「聖人たちの生涯 現代的聖者175名」

池田敏男 著 中央出版社






本書 「まえがき」 より抜粋引用


人は誰でも自己の理想とする人間像を見つめて、自分も将来あのような人になりたいと思う

ものである。その理想像を自分の最も近い者の中から選び出せる人はさいわいである。“類

は類を呼ぶ”で常に生きた理想像かが眼前にあり、始終それと交わるうちに、ことばも考え方

も態度もすべて似てくるからである。その意味で父や母が世界中で最も尊敬する人物であ

り、自分も将来、両親のような人物になりたいと願う者は幸福である。


聖家族の人たちはみなお互いにそれぞれの手本を示したに違いない。聖ヨゼフは父親や夫

としての、聖母マリアは母親や処女としての、キリストは男性としての最高の模範をたれた。

ことに主キリストは、何が真理であり、どのように考え、どの道を歩み、どのように生活したら

よいかを、常に永遠の視点から人間の条件をすべてのみこんだ上で、現実の生活の中に示

してくださった。そして主キリストの人類救済事業の結果、人は原罪によって傷つけられた

人間性をある程度回復した上に、さらに救いの恩恵によって超自然の地位、すなわち神の

愛子、天国の世つぎにまで高められた。それでも人間の理想像は、ただ自然的完成にとど

まるだけでなく、さらに超自然の域にまで達することによってより完全なものとなる。「あなた

の天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ 5の48)と主キリスト

は完徳の頂上をさし示してくださるのである。


聖書は真の神、真の人なるキリストが無限の価値ある血と涙をもって描いた人生の楽譜と

いえよう。その傑作を恩恵の楽器を使って、最も美しくかなでた方が、諸聖人ともいえる。

楽器の選び方、使い方、演奏法などは、諸聖人の生まれた環境、時代、その素質、才能

などによって千差万別であろう。それら多種多様な楽器や変化の多い指さばきの中にも

統一性を保っているのが、楽譜の役目を果たす神の永遠のみことばである。主キリストが

仰せられたように「天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない」(マルコ 13の31)

からである。


神のみことばのすぐれた奏者、偉大な実践者は、私たちがよく生きるための、より身近か

な導きの星ともなる。聖人たちが種々様々な境遇や地位におかれて、どのように考え、ど

のように身を処したか、それを思い起こしてならうようにすれば、私たちの生活はより充実

したものになろう。というのも諸聖人の生涯は、聖書の生き写し、いわば第二のキリスト、

第二の聖母マリアなのだからである。


また聖人たちは神の特別の恩恵に支えられた道徳的英雄であるので、その生涯は常人の

まねのできないものであるかも知れない。たとえば身の毛のよだつような殉教、非人間的と

さえ思われる厳しい克己禁欲、偉大な福祉教育事業、脱魂、奇跡など誰もができるもので

はない。しかしそれらはあの聖人たちにとっても目的ではなく、ただ神の栄光と人類の救い、

自己の成聖という目的に達するための手段にすぎなかったのである。そのような手段でな

くとも一生寝たきりで、あるいは修道院の囲いの中で、あるいは学校、家庭、職場で、ごく

普通の日常生活を聖化して聖人になった方は多い。第二バチカン公会議の強調する信徒

使徒職もそのようなありふれた環境の中で実践されるのである。各信徒は日々の生活や

日々のお祈りなどを自他の救いのために神にささげることによって共通司祭職の役目を果

たし、また自己のことばやよい行ないで周囲を感化し、隣人を信仰の道へ導くことによって

預言職をも果たすことになる。


聖人たちはみな各人各様にこのようにして完徳に達し、主キリストの生けるあかしとなった。

聖アウグスチノが言うように、あの聖人たちも人の子、わたしも人の子である。どうしてあの

人たちにできたことが、わたしにできないはずがあろうかとみずからを励まして、聖なる先輩

たちのあとに続きたいものである。


なお聖人たちは自己の力だけに頼って英雄的行為をしたのではない。むしろ自己の力の

不足、みじめさを認めて、神のおん憐みのみ手に自己を投げかけて、たえず神を礼拝し、

賛美し、これに感謝しつつ、ご聖体から生活の原動力を汲み取り、諸聖人の通功によって

助けを求めていたのである。聖パウロの言う通り「私は生きているが、もう私でなく、キリス

トが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ 2の20)あの境地に達し、キリストの望み、考え

方、感じ方、生き方に同化していたのである。したがって、このような生涯を送った聖者こ

そは、実に「神の民」のほまれであり、永久に崇敬されるべき恩人である。今も諸聖人の通

功によって、その代願や取り次ぎによって人類共同体の上に、どれほど多くの有形無形の

祝福が下がっているかはかり知れない。


わたしどもは洗礼、堅信、修道誓願、叙階式の機会に保護の聖人を定めて、その名をいた

だくが、生涯その助力を仰ぎ、その徳にならうと共に、他の聖人方の助けを願うならば諸聖人

の通功もより効果あるものとなるだろう。神もこのような聖人たちの取り次ぎを喜び、必ずその

願いをきき入れたもうに違いない。聖ヤコボはこれを保証して「義人の祈りは、効果がある」

(ヤコボ 5の16)と言っているからである。


なお本書の諸聖人の配列は位階性に従い、アイウエオ順にしてみたが、また本書の最後に

は月日による分類ものせて読者の便宜をはかったつもりである。本書は昭和36年から4年間、

カトリック新聞に「今週の聖人」と題して連載したものを集めて、筆者が手を加えたものである。

本書の編集にあたっては内外の文献をできるだけ多く参照したが、この関係者および校正、

出版にご協力くださった方々に衷心から感謝したい。


昭和42年1月8日 著者


 







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