「星野道夫の仕事 第2巻 北極圏の生命」
星野道夫 写真・文 池澤夏樹 解説 三村淳 構成
朝日新聞社より
本書より引用。
氷の世界で共に生きるエスキモーとナヌークのあいだには、 かつて大切なことばがありました。 それは不思議なことばで、狩るものと狩られるものを優しく結びつけ、 生と死の境さえなくしてしまうものでした。 あらゆる生命はそのことばでつながり、 世界はやすらぎに満ちていたのです。
雪の世界の美しさは、 地上のあらゆるものを白いベールで包みこむ不思議さかもしれない。 人の一生の中で、歳月もまた雪のように降り積もり、 辛い記憶をうっすらと覆いながら、 過ぎ去った昔を懐かしさへと美しく浄化させてゆく。 もしそうでなければ、老いてゆくのは何と苦しいことだろう。
「われわれは、みな、大地の一部。 おまえがいのちのために祈ったとき、 おまえはナヌークになり、 ナヌークは人間になる。 いつの日か、わたしたちは、 氷の世界で出会うだろう。 そのとき、おまえがいのちを落としても、 わたしがいのちを落としても、 どちらでもよいのだ」
だれかの歌声が聞こえてきた。 古いエスキモーの歌だった。 見ると、だれもいない氷の上で、 老婆が海に向かって踊っている。 ゆっくりとした動きで、 何かに語りかけているように見える。 マイラだ。 きっと昔から伝わる クジラに感謝する踊りなのだろう。 近づくと、マイラは泣いていた。
秋になると そう ちょうど今頃だ 男たちは 銛をもって ウミアックを漕いで 海へ出た アザラシを獲るためにな 女たちは 皆で 浜に出て トムコッド(魚)をあみでとっていた アザラシの内臓を縫い合わせた 服をかぶって 氷の張りだした海に入ってゆくんだ 他は何も着ていなかった なんて強い女たちだったのだろう 冬が近づくと 草を集めに 山へ入った 強くて 平たい草は かごをつくるため ふつうの草は くつひものためにな 犬ゾリのソリは クジラのあばら骨だった 長い 冬の夜の楽しみは 年寄りたちの 昔話を聞くことだった 土でおおった イグルーの中で 子どもたちは 火を囲んで じっと 耳を傾けた オーロラが舞う夜は 人々は 祈ったものだ 若者を恋う娘は 雪の中で 裸になってな そうすれば 願いがかなうと 人々は信じていた
星野氏の著作「イニュニック(生命)」、「Alaska 風のような物語」、「旅をする木」、 「森と氷河と鯨」、「長い旅の途上」、「オーロラの彼方へ」、「ラブ・ストーリー」、「森に還る日」
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