「夜と霧」をこえて

ポーランド・強制収容所の生還者たち

大石芳野著 日本放送出版協会 より引用





強制収容所から生還できた人たちを尋ね歩き、その忌まわしい記憶と

それからの生還者の現在を取材した貴重な文献である。そこには戦後

40数年経っても決して癒すことが出来ないものが横たわっている。


 




クオジンスキの言葉(本書より抜粋)


「すべての囚人がそうだと思いますが、いまだに完全な開放感はない。

収容所の恐怖感を引きずりながら、現在の生活と比較して考えてしま

う。そのあまりにも違うギャップに苦しい気持ちになる。収容所で受け

た苦しみによる障害者ということです。いつも何かに脅えたりこだわっ

たり。自らの内側と外側の葛藤に悩んでいる」


「私には生きる喜びがない。常に収容所時代のことがあり、日常的な

生活が普通の人のようにできにくい。私もかなりの変人です。私たち元

囚人が集まると皆同じ感じ方をしている。そして、いつもそのことが問題

になる。元囚人同士の理解と、一般の人の理解とは違う。それが皆いち

ようの感じ方です」


「人生そのものの真実を見つけること。真実を述べること。健康な生活

をすること。そして苦しみについて別の価値観をもつこと。多くの苦しみ

は一時的なものでいつか過ぎ去ってしまうものです。頭痛も苦しみに値

しない。多くの人が病気に対する忍耐をもっていない。世界の正しい

見方を心得てもいない。これは今日までに私を育てた考え方です。個人

的な人生体験からのもので、他の囚人だった人がどう思っているかでは

ありません」


「私の息子にも孫にも、私が収容所にいたことによる弊害が認められる

のです。神経過敏、不安、恐怖感、集中力の低下、周囲の環境に順応

できない。絶え間ない自己分裂といったものがある。こうした弊害が原因

でしょうか。息子は離婚しました。心臓外科医なのだが進むべき方へ

向かわないで軌道から離れてしまう。孫は少しの物音にも異常な反応を

示す。どれも皆私のせいなのです。1941年8月から私はこの病気にか

かり始め、そして49年に生まれた息子に影響を及ぼし、さらに73年、

76年生まれの二人の孫にまで影響を引きずったのです」


 
 


強制収容所に捕らわれた人によって書かれた絵画

「子どもの命はすぐに奪われた」

(画像は本書より引用)


 


本書より引用


アウシュビッツ収容所でも、SS医局部長のヨーゼフ・メンゲレ博士が、主に

双生児を対象に実験を重ねた。子どものバラックは合わせて16棟あり、そ

のうち7棟が子どもばかりで、残りは成人と半々の同居だった。双子だけを

一棟のバラックに入れ、また幼稚園と呼んだバラックが2棟もあった。いず

れの棟にいた子どもたちも、メンゲレの生体実験の材料になるか、餓死、

病死、そしてガス室が子どもたちの命を奪った。解放のとき、生き残ってい

たのはわずか200人でしかなかった。第二収容所であるビルケナウの一画

にある一棟のバラック16号室には、大勢の子どもがいたが、人体実験、ドイ

ツ化、殺害、餓死、病死にさらされた。さらに1943年7月、ポトリツェ収容所

に542人が移動させられ、その運命はわからない(38項ガドムスカの項参

照)。一つのバラックに成人500−1200人くらいが入れられていたが、

子どもの人数はそれよりはるかに多かった。1944年8月1日のワルシャワ

蜂起で、18歳未満の子どもが約1400人もアウシュビッツへ送られてきた。

6−8歳のいたいけな少年を、成人としてかり出す扱いをした。もっとも女子

は14歳まで子どもとみなされた。収容所に送られた子どもたちの大半が、

着くなりガス室送りだった。例えば、1944年、ハンガリーから何万人もの

子どもが貨車で連れてこられたが、全員がその日のうちにガス室へ送られ

た。さらにポーランド東部のザモヒチからの貨車の大勢の子どもたちも、そ

のほとんどが餓死とガス室送りとなって、生き残れたのはごくわずかだった。

もちろん、こうした子どもたちは登録さえされていない。どの収容所でも病気

になった子どもの命はほとんどなかったし、1943年以前の新生児や妊婦も

同様だった。妊婦ばかりが大勢集めて殺されたこともあった。トレブリンカ

収容所では赤ん坊を抱いた大勢の母親たちが、全裸でガス室に送られる

写真が残っている。子どもを抱いた母親は、たとえ健康でも母子ともに殺さ

れた。祖母が孫を抱いていると、母親は労働に回され、祖母は子どもととも

に殺された。労働力になり得ない子どもは、病人、老人と同様に、ナチスに

とってはまったっく無用の存在だったのである。


 


目次


T 新しい病、強制収容所症候群

治療に賭ける医師を訪ねて

「あの体験は地獄でした」

40年過ぎても得られぬ解放感

新しい病気の発見

強制収容所症候群

再訪、20号館伝染病棟

殺害のための注射

発疹チフスの人体実験

研究と治療方法

「私には生きる喜びがない」

「もう一人の自分」との闘い

スープを見る恐怖

いまだ他人を信用できない性格

ドイツ人の老婆を殴る

SSに殺される夢

子どもに及ぶ収容所症候群の影響

ソヴァの似顔絵

子ども専用の収容所

ドイツ人になるための選別

ポーランド人としての誇りを捨てずに

「壊れたハートの像」

子どもの強制労働

子どもたちのうけた生体実験


U 強制収容所体験

理由なき虐殺と「運」のよかった人々

「死の壁」

「ドイツ人を憎んではいません」

密告による労働者の銃殺

「水晶の夜」ユダヤ人虐殺事件

人間以下

生きる希望を持ち続けて

数字は語る

大量殺人収容所

「浴室」と書かれたガス室

特別の囚人

絞首刑台の椅子

スープをめぐる事件

売春婦と遊ぶ「特別な囚人」

トランペット吹き

飢餓の極限状況で

収容所のオーケストラ

人体実験

箱いっぱいの金歯

子宮に注射をされる

仲間の肖像画を描いた囚人

肖像画を通して広がった交流

クリスマスツリーに吊るされた死体

「死の行進」

No More War の像


V 収容所で結ばれた二人

夫妻の収容所体験談

死のカルニ・コンパニアからの脱出

「死の宣告者」という職務

出会い

アウシュヴィッツで生まれた子ども


W 逃亡と抵抗

「死の行進」中の逃亡

囚人を殴れなかった労働監督

逃亡計画

献身の女性エルナ

初対面の女性に助けられて

「黒い道」

洋服と帽子とウォッカ

下水道管を伝わる逃亡

一瞬にして白髪に

ドイツ人の娘と結婚

鉄格子の窓から飛びおりる

収容所のスキーヤー

自分の墓を自分の手で掘る

逃亡に成功

血で手紙を書く

三日三晩天井裏に潜んで

運動家による秘密資料の暴露

貨車から飛びおりる

戦争体験を語る絵

銃殺場の死体の中から生還

生き残った者として

ワルシャワ・ゲットー蜂起の生き残り

ゲットーの高いレンガ塀

「どうやって死ぬか」の問題

ユダヤ人であることを隠し通す

名前をポーランド名に変えて

「ユダヤ人はどのみち殺される」

廃墟の街の復元にかける

祖国ポーランドに残る意味

変革への静かな強い意志

あとがき


 


2012年1月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



今から70年前にあった一つの実話を紹介しようと思います。映像は第二次世界大戦中、敵味方

なく愛された歌「リリー・マルレーン」 です。



☆☆☆☆☆☆☆



ところで、先年、ヨーロッパを旅行中、私は一つの興味深い話を聞きました。どこでしたか町の

名は忘れましたが、何でも、ドイツとの国境近くにあるフランスの一寒村に、今度の大戦中に

戦死した、フランスのゲリラ部隊十数名の墓があるのですが、その墓に混じって、ひとりの無名

のドイツ兵の墓が一つ立っているのです。そしてすでに、戦争も終って十数年経った今日も、

なお、その無名のドイツ兵の墓の前には、だれが供えるのか手向けの花の絶えたことがない

とのことです。いったい、そのドイツ兵とは何者なのかと尋ねると、村の人々はひとみに涙を光

らせながら、次のように話してくれることでしょう。



それは第二次世界大戦も末期に近いころのことでした。戦争勃発と共に、電光石火のような

ドイツ軍の進撃の前に、あえなくつぶれたフランスではありましたが、祖国再建の意気に燃え

るフランスの青年たちの中には、最後までドイツに対するレジスタンスに生きた勇敢な人々が

ありまして、ここかしこに神出鬼没なゲリラ戦を展開しては、ナチの将校を悩ましておりました。

が、武運拙くと言いましょうか、十数名のゲリラ部隊がついに敵の手に捕らえられました。残虐

なナチの部隊長は、なんの詮議もなく、直ちに全員に銃殺の刑を申し渡しました。ゲリラ部隊

の隊員の数と同じだけのドイツ兵がずらりと並んでいっせいに銃を構え、自分の目の前のフラ

ンス兵にねらいを定めて「撃て!」という号令を待ちました。と、間一髪、ひとりのドイツ兵が、

突然叫び声をあげました。



「隊長! 私の前のフランス人は重傷を受けて、完全に戦闘能力を失っています。こんな重傷

兵を撃ち殺すことはできません!」 今まで、かつて反抗されたことのないナチの隊長は怒りに

目もくらんだように、口から泡を吹きながら叫び返しました。「撃て! 撃たないなら、お前も、

そいつと一緒に撃ち殺すぞ!」と。けれど、そのドイツ兵は二度と銃を取り上げませんでした。

ソッと銃を足下におくと、静かな足取りで、ゲリラ部隊の中に割って入り、重傷を負うて、うめい

ているフランス兵をかかえ起こすと、しっかりと抱き締めました。次の瞬間、轟然といっせいに

銃が火を吐いて、そのドイツ兵とフランス兵とは折り重なるように倒れて息絶えて行ったという

のです。 (中略)



しかし、そのドイツ兵は撃ちませんでした。のみならず、自分も殺されて行きました。ところで

なにか得があったかとお尋ねになるなら、こう答えましょう。ひとりのドイツ兵の死はそれを

目撃した人々に忘れ得ぬ思い出を残したのみならず、ナチの残虐行為の一つはこの思い出

によって洗い浄められ、その話を伝え聞くほどの人々の心に、ほのぼのとした生きることの

希望を与えました。ナチの残虐にもかかわらず、人間の持つ良識と善意とを全世界の人々

の心に立証したのです。このような人がひとりでも人の世にいてくれたということで、私たちは

人生に絶望しないですむ。今は人々が猜疑と憎しみでいがみ合っていはいても、人間の心の

奥底にこのような生き方をする可能性が残っている限り、いつの日にか再びほんとうの心か

らの平和がやって来ると信ずることができ、人間というものに信頼をおくことができる・・・・これ

が、このドイツ兵の死がもたらした賜物でした。どこの生まれか、名も知らぬ、年もわからぬ

この無名の敵国の一兵士の墓の前に戦後十数年を経た今日、未だに手向けの花の絶える

ことのないという一つの事実こそ、彼の死の贈物に対する人類の感謝のあらわれでなくて何

でありましょう。(後略)



「生きるに値するいのち」小林有方神父 ユニヴァーサル文庫 昭和35年発行より引用



☆☆☆☆☆☆☆



ナチの残虐行為、特にユダヤ人虐殺(ホロコースト)は、生き残った人々の多くに死ぬまで

消え去ることのできない印を刻み込みました。600万人が犠牲になった強制収容所という

極限状況の中で、フランクル著「夜と霧」では人間の精神の自由さを、ヴィーゼル著「夜」

は神の死を、レーヴィ著「アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察」

は人間の魂への関心を決して絶やさなかったことを、そして大石芳野著「夜と霧をこえて 

ポーランド・強制収容所の生還者たち」では癒すことが出来ない忌まわしい記憶に苦しめ

られている人々を私たちに訴えかけています。しかしそのような絶望的な状況の中でもシ

ャート著「ヒトラーに抗した女たち」に見られる、ドイツ全体を覆う反ユダヤの流れに抵抗し

た人もいたのも事実です。



私自身、家族、国家、主義主張を守るため自分の生命を犠牲にすることとを否定するもの

ではありません。ただ先に紹介した一人のドイツ兵のことを思うと、家族、国家、主義主張

を守るため自分の生命を犠牲にすることとは違う次元に立っているよう気がしてなりません。

それは彼が助けることを選んだその瞬間、彼の未来の人生を、守りたかったものへ捧げる

という意味ではなく、未来へと向かって生きる自分自身に対しての意味を感じたと思うので

す。家族とか国家のためではなく、自分自身の未来に責任を持つために。



しかし、もし私が同じような状況に置かれたら間違いなく銃を撃つ側に立つでしょう。「これ

は戦争なのだ」と自分に言い聞かせながら。ただ、実際に銃を撃った他の兵士はその後

どのような人生を送ったのでしょうか。中には生き残って愛する女性と結婚し子育てをし

幸せな老後を迎えた人もいるかも知れません。ただ彼の意識のどこかにいつもこのドイツ

兵の行為が頭から離れなかったことは確かだと思います。「あの時自分がとった行動は

本当に正しかったのか」と。



この時期、夜の11時頃に東の空から「しし座」に輝く一等星レグルス(二重星)が登ってきま

す。77年前第二次世界大戦突入の時に、この星から船出した光が今、私たちの瞳に飛び

込んできています。当時の世界や人々に想いを馳せながら、春の予感を告げるレグルスを

見てみたいものです。



(K.K)


 







「夜と霧」 フランクル

影響を受けた人・本

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