「アイヌの霊の世界」

藤村久和 著 小学館






全編対談という形式でアイヌの霊の世界、宗教観を掘り下げようとする力作である。

梅原猛、河合隼雄、そして京都大学の地理学・人類学、心理学、哲学、動物生態学、

社会学、民俗学の専門家がアイヌに深く関わってきた藤村久和氏との対談を通して

アイヌの文化について語り合ったのを収録した文献である。特に梅原猛氏は言語学、

宗教儀式などを通してアイヌ文化にこそ日本文化の基層があることを問うている。


(K.K)


 








私たちの身近にある“アイヌ文化”と、そのすばらしい霊の世界を語る。

偏見と誤謬に満ちたアイヌの信仰の世界を正しく理解し、アイヌの遺産

が日本文化の基層を支えていることを示唆する衝撃の書。

(本書・帯文より引用)


 
 


本書 不思議なアイヌの超能力 藤村久和 より引用


次に、巫(ふ)術行為のトゥスについてのべますと、弧の行為は、だれにもできるということでは

ありません。トゥスの行為は世襲制、もう少し厳密にいえば世代世襲制ということになります。

ですから、親がやりますと、その子供のうち男、女の性別にかかわりなく兄弟の中のだれか一人

が継承し、ほかの兄弟はぜんぜんその能力をもたないんですね。お母さんが巫術行為をし、お

父さんは普通の人で巫術のできない人であって、その中には子供がたった一人だけしか巫術

行為ができない。またある場合にはその子供が何人いてもぜんぜんトゥスができないこともあり

ます。けれども、そういう場合には母方の兄弟の子供にトゥスをする人があらわれる。 (中略)



超能力をもつ意味では似ている傾向にあるものに、ノイポロイクシというものがあります。和訳

するとどういう表現になるのでしょうか。具体的に申しあげますと、自分の家に来客がある前兆

として突然頭が痛むのだそうです。当人にいわせれば頭の中を人が走るような感じであるとい

います。ノイポロイクシのできる古老は私の知っている範囲ではお二人いらっしゃって、うち一人

のおばあさんは時間的にいいますと、五分以内の来客がわかるというのです。来客があるとき

の頭痛は、本人の脳の右側か左側かを走るそうですが、左右の頭痛度は同じだそうです。頭痛

があるときの来客は、常日ごろから自分が見知っている人ではなくて、遠方から来られる見知ら

ぬ人に限ってこの頭痛がおきるということです。彼らにとって左側は重要かつ位のある方向で、

頭痛が左側を通ったときの来客は、たとえばどんなにみすぼらしい様相をしていても、その家で

は最上の接待をしなければならないが、いかに身なりがよくて金持ちで、地位があって秘書など

を連れて来ても、頭痛が脳の右側を走ったならば並みの扱い以下の接待でもかまわない、とい

うふうに語ってくれました。 (中略)



で、もう一人のおばあさんのほうは、時間的にいいまして来客の時点から逆算して1時間前から

三十分くらいまでの間に頭痛が走るといいます。このおばあさんのほうは左右に走る頭痛で分別

するのではなく、頭痛の度合いが違うということです。頭痛が荒々しいときは女性で、それのゆる

やかなときは男性であるということです。そしてこのおばあさんの場合には貧富の差に関係なく

て、訪問理由の概略と年齢までわかるそうです。このおばあさんの生来そいう能力をもちあわせ

ていたのかを聞いてみましたら、嫁いだ先の姑がノイポロイクシをやる人であったそうです。離婚

して後、自分のふるさとへ帰ってきてしばらくしてから、いつとはなしに、自分が姑と同じように

ノイポロイクシをするようになったということです。本人は姑さんが、自分をいとおしく不憫に思っ

て、自分に授けてくれたかたみだろうといっていました。



このおばあさんといっしょにいますと、ほんとに1時間ぐらい前から「だれか来るな」というんです。

それで私も時間を見、メモなどしているとほんとにやってきます。来客の前に「どういう用事で来

るの、男なの、女なの、年齢はいくつぐらい」と聞いておくと、来客の性別、年齢、用件の概要が

ぴったりと一致するんですね。どうしてそんなことができるのか私にもわからないので、「ばあちゃ

ん、おれにもちっとはそういう能力分けてくれないか」といったら、それは自分の神経をとぎすま

し、長い積み重ねをすればできるかもしれないということでした。 (中略)



これは来客と直接関係ありませんが、いまだに理解できないのがカラスの鳴き声による分別で

す。これで来客、死あるいは死者の通報、向かいの家でごちそうがある、それが自分のうちへ

回ってくる、こない(笑)、天気の良し悪し、漁(猟)の有無など多くの情報を多くの古老は分別い

たします。それがまた不思議に的確で、的中率100パーセント。私にはカラスの鳴き声をいくら

聞いてもいつも同じようにカアカアとしか聞こえないけれど、古老にいわせるとちがうといいます。



では具体的に表現してほしいといっても古老はカラスではないのでいい分けることはできない。

しかし、やはり時に応じてカラスの鳴き声はちがうのだそうで、実際、1週間ぐらいおじゃまして

いる間にカラスが鳴くのを聞いて、「きょうのカラス、どうなの」と聞くと、「きょうはたいしたこと

ないな」とか、「きょうはだれか向かいの家に来る」という。この古老が居住する所は農村です

から、眼前に畑が広がっていて人の往来が一目で見えるので、いずれ正否を知ることができ

ます。ある時にはどんぶりに馳走を入れて持ってきたりして、実におどろかされます。これは

長年にわたる観察の結果かもしれませんが、あわせてカラスの能力にも感心させられます。

これはべつにカラスに限った話ではなくて、山にまたぎ(山猟)に行っても、多くの鳥や小動物

が泣き声やしぐさで良運に導いてくれるといいます。これは個々人の後ろ盾となっている神さ

まがそのように教えてくれると・・・・。 (中略)



とにかくいたく感心させられるのは彼らの祖先がいかなることについても、時間をかけて分析

をし、仮説をたてては、それを体験によって貴重な積み重ねてきたことです。おそらくそれは

幾世代にもわたり、なかには命を失った人も少なくなかったにちがいありません。しかし、それ

らの先人の苦労を英知として世代を超えて伝承し、あわせて人としてのあるべき姿を追求して

きた長い歴史が、古老の口からたんたんと語られるとき、深い感動を覚えずにはいられません。







本書 アイヌ・・・・日本文化の基層 藤村久和 より引用



だんだんつきあっているうちに、あのおばあちゃん、おじいちゃん方は、玄関の戸をガラッと

あけただけで、それがだれかパッとわかるという。ぼくはあとで考えて、やっぱりこの人たち

は狩猟をする人たちだなあとつくづく思いましたね。この点、農業をする人は直感がにぶって

いる。農業は1年間同じようなサイクルでいわば同じことをやっているわけですから、戸を

あけて入ってもあまり緊張感がない。ところが狩猟や漁労をする人たちというのは、とにかく

瞬間で自分の命がなくなったり、助かったり、獲物が獲れたり・・・・危機一髪の状態にありと

あらゆる場面で遭遇するわけですね。その結果、人を見きわめる感覚が異常に鋭いのです。

ぼくは札幌というまちのなかで育って、そのあと厚田というところへ行って農業地区で学校の

先生をやったものだから、のんびりとした、いささか稲作農耕の人々の心情に近くなってい

る(笑)。海や森や山で猟をする人たちの感覚とずれたものを背負っていたのですね。



ところが道東のばあちゃんやじいちゃんと接していると、われわれが失った人間的な鋭い

感覚みたいなものがある。それまでのぼくは、札幌という都会のなかで、見せかけの人生を

送ろうとしていたのだけれでも、梅原先生がショックを受けた以上にショックをうけて、やっぱ

りこれがほんとうだ、うまいことをいって見せかけにやったところで、自分が生きたいような

生き方をしているわけではない。そういうことをばあちゃんたちに教えられたのです。ばあ

ちゃんは一言もいいませんでしたけれども、ぼくはそういう感じ方をしました。ああ、こういう

状態ではいけない、こんな見せかけの人生ではだめだ・・・・行政がある意味ではそういう

傾向をとっていますね。だから教育委員会の案内で来たら、ばあちゃんは絶対だれにも会

わない。けれども、直接いくと案外、ばあちゃんは会ってくれるのですね。ネクタイとか背広

というものは見せかけなんですね。



ぼくはおばあちゃんたちと接して自分自身に嘘をつかないで生きることができるのはすばら

しいことだと思いました。おばあちゃんたちは見せかけの生活ではなくて、心で自分が生き

なければならない生き方をしている。ほかの人から見て汚いとかなんとかいうことはみな捨

てて、自分が生きなければならない。人として歩むべき道を歩く。やっぱり心が豊かなので

すね。それにぼくは触れました。



 


本書 アイヌ・・・・日本文化の基層 梅原猛 より引用


先の藤村さんの話にぼくはたいへん感動したのだけれども、いまの学問の多くはやっぱり立身

出世につながる。大学という学歴は立身出世の道具になる。いい大学を出れば出るほど就職

口は多いわけですね。ところがそういう学問をしているうちに肝心のことを忘れてしまう。学問は

やはり人間のためにある。人間にたいする愛情のない学問というものはつまらないものだ、どこ

かはずれているのだ、ということだと思うのですよ。いまの話を聞いていると、なぜユーカラを語

ったか、いま死のうとするおばあちゃんをなんとか喜ばせたい、いままで自分が教わったことに

たいしてなんとかおばあちゃんに恩返しをしたい、という気持ちから発しているわけですね。それ

は、私はいまの世の中でたいへん珍しい、変わった人だと思うのですよ。



いままでアイヌを研究する人は、金田一さん以来、知里さんも含めて、アイヌ文化というのはなに

か珍しい文化だ、金田一さんの言葉によると、滅びつつある民族の文化だ、この民族が滅びて

いくのは決まっているので、自分はこの民族のためにそういうユーカラを採集してやるのだ、それ

は滅びゆく民族に捧げる一種の挽歌だ、というのがだいたい彼らの研究態度ですね。だから結局、

アイヌ文化は自分には異物なのですね。まったく異物であって、自分は聞き役、そして採集する。

そういうのがいままでのほとんどすべてのアイヌ研究者の態度だった。



ところが藤村さんはちがうのだ。向こう側になにかよくわからないが、たいへんいいものがあるの

ではないか、それを自分は知りたい、と。だから、この人は意識しないかもしれないけれども、いま

までのアイヌ研究者とまったくちがった研究態度でアイヌのなかに入ったということが、いまの話を

聞いていていっそうよくわかるのです。そういう態度でやると、アイヌにとって、結局、なにが一番

だいじなのかということがよくわかるわけですね。いままでの研究者は和人にとってなにがだいじ

かという立場です。だから和人にとってアイヌのユーカラは珍しい叙情詩だ、カレワラ(フィンランド)

と同じように珍しい叙情詩だという。それは和人からみての評価である。たとえば知里さんは脱ア

イヌになりたかった。ほんとうは脱日本になりたかった。脱アイヌ、脱日本で、自分はほんとうは

イギリス人になりたかった(笑)。しかしイギリス人になれなくても英文学教授になりたかった。それ

もなれないので、自分の学問にいちばん早道であるアイヌ語を研究した。ところがアイヌから脱け

だそう、あるいは日本から脱けだそうという意志が強いわけですよ。そういうところからアイヌの

もっている宗教を本当に理解することは不可能です。そこで知里さんは言葉について勉強した。

アイヌの宗教についてはまったく関心をもたなかった。アイヌの宗教に自分を投入している姿が

全然でてこない。宗教がわからなければ、アイヌ文化はわからないと思う。 



それはだいじなことですね。だから、アイヌのユーカラをどういうふうに考えるかむつかしいけれども、

一種の文化の共通語なのですね。ちょうどラテン語がヨーロッパ世界において普遍性をもったように、

アイヌの世界における一種の普遍性がユーカラという語り文化だと思う。なにか書く文明、読む文明

だけが人類の文明だというふうに思われているけれども、その文字に生きた魂がなかったら、書物

というものはつまらない。その生きた魂というものはやはり言葉によって語りつがれるものであった

と思う。だからぼくは今、そういうアイヌの語りつがれた文化の深さにびっくりしているのです。(中略)



そうしてみると、日本語というものはアイヌ語を基礎にしながら、そういう内面的な霊的な性格をやや

失って、言葉を記述化した言語ではないかと思うのですよ。だから、アイヌ語の背後にある精神世界、

アイヌ語のもっている精神構造に接して、ぼくはいままでドイツ語、フランス語、ギリシャ語などわりあ

いたくさんの言語を勉強したけれども、アイヌ語はたいへんすばらしい言語ではないかと思っている。

アイヌ語はひじょうに繊細で、すばらしい精神性を秘めている言語ですね。もう一度文字の成立の

意味ということを考えなければならない。プラスとともにマイナスの面がある。つまり文字文明の発展

と同時に逆に嘘がはじまるといっていいわけです。どうして文字にして書かなければならないかと、

人間が信用できないようになったから書くわけですから(笑)。



ことだまというでしょう。ことだまというのは文字ではなくて、語る言葉にあるんです。文字の言葉では

なくて語った言葉が生きているのですよ。このあいだある学者にそういうことをいったら、日本人は

やはりことだまという。外国で本を出版するときはたいへんなんだ。たくさんの書類があって、全部

イエスかノーか記して署名しなければならない。西洋人はことだまを信用しない。全部文字にする。

それでたくさんの書類をつくらなければならない。日本人はだいたい言葉で「どうだ」というと、だいた

いそれを守る。守らんやつはよほど悪いやつで、それは仲間から排除される。だからことだまが日本

の社会を成り立たせていて、いまの日本の経済発展はことだまがあるからだという。もしそうだとすれ

ば、これはやはりアイヌ文化と共通のものなのです。むしろいまの日本が原日本文化を受け継いだ

ものだというふうに考えられるのですよ。だからぼくは日本文化の秘密を解くには、精神性の高い原

日本文化、それをもっとも保存しているアイヌ文化を考えることが必要であると考えています。それは

ただ言語の問題だけでなくて、いろんな面でぼくは間違いないと思っていますね。



アイヌ文化はやはり宗教文化です。宗教に関心をもたないとアイヌ文化はわからない。金田一さんなど

宗教に関心をもたない。その点バチェラーはちがってアイヌの宗教に強い関心をもっているけれども、

アイヌの宗教を物神崇拝の一語で片づけている。みな物神崇拝だという。ところが、たとえばアイヌの

熊祭を見ると、たいへん興味深い考え方で、これはヨーロッパ人にはちょっと理解できない。カムイは天

の一角に住んでいる。そのカムイがたまたま熊の仮面をつけて現れた。だから熊を育て、それを殺すこ

とによってカムイを熊という仮面から解放して神そのものに帰す。その儀式をまちがえると神に帰せない

かもしれない。どうせ帰すならば喜ばせて帰さなければいけない。喜ばせて帰さないとまた熊になってこ

の世に現れてこない。これは熊の本質は神で、われわれの見る熊は熊という仮面をかぶった神の仮象

であるという、そういう観念に裏づけされていると思う。



ところがそういう観念はヨーロッパにはないのです。あったとしてもずっと昔になくなった。ヨーロッパには

犠牲という観念しかない。中国でもそうです。儒教では牛を殺してささげる。犠牲としてささげる。ヨーロッパ

でもそうですね。だからアイヌの熊が神であって、それを殺すことによって神に帰すという観念は、とても

中国流の宗教観念でも、キリスト教の観念でも理解できないものなのです。これはたいへん深い考え方

だと思う。日本人の心の底にはそういう考え方があるのではないかと思う。


 


目次



アイヌの霊の世界 

岩田慶治 上山春平 梅原猛 河合隼雄 河合雅雄 作田啓一 藤村久和



おくれている信仰の研究

霊の世界

霊を意味する11のアイヌ語

少ないアイヌについての記録

霊の種類

憑き神の正体

不思議なアイヌの超能力

非常時の霊・・・・木幣の意味

動物祖を反映する祖先神

祖先神との婚姻

養子縁組

神がかえと神の召人

集落を守護する神々

家系と家紋

木原のおばば の物語

伝染病への対応・・・・幣棚と木幣

弊棚を統率する女神

イナウ・・・・神への伝令者

ひげべらと祈願の言葉



〈シンポジウム〉 アイヌ・霊・古代日本

岩田慶治 上山春平 梅原猛 河合隼雄 河合雅雄 作田啓一 藤村久和



複雑なアイヌの神

神と人を媒介するもの

夢をだいじにするアイヌ

うたで家系をおぼえる

アイヌの神話

アイヌは農耕を営んでいた

深い祖先への認識

墓と死者への供養

古代日本とアイヌ



〈鼎談〉 アイヌ・・・・日本文化の基層

梅原猛 成田得平 藤村久和



アイヌへの開眼・・・・藤村論文のショック

心豊かな道東のアイヌ

栃木政吉さんとの出会い

四宅ヤエさんにユーカラを学ぶ

心をひらいたアイヌの古老たち

「不思議なアイヌ研究者」

アイヌ語と日本語

共通語としてのユーカラ

アイヌ語・・・・自己意識と自己反省の言語

アイヌは異人種ではない

ユーカラは外国文学か

日本文化の基底をなすアイヌの神概念

アイヌ・・・・日本の母文化



あとがき


 


2012年3月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「生命とは自己複製を行うシステムである」



私の机の上に置いてある鉄腕アトム。小学生の頃、胸をワクワクしながらテレビの画面に魅入って

いた。アトムは「ひょっこりひょうたん島」のダンディと並んで、これからもずっと私のヒーローであり

続けるだろう。



アトムはロボットだが、生命(生物)とは何だろうとその定義を探してみた。生物学では「生命とは自己

複製を行うシステム」だが、この定義だとアトムは生物になる可能性がある。勿論、生物学で言って

いるこの自己複製の意味はDNAのことなのだが、アトムほどの人工知能があれば、別の意味で自分

の複製を作り続けることは可能のような気がする。またこの意味とは別に、この生命の定義に何か

釈然としないものを感じていた。



最近、分子生物学者の福岡伸一さんの本を読んだが、この生命の定義に対して同じ疑問を感じて

おられ、また他に多くのことを教えてくれた。福岡さんはベストセラーになった「生物と、無生物のあ

いだ」
「動的平衡」など沢山の本を出されているが、その中に生命とはという定義を次のように書

いている。



「生命とは動的平衡にある流れである」



今アトムを見つめる私は、1年前と同じ私のままである。しかしその身体を作る細胞は絶えず自己

複製をしながら、1年前とは全て違う分子で出来ている。生命とは、「その流れがもたらす『効果』で

あるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果』なのである」(『動的平衡』より引用)。



この定義だとアトムは生命(生物)ではない。



でも、もしアトムが目の前に現れたら、私は人間(生物)と同じと感じるかも知れない。確かにその

身体は金属の構造で出来ており「動的平衡にある流れ」ではないが、アトムは美と共鳴する何か

を持っている。美それは創造主・神と置き換えてもいいかも知れない。



私たち生物にしろ、ロボットにしろ、それは同じ素粒子(クォーク)から出来ている。これ以上分解

できない単子が素粒子なのだが、この素粒子の正体は振動ではないかと最近の量子力学は捉

えている。



銀河系や太陽系が出来る遥か以前、或いは宇宙創生の頃の素粒子の振動は形を変えずに現在

も保持され続ける性質を持ったものだろうか。



そして私の身体を作っている素粒子、その振動は何を記憶しているのだろうとも考えてしまう。振動

と記憶を結びつけて考えること自体滑稽であり、自分の頭がますますおかしくなっているのではとさ

え思う。



ただ



美(創造主・神)と素粒子という二つの振動が共鳴しあっていたとしたら。

共鳴し合いながら、長い時間をかけて生物の多様性を形作ってきたとしたら。



机の上にちょこんと立っているアトムを見ると、小学生の頃テレビや漫画で見たアトムにも美(創造

主・神)に共鳴するものが宿っていると感じてしまうのだ。



最後に、私は量子力学を勉強したわけでもなく、ただ自分の想いや願いに同調する言葉だけを捉え

て無理に結び付けようとする危険性を犯していますので、一人の狂人の笑い話と捉えていただけた

ら幸いです。



☆☆☆☆



哲学者・梅原猛さんの言葉(「アイヌの霊の世界」藤村久和著より)を紹介して終わりにします。



「人間にたいする愛情のない学問というものはつまらないものだ。

どこかはずれているのだ。」



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年4月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ダウン症の女流書家【金澤翔子】の活動とパソコン教室日記 より引用



「ことだま」 金澤翔子さん・書 写真は他のサイトより引用



「ことだま」という言葉の響きにずっとひかれていた。



言葉というものは体の中から外の世界へ吹きだされる風、その風に乗ってつむぎだされていく。



昔の人はこの言葉に霊力があると感じてたが、そのように捉える感性を私は忘れてしまってい

るように感じる。



言葉に霊力があるから、決して嘘をついてはいけない。



これはアイヌインディアン世界の先住民族に共通する捉え方だったように思う。



しかし、私から吐き出される言葉から嘘が時どき出てしまう。



相手のことを考えた「いい嘘」もあれば、そうでない「わるい嘘」もある。



金澤翔子さんが書いた「言霊」に接すると、本来の言葉のもつ霊力を感じ、立ち戻らなければ

と感じてしまう。



(K.K)



 



APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 







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