小林有方神父(1909〜1999)
AllPosters 灰色の青春時代を送っていた高校の時、今でも私の宝物である一つの本に出会った。 私の家にはクリスチャンはいなかったのだが、何故かこの本が本棚の片隅に置かれて いた。家族の誰も手にとったことがない本、それが小林有方神父が書いた「生きるに値 するいのち」だった。人々の悩みや煩悩、痛みを肌を通して理解することができた人だか らこそ、宗派を超えて共感できるものになっているのかも知れない。この「生きるに値す るいのち」は、「心の花束」という放送の中で語られた言葉を活字として出版したものであ る。昭和35年(1960年)に出されたこの本には沢山の「美」が咲き誇っており、出版され てから十数年後に初めて手にとった悩み多き高校生の私にとって、この「美」にどれほど 希望と勇気をもらったことだろう。まるで砂漠という当時の私の乾いた心に、この清らかな 水は一瞬のうちに自分の体内に吸い込まれ、その水の流れは私の心に新たな泉を作っ ていった。出版から50年が経ち、既に絶版になっているが、私と同じように日々悩んだり 苦しんでいる人に読んでもらいたく、ここ紹介したいと思います。一話完結でそれぞれ5分 くらいで読めるものです。尚、1960年出版の本ですので、現在では差別用語と呼ばれ ている単語も散見されますが、決してそのような意図で書かれたものでないことは読ん でおわかりになられると思いますので、そのまま掲載しております。 (K.K)
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2012年1月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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「生きるに値するいのち」放送〈心の花束〉第一集
小林有方著 ユニヴァーサル文庫 1960年発行
PDF(全文書83Mbあります) Arikata.pdf
生きるに値するいのち |
第二話 pdf 高めあういのち 画像 第三話 pdf 磨きあういのち 画像 第四話 pdf 理解しあういのち 画像 第五話 pdf 孤独をみつめて 画像 第七話 pdf しあわせであることの義務 画像 第八話 pdf 守銭人のなげき 画像 第九話 pdf 術策と金力で獲得したもの 画像 第十話 pdf 性の解放のもたらすもの 画像 第十一話 pdf 燻銀のような人間美 画像 第十二話 pdf 無限への息吹き 画像 第十三話 pdf 強きものと弱きもの 画像 第十四話 pdf 三百五十円のいのち 画像 第十七話 pdf ただ一つのこと 画像 第十八話 pdf 驚いてみたい 画像 第十九話 pdf 虫けらの知恵 画像 第二十話 pdf 神秘の奥に潜むもの 画像 第二十一話 pdf テ・デウム! 画像 第二十四話 pdf 自由人の誇り 画像 第二十五話 pdf 心の旅路を振り返って 画像 第二十六話 pdf 生きるに値するいのち 画像 |
2010.2.12 K.K
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Laudate | 教会をたずねて カトリック米川教会(仙台教区) 綱木沢の岩木屋敷小野寺家から昭和29年、「老聞並伝説記」という古書が発見された。この書には
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小林有方神父の「生きるに値するいのち」読んだ高校時代に、一つの出会いが ありました。それは昭和49年2月4日の宮崎日日新聞朝刊の一面に15歳で亡く なった川畑朋子さんの手記が掲載されたのを読んだ時のことです。当時私より 二つ下の朋子さんが書き綴った日記の一部がそこに書かれており、それを読ん だ私は35年たった今まで当時の新聞を何故か大事に保存してきました。私自身 悩み多き高校生活を送っていたわけですが、しかし骨肉腫という病気のために 生きたくても生きられなかった一人の女性のことを思うと、とても捨てることが 出来なかったのです。私の心の引き出しには、川端朋子さんの想いというもの を風化させてはいけないという気持ちが何処かにあったのかもしれません。こ の出来事から35年経った2009年10月27日、川端朋子さんのこの手記が本に なっているのを偶然知りました。
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「永遠の賭け」小林有方・著 あかし書房 1975年発行 より抜粋引用 神への愛と人への愛がひとつの掟として結ばれていますので、私たちが回心して、他を思いやる、ゆるしと愛のいのちに 生きはじめるとき、その瞬間に、神の愛が私たちの実存の奥底に流れこんでくることはたしかです。しかし、実は、私たち がその時ただちに神の愛に目覚めることは限らないのです。神の愛のいのちに包まれながら、私たちは、それとははっき り意識することなしに、まず、人の愛に生きはじめるのです。人と人との愛における出会いを通じて、すべての人が神の愛 の目覚めに招かれているものの、ときには、人がついに神との出会いを意識としては体験することなしに、この世のいのち を終えることもあり得ます。それでもなお、その人のいのちが、回心して自我の扉を、開いたその時から、すでに実存的に は神を志向し、神に抱き包まれていたのだとは疑い得ぬところと私は確信します。たとえば、溺れ死のうとする子供の姿を 発見して夢中で川に飛びこみ、子供の生命を救いながら自分は力尽きて激流に呑まれた人のいのちが、たとえその人の 口からただの一度も「神よ!」との呼びかけが発しられなかったとしても、「闇は過ぎ去り、まことの光がすでに輝いている」 (ヨハネ第一の手紙2・8)いのちでないとだれが言えるでしょうか。また、貧しい生活をやりくりしながら、妻としてまた母と して、夫につくし子供を慈しんで自己を棄て切り、忍従の生活の中に燃えつきた女のいのちが、たとえ意識の表層では ただの一瞬も、神との出会いに目覚めることがなかったとしても、まだ罪の闇の中にいると、だれが信じられるでしょうか。 ですから、イエスは、「最後の審判」という終末論的幻想の描写の中で、審判者としてこう言わせます。 「あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々のひとりにしてくれたことは、つまり私にしてくれたこと なのである」(マタイ 25・40)と。 |