「脳科学が解き明かす 善と悪」
ナショナル ジオグラフィック 2018年2月号 より写真・文 引用
本書 より抜粋引用 文=ユディジット・バタチャルジー(サイエンスライター) 写真=リン・ジョンソン 極端な利他主義とサイコパス(精神病質者)は、人間の本能の最善と最悪な部分をよく表している。私たちは、 自己犠牲的な行為や寛大さといった崇高な性質を「善」、それとは正反対の自己中心性や暴力、破壊衝動などを 「悪」と認識している。専門家の仮説によれば、人類が生存するためには社会的な集団内での協力が不可欠で、 そのために助け合いの心が進化したという。一方、資源をめぐってはほかの集団と争う必要があり、他者を傷つ けること、そしておそらく殺すこともいとわなくなったと考えられる。「人間は地球上で最も社会性のある生物で あり、最も暴力的な生物でもあります」と、社会神経学者のジャン・デシティは言う。「生き残るためには、その 二つの顔が必要だったんです」 (中略) キールは過去20年にわたって受刑者の脳を磁気共鳴画像法(MRI)で撮影し、その違いを研究している。2007年 以来、キールの研究チームは4000人以上の受刑者の脳を調べ、脳内の活動状態や、さまざまな領域の容積の 測定を行ってきた。 脳内には、感情の処理に重要な「偏桃体(へんとうたい)」という場所がある。被験者に「苦悩」とか「不快」と いった、感情に訴える言葉を見せ、後からその言葉を思い出してもらったとき、サイコパスの犯罪者は、偏桃体 の活動が、通常の犯罪者よりも弱いことがわかった。また、道徳的な判断をどのように下しているのかを調べる 課題も与えられた。殴られて血まみれになった顔面などの暴力的な写真を次々と見せて、それぞれがどの程度、 悪いことだと思うかランク付けしてもらうと、サイコパスもそうでない人も、それらに道徳的な問題があることは 認識するが、サイコパスの脳においては、その判断を助ける領域の活動が弱い傾向がある。 こうした結果からキールは、サイコパスの脳は、感情処理や意思決定、衝動の抑制や目標の設定を助ける、 偏桃体や眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)といった領域を結びつける機能に障害があると確信した。 「基本的に、サイコパスの傾向が強い人の脳においては、そうした領域の灰白質の容積が5〜7%少なくなって います」とキールは言う。その欠陥を補うため、彼らは本来、脳の感情の領域で処理することを、ほかの認知を つかさどる領域を使って冷静に処理しているように見える。「言い換えれば、私たちは善悪を“感じる”が、サイコ パスは“考えて”判断している」と、キールは論文に書いている。 (中略) その男性が取った利他的な行動は、ある意味では、サイコパスの行動の対極に位置するのではないかと、 マーシュは考えた。そして、彼女は並外れて親切な人々について研究しようと考え、その理想的な研究対象と して、腎臓の臓器提供者を選んだ。何の見返りも受け取らずに、見ず知らずの人に、自分の腎臓の一つを提供 する人々だ。 マーシュの研究チームは、全米各地から19人の腎臓提供者を集めた。そして、一人ひとりに、恐怖や怒り、 無表情など、さまざまな表情を写した白黒写真を1枚ずつ見せながら、MRIで脳の活動状態や構造を調べた。 すると、恐怖を浮かべた表情を見ているときの腎臓提供者たちは、一般の被験者よりも右側の偏桃体に大きな 反応が見られた。また、臓器提供者たちの偏桃体は、一般の人々よりも平均して8%ほど大きいことも確認され た。それ以前に行われたサイコパスに関する同様の研究では、逆の結果が報告されている。サイコパスの 偏桃体は一般の被験者のものよりも小さく、恐怖の表情に対する反応も小さいのだ。 私たちの脳は柔軟で、トレーニングをすれば 大人になっても優しさや寛容さを育てられる。 「恐怖の表情は、心配や思いやりの気持ちを引き出します。その表情に反応しない場合、他者を思いやる気持ち をもつ可能性は低いでしょう」とマーシュは説明する。「そして、腎臓提供者は、他者の苦しみ、とりわけ恐怖に 対して、非常に敏感なようです。偏桃体が平均よりも大きいことと関係があるかもしれません」 なぜ虐殺が起きるのか 世の中の大半の人は、極端な利他主義者でもサイコパスでもないし、暴力的な行動を取ることもない。だがそれ でも、数多くの人間の共謀や服従という形の協力なしには成立しない、組織的な大量虐殺は起きている。これ までに何度も、民族や国家、人種や宗教を基に組織された社会集団が、ほかの集団に対して残忍な行為を繰り 返してきた。数百万人のユダヤ人をガス室に送ったドイツのナチスをはじめ、カンボジアの政治勢力クメール・ ルージュ、数十万のツチの人々と穏健派の仲間を殺したルワンダのフツの過激派、イラクのヤスディ教徒を 多数殺害したイスラム国(IS)のテロリストなど、大量虐殺は地球上の至るところで起きているといえる。 (中略) 大量虐殺の防止を目的とするNPO「ジェノサイド・ウォッチ」の創設者であるグレゴリー・スタントンは、普段の 良識的な人々が殺人を犯すに至るまでの段階を、次のように解き明かした。まず、ある集団のリーダーが、 標的とする人々を「あちら側の人間」と定義し、その存在が「こちら側の人間」の利益を脅かしていると言って、 集団を扇動する。それに呼応するように差別が始まり、すぐにリーダーは標的を人間以下の存在として位置 づける。すると、「こちら側」の人々に備わっていた、他者への共感の気持ちが徐々に失われていくのだ。 次の段階では社会が両極化する。「大量虐殺をたくらむ者たちは、『味方になるか敵になるか選べ』と迫ります」 とスタントンは言う。続いて準備段階が始まり、「あちら側」の人々は、隔離されたり、強制収容所へ追いやられ たりすることもある。そして大量虐殺が始まる。 大量虐殺の加害者の多くは、良心の呵責を覚えない。それはサイコパスの場合とように、感じる能力がない からではなく、殺人を正当化する理屈をもっているからだ。大量虐殺の研究者ジェームズ・ウォラーは、ルワンダ 虐殺で有罪判決を受けたり、糾弾されたりしている数十人のフツの男性の聞き取り調査を行った際に、「人の心 には、最悪の行為に理解を示したり、正当化したりできる、信じがたいほど大きな能力がある」ことを垣間見た と話す。彼らの理屈は、「子供たちも殺さなければ、将来大人になったときに復讐される。自分たちの民族が 生き残るために、どうしても必要なことだった」というものだった。 優しい心を育てる (中略) センターでは、攻撃的で反社会的な行動を取る少年たちと、人間関係を築こうと試みる。スタッフは何をされて も、彼らをひたすら人間的に扱う。少年たちの態度は、毎日、点数で評価される。点数がよければ、翌日、ビデオ ゲームで遊ぶなど、何かしらの特典が与えられる。逆にけんかをするなどして、点数が悪かったときには特典は 失われる。悪い行いを罰するのではなく、善い行いに報酬を与えることに重点を置いたプログラムで、ほかの 厚生施設には見られない特徴だ。その結果、少年たちの態度は徐々に改まってくると、センター長のグレッグ・ バン・ライブロークは語る。感情や暴力的な衝動を抑制する能力は、いったん身につくと持続するようだ。この プログラムを終えた少年が、出所後2〜6年の間に再び罪を犯す割合は、数の上でも暴力性の程度においても、 ほかの施設の出所者に比べてはるかに低い。「魔法を使ったわけではありません」とバン・ライブロークは言う。 「ただ、少年たちの立場から世界を見て、彼らの物事の見方を、公平かつ一貫性のあるやり方で解きほぐす 方法を編み出すことができたということです」 ここ数十年の研究により、私たちの脳は柔軟で、トレーニングをすれば、大人になっても優しさや寛容さを育てる ことが証明されている。社会神経科学者のタニア・ジンガーは、その分野の先駆者だ。 「共感」と「思いやり」は、脳内で異なるネットワークを使っていることをジンガーの研究チームは突き止めた。 どちらも好ましい社会的行動に結びつくが、苦しんでいる人を見たときに共感して人の痛みを感じ取った人は、 自分自身の心と体の平穏を守るために、他者の苦しみから背けたいという、拒否反応を示すことがあるという。 人の痛みを感じ、それを和らげてあげたいと思う「思いやり」の気持ちを育てるにはどうすればいいのか。ジンガー らは、さまざまなトレーニングを行って、その結果を比較した。なかでも優れていたのが、仏教の伝統から生まれ た方法だった。被験者に、両親や子どもといった自分の大切な人物を思い浮かばせ、その人への親愛の情を 胸の内で温めてもらう。そして、その温かい思いを向ける対象を、知人から見知らぬ人々、さらに敵にまで、徐々 に範囲を広げていくというものだ。 |