Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
1997.7.25
インディアンの源流であるアニミズムとシャーマニズム
アメリカ・インディアンの中に流れているものは何なのだろう。ただ単に 「動物愛護」や「自然愛護」という言葉では、それを表現することは、 出来ないものかもしれない。彼らの考え方・物の見方が結果的に、大 自然への慈しみに繋がっているとしても、その根底に流れているもの を探ってみなければならないのではないだろうか。あらゆるものの中に それが存在している意味を掴み取ることが出来る人々。そしてその中 に霊的な力を感じ取る人々。決してこの態度は頭で理解出来るもの ではない。何万年も前から彼らの魂に脈々と生き続けてきたものを探る 努力なしに世界各地の先住民族がもつこれらの叡智を真に体得する ことは出来ないであろう。今もって多くの誤解を生んでいるシャーマニ ズムがそれである。しかし、私はその入口にも達していない。そして、 それが真理と呼べるものかも今の私にはわからないし、どれ程の時間 をかければ理解できるのかもわからない。ただ、シャーマニズムが先住 民の源流をなし豊饒な精神文化を花開かせたことを思う時、この道は 今の私には避けては通れないものなのかも知れない。・・・・・・・
シャーマンとは、自らの意識を変容させ隠れたリアリティを探求し、様々な スピリット(霊)の助けを得て人々の力を高め、癒す古代技術と伝える人々 のことを指している。当然にキリスト教会が世界中に広まるにつれ、これら の人々は中世において魔女・魔法使いとして弾圧を受けることになってゆく のだが、私自身も含めてこのような古代技術に対して偏見を持って接する 人々が多いのも事実である。しかし、どちらの民が慈愛の心に満ちていた かを振り返るとき、このような偏見を持たず理解する努力をしてゆかねば ならないと感じている。幸いに多くのシャーマニズムの文献が出始めてお り、それらの文献を参考にしながら、そして何より大事な現実の生活を しっかりと見つめながら、つまり多くの生命により「生かされている自分」 を真に理解することを出発点とすべきかもしれない。そこからこの深遠な 叡智を探求する足掛かりが産まれてくるのだろう。ひょっとしたら私達は 幻の世界を生きているのかもしれない。シモーヌ・ヴェイユも感じたよう に、私達が現実と呼んでいるものは幻であり、その背後に真のリアリティ が存在しているのかも知れない。私達の心という鏡ははいつしか歪み、 あるべき真の姿をあるがままに見ることが出来なくなってしまっている。 目の前の存在がそのものの重みを伴って曇りなく心に映し出される時、 この道は光の中を歩んでいると言えるのではないだろうか。どのような 神秘的体験をしようと、この歪みのない鏡がないところには、真実の光は 映し出されることはないのだろう。・・・・・・・・・・・・・・
下に紹介するアメリカ・インディアンのアニミズムの世界。そしてそこに 根をはり開花したシャーマニズム。この「魅せられたもの」に私なりに 感じたことを書くことが出来るかどうかは今の私にはわからない。現代 文明が物の所有に囚われ、隣人との競争に打ち勝つことを目指すのに 比べ、アメリカ・インディアン並びに世界の先住民たちは「与えつくし」 を義務とし、他人に打ち勝つことではなく自分に打ち勝つことを目指し た。現代社会は多くの精神的基盤の喪失を産み、そしてそれに伴う 精神的病の蔓延、人間破壊の増加をこれからも自ら体験し続けること だろう。我々文明人の道徳あるいは良識と呼ばれるものは、殆ど根を 失っており、そこには浄化の力はすでに残されていないのかも知れな い。現代文明の吐き出す毒が、人間及び自然界にまで波及するのを、 多くの人が目の当たりにしても、未来の科学技術文明がこれらの毒を 中和するものと淡い希望を抱いている。未来の子孫にその解決を託そ うとしている人々が如何に多いことか。アメリカ・インディアンが常に 七世代先のことを考えていたことを考えると、現代文明社会は未来の子 孫への責任を見事に放棄してしまっているとしか言いようがない。そし て彼ら文明人がシャーマニズム、アニミズムに対して「野蛮・魔術使い ・悪魔」として容赦のない迫害を加えていくことになるのだが、現代心理 学は逆にそこに多くの精神的病に対する答え、癒しが存在していること に気づき始めている。先住民たちが何千年も遥か太古の時代からこの 癒しを熟知していたことは、我々文明人より遥かに奥深く人間の精神 世界に対しての知識を持っていたことを意味するものではないだろうか。
アメリカ・インディアンの古くからの伝統・信仰を守り続ける人たちは、 現代文明の利器を頑なに拒んでいる。その数は非常に数少なくなった とはいえ、電気・水道をひかず、苦労して遠くの水場まで毎日汲みに ゆく生活を続けている。ただ単に古い伝統に縛られているだけなのだ と多くの人は思うだろう。しかし、果たしてそうなのだろうか。私はその 逆だと感じている。文明の利器を使うこと、すなわちそれは生活の快適 さと引き換えに、自らの魂を霊的傲慢という牢獄に閉じ込めることにな ると信じているのだ。そこでは創造主への感謝と祈りは消え、快適さ のためには自然界のあらゆるものが、私達人間の支配下に置かれな ければならないことを意味している。真にアメリカ・インディアンの伝統 信仰を生きている人々、自然界のあらゆる動植物そして石や岩にも 霊的な力があると日々の現実の生活の中で気づき肌で感じてきた人 にとって、快適さの代償として自らの魂を売り飛ばすことなど考えも しなかっただろう。しかし、アメリカ政府の不毛の大地への強制移住 そしてインディアン学校に代表されるところの徹底した同化政策によ り、多くのアメリカ・インディアンは作り替えられ、そのことが現在彼 らをアルコール中毒、高自殺率、高失業率へとおとしめている。
もう一度、何千何万年も豊かにこの大地に花開いた彼らの精神文化を 甦らせるために、シャーマニズム、アニミズムと呼ばれる彼らの源流に 身を浸らせることが必要不可欠なのだろう。この現代文明が多くのイン ディアンが予言しているように破滅に向かっていようがいまいと、そして それがもう決められたものであっても、私はいつ終わるかわからないこの 道を歩き続けたい。「あるアメリカ・インディアンの祈り」に書かれてあ るように「わたしの生命が終わりを迎えたとき、いささかも恥いることな く、わたしのスピリットがあなたのもとを訪れることができる」ために。
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「Black Elk Speaks」 University of Nebraska Press の画像から
ずっと、ずっと大昔 人と動物がともにこの世に住んでいたとき なりたいと思えば人が動物になれたし 動物が人にもなれた。 だから時には人だったり、時には動物だったり、 互に区別はなかったのだ。 そしてみんながおなじことばをしゃべっていた。 その時ことばは、みな魔法のことばで、 人の頭は、不思議な力をもっていた。 ぐうぜん口について出たことばが 不思議な結果をおこすことがあった。 ことばは急に生命をもちだし 人が望んだことがほんとにおこった--- したいことを、ただ口に出して言えばよかった。 なぜそんなことができたのか だれにも説明できなかった。 世界はただ、そういうふうになっていたのだ。
魔法のことば (エスキモー族) 「おれは歌だおれはここを歩く」 アメリカ・インディアンの詩 金関寿夫 訳 秋野亥左牟 絵 福音館書店より引用
かつて動物たちがなにげなく口にし、 聞くことのできた聖なる知識が もし大気中に 風の中に 木立や藪の中に存在しているなら われわれのところへふたたび戻ってきますように
アタルヴァ・ヴェーダ(七の六六) 「ベロボディアの輪」 オルガ・カリティディ著 管 靖彦 訳 角川書店 より引用
幼少のころ、わたしは与えることを学んだ。文明化されるにしたがい、 この恵みを忘れてしまった。自然のなかで暮らしていたのに、現在 は人工的な環境のなかで暮らしている。昔は、小石のひとつひとつ がわたしには大切であった。成長する木々の一本一本が、崇敬の 対象であった。今、わたしは白人といっしょに、風景画の前で礼拝す る。その絵は金銭的価値があるのだそうだ! このように、インディ アンは作り変えられてゆく。自然の岩を細かく砕いてブロックを作り、 近代社会の建物の壁の一部にするように。・・・・・・・・・・・・ 最初のアメリカ人(訳注=先住民族を指す)は謙虚な自尊心を持って いた。その性格にも教えにも霊的にも傲慢さは見られなかった。言葉 をみごとにあやつるものは語らぬ被造物より優れている、などと考え たりはしなかった。それどころか、それはわざわいをもたらす才能と思 われていた。最初のアメリカ人は沈黙を深く信じていた。沈黙は完全 な平衡のあかしであるから。沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあ いをとっていることである。自己を保っている人は、葉の一枚たりとも 動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静か で、実存のあらしに揺すぶられることがない。無学な賢者の考えによ れば、もしあなたがその人に「沈黙とは何か」と尋ねるならば、その 人は、「沈黙とは大いなる神秘!」「聖なる沈黙はそのお方の声!」 と答えるであろう。もしあなたが「沈黙のもたらすものは」と問うなら ば、その人は、「自己抑制、真の勇気、堅忍不抜、尊厳、そして崇高。 沈黙は人格にとって隅の親石である。」というであろう。・・・・・
宇宙と一体化して
男は自分のティピ(訳注=北アメリカ先住民族のテント小屋、円錐形の天幕) のなかで、地べたに座り、生命と人生について、またその意味について瞑想 している。男は、あらゆる被造物から仲間としての愛を受け取っている。もろ もろのものが構成するこの宇宙と自分が一体化するとき、自分の存在の深み のなかに文明の神髄が吸い上げられることを知っている。自然とともにいる人 が、このような発達の仕方を捨ててしまってからは、立派な人格形成はむず かしくなった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
酋長 ルーサー・スタンディング・ベアの言葉 「生命の織物」 女子パウロ会 より引用
私たちは、法律というものを持たなかった人間です。しかし、私たちは、 万物を創造し、そこに秩序をあたえている「グレート・スピリット(大い なる霊)」と、じつに好い関係を保ち続けてきたのです。あなた方白人は 、私たちを野蛮人だと言います。あなた方は、私たちの祈りの意味を理解 してこなかったし、また理解しようともしてこなかった。そこで、私たちが 太陽や月や風を、讃めたたえる歌を歌っているとき、あなた方はやれインデ ィアンは偶像を崇拝している、などとわめきたてたものです。私たちのこと を理解しようとはしないで、私たちの宗教があなた方のものと違っていると いうだけの理由で、私たちの魂が堕落していると、非難してきました。・・
私たちはほとんどすべてのものの中に、つまりは太陽や月や樹々や風や山々 の中に、「グレート・スピリット」の手の働きを、見てきたのです。そしてときに は、こうした自然の動きのすべてを通じて、その手の働きのほうに、近づいて いくこともありました。それが悪いことだった、というのですか。私たちが、 誠実に「至上の存在」を信じてきたことは間違いがない、と思います。その ます。その信仰は、私たちのことを異教徒扱いした白人たちの、善なるもの への信仰よりも、はるかに深く、強いものなのです。自然と自然の世界に秩 序を与えているものの近くで生きてきたインディアンは、けっして蒙昧の闇 を生きているのではありません。あなた方は、樹々が語るのを、聞いたこと がありますか。じっさい、樹は話をするのです。樹々はお互いに会話をして、 もしもあなたがたがそれに耳を傾けさえするならば、あなた方にだって、樹 は話しかけてくることでしょう。ところが、困ったことに、あなた方白人は、 樹々の声などに、耳を傾けようともしなかった。だいたい、白人はインデ ィ アンの言うことにさえ、耳を貸そうとはしなかった人たちなのですから、 自然の声などに心を開こうはずもありませんでした。けれども、樹々は私に、 たくさんのことを教えてくれました。ある時は天候について、ある時は動物 たちのことについて、そしてある時は「グレート・スピリット」について、 教えてくれたのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウォーキング・バッファローことタタンガ・マニの言葉(1871-1967) 「インディアンの言葉」ミッシェル・ピクマル編 カーティス写真 中沢新一訳 紀伊国屋書店 より引用
神話学者のジョセフ・キャンベル「私たちには、時間という壁が消えて奇跡が現れる 神聖な場所が必要だ。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、 だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような空間、 ないしは一日のうちのひとときがなくてはならない。本来の自分、自分の将来の姿 を純粋に経験し、引き出すことのできる場所だ。これは創造的な孵化場だ。はじめ は何も起こりそうにもないが、もし自分の聖なる場所をもっていてそれを使うなら、 いつか何かが起こるだろう。人は聖地を創り出すことによって、動植物を神話化 することによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地 を霊的な意味の深い場所に変えるのだ。(「旅をする木」星野道夫著より引用」
日本が島国であったため、大陸からの新たな異民族の侵入や侵略が不徹底であり、縄文時代 以来の世界観や神々の体系が完全に破壊されることなく温存された。その縄文時代の世界観 の中で重要なものは平等主義の理念である。唯一、天にのみ神を認める一神教は、階級支配 を前提とした宗教である。しかし、縄文人は、こうした階級支配の社会を構築することを極力避 けてきた。縄文時代は、一万年以上の長きにわたり続いた社会であるが、その社会は富が一 部の人々に集中することを避けてきた社会であった。佐々木高明先生(「日本史誕生」集英社 1991年)は、北米西岸のネイティブ・アメリカンや東南アジアの焼畑狩猟民の社会には、偏っ た富を一気に再配分するシステムが存在することを指摘し、日本の縄文時代の社会にもこれ によく似た富の再配分のシステムが存在していた可能性が高いと述べている。一部の支配者 に全ての富が集中し、不平等が生まれ、支配者はさらなる富を獲得するために戦争を起こし 収奪を繰り返す。これは西アジアの麦作農業地帯から出発した階級支配の社会の特質であっ た。これに対し、縄文時代の社会は、これとは根本的に異なっていた。縄文時代の人々は、 一部の人々にのみ富が集中することを回避し、社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や 祭りを盛んに行い、平和で安定した平等主義の社会を長らく維持した。縄文時代には人を殺 す武器もなかったと佐原真先生(「大系 日本の歴史(1)」小学館1987年)は指摘している。 平和で安定した平等主義の社会では、人を殺す必要はなかったのである。縄文時代に一万 年以上にわたって築かれてきたこうした平等主義の伝統は、弥生時代に入ってからも、土着 の日本人の精神世界には根強く残っていたと思われる。縄文時代から弥生時代への移行期 に、極端な民族の入れ替りがなかったことも、こうした伝統的世界観の継承には幸いした。 日本人にとっては、富が一部の人々に集中することを回避したのと同じように、唯一神のみ を崇拝する階級支配の世界観を受け入れることに抵抗があったのではなかろうか。唯一神 のみを正しいと主張し、他の神々の存在を排斥する宗教は、階級支配を前提とした。ここが 平等主義の社会を理想としてきた日本人の共感をよべなかった最大の理由であろう。戦国 時代にキリスト教が日本に伝播した時、日本人は宣教師がもたらした新しい技術や知識に は興味を示したが、宣教師が無意識の内にかかえていた階級支配の理念には、強く反発 した。他の仏教や神道を邪教として排斥する階級支配の理念に、日本人は共感することが できなかったのである。日本で唯一神ヤハウェの信仰が誕生することがなく、かつ伝播した 後も広く普及しなかった背景には、縄文時代以来、日本人が一万年以上にわたって培って きた文化的伝統が破壊されることなく継承されたという点がもっとも重要な要因としてあげら れるのではなかろうか。唯一神ヤハウェのみを絶対的に正しい主張する戦闘的な階級支配 の世界に対し、平等主義に立脚した縄文時代以来の日本人の世界は、まったく相対立する ものであった。唯一絶対の神のみが正しいと主張する一神教が、日本に広まらなかったの は、一神教がまさしく階級支配を前提としてはじめて存立できることを日本人が直感的に感 じとっていたからであろう。階級支配の社会の危険性を、唯一絶対の神のみを正しいと主 張する宣教師の姿の背景に読みとっていたのである。 「蛇と十字架」東西の風土と宗教 安田喜憲著 人文書院より引用
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