ピオ神父


Padre Pio (1887.5/25-1968.9/23)・ピオ神父

「ピオ神父の生涯」 ジュン・A・シュグ著 甲斐睦興訳 聖母の騎士社 の画像から


魅せられたもの

1997.10.17




奇跡


どの時代においても、どの世界においても奇跡や超能力を売り物とし、

名声や財力を欲しがる者は後を絶たない。日本でも多くの悲劇を産み

出したある教団があったが、このような例は数多く存在する。そしてこ

の摩訶不思議な現象を見て、そこに「聖なるもの」が存在しているもの

と短絡的に判断する人々も多いのも事実である。結果的にそこに宿っ

た悲劇にはこの両者の傲慢と無知が横たわっているのかもしれない。

それは秘境の地と呼ばれるチベットとて例外ではない。空中歩行術、

死者蘇生、精神感応(テレパシー)などなど、この国には多くの魔術が

存在した。「チベット永遠の書」やダライラマ14世も高く評価している、

アレクサンドラ女史による「チベット魔法の書」にはこれら多くの魔術が

書かれている。しかし、それを名声や財力を得るためにしか使わない

堕落したラマ(高僧)も存在したことは事実である。しかし、「チベット

永遠の書」に書かれている隠者の深遠な言葉は私の心を掴んで離さ

ない。私は「堕落」と書いたが、何を以って「聖なるもの」と「堕落したも

の」を判断したら良いのであろうか。私にはその答えを導き出すことは

出来ない。ただ奇跡の人と知られていたアッシジの聖フランシスコ、

チベットの隠者、インディアンのシャーマンと呼ばれる人たちは、その

恵みが増すほどに謙虚になっていったことを思い出さねばならない。

次の釈迦の言葉にも、奇跡や超能力と呼ばれるものを欲するが故に、

堕落の道を辿らなければならない哀れな行者のことが書かれている。





あるとき、釈迦が弟子たちを連れて旅をしていたとき、森の奥に

佇む小屋の中に、一人の疲れ果てた顔のヨギをみた。釈迦は

立ち止まり、行をやって何年になるのかと尋ねた。「二十五年

になります」「そんなに長いこと苦行をして何を得たのか ? 」

行者は得意気に答えた。「水の上を歩いて川を歩いて渡れる

ようになりました」「哀れな人だ」と釈迦は同情の声をかけた。

「そのようなつまらないことに幾歳月も費やしてきたのか。小銭

一枚出せば、船頭がすぐさま向こう岸まで運んでくれるだろうに」





カプチン会の修道僧であるピオ神父は多くの奇跡を行うことで広く知れ

渡った人である。その詳しい生涯を綴った本「ピオ神父の生涯」・聖母

の騎士社には多くの具体的な奇跡が書かれている。二個所に同時に

存在する、初対面の人でもその過去・未来を全て見とおせる千里眼、

外国語の賜物(勉強しなかった外国語が話せる)などなど。しかし、

このようなことは大した意味はないのかも知れない。彼の生涯は、その

死の床の最後の瞬間においてさえ、彼は文字どおりの謙遜そのものに

生きた人であったことに強い衝撃を受ける。イエス・キリストと同じ聖痕を

身に受けたにも拘らず、彼はそれを常に隠そうとし、自分自身を全く「小さ

い者」であると認め、50年間休むこともなく奉仕に徹した。そんな彼を毎

晩悪魔が襲い、神父の肉体を傷つけたが、彼の祈りに勝つことはなかっ

た。法王パウロ六世は彼のことを「我等の主の聖痕の著しい代理者で

あった」と語ったが、アッシジの聖フランシスコと同じように「霊的傲慢」

に打ち勝ち、徹底した「謙遜」の衣を着た数少ない一人であった。・・・





現代に生きる私たちは多くの言葉に戸惑わせられている。「私は諸宗教を統一

する者である」などと表現の違いはあるが、同じような趣旨の言葉を吐く宗教

団体が数多く存在する。そして実際にその教祖たちが見せる奇跡。その奇跡

に魅せられ、そこに「聖なるもの」が存在していると感じるのは自然な感覚な

のかも知れない。だが、自分が多くの生命により「生かされている」という現実

を直視出来ない、或いは逃避している者たちが行う奇跡に、私は何らの敬意も

払わないし、むしろ醜く悪臭を漂わせるものに触れたような吐き気をもよおし

てしまう。創造主からの恵みとしての奇跡の賜物を真に受け止める人々は、

「謙遜」という奇跡にも優る徳を身につけるが、創造主からのものでない奇跡

は、多くの人を惑わし滅びの道に誘い込む。そしてそのような奇跡を行う者

には、決して「謙遜」という偉大な徳は宿らず、傲慢な者として暗闇の中を

破滅に向かって歩くしかないのであろう。

(K.K)


 
 


2012年1月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

アイヌの「お産ばあちゃん」

写真は、アイヌの青木愛子さん(1914年〜1995年)の左手です。青木さんは、古代から継承

されてきた産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そしてウエインカラ(何で

も見える千里眼)を通してシャーマン的な役割を担ってきた方です。愛子さんのウエインカラ

は、初対面の人と対座した時だけでなく、電話の相手でもその人の過去と未来がわかる特

殊な力を持っていました。



同じく沖縄・奄美には現在でもシャーマンがいます。沖縄では「ユタ」(殆ど女性です)と呼ば

れていますが、例外なく全ての「ユタ」が出来るならユタにはなりたくなかった、と話されてい

ることは共通しています。それはユタが犠牲と奉仕に貫かれた生活を送ることを小さい頃か

ら見て知っていたからです。「ユタ」として神から召し出される人(自分の意思や世襲ではなく、

文字通り神のお告げを受け入れた人)にも、人には見えないものが見える千里眼を持つよ

うになります。



キリスト教ではアッシジの聖フランシスコが有名ですが、聖痕(イエス・キリストが磔刑となっ

た際についたとされる両手両足、脇腹の傷)を受けた人であり、千里眼を持つ人としても知

られたピオ神父(1887年〜1968年)がいます。ピオ神父は見ず知らずの人の過去や未来を

的確に言い当てただけでなく、二箇所同時に存在することや学んでいない外国語を話すこと

が出来、ヨハネ・パウロ二世から462番目の聖人に列聖されたのは死後34年経った2002年

のことでした。



このように宗教を問わず、千里眼の能力を授かった方は世界には沢山いることでしょう。私

もこんな能力があったらどんなにいいかなと内心思ったことはあります。一つの優越感みた

いなものをそこに感じたからでしょうね。でも冷静に考えると、この能力を持つことには大い

なる責任と義務も併せもたなければならないことを意味しているのではないかと思います。

そう考えると私にはとても耐えられそうにもないので「普通の人間で良かった」と感じますし、

一人一人違った形の「召し出し」があるのかも知れません。



一方、千里眼など不思議な能力、神からの授かりもの(そうでない場合もあります)としての

この能力を、自らの訓練によって自らの力によって勝ち取ろうと思う人も出てくるかも知れま

せん。多くの新興宗教の教祖がその部類に入るのではと思います。



この態度の本質を、ダライラマ14世も高く評価している、アレクサンドラ女史による「チベット

魔法の書」の中に紹介された一つの逸話が的確に言い当てているので紹介します。



「あるとき、釈迦が弟子たちを連れて旅をしていたとき、森の奥に佇む小屋の中に、一人の

疲れ果てた顔のヨギをみた。釈迦は立ち止まり、行をやって何年になるのかと尋ねた。『二

十五年になります』『そんなに長いこと苦行をして何を得たのか ? 』行者は得意気に答えた。

『水の上を歩いて川を歩いて渡れるようになりました』『哀れな人だ』と釈迦は同情の声をか

けた。『そのようなつまらないことに幾歳月も費やしてきたのか。小銭一枚出せば、船頭がす

ぐさま向こう岸まで運んでくれるだろうに』」



アイヌの青木愛子さん、沖縄・奄美のシャーマン、ピオ神父に共通していること。それは犠牲

と奉仕、そして「謙遜」ではないかと感じています。どんな超能力や奇跡(前にも申しましたよ

うに全て神からの授かりものとは限らないと思います)を行うことが出来ても、謙遜がないと

ころには、全てその意味を失ってしまうどころか、誤った道へと誘う主体者へと変貌していく

のではと思います。使徒パウロは別の表現でこう言っています。「たとい私が、人間と天使の

ことばを話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響きわたるどらにひとしい。たとい私が、預言

の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛が

なければ、無にひとしい。たとい私が、すべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、

愛がなければ、益するところがない。」



うーん、こんな偉そうなことを書いても運転中にゆっくり前を走る車がいると、独り言で「わが、

なんばしょっとか、トロトロ走りやがって、いてもうたろうか」と九州弁と関西弁が喧嘩し合い

完全に自分を見失っている、いや本来の僕が出てきますしね。「はぁー、なんとか穏やかに

せんとといけんばってん、むずかしかでごわす」であります。まあ僕の日常が全てこんな調子

ですので、僕がどんなに美辞麗句を並べても、ほどほど聞き流すのが無難なところかと思い

ます。



アイヌのお産おばあちゃん、青木愛子さんの言葉を聞きとった方が本の中で次のように記し

ていますが、最後にこの言葉を紹介して終わりにしたいと思います。



「一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人

が多い。何も見えないほど暗い人もある。明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に

対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、

無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているか

どうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。」



皆様にとって、そして世界の人にとって、2012年が平和と調和の道を歩むことが出来ますよ

うに願っています。



(K.K)


 
 

2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。




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