「夜」

ヴィーゼル著 村上光彦訳 みすず書房 より引用





随分昔から読まなければいけないと思いつつ手にとるも、どうしても読めない本があった。それは

「夜」ヴィーゼル著で、当時15歳の少年がアウシュヴィッツの体験を記した本である。何故読めな

かったのか、何を恐れていたのか、自分の中でも漠然としていたものが明るみに出されてしまうのが

怖かったのか、その想いは最近本書を読んだ後も変わらなかった。本書が描き出す地獄絵図、自分

が生きてきた尺度では想像することすらできない深い暗闇の底。私はこの暗闇が自分にも潜んでい

ることを恐れていたのかも知れない。だから本書を前にしながらも開けようとはしなかったのだろう。

今まで確かにユダヤ人虐殺(ホロコースト)の本は何冊か読んできたが、熱心なユダヤ教の青年が

 「私は原告であった。そして被告は神」と言わしめた、その言葉に私自身耐えられるだろうかと怖れ

ていたのかも知れない。そしてこの証言を、証言を記録したこの文献を誰かに薦めようとは思わない。

それ程、本書に描かれている地獄絵図は読者一人一人が人間の本質を、自らの力で考え、そして答

えを出さなければならないことを暗に迫ってくるからだ。ただ自らが持つ暗闇、その暗闇から目を避け

ていては、いつまでたってもこの世界は幻想であり、夢遊病者のように生きるしかない。シモーヌ・

ヴェイユが言うように「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。」の言葉の真の重さを私の心が

受け止める日が来るのだろうか。



この暗闇に勝てるもの、それは私たちの身近にある「美」の再発見なのかも知れない。どんな小さな

ことでもいい。いつも私たちの傍にいて、語りかけようとしている「美」の声を聞き、その姿をありのま

ま見ること。それが唯一、暗闇からの解放をもたらしてくれるのかも知れない。「美」が暗闇の本質を

照らし、暗闇の真の姿をさらけだしていく。常に自らの心の鏡を磨き、「美」がそのままの姿で映るこ

とを願うこと。そしてこの願いは「祈り」そのものかも知れない。


(K.K)


 





下から2段目、左から7番目がエリ・ヴィーゼル

ヴィーゼルは1944年、15歳の時にアウシュヴィッツ収容所に送られる。







 


本書 序文・・・・フランソワ・モーリヤック より抜粋引用

自分の妹と母親とが、ほかの幾千もの人たちのあとを受けていまにも投げこまれようと

しているその炉のなかから、黒煙の環がもくもくと湧き上がってきて、つぎつぎと空に

ひろがっては崩れてゆくのを、彼の目は見つめていたのであるが、そのあいだに彼の

内部でどのようなことが生じていたか想像してみよう。「この夜のことを、私の人生を

ば、七重に閂をかけた長い一夜に変えてしまった。収容所でのこの最初の夜のこと

を、けっして忘れないであろう。この煙のことを、けっして私は忘れないであろう。子ど

もたちの身体が、押し黙った蒼穹のもとで、渦巻きに転形して立ちのぼってゆくのを私

は見たのであったが、その子どもたちの幾つもの小さな顔のことを、けっして私は忘れ

ないであろう。生きていこうという欲求を永久に私から奪ってしまった、この夜の静けさ

のことを、けっして私は忘れないであろう。私の神と私の魂を殺害したこれらの瞬間の

ことを、また砂漠の相貌を帯びた夜ごとの私の夢のことを、けっして私は忘れないであ

ろう。たとえ私が神自身と同じく永遠に生き長らえるべき刑に処せられようとも、その

ことを、けっして私は忘れないであろう。けっして。」


そのときのことを想像してみて、私がこの若いイスラエル人に会ったとたんに好きに

なったのはいったい彼のどういうところなのか、ということが私にはわかった。それは、

復活しながら、しかもあいかわらず暗い岸辺・・・・彼は、辱められた累々たる屍体に躓

きながら、そのあたりを彷徨したのである・・・・の虜囚たりつづけているラザロのまな

ざしにあったのである。彼にとって、神は死んだというニーチェの叫び声は、ほとんど

身体にじかに応える現実性を表わすものであった。すなわち、あらゆる偶像のうちで

ももっとも貪欲な〈人種〉という偶像の要求により、人間を焼いて捧げる全燔祭が行な

われたとき、この子どもたちの見ている前で、愛、柔和、慰めの神は、アブラハム、

イサク、ヤコブの神は、その祭壇から立ちのぼる煙のなかへと永久に姿を消し去った

のである。そして、なんと多くの敬虔なユダヤ人の心のうちで、この死が成しとげられ

ずにはいられなかったことか。あの恐ろしい日々のうちでも恐ろしい日、この子どもは

もうひとりの子ども・・・・彼が言うには、不幸の天使のような顔をしていたとのことであ

る・・・・にたいする絞首刑(そう、文字どおりの!)に立ち会ったのであるが、彼はその

日自分のうしろでだれかがこう言って呻くのを聞いた。「『神はどこだ。どこにおられるの

だ。いったい、神はどこにおられるのだ。』そして、私の心のなかで、ある声がその男に

こう答えていた。『どこだって? ここにおられる・・・・ここに、この絞首台に吊るされて

おられる。』」


 
 



父は眠ろうとしている。まちがっているのだろうか。ここで眠っていいのだろうか。死が一瞬

ごとに襲いかかってくるかもしれないのに、片時の間でも警戒心を解いてしまうのは危険なこ

とではないだろうか。



そんなふうに考えていたとき、ヴァイオリンの音色が聞こえた。死者たちが生者たちのうえに

積み重なっている。この暗いバラックのなかで、ヴァイオリンの音色。ここで、自分自身の墓の

の縁で、ヴァイオリンを弾く狂人はどこのだれだろうか。それとも、幻覚にすぎないのだろうか。




ユリエクに違いない。彼はベートーヴェンの協奏曲の一節を弾いていた。こんなに清らかな音

色は聞いたことは、いまだかつてなかった。このような静寂のなかで。彼は身体を抜き出すこ

とに、私の気づかぬうちに私の身体の下から抜け出すことに、どのようにして成功したのであ

ろうか。



まっくらであった。聞こえるのはただ、このヴァイオリンのみであった。あたかもユリエクの魂

が弓の役を果たしているかのようであった。彼はわれとわが命を奏でていた。彼の命のすべ

てが弦のうえを滑ってゆくのであった。彼の失われた希望のかずかず。彼の黒焦げになった

過去、彼の火の消えた未来。彼は、もう二度と奏でることのないものを奏でていたのである。



私はけっしてユリエクを忘れることができないであろう。頓死者と死者とから成るこの聴衆に

聞かせたこのコンサートを、私はどうして忘れることができようか! 今日でもまだ、ベートー

ヴェンの曲を聞くときには、私の目は閉ざされ、そして頓死者の聴衆に別れを告げている。

あのポーランド出身の仲間の蒼ざめて悲しげな顔が、暗がりのなかから浮かびあがってくる

のである。



彼がどのくらいのあいだ演奏したか、私は知らない。眠りが私にうち勝った。目覚めたとき、

明けがたの光に照らされて、ユリエクがちぢこまって死んでいるのを、私は目のまえで見た

のである。彼のかたわらには、踏みにじられ、圧し潰された彼のヴァイオリンが、場違いで

しかも心を激しく揺さぶる、ちっぽけな死体となって横たわっていた。




 



ある日、私たちが停車していたとき、ひとりの労働者が雑嚢から一片のパンをとりだして、

それを貨車のなかに投げ込んだ。みんながとびかかった。何十人もの飢えた者が幾片かの

パン屑のために殺しあったのである。ドイツの労働者たちはこの光景をひどく面白がった。



数年後、私はアデンで同種の光景を目撃した。私たちの乗っていた船の乗客が、《土人》

に硬貨を投げ与えて面白がっていたのである。《土人》たちは、潜ってお金を取ってくるの

であった。貴族らしい風采をしたひとりのパリ婦人が、この遊びをたいへん愉快がってい

た。私は不意に、二人の子どもが死にそうな殴りあいをしており、一方が相手の咽喉を締

めつけようとしているのに気付いた。そこで私は、その貴婦人に嘆願した。「お願いです。

もう小銭を投げないでください!」 「なぜいけないんですか」と、彼女は言った。「私は慈善

をするのが好きなのです・・・。」



パンが落ちてきた貨車のなかでは、まったくの闘いが始まっていた。たがいにとびつき、

踏みつけあい、引き裂きあい、噛みあったのである。目に獣のような憎悪を宿して、鎖か

ら解き放たれた猛獣と化していた。途方もない生命力が、彼らを虜にし、彼らの歯と爪を

研ぎすましたのであった。列車に沿って、一群の労働者と野次馬とが集まっていた。彼ら

はきっと、こんな積み荷を載せた列車をまだ一度も見たことがなかったのであろう。まも

なく、あちこちからパン片が貨車のなかに降ってきた。見物人は、これらの骸骨じみた

人間が一口のパンをうるために殺しあうのを眺めていた。



一片、私たちの貨車にとび込んだ。私は身動きするまいと決心した。それに私は、鎖

から解き放たれた、この幾十人もの連中と闘うだけの力が自分にはないのを知って

いた! 私は四つん這いになってゆく老人を、私からさして離れていないあたりに見

かけた。彼はいま、争いのなかから抜け出て来たのである。彼は片手を心臓のあた

りに押しあてた。私ははじめ、胸を殴られたためかと思った。それから、わかった・・・

彼は上着の下に一片のパンを隠していたのである。なみなみならぬ素早さで、彼はそ

のパンをとり出し、それを口に持って行った。目が輝いた。しかめつらにも似た微笑

が、彼の死人のような顔を照らした。そして、たちまちにして消えた。人影が彼のそば

にふと伸びてきたのである。そしてその影は彼にとびかかった。殴りつけられ、殴打

のでいで酔ったようになって、その老人はこう叫んだ。



「メイール、私のかわいいメイール! 私がわからないのかい。お父さんだよ・・・。

そんなことをして、痛いよ・・・。おまえはお父さんを殺すのかい・・・。パンがあるよ・・・

おまえの分も・・・おまえの分も・・・。」



彼はくずれ落ちた。まだ、小さなひとかけらを後生大事に握りしめていた。彼はそれ

を、自分の口へ持って行こうとした。しかし、相手が彼にとびかかり、それをとりあげ

た。老人はまだなにかを呟き、喘ぎ声を発し、そして死んだ。だれも気に留めもしな

かった。息子が彼の身体を探り、パン片を取りだし、むさぼり食い始めた。彼は、あ

まり食べることができなかった。二人の男が彼を見ていて、跳びかかったのである。

ほかの連中もこれに加わった。彼らがどいたあと、私のそばには二人の死者が並ん

でいた。・・・父と息子と。私は15歳であった。




 


Elie Wiesel(1928〜)


 


2012年1月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



今から70年前にあった一つの実話を紹介しようと思います。映像は第二次世界大戦中、敵味方

なく愛された歌「リリー・マルレーン」 です。



☆☆☆☆☆☆☆



ところで、先年、ヨーロッパを旅行中、私は一つの興味深い話を聞きました。どこでしたか町の

名は忘れましたが、何でも、ドイツとの国境近くにあるフランスの一寒村に、今度の大戦中に

戦死した、フランスのゲリラ部隊十数名の墓があるのですが、その墓に混じって、ひとりの無名

のドイツ兵の墓が一つ立っているのです。そしてすでに、戦争も終って十数年経った今日も、

なお、その無名のドイツ兵の墓の前には、だれが供えるのか手向けの花の絶えたことがない

とのことです。いったい、そのドイツ兵とは何者なのかと尋ねると、村の人々はひとみに涙を光

らせながら、次のように話してくれることでしょう。



それは第二次世界大戦も末期に近いころのことでした。戦争勃発と共に、電光石火のような

ドイツ軍の進撃の前に、あえなくつぶれたフランスではありましたが、祖国再建の意気に燃え

るフランスの青年たちの中には、最後までドイツに対するレジスタンスに生きた勇敢な人々が

ありまして、ここかしこに神出鬼没なゲリラ戦を展開しては、ナチの将校を悩ましておりました。

が、武運拙くと言いましょうか、十数名のゲリラ部隊がついに敵の手に捕らえられました。残虐

なナチの部隊長は、なんの詮議もなく、直ちに全員に銃殺の刑を申し渡しました。ゲリラ部隊

の隊員の数と同じだけのドイツ兵がずらりと並んでいっせいに銃を構え、自分の目の前のフラ

ンス兵にねらいを定めて「撃て!」という号令を待ちました。と、間一髪、ひとりのドイツ兵が、

突然叫び声をあげました。



「隊長! 私の前のフランス人は重傷を受けて、完全に戦闘能力を失っています。こんな重傷

兵を撃ち殺すことはできません!」 今まで、かつて反抗されたことのないナチの隊長は怒りに

目もくらんだように、口から泡を吹きながら叫び返しました。「撃て! 撃たないなら、お前も、

そいつと一緒に撃ち殺すぞ!」と。けれど、そのドイツ兵は二度と銃を取り上げませんでした。

ソッと銃を足下におくと、静かな足取りで、ゲリラ部隊の中に割って入り、重傷を負うて、うめい

ているフランス兵をかかえ起こすと、しっかりと抱き締めました。次の瞬間、轟然といっせいに

銃が火を吐いて、そのドイツ兵とフランス兵とは折り重なるように倒れて息絶えて行ったという

のです。 (中略)



しかし、そのドイツ兵は撃ちませんでした。のみならず、自分も殺されて行きました。ところで

なにか得があったかとお尋ねになるなら、こう答えましょう。ひとりのドイツ兵の死はそれを

目撃した人々に忘れ得ぬ思い出を残したのみならず、ナチの残虐行為の一つはこの思い出

によって洗い浄められ、その話を伝え聞くほどの人々の心に、ほのぼのとした生きることの

希望を与えました。ナチの残虐にもかかわらず、人間の持つ良識と善意とを全世界の人々

の心に立証したのです。このような人がひとりでも人の世にいてくれたということで、私たちは

人生に絶望しないですむ。今は人々が猜疑と憎しみでいがみ合っていはいても、人間の心の

奥底にこのような生き方をする可能性が残っている限り、いつの日にか再びほんとうの心か

らの平和がやって来ると信ずることができ、人間というものに信頼をおくことができる・・・・これ

が、このドイツ兵の死がもたらした賜物でした。どこの生まれか、名も知らぬ、年もわからぬ

この無名の敵国の一兵士の墓の前に戦後十数年を経た今日、未だに手向けの花の絶える

ことのないという一つの事実こそ、彼の死の贈物に対する人類の感謝のあらわれでなくて何

でありましょう。(後略)



「生きるに値するいのち」小林有方神父 ユニヴァーサル文庫 昭和35年発行より引用



☆☆☆☆☆☆☆



ナチの残虐行為、特にユダヤ人虐殺(ホロコースト)は、生き残った人々の多くに死ぬまで

消え去ることのできない印を刻み込みました。600万人が犠牲になった強制収容所という

極限状況の中で、フランクル著「夜と霧」では人間の精神の自由さを、ヴィーゼル著「夜」

は神の死を、レーヴィ著「アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察」

は人間の魂への関心を決して絶やさなかったことを、そして大石芳野著「夜と霧をこえて 

ポーランド・強制収容所の生還者たち」では癒すことが出来ない忌まわしい記憶に苦しめ

られている人々を私たちに訴えかけています。しかしそのような絶望的な状況の中でもシ

ャート著「ヒトラーに抗した女たち」に見られる、ドイツ全体を覆う反ユダヤの流れに抵抗し

た人もいたのも事実です。



私自身、家族、国家、主義主張を守るため自分の生命を犠牲にすることとを否定するもの

ではありません。ただ先に紹介した一人のドイツ兵のことを思うと、家族、国家、主義主張

を守るため自分の生命を犠牲にすることとは違う次元に立っているよう気がしてなりません。

それは彼が助けることを選んだその瞬間、彼の未来の人生を、守りたかったものへ捧げる

という意味ではなく、未来へと向かって生きる自分自身に対しての意味を感じたと思うので

す。家族とか国家のためではなく、自分自身の未来に責任を持つために。



しかし、もし私が同じような状況に置かれたら間違いなく銃を撃つ側に立つでしょう。「これ

は戦争なのだ」と自分に言い聞かせながら。ただ、実際に銃を撃った他の兵士はその後

どのような人生を送ったのでしょうか。中には生き残って愛する女性と結婚し子育てをし

幸せな老後を迎えた人もいるかも知れません。ただ彼の意識のどこかにいつもこのドイツ

兵の行為が頭から離れなかったことは確かだと思います。「あの時自分がとった行動は

本当に正しかったのか」と。



この時期、夜の11時頃に東の空から「しし座」に輝く一等星レグルス(二重星)が登ってきま

す。77年前第二次世界大戦突入の時に、この星から船出した光が今、私たちの瞳に飛び

込んできています。当時の世界や人々に想いを馳せながら、春の予感を告げるレグルスを

見てみたいものです。



(K.K)


 







「夜と霧」 フランクル

影響を受けた人・本

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