「アメリカインディアンの現在」

女が見た現代オグララ・ラコタ社会

デイ多佳子 著 第三書館より




この本は現在インディアンが何の問題に直面し、解決の糸口を

どのように見出そうとしているのかを描いている力作である。イ

ンディアン社会において蔓延している数々の社会問題の原因

が何処にあり、今何をしなければならないのかをインディアンの

方たちとの関わりを通して核心に迫って行く。そしてインディアン

自身が(特に女性たち)力強く立ち上がろうとしている姿は、心を

打たれる。ウンデッド・ニーの虐殺の後ブラック・エルクは「神聖

神な木は枯れてしまった」と言ったが、そこから力強い芽が新た

に産まれつつあるのだ。インディアンの歴史に刻み込まれた悲

劇と現在の絶望的な状況からも必死になって立ち上がろうとす

るインディアンの姿は、この物質文明に染まってしまったこの世

界の数少ない希望の光である。


「アメリカ・インディアン女性への賛歌」参照されたし

 ネイティブアメリカン・リプロダクティブ権連合の宣誓文を参照されたし








「子供たち」


ラコタの伝統社会では、一歳未満の乳児はワカンと呼ばれ、神聖な

存在だった。空から降りてきた永遠のスピリットが新しく誕生した子供

に宿ったのであり、「ワカンタンカ(大いなる霊)」からの贈り物と考え

られた。大切に世話をしなければ、スピリットの棲む「家に帰って」し

まう、つまり死んでしまうから、この世界にとどまるようにと大事に大事

に育てられた。一人一人の子供は、ワカンタンカから長所と才能が

与えられ、この世界で果たすべき役割と使命を持って生まれてくる。

当然、子供たちはそれぞれ、他の子供とは違う道を歩むことが期待さ

れる。もちろん自分自身の道は、自分の力で見つけなければならな

い。親のみならず、親戚一同そして部族の中でかわいがられたのは

当然のことながら、子供とはとりわけその意思が尊重される存在だっ

た。そこへ白人の植民が始まった。同化政策の下、子供たちは家族

から切り離され、寄宿学校に送りこまれた。宣教師たちにインディアン

であることは悪いことであると教えられ、罵られ、殴られたりしながら

成長した。自分たちのアイデンティティを否定され、家族のしつけや

親業を体で覚え、身につけることができなかった彼らが親になるころ

には、「子供は宝」「子供は未来」という伝統的ないつくしみの子育

ては、影をひそめてしまった。そしてこの章の冒頭でも紹介したよう

に、現代の若いインディアンカップルのあいだでは、自分たちの子供

への無関心、無感動がどうしようもなく広がっている。若い親のまだ

見ぬ子への無感動とは、子供たちの姿に自分たちの未来を描けなく

なってしまった若者たちの絶望とも言いかえられよう。


 
 


「障害者たち」


伝統的に、障害者は聖なる者であり、人々に何かを教えるために

遣わされた「ヒーラー(癒す者)」だと考えられていた。普通の人間に

はコントロールできない特別な力を持っていて、それだけスピリット

に近いとうらやましがられる存在でもあった。そこにあるのは、すべ

ての生きとし生けるものにはこの世界に居場所があり、「できない」

ことではなく、「できる」ことに焦点をあてようとする伝統的なインディ

アンの世界観、人間観である。「足が不自由でも、語りが上手だっ

たら、それでもうその人の生は十二分に価値があるのです。」


 


本書 あとがき より抜粋、引用


1997年6月、パインリッジ居留地で私は初めて、ラコタの最も聖なる儀式とされるサンダンスを

見た。空腹と熱い太陽にじりじりと照りつけられる苦痛に絶えながら人々は、唄とドラム、そして

サンダンスを見守るサポーターたちの祈りに守られて、大地を踏みしめ踊り続けた。ダンサーた

ちは、胸や背中、腕にペグをつき刺し、ペグにつながる紐で、自らをサンダンスグラウンド中央に

立つ聖なる木、もしくは七つもつないだバッファローの頭蓋骨に結びつけている。彼らが、ペグか

らわが身を引き離すべく、大きく上体をそらせた瞬間、ブツッと鈍い音がしたかと思うと、ペグは

肉を引き裂き、血がほとばしり出て、陽焼けした逞しい肉体のうえを幾筋も流れ落ちていく。その

血と苦痛を捧げる勇気と祈りに歓喜するかのように、ドラムも唄声も、そしてダンサーたちが大地

にふりおろす足踏みの音も一層力強さを増し、祈りへの人々の一体感がさらに高揚していく。


私は、サンダンスの宗教的意味・意義をそれほど知らない。ただ、「血が飛ぶ瞬間なんて、怖く

て見ていられなかった」という友人の言葉を不思議に思ったものだ。あの瞬間が最高なのに、

あの流れ落ちる血に人間の崇高さがもっとも際立った形で表現されているというのに。しかし、

私が流れる血以上にもっと感動し、思わず目に涙を浮かべてしまったのは、やっと20歳になっ

たかならぬぐらいの若者が、胸の肉を引きちぎった瞬間、それまでいっしょに炎天下で踊ってい

た母親らしき女性が彼に駆け寄り、二人が抱きあった時だった。若い彼は家族のために祈って

いたのではなかったか。そして彼女は彼をサポートするために、ともに苦痛をわけあったのでは

なかったか。涙を流しながら二人が固く抱きあう姿に、私はふと思った。「今の時代、自分の身を

引き裂く苦痛を引き受けるほどまで強く、激しく、家族の、そして人間の絆を称える儀式があった

だろうか」と。


サウスダコタに移ってからこの5年間、インディアンカントリーが直面している数多くの問題に触れ

るたびに私は、インディアンたちの苦悩に、本能的に、日米のはざまで自分の居場所を探している

自分自身の姿と、戦後民主主義に洗われた現代日本社会の葛藤とを重ね合わせてきた。私の本

能とはたぶん、アナーキーにも陥りかねないアメリカの個人主義にいい加減うんざりして、集団主義

がもつ秩序と“暖かさ”が懐かしく日本を振り返ってみるものの、現代日本にはすでに異様に混沌

とした、病的な危機的状況しか見い出されないという現実に対する無意識の困惑と苛立ちだろう。

戦後教育を受け、そのうえアメリカにまで住んでみたけれど、アメリカも決して私にとって居心地の

いいところではない。いったい私は何を支柱に、これからどこへ行けばいいのだろうか。


西洋白人文化との共存を強いられながらも、西洋の価値観とは正反対の自分たちの伝統文化・

価値観を再生しようとするインディアンの試みは、アメリカで日本人の身体をひきずって生活する

私の自分探しの旅そのものであり、また国際社会における日本の将来の姿を示唆しうるものと

言っていいと思う。ラコタの人々と話して気づいたのは、インディアンの集団社会にも個人主義的

な考えがあるということである。ある本によると、インディアンの部族社会では、個人とはティピィ

を支える柱だという。一人一人の人間はそれぞれ異なった姿と能力を持っている。個人の自主性

は、たとえどんな小さな子供のでも尊ばれなければならない。しかし、西洋の、時には社会と鋭く

対立さえする個人の自主・独立と違うのは、部族みんなが同じ中心、すなわちティピィの先端を

見上げ、同じ屋根を支えあっていることである。それぞれの人間の個性と自由は、部族のアイデ

ンティティと目標をサポートするものであり、決して集団から個を逸脱させるものではない。部族

という集団の中で、お互いに依存しあい、補完しあうことは人間本来の個の自由とは決して矛盾

しない。部族という集団なくして自由はありえず、ただ道に迷うだけだというのである。


 


目次

はじめに


第一章 インディアンとは

ステレオタイプと映画

人口と“なりたがり屋”ワナビー

血とアイデンティティ

養子問題・・・・幸せとは

ラコタはアメリカ人


第二章 キリスト教世界との相克

居留地における宣教師たち

ネイティブアメリカン教会とペヨテ

聖地問題

同性愛とエイズ

人口妊娠中絶とリプロダクティブ権


第三章 インディアン家族

男と女・・・・家庭内暴力

子供たち

乳幼児突然死症候群と胎児性アルコールシンドローム

児童虐待と養育無視

若者たち・・・・事故死と自殺

少年犯罪・ギャング問題

孤立する老人たち

障害者たち


第四章 アイデンティティ危機と異文化教育

学習スタイルの違い

教師像の違い


第五章 インディアン現代生活の諸問題

バッファロー

居留地観光・・・・ヨーロッパとのつながり

アルコールと健康問題

“クレージーホース”問題

マスコット問題とステレオタイプ

祭日問題

部族間の争い


最終章 女の力・・・・ラコタの女たち


参考文献

あとがき





2012年9月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

本日9月2日撮影した、雨上がりの睡蓮と障碍を持ったメダカ



メダカも他の生物と同じように不思議な生き物だ。



メダカは産卵時期には多くの卵を産むが、生き残るのはそれ程多くはない。孵化せずに

死んでしまうものもいれば、写真のメダカのように骨が変形して生まれてくるものがいる。



遺伝子の多様性は頭では理解しているつもりでも、同じ環境の下で育てているはずが

何故と問いかけたくなる。



インディアンのラコタ族の伝統では、障碍者は聖なる者であり、人々に何かを教えるため

に遣わされた存在だと考えられていた。



そこでは「できない」ことではなく、「できる」ことに焦点をあてようとする世界観・人間観が

あると「アメリカインディアンの現在 女が見た現代オグララ・ラコタ社会」の本の中で、

デイ多佳子さんが紹介している。



沖縄・奄美のシャーマン・ユタ。最初彼女たちは「目に見えないものが見え」「聞こえない

ものが聞こえ」る体験を通してユタになるのが殆どである。



世界のシャーマンの中でも「神のお告げ」とも受け取れる稀有な現象は、沖縄・奄美特有

のものだと今まで思っていた。



しかし、これは世界中で起こっていることかも知れず、ただ私たちはその現象を安易に

精神的な病として片づけているのかも知れない。



勿論、本当に精神的な病に苦しんでいる人たちがいるのも事実だが、異質なものをある

がままに受け止め、その意味を感じ取る風土が古代から受け継がれてきたのも事実で

ある。



このような風土、世界観・人間観をもつ社会は、「あるがままの」存在の重さを感じること

によって導かれるものかも知れない。



骨が変形しているメダカ、このメダカを見ていると何かを語りかけようとしている、とふと

感じてしまう。




(K.K)









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