆☆☆



「女性が死にたえるまで、部族が征服されることはない。」

(チェロキの言い伝え)



「先住民族女性と白人の女性開放論者のちがいは、白人フェミニスト

たちは権利を主張し、先住民女性は負うべき責任について主張し

ているところだ。このふたつは大きく異なる。わたしたちの責務とは

この世界にあるわたしたちの土地を守ることだ。」

ルネ・セノグルス(Renee Senogles)
レッド・レイク・チペワ(Red Lake Chippewa)



「女は永遠の存在である。男は女から生まれ、そして女へと帰っていく。」

オジブワ族(Ojibwa)の言い伝え



「この星は、われわれがずっと生活してきた家である。

女性はその骨で大地を支えてきた。」

リンダ・ホーガン(Linda Hogan) チカソー(Chichasaw)族 詩人



「女性を愛し、大地は女性なのだと教えられ育ってきた男たちは、大地と

女性を同じものだと考えている。それこそ本当の男なのだ。生命を産む

のは女性である。女性が昔から感じとっていた眼にみえない大きな力と

の関係を男たちが理解し始めるなら、世の中はよりよい方向に変化し

始めるだろう。」

ロレイン・キャノ(Lorraine Canoe) モホークの指導者



☆☆☆☆




 
 

2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。




 

2015年10月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







(大きな画像)


先日9月28日ののスーパームーンと皆既月食(写真はNASAより引用)



大西洋方面(ヨーロッパやアフリカ、南北アメリカ)ではこの二つの現象が重なり合いましたが、次にこの

二つの現象が見えるのは18年後の2033年です。



北海道のアイヌと共に、縄文人の遺伝子の多くを引き継ぐ沖縄、彼ら沖縄の人々の月への想いはどの

ようなものだったのか。



「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書より以下引用します。



<月の神>



◎月も、太陽と並ぶ久高島の最高神である。



月神は<マチヌシュラウヤサメー>(マチは待つ、シュラは美しい、ウヤサメーは尊い親の意)といっている。



月の光の柔らかなイメージが女性のイメージと同質と考えたのか、月神は神女たちの象徴で、家レベルでは

根神が、シマレベルでは外間ノロがその司祭者である。



また月は女親であって産む能力を持っていて、久高一人一人の命に責任があると考えられ、出生のとき、

結婚のときは月神に報告し守護を頼む。年始めの健康願いも月神に祈る。



穀物を生産する力も月神で、麦、粟で作った濁酒は月神の守護力を持った尊いものである。麦、粟の

農作祈願祭祀はこの濁酒を神女たちが「共飲して」おこなわれる。



太陽が一日の周期を考えるのに対し、月は一ヶ月の周期で考えられる。つまり、月の満ち欠けによって

月日を読む。



月もその光によって守護力が発揮されると考え、十三、十五、十八夜は守護力が強い吉日と考え、祭祀の

適日である。イザイホーも十五の満月の夜から始める。一年で月神の守護力である月光が最も充実して

いるのは旧暦八月の十五夜である。



この満月の夜に穀物の豊作と神女たちの健康願いがおこなわれる。月神も太陽神と同じく地上に降臨

することはなく、香炉もないまま、神饌を供える高膳が外間殿にあるだけである。月神を象徴する色は白である。

また月は普通、チチと呼ばれている。なお、日食は月神と太陽神の逢引といわれている。





Flathead mother

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)







アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)の言葉(第一集)

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)の言葉(第二集)

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