「シャーマニズムの世界」
桜井徳太郎 編 春秋社 より引用
はじめに シャーマニズムと現代 桜井徳太郎 二十世紀の後半期の人類は、いまだかつて経験したことのない幾つかの歴史的画期に直面 している。何をおいても数えあげなくてはならないのは、地球をとび立って地球外の宇宙へ出 かけ、そこを人類世界のなかへとりこむための第一歩を踏み出したことであろう。アメリカやソ 連では、ロケットを発射して宇宙飛行士を月面へ送り込むことに成功したし、また一層の遠距離 にある火星へ打ち上げて、その実体を探知することもできた。あるいは人工衛星を軌道にのせ て電波をおくり、テレビの放映や気象観測に役立たせるなど、多くの国で実用化が進められ、 人びとの常識と化したので、もはやマスコミのニュース題材にならぬくらいに一般化してしまっ た。そうした宇宙科学の発達、技術革新の進展は、人々をして瞠目させないではおかないほ どの驚異的進歩を示した。ところがそれにも拘わらず、このような自然科学の異常な前進にと もなって人類じしんが人間としての幸福を存分に謳歌できているかというと、遺憾ながら事実 は全く逆の方向を辿っている。この点においてもまた、われわれは有史以来の危機に直面し ている。一つは産業公害による自然破壊と飢餓からもたらされる人類滅亡への危機感であり 絶望感である。このままでは世界・人類は破滅してしまうかも知れない。何とか手を打たなけ れば大変な事態になるぞ、と叫ばれながらも、どうにもならない現状に対する不安、そして焦 慮の増大を何が塞ぎとめ医してくれるのか。これから人類はどう進んだらよいのか、誰がその 動向を指し示し、人類を破滅から救ってくれるのか。国家も国連も、またいかなる国際機関も 既成宗教の機能も、これに応えることができない。いかなる人類の英知をもってしてもどうす ることもできないとしたら、人びとはどのような心境にたちいたるであろうか。結局は絶望と虚 無の虜になるか、何らかの奇蹟を願うか、偉大なる救世主の出現を望むか、いずれかとなろ う。もしも些かなりと未来に期待をかけるとしたら、社会・人類の改造、つまり「世直し」の可能 性を模索することであり、具体的にはメシアつまり救世主出現を期待するということ以外に道 はなかろう。世界を吹きまくった大学紛争の、あの狂乱的ともいえるオルギー現象は、直接 には国家権力や体制側に向けられた強烈な反権力闘争形態を示しはしたが、根は「世直し」 にあった。今日ほど多くの民衆が、「世直し」の救世主を求める願望を切実に表出した時代が あったであろうか。それは次々と創出される新宗教の出現と、これに帰依する民衆の動向と によって知ることができる。過去においても、幾つかそういう時代はあった。変革期において は、いつもメシアが要求され、それに即応じて幾つかの新しい宗教が創出された。そうした新 宗教の教祖は、いずれも強いメシア的性格を打ち出している。鎌倉時代の宗教改革期に出現 した民衆仏教の教祖たちは、ほとんどそうである。また幕末維新期に創出された天理教以下 の新興宗教の教祖たちが、どういう契機で開教したかを洞察すれば、ことごとく民衆の「世直し」 要望に応える形で出現したことが明白となろう。太平洋戦争の敗戦後に続出した夥しい新宗教 については贅言を要しない。今日の混乱的世情もまた、それらと相通じる状況を示していると みてよい。けれども、それらがすべて同じ動因から起こったと断言できない事情もある。一つ には教祖のもつ性格の相違であろう。これまでの新宗教の教祖は、天理教の中山みきによっ て代表されるように、多くはシャーマンであった。あるいは元来シャーマンであった段階から、 カリスマ的宗教権威を逐次増強することによって教祖となり、救世主となった。それらの教祖 の多くは自らを民衆から隔絶することによって権威化を強めていく。そのための絶対者との媒 介的機能を担うシャーマン的性格は、次第に剥離されて神格化の方向へ進む。つまり神と人間 との媒介者的地位から、超越者たる神の境位へとより接近する。そして究極には神そのものに 化成される。ところが今日の新宗教の教祖は、ほとんどがそういうコースを辿らない。神よりも 人間の方に近づいて、民衆とともに悩み苦しみながら、ともどもに苦悩からの離脱や解放をは かろうとする。カリスマ的権威を負うて民衆に接するのではなくて、神の声をきき人々の訴え を神へと通ずる仲介者的意義を重くみている。かれらのもつ宗教的レベルは必ずしも純粋 絶対的なものとはいえない。むしろ世俗的傾向が強い。民衆のなかにあって民衆とともに 歩み、その苦悩を自らのものとしながら救済的機能をはたそうとする。そうしなければ民衆 がついてこないという理由もあろう。換言すれば、これまでの教祖の多くがシャーマンから スタートして、脱シャーマン化をはかることによって新宗教を組織したのに対し、近来に頻出 する小規模な新宗教の創始者たちは、逆にカリスマ的権威を払拭ふることによってシャーマン 化したともいえよう。あるいは、それによって民衆化したといってもよい。南東の沖縄や東北 地方の民衆が、既成の宗教団体へ編入されることをきらって、あるいは宗教的意義を評価 できなくて、ユタ・カンカカリャ・ムヌス・イタコ・ゴミソなどの、教団的には無組織であり強烈 な呪術性をもつ民間巫者と、より緊密な関係を保とうとする。そういう傾向がみられること は、もっと注意してよいのではないだろうか。つまり、新しい民衆宗教の動きと、そこに機能 するシャマニズムとが、どのようにからみついているか。それらが、疎外されて絶望する人 びとの祈求するメシアニズムと、どう対応しているか。現代が遭遇するもっともシリアスな 課題に触れるシャマニズムを、もう一度根っこから掘り起こして検討する必要は、今日こ そもっとも差し迫っており、その解決はまことに重かつ大であるといえるのである。 (本書 シャマニズム研究の諸問題 より引用)
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目次
シャマニズム研究の諸問題・・・・トランスと入巫パターン 桜井徳太郎 南アジアのシャーマニズム・・・・概観と特徴 佐々木宏幹 東南アジアのシャーマニズム 岩田慶治 台湾のシャマニズム 劉枝萬 アパッチ族のシャマン・・・・宗教・医療・シャマニズム 小野泰博 朝鮮のシャーマニズム 崔吉城 韓国巫俗の神観 金奏坤 日本古代のシャマニズム的風土・・・・八幡と不動 山折哲雄 修験道とシャマニズム・・・・護法を中心として 宮家準 アイヌのシャマニズム 和田完 イタコとゴミソ 楠正弘 木曾のシャマン・・・・御獄行者と御獄講 宮田登 新興宗教のシャーマン的性格 藤井正雄
あとがき 執筆者紹介 索引
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