カール・ラーナー Karl Rahner (1904-1984)


カール・ラーナー教授は第二バチカン公会議において指導的な神学者であり、

下書はこの公会議で行なわれた宣言を神学的に読み解くことができる貴重な

文献である。キリスト教を信じていない人びと(他宗教を信仰している、無神論

者)は決して神の「救い」(現世的なものや死後の天国)から離れているもので

ないことを宣言した画期的なものである。ただプロテスタントの中でも保守的な

教会ではこの考え方に強く反発している。宗教というフィルターを通して見るの

ではなく、そこに立ち、生きている人間を実在として感じること、そのありのまま

の重さを受け止めることこそ宗教の原点だと私は思わずにはいられない。大地

に根っこをはり、根っこが地下水に辿りつく、これが宗教が宗教としての真の価

値を持つのではないだろうか。宗教という側面に存在する自己満足や陶酔に

陥ることなく、あるがままの存在を自分の魂に降ろすことこそ求められている

のではないだろうか。

2009.7.28


 
 



「人間の未来と神学」

「あなたの兄弟とは誰か」

「日常と超越」




「人間の未来と神学」

カール・ラーナー 著 稲垣良典 訳

中央新書




本書「無神論と暗黙のキリスト教」より引用



暗黙のキリスト教・・・・これは無記名のキリスト教と言いかえてよい・・・・とは、

義とされ恩寵のうちに生きていながらも、まだはっきりと福音が説かれるのに接し

たことがなく、したがっておのれを「キリスト信者」と呼ぶような立場にない人間、

そのような人間の状況を言いあらわすものである。あとで詳しく述べるように、

このような人間が存在することは神学的に疑いようがない。このような状況を

「暗黙のキリスト教」と呼ぶべきかどうかは第二義的な問題である。しかしこのよ

うな表現の真に意味するところが理解されたならば、先の問いにたいしてなんの

躊躇もなく肯定の答えを与えることができるであろう。 (中略) つまり公会議は、

正常な大人において、無神論が自覚的にかなり長い期間にわたって(極端な場合

には死にいたるまで)保持されていても、そのことは当の不信仰者が道徳的に罪過

があることを立証するものではない。(中略) 第二に、一般的なキリスト教の原理

からして、われわれは、このような無神論者が神の前において明らかに重大な罪過

を犯している、などと裁く権利を有していないのである。


(中略) しかし、公会議後のこんにち、カトリック司牧神学はもはや、「かたくなな」

無心論者にたいしてさえも、あたかも相手が愚か者か悪漢であるかのような感情

をもって接することはできないのである。むしろまったく新しいアプローチをとって、

公会議にならい(21節)つつ、現代無神論の真の原因はどのようなものかを問わ

ねばならない。けだし、知能の不足とか邪悪な心などが原因だ、とわりきってしま

うことは、もはやゆるされないからである。 (中略) 「教会憲章」は同じように述

べている(16節)。「神の摂理は自らの罪過によってではなく、いまだに神につい

ての明解な認識に到達していないが、神の恩寵のおかげでよい生活を送ろうと努

めている人びと、そのような人びとに救いに必要な援助を、拒みはしないのである」。

ところで救いに必要な援助とは、超自然的信仰であり、義とする恩寵にほかならない。


 
 


目次

まえがき

人間の未来

人間の自己創造 事実と将来

キリスト者の自由と人間の自己決定

人間的自由の新時代を開く自己創造

人間の規範的な本性の問題


希望の神学

無神論と暗黙のキリスト教

キリスト教の未来世界

神学の歴史性

哲学と神学


神学と教導職

現在の神学的状況の分析

教会における神学的指導の諸問題

教導職と神学との間の協力





「あなたの兄弟とは誰か」

カール・ラーナー著 宮沢みどり訳 中央出版社




本書 訳者の言葉 より引用


それは去る1984年4月1日のことでした。東京聖クララ会の修道院では、ちょうど

その日、四旬節第4主日の典礼にのっとって“Letare Jerusalem”の旋律が、神の

民の遠大な希望を乗せておおらかに歌いあげられていました。そしてそれと共に

イエスの復活への新たな期待は、喜びの中にも緊迫感を伴って盛り上がり、会員

たちは心高まる祈りの一日を過ごしておりました。その夕刻、私は、現代世界の

広範な学術の分野に、神学を通して神への愛と隣人への愛を、身を賭して実証さ

れたカトリック神学の重鎮、カール・ラーナー師の帰天の報に接したのです。すな

わち私はそのときに、この小冊の原著者の死を告げ知らされたのでした。その後、

日ならずして、この偉大な普遍的神学者の生前の並々ならぬ功績に対する称賛と

感謝の表明は、すでに世界の随所にみなぎっております。


修道司祭にして今世紀屈指の神学者、そして敬けんの道における高邁な人士、

カール・ラーナーは、生前からその人物、著作ともに広く世に紹介され、日本にお

いてもかなり知られておりました。それですから一観想修道女にすぎない私には、

もはや何の付言するところもないはずです。それにもかかわらず敢えて語らせて

頂くならば、私は次のことを申し述べたいと思います。


それはちょうどこの小冊の翻訳中、そして完了後においても、まだ私の心の奥深く

しみ入るように余韻を残している。あのヨハネ福音書の言葉と、その言葉が含みを

もつ今の世にもなお具象的な神秘のことについてです。曰く「過ぎ越しの祭りの前

に、イエスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいる自分の

人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった」と。


往年、西独ミュンスターでのラーナー師との出会いのときから、すなわち1970年以来、

私は師の前に在る自分の微小さの故に、あのキリストに満たされた師の大いなるお心

は、必ずや眼前の私をはるかに越えて、むしろ広く日本の宣教を思い、日本人を、否、

全世界を愛しておられるのだ、という意識を常に保ち続けて参りました。そのために今

春、80歳の長寿を完うされた師に、日本からさきがけて祝詞を申し上げ、その後、最後

のお手紙を拝受し、さらにこの邦訳の原著を私と姉妹のためにも頂きましたときは、思

わず右のヨハネの箇所が脳裏をかすめたのでした。事実、ラーナー師の最後の月日

は、全く不思議にもあの聖書的意味合いのうちに経過致しました。師はイエスのよう

な極みまでの愛を「あなたの兄弟とは誰か」と問いつめつつ、愛する現代人に、教会

人に、真正な愛について実存的解答を指し示し続けながら、パスカの祭りに先立つ

去る3月31日、その霊をおん父のみ手に委ねられました。こうしてラーナー師は、

独自に切り開かれた新しい神学をとおして、神の存在を認め得ない暗黒の世で、内

外の分裂にあえぐ現代人を救いつつ、実存遂行の極限においてその神学を全うされ

たのでした。


右のようなしだいで、この小冊は遂に、神学者たる師の博愛を証する遺稿の一つと

なってしまいました。人も知るごとく学者としての彼の思考方法は、しばしば難解であ

るにもかかわらず、人間存在の内から生じる複雑多岐な諸問題を解明する透徹した

論理のその説得力は、彼の教説を根気よく究め続ける人々を、さらには地の面に満

ちみちている神の神秘に少しも気付かず感動できない、現代特有の枯渇した心根を

抱く人々さえも、神への敬虔な信仰へと導かずには置かない、迫力ある過程を歩ませ

て下さるものです。


それ故、彼の死に際してオッセルバトーレ・ロマーノ誌は、その秀逸な天与の才に惜しみ

ない賛辞を贈ると共に、何よりもまず彼が、「神と教会」を自己の学究と役務の中心に据え

ていた、「深い信仰の人」であったことを感銘深く世に伝えました。現教皇ヨハネ・パウロ二世

は、彼の生誕80歳を祝って、そのたゆむことない学術上のはたらきを称賛し、心から祈りの

とりなしを約束なさいましたが、それは彼のためにも心暖まることであったと存じます。実に

彼の著作と生涯は、表裏一体のものであったと申せましょう。償い主の十字架より放たれる

救いの神聖な光に強く照らされた師は、その在世中、特に困苦の中にある他者を、解放と

救いに導く感ずべき根本姿勢によって、無数の人々をキリストの道に覚醒させ、また教会人

および修道者の多くを豊かな精神的富で養い育てられました。そのことのためにも人々は、

全き善なる源なる神を賛美してやまないと思います。


なお、主の道において後方の者であります訳者は、及ばずながらもわが修道会の創立者、

聖クララの精神の中心に据えられている「貧しく十字架につけられたイエス」にまねびつつ、

現代教会に則した信仰理解の初歩から、しだいに深化の道を辿って遂行される修道的自己

実現の過程にあって今は在天の信仰の師父ラーナーに、修道者として厚い報恩の心を表明

したいと思います。


すでに神の燃える希望のふところに包まれて逝かれた故人の霊は、生前に現世の学問を

とおして展望された高遠な未来の統合体が、その本質を貫く光によっておのずから「永遠」

と刻印される様に接して、主の大いなる喜びに与かられることでしょう。そうです、もはや師

の霊は聖都エルサレムにおける浄福の霊、充溢のいのちそのものへと変容しておられるこ

とを確信したいものです。なぜならば、カール・ラーナーの際だって誠実な人生は、キリスト

の教会と共に、その教会の信仰において、またその教会の秘跡と恩恵とによって、日常の

最中をひとすじに十字架と復活の主の永遠性に与りつつ旅し続けておられたからです。主の

教会を愛の完成に導かれる唯一の神に賛美と栄光、感謝と誉れが代々ありますように。


1984年6月29日 訳者


 
 


目次

はじめに

T 前提となる事柄

神への愛と人間への愛

意向と行為の一致

隣人愛の歴史的形態


U 状況に対応して

キリスト教的兄弟愛の新たな状況

相互のコミュニケーションの世界


V 結果として生じる事柄

真の兄弟愛における危険性

兄弟愛の開かれたあり方

兄弟愛のキリスト教的使命

兄弟愛の社会的次元

共同体における兄弟愛

素直に信仰を表明する兄弟愛


W 結語

無私の兄弟愛の神秘


訳者の言葉





カール・ラーナー古希記念著作選集

「日常と超越 人間の道とその源」

カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社



カール・ラーナーについて (本書より引用)

ヨハン・バプチスト・メッツ



カール・ラーナーは今日で多くの点で、もはや物議をかもして「教会からにらまれる」神学者ではなく、

彼は「認められた」のである。彼の大胆な神学的諸説は今や多数の人によってくり返し述べられてい

る。・・・もっとも、しばしば思慮が足りないために、単純化されたり片寄ってではあるが。しかしながら、

ラーナーの思想が一般に認められたということが、今日ラーナーの名を抜きには考えられないカトリ

ック神学のめざましい勃興を当然のように思わせてはならない。青ざめてしばしば麻痺したともいえる

ような新スコラ学の世界を脱したこの勃興は、スコラ学の伝統と最近の先験哲学ならびに実存哲学と

の思い切った対決を通して起こったのである。またそれは、少なくとも初めのうちは立派に行なわれた

聖書解釈と教理史、神学史解釈によっても助けられた。さらに、神学と宣教との分離を乗り越えたこの

勃興は、「実際、熱心に実在にのみ専念し、常に新しい問題に気をつけている厳密な神学、最も学問

的な神学が、とりも直さず結局は最も宣教的な神学なのである」という、神学が今後歩むべき道を指

摘したラーナーのことばでその目標を与えられたのである。さらに、カトリック神学のこの勃興はもう

一つの面を持っている。それはすなわち、神学者たちの職務上の信仰から兄弟的信仰へという移向

である。そしてこの勃興はこの点で、信仰を常に危険にさらされ捜し求めているものとして、万人の希

望の兄弟として奉仕する旅人の神学として見た信仰の神学に助けられた。このようにこのカトリック

神学の勃興はゲットーから社会的また思想的に多様な世界に入る動きである。このような神学の勃興

が、「対話」ということばが耳につくほどの今日の流行語になるよりずっと以前に始まっていたというこ

とは特筆に値する。



以上、ただ大ざっぱに部分的に概略を述べたにすぎないこの神学の勃興は、もちろんラーナーだけ

の業績の結果ではない。しかしこの勃興は特に彼の働きに負うところが多い。それというのもカール・

ラーナーは先にあげた神学の諸分野で単なる興味を持つ傍観者たるに留まらなかったからである。

では、この勃興の成果が定説として一般に認められるようになったというこの珍しく実にユニークな

現象は、どのようにして起こったのであろうか? どうしてこの「新しい神学」はそれほど早く大幅に教

会内の共通意見になり得たのであろうか。ラーナーの思想の中にこのことの理由を求めるなら、あら

ゆる合理的また政治的説明のかなたに、神学者としてのラーナーのある特徴を取り上げなければな

らない。それは最も簡単なラーナーの紹介においても落としてはならないものである。それは、意外で

牽強付会と思われてもそうである。私が言わんとしているのは伝統に対する彼の創造的肯定であり、

いわば彼の保守性であり、彼の神学的考察が終始一貫信仰の歴史と教会の歴史にかかわっている

ということである。



とはいえ、こういう伝統への忠実は決して復古的神学でもなければ、歴史から引き出された資料をた

だ極力くり返しあげることでもなく、現代にあった伝統を再び現実的で生産的なものにして肯定するこ

となのである。ラーナーにとって伝統の問題は神学自体とその未来にかかわる神学の問題である。し

たがって、求められている未来はまさにその源泉を通して媒介される。それゆえラーナーが「常に新し

いもの」を探求するのは決して新奇さのためではなく、歴史上のキリスト教の源泉によって課された課

題への忠実によるものである。なお、歴史的伝統へのこの忠実は、歴史に関する彼の該博な知識に

よって証明されるだけでなく、彼の神学全体の次の特徴によっても示される。それはすなわち、ラーナ

ーがトマス・アクイナスのように、過去の神学の有効な点をたくみに生かしていることである。ラーナー

は過去の神学の長所を自分の説明に取り入れる能力を持ち、教会のスコラ神学の古い語句、概念、

見解の重要性とアピールを了解し、そういうものをわれわれのために保存しようとしている。彼は教会

の公的声明に関する微妙な解釈学をうちたて、それによってそれらの声明の深さと広さを余すところ

なく明るみに出している。ラーナーは、教会と神学とのぼう大な伝統が許容する限りにおいてのみ前進

を遂げる(教会の伝統を墨守しようとするある神学者たちは、往々にしてその前進に対する反発を表

明してはいるが)。また、ラーナーのもう一つの特徴は、教会の神学的遺産を創造的に肯定する裏づ

けとなる。それは彼の「ソクラテス的態度」といってもよいようなものである。ラーナーは質問する才能、

解釈力を持っている。彼は解りきったと思われた内容を新たな目で見つめ、教科書の中に眠ってい

るかのようなありきたりの説をめざめさせ、凍りつき凝固してしまった観念を新たに融解させ、伝統の

薄暗がりの中に長らく見失われていた見解を明るみに呼び出すのである。



ラーナーは伝統を創造的に肯定しながら、現代における信仰の要求に対してやはり敏感で責任ある

神学的意識を持ち合わせている。私はここで、彼の話し方と書き方だけに見る人は、おそらく気づい

ていないあることを強調したいと思う。それはすなわち、大学の教壇や講演会の演壇は彼にとって学

者として聴衆を見くだす場所ではなく、むしろそれらは彼にとって常に、人びとの精神的・社会的緒問

題を分かち合い、これらの問題を信仰の光で照らすための場であるということである。この態度はま

た、私が彼の神学の「間接的エキュメニカル効果」と名づけたいものの理由を明らかにすることにも

なる。ラーナーはキリスト教諸派間のエキュメニカルな諸問題に直接関連した論文をわずかしか書い

ていないが、現代における信仰の意識全般に関係する問題を取りあげて自分の神学を展開したの

である。そうすることによって、彼はキリスト教の種々の教派の神学者たちが自分たちの立場から共

通の課題と一定の当為に立ち向かう時に生じるキリスト者たちの共通点を多分に解明した。



ラーナーは自分の教えることをすべて出版させるから、秘密にされているラーナー説というものはな

い。組織神学のほとんど全分野にわたり、また司牧神学と霊性神学の中心問題と特殊問題に触れ

る多種多様なテーマに、彼は自分の神学を応用してみている。この多彩な幅の広さは、ラーナーが

自分に社会からもたらされる多くの問題と訴えを彼の神学的省察への手がかりとして取りあげるこ

とに大いによるのである。こうすることを彼は自分の奉仕の本質的要素と見なしている。この奉仕と

して彼は自分の神学的洞察を、神学以外の雑多な諸問題との実り豊かな出会いのために動員す

る。最近の数年間、ラーナーのいや増す出版物の数があまりにも多いので、彼の神学的著作の内

容をそれらの全領域にわたって見渡すことがほとんどできないほどになっており、彼の神学に関す

る評論は、それを大まかに図式化するか任意に要約するかの危険にあることをほとんど余儀なく

されているようである。にもかかわらず、彼の神学を入念にみるならばまらに見る合理的一貫性と

内的統一がうかがわれる。そしてこの統一は彼の最初の大著 Geist in Welt からの最新刊の

Schriftenzur Theologie に至るまでたどって確かめられ得る。



Geist in Welt は先験哲学と実存哲学の用語で説明されたトマス的認識形而上学を用い、人間

が世界に対する見解と解釈において敬虔に神を「前理解(予感)している限り、人間とは神に向か

って絶対的に超越する存在であると定義している。この命題は種々の細分化を経てもラーナー

神学の発展的継続にとって決定的なものとして残っている。たとえば、1966年にシカゴで行なった

講演の中で、ラーナーは次のように述べた。「人間が神に対する絶対的超越性を有する存在とし

て理解されるやいなや、神学における《人間中心》と《神中心》とは相反するものではなく、二つの

異なった観点から見られた厳密に同一のものであり、いずれの一方も他方なしには理解され得

ない。神学を《人間中心》にすることは《神中心》の神学に矛盾しない。しかし、人間中心と神中心

の一致を主張するこの見解は、人間が神学上、たとえば天使や物資世界と並ぶ一つの特殊な

テーマにすぎないという見解には矛盾する。また人間について何かを述べることを同時にせずに

神について神学的に何かを述べることができるという説、またその逆を主張する説にも矛盾する。

神に関する論と人間に関する論とは内容においてだけでなく、認識そのものにおいても相互に

関連するものである。」



以上のことばに示された「人間中心的方向を取る神学」というものがラーナーの神学的アプロー

チを特徴づけている。それはいわば、彼の神学的諸主張の内的形相であり、それゆえラーナー

神学は多面的でありながら、決して恣意的でも不等質でもない。なぜなら彼の神学は常に同じ

ものに集中するからである。それはイエス・キリストにおいて神がゆるしと愛としてわれわれに語っ

た、自分の絶大な神秘を表す御ことばであり、人間は信じ、望み、愛しつつ自己の実存の痛みに

満ちた暗闇を受け容れる時に、その御ことばにおいてそれに向かって自己を肯定するのである。

ラーナーはこの人間中心的方向を取る神学を多くの個別分野、三位一体論、恩恵論、終末論、

救済史論等において発展させたのである。そしてキリスト論においても同様である。「キリスト論は

人間論の終りであり初めであり、この人間論を最も徹底的に実現したものとしてのキリスト論は、

永遠に神学である。それは何よりもまず、神がその御ことばを神から離れた罪深い虚無の世界

の中に話す時に説かれた神学である。信仰者であるわれわれが人間キリストと人間一般をさし

おいて神と出会うことができないと考える時に持している神学なのである。」



ラーナーは全面的にスコラ教理神学をとりこにしたスコラ学的客観主義の森から「人間論的方向

を持つ神学」を連れ出した。そして現代においてこれと並ぶほどの神学上の貢献がまたとあろう

か。しかしなお未解決の問題が多く残り、新しい疑問が次々と起きる。この新しい疑問はラーナー

のアプローチそのものと同じ深いレベルで考えるべきである。たとえば、(人間をア・プリオリに、

神に向かう絶対的超越性を有する存在と定義する)先験的、実存的アプローチは歴史的にしか

実現され得ない人間の救いを、個人が自分の存在のこの構造を受け容れるか拒絶するかの問題

に集中しすぎてはいないか。救いの問題があまりにも世界を抜きにして考えられ、人間のための

普遍的歴史的戦闘の深刻さをあまりにも早く弱める危険がありはしないか。人間中心的方向を取

る神学が信仰を人間の自由な主体性と根本的かつ不解消的に関係づけていることは全く正しい。

しかしその時に、世界と歴史に対する関係は十分に配慮されているであろうか。世界との関係を

古典的宇宙論が言う意味でくり返すことは確かにされるべきではない。なぜなら信仰は宇宙論的

意味で世界的であるのではないからである。しかし信仰の聖書における起源と信仰に含まれた

約束に照らしてみれば信仰は社会的・政治的意味で世界的である。ゆえに、人格と実存を重視す

る先験的神学を「政治神学」に翻訳すべきではないであろうか。また、徹底的な先験的・実存的神

学は終末論の位置を低く評価していないか。神学の実存的アプローチから終末論を真に引き出し

得ようか。または、人間中心的方向を取る神学はすべて活動と責任を重んじる信仰の視野から

除外しようとしなければ、終末論に向けられた神学になるのではなかろうか。終末論的視野は信

仰と歴史的に生成する世界をありのままに媒介するに足る幅を持っているのであろうか。ラーナー

の構想から起きてくるこういった問題は彼に反対して解決される必要はなく、彼との対話のうちに

考察され、さらに発展させられることができる。というのは、ラーナーの神学の偉大で永続的な

貢献が一貫した根本傾向を特徴としているからである。それは神の愛の神秘と、万人の希望に

奉仕することに人を絶えず導き入れることに他ならない。


 


目次

原著者の序文

カール・ラーナーについて ヨハン・B・メッツ



第一章 日常のことがら

第二章 イデオロギーとキリスト教

第三章 知られざるキリスト者

第四章 イエス・キリストを信じる

第五章 現代人の自己理解と世界理解におけるキリスト論

第六章 キリスト教の新しい基本的信条

第七章 キリスト者の信仰と教会の教義

第八章 希望の神学に寄せて

第九章 隣人愛と神への愛との一致について

第十章 死の神学をめぐって

第十一章 礼拝祭儀を行なう教会とともにあるキリスト

第十二章 教会の社会批判的機能



カール・ラーナー 略年譜およぼ主要著書

邦語カール・ラーナー文献一覧

編者あとがき


 


編者あとがき 本書より抜粋引用



カール・ラーナー古希の年に、この記念著作選集を遅ればせながらも発刊できることは実に喜ばしい。

「人生七十古来稀」(杜甫)とはいえ、平均寿命が伸びた現今ではさほど稀でもあるまい。ラーナーの

人生は、何も特に波瀾に富んだものではなく、大ていは目立たない平凡な日常の積み重ねである。し

かもなお充実した非凡なものである。彼は二十世紀の世界に与えられた偉大な人材の一人であり、そ

の天賦の才を存分に発揮した、まさに稀有の人物というべきであろう。はや五年前に彼の著作が(大

小のもの、その諸外国語訳をも数えてであるが)二千点を越えていたこと、彼の『神学著作集』が現在

すでに第十一巻まで出版されており、ヘルダー社刊行のポケット・ブックでは、六十万部を出した十数

冊のラーナーの著書が最も成功しているという事実によっても右のことがうなづけよう。



彼の傑出した弟子の一人、ミュンスター大学のカトリック神学部基礎神学教授であるヨハン・バプチスト

・メッツがミュンヘンで行なわれたラーナー古希祝賀会(1974年3月3日)でした記念講演は「カール・ラー

ナー 神学的人生・・・今日の一キリスト者の神秘的人生記述としての神学」と題されている。この頌辞は

名実ともに、哲人、神秘家ラーナーの神学的人生および人生神学を生き生きと物語っている。その中

で「ラーナーは自分の愛する教会を憂えるがゆえに叫ぶ人である」とも述べられている。この講演を本

書に訳出してもよい旨、メッツ博士から提供があったが、時間や分量の関係で、数年前同師が書いた

「カール・ラーナーについて」の方を選んだ。



師ハイデッガーの影響を少なからず受けたカール・ラーナーはドイツ語圏の人にもきわめて難解な文

体と話法をもって聞こえている。令兄フーゴー・ラーナー(古代教会史、霊性神学の分野で優れた業績

を残したイエズス会司祭、1968年没)がある時、「私は年とってひまになったらカールの書いた物をドイ

ツ語に翻訳して有名になりたい」とユーモアたっぷりに語ったというエピソードがある。この兄のためそ

の六十五歳を記念してカールは1965年に自著「神学著作集」第六巻に献辞を冠したのであった。



ラーナーは単に神に仕える身、修道者、司祭として世を捨て去り、教会の御用学問としての神学に没

頭するのではなく、「世界の中の精神」として、いわば「人間の学としての神学」を、全身全霊をこめ全

力を尽くして行なっているのである。彼は黙想会(イエズス会創立者、イグナチオ・デ・ロヲラの指針書

『霊操』によって行なわれる心霊修行)の指導者としても定評があり、カトリックはいうに及ばず、無神

論者との対話にも招かれマルクス主義者の研究対象となったり(この関係で邦訳書だけをあげても、

ロジェガロディ著「対話の価値」海野洋訳、サイマル出版会、1968年、V・ガルダフスキ著「死に果てぬ

神」青木茂・小林茂訳、YMCA出版、1971年がある)、彼の著書がプロテスタントの出版社から世に

出たり一般の出版社からも公にされたりするわけである。このほど日本でも白水社「現代キリスト教

思想業書」第13巻としてラーナー著「自由としての恩寵」(武藤一雄訳・解説)がロマーノ・グァルディー

ニのニ著と合わせて刊行されたことは欣快にたえない。



西ドイツの大新聞「フランクフルター・アルゲマイネ」1974年3月5日号にユルゲン・モルトマン博士(テュ

ービンゲン大学組織神学教授・プロテスタント神学部長)の「現代の不幸を超克・・・カール・ラーナー

にプロテスタント側からの感謝」と題する寄稿が載っている。その初めにモルトマン氏はラーナーの大

きな業績を略記してから次のように続けている。「私にとってのラーナーの魅力は、その思想が現代的

なことや世界との対話に開かれた彼の態度よりも(これらはいかにも模範的であるが)、彼の労作に

おける心底カトリック的なもの、霊操で培われたイグナチオ的霊性および、彼があれほど熱心に表現

し伝達しようとしている名状し難い恩寵の経験の神秘的自伝である。ラーナーの著作を読むと私は本

来の強みにおけるカトリック神学に出会い自己省察を促される。彼はわれわれに、さんざん非難され

たスコラ学をもう不毛で形式主義的なものとして片づけず、その内的ダイナミズムと劇薬的効力を発見

し、こうして彼の口から現代的思惟の範疇において聞きとり学ぶことを教えたのである。ラーナーの神

学は、この面でカトリックの豊富な伝統に負うところが多いが、伝統主義とは無縁である。伝統を顧慮

しないあらゆる進歩熱に反対して彼は常に先達たちを努めて引用する。現実的な問題解決において

も単純な弱い人びとへの顧慮を絶やさない。・・・実際、彼の神学の中心はイグナチオ・デ・ロヲラの霊

操がある。神学のあらゆる命題を《自らを死へと与えた愛である神という謎の沈黙》に導き入れる点で

彼はその師エーリッヒ・プシワラと似ている。このことにおいて、経験と認識は合体する。万物のうちに

神を見出すことにおいて神秘と理知とは一致する。世界逃避と世界志向との間に人間精神は偏在す

る神の意志の中へと沈潜し、人間はここで神がキリストの十字架という最も不可解なものに、下降し

たところで神に対する万物の透明性を経験する。《自分の霊魂の頂点》をもってそれを経験する。ラ

ーナーがプシワラについて言った次のことばは彼自身についても言えることである。《彼はおそらく誰

にもまさって宗教改革のラディカルなパトスをカトリック思想にもたらし入れた人である。》 霊魂の《神

秘的暗夜》とキリストの聖金曜日における死の夜との結びつきは私にとって必ずしも理解されないが、

ここにプロテスタント神学に対するラーナーの最も厳しい問いかけがある。それはルターに基づく神学

が、十字架につけられたキリストへの信仰をもって何も新たに始め得ないのかとの問いである。カト

リック界におけるイグナチオ的霊操が神学と人間に及ぼした創造力に相当するものはプロテスタント

界には見出されたことがない。この点で私が個人的にも神学的にもカール・ラーナーにおけるすぐれ

た魅惑的なものを指摘するのは正しいと思う。霊操に基づく霊性が現代人にとっていかに密教的に

見えても、ラーナーがこの恩寵の経験から引き出す結論は驚くほど広い。彼の知られざるキリスト者

という説は数年前に教会と世間に波紋を投じた。どうしてこの修道者はこういう自由寛大に感じさせる

命題を主張するに至ったのであろう。つづめて言えば、それは彼の神秘的体験の翻訳にすぎない。

人間は自らそのまま恩寵の体験における神秘である。なぜなら自己を譲渡する神の恩寵はあらゆる

人間的実存遂行のうちに現存するからである。神の名状し難い神秘は自らを与え尽くす愛であるから、

人間は絶対的超越性を持つ存在なのである。それゆえ、常にはや自分の実在の根本において恩寵を

受けている人間は、神が啓示を与えることが可能な存在として尊重され描写されなければならない。

ラーナーの神学は意識的に人間中心的である。神は自らの愛に最も値するものとして人間を造ったが

ゆえに、神を取り扱うキリスト教神学は人間学なのである。カール・バルトとまったく同じくラーナーは、

神を離れた人間と人間を見捨てた神という二つの虚構の間に分裂した現代の不幸を超克しようと試み

ている。神の受肉に基づいて人間の超越的構造が認識される時、右の非キリスト教的二者択一は克服

される。人間の超越性の論は単なる思弁と思われるかもしれない。だがキリストへの信仰のうちに体得

されるなら、この論は歴史的に経験され得る基礎づけを持つ。逆に、人間が自分の実存体験全体をも

って神の受肉というこの真理を常にはや(そうとは知らずとも)求めていることが明らかになれば、受肉

した神の証言との出会いは別に奇異なものではなくなる。人間はこの人間となった神の到来を経験す

る場合、自己から疎外されはせず、自己になりきる。恩寵の経験が厳密にイグナチオ的霊操によって

行なわれれば行なわれるほど、ラーナーがその経験から得る人間学は包括的なものであり、場所的

意味で普遍的(カトリック)である。これが、誰をも除外せず、すべてを含み、恩寵のしるしを平凡な日常

の中にも探し出す《十字架の狭い広さ》である。ラーナーはいつか《世界の中の神》という一語に彼の神

学を要約した。彼にとってこの神学的かつ司祭的企画が成功したか否かは別として、現代の神学者み

なに彼はこれによって新しい種々の発見と驚嘆と体験を与えるべき、ある方向を示した。世界の中の神

は神学的省察を越えて、教会に対しても政治に対しても止まることができない実践的な劇薬的効力を発

揮するのであろう。カール・ラーナーは教父たちとの対話に際して決して裁き手としてではなく、批判的な

弟子のようにふるまってきた。彼は自分の弟子や仲間たちに決して教父のような態度で臨まなかった。

過去と現在に対するこういう謙虚な兄弟的奉仕に、カトリック側からだけでなくプロテスタント側からも

感謝することはふさわしい。」



以上、引用がかなり長くなってしまったが、これが名著「希望の神学」等の本でカール・ラーナーの名を

あげることさえしていないモルトマンからラーナーに寄せられた賛辞である。これは同時に、教派を異に

していながら理解と洞察に富んだラーナー論である。特に、イグナチオの「霊操」をラーナーの思想的

基礎として重要視している(右の文で四度もこの関連に触れている)ところは、さすが現代における「十

字架の神学」の旗手モルトマンの炯眼である。


 

 「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」



シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より

 


2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

プロテスタント運動の先駆者ヤン・フスと、その時代のチェス

先に「聖ベルナデッタ」バチカンのことを書きましたが、バチカンには闇が漂っていた時代が

ありました。その時代に行われた多くの悲劇は私よりも皆さんの方がご存知だと思います。こ

の闇で覆われていた時代とチェスのことを少し書いてみたいと思います。

写真はヤン・フスで、以下Wikipedia より引用抜粋します。



☆☆☆

ヤン・フス(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。

彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られ

る。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議に

よって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。



フスはプロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、チェコ文学史に

おける突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴り

に特殊記号を使用し始めた人でもある。今日、ヤン・フスの言葉はプラハの旧市街広場で見

ることができる。



引用終わり

☆☆☆



ヤン・フスはチェス愛好者でした。しかし、処刑前そのことを後悔している記述があります。ヤン

・フスから100年後に生まれたアビラの聖テレサ(1515年〜1582年)も「完徳の道」という現代で

もカトリック霊性の最高峰と言われる本の中で、チェスにたとえた美しい話を書きますが、後に

削除することになります。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的な楽しみを極

端に排斥しようとしていた空気を感じ取ったからだと言われています。



前の「ケンブルの滝」でも紹介したモーリス・ズンデル神父は、「キリスト信者の徳とは、禁欲主

義の固い綱の上での曲芸ではない。キリスト教の徳とは、もし私たちが自分のすべての能力

の中にキリストを生きさせるなら、私たちをとおしてすべての人類にご自身を与えられるキリス

トのいのちである。大切なのは私の救いではなく、私たちの手の中に託された神のいのちなの

である。キリスト者の召命は神の顔となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音と

なる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の

世界には喜びがあるであろう。人が救われるのは説教によってではなく、現存によってである。

そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。太陽が歌うステンドグラスになろう!」と

言っています。



もしズンデル神父のような視点が、当時のカトリックやバチカンの多くの聖職者に共有されて

いたら数多くの悲劇は避けられたかも知れません。話は少し飛躍しますが、第2バチカン公会

議(1962年〜1965年)で指導的な神学者であったカール・ラーナーは「無神論と暗黙のキリスト

教」の中で次にように書いています。



☆☆☆

「暗黙のキリスト教・・・・これは無記名のキリスト教と言いかえてよい・・・・とは、義とされ恩寵

のうちに生きていながらも、まだはっきりと福音が説かれるのに接したことがなく、したがって

おのれを「キリスト信者」と呼ぶような立場にない人間、そのような人間の状況を言いあらわ

すものである。あとで詳しく述べるように、このような人間が存在することは神学的に疑いよ

うがない。このような状況を「暗黙のキリスト教」と呼ぶべきかどうかは第二義的な問題である。

しかしこのような表現の真に意味するところが理解されたならば、先の問いにたいしてなんの

躊躇もなく肯定の答えを与えることができるであろう。 (中略) つまり公会議は、正常な大人

において、無神論が自覚的にかなり長い期間にわたって(極端な場合には死にいたるまで)

保持されていても、そのことは当の不信仰者が道徳的に罪過があることを立証するものでは

ない。(中略) 第二に、一般的なキリスト教の原理からして、われわれは、このような無神論

者が神の前において明らかに重大な罪過を犯している、などと裁く権利を有していないので

ある。」

☆☆☆



この流れを汲む現在のカトリックは、幸い人間活動の多様性の否定を引きずってはおりませ

ん。第2バチカン公会議より前の時代ですが、偉大な法王として今でも語り継がれているレオ

13世(1810年〜1903)はチェスの名局を残しておりますし、アウシュビッツで身代わりとして亡

くなられたコルベ神父もチェスの愛好者で神学生を相手にチェスを楽しんでいました。現代で

は故・マザー・テレサもインドの青少年チェス大会に出席し、表彰状を授けています。このこと

を思うと、ヤン・フスが生きていた時代の世界・カトリック教会には想像を絶するような閉塞感

が漂っていたのかも知れません。



ヤン・フスが生きた時代に船出した星の光が、今地球に届いています。ペルセウス座のメロット

20(散開星団)です。この散開星団は望遠鏡には不向きで、双眼鏡で見るのが適しています。



またペルセウス座にはアルゴルと言って「悪魔の星」と呼ばれていた星があります。アラビア語

のラス・アルグル「悪魔の頭」からきた名前ですが、アラビア人はときどき明るさを変えるこの星

を「最も不幸で危険な星」と呼んでいました。しかし、この食変光星の変光のメカニズム(明るい

星のまわりを暗い星が回っていて、暗い星が明るい星の前を通過するときに暗くなる)を提案し

たのは、イギリスの若者グッドリックでした。彼は、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体

をおして1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を熱心に追い続けたのです。1783年にロンド

ンの王立協会で研究成果を発表し、協会はコプリ・メダルを授与し、1786年4月16日には王立協

会会員に選出しましたが、グッドリックはわずか4日後に肺炎により22歳の若さで他界しました。



(K.K)


 





「永遠の賭け」小林有方・著 あかし書房 1975年発行
より抜粋引用



神への愛と人への愛がひとつの掟として結ばれていますので、私たちが回心して、他を思いやる、ゆるしと愛のいのちに

生きはじめるとき、その瞬間に、神の愛が私たちの実存の奥底に流れこんでくることはたしかです。しかし、実は、私たち

がその時ただちに神の愛に目覚めることは限らないのです。神の愛のいのちに包まれながら、私たちは、それとははっき

り意識することなしに、まず、人の愛に生きはじめるのです。人と人との愛における出会いを通じて、すべての人が神の愛

の目覚めに招かれているものの、ときには、人がついに神との出会いを意識としては体験することなしに、この世のいのち

を終えることもあり得ます。それでもなお、その人のいのちが、回心して自我の扉を、開いたその時から、すでに実存的に

は神を志向し、神に抱き包まれていたのだとは疑い得ぬところと私は確信します。たとえば、溺れ死のうとする子供の姿を

発見して夢中で川に飛びこみ、子供の生命を救いながら自分は力尽きて激流に呑まれた人のいのちが、たとえその人の

口からただの一度も「神よ!」との呼びかけが発しられなかったとしても、「闇は過ぎ去り、まことの光がすでに輝いている」

(ヨハネ第一の手紙2・8)いのちでないとだれが言えるでしょうか。また、貧しい生活をやりくりしながら、妻としてまた母と

して、夫につくし子供を慈しんで自己を棄て切り、忍従の生活の中に燃えつきた女のいのちが、たとえ意識の表層では

ただの一瞬も、神との出会いに目覚めることがなかったとしても、まだ罪の闇の中にいると、だれが信じられるでしょうか。



ですから、イエスは、「最後の審判」という終末論的幻想の描写の中で、審判者としてこう言わせます。



「あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々のひとりにしてくれたことは、つまり私にしてくれたこと

なのである」(マタイ 25・40)と。







2014年4月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




(大きな画像)


本日4月27日の夜明け(4時25分〜5時12分)の光景です。



バチカンのサンピエトロ広場において、先々代のローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978〜2005年)と、

第261代法王ヨハネ23世(同1958〜63年)の列聖式(カトリック教会で最高の崇敬対象である「聖人」と

する)が、本日4月27日行われました。



ヨハネ23世はキューバ危機において米ソ双方の仲介に尽力し、他教会や他宗教との対話に積極的であり、

有名な第2バチカン公会議を開催をした卓越した法王でした。無心論者や他の宗教をどのように捉えるの

かをも話し合われたこの公会議、その指導的な神学者だったカール・ラーナーの本には心打たれました。



現在バチカンは一部の聖職者による児童への性的虐待の問題で揺れていますが、アメリカ先住民への

同化政策が行われていたころ、カトリック・プロテスタントを問わず、親元から強制的に引き離された彼らの

子供に対して、同じ過ちをした聖職者たちがいました。これらの同化政策(アイヌの方も同じです)の影は、

現在においてもアメリカ先住民社会に暗い影を落としています。



2000年3月12日、当時の法王ヨハネ・パウロ二世は「回心と和解の日」のミサの中で、「イスラエルの民に対して

犯した罪の告白」(ユダヤ人虐殺を黙認してきた歴史)、そしてアメリカ先住民などの世界各地の先住民に対して

の文化と宗教を破壊してきた歴史への謝罪を行いましたが、その時に話された一部を紹介します。



☆☆☆



「世界の主、すべての人の父よ、あなたは御子を通してわたしたちに、敵を愛し、わたしたちを憎む人々に善を行い、

わたしたちを迫害する人々のために祈るよう求められました。



しかしキリスト者はしばしば福音を否定し、権力というメンタリティに傾倒し、諸民族の権利を侵し、彼らの文化と

宗教的伝統を侮辱してきました。



どうか、わたしたちに対し寛容で、慈しみを示し、あなたのゆるしをお与えください。主キリストによって。」



法王ヨハネ・パウロ二世



☆☆☆





Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「野の百合・空の鳥」&「死に至る病 」(漫画) キルケゴール(キェルケゴール)

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

サンデル「正義とは」ハーバード白熱教室 & 「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「史上最強の哲学入門」飲茶・著 河出文庫

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く」 リサ・ランドール著 塩原通緒・訳 NHK出版

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像







アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)

天空の果実


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