「人類哲学序説」

梅原猛・著 岩波新書






2013年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




ニーチェと宮沢賢治(写真は1年前に作ったレゴの蒸気機関車です)



ニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴される虚無主義(ニヒリズム)と「超人」思想。



私はニーチェの著作に触れたことがなく正しく読み取っていないかも知れませんが、、現世から目を背けている

当時の風潮に対して、彼は果敢な挑戦状を叩きつけたのだと思います。



しかし、来世のことだけを語る宗教への断罪と虚無主義。一部において何故彼がこう考えたのか納得はするも

のの、私たち一人一人は空気や水・食べ物など、地球や他の生命が養い創ったもののなかでしか生きられま

せん。人間は決して単独で存在できるものではありませんし、他のものとの関係性なくしては生きられないので

はないかと疑問に思ったのも事実です。



デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」からニーチェ、ハイデッガー。彼らの「個(人間)」だけを世界から切り

離した思索、人間中心主義が横行した西洋哲学に対して、梅原猛さんはその著「人類哲学序説」の中で鋭く

批判しています。



これらの西洋哲学者の対極にいるのが宮沢賢治先住民と呼ばれる人なのかも知れません。西洋哲学が

人間を世界から切り離して真理に近づこうとしていたのに対し、賢治や先住民は他のものとの関係性(繋がり)

を基軸に据え、賢治の場合は「銀河鉄道の夜」などの童話を通して私たち後世の人に想いを託したのでしょう。



賢治が言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、互いの繋がりを

真に肌で感じた者にしか発することが出来ない言葉なのだと思います。



梅原さんは前述した本の中で、宮沢賢治と江戸時代の画家「伊藤若沖」を紹介され、二人の思想の背景には

「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」(国土や動物・草木も仏性を持ち成仏できる意味)が

あり、縄文時代アイヌを含む世界各地の先住民の世界観に共通しているものがあると言われます。



またノーベル賞を受賞した福井謙一さんの言葉「科学はいまに、裁かれる日がくるだろう。自然を征服する科学

および科学技術から、自然と共生する科学および科学技術へと変わらなければいけない」を紹介されていました

が、科学技術文明の基となったデカルト以来の西洋哲学にも同じことが言えると主張されています。



私たちはデカルト以来の西洋哲学を、反面教師として捉える時期なのかも知れません。



ニーチェの「神は死んだ」、私は彼の思索の片鱗も理解できていないかも知れませんが、虚無としか映らない

状況のなか一筋の光りを見た女性がいました。



ニーチェの「超人」思想がヒトラーに悪用され、ハイデッガーがナチスの思想ではなくヒトラーの強い意志に魅了

されていた同じ頃、アウシュヴィッツの強制収容所で亡くなった無名の人ですが、賢治の銀河鉄道と同じように

多くの人の道標として、これからもその軌道を照らしていくのだと思います。



最後に、フランクル「夜と霧」から抜粋引用し終わりにします。



☆☆☆☆



それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。



「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。



「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを

追っていなかったからですの。」



その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっちの私のただ一つのお友達

ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。



外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。



病人の寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた

一本の緑の枝を見ることができた。



「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。



私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか? 

不思議に思って私は彼女に訊いた。



「樹はあなたに何か返事をしましたか? -しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」



彼女は答えた。



「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-私は-ここに-いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。」



☆☆☆☆







(内容紹介より引用)



日本には「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある――.原発事故という文明災を経て,

私たちは何を自省すべきか.デカルト,カント,ニーチェらを俎上に近代合理主義が見落とし

てきたもの,人間中心主義が忘れてきたものを検証し,持続可能な未来への新たな可能性を

日本の歴史のなかに見出す.ここに,新たな「人類哲学」が誕生する.





本書には西洋哲学への厳しい批判がある。私は若き日にかなり熱心に西洋哲学を研究し

たが、40歳ごろ、研究対象を主として日本文化に変更した。それは、近代西洋文明に疑問を

感じ、人類文化を持続的に発展せしめる原理が日本文化のなかに存在するのではないかと

いう予感を抱いたからである。



しかし、その日本文化の本質を明らかにするために、私には約50年もの時が必要だった。

そこで見出した日本文化の原理が「草木国土悉皆成仏」という思想である。


(本書・帯文より引用)





梅原 猛(うめはら・たけし)1925年宮城県生まれ。哲学者。京都大学文学部哲学科卒業。

京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長などを歴任。現在、同センター

顧問。99年、文化勲章受章。72年に『隠された十字架 法隆寺論』で毎日出版文化賞、74年に

『水底の歌 柿本人麿論』で大佛次郎賞を受賞。



著書に、『ヤマトタケル』『日本人の「あの世」観』『京都発見』『梅原猛の授業 仏教』『葬られた

王朝 古代出雲の謎を解く』『世阿弥の神秘』など多数あり、二期にわたる『梅原猛著作集』が

刊行されている。縄文時代から近代まで、文学・歴史・宗教等を含めた考察は「梅原日本学」

とも呼ばれる。



 



第1章 「なぜ、いま、人類哲学か」 より抜粋引用



このように、人間はどう生きるべきかという問題を自分の言葉で語るのが哲学だとして、そのような学問としての

西洋哲学が存在していることは間違いありませんん。ソクラテスプラトンアリストテレスに代表されるギリシャ

哲学。そして近代では、その幕開けとなったデカルトにはじまり、カント、ヘーゲル、そしてニーチェ、ハイデッガー

・・・・。これらはやはり素晴らしい哲学者たちです。彼らのように、哲学はまず、自分の思想を自分の言葉で語ら

なければなりません。



ところが、日本の哲学者と言われる人びとは、その多くが自分の思想を語ることをしていません。自分の思想を

語る、という哲学でもっとも重要なことをせず、西洋哲学を研究し、翻訳して紹介し、その研究を一生の仕事とし

ている方々が多い。それも重要なことですが、本当の意味の哲学とは言えません。自らの頭で一つの真理を考

え、それを自らの言葉で語るような、そういう真の哲学者は、現代の日本には残念ながらほとんどいないと言っ

ていいのではないかと思います。



しかし日本にも、自分の言葉で自分の哲学を語る哲学者が、過去にはいたのです。名前を挙げますと、西田

幾多郎、田辺元、和辻哲郎、ちょっと変わったところで九鬼周造・・・・。そういう自分の哲学を語った巨人たちが

日本にもいたことはまぎれもない真実なのです。







このような思想は仏教の発祥の地であるインドにはありません。インドにおいては、命を持っているものは動物

までで、植物は命を持っていないとされます。命を持っている者は有情、そうでないものを無情と言いますが、

インドにおいて、植物は無情なのです。お釈迦さんは、命あるものを殺してはいけないからといつも下を向いて

歩いていたと言いますが、そこで言う「命あるもの」は動物までであって、植物は入りません。仏教者はベジタリ

アンで動物を食べません。命あるものを殺すことになりますから。しかし、植物は食べる。もし、植物も命あるも

の、有情のものとしたならば、何も食べれなくなりますね。



この「草木国土悉皆成仏」という思想は中国の仏教、特に中国の天台宗にはあります。これは道教の影響では

ないかと道教研究者の福永光司は指摘しましたが、しかしこの思想はけっして中国仏教の主流にはなりません

でした。ところがそういう思想が日本仏教の中心思想となった。それは天台と真言が生んだ思想であり、鎌倉

仏教の共通の前提となった思想ですから、まさに、日本仏教の思想であると言えます。そして日本仏教の思想

は、すなわち日本の思想であると言えるのではないでしょうか。日本の神道の思想も・・・・これは後述しますが

・・・・、「草木国土悉皆成仏」というような思想であるに違いない。であるならばやはり、まさにこれこそが日本文

化の中核の思想であると言わざるを得ない。



とすれば、このような「草木国土悉皆成仏」という概念で日本文化を説明できるか、という疑問が浮かび上がり

ます。私は、禅で日本文化を説明するよりもはるかに幅広く、多くの日本文化を、この「草木国土悉皆成仏」と

う思想で説明できると考えております。








第2章 「デカルト省察」 より抜粋引用



私は、身を離れた心というものは、一種の亡霊のようなものであると思うのです。沖縄では、そういう身を離れた

亡霊があちこちに潜んでいるとされ、それがある種の守り神とされています。一種の幽霊ですね。近代哲学の

基礎に置いたデカルトの「われ」は、実は身を離れた幽霊だったのではないか。しかもそれが実体とされた。

「実体」とは中世においては神にしか与えられない概念だったのに、近代に入り、肉体を離れた幽霊が実体と

されてしまった。そして、そのような理性・精神によって近代哲学は導かれていったのです。



デカルト以後スピノザとかライプニッツとか、デカルトと異なる哲学が出現しましたが、しかし、以後の哲学に大き

な影響を与えたのは、やはりデカルトです。以後、イギリスではロックやヒュームの経験論の哲学、そしてドイツ

では、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの観念論の哲学が出現します。ここではこのような哲学について、くわしく

語ることはできませんが、近代哲学の大成者とされるフリドリッヒ・ヘーゲルは、近代哲学はデカルトの理性の

自立という思想に始まるとデカルトをたたえています。ヘーゲルの矛盾を通しての精神の発展の哲学を、物質の

発展に変えるのが、戦後一時、日本の思想界を風靡したカール・マルクスの唯物弁証法です。



繰り返しますが、この肉体から離れた精神、「われ」あるいは理性というのは、つまりはデカルト哲学の第一原理

というものは、ヘレニズムとヘブライズムの伝統のうえに偏見をのせてしまったのではないか、そう私は考えます。

つまり、ここまで論じてきた理由から、この原理は明晰判然たる真理とは認められない、というのが私の省察です。








第3章 「ニーチェ及びハイデッガー哲学」 より抜粋引用



唐の詩人白楽天が、日本の国情を探るために、大きな船に乗って博多へやって来た。このことを察知して、和歌

の神といわれる住吉明神が小舟に乗って、博多で白楽天を待ち構え、白楽天に問答をしかける。いろいろな問答

をするうちに白楽天が「中国には詩という素晴らしいものがある」と言って、自作の詩を紹介します。



その詩を聞いて住吉明神は、すぐにそれを日本の和歌に置き換える。すると白楽天は驚いて、「日本の和歌とは

どんなものか」と聞く。すると住吉明神は、「中国の詩は、人間のみが詠むものだ。しかし日本では、人間ばかりか、

鶯も、蛙も歌を詠む」と言うのです。




『古今集』仮名序に、鶯も蛙も「いづれか、歌を詠まざりける(鳥も動物も、歌をうたわないものなどいるだろうか)」

と、鳥や蛙の声も歌とおなじなのだと記されています。ところが中世においては、この言葉を「人間が死んで鶯に

なって鳴いたら、それが歌になっていた」、あるいは「人間が死んで蛙になった。その蛙がぴょんぴょんと跳んだら、

その即席が三十一文字の歌になっていた」などと解釈していました。鶯も、蛙も人間の生まれ変わりとして、歌を

詠む。そればかりではなく松の枝に吹く風の音も、雨の音も、すべてが歌だ、と住吉明神は言うのです。それを

聞いた白楽天は、驚いて逃げて帰っていく。



世阿弥は、このような能をつくっているのです。私は、これは非常に重要な日本文化論だと思うのです。つまり、

鶯も、蛙も歌を詠む。人間が死んで鶯になって、蛙になって歌を詠んだ。そして、松風の音、雨の音、天地自然の

すべての声が歌である、という思想です。ちなみに小鼓の音は波の音であると言われます。



そういう自然の霊・・・・自然の霊の一部が人間です・・・・の音楽が、能の音楽になっているのではないかと私は考え

ていますが、そのような天地自然すべてが音楽を持ち歌を持つという考え方が、日本には古来からあるのです。こ

れはまさに「草木国土悉皆成仏」の思想です。そしてこの思想は、ハイデッガーの主張、詩をつくるのは人間だけ、

言葉を持つのは人間だけ、「存在」は言葉によってしか現れない、という思想と、100パーセント相反するのです。








第4章 「ヘブライズムとヘレニズム」 より抜粋引用



かつて、原子力の利用は、科学技術の最先端でした。同様に、いまや自然エネルギーの開発が人類社会に必要

不可欠な課題となっている。自然エネルギーは、今のままでははなはだ高くついてしまう。自然エネルギーを安く

手に入れるための技術の開発が、いまや文明の急務になっています。私は、必要があれば技術は生まれると思っ

ています。日本のこれまでの政策は、そのような自然エネルギーの開発をむしろ否定し、原子力のみに頼ってきて

しまいました。それが結局、電力会社の利益になっていたのです。



しかし、そういう時代は終わり、自然エネルギーの開発は人類文明を破壊から救う急務となった。そういう時代が

やってきたと思うのです。いま、太陽の恩恵をより受ける科学こそが先端科学です。自然の与えるエネルギーを

より効率的に享受するということが、新しい科学の課題になったと思います。



それは確かにエネルギーの問題ですが、私はエネルギーの問題だけではないと思うのです。第一義的に文明の

問題であり、哲学の問題であると思います。もう一度、人間が太陽と水の恩恵を肌で感じ、太陽の神、水の神に

対する尊敬を取り戻すことが必要ではないかと思うのです。この問題はただのエネルギーの問題のみならず、

エネルギーの問題異常に文明の問題であり哲学の問題であり、宗教の問題であると思います。








第5章 「森の思想」 より抜粋引用



そういう弱肉強食の世界が、この大変美しい動植物の絵のなかで表現されているのです。若沖は美しい絵を描く

けれでも、その絵のなかに流転のなかの動植物、あるいは弱肉強食の動植物を描いている。その点は、やはり

賢治と同様ですが、生成消滅の理のなかにある動植物には明らかに「滅び」、つまり死があるのです。その死を

若沖は描いているのです。また動植物の世界には、食い合い、殺し合いの世界があります。このような食い合い

殺し合いの世界を若沖は大変華麗な絵画に仕上げている。つまり、そういう世界があるにもかかわらず、この

世界は素晴らしいのだと、若沖は言おうとしているように思うのです。



天台本覚思想である「草木国土悉皆成仏」という思想は、ありのままの現実を肯定し受け容れる、という面を持っ

ています。流転の世界があり、弱肉強食の世界がありながら、そのような世界は、素晴らしい世界であり、それを

ありのまま受け容れようではないかという思想があります。そうすると、若沖の絵の意味するところと「草木国土

悉皆成仏」という思想の意味するところとは、同じものではないかということになります。



このような世界は、時間的にはどういう世界観なのか、という問題があります。先ほどの絵の説明で明らかなよう

に、この世界は流転の世界だと若沖は語っている。森の世界というものもまた、流転の世界なのではないでしょう

か。




美に共鳴しあう生命



 



目次



第一章

なぜいま、人類哲学か

哲学とは「人間がどう生きるべきか」を自分の言葉で語るもの/原点となった戦争体験/

禅でいいのか―西田幾多郎と鈴木大拙/近代西洋を問う/天台本覚思想との出会い/

風土と思想/日本の古層、縄文文化/アイヌ文化の思想/アイヌ語と日本語/

「魂」の再生を願う/死の概念/今も息づくアニミズム



第二章

デカルト省察

なぜ、デカルトか/『方法序説』の誕生/第一〜第四の方法―学問の方法/

「梅原日本学」はデカルト流/生きるための法則/「疑う」ことの難しさ/「われ」とは何か/

機械論的発想の功罪/デカルト哲学省察/時代の制約/肉体なき精神は可能か/

人間が征服する自然/デカルトを超えて



第三章

ニーチェ及びハイデッガー哲学への省察



1 ニーチェ

ニーチェの生涯/「血でもって書け」/〈ラクダ〉の時代、〈獅子〉の時代、〈子ども〉の時代/

傑作『ツァラトゥストラかく語りき』/ルサンチマンが動かす歴史/

神が死に、超人が生まれる/「永劫回帰」とは/私的経験としての「永劫回帰」/

ニーチェ批判/超人とは誰か/若気の至り



2 ハイデッガー

二〇世紀最大の哲学者/ハイデッガーの生涯/実存哲学/『存在と時間』と『森の小径』/

「ザインの哲学」とは/幻想への志向/言葉を持つのは人間だけか/

「存在」は普遍の真理か/ニーチェとハイデッガーが見なかったもの



第四章

ヘブライズムとヘレニズムの呪縛を超えて

ヨーロッパ文明の父と母/ヘブライズムと近代/ギリシャ神話を読み解く/

海洋国家ギリシャ/軍事国家としてのギリシャ/自由民の余暇から生まれた学問/

ソクラテスの哲学/プラトンの言葉か、ソクラテスの言葉か/

ソクラテスとプラトンが人間中心主義の祖/なぜ、太陽信仰がないのか/

源流としてのエジプト文明/太陽崇拝のなごり「おてんとう様」/長江文明という源流/

太陽崇拝の系譜/近代合理性の限界



第五章

森の思想

草木国土悉皆成仏/水を守るもの/森の都/鎮守の森に守られて/宮沢賢治の思想/

熊と人と―霊の交歓/伊藤若冲の世界/流転する森とあの世観/二種回向と悪人正機/

森の征服―ヨーロッパ/自利と利他/西洋哲学から、人類哲学へ



 あとがき





本書「人類哲学序説」の中で紹介されている伊藤若沖の絵

「地辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)」


伊藤若冲の梅が好き: デザインはどこにあるの? より引用




2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



過ちと回心



回心すること、新しく生まれ変わること、その真の意味を私は本当に理解できているの

だろうか。



私たちは先住民に対して、太古の時代から自然と環境に調和する人々と捉えているが、

1万3000年前のアメリカ大陸では現代の私たちがしてきたことと同じように、乱獲などで

31属の大型草食動物が絶滅されたと言われている。



これはアメリカ先住民に限らず、オーストラリアのアボリジニ(最近の研究で明らかに

なりつつある)など世界各地に共通することかも知れない。



過去と現代、同じ過ちを犯していたとしても、彼ら先住民と私たち現代人の決定的な

違いは、過去から学んだ「知の遺産の継承」(国立科学博物館の海部陽介氏が提唱し

ている進化の仮説)、この場合は「回心の継承」とも言うべきものがあるかどうかなの

かも知れない。



先住民は、過去の過ちから学んだ教訓、それが回心となって魂に刻まれたが故に、

1万年以上も渡って世代から世代へと受け継がれてきたのではないだろうか。



私たち現代人は、動植物の絶滅と共に戦争など多くの悲劇を目の当たりにしてきた

が、果してそこから得られた、揺らぐことのない教訓が1万年先の人類にまで共有さ

れたものになっていくのだろうか。またそこに回心と呼べるものが存在しているのだ

ろうか。



ホモ・サピエンス(現生人類)は1万3000年前に一時陸続きになったベーリング海峡

を渡ってアメリカ大陸に来たとされているが、アメリカ先住民の多くはそれを否定し、

「自分たちは天地創造の時に亀の島(アメリカ大陸)に置かれた」と主張している。



ミトコンドリアなどの遺伝子解析から見れば在り得ないことだが、真に回心し、新しく

生まれ変わったことを体感した人ならば「今、私たちは生まれ変わり、そして今、私

たちはここに立つ」と言えるのだと思う。



この回心、それはシャーマニズムアニミズムとも関わってくるが、私自身はシャー

マニズム・アニミズムは1万3000年前より遥か太古の時代に生まれたと思っている

し、その背景にはネアンデルタール人などの旧人と言われた人の存在があったの

ではと感じている。細々と、しかし脈々と受け継がれてきた精神が1万3000年前に

多くの人々に共有され花開いたのかも知れない。



話はそれてしまったが、回心、1万3000年前の現生人類が体感したこと、それは私

が想像するより遥か高い次元での回心であったと感じてならないし、次の世代へ

継承させるために、私たちはこの回心の真の意味を心に感じることから始めなけ

ればいけないのかも知れない。



(K.K)



 

 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)



 

2012年6月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

氷河期の記憶(写真は岩田山公園にて撮影)



太陽の魂、暖かさを地上にもたらす鳥の伝説は2月5日に投稿した「ワタリガラスの伝説」があるが、

寒冷地に住む民族ほどこのような伝説を産みだしやすいのかも知れない。



このような伝説は、7万年前から1万年までの最終氷期を生き抜いた人類が子孫に伝える教訓とし

て伝説や神話の中に生きている。



自身の「死の自覚」から神(創造主)との接点、それが神話の誕生に繋がったのかも知れないし、

それらはほぼ同時期に産まれたのかも知れない。



世界屈指の古人類学者のフアン・ルイス・アルスアガは、「死の自覚」が今から40万〜35万年前の

ヒト族に芽生えたと言っているが、それは我々の祖先と言われてきたミトコンドリア・イブ(約16万年

前)よりも遥かに古い時代である。



エレクトゥス(100万〜5万年前)、ハイデルベルゲンシス(60万〜25万年前)、ネアンデルターレンシス

(35万〜3万年前)のヒト族は既にこの世界から絶滅しているが、もし彼らに「死の自覚」、神との接点、

神話があったとしたら、それはどのようなものだったのだろう。



そして現生人類(我々)の最古の宗教であるシャーマニズム、そして現存する多くの宗教はどのよう

に関わっているのだろう。



2010年に現生人類(我々)の遺伝子にはミトコンドリア・イブだけでなくネアンデルターレンシス(ネア

ンデルタール人)の遺伝子がある可能性が指摘されたが、今後の遺伝子研究や発掘により、彼らの

真実が明らかになってくることだろう。



ただどんなに過去や未来に想いを馳せようが、我々は今この瞬間を生きていることだけは確かな

ことかも知れない。



過去未来に関わらず、すべての生命がそうであった(ある)ように。




(K.K)



 


2012年1月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



写真は、デニソワ人(Denisova hominin)を想像したもの。

2008年、シャーマニズムの発祥の地ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟において発見される。



☆概要(ウィキペデリアより要約)



デニソワ人の化石は約4万1千年前のものとされる。80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンス

の共通祖先から、ネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐。64万年前(35万年前の説もある)

にネアンデルタール人から分岐した人類で、現在のメラネシア人のゲノム(遺伝情報)の4〜6%が

デニソワ人固有のものと一致している。



つまり、40万〜30万年前にアフリカを出、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール

人に、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった。それに遅れて6万〜5万年前

にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジア内陸部で先住者のネアンデルタール人や

デニソワ人と交雑しながら全世界に拡がり、現在に至った。



☆個人的感想



最初に書いたシャーマニズムの発祥の地と言われるロシア・アルタイ地方は、デニソワ人が約4万年

前まで生きていました。



実は不思議な文献があります。それは「ベロボディアの輪 シベリア・シャーマンの智慧」オルガ・カリ

ティディ著です。私にはこの文献の信憑性を確かめる術もないのですが、デニソワ人の存在が明確

になったのは2008年、この文献が出版されたのがそれより10年以上も前のことです。ただ以前から

このアルタイ地方はシャーマニズム発祥の地として知られていましたのでそれを加味しながら、この

文献の引用をお読みいただけたらと思います。正直私自身これをどのように解釈していいかまだわ

からないのです。



「以来、多くの集団がシベリアに彷徨いこみ、消滅した文明の神秘的なパワーに影響された。アルタ

イ地域は新しい文化誕生の沸騰する大釜となった。人々の流れがそこから分離し、多くの異なった

方向へと遠くまで広がっていったのだ。その流れの一つが現代のイランの領域へと辿りつき、そこで、

かれらが携えていった聖なる知識がゾロアスター教として誕生した。後にこれと同じな流れがその知

識の多くをキリスト教へと伝えた。別の流れは現在のインドやパキスタンへと移住し、その地での社会

の確立がヴェーダーンダの伝統の富を生み出した。最初の知識の場にシャンバラの名前を与えた

タントラ仏教は何世紀にも亘って、その知識と直接的な交流を果たした。西に赴いた人々は、ケルト

人として知られるようになり、ドルイド教の儀式を通して、共通の源に結びつけられた。このように、

アルタイに発するこの古代文明の神秘的遺産は世界中の多くの偉大な宗教の最初の源泉となった

のだ。これらのさまざまな伝統の内部には、それぞれベロボディアと直接触れたことのある人間が

つねに存在していた。」

引用終わり



先にも書きましたが、現在のメラネシア人のゲノムの4〜6%がデニソワ人固有のものと一致していま

すが、人種的にはオーストラロイドと混血したモンゴロイド系の民族です。東部のメラネシア人社会で

は超自然力(マナ)を信仰しており、すべて形あるものに精霊が宿ると信じられていましたが、ハワイ

先住民のカフナにも超自然力(マナ)が存在します。詳しくは最近の自己啓発ブームの中で突然現れ

てきた簡略版の「ホ・オポノポノ」ではなく、「原典 ホ・オポノポノ 癒しの秘法」マックス・F・ロング著を

お読みいただけたらと思います。



デニソワ人はネアンデルタール人から分岐したらしいですが、シャーマニズムと密接な関係と言いま

すか、シャーマニズムはデニソワ人から世界に広まったと思うのが妥当ではないかと感じています。

前に投稿したネアンデルタール人もそれに似た世界観を持っていたと推察していいのではと思いま

す。64万年〜35万年前に既に人類は、ロジャー・ウォルシュが「シャーマニズムの精神人類学」で言

うように、「この人類最古の宗教的・神秘的・医学的・心理学的伝統に関しては、まだまだ多くの謎が

残されている。シャーマニズムについて探求すればするほど、人間の体、心、魂について認知されて

いない側面や可能性があることがわかる。何千年もの長きにわたり、シャーマニズムの精神は、人類

を助け、癒し、導いてきた。それはこれからも、さらなるものを与えてくれるかもしれない」と感じてなり

ません。 



発掘などで得られた情報を基に太古の世界をいろいろ想像してしまいます。

次回は「ホピの予言」に戻りますが、整理したいのでしばらく時間をください。



(K.K)



参考文献

「アナザー人類興亡史 人間になれずに消滅した傍系人類の系譜」

「生物の進化 大図鑑」マイケル・J・ベントン他(監修)

「日本人はるかな旅 展」国立科学博物館 NHK



 


2012年1月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



写真は、DNA情報に基づき復元されたネアンデルタール人の女性です。

「存在を否定する人と存在を受け入れる人、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人」という題で

投稿します。



最初に今までわかっているネアンデルタール人に関する共有されている説の紹介と、それを根

拠にした私の妄想・暴論が続きます。



☆現在共有されている説



●約20万年前(ミトコンドリア・イブとほぼ同時期)に出現し、2万数千年前に絶滅した。

●ネアンデルタール人の脳容量は現生人類より大きく、現生人類と比較しても遜色のない知能

を有していた可能性がある。

●外見上では現生人類(ホモ・サピエンス)より顔が大きく、特に上顔部が前方に突出した突顎

であるが、写真で見てもわかるように大きな違いはない。

●何故絶滅したのか、はっきり特定は出来ていない。

●ネアンデルタール人の遺骨の近くには数種類の花粉があり、これは死者を悼む心があり、

副葬品として花を添える習慣があったと主張する人もいる。

●ヨーロッパの洞窟で発見されたフルート(人類最古の楽器)は年代的にネアンデルタール人

が作ったと主張する人もいる。

●2010年、現生人類には絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が1-4%混入しているとの研

究結果が発表された。つまり単一起源説(ミトコンドリア・イブ)への疑問が浮上。



☆私の仮説(妄想・暴論)から先に書きます。



「ネアンデルタール人は今の先住民の特質(存在を受け入れる人)の原形であり、自然と共生

する世界観を有していた。また「人を殺すための武器を持ってはならない」ことを何らかの理由

で実践していた。一方、存在を否定する人(現生人類)は共生する世界観を否定する傾向を

特徴としていた。ネアンデルタール人の絶滅の原因はこの非暴力、並びに現生人類が持ち込

んだ感染症によるものだった。これは虐殺と共に白人が持ち込んだ天然痘などにより、免疫を

持たなかったインディアンの9割が死亡したことと共通する。



外見上、現生人類と大きな差がないネアンデルタール人と現生人類に交配があった可能性は

極めて高く、最近の研究でも裏づけられている。しかし、ネアンデルタール人は上記の理由で

ほぼ絶滅し、交配によって辛うじて現生人類の遺伝子の中にのみ刻まれた。このネアンデル

タール人の遺伝子を何らかの形で意識まで吸い上げたのが先住民族であり、その「存在を受

け入れる」先住民の世界観は世界各地で花開くこととなる。



しかし「存在を否定する」傾向の強い現生人類は自然・他者を支配しようとし、その憎悪の矛

先は自分自身へ向かい社会的・精神的な各種の病を生み出す。その混沌とした状況で生ま

れたのがイエスであり、「存在を否定する」傾向のある世界観を変えようとする。聖書が説く

「隣人愛」と「原罪」の意味はここにある。しかし現生人類は社会の安定のため外見上はキリ

スト教を容認するが、心の本質(原罪)は変わっておらず、2度目のネアンデルタール人への

虐殺(先住民虐殺)へと向かうことになる。



以上この仮説を通して私は、単一起源説(ミトコンドリア・イブ)に異を唱えるものであり、遺伝

子が消失或いは辛うじて残っている「存在を受け入れる」特質を有したネアンデルタール人も

同様に私たちの祖先として位置づけられることを願う。それはこの祖先が、私たちがどのよう

な未来を築くべきかの方向性を与える一つの座標として存在することをも意味しているからで

ある。」



☆後書き(仮説に至る経緯)



ここまで書いて自分が嫌になってきました。私の仮説はネアンデルタール人が善良な人々で

あったと美化しそれを前提としていますが、それを明確に証明するものは発掘されておりま

せんし、先住民という定義も曖昧であり他の宗教の生い立ちも省かれています。私よりも皆

さんの方が妄想と感じておられると思いますが、この妄想に至った出発点が二つあります。

科学的な側面では、ミトコンドリア・イブの子孫たちが、同時代に生きていたネアンデルタール

人などと交配することなく世界を席巻したと考えるのは余りにも不自然だからです。外見上

そう変わらないネアンデルタール人と現生人類に交配があったと考える方が極めて合理的

であり自然です。これはDNA解析技術が進歩していくと共に真実が明らかになってくるのか

も知れません。



精神的な側面では、キリスト教の言う「原罪」と先住民が共有していた「世界は美であり、私

たちは喜ぶために生きている」の大きな世界観の違いです。勿論、その土地の風土によっ

て宗教の形は変わってくるかもしれません。しかし両者には何か根本的な、というか根源的

な違いも感じるときがあります。この二つの疑問を通して、私はその答えを単にネアンデル

タール人に求め、軽薄に出した結論が上のものですが、いつかこの仮説とは異なるものを

見いだすかも知れません。



一人の馬鹿が導き出した妄想と捉えて頂けたら幸いです。またこの文章で不快な思いをさ

せてしまいましたら申し訳ありません。ただ、まだ全体像そして絶滅した原因が不明なネアン

デルタール人に少しでも関心を持っていただけたらと思い投稿しました。



今後の発掘調査によって私の想像とは180度異なったネアンデルタール人の実像が明らか

になる可能性もあると思いますが、どのような発掘であれ死者の魂を傷つけないような態度

で接することを願っています。



(K.K)



参考文献

「アナザー人類興亡史 人間になれずに消滅した傍系人類の系譜」

「生物の進化 大図鑑」マイケル・J・ベントン他(監修)

「日本人はるかな旅 展」国立科学博物館 NHK



 

2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。






Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「脳科学が解き明かす 善と悪」なぜ虐殺は起きるのか ナショナルジオグラフィック

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「野の百合・空の鳥」&「死に至る病 」(漫画) キルケゴール(キェルケゴール)

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

サンデル「正義とは」ハーバード白熱教室 & 「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「史上最強の哲学入門」飲茶・著 河出文庫

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」 リサ・ランドール著 塩原通緒・訳 NHK出版

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像








双眼鏡で見る春の星空 双眼鏡で見る夏の星空

双眼鏡で見る秋の星空 双眼鏡で見る冬の星空

天体観測に適した小・中口径の双眼鏡

天体観測に適した大口径の双眼鏡

(映し出されるまで時間がかかる場合があります)

いい双眼鏡とはどんなもの

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美に共鳴しあう生命

神を待ちのぞむ

天空の果実


美に共鳴しあう生命


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