本書 アイヌ・・・・日本文化の基層 梅原猛 より引用
先の藤村さんの話にぼくはたいへん感動したのだけれども、いまの学問の多くはやっぱり立身
出世につながる。大学という学歴は立身出世の道具になる。いい大学を出れば出るほど就職
口は多いわけですね。ところがそういう学問をしているうちに肝心のことを忘れてしまう。学問は
やはり人間のためにある。人間にたいする愛情のない学問というものはつまらないものだ、どこ
かはずれているのだ、ということだと思うのですよ。いまの話を聞いていると、なぜユーカラを語
ったか、いま死のうとするおばあちゃんをなんとか喜ばせたい、いままで自分が教わったことに
たいしてなんとかおばあちゃんに恩返しをしたい、という気持ちから発しているわけですね。それ
は、私はいまの世の中でたいへん珍しい、変わった人だと思うのですよ。
いままでアイヌを研究する人は、金田一さん以来、知里さんも含めて、アイヌ文化というのはなに
か珍しい文化だ、金田一さんの言葉によると、滅びつつある民族の文化だ、この民族が滅びて
いくのは決まっているので、自分はこの民族のためにそういうユーカラを採集してやるのだ、それ
は滅びゆく民族に捧げる一種の挽歌だ、というのがだいたい彼らの研究態度ですね。だから結局、
アイヌ文化は自分には異物なのですね。まったく異物であって、自分は聞き役、そして採集する。
そういうのがいままでのほとんどすべてのアイヌ研究者の態度だった。
ところが藤村さんはちがうのだ。向こう側になにかよくわからないが、たいへんいいものがあるの
ではないか、それを自分は知りたい、と。だから、この人は意識しないかもしれないけれども、いま
までのアイヌ研究者とまったくちがった研究態度でアイヌのなかに入ったということが、いまの話を
聞いていていっそうよくわかるのです。そういう態度でやると、アイヌにとって、結局、なにが一番
だいじなのかということがよくわかるわけですね。いままでの研究者は和人にとってなにがだいじ
かという立場です。だから和人にとってアイヌのユーカラは珍しい叙情詩だ、カレワラ(フィンランド)
と同じように珍しい叙情詩だという。それは和人からみての評価である。たとえば知里さんは脱ア
イヌになりたかった。ほんとうは脱日本になりたかった。脱アイヌ、脱日本で、自分はほんとうは
イギリス人になりたかった(笑)。しかしイギリス人になれなくても英文学教授になりたかった。それ
もなれないので、自分の学問にいちばん早道であるアイヌ語を研究した。ところがアイヌから脱け
だそう、あるいは日本から脱けだそうという意志が強いわけですよ。そういうところからアイヌの
もっている宗教を本当に理解することは不可能です。そこで知里さんは言葉について勉強した。
アイヌの宗教についてはまったく関心をもたなかった。アイヌの宗教に自分を投入している姿が
全然でてこない。宗教がわからなければ、アイヌ文化はわからないと思う。
それはだいじなことですね。だから、アイヌのユーカラをどういうふうに考えるかむつかしいけれども、
一種の文化の共通語なのですね。ちょうどラテン語がヨーロッパ世界において普遍性をもったように、
アイヌの世界における一種の普遍性がユーカラという語り文化だと思う。なにか書く文明、読む文明
だけが人類の文明だというふうに思われているけれども、その文字に生きた魂がなかったら、書物
というものはつまらない。その生きた魂というものはやはり言葉によって語りつがれるものであった
と思う。だからぼくは今、そういうアイヌの語りつがれた文化の深さにびっくりしているのです。(中略)
そうしてみると、日本語というものはアイヌ語を基礎にしながら、そういう内面的な霊的な性格をやや
失って、言葉を記述化した言語ではないかと思うのですよ。だから、アイヌ語の背後にある精神世界、
アイヌ語のもっている精神構造に接して、ぼくはいままでドイツ語、フランス語、ギリシャ語などわりあ
いたくさんの言語を勉強したけれども、アイヌ語はたいへんすばらしい言語ではないかと思っている。
アイヌ語はひじょうに繊細で、すばらしい精神性を秘めている言語ですね。もう一度文字の成立の
意味ということを考えなければならない。プラスとともにマイナスの面がある。つまり文字文明の発展
と同時に逆に嘘がはじまるといっていいわけです。どうして文字にして書かなければならないかと、
人間が信用できないようになったから書くわけですから(笑)。
ことだまというでしょう。ことだまというのは文字ではなくて、語る言葉にあるんです。文字の言葉では
なくて語った言葉が生きているのですよ。このあいだある学者にそういうことをいったら、日本人は
やはりことだまという。外国で本を出版するときはたいへんなんだ。たくさんの書類があって、全部
イエスかノーか記して署名しなければならない。西洋人はことだまを信用しない。全部文字にする。
それでたくさんの書類をつくらなければならない。日本人はだいたい言葉で「どうだ」というと、だいた
いそれを守る。守らんやつはよほど悪いやつで、それは仲間から排除される。だからことだまが日本
の社会を成り立たせていて、いまの日本の経済発展はことだまがあるからだという。もしそうだとすれ
ば、これはやはりアイヌ文化と共通のものなのです。むしろいまの日本が原日本文化を受け継いだ
ものだというふうに考えられるのですよ。だからぼくは日本文化の秘密を解くには、精神性の高い原
日本文化、それをもっとも保存しているアイヌ文化を考えることが必要であると考えています。それは
ただ言語の問題だけでなくて、いろんな面でぼくは間違いないと思っていますね。
アイヌ文化はやはり宗教文化です。宗教に関心をもたないとアイヌ文化はわからない。金田一さんなど
宗教に関心をもたない。その点バチェラーはちがってアイヌの宗教に強い関心をもっているけれども、
アイヌの宗教を物神崇拝の一語で片づけている。みな物神崇拝だという。ところが、たとえばアイヌの
熊祭を見ると、たいへん興味深い考え方で、これはヨーロッパ人にはちょっと理解できない。カムイは天
の一角に住んでいる。そのカムイがたまたま熊の仮面をつけて現れた。だから熊を育て、それを殺すこ
とによってカムイを熊という仮面から解放して神そのものに帰す。その儀式をまちがえると神に帰せない
かもしれない。どうせ帰すならば喜ばせて帰さなければいけない。喜ばせて帰さないとまた熊になってこ
の世に現れてこない。これは熊の本質は神で、われわれの見る熊は熊という仮面をかぶった神の仮象
であるという、そういう観念に裏づけされていると思う。
ところがそういう観念はヨーロッパにはないのです。あったとしてもずっと昔になくなった。ヨーロッパには
犠牲という観念しかない。中国でもそうです。儒教では牛を殺してささげる。犠牲としてささげる。ヨーロッパ
でもそうですね。だからアイヌの熊が神であって、それを殺すことによって神に帰すという観念は、とても
中国流の宗教観念でも、キリスト教の観念でも理解できないものなのです。これはたいへん深い考え方
だと思う。日本人の心の底にはそういう考え方があるのではないかと思う。
|