「旅をする木」
星野道夫著 文春文庫 より
この深い沈黙から発せられた言葉は何処から来るのだろう。星野氏の深く研ぎ澄ま された感性にアラスカの大自然に生きる生命の息吹が吹き込まれた時、その魂は 私たちに至福感を呼び覚ます。類希な言葉にならない想いを抱かせる星野氏が残 した本書は、アラスカ先住民の人々や白人たち、そして動植物たちがアラスカとい う過酷な自然環境のもとで必死に生きてきたその崇高な魂の記録である。 (K.K)
星野氏の著作
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本書「いささか私的すぎる解説」より引用) 池澤夏樹(作家)
最近ぼくは星野の死を悼む気持ちがなくなった。彼がいてくれたらと思うことは少なく ないが、しかしそれは生きているものの勝手な願いでしかない。本当は彼のために 彼の死を悼む資格はぼくたちにはないのではないか。彼の死を、彼に成り代わって 勝手に嘆いてはいけない。たとえば彼の人生が平均よりも短かったとしても、そんな ことに何の意味があるのだろう。大事なのは長く生きるのではなく、よく生きることだ。 そして、彼ほどよく生きた者、この本に書かれたように幸福な時間を過ごした者をぼく は他に知らない。三年近くを経て振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼく は思えるようになった。彼の人生があの時点でクマとの遭遇によって終ったについて は、たぶん自然の側に、霊的な世界の側に、なにか大きな理由があったのだ。たぶ ん彼自身、よく納得していることなのだ。あの時点での彼の死はどんな意味でも理不 尽なものではなかったのだ。今となると、ぼくには旅をする木が星野と重なって見える。 彼という木は春の雪解けの洪水で根を洗われて倒れたが、その幹は川から海へくだ り、遠く流れて氷雪の海岸に漂着した。言ってみればぼくたちは、星野の写真にマー キングすることで広い世界の中で自分の位置を確定して安心するキツネである。彼の 体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の本当の意味だ ろう。
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本書より引用
ただ、南アメリカは本当に遠い世界だったのに、こんなにも速く来てしまったことが なかなか納得いきません。身体も気持ちもついてこないのです。旅をするスピード 感というのでしょうか。窓ガラスから南アメリカ大陸を初めて見下ろしている興奮と は裏腹に、正直な気持ち、不安さえ感じてしまいます。世界とは、無限の広がりを もった抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえられてしまうと不安です。 地球とか人類という壮大な概念が、有限なものに感じてしまうどうしていいかわか らない淋しさに似ています。二十一世紀を迎えようとしているのに、何をばかなこ とを考えているんだと言われそうですが、どうしてもぬぐいきれない気持ちです。 以前、こんな話を読んだことを思い出しました。たしかアンデス山脈へ考古学の 発掘調査に出かけた探検隊の話です。大きなキャラバンを組んで南アメリカの山 岳地帯を旅していると、ある日、荷物を担いでいたシェルパの人びとがストライキ を起します。どうしてもその場所から動こうとしないのです。困り果てた調査隊は、 給料を上げるから早く出発してくれとシェルパに頼みました。日当を上げろという 要求だと思ったのです。が、それでも彼らは耳を貸さず、まったく動こうとしません。 現地の言葉を話せる隊員が、一体どうしたのかとシェルパの代表にたずねると、 彼はこう言ったというのです。“私たちはここまで速く歩き過ぎてしまい、心を置き 去りにして来てしまった。心がこの場所に追いつくまで、わたしたちはしばらくここ で待っているのです”
雨はすっかり上がり、陽が射してきた。海辺の岩場に座ると、海面は夕暮れの陽光に キラキラと輝いていた。ぼくが腰かけた場所は、背もたれのあるとても座り心地のいい 岩だった。その時、ほとんど確信に近い想像が満ちてきた。それは、遥か昔、この岩に 誰かが座り、こんなふうに夕暮れの海を見ていたに違いないということだった。泣きじゃ くる赤子を抱えた女があやしながら歩いている。漁から帰った男たちがカヌーを砂地に 引き揚げている。若い男と女が戯れながらこの岩場に向かってやって来る・・・・・・そん な風景が次から次へと頭の中に現れては消えていった。この島に人が住んでいた形跡 は七千年前までさかのぼるという。そして神話の時代を生きた最後のトーテムポール は、あと五十年もたてば森の中に跡形もなく消えてゆくだろう。そこに刻まれた、どこま でが人間の話なのか、動物の話なのかわからないさまざまな夢のような民話は、彼ら が自然との関わりの中で本能的に作りあげた、生き続けてゆく知恵だったのかもしれ ない。それは同時に、私たちが失った力でもある。人間の歴史は、ブレーキのないま ま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。だが、もし人間がこれからも存在し 続けてゆこうとするのなら、もう一度、そして命がけで、ぼくたちの神話をつくらなけれ ばならない時が来るのかもしれない。不意にどこからか木をたたく音が聞こえてきた。 トン、トン、トン・・・・・・が、あたりを見まわしても誰もいない。ふと見上げると、トーテム ポールに一羽のキツツキが止まり、風化したハイイログマの顔をたたいている。いつの まにか森の中から別のオジロジカが現れ、トーテムポールの間をさまよっている。神話 は突然息を吹きかえし、この世界の創造主、ワタリガラスの苔むした顔がじっとぼくを 見下ろしていた。
ポイントホープの村で見たエスキモーのクジラ漁は、狩猟民に対する強烈な印象を ぼくにうえつけた。アザラシの皮で作ったウミアックを漕ぎ、氷の亀裂で出来たリードと いう氷海の中で、強大なクジラを追う。それは言葉に言い尽くせない体験だった。何よ りもうたれたのは、彼らが殺すクジラに対する神聖な気持ちだった。解体の前の祈り、 そして最後に残された頭骨を海に返す儀式・・・・・・・・それはクジラが漁にとどまらず、 カリブーやムースの狩猟でも、さまざまな形で人々の自然との関わりを垣間見ること ができた。ぼくは狩猟民の心とは一体何なのだろうかと、ずっと考え続けていた。自然 保護とか、動物愛護という言葉には何も魅かれたことはなかったが、狩猟民のもつ 自然との関わりの中には、ひとつの大切な答えがあるような気がしていた。それはもし かしたら、狩猟生活が引き受けなければならない偶然性と関係があるのかもしれな い。たとえば、クジラ漁は、リードがすべてである。春、凍りついたベーリング海に、風 と潮流の力により少しずつ亀裂が入ってゆく。その氷に囲まれた海をリードと呼ぶの だが、クジラ漁は、そのリードが大き過ぎても小さ過ぎても成り立たない。それどころ か、氷は常に動き続け、目の前でリードそのものが消えてしまうことがある。つまり、 さまざまな自然条件がうまく重なって、初めてエスキモーのクジラ漁が可能になるの である。それはおそらく、あらゆる狩猟に共通する宿命なのだろう。しかし、狩猟生活 が内包する偶然性が人間に培うある種の精神世界がある。それは人々の生かされ ているという想いである。クジラにモリを放つときも、森の中でムースに出合ったとき も、心の奥底でそんなふうに思えるのではないだろうか。私たちが生きてゆくという ことは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択 である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中で は見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民で ある。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよ い。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。動物 たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたた び犠牲になってくれることを祈るのだ。つまり、この世の掟であるその無言の悲しみ に、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうと も、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできな いのではないだろうか。人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分 の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめ たとき、人の心はその自然から本質的に離れてゆくのかもしれない。
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目次 T 新しい旅 赤い絶壁の入り江 北国の秋 春の知らせ オオカミ ガラパゴスから オールドクロウ ザルツブルクから アーミッシュの人びと
U 坂本直行さんのこと 歳月 海流
V 白夜 早春 ルース氷河 もうひとつの時間 トーテムポールを捜して アラスカとの出合い リツヤベイ キスカ ブッシュ・パイロットの死 旅をする木 十六歳のとき アラスカに暮らす 生まれもった川 カリブーのスープ ビーバーの民 ある家族の旅 エスキモー・オリンピック シトカ 夜間飛行 一万本の煙の谷 ワスレナグサ
あとがき いささか私的すぎる解説 池澤夏樹
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