「聖クララ伝 沈黙と記憶のはざまで」

マルコ・バルトリ著 アルフォンソ・プポ/宮本順子 共訳

サンパウロ より引用






この文献はクララという人を全く知らない人には不向きだろう。ただ、少しでも聖クララと

いう聖フランシスコの精神を最も体現した人、この聖クララに関心がある人にとっては

知るべきことが多く語られている。それは聖クララの死後直ぐに始まった列聖調査の源

泉史料(『クララ・クラリス・プレクララ』『聖なるおとめ伝』や多くの証言者の記録)に留ま

らず、当時の時代背景つまり宮廷文化や女性像、ハンセン病や騎士道精神の胎動な

ど聖フランシスコをも理解するうえで欠かせない要素を含んでおり、それが故に800年

以上も前に亡くなった聖人を現代に活き活きと蘇らせることに成功している。著者は大学

中世史と宗教史を教えている歴史家であるが、特に聖クララに関しては高い評価を得て

おり、本書に先立って「アシジのクララ」(1989年)を刊行している。ただこの文献は邦訳

されていないのが残念である。

(K.K)

 




中世のイタリア、アシジの修道院の沈黙の中にみずからを閉じ込めた聖クララ。彼女は

「フランシスコの小さな苗木」とも呼ばれ、聖フランシスコの精神をいちばん深く理解した

人物と言われてきた。1994年の生誕800周年を機に、世界各国で多くの会合や学術会

議が開催され、以来、新しい視点に立った研究が次々と発表されている。他方、これま

で失われたものと思われていた、クララの列聖調査の記録文書が、20世紀初頭に発見

されている。本書は最新の研究成果を踏まえつつも、クララの列聖に際しての教皇の命

によって書かれた『聖なるおとめクララの生涯』を、その直接の資料である列聖調査記録

と照らして読み直したものである。そこから浮かび上がってきたのは、全く新しいクララ

の姿・・・中世の枠を破る新しい自覚をもった女性像・・・であった。

(本書より引用)

著者について・・・ローマのリベラ大学教授。中世史を専攻。イタリア百科事典の制作に

たずさわり、宗教史と中世史を担当。主な著書に「アジアのクララ」(1991年)、「エルサレム

の崩壊」(1994年)、「シエナのベルナルディーノの聖週間の説教」(1995年)がある。


 
 


本書 「序章 アシジのクララ 沈黙と記憶のはざまで」 より引用


アシジのクララは「沈黙と記憶」のはざまに存在する女性である、と多くの理由から定義

することができるでしょう。まず第一に、彼女の人生です。クララが選んだのは、修道院

の沈黙に潜んで生涯を過ごすことでした。チェラーノのトマスが『聖フランシスコの第一

の伝記』の中で語るところによれば、彼女と彼女の姉妹たちは、「五感を制し、舌を制

御するのに何の苦労もないほどに、抑制と沈黙について特別な恵みを授かっており、あ

る姉妹たちは話さないことに慣れたあまり、どうしても話す必要がある時に言葉を正しく

発音できなかったほどでした」。他方、クララは沈黙の壁を打ち破った最初の中世の女性

と言ってもよいでしょう。史料文献に現れる中世の女性はほとんど声を発しませんが、

クララの声は、彼女の書物を通じて、今日まで伝わっています。


それにしても、沈黙と記憶とは、このアシジの婦人に関する資料や文献の中で対局を成

す特徴でもあります。ある記録は語り、ある記録は沈黙を守ります。アシジのクララとは

誰だったのでしょう? 13世紀の文献を研究すればするほど、この疑問は増し、極端に

なる一方です。アシジのクララは、果たして存在したのでしょうか? ルイ9世についてす

ばらしい伝記を書き上げたジャック・ル・ゴフの疑問がこだまして聞こえるようです。もしも

フランシスコの書き物だけを読むなら、確かに、アシジの婦人の歴史的実在を疑いたく

なるのも最もです。ジャック・ダラランの美しいエッセイを読むなら、クララはフランシスコ

の人生を通り過ぎたこともない、と思いたくなるのが当たり前です。聖人は、自分の最初

の女弟子の名前を、絶対に口にしません。


沈黙と記憶のはざま・・・アシジの婦人のプロフィールを史的に作成し直そうとすれば、ど

うしても、沈黙と記憶という両極の間で探り当てるしかありません。フランシスコばかりで

なく、フランシスカン源泉史料の中にも沈黙しているものがあります。例えば、1228年か

ら1230年の間にかかれたチェラーノのトマスの第一伝記に、読む人が戸惑うほどの賛辞

を浴びて登場するクララは、15年後に同じトマスによって書かれた第二伝記ではまったく

姿を消し、彼女の名前はただの一度も出てきません。検閲されたにちがいない、この有様

は何のためでしょうか?


沈黙と記憶とは、サン・ダミアーノという「場」の特徴でもあります。クララが数十名の仲間

とともに、40年以上の長きにわたり、そこで生活すると決めたサン・ダミアーノです。隠世

生活の禁域の特性として、確かに沈黙の空間であったサン・ダミアーノは、記憶の場でも

ありました。なぜなら、フランシスコよりも数十年長生きしたクララは、フランシスコに関す

る記憶を注意深く守る保管者となっており、兄弟レオネもフランシスコの聖務日課書をク

ララに預けたほどだったからです。カザレのウベルティーノの証言によれば、サン・ダミア

ーノには、聖人の「仲間たち」の貴重な記憶とともに、巻物類が保管されていたとのこと

です。


筆者が以前にアシジのクララにささげた伝記を書いてからまだ十年しかたっていないのに、

何のために彼女についてまた語ろうというのでしょう? 前の作品が出版された当時(1989

年)、女性の歴史について書かれた本はまだ多くありませんでした。ことに、ある特定の女

性だけに関する研究書など、たとえそれがアシジの聖女のように全世界に知られた存在に

関する本であったとしても、ごく限られていました。また一方、フランシスコ会の非常に優れ

た史的研究にあっても、フランシスコの最初の女弟子を扱った批判的研究などは、その当時

はまれなものでした。おそらくこの欠落が功を奏したのでしょう。あの作品は思わぬ好評を博

し、何カ国にも訳されました。その後、クララや彼女の体験に倣おうとした修道共同体に関

する数多くの研究論文やエッセイが発表されました。1993年から1994年の聖女の生誕800周

年に際しては、多くの会合や学術会議が世界中で催されました。その時以来、科学的根拠

の成果発表は著しい勢いで増えました。


クララについて今一度語り直そうという試みは、しかし、新しい伝記を出すことではありませ

んし〈それはただの繰り返しに終わるでしょう〉、これまでのすべての研究成果のまとめを出

すことでもありません(そのようなまとめを出すには新しく会議を開く必要があるでしょう)。

クララについて語り直そうというなら、それはまさに、この沈黙と記憶の間に、書いてあるこ

とと書いていないことの間に、証言と解釈の間に交わされる対話の中に入るためです。言

い換えれば、アシジのクララを知るために最も重要な史料であり、彼女の列聖の際に教皇

の命で書かれた『聖なるおとめクララ伝』(以下「レジェンダ」)を使って、その対話に入ろうと

いうことなのです。ここで扱うのは、(決してたどり着くことのできない真実を科学的に作り

直そうとする大胆な企てによって)「真実の」クララを分析することではありません。もっと

謙虚に、彼女の伝記作家によって解釈され、選り分けられ、そして伝えられたクララの記憶

を分析することなのです。


多くの出来事がそうであるように、この本もまた偶然の産物と言えます。レジェンダの新訳を

依頼されたのはしばらく前のことです。レジェンダをもう一度手に取った時、筆者がまだ若い

ころのラウル・マンセッリの指導が、頭に浮かんできました。すなわち、レジェンダの直接の

史料である、列聖調査記録をいつも目の前に置いてレジェンダを読み直すようにということ

です。その方法で翻訳しているうちに、次第に興味深い新しい研究の展望が見えてきました。

それは、近代的で科学的なアプローチによる、レジェンダのテキストの新しい読み方です。つ

まり新しい伝記ではなくて、古い聖人伝の新しい読み方です。言い換えるなら、それは「歴史

上のクララ」ではなく、「レジェンダのクララ」、つまり彼女の伝記作家がクララとして紹介する

クララのことです。とは言っても、他の史料と比較対照すれば、それは、古い伝記作家の仕事

を評価することになるだけでなく、「歴史上のクララ」を新しく理解する助けとなるのは明らか

です。


この最近の数年間で、アシジのクララに関する研究は著しく進歩しました。研究が飛躍的進歩

を遂げたのは、前述のとおり、クララの生誕800周年のおかげです。あの時、多くの国際会議や

学術的集会が行われました。そこから、異なった関心をアシジの婦人に寄せる人々による非常

に興味深い研究成果が生まれました。しかし、もし、あの800周年記念が、歴史記述的探求とい

う新しい分野の研究、特に女性や聖性についての歴史の研究に多くの人の関心が向けられた

時期に当たっていなかったら、そのような研究発表もあり得なかなかったでしょう。


800周年を記念した多くの会議の一つが閉会する時、ある学者たち(その中にはアルフォンソ・

マリーニ、マリア・ピア・アルベルゾーニ、ジャック・ダラランが含まれていました)は、研究のまとめ

のようなものを共同で出したい、と希望しました。アシジのクララの生涯と体験に関する知識を

集大成したいという、この願いは今も生きています。しかし、そのような集大成をまとめる時期が

熟していません。クララに関する史的研究はこれからも続けていく必要があるでしょう。800周年

記念を機会に広く開かれた研究の道が閉ざされないように、後続のページを通じて、このような

友人たちやクララに関心を抱き続ける多くの人々との対話を再開できたらと願っています。


 


本書 「日本語版への序文」 より引用


「この光の強さは何と活き活きと力強く、この明るく光る泉からあふれ出る輝きは何と強烈

なのでしょう。実に、この光は閉域に隠れて自らを封じ込めていましたが、きらめく光を放っ

て外に輝き出ていました。狭い修道院にこもっていた光が、外ではこの広い世界中を照ら

していました。内に潜んでいたのに、外に輝きわたっていました。クララは実際隠れていた

のに、彼女の生活はすべての人に知られていました。クララは黙っていたのに、彼女の名

声は叫んでいました。自分の修室に引きこもり隠れていたのに、世間は彼女をたたえ合って

いました」(クララの列聖勅書『クララ・クラリス・プレクララ』n.4)


アシジのクララの帰天後わずか2年、この言葉によって、教皇アレクサンデル4世はクララの

聖性を宣言しました。それからさらに750年が過ぎた今日でも、クララの噂は消えてはいませ

ん。年は経ても、クララの輝きは新しい地帯を照らし、その名声はあらゆる所に飛び広がり

ます。この日本語訳こそ、その一つの証しです。翻訳の企画を聞いたときには驚きました。

13世紀ヨーロッパの女性の物語に、現代の日本人は興味があるのでしょうか。


一見、クララの物語は数行でまとめられるようです。クララは一生をアシジのすぐ近くで過ごし

ました。42年間、田舎の小さな家から離れることもなく、活発な生活ぶりとは言えないでしょう。

結婚生活を放棄した選択や、サン・ダミアーノの姉妹共同体を創設したこと以外、語るべき

エピソードは多くはありません。特に教養のある人でも優れた学者でもなければ、女王でも、

有名人の娘でもなかったのです。


それなら、どうして、クララの生涯を語り広める価値があると言えるのでしょうか。毎年、アシジ

という小さな町を訪れ、クララのお墓を守っている教会を訪ねる人が何十万人もいます。なぜ

それほど多くの人々を引き寄せるのでしょうか。数十年の研究を重ねた私個人の結論は、次の

とおりです。クララの生涯が今でも魅力的な理由は、クララが自由な女性だったからです。自由

とは、探してもほとんど見つからないほど貴重な賜物ですから、それを持っている人がいると

知った時、その秘密を知りたいと、私たちは近づいていくのではないでしょうか。


ましてクララの場合は、彼女の自由が私たちを驚かせます。女性だからです。ごく最近まで、

女性たちが自由を持っていたとは決して言えないでしょう。中世の女性たちには、自由は全く

ありませんでした。配偶者となる人を選ぶことも、学問に励むことも、政界に意見を述べるこ

とも、社会に声を出すことも許されていなかったのです。しかし、クララは自分の生き方を選

ぶことができ、彼女の母とも、姉妹とも愛し敬う女性たちの共同体を集め育てる力がある、

魅力的な女性でした。クララの声はサン・ダミアーノの壁を越えて響き渡り、敬虔な人によって

集められ、私たちの耳にまで届きました。


クララは謙虚な女性でした。自分のことを「祝されたフランシスコの苗木」と呼んでいました。

フランシスコとの出会いなしにはクララの体験は考えられません。しかし、その親密さはクララ

自身を理解し、知りつくすための助けにはなりません。事実、クララが『ポヴェレッロ』(小さき

貧者、フランシスコ)の第一の、そして一番忠実な仲間だったことは、多くの人に知られていま

す。しかし、クララ自身が優れた女性、つまり、自由を生きた女性だったことに気がつく人は

少ないでしょう。


クララの生涯が放つ光はクララの自由そのものです。そしてこの光こそ、今も、いや、特に今

の時代、自由を乞い求める世界の中にあって、人々の注目を引き寄せているのでしょう。確か

に、自由を求める人は多いが、自由の意義を悟った人は少ないでしょう。欲しい物を欲しいま

まに買えることに自由がある、と思う人が大勢います。クララは富を放棄し、何も所有しない貧

しい生活を選びました。自分の手仕事と他人の寛大さに支えられて、暮らしていました。それ

でもなお、彼女の自由は今も光り輝いています。ニュッサの聖グレゴリオスが述べたように、

クララにとって、自由とは「本質になるものを選びとることと、選びとったものを実現させていく

可能性」です。


人生の価値を量るのは、歩んできた道のりの長さや手に入れた権力などではありません。

歳月を経ても、その人の人生から放たれ、他人の人生を照らし続けている光によって量る

ものです。この意味で、「この光の強さは何と活き活きと力強く、この明るく光る泉からあふ

れ出る輝きは何と強烈なのでしょう」と、クララを聖人とたたえた教皇の言葉が今もその真実

を伝えています。


この本の翻訳に尽力してくださった方々に対し、あらためて心から感謝いたします。クララ

という、小さくて偉大で自由な女性の光に照らされて、日本の読者の皆さんが喜び楽しむ

ことができますように、と祈っています。


マルコ・バルトリ


 


聖クララ伝 目次


日本語版への序文

序章 アシジのクララ 沈黙と記憶のはざまで

第一章 アシジのクララとは誰か?

第二章 記憶の形成 源泉史料

列聖調査の記録

クララの列聖勅書『クララ・クラリス・プレクララ」

『聖なるおとめクララ伝』

クララの書き物

第三章 コルテジーア

第四章 回心

フランシスコとの出会い

父の家からの逃亡

親族とのあつれき

第五章 償い

第六章 貧しき(清貧)

第七章 クララとフランシスコ 似ていて異なるふたり

クララ、フランシスコの証し人

第八章 「ダミアニテ」、「貧しき姉妹たち」、または「閉じこもった婦人たち」?

第九章 戦争と平和

第十章 病と死

第十一章 聖性

第十二章 レジェンダが語らないこと


監修者あとがき





「聖フランシスコとその時代」ベラルド・ロッシ著 より引用


クララの生活はその名のとおり、周囲を輝きで魅了していました。彼女は神の摂理による

ものでしたし、やがて現れることになるもう一人の傑出した女性もそうでした。それはフラン

シスコの生活の中で霊的な意味でも相互補完的な意味があり、貴重なもので、霊感の源

でもありました。彼女らはフランシスコたちの心理に均衡を与え、理想に向けての励ましと

もなりました。


クララは甘美で気高いキリスト教の理想を実現しました。それは彼女の人格に強く根ざし、

修道院を襲おうとしたサラセンの軍隊にも勇敢に向かっていくほどでしたし、フランシスコと

クララを一致させていた「至高の貧しさ」という理想を緩和するように諭した教皇に対しても

毅然とした態度で立ち向かわせました。また、クララはフランシスコにとってこの上ない良き

協力者でもありました。クララは、サン・ダミアーノ聖堂での隠れた生活の中にありながら、

世界を祖国として選び、当時知られていた地の果て(エジプトからスペイン)にまでも行き、

ハンセン病患者から王、教皇からイスラム教徒、物ごいからスルタンに至るまで社会のあ

らゆる階層を知りたいと願っていたフランシスコに貴重な助言を与えています。


アシジのクララについては、フランシスコの生活とのかかわりに沿った範囲でしか話すことが

できません。しかしながら、ここで、教皇ピオ12世が1958年2月14日にクララをテレビの保護

の聖人にしたことを思い起こすのは有益だと思われます。実際、彼女の『列聖記録』と『伝記』

にあるとおり、聖クララは死の前年(1252年)に、サン・ダミアーノ修道院において病の床にあ

り、起き上がることができませんでした。降誕祭前夜、姉妹たちは聖務日祷のため小聖堂へ

行く前にクララにあいさつをしに来ました。一人部屋に残ったクララは寂しさに襲われます。そ

して涙ながらに祈ります。「主よ、なぜわたしは姉妹たちと一緒に祈り、降誕祭を共に喜び祝う

ことができないのでしょうか」。主はそれに大いなる奇跡をもって答えられます。クララは歓喜

のうちに自分の敬愛する師父の近くにいたのです。しかも、その周りではアシジの兄弟たち

や市長や多くの人々が降誕祭の深夜ミサにあずかっていました。それは彼女の寝ている横

の壁があたかも映画のスクリーンのようになってリアルタイムで、教会において今まさに行わ

れていることを見聞きしたのでした。祈り、かつ歌っている兄弟たちの姿や聖堂に飾られてい

る馬小屋、ろうそくの光に照らされた人々の喜びと感動に満ちた顔、香をくゆらせながら黄金

色の祭服をまとって祭壇でミサをささげる司祭などを見ることができたのです。そして司祭が、

「ミサ聖祭を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」と言うと、壁は元のように暗くなった

のでした。


クララは聖人でしたが、その心と感受性において真の女性でもありました。フランシスコの姿が

人々に親しみのあるものになり、絵画を通して定着したものになったのに対して、クララの絵画

はごくわずかで、あまり人々の注意を引きませんでした。しかし、アシジのクララ会修道院には

クララがプルチウンクラ聖堂でばっさり切った髪の毛が今日に至るまで保存されています。波

打つ金髪の束はクララの穏やかな女性像と霊的深さをほうふつさせてくれます。


 
 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)







聖フランシスコと共にアッシジに生きた聖女クララの遺体。

死後740年近くたったが、その遺体は空気に触れて黒くなり

ミイラ化しているが腐敗は免れている。聖フランシスコの精神

を最も体現した人として知られ、神によって強く結ばれた二人

の心の軌跡にはこの世とも思われぬ芳香が満ち満ちている。

後年、この二人の関係を邪推する本が出版されたが、この

聖クララの奇跡としかいいようがない腐敗しない遺体は、二人

の真実の姿を雄弁に語りかけている。

(K.K)

 


「聖女クララ」 舟越保武 作 成川美術館(箱根)







アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

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