「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る
梅原猛 著 佼成出版社
かつて蝦夷の末裔と呼ばれ、偏見を持たれてきた東北地方。しかしそこに残るお寺・
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原日本文化への旅立ち(本書より引用)
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日本が韓国あるいは中国の影響をもろに受けるのは、弥生時代以後である。紀元前
賢治の世界観は、どこか藤原清衡の世界観を思わせるところがある。彼は岩手県を
あの有名なシュバイツァーは、動物の中に人間と同じような生命があることを直感し、黒人
想像力の能力は、嘘の能力でもある。啄木はけっして普通の意味において、誠実な人間で
この縄文土器の美を発見したのは、前にも述べたように岡本太郎氏である。美というのは、
あれだけアイヌ文化を研究し、アイヌ文化を愛したはずの金田一京助は、多くの国語辞典は
しかし、会津は、疑いもなく、東北の中でも例外的に弥生文化の浸透が早い。それはなぜか。
自分の中に存在し、一切の自分の行為を知り、自分を守る憑き神を信じていたら、そうやす
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目次
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「甦る縄文の思想」梅原猛・中上健次 有学書林 より抜粋引用 昭和58年の秋に、私は「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」なる本を書いた。それは、東北の文化を縄文 文化・蝦夷文化の視点から見直そうとした著書であるが、ここで私は、従来の東北論とはいささか異なった 視点で、東北文化を見た。 従来、多くの日本人の東北地方にもつイメージは、雪に閉ざされた生産力の低い辺境の地であるというイメージ と、中央政府の意向に従わない野蛮な蝦夷の住む国であるというイメージであった。東北は、この二つのイメージ を重くその背に負っていた。東北の各地の博物館などをまわってすぐに気のつくことは、どこの博物館でも、いか に東北地方に早く稲作農業が伝わったか、いかに中央政府の華がこの東北地方に見事に咲いたかを強調して いることである。自分たちの住んでいるこの地方が決して稲作に適していない国ではなく、また自分たちが決して 野蛮な蝦夷の子孫ではなく、まがうことなき倭人、純粋日本人の子孫であることを懸命に強調しているかのよう だった。 このように東北人は、自分たちが蝦夷の子孫であることを隠し、自分たちがおそらくは蝦夷の最も純粋な子孫 であると思われるアイヌと同一民族とされるのを極端に嫌ったのである。 私の東北論は、このような従来の東北論と正反対である。東北人は肉体的にも精神的にも蝦夷の血を多分に 受けている。それゆえ東北人は、最も純粋な蝦夷の子孫であるアイヌと深い関係をもっているということである。 しかも、この蝦夷というのは、もともと日本に土着していた旧石器時代の人間の血を引く縄文人の子孫である が、その縄文文化は、狩猟採集文化としては、世界的に見ても非常に高度な独自性をもった文化なのである。 その土着の縄文人と、紀元前3世紀以後に日本に渡来した稲作農業の民、弥生人の混血によって生じた倭人 は、いつまでも狩猟採集生活という、倭人から見れば一時代前の生活形態を捨て切れない蝦夷を軽蔑の目で もって見てきた。しかしその蝦夷の文化は意外に高く、そして長い間この蝦夷と血を血で洗う戦いを続けた後に この国の支配者となった倭人すら、その生産形態や政治組織こそ、先進農業国であった東アジア大陸の国々 から学んだが、その風俗・習慣・言語・宗教などは土着文化すなわち蝦夷文化に負っている。それが私の新しい 東北文化論の視点であった。 このような視点で日本文化をみるとき、縄文文化こそは日本の深層文化あるいは基層文化であり、その深層 文化あるいは基層文化の上に、それから以後の文化、弥生文化、古墳文化、律令文化、王朝文化、武家文化 などがのっかっていて、後世の文化は深くこの深層あるいは基層にある縄文文化の影響を受けているという ことにならざるを得ない。 とすれば、アイヌ文化や東北文化が従来とはまったく違った視野のもとに見えてくるのである。それらの文化は、 わが日本文化の深層にある縄文文化の名残りを最も強く残す文化であるということになる。 縄文文化が最も純粋に残存する文化はアイヌ文化であると思われるが、不幸なことに日本人は明治以降、 アイヌを日本人とまったく血のつながりのない人種とみなして、アイヌ文化を日本文化とまったく異質な文化 とし、そのような未開の文化を一掃して、アイヌに一般の日本人並みの文化を享受させることがアイヌにとって 最もよいことだと信じてきた。そのために、北海道開発の名のもとに、アイヌ文化を全体として消滅させること に政策の重点が置かれたのである。百年にわたるこの誤った政策によって、アイヌ文化は絶滅に瀕している。 アイヌ語を話し、アイヌの神事を行うアイヌは、七、八十代の古老を除いて、ほとんどいなくなってしまったので ある。私はこのことを、近代日本が行った最大の文化的蛮行の一つであったと思う。しかも、そのことについて、 日本人はまったく罪の意識をもっていないのである。アイヌを原始的生活状態から救うという名目で、日本人は 自己の基層文化を、最も明確にとどめている大切な文化を、自らの手で葬ってしまったのである。 |
2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年3月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年3月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 4月16日に投稿した円空の像、もっと知りたいと思い「歓喜する円空」梅原猛著を読みました。 江戸初期1632年、岐阜県に生まれた円空は、兵庫から北海道まで足を伸ばして、大地の異変を鎮め、 人間ばかりかすべての衆生を救うために12万体の仏像を彫ります。 円空は縄文時代からの神と仏教を習合させた修験者でしたが、その生涯は常に衆生救済を目的とし、 64歳のときに長良川畔にて入定しました。 入定とは土中の石室などに入り、掘り出されずに埋まったままの即身仏のことを言います。 長良川畔を入定の地として選んだのは、洪水の害を防ごうとする円空の強い意志を示しており、それ は彼の生母が洪水で死んだという梅原氏の仮説を裏づけるものだそうです。 また土地の人々は長良川に大水が出ると円空の霊が蛇となって現われ、避難を勧めるという言い伝 えがあります。 現代の前衛芸術を凌駕する円空仏像に見られる感性、そして和歌に見られる神々と遊ぶ子どもの ような円空の魂、私は円空に魅せられてしまいました。 この文献で心に残った箇所を下に紹介しようと思います。 ☆☆☆☆ ◎円空は私にとってもはや一人の芸術家にすぎない存在ではない。むしろ彼は私に神仏習合思想の 深い秘密を教える哲学者なのである。 ◎『円空歌集』の和歌には「楽」「喜」「歓」という言葉がしばしば登場する。私は円空の思想の中心は 生きている喜び、楽しみを礼賛することであると思う。それはまさに神々の清らかな遊びである。 ◎私はあえて言いたい。今回、円空の歌集を西行の『山家集』とともに読んだが、西行の歌より円空 の歌の方により強い感銘を覚えた。円空の歌を西行の歌と比較するなど、とんでもないことであると 多くの人は言うかもしれない。たしかに歌としては西行の歌の方がはるかに巧みである。また、円空 の歌には誤字や脱字があり、「てにをば」も誤っている。にもかかわらず、円空の歌には今までどの ような日本人の歌にも見られない雄大な世界観が脈打っている。まるで超古代人の声が聞こえてく るようである。 ◎「祭るらん 産の御神も 年越へて 今日こそ笑へ 小児子(ちごのね)ノ春」(一一七三) 春になり年が明けた。今日こそ産土(うぶすな)の神を祀って、大いに笑おう、子どもたちよ。 良寛のように子どもたちと無心に遊んでいる円空の姿が目に浮かぶようである。この笑いの精神は 空海の精神に結びつく。私は若い時、人生を不安・絶望の相に見る実存哲学から自己を解放する ために「笑いの哲学」なるものを構想し、笑いを価値低下という概念で考えたが、笑いはそのような 概念で解釈されるべきものではない。その時はまだ私は空海の言う「大笑」というものをよく理解し ていなかった。今ようやく円空を通じて空海の「大笑」の意味が少しは理解できるようになったので はないかと思う。 ◎「老ぬれは 残れる春の 花なるか 世に荘厳(けだかけ)き 遊ふ文章(たまづさ)」(一四二一) これは今の私の心境をぴたりと表したものである。円空がこの歌を作ったのは六十歳頃であると思 われるが、私はそれよりさらに二十年の歳をとり、八十歳を超えた。そのような老人にも春があるの である。私はまだ花を咲かせたい。学問の花、芸術の花を咲かせたい。学問や芸術はしょせん遊び なのである。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んでいるような学問や芸 術なくして、どうして人を喜ばせることができようか。円空の仏像制作は地球の異変を鎮め、人間ば かりかすべての衆生を救うためであった。菩薩は人を救うことを遊びとしている。私もこの歳になって ようやく菩薩の遊び、円空の遊びが分ってきた。その遊びは荘厳なる遊びでもある。遊びと荘厳、そ れはふつうは結びつかない概念であるが、それが結びついたところに円空の芸術の秘密があろう。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2012年3月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2013年2月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 ヴェラ・メンチク(1906-1944)・写真は他のサイトより引用 現在でも光り輝く星・ヴェラ・メンチク、彼女はチェスの世界チャンピオンを倒したこともある実力を持ちながら、 第二次世界大戦のドイツの空爆により、38歳で亡くなる。 上の写真はメンチク(前の女性)がクラブの23人のメンバーと同時対局(18勝1敗4分け)した時の写真である が、彼女の偉業を称えて、チェス・オリンピックでは優勝した女性チームに「ヴェラ・メンチク・カップ」が現在に 至るまで贈られている。 彼女のような輝く女性の星が再び現われるには、ユディット・ポルガー(1976年生まれ)まで70年もの年月が 必要だった。チェスの歴史上、数多くの神童や天才が出現したが、その中でもひときわ輝いていた(人によっ て評価は異なるが・・・)のがモーフィー(1837年生まれ)、カパブランカ(1893年生まれ)、フィッシャー(1943年 生まれ)である。 他の分野ではわからないが、このように見ると輝く星が誕生するのは50年から70年に1回でしかない。 20世紀の美術に最も影響を与えた芸術家、マルセル・デュシャン(1887年〜1968年)もピカソと同じく芸術家 では天才の一人かも知れない。1929年、メンチクとデュシャンは対局(引き分け)しているが、デュシャンは チェス・オリンピックのフランス代表の一員として4回出場したほどの実力を持っていた。 「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が 起こるように、何ものかを生み出す」・デュシャン、この言葉はやはり前衛芸術の天才、岡本太郎をも思い出 さずにはいられない。世界的にも稀有な縄文土器の「美」を発見したのは岡本太郎その人だった。 「チェスは芸術だ」、これは多くの世界チャンピオンや名人達が口にしてきた言葉だ。この言葉の真意は、私 のような棋力の低い人間には到底わからないが、それでもそこに「美」を感じる心は許されている。 メンチクの光、芸術の光、それは多様性という空間があって初めて輝きをもち、天才もその空間がなければ 光り輝くことはない。 多様性、それは虹を見て心が震えるように、「美」そのものの姿かも知れない。 |
2012年4月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2013年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 本日1月9日、夜明け前の光景です。 冬の思い出、私が小学1年の頃だったか、火鉢の沸騰したヤカンを足に落としたことがあった。 足が真っ赤に腫れ、母は私をおんぶして遠くの病院まで連れて行ったが、当時は救急車など なかったのだろう。 鹿児島市内に火傷に関しては名医がいるというので、その病院に行ったのだが、そのお陰で 大きな火傷の跡は残っていない。ただ、おんぶされて何度も病院に通ったとき感じた母の背中 の温もりや想いは、私の心に刻まれている。 児童虐待など、母や父の想いを感じられず育った子供は、その穴を、長い人生をかけて何ら かの方法で埋めていかなければならない。昔の人が言った「三つ子の魂百まで」は、幼いころ の性格は年をとっても変らないことを意味しているが、自我が確立しておらず、無意識の中に いる3歳までの時期は、その後の長い人生を形作るといってもいいのかも知れない。 異論はあると思うが、少なくとも3歳までは周りの人たちの助けを借りながら、親の想いを浴び つづける満たされた時期であってほしい。 ブッダ、日本各地に赴き12万体の仏像を彫った円空、そして私が尊敬する哲学者・梅原猛さん は幼いときに母親を亡くした。この深い喪失感は体験した者だけしかわからないのだろう。ブッダ、 円空、多くの人々を救ってきた彼らの光は、私には垣間見ることさえ出来ない深みから発せられ ているのかも知れない。 ☆☆☆☆ |
2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ) (大きな画像) 実物の「縄文のヴィーナス」はこちら 土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。 今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の 高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。 今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって 知ったことだが)。 殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が 刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。 アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を 取り出し母親に抱かせた。 それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。 また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の 時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。 このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い 悲しみと再生の祈りが込められていると記している。 「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。 縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。 過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。 |
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