「人類哲学序説」
梅原猛・著 岩波新書
2013年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 ニーチェと宮沢賢治(写真は1年前に作ったレゴの蒸気機関車です) ニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴される虚無主義(ニヒリズム)と「超人」思想。 私はニーチェの著作に触れたことがなく正しく読み取っていないかも知れませんが、、現世から目を背けている 当時の風潮に対して、彼は果敢な挑戦状を叩きつけたのだと思います。 しかし、来世のことだけを語る宗教への断罪と虚無主義。一部において何故彼がこう考えたのか納得はするも のの、私たち一人一人は空気や水・食べ物など、地球や他の生命が養い創ったもののなかでしか生きられま せん。人間は決して単独で存在できるものではありませんし、他のものとの関係性なくしては生きられないので はないかと疑問に思ったのも事実です。 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」からニーチェ、ハイデッガー。彼らの「個(人間)」だけを世界から切り 離した思索、人間中心主義が横行した西洋哲学に対して、梅原猛さんはその著「人類哲学序説」の中で鋭く 批判しています。 これらの西洋哲学者の対極にいるのが宮沢賢治や先住民と呼ばれる人なのかも知れません。西洋哲学が 人間を世界から切り離して真理に近づこうとしていたのに対し、賢治や先住民は他のものとの関係性(繋がり) を基軸に据え、賢治の場合は「銀河鉄道の夜」などの童話を通して私たち後世の人に想いを託したのでしょう。 賢治が言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、互いの繋がりを 真に肌で感じた者にしか発することが出来ない言葉なのだと思います。 梅原さんは前述した本の中で、宮沢賢治と江戸時代の画家「伊藤若沖」を紹介され、二人の思想の背景には 「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」(国土や動物・草木も仏性を持ち成仏できる意味)が あり、縄文時代やアイヌを含む世界各地の先住民の世界観に共通しているものがあると言われます。 またノーベル賞を受賞した福井謙一さんの言葉「科学はいまに、裁かれる日がくるだろう。自然を征服する科学 および科学技術から、自然と共生する科学および科学技術へと変わらなければいけない」を紹介されていました が、科学技術文明の基となったデカルト以来の西洋哲学にも同じことが言えると主張されています。 私たちはデカルト以来の西洋哲学を、反面教師として捉える時期なのかも知れません。 ニーチェの「神は死んだ」、私は彼の思索の片鱗も理解できていないかも知れませんが、虚無としか映らない 状況のなか一筋の光りを見た女性がいました。 ニーチェの「超人」思想がヒトラーに悪用され、ハイデッガーがナチスの思想ではなくヒトラーの強い意志に魅了 されていた同じ頃、アウシュヴィッツの強制収容所で亡くなった無名の人ですが、賢治の銀河鉄道と同じように 多くの人の道標として、これからもその軌道を照らしていくのだと思います。 最後に、フランクル「夜と霧」から抜粋引用し終わりにします。 ☆☆☆☆ それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。 「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。 「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを 追っていなかったからですの。」 その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっちの私のただ一つのお友達 ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。 外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。 病人の寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた 一本の緑の枝を見ることができた。 「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。 私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。 「樹はあなたに何か返事をしましたか? -しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。 「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-私は-ここに-いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。」 ☆☆☆☆ |
(内容紹介より引用) 日本には「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある――.原発事故という文明災を経て, 私たちは何を自省すべきか.デカルト,カント,ニーチェらを俎上に近代合理主義が見落とし てきたもの,人間中心主義が忘れてきたものを検証し,持続可能な未来への新たな可能性を 日本の歴史のなかに見出す.ここに,新たな「人類哲学」が誕生する. 本書には西洋哲学への厳しい批判がある。私は若き日にかなり熱心に西洋哲学を研究し たが、40歳ごろ、研究対象を主として日本文化に変更した。それは、近代西洋文明に疑問を 感じ、人類文化を持続的に発展せしめる原理が日本文化のなかに存在するのではないかと いう予感を抱いたからである。 しかし、その日本文化の本質を明らかにするために、私には約50年もの時が必要だった。 そこで見出した日本文化の原理が「草木国土悉皆成仏」という思想である。 (本書・帯文より引用) 梅原 猛(うめはら・たけし)1925年宮城県生まれ。哲学者。京都大学文学部哲学科卒業。 京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長などを歴任。現在、同センター 顧問。99年、文化勲章受章。72年に『隠された十字架 法隆寺論』で毎日出版文化賞、74年に 『水底の歌 柿本人麿論』で大佛次郎賞を受賞。 著書に、『ヤマトタケル』『日本人の「あの世」観』『京都発見』『梅原猛の授業 仏教』『葬られた 王朝 古代出雲の謎を解く』『世阿弥の神秘』など多数あり、二期にわたる『梅原猛著作集』が 刊行されている。縄文時代から近代まで、文学・歴史・宗教等を含めた考察は「梅原日本学」 とも呼ばれる。 |
第1章 「なぜ、いま、人類哲学か」 より抜粋引用 このように、人間はどう生きるべきかという問題を自分の言葉で語るのが哲学だとして、そのような学問としての 西洋哲学が存在していることは間違いありませんん。ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表されるギリシャ 哲学。そして近代では、その幕開けとなったデカルトにはじまり、カント、ヘーゲル、そしてニーチェ、ハイデッガー ・・・・。これらはやはり素晴らしい哲学者たちです。彼らのように、哲学はまず、自分の思想を自分の言葉で語ら なければなりません。 ところが、日本の哲学者と言われる人びとは、その多くが自分の思想を語ることをしていません。自分の思想を 語る、という哲学でもっとも重要なことをせず、西洋哲学を研究し、翻訳して紹介し、その研究を一生の仕事とし ている方々が多い。それも重要なことですが、本当の意味の哲学とは言えません。自らの頭で一つの真理を考 え、それを自らの言葉で語るような、そういう真の哲学者は、現代の日本には残念ながらほとんどいないと言っ ていいのではないかと思います。 しかし日本にも、自分の言葉で自分の哲学を語る哲学者が、過去にはいたのです。名前を挙げますと、西田 幾多郎、田辺元、和辻哲郎、ちょっと変わったところで九鬼周造・・・・。そういう自分の哲学を語った巨人たちが 日本にもいたことはまぎれもない真実なのです。 このような思想は仏教の発祥の地であるインドにはありません。インドにおいては、命を持っているものは動物 までで、植物は命を持っていないとされます。命を持っている者は有情、そうでないものを無情と言いますが、 インドにおいて、植物は無情なのです。お釈迦さんは、命あるものを殺してはいけないからといつも下を向いて 歩いていたと言いますが、そこで言う「命あるもの」は動物までであって、植物は入りません。仏教者はベジタリ アンで動物を食べません。命あるものを殺すことになりますから。しかし、植物は食べる。もし、植物も命あるも の、有情のものとしたならば、何も食べれなくなりますね。 この「草木国土悉皆成仏」という思想は中国の仏教、特に中国の天台宗にはあります。これは道教の影響では ないかと道教研究者の福永光司は指摘しましたが、しかしこの思想はけっして中国仏教の主流にはなりません でした。ところがそういう思想が日本仏教の中心思想となった。それは天台と真言が生んだ思想であり、鎌倉 仏教の共通の前提となった思想ですから、まさに、日本仏教の思想であると言えます。そして日本仏教の思想 は、すなわち日本の思想であると言えるのではないでしょうか。日本の神道の思想も・・・・これは後述しますが ・・・・、「草木国土悉皆成仏」というような思想であるに違いない。であるならばやはり、まさにこれこそが日本文 化の中核の思想であると言わざるを得ない。 とすれば、このような「草木国土悉皆成仏」という概念で日本文化を説明できるか、という疑問が浮かび上がり ます。私は、禅で日本文化を説明するよりもはるかに幅広く、多くの日本文化を、この「草木国土悉皆成仏」と う思想で説明できると考えております。 第2章 「デカルト省察」 より抜粋引用 私は、身を離れた心というものは、一種の亡霊のようなものであると思うのです。沖縄では、そういう身を離れた 亡霊があちこちに潜んでいるとされ、それがある種の守り神とされています。一種の幽霊ですね。近代哲学の 基礎に置いたデカルトの「われ」は、実は身を離れた幽霊だったのではないか。しかもそれが実体とされた。 「実体」とは中世においては神にしか与えられない概念だったのに、近代に入り、肉体を離れた幽霊が実体と されてしまった。そして、そのような理性・精神によって近代哲学は導かれていったのです。 デカルト以後スピノザとかライプニッツとか、デカルトと異なる哲学が出現しましたが、しかし、以後の哲学に大き な影響を与えたのは、やはりデカルトです。以後、イギリスではロックやヒュームの経験論の哲学、そしてドイツ では、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの観念論の哲学が出現します。ここではこのような哲学について、くわしく 語ることはできませんが、近代哲学の大成者とされるフリドリッヒ・ヘーゲルは、近代哲学はデカルトの理性の 自立という思想に始まるとデカルトをたたえています。ヘーゲルの矛盾を通しての精神の発展の哲学を、物質の 発展に変えるのが、戦後一時、日本の思想界を風靡したカール・マルクスの唯物弁証法です。 繰り返しますが、この肉体から離れた精神、「われ」あるいは理性というのは、つまりはデカルト哲学の第一原理 というものは、ヘレニズムとヘブライズムの伝統のうえに偏見をのせてしまったのではないか、そう私は考えます。 つまり、ここまで論じてきた理由から、この原理は明晰判然たる真理とは認められない、というのが私の省察です。 第3章 「ニーチェ及びハイデッガー哲学」 より抜粋引用 唐の詩人白楽天が、日本の国情を探るために、大きな船に乗って博多へやって来た。このことを察知して、和歌 の神といわれる住吉明神が小舟に乗って、博多で白楽天を待ち構え、白楽天に問答をしかける。いろいろな問答 をするうちに白楽天が「中国には詩という素晴らしいものがある」と言って、自作の詩を紹介します。 その詩を聞いて住吉明神は、すぐにそれを日本の和歌に置き換える。すると白楽天は驚いて、「日本の和歌とは どんなものか」と聞く。すると住吉明神は、「中国の詩は、人間のみが詠むものだ。しかし日本では、人間ばかりか、 鶯も、蛙も歌を詠む」と言うのです。 『古今集』仮名序に、鶯も蛙も「いづれか、歌を詠まざりける(鳥も動物も、歌をうたわないものなどいるだろうか)」 と、鳥や蛙の声も歌とおなじなのだと記されています。ところが中世においては、この言葉を「人間が死んで鶯に なって鳴いたら、それが歌になっていた」、あるいは「人間が死んで蛙になった。その蛙がぴょんぴょんと跳んだら、 その即席が三十一文字の歌になっていた」などと解釈していました。鶯も、蛙も人間の生まれ変わりとして、歌を 詠む。そればかりではなく松の枝に吹く風の音も、雨の音も、すべてが歌だ、と住吉明神は言うのです。それを 聞いた白楽天は、驚いて逃げて帰っていく。 世阿弥は、このような能をつくっているのです。私は、これは非常に重要な日本文化論だと思うのです。つまり、 鶯も、蛙も歌を詠む。人間が死んで鶯になって、蛙になって歌を詠んだ。そして、松風の音、雨の音、天地自然の すべての声が歌である、という思想です。ちなみに小鼓の音は波の音であると言われます。 そういう自然の霊・・・・自然の霊の一部が人間です・・・・の音楽が、能の音楽になっているのではないかと私は考え ていますが、そのような天地自然すべてが音楽を持ち歌を持つという考え方が、日本には古来からあるのです。こ れはまさに「草木国土悉皆成仏」の思想です。そしてこの思想は、ハイデッガーの主張、詩をつくるのは人間だけ、 言葉を持つのは人間だけ、「存在」は言葉によってしか現れない、という思想と、100パーセント相反するのです。 第4章 「ヘブライズムとヘレニズム」 より抜粋引用 かつて、原子力の利用は、科学技術の最先端でした。同様に、いまや自然エネルギーの開発が人類社会に必要 不可欠な課題となっている。自然エネルギーは、今のままでははなはだ高くついてしまう。自然エネルギーを安く 手に入れるための技術の開発が、いまや文明の急務になっています。私は、必要があれば技術は生まれると思っ ています。日本のこれまでの政策は、そのような自然エネルギーの開発をむしろ否定し、原子力のみに頼ってきて しまいました。それが結局、電力会社の利益になっていたのです。 しかし、そういう時代は終わり、自然エネルギーの開発は人類文明を破壊から救う急務となった。そういう時代が やってきたと思うのです。いま、太陽の恩恵をより受ける科学こそが先端科学です。自然の与えるエネルギーを より効率的に享受するということが、新しい科学の課題になったと思います。 それは確かにエネルギーの問題ですが、私はエネルギーの問題だけではないと思うのです。第一義的に文明の 問題であり、哲学の問題であると思います。もう一度、人間が太陽と水の恩恵を肌で感じ、太陽の神、水の神に 対する尊敬を取り戻すことが必要ではないかと思うのです。この問題はただのエネルギーの問題のみならず、 エネルギーの問題異常に文明の問題であり哲学の問題であり、宗教の問題であると思います。 第5章 「森の思想」 より抜粋引用 そういう弱肉強食の世界が、この大変美しい動植物の絵のなかで表現されているのです。若沖は美しい絵を描く けれでも、その絵のなかに流転のなかの動植物、あるいは弱肉強食の動植物を描いている。その点は、やはり 賢治と同様ですが、生成消滅の理のなかにある動植物には明らかに「滅び」、つまり死があるのです。その死を 若沖は描いているのです。また動植物の世界には、食い合い、殺し合いの世界があります。このような食い合い 殺し合いの世界を若沖は大変華麗な絵画に仕上げている。つまり、そういう世界があるにもかかわらず、この 世界は素晴らしいのだと、若沖は言おうとしているように思うのです。 天台本覚思想である「草木国土悉皆成仏」という思想は、ありのままの現実を肯定し受け容れる、という面を持っ ています。流転の世界があり、弱肉強食の世界がありながら、そのような世界は、素晴らしい世界であり、それを ありのまま受け容れようではないかという思想があります。そうすると、若沖の絵の意味するところと「草木国土 悉皆成仏」という思想の意味するところとは、同じものではないかということになります。 このような世界は、時間的にはどういう世界観なのか、という問題があります。先ほどの絵の説明で明らかなよう に、この世界は流転の世界だと若沖は語っている。森の世界というものもまた、流転の世界なのではないでしょう か。 |
目次 第一章 なぜいま、人類哲学か 哲学とは「人間がどう生きるべきか」を自分の言葉で語るもの/原点となった戦争体験/ 禅でいいのか―西田幾多郎と鈴木大拙/近代西洋を問う/天台本覚思想との出会い/ 風土と思想/日本の古層、縄文文化/アイヌ文化の思想/アイヌ語と日本語/ 「魂」の再生を願う/死の概念/今も息づくアニミズム 第二章 デカルト省察 なぜ、デカルトか/『方法序説』の誕生/第一〜第四の方法―学問の方法/ 「梅原日本学」はデカルト流/生きるための法則/「疑う」ことの難しさ/「われ」とは何か/ 機械論的発想の功罪/デカルト哲学省察/時代の制約/肉体なき精神は可能か/ 人間が征服する自然/デカルトを超えて 第三章 ニーチェ及びハイデッガー哲学への省察 1 ニーチェ ニーチェの生涯/「血でもって書け」/〈ラクダ〉の時代、〈獅子〉の時代、〈子ども〉の時代/ 傑作『ツァラトゥストラかく語りき』/ルサンチマンが動かす歴史/ 神が死に、超人が生まれる/「永劫回帰」とは/私的経験としての「永劫回帰」/ ニーチェ批判/超人とは誰か/若気の至り 2 ハイデッガー 二〇世紀最大の哲学者/ハイデッガーの生涯/実存哲学/『存在と時間』と『森の小径』/ 「ザインの哲学」とは/幻想への志向/言葉を持つのは人間だけか/ 「存在」は普遍の真理か/ニーチェとハイデッガーが見なかったもの 第四章 ヘブライズムとヘレニズムの呪縛を超えて ヨーロッパ文明の父と母/ヘブライズムと近代/ギリシャ神話を読み解く/ 海洋国家ギリシャ/軍事国家としてのギリシャ/自由民の余暇から生まれた学問/ ソクラテスの哲学/プラトンの言葉か、ソクラテスの言葉か/ ソクラテスとプラトンが人間中心主義の祖/なぜ、太陽信仰がないのか/ 源流としてのエジプト文明/太陽崇拝のなごり「おてんとう様」/長江文明という源流/ 太陽崇拝の系譜/近代合理性の限界 第五章 森の思想 草木国土悉皆成仏/水を守るもの/森の都/鎮守の森に守られて/宮沢賢治の思想/ 熊と人と―霊の交歓/伊藤若冲の世界/流転する森とあの世観/二種回向と悪人正機/ 森の征服―ヨーロッパ/自利と利他/西洋哲学から、人類哲学へ あとがき |
本書「人類哲学序説」の中で紹介されている伊藤若沖の絵
「地辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)」
2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2012年6月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 氷河期の記憶(写真は岩田山公園にて撮影) 太陽の魂、暖かさを地上にもたらす鳥の伝説は2月5日に投稿した「ワタリガラスの伝説」があるが、 寒冷地に住む民族ほどこのような伝説を産みだしやすいのかも知れない。 このような伝説は、7万年前から1万年までの最終氷期を生き抜いた人類が子孫に伝える教訓とし て伝説や神話の中に生きている。 自身の「死の自覚」から神(創造主)との接点、それが神話の誕生に繋がったのかも知れないし、 それらはほぼ同時期に産まれたのかも知れない。 世界屈指の古人類学者のフアン・ルイス・アルスアガは、「死の自覚」が今から40万〜35万年前の ヒト族に芽生えたと言っているが、それは我々の祖先と言われてきたミトコンドリア・イブ(約16万年 前)よりも遥かに古い時代である。 エレクトゥス(100万〜5万年前)、ハイデルベルゲンシス(60万〜25万年前)、ネアンデルターレンシス (35万〜3万年前)のヒト族は既にこの世界から絶滅しているが、もし彼らに「死の自覚」、神との接点、 神話があったとしたら、それはどのようなものだったのだろう。 そして現生人類(我々)の最古の宗教であるシャーマニズム、そして現存する多くの宗教はどのよう に関わっているのだろう。 2010年に現生人類(我々)の遺伝子にはミトコンドリア・イブだけでなくネアンデルターレンシス(ネア ンデルタール人)の遺伝子がある可能性が指摘されたが、今後の遺伝子研究や発掘により、彼らの 真実が明らかになってくることだろう。 ただどんなに過去や未来に想いを馳せようが、我々は今この瞬間を生きていることだけは確かな ことかも知れない。 過去未来に関わらず、すべての生命がそうであった(ある)ように。 (K.K) |
2012年1月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年1月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ) (大きな画像) 実物の「縄文のヴィーナス」はこちら 土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。 今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の 高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。 今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって 知ったことだが)。 殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が 刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。 アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を 取り出し母親に抱かせた。 それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。 また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の 時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。 このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い 悲しみと再生の祈りが込められていると記している。 「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。 縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。 過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。 |
Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent
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