「聖者マキシミリアノ・コルベ」

アントニオ・リチャアルディ著 西山達也

聖母の騎士社 より


 


   







本書より引用


マキシミリアノ神父の名でうずめられたような、この日の歴史的事件は、死を免れた人々を

して、その夜、感激で眠らせなかったであろう。



その翌日、これまで数知れぬ死刑が行われ
ても無関心であった人々が、マキシミリアノ神父

の名をささやき合い、隣人愛の最も純粋で、
英雄的な行為であるという声が、収容所中に

満ちあふれた。ドイツ人当局者たちでさえ、おそ
らく、この勇敢なポーランドのカトリック司祭

を忘れることができなかったであろう。しかし、こ
れがすべてではない。ここでとどまってしまった

ならば、私たちはマキシミリアノ神父の英雄的
行為の偉大さと美しさ、その深い意義を表面的

にだけつかまないことになる。



自分の生命を
犠牲にして、見ず知らずの人間を救い、その妻子に帰してやるということは、

疑いもなく驚嘆
すべきことであり、愛徳の最高の証明である。けれども、マキシミリアノ神父

の目の前には、
他の九人の囚人があった。彼らは、突然、重々しく、荘厳な永遠の問題に

直面したのである。




神父は彼らを絶望のふちから救い上げ、永遠の生命へ導きたかった。そのために、キリスト


への愛に押しやられて、薄暗い地下室へ下って行き、進んで、彼らと苦しみを共にしたので

ある。それだけではない。彼の心に燃えさかる神のおん母への愛は、飢えより渇きよりも強

かった。



彼は次々と倒れてゆく者に希望を持たせ、罪の許しを与えたのち、最後に彼も神の
手に魂を

ゆだねるのだ。毎日、地下室から聖母への賛美がもれていたというスエダ師の証言
を感動

なくして読むことはできない。



一人の父親を救ったということは、マキシミリアノ神父に
とって、もっと高い目的の他の九人を

救うという、その手段に過ぎなかったのである。この点
を理解してこそ、初めて、マキシミリアノ

神父の崇高な行為を正しく評価できるであろうし、
同時に、いかに強い使徒的魂をいだいて

いたかも理解できよう。


 


本書より引用


スエダ師が聖母の騎士に寄せられた「マキシミリアノ神父の生涯の最後の思い出」を

読んで、アウシュヴィッツ収容所の地下における同神父の最後の日々を書きつづって

みようと思います。私は当時、先に述べた地下室付きの通訳兼秘書でした。ゲシュタポ

の兵士たちをも感動させたこの英雄的人物の最後の日々を、私は今でも、ありありと、

かつ詳細に思い浮かべることができます。



十三号棟舎は収容所の右手に位置し、高さ
六メートルの壁で囲まれていました。地下

にはたくさんの独房があり、一階は処刑班の
部屋に当てられておりました。独房のある

ものには、小窓や明り窓がありましたが、全く
ないものもあり、そこは暗やみのようでした。



1941年の七月、その中の一室へ、夕方
の点呼のあと、十四号棟舎の十人の死刑囚が

連れられて来ました。部屋の前で、はだ
かになるように命じられ、そのあと、すでに宣告を

受けていた約二十名の死刑囚のいる
所へ閉じ込められました。やがて、この最後の十人

は隔離された一室に移されました。
扉にかぎを掛けながら、監視兵たちは吐き出すように

いいました。“お前たちはチューリ
ップのように枯れてゆくんだぞ”と。この日以来、彼らは

食物を絶たれたのです。毎日
見回る監視兵たちは、夜のうちに息絶えた死体を運び出す

ように命令しました。この
見回りの時には、私はいつもついておりました。



死人の名前を記し、囚人たちの話や
用事を書きとどめるためでした。十名が閉じ込められ

ている部屋からは大声でロザリオ
の祈りや、賛美歌が流れ出ていましたが、他の部屋の

囚人もこれに声を合わせていま
した。私は監視兵がいないすきを見ては下に降り、話を

したり、慰めたりしていました。




地下室は聖母への賛美歌と熱心な祈りであふれ、まるで教会にいるようでした。マキシ

ミリアノ神父が先唱し、みんなが答えていました。時には、監視兵が来ても気付かぬほ

ど祈りに没頭し、どなられてやっとやめるくらいでした。扉をあけると、囚人たちはひどく

泣きながら一切れのパンをねだるのでしたが、いつもはねつけられました。いささか元気

の残っている者が扉に近づくと、腹をけ飛ばされて、セメントの上に倒れ死ぬか、さもなけ

れば銃殺されました。どんなにひどい、残酷な死を迎えねばならなかったかということは、

便器からも推して知れます。便器はいつもからでした・・・・・・・。



つまり、あまりの渇きの
ために、自分の排せつ物を飲まざるを得なかったのです・・・・・・・。

尊敬すべきマキシミ
リアノ神父は、全くき然としていました。彼は何も求めず、一言の嘆き声も

もらしません
でした。他の囚人たちを励まし、やがて逃亡者が見つかり、みんな助かるだろうと

希望
を持たせておりました。もはや、非常に弱っていたので小声で祈りを唱えていました。

見回りに行くたびに、他の者はすでに床にのびてしまっているのに、マキシミリアノ神父

だけは立っていたり、真中にひざまずいていて、穏やかな目つきで監視兵を迎えるの

でした。



監視兵たちは彼が身代わりであるということ、そのほかの者も罪なき者である
ことをよく知っていま

した。監視兵たちもマキシミリアノ神父を尊敬し、彼らの間ではこん
なこともいわれていたのです。

“この神父はまさに紳士だね。こんなやつは、いまだかつ
て、この収容所にいなかったぞ”   



こうして二週間たちました。その間、囚人たちは、
一人、また一人と死んで行きました。三週間目の

土曜日には、マキシミリアノ神父を含
めて四人だけが残っていました。これを見た当局は、あまり

長生きしすぎる、何とかしな
ければと考えました。あとから、あとから、死刑囚がつかえていたから

です。そのために、
八月十四日、病院付けの元犯罪人、ドイツ人ボフを呼び寄せ、四人の左腕に

死を早める
注射をしました。マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕をさしのべました。私は見る

に見かねて、用事があると口実を設けて外に飛び出しました。



監視兵とボフが出て行くと、
もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、

目を明け、頭を
左へ傾けていました(これは、彼のいつものくせです)。その顔は穏やかで、美しく

輝いて
いました。私はこの英雄の死体をブロックの散発屋、カルビナククレビク氏とふろ場に運び、

そこで箱の中に収め、監獄の死体安置所に移しました。



このようにして、アウシュ
ヴィッツの英雄は、自ら進んでその生命をある一家の父親のために捧げ、

最後の瞬間
まで静かに祈りながら死んで行ったのです。



囚人たちは、この司祭の行為を忘れません
でした。死刑が行われるたびに、マキシミリアノ神父の

名を思い出すのでした。私の受け
た印象は、いつまでも私の心に刻まれていることでしょう。

(死の地下室での通訳を勤めたブルノ・ボルゴビエツ氏の証言)


 
 


目次

著者の序文

第一章 アウシュヴィッツの英雄

第二章 幼年時代

第三章 修道生活教育

第四章 聖母の騎士会

第五章 ポーランドにおける最初の使徒的活動

第六章 ニェポカラヌフ〔汚れなき聖母の町〕

第七章 無原罪の園

第八章 二度目の日本滞在

第九章 ニェポカラヌフに帰る

第十章 強制収容と逮捕

第十一章 アウシュヴィッツ

第十二章 霊のプロフィル

第十三章 栄光の途上に





「夜と霧をこえて ポーランド強制収容所の生還者たち」より引用


 



マキシミリアノ・マリア・コルベ神父

列聖 1982年10月10日 祝日 8月14日

(聖母の騎士社ホームページより)


聖マキシミリアノ・マリア・コルベの取次ぎを願う祈り


われらの救い主のけがれなき御母へのまじりなき信心と、われらの隣人への

無私の愛との模範聖マキシミリアノ神父をわれらに与えたまいし全能に在ます

永遠の神よ、こいねがわくは彼の取り次ぎによって・・・・(ここでお願いしたいこ

とをのべる)・・・・恵みを与えたまえ。我らの主キリストによって。アーメン。



聖母の騎士社

(1930年、コルベ神父がゼノ神父たちと共に長崎に降り立ち、この地に

無原罪の園修道院の設立並びに「聖母の騎士」誌を発行しています。

下の写真はこの当時のコルベ神父の姿です。)



 


「聖者伝説 365日、あなたを守護する聖人たちのものがたり」茅真為 著 学習研究社 
より以下、抜粋引用


愛の殉教者

聖マキシミリアノ・コルベ神父


マキシミリアノ・コルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所でまったく見ず知らずの他人のために

死んでいきました。これは隣人愛にもとづく大きな自己犠牲的行為でした。コルベ神父は、ポーランド

の織物職人の息子として生まれました。名はライモンド。マキシミリアノは修道院に入ってからつけら

れた修道名です。ポーランドは国民のほとんどがカトリック信者で、とくに聖母マリアへの崇敬が強い

国です。幼いライモンドも敬虔な両親の感化で、聖母マリアに対する特別の信心を持っていました。

彼は子供のころ、聖母マリアの幻を見ています。



あるとき、ライモンドは母親にしかられて、「この子はいったいどうなるんだろう」といわれました。そこ

で彼は教会に行き祈っていたのです。すると、手に赤と白との冠を持った聖母マリアが現れて、ライモ

ンドにどちらが欲しいかを尋ねました。白は清い心、赤は信仰のために殉教することを意味していま

す。ライモンドは両方とも欲しいと答えたということです。このエピソードは、のちの殉教を暗示している

かのようです。



それは1941年の夏のことでした。コルベ神父はアウシュビッツの強制収容所に入れられていました。

彼は囚人としての過酷な強制労働につかされていたのです。その日、同じ班の囚人のなかからひとり

の脱走者が出ました。大がかりな捜査が行われましたが、脱走者はその日の夕方になっても見つかり

ません。もし、このまま脱走者が見つからなければ、連帯責任として見せしめのために、同じ班のなか

から10人が選びだされ、処刑されることになっていました。



翌朝、囚人たちは点呼をとるため整列させられたのち、そのまま直立不動の姿勢で待機させられま

した。少しでも姿勢を崩す者があると、監視兵は容赦なく殴りつけ蹴り上げます。囚人たちは罰として、

前の晩からわずかな食べ物さえ与えられていません。炎天下のもと、飲み水さえ許されないのです。



ピリピリと照りつける真夏の太陽の下で、疲労と渇きに耐えかね、囚人たちのなかには昏睡状態に

なってその場で倒れる者もありました。すると、監視兵はその者たちを引きずりだして、ゴミ捨て場に

投げ込んでしまうのでした。



午後3時ごろになってようやく、わずかばかりの昼食と休憩が与えられたものの、その後はふたたび

直立不動の姿勢を強いられました。しかし、ついに脱走者は見つからず、収容所の所長は、このなか

から無差別に10人を選びだし、餓死刑に処すと宣言しました。



所長はひとり、またひとりと受刑者を選びだしていきます。囚人たちは息をつめて、自分が選ばれない

ようにと祈っていました。そして、所長が自分の前を通りすぎると、はっと大きくため息をつくのでした。



10人のなかに選びだされた者は、死への恐怖におののきながら、「共よ、さようなら」とか「ポーランド

万歳!」などと叫びました。そのなかに、突然「わたしの妻よ、子どもたちよ」といって泣き崩れる者が

ありました。囚人番号5659、彼はポーランド軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェクでした。ポーランドを

占領したナチスの軍隊に対するゲリラ活動の理由で逮捕され、収容所に入れられていたのです。

ガヨヴィニチェクは残された妻や子どもたちに思いをはせたとき、死ぬにも死にきれない思いで取り

乱してしまったのでした。



そのときです。囚人の列のなかから、ひとりのやせこけた男が所長の前に進みでました。所長はその

男に銃をつきつけ、「何が欲しいんだ、このポーランドのブタめ」と怒鳴りました。しかし、男は落ちつき

はらった様子で、しかも威厳に満ちたおだやかな顔つきで、所長に「お願いしたいことがある」といった

のです。



所長が「お前は何者だ」というと、その男は「カトリックの司祭です」と答えました。それから、「自分は

妻子あるこの人の身代わりになりたいんです」といいました。



所長はあまりの驚きに、すぐには言葉も出ませんでした。収容所の囚人たちはあまりにも過酷な状況

のなかで、自分の命を守るだけでせいいっぱいでした。それが、他人の身代わりになりたいという囚人

が現れたのです。所長だけではなく、その場にいたすべてのものがぼうぜんとなりました。



しばらくして、所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加えると、ガヨヴィニチェクを元の

列に戻しました。所長はそのあと、ひと言も言葉を発せず、黙り込んでしまいました。



受刑者名簿には、囚人番号5659の代わりに、「16670」と書き入れられました。それがコルベ神父に

つけられた囚人番号だったのです。神父はほかの9人とともに、〈死の地下室〉と呼ばれている餓死

監房へと連れていかれました。



このとき、ガヨヴィニチェクは混乱する頭のなかで思いました。だれかが自分のために身代わりと

なって、自ら進んで命を捧げる、見知らぬ誰かが・・・。



彼はこのことを夢ではないかと思いました。そんな彼にできたのは、自分の身代わりになって死んで

ゆく人に、ただ目で感謝の合図を送ることだけでした。のちのこのときの目撃者で、収容所から生き

のびて帰ることのできた人たちは、神父のこの自己犠牲的な行為に深い感動と尊敬の念を引き起こ

されたと証言しています。



神父がほかの囚人たちのともに入れられた餓死監房は、いったん扉が閉ざされたら、決してだれも

生きて出ることはできません。そこではひと切れのパンも一滴の水も与えられないのです。飢えは渇き

よりもいっそう苦しく、餓死監房では多くの者がくるい死にしてしまうそうです。〈死の地下室〉からは

絶えず、恐ろしい叫び声やうめき声が壁を通して聞こえてきたということです。



ところが、コルベ神父がほかの9人の受刑者とともに餓死監房に入れられたときには、なかからロザリオ

の祈りや賛美歌が聞こえてきたといいます。それに合わせてほかの部屋の囚人たちもいっしょに祈り

歌っていたそうです。神父は断末魔の苦しみのなかで、絶えず人びとを励まし、勇気づけ、先に死んで

いく仲間の臨終を見送りました。そして、恐るべき〈死の地下室〉を聖堂に変えてしまったのです。



囚人たちはひとり、またひとりと死んでゆき、2週間後にはとうとう神父を含めて4人が残るのみとなり

ました。当局はあまりにも長生きしすぎるというので、彼らに死を早めるための注射を打つことにしま

した。あとの囚人たちがつかえていたからです。



コルベ神父は注射のとき、みずから腕を差しだしたといわれています。このとき立ち会ったブルノ・

ボルゴビエツ氏は、その場にいたたまれず外に飛びだしてしまったそうです。ボルゴビエツ氏は囚人の

なかでももっとも古顔のひとりで、ドイツ語を自由に操ることができたので、地下室づきの通訳をさせら

ていました。のちに、この人の貴重な証言から、コルベ神父の最期が明かされることになったのでした。



8月14日、聖母の被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りにつきました。8月15日の聖母の被昇天

祭は、聖マリアが天に上げられたことを記念する日です。このとき、神父は47歳。亡くなったとき神父の

顔は輝いていたといいます。神父の遺体を運んだ死体運搬人も、のちにそのことを証言しています。



ひとりの神父が他人の身代わりになって死んだという噂は、またたく間に収容所全体に広まりました。

そして、ヒトラーに率いられたナチス第三帝国が崩壊し、戦争が終わったときには、神父の英雄的な

行為は広く人びとの間で語られるようになったのです。



1982年10月17日、マキシミリアノ・コルベ神父は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の列に加えられ

ました。教皇は神父を聖人の列に加えるにあたって、彼を「愛の殉教者」と宣言しました。



「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と、イエスは弟子たちに語っていま

した。コルベ神父は文字どおり、このイエスの言葉を実行に移したのでした。神父は自分が身代わり

となることで、ひとりの命を救っただけではなく、ほかの9人の受刑者たちと苦しみをともにすることを

選びました。彼は最後まで、見捨てられ絶望した人々の友であったのです。



マキシミリアノ・コルベ神父は、13歳のとき故郷の「フランシスコ会」の神学校に入り、ローマの大学に

留学して7年間、哲学と神学を学んだあと、25歳のときに司祭となって、ポーランドに帰国しました。

しかし、帰国後、ローマ滞在のときにわずらった肺結核が再発し、療養生活を送ることを余儀なくされ

ました。そのとき、神父は「聖母の騎士」誌の発行を思いつきました。彼はローマで勉学中に「汚れなき

聖母の騎士会」という信心会を創立していました。この会は聖母マリアの保護のもとに、愛と祈りの業

をもって、人びとの救霊に尽くすことを目的としていました。



少年時代、彼は軍人になって祖国ポーランドのために戦うことを夢見ていました。彼の父も熱心な

愛国者で、第一次世界大戦のときには、ポーランドの独立を勝ち取るために独立義勇軍に身を投じて

います。けれども、コルベ神父は武器をとって戦う代わりに、平和的な手段で悪と戦う道を選んだの

でした。



1922年、最初のポーランド語版の「聖母の騎士」誌が発行されました。制作費は信者の献金でまかな

われ、執筆者はコルベ神父ひとりでした。この小冊子の編集と印刷はポーランドとリトアニアの国境近く

にあるグロドノの修道院で行われるようになりました。



間もなく神父の志に共鳴した若い人たちが修道志願者として集まりはじめ、雑誌の発行部数もどんどん

伸びてゆきました。そこで、ワルシャワ付近のテレシンという村に、出版活動に専念する修道院を新しく

建設することになりました。土地はポーランドの貴族ルベツキー公爵から寄付されたものです。その

場所はポーランド語で「汚れなき聖母の場所」を意味するニエポカラヌフと命名されました。このときか

ら、ニエポカラヌフの修道院は文書による宣教活動の中心となったのです。神父がゲシュタポに捕ら

えらえたのも、この修道院のことです。



ニエポカラヌフの修道院と出版活動の基礎が固まると、コルベ神父は東洋への宣教に乗りだし、1930年

には、ふたりの修道士をともなって長崎に上陸しています。36歳のときです。神父は長崎でさっそく「聖母

の騎士」誌の出版活動にとりかかり、早くも1ヵ月後には、日本語の最初の小冊子を発行しています。

この小冊子の刊行はいまでも続いています。



神父は6年間日本に滞在し、「聖母の騎士」誌の発行と宣教活動に専念したあと、ニエポカラヌフの

修道院に戻りました。このころまでには、修道院は大きく発展し、司祭、修道士、神学生を合わせると、

その数は600人を超えていました。出版活動も規模も大きくなり、「聖母の騎士」誌のほかに何種類かの

新聞や出版物を刊行していました。



第二次世界大戦が始まり、ポーランドはドイツ軍の進撃を受けました。1939年8月末、ポーランドは

ドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフの修道院もめちゃめちゃに荒らされました。印刷機械や輪転機は

没収され、コルベ神父や修道士たちは収容所に送られました。その2ヵ月後、コルベ神父は釈放され、

ニエポカラヌフに戻って、中断されていた「聖母の騎士」誌の出版準備にとりかかり、1年後には小冊子

を再発行することができました。



しかし、ナチスの上層部はコルベ神父をブラックリストに載せていました。神父の説くカトリックの教えと

ナチスの思想は相反するものだったからです。



1941年2月17日の朝、ゲシュタポがやってきました。コルベ神父は彼の片腕となって働いていた4人の

若い神父とともに、その場で収容所送りを通告され、ワルシャワにある収容所に収監されました。この

とき20人の修道士がコルベ神父の身代わりになることをゲシュタポ本部に願いでました。けれども、

当局は修道士たちの請願を拒絶し、ついに神父はアウシュビッツの強制収容所に送られることになった

のでした。



収容所ではひとりひとりに番号がつけられ、囚人たちはまるで一個の物のように扱われていました。

囚人番号16670。それが神父につけられた番号でした。



しかし、マキシミリアノ・コルベ神父の名は、彼がこの収容所で死んだことによって、永遠に全世界の

人びとに記憶されることになったのでした。






2012年1月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

映像省略

今から70年前にあった一つの実話を紹介しようと思います。映像は第二次世界大戦中、敵味方

なく愛された歌「リリー・マルレーン」 です。



☆☆☆☆☆☆☆



ところで、先年、ヨーロッパを旅行中、私は一つの興味深い話を聞きました。どこでしたか町の

名は忘れましたが、何でも、ドイツとの国境近くにあるフランスの一寒村に、今度の大戦中に

戦死した、フランスのゲリラ部隊十数名の墓があるのですが、その墓に混じって、ひとりの無名

のドイツ兵の墓が一つ立っているのです。そしてすでに、戦争も終って十数年経った今日も、

なお、その無名のドイツ兵の墓の前には、だれが供えるのか手向けの花の絶えたことがない

とのことです。いったい、そのドイツ兵とは何者なのかと尋ねると、村の人々はひとみに涙を光

らせながら、次のように話してくれることでしょう。



それは第二次世界大戦も末期に近いころのことでした。戦争勃発と共に、電光石火のような

ドイツ軍の進撃の前に、あえなくつぶれたフランスではありましたが、祖国再建の意気に燃え

るフランスの青年たちの中には、最後までドイツに対するレジスタンスに生きた勇敢な人々が

ありまして、ここかしこに神出鬼没なゲリラ戦を展開しては、ナチの将校を悩ましておりました。

が、武運拙くと言いましょうか、十数名のゲリラ部隊がついに敵の手に捕らえられました。残虐

なナチの部隊長は、なんの詮議もなく、直ちに全員に銃殺の刑を申し渡しました。ゲリラ部隊

の隊員の数と同じだけのドイツ兵がずらりと並んでいっせいに銃を構え、自分の目の前のフラ

ンス兵にねらいを定めて「撃て!」という号令を待ちました。と、間一髪、ひとりのドイツ兵が、

突然叫び声をあげました。



「隊長! 私の前のフランス人は重傷を受けて、完全に戦闘能力を失っています。こんな重傷

兵を撃ち殺すことはできません!」 今まで、かつて反抗されたことのないナチの隊長は怒りに

目もくらんだように、口から泡を吹きながら叫び返しました。「撃て! 撃たないなら、お前も、

そいつと一緒に撃ち殺すぞ!」と。けれど、そのドイツ兵は二度と銃を取り上げませんでした。

ソッと銃を足下におくと、静かな足取りで、ゲリラ部隊の中に割って入り、重傷を負うて、うめい

ているフランス兵をかかえ起こすと、しっかりと抱き締めました。次の瞬間、轟然といっせいに

銃が火を吐いて、そのドイツ兵とフランス兵とは折り重なるように倒れて息絶えて行ったという

のです。 (中略)



しかし、そのドイツ兵は撃ちませんでした。のみならず、自分も殺されて行きました。ところで

なにか得があったかとお尋ねになるなら、こう答えましょう。ひとりのドイツ兵の死はそれを

目撃した人々に忘れ得ぬ思い出を残したのみならず、ナチの残虐行為の一つはこの思い出

によって洗い浄められ、その話を伝え聞くほどの人々の心に、ほのぼのとした生きることの

希望を与えました。ナチの残虐にもかかわらず、人間の持つ良識と善意とを全世界の人々

の心に立証したのです。このような人がひとりでも人の世にいてくれたということで、私たちは

人生に絶望しないですむ。今は人々が猜疑と憎しみでいがみ合っていはいても、人間の心の

奥底にこのような生き方をする可能性が残っている限り、いつの日にか再びほんとうの心か

らの平和がやって来ると信ずることができ、人間というものに信頼をおくことができる・・・・これ

が、このドイツ兵の死がもたらした賜物でした。どこの生まれか、名も知らぬ、年もわからぬ

この無名の敵国の一兵士の墓の前に戦後十数年を経た今日、未だに手向けの花の絶える

ことのないという一つの事実こそ、彼の死の贈物に対する人類の感謝のあらわれでなくて何

でありましょう。(後略)



「生きるに値するいのち」小林有方神父 ユニヴァーサル文庫 昭和35年発行より引用



☆☆☆☆☆☆☆



ナチの残虐行為、特にユダヤ人虐殺(ホロコースト)は、生き残った人々の多くに死ぬまで

消え去ることのできない印を刻み込みました。600万人が犠牲になった強制収容所という

極限状況の中で、フランクル著「夜と霧」では人間の精神の自由さを、ヴィーゼル著「夜」

は神の死を、レーヴィ著「アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察」

は人間の魂への関心を決して絶やさなかったことを、そして大石芳野著「夜と霧をこえて 

ポーランド・強制収容所の生還者たち」では癒すことが出来ない忌まわしい記憶に苦しめ

られている人々を私たちに訴えかけています。しかしそのような絶望的な状況の中でもシ

ャート著「ヒトラーに抗した女たち」に見られる、ドイツ全体を覆う反ユダヤの流れに抵抗し

た人もいたのも事実です。



私自身、家族、国家、主義主張を守るため自分の生命を犠牲にすることとを否定するもの

ではありません。ただ先に紹介した一人のドイツ兵のことを思うと、家族、国家、主義主張

を守るため自分の生命を犠牲にすることとは違う次元に立っているよう気がしてなりません。

それは彼が助けることを選んだその瞬間、彼の未来の人生を、守りたかったものへ捧げる

という意味ではなく、未来へと向かって生きる自分自身に対しての意味を感じたと思うので

す。家族とか国家のためではなく、自分自身の未来に責任を持つために。



しかし、もし私が同じような状況に置かれたら間違いなく銃を撃つ側に立つでしょう。「これ

は戦争なのだ」と自分に言い聞かせながら。ただ、実際に銃を撃った他の兵士はその後

どのような人生を送ったのでしょうか。中には生き残って愛する女性と結婚し子育てをし

幸せな老後を迎えた人もいるかも知れません。ただ彼の意識のどこかにいつもこのドイツ

兵の行為が頭から離れなかったことは確かだと思います。「あの時自分がとった行動は

本当に正しかったのか」と。



この時期、夜の11時頃に東の空から「しし座」に輝く一等星レグルス(二重星)が登ってきま

す。77年前第二次世界大戦突入の時に、この星から船出した光が今、私たちの瞳に飛び

込んできています。当時の世界や人々に想いを馳せながら、春の予感を告げるレグルスを

見てみたいものです。



(K.K)


 

2012年7月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」


マキシミリアノ・コルベ神父(1894〜1941)を紹介するサイト



アウシュヴィッツで餓死刑の身代わりを申し出、亡くなったコルベ神父(1982年、同じポーランド

出身のヨハネ・パウロ2世によって列聖を宣言される)、その姿を沢山の写真と共に紹介した

このサイトに心ひきつけられました。



聖フランシスコ修道会に入られたコルベ神父は、長崎に来られた数年間に「聖母の騎士修道院」

を設立し、現在でも月刊誌「聖母の騎士」が発行されています。



布教とは直接関係ないのですが、コルベ神父が大学時代、惑星間の旅行が物理的・生物学的

に可能であることを説明する論文を書いたり、修道院長時代、若い神学生とチェスをすることが

唯一の趣味だったりと、同じ領域に関心をもっていたことに驚きました。



しかし、それよりもこのサイトを通して、コルベ神父の言葉と行いに改めて感銘を受けています。



アウシュヴィッツでの話ですが、このサイトから印象に残った言葉を転載します。



☆☆☆☆



担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、

他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。



そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、「他の方々はいただいて

いませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられ

る食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃった

のだそうです。



「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省して

います。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるで

しょう。その人たちに…」



☆☆☆☆




(K.K)




2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)





Kolbe Tour ? St. Francis HS (Athol Springs, NY) | Our Lady of the Angels Province, USA





写真中央左の髭の長い方がコルベ神父で、これは

ニエポカラノフ修道院長時代、若い神学生のチェス

を見ているところです。コルベ神父にとって、チェス

は唯一の趣味だったそうです。



詳しくは「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」


ウェストミンスター教会に掲げられている聖コルベ像(左端)








アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

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