祈りの翼


St Teresa of Avila | Catholic Mystics, Visionaries, Stigmatist and the Miraculous | Pinterest




アビラの聖テレサ(洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)

イエズスのテレジア(Teresa de Jesus)、大テレジア、アヴィラの聖テレサ とも呼ばれている。

上の画像はフランスの新古典派の画家、フランソワ・ジェラールが

1819年から1820年にかけて描いた「聖テレサ」である。


 





カルメル山の聖母の会の修道女、イエズスのテレジアが書いた「完徳の道」と題され

るこの書は、初代の会則を守るカルメル会跣足修道女にあてたものである。また、聖

テレジアの時代のスペインでは、チェスが非常に盛んであり、聖女も指していたが、念

祷のたとえにチェスを使うのは軽率であり、ふさわしくないと思ったのか後日省いてし

まう。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的な楽しみを極端に排斥し

していたことを考慮したものによる。しかし、このチェスを用いたたとえは実に美しく、

またあまりにも有名であるのでエスコリアル原稿に従って、本書「完徳の道」では掲載

している。現代ではマザー・テレサがインドで行われた青少年のためのチェス大会の

表彰式に出席したりとカトリックも変化してきているが、世界の幾らかのチェスファンに

とってこのアビラの聖女テレサは、チェスの守護聖人として今も輝き続けている。


1993年 インド青少年チェス大会においてトロフィーを贈るマザー・テレサ


 



IDLE SPECULATIONS: The Patron Saint of Chess players
Hans Mielich (1516-1573) Duke Albert V of Bavaria and his consort Anna of Austria playing chess 1552 From BSB-Hss Cod.icon.
429 Kleinodienbuch der Herzogin Anna von Bayern - BSB Cod.icon.
429 Munchen 1552 - 1555 Manuscript Bayerische Staatsbibliothek, Munich





イエズスの聖テレジア著 「完徳の道」 ドン・ボスコ社より引用


私が今までに言ったことだけで、もうたいしたものだと思わないでください。

私はまだ、いわゆる盤に駒を並べたにすぎません。あなたがたは、念祷の

基礎になるものについて話してほしいとおたのみになりました。娘たちよ、

神は私を{徳という}この第一歩からお導きにならず、そのため私は今もま

だ{前にお話ししてきた}徳の初歩さえ持っているはずはないのですが、そ

れでも、ほかの基礎は知りません。チェス(西洋将棋)のゲームでは、駒の

動かしかたを知らない人は勝つことができないとお思いなさい。王手をかけ

ることを知らないならば、詰手もさせないのです。この家ではそのような遊び

はありませんし、あってはならないのですがら、こんな勝負の話など持ち出し

て、あなたがたにしかられるでしょう。でも、これで神がまあいったい何という

母をあなたがたにくださったのかが、おわかりになるでしょう。彼女はこんな

にむなしいことまで知っていたのです! とにかく、この遊びは、ときどきは

してもかまわないと言われています。それならば、このチェスの手をここで

応用するのはどれほどかまわないかもしれません。もしたびたびこの手を

使えば、なんと早く“神なる王さま”を王手詰めにすることでしょう。そうすれ

ば主はもう私どもの手からのがれることがおできになりませんし、逃げたい

ともお思いにならないでしょう。このゲームでは、王さまにいちばん戦いをい

どむことのできるのは女王駒で、ほかの駒はみな女王を助けます。さて、

それでは、謙そんほど、神なる王さまを降参させる女王はありません。この

謙そんこそ、主を天国から処女マリアのご胎にお引きよせしたのでした。

また私どもも、謙そんによって、髪の毛のただひとすじで、主を自分の霊魂

の中にお引きよせするのです。私をお信じなさい。謙そんを多く持つ者は

主を多く所有し、謙そんの少ない者は、主を持つことも少ないのです。愛な

しでどうして謙そんがあり、またありえるのか、そして謙そんなしにどうして

愛がありえるのか、私にはわかりません。また、すべての被造物からの

大きな離脱なしには、この二つの徳は存在することができないのです。



娘たちよ、私がどうして徳のお話をするのか、とお思いになるのでしょう。

あなたがたに徳をお教えする本ならもうじゅうぶん以上に持っていらっしゃい

ますし、あなたがたはtだ観想についてお聞きになりたいだけでしたのに。では

お返事します。もしあなたがたが、黙想について話してほしいとおたのみに

なったのなら、そのお話はできたはずです。そして、たとえ徳はなくても黙想を

実行なさいと、あなたがた皆さんにお勧めしていることでしょう。というのは、

黙想こそ、すべての徳をおさめるための基礎ですから。そして黙想をすること

は、キリスト信者の生活の、一つの条件ですから。だれも、たとえどんなに堕落

した人でも・・・、もし神がこんなにすばらしいことをしたいという望みを起こさせ

てくださったなら、それを怠ってはなりません。これについては、私はもうほかの

ところで書きましたし、また、多くのかたもお書きになっています。そのかたがた

は、よくわかって書いていらっしゃるのですが、私は確かに自分の書くことが

わかっていません。それは神がご存じです。



けれども、娘たちよ、観想ならば、またまったく別なのです。これが私どもが

みな、まちがえてしまう点で、だれかが毎日、いくらかの時間を自分の罪を

考えるためにあてると(これは、名ばかりのキリスト信者でないならば当然の

義務です)、たちまち人びとはかれをりっぱな観想者扱いにし、りっぱな観想

者が持っているべきはずの高い徳を、すぐかれに期待してしまいます。本人

自身さえ、それを望むのですが、それはまちがいです。かれは初めに駒の

ならべかたを知らず、ただ駒の種類さえわかっていれば、それで王手がかけ

られると思ったのでした。でもそうは行きません。この王さまは自分をすっかり

さしあげる者にしか、ご自分をお渡しになりません・・・。

(エスコリアル原稿 第十六章)



 


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)作

「聖テレジアの法悦」(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂)

ベルニーニはこの礼拝堂の全てを設計したが、この「聖テレジアの法悦」もその中の一つで

聖テレジアに神の光が注ぎ、天使とテレジアを包み込んでいる姿を描いた。






上の画像はフランスの新古典派の画家、フランソワ・ジェラールが

1819年から1820年にかけて描かれた「聖テレサ」である。



 


聖テレジア(アビラ)おとめ教会博士 1515 3/28−1582 10/4 1622年列聖

1515年、スペインのカスチリア洲アビラ市に生まれ。12歳のとき母親を亡くし、14歳のとき

アウグスチノ女子修道院にあずけられたが、健康を害し父親のところに戻る。19歳のとき、

高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩

慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問

などに襲われる。しかしこの苦しみを通して、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の

深い神秘の体験をすることになる。1562年本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」

をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めたが、改革を喜ばない他

の修道女から攻撃を受け宗教裁判にかけられ投獄される。しかし、十字架の聖ヨハネなどの

援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀における

カトリック教会改革の原動力ともなった。シエナのカタリナ、幼きイエズスの聖テレジアととも

に、女性としてはただ3人の教会博士の中に数えられ、1582年10月67歳で亡くなる。

(この紹介文は「完徳の道」「霊魂の城」並びに“Laudate”などの文を参考にしています)



 アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」を参照されたし。


アビラの聖女テレサの詩


 


「ミサの前に読む聖人伝」C.バリョヌェボ著 中央出版社 より引用


イエズスの聖テレジア(記念)




日本では戦国時代に当たる頃、テレジアは、スペイン中部のアビラで、12人兄弟の中の一人と

して生まれました。父親は服地を商う、信仰熱心な人でした。彼女は、幼い頃から、心が広く、

利発な、人気のある子どもでした。ある時、殉教者についての朗読を聞いて感激し、回教徒の

国に行って殉教したいと望み、兄をつれていっしょに家を出ましたが、幸か不幸か叔父と出会

い、連れ戻されました。また夜、ベッドで「天国の幸福はいつまでも終わることはない。地獄の

不幸も終わりがない」と自分に言い聞かせ、永遠なるものの重大さを悟ったといわれています。



少女時代には小説を読み、世間的な望むにかられたり、信仰の本を読んだり、シスターの姿を

見て修道女にあこがれたり、心は常に動揺しつづけました。20歳になった時、身体が砕けるよう

な反発を乗り越えて、やっとカルメル会に入会しました。その後、長い病のために入会時の熱も

さめ、「祈りをあまりせず、一日中おしゃべりで過ごし、霊的には冷淡な18年を過ごした」と彼女

は言っています。



けれでも神は、聖徳の道をより高く進むように力強く呼びかけ、聴罪司祭を通して導き、彼女は

再び熱心な信仰生活に戻りました。ある日、鞭打たれたキリストのご像を偶然見つけ、心臓が凍

りつくような痛みを感じ、その日からキリストへの忠誠を誓い、聖人への道を歩みはじめました。



彼女の神の特別な恵みは、その目でキリストをたびたび見るだけでなく、キリストの声を常に聞

き、神秘的な神との深く高い永続的な交わりを味わうということでした。その恵みによって、カル

メル会の改革の使命を、彼女の中に神は準備されたのでした。その使命とは、長い間にゆるん

だ規律を元に戻し、昔のように、非常に貧しく、厳しい祈りと苦行を中心とした姿に返って、跣足

カルメル会を創るということでした。



「多くの人が教会から離れたしまう時代ですから、キリストの少ない友だちである私たちは、真の

友だちでなければなりません」と彼女は言っています。このことばこそ、その改革の中心でした。

すなわち、この跣足カルメル会のシスターたちが、教会を守る人びとを祈りによって助けるという

ことが、彼女の望みでした。彼女はたくさんの困難、反対、迫害を乗り越えなければなりません

でしたが、20年の間に、スペインのあらゆる地方に17もの新しい修道院を造っていきました。そ

の一つの修道院にシスターが入居した時、どうしたことか食べ物がまったくありませんでした。そ

れでも彼女たちは落胆するどころか、夜中、空腹のまま笑って過ごしたことがありました。「悲し

い聖人は、つまらない聖人です」という彼女の考え方が、よくあらわれている話だと思います。



ところで、まもなく、カルメル会の改革は全世界へと広がっていきます。女子だけの小さな修道会

は、十字架の聖ヨハネを通して男子カルメル会の改革をも行ない、跣足カルメル会を生み、社会

に対して考えられないほどの影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック改革のひとつの原動力とも

なりました。そして今も、「鳩の家」と呼ばれる聖テレジアの修道院は全世界に広がり、1万5千人

のシスターが、熱心な信仰と愛の泉としての存在を確固たるものとしています。そのほかにも、

彼女の精神をもって宣教活動をする多くのシスターと、在俗会などがあります。



聖テレジアの生涯は、外部からの困難、苦労、犠牲、謙遜による十字架の道でしたが、勇敢に

これを克服し、神秘的体験を重ねていきました。「神を持っている人にとっては、他のものはいら

ない。神だけを持っていれば十分です」ということばが、彼女をよくあらわしていいます。彼女の

ように、神への熱心な愛を持つことができるよう祈りましょう。




 


人生のあゆみ

(アビラの聖テレジア)


何ごとも心を乱すことなく

何ごとも恐れることはない

すべては過ぎ去っていく

神のみ変わることがない

忍耐はすべてをかちとる

神をもつ者には

何も欠けることがない

神のみで満たされる


 


アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)による著作


「霊魂の城 神の住い」 聖母の騎士社

「完徳の道」 ドン・ボスコ社

「アビラの聖女テレサの詩」 聖母文庫 聖母の騎士社

 



聖母子への祈り


「ミサの前に読む聖人伝」C.バリョヌェボ著 中央出版社

「聖者の事典」エリザベス・ハラム編 鏡リュウジ・宇佐和通 訳 柏書房

「聖者伝説 365日、あなたを守護する聖人たちのものがたり」茅真為 著 学習研究社

「聖人たちの生涯 現代的聖者175名」池田敏男 著 中央出版社 


 



現代の科学は科学を超えたものから霊感を求めるか、さもなければ滅んでしまうかのどちらか

であろう。科学が人類にもたらす効用は三つある。第一に技術の応用、第二にチェスの勝負、

そして第三に神への道である。(チェスの勝負は試合と賞品とメダルとでいっそう面白くなる)。



シモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)






2016年5月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「聖テレジアの法悦」


ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598〜1680年)作


アビラの聖女テレサ(聖テレジア)、彼女が生まれた1515年はルネッサンスや宗教改革などの

激動の時期でした。



あるべき修道院の姿を希求した彼女は宗教裁判にかけられ投獄、書いた詩なども焼却されますが、

その後の彼女は16世紀におけるカトリック教会改革の原動力となっていきます。



現在でもカトリック神秘霊性の最高峰と言われる彼女の著作「霊魂の城」、その源となったのは、天使が

焼けた金の矢で彼女の心臓を貫いた時に感じた神への燃えるような愛でした。



ベルニーニによる像「聖テレジアの法悦」、天使が彼女を矢で射る像、その時の彼女の顔(写真は

他のサイトより引用)だけを撮ったものです。



宗教裁判や異端審問、話は変わりますが、これを題材にしたミュージカル映画「ラ・マンチャの男」

(ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン主演)は今でも私にとっては大切な宝物です。



真の「改革」とは、魂の奥底から突き上げてくる、自身の感情や知性などという自我を超えた次元

から、もたらされるものかも知れません。



 


2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

プロテスタント運動の先駆者ヤン・フスと、その時代のチェス

先に「聖ベルナデッタ」バチカンのことを書きましたが、バチカンには闇が漂っていた時代が

ありました。その時代に行われた多くの悲劇は私よりも皆さんの方がご存知だと思います。こ

の闇で覆われていた時代とチェスのことを少し書いてみたいと思います。

写真はヤン・フスで、以下Wikipedia より引用抜粋します。



☆☆☆

ヤン・フス(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。

彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られ

る。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議に

よって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。



フスはプロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、チェコ文学史に

おける突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴り

に特殊記号を使用し始めた人でもある。今日、ヤン・フスの言葉はプラハの旧市街広場で見

ることができる。



引用終わり

☆☆☆



ヤン・フスはチェス愛好者でした。しかし、処刑前そのことを後悔している記述があります。ヤン

・フスから100年後に生まれたアビラの聖テレサ(1515年〜1582年)も「完徳の道」という現代で

もカトリック霊性の最高峰と言われる本の中で、チェスにたとえた美しい話を書きますが、後に

削除することになります。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的な楽しみを極

端に排斥しようとしていた空気を感じ取ったからだと言われています。



前の「ケンブルの滝」でも紹介したモーリス・ズンデル神父は、「キリスト信者の徳とは、禁欲主

義の固い綱の上での曲芸ではない。キリスト教の徳とは、もし私たちが自分のすべての能力

の中にキリストを生きさせるなら、私たちをとおしてすべての人類にご自身を与えられるキリス

トのいのちである。大切なのは私の救いではなく、私たちの手の中に託された神のいのちなの

である。キリスト者の召命は神の顔となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音と

なる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の

世界には喜びがあるであろう。人が救われるのは説教によってではなく、現存によってである。

そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。太陽が歌うステンドグラスになろう!」と

言っています。



もしズンデル神父のような視点が、当時のカトリックやバチカンの多くの聖職者に共有されて

いたら数多くの悲劇は避けられたかも知れません。話は少し飛躍しますが、第2バチカン公会

議(1962年〜1965年)で指導的な神学者であったカール・ラーナーは「無神論と暗黙のキリスト

教」の中で次にように書いています。



☆☆☆

「暗黙のキリスト教・・・・これは無記名のキリスト教と言いかえてよい・・・・とは、義とされ恩寵

のうちに生きていながらも、まだはっきりと福音が説かれるのに接したことがなく、したがって

おのれを「キリスト信者」と呼ぶような立場にない人間、そのような人間の状況を言いあらわ

すものである。あとで詳しく述べるように、このような人間が存在することは神学的に疑いよ

うがない。このような状況を「暗黙のキリスト教」と呼ぶべきかどうかは第二義的な問題である。

しかしこのような表現の真に意味するところが理解されたならば、先の問いにたいしてなんの

躊躇もなく肯定の答えを与えることができるであろう。 (中略) つまり公会議は、正常な大人

において、無神論が自覚的にかなり長い期間にわたって(極端な場合には死にいたるまで)

保持されていても、そのことは当の不信仰者が道徳的に罪過があることを立証するものでは

ない。(中略) 第二に、一般的なキリスト教の原理からして、われわれは、このような無神論

者が神の前において明らかに重大な罪過を犯している、などと裁く権利を有していないので

ある。」

☆☆☆



この流れを汲む現在のカトリックは、幸い人間活動の多様性の否定を引きずってはおりませ

ん。第2バチカン公会議より前の時代ですが、偉大な法王として今でも語り継がれているレオ

13世(1810年〜1903)はチェスの名局を残しておりますし、アウシュビッツで身代わりとして亡

くなられたコルベ神父もチェスの愛好者で神学生を相手にチェスを楽しんでいました。現代で

は故・マザー・テレサもインドの青少年チェス大会に出席し、表彰状を授けています。このこと

を思うと、ヤン・フスが生きていた時代の世界・カトリック教会には想像を絶するような閉塞感

が漂っていたのかも知れません。



ヤン・フスが生きた時代に船出した星の光が、今地球に届いています。ペルセウス座のメロット

20(散開星団)です。この散開星団は望遠鏡には不向きで、双眼鏡で見るのが適しています。



またペルセウス座にはアルゴルと言って「悪魔の星」と呼ばれていた星があります。アラビア語

のラス・アルグル「悪魔の頭」からきた名前ですが、アラビア人はときどき明るさを変えるこの星

を「最も不幸で危険な星」と呼んでいました。しかし、この食変光星の変光のメカニズム(明るい

星のまわりを暗い星が回っていて、暗い星が明るい星の前を通過するときに暗くなる)を提案し

たのは、イギリスの若者グッドリックでした。彼は、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体

をおして1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を熱心に追い続けたのです。1783年にロンド

ンの王立協会で研究成果を発表し、協会はコプリ・メダルを授与し、1786年4月16日には王立協

会会員に選出しましたが、グッドリックはわずか4日後に肺炎により22歳の若さで他界しました。



(K.K)


 




 

マザー・テレサ

「木々や草花は沈黙のうちに育ち 星月や太陽も沈黙のうちに巡る

魂に触れるには 静けさが必要」


   
   


 








夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

チェス(CHESS)

天空の果実


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