ローマ法王 レオ13世(Papa Leone XIII,1810年3月2日 - 1903年7月20日)

ジョアッキノ・ヴィンチェンツォ・ペッチ(Gioacchino Vincenzo Pecci)




グイラ・ヨアキム神父(白) 対 ペッチ枢機卿(後のローマ法王レオ13世)(黒)

1875年ペルージアにて


ペッチ枢機卿は1878年に聖ペテロ大聖堂の聖座に就き、教皇レオ13世となる。

この試合は教皇となる3年前の時のものであるが、驚くべきことに全く同じ試合が

30年前の1845年にSt.Petersburgにおいて指されている。それはSchumoff(白)

とVon Janisch(黒)の試合だが初手から最後のメイトまで全てが同じ手順である。

尚、Von Janischという人物についての詳細は不明である。レオ13世は偉大な法王

の一人として人々に記憶され、「フリーメーソン」の真実を暴いたことで有名である。




GuilaPecci1875.pgn へのリンク


 






Roman Catholic Pope Leo XIII
Gioacchino Vincenzo Pecci
[Wednesday, February 20, 1878 - Monday, July 20, 1903]


 


聖ミカエルに対する祈り

(レオ十三世の作)



大天使聖ミカエルよ、

戦いにおいて、わたしたちを守り、

悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。

神がかれに命じてくださいますよう、伏してお願いします。

ああ、天軍の総師よ、

霊魂をそこなおうとして、

この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、

神のおん力によって地獄にとじこめてください。

アーメン。




エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像




聖ミカエルに対する祈り(文語体)

(レオ十三世の作)



大天使聖ミカエル、

戦いにおいてわれらを護り、

悪魔の兇悪なる謀計に勝たしめ給え。

天主の彼に命を下し給わんことを伏して願い奉る。

ああ天軍の総帥、霊魂を損なわんとて

この世を徘徊するサタン及びその他の悪魔を、

天主の御力によりて地獄に閉じ込め給え。

アーメン。




 

レオ13世 (ローマ教皇) - Wikipedia より以下引用

レオ13世(Papa Leone XIII,1810年3月2日 - 1903年7月20日)はローマ教皇(在位:1878年
2月20日-1903年7月20日)、カトリック教会の司祭。本名、ジョアッキノ・ヴィンチェンツォ・
ペッチ(Gioacchino Vincenzo Pecci)。『誤謬表』(シラブス)の発表以来、完全に断絶してい
たカトリック教会と近代社会の相互理解を目指した。社会問題を扱った初の回勅『レールム
・ノヴァールム』を発表したことで有名。

生涯

1810年イタリアのカルピネート・ロマーノで貴族の家系に生まれたジョアッキノ・ペッチはペル
ージャの司教として評判になり、この名声によって1853年に枢機卿にあげられた。1878年の
コンクラーヴェで教皇に選ばれると、レオ13世を名乗った。19世紀のカトリック教会は近代
思想と科学思想のすべてを否定することで自らのアイデンティティーを保持しようとしてきた。
その頂点が1864年の『誤謬表』(シラブス)であり、近代社会とカトリック教会は相容れないと
いう印象を世界に与えていた。レオ13世はこの状況を憂慮し、トマス・アクィナスの「理性と
信仰の調和」という思想に解決を見出した。彼はトマスを示すことで、信仰と科学思想が共存
しうることを訴えたのである。

レオ13世はバチカン図書館の資料を一般に公開し、神学校の設立にも力を注いだ。また、
フランス革命以来、共和制フランスをはじめて認めた教皇となった。しかし、かねてより「バチ
カンの囚人」として教皇庁自らが規定してきた枠組みは崩さず、イタリア王国を認めず、信徒
に国政選挙の投票権を放棄するよう求めていた。そして、彼の業績でもっとも有名なものは
労働問題を扱ったはじめての回勅『レールム・ノヴァールム』を発表したことであった。彼は
ここで、労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行った。

1896年には教皇書簡で聖公会の聖職者按手の使徒継承を否定した。1898年にはウィリアム
・K・L・ディクソンによりローマ教皇としては初めて映画の被写体となった(First movie…映像
に1896年とあるのは誤り)。
彼の時代、カトリック教会に再び世界宣教の情熱が強まった。各種修道会が発足し、その
規模を拡大し、宣教師が世界に派遣された。世界中で多くの司教区が生まれたのもこの時代
であった。

レオ13世は25年という長きにわたって教皇の座にあり、1903年に93歳でこの世を去った。


 



「聖者の事典」エリザベス・ハラム編 鏡リュウジ・宇佐和通 訳 柏書房

「聖者伝説 365日、あなたを守護する聖人たちのものがたり」茅真為 著 学習研究社

「聖人たちの生涯 現代的聖者175名」池田敏男 著 中央出版社
 



 


2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

プロテスタント運動の先駆者ヤン・フスと、その時代のチェス

先に「聖ベルナデッタ」バチカンのことを書きましたが、バチカンには闇が漂っていた時代が

ありました。その時代に行われた多くの悲劇は私よりも皆さんの方がご存知だと思います。こ

の闇で覆われていた時代とチェスのことを少し書いてみたいと思います。

写真はヤン・フスで、以下Wikipedia より引用抜粋します。



☆☆☆

ヤン・フス(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。

彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られ

る。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議に

よって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。



フスはプロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、チェコ文学史に

おける突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴り

に特殊記号を使用し始めた人でもある。今日、ヤン・フスの言葉はプラハの旧市街広場で見

ることができる。



引用終わり

☆☆☆



ヤン・フスはチェス愛好者でした。しかし、処刑前そのことを後悔している記述があります。ヤン

・フスから100年後に生まれたアビラの聖テレサ(1515年〜1582年)も「完徳の道」という現代で

もカトリック霊性の最高峰と言われる本の中で、チェスにたとえた美しい話を書きますが、後に

削除することになります。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的な楽しみを極

端に排斥しようとしていた空気を感じ取ったからだと言われています。



前の「ケンブルの滝」でも紹介したモーリス・ズンデル神父は、「キリスト信者の徳とは、禁欲主

義の固い綱の上での曲芸ではない。キリスト教の徳とは、もし私たちが自分のすべての能力

の中にキリストを生きさせるなら、私たちをとおしてすべての人類にご自身を与えられるキリス

トのいのちである。大切なのは私の救いではなく、私たちの手の中に託された神のいのちなの

である。キリスト者の召命は神の顔となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音と

なる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の

世界には喜びがあるであろう。人が救われるのは説教によってではなく、現存によってである。

そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。太陽が歌うステンドグラスになろう!」と

言っています。



もしズンデル神父のような視点が、当時のカトリックやバチカンの多くの聖職者に共有されて

いたら数多くの悲劇は避けられたかも知れません。話は少し飛躍しますが、第2バチカン公会

議(1962年〜1965年)で指導的な神学者であったカール・ラーナーは「無神論と暗黙のキリスト

教」の中で次にように書いています。



☆☆☆

「暗黙のキリスト教・・・・これは無記名のキリスト教と言いかえてよい・・・・とは、義とされ恩寵

のうちに生きていながらも、まだはっきりと福音が説かれるのに接したことがなく、したがって

おのれを「キリスト信者」と呼ぶような立場にない人間、そのような人間の状況を言いあらわ

すものである。あとで詳しく述べるように、このような人間が存在することは神学的に疑いよ

うがない。このような状況を「暗黙のキリスト教」と呼ぶべきかどうかは第二義的な問題である。

しかしこのような表現の真に意味するところが理解されたならば、先の問いにたいしてなんの

躊躇もなく肯定の答えを与えることができるであろう。 (中略) つまり公会議は、正常な大人

において、無神論が自覚的にかなり長い期間にわたって(極端な場合には死にいたるまで)

保持されていても、そのことは当の不信仰者が道徳的に罪過があることを立証するものでは

ない。(中略) 第二に、一般的なキリスト教の原理からして、われわれは、このような無神論

者が神の前において明らかに重大な罪過を犯している、などと裁く権利を有していないので

ある。」

☆☆☆



この流れを汲む現在のカトリックは、幸い人間活動の多様性の否定を引きずってはおりませ

ん。第2バチカン公会議より前の時代ですが、偉大な法王として今でも語り継がれているレオ

13世(1810年〜1903)はチェスの名局を残しておりますし、アウシュビッツで身代わりとして亡

くなられたコルベ神父もチェスの愛好者で神学生を相手にチェスを楽しんでいました。現代で

は故・マザー・テレサもインドの青少年チェス大会に出席し、表彰状を授けています。このこと

を思うと、ヤン・フスが生きていた時代の世界・カトリック教会には想像を絶するような閉塞感

が漂っていたのかも知れません。



ヤン・フスが生きた時代に船出した星の光が、今地球に届いています。ペルセウス座のメロット

20(散開星団)です。この散開星団は望遠鏡には不向きで、双眼鏡で見るのが適しています。



またペルセウス座にはアルゴルと言って「悪魔の星」と呼ばれていた星があります。アラビア語

のラス・アルグル「悪魔の頭」からきた名前ですが、アラビア人はときどき明るさを変えるこの星

を「最も不幸で危険な星」と呼んでいました。しかし、この食変光星の変光のメカニズム(明るい

星のまわりを暗い星が回っていて、暗い星が明るい星の前を通過するときに暗くなる)を提案し

たのは、イギリスの若者グッドリックでした。彼は、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体

をおして1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を熱心に追い続けたのです。1783年にロンド

ンの王立協会で研究成果を発表し、協会はコプリ・メダルを授与し、1786年4月16日には王立協

会会員に選出しましたが、グッドリックはわずか4日後に肺炎により22歳の若さで他界しました。



(K.K)


 




J Reinisch vs Karel Traxler
"The Traxler Variation" (game of the day Mar-01-17)
Hostoun (1890) ・ Italian Game: Two Knights Defense. Traxler Counterattack Knight sac line (C57) ・ 0-1





reinisch_traxler_1890.pgn へのリンク






The chess games of Karel Traxler
Karel Traxler (1866-1936) チェコ カトリック神父

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