祈りの翼


Davis Museum, Wellesley College, Francisco Alcaraz’s Saint Teresa of Avila

Boston MA: Immersed In Art ? Good, Bad and Yours

アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)1515−82


Teresa van Avila (28 maart 1515 Avila ? 4 oktober 1582 Alba de Tormes (Sp))


Manuel Cuenya: Sobre el brazo incorrupto y el corazon partido de Santa Teresa

アビラの聖女テレサの心臓




「アビラの聖女テレサの詩」鈴木宣明監修・高橋テレサ訳 聖母の騎士社より引用





詩26


私の喜びは涙のうちに


私の喜びは涙のうちに

驚きが私の憩い

私の痛ましい安らぎと

私の凪は破り砕かれのうちに


しけのさなかに私の愛が

私の贈物は傷のうちに

死のなかに私の命が

蔑みに私の心の燃え立ちが


私の宝物は貧しさのうちに

私の凱旋は戦いに

私の慰めは労働に

私の満足は悲しみのうちに


暗闇のうちに私の光が

私の身分は低い地位に

私の道から近道が

私の栄光は十字架のうちに


私の名誉は恥じいること

私の栄光は傷つくこと

衰えのうちに私の栄えが

減りゆくなかに私のいや増しが


飢えののちに私の豊かさが

私の希望は恐れに

私の安楽はおののきのうちに

私の好みは苦しみに


なおざりに私の思い出が

私の高さはへりくだりのうちに

辱めに私の思いが

屈辱のうちに私の勝利が


私の称賛は蔑みに

心苦のうちに私の愛の強さが

私の尊厳は片隅に

孤独のうちに私の命の意味が


キリストのうちに私の信頼が

神のみに私の愛のとらわれが

彼の疲労のうちに私の元気が

彼のまねびに私の休養が


ここに私の決心を記します

ここに私の確信を

私の真実の証を

私の贈物の見本を





 

 アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」を参照されたし。


聖母子への祈り

 



イエズスの聖テレジア著 「完徳の道」 ドン・ボスコ社より引用


私が今までに言ったことだけで、もうたいしたものだと思わないでください。

私はまだ、いわゆる盤に駒を並べたにすぎません。あなたがたは、念祷の

基礎になるものについて話してほしいとおたのみになりました。娘たちよ、

神は私を{徳という}この第一歩からお導きにならず、そのため私は今もま

だ{前にお話ししてきた}徳の初歩さえ持っているはずはないのですが、そ

れでも、ほかの基礎は知りません。チェス(西洋将棋)のゲームでは、駒の

動かしかたを知らない人は勝つことができないとお思いなさい。王手をかけ

ることを知らないならば、詰手もさせないのです。この家ではそのような遊び

はありませんし、あってはならないのですがら、こんな勝負の話など持ち出し

て、あなたがたにしかられるでしょう。でも、これで神がまあいったい何という

母をあなたがたにくださったのかが、おわかりになるでしょう。彼女はこんな

にむなしいことまで知っていたのです! とにかく、この遊びは、ときどきは

してもかまわないと言われています。それならば、このチェスの手をここで

応用するのはどれほどかまわないかもしれません。もしたびたびこの手を

使えば、なんと早く“神なる王さま”を王手詰めにすることでしょう。そうすれ

ば主はもう私どもの手からのがれることがおできになりませんし、逃げたい

ともお思いにならないでしょう。このゲームでは、王さまにいちばん戦いをい

どむことのできるのは女王駒で、ほかの駒はみな女王を助けます。さて、

それでは、謙そんほど、神なる王さまを降参させる女王はありません。この

謙そんこそ、主を天国から処女マリアのご胎にお引きよせしたのでした。

また私どもも、謙そんによって、髪の毛のただひとすじで、主を自分の霊魂

の中にお引きよせするのです。私をお信じなさい。謙そんを多く持つ者は

主を多く所有し、謙そんの少ない者は、主を持つことも少ないのです。愛な

しでどうして謙そんがあり、またありえるのか、そして謙そんなしにどうして

愛がありえるのか、私にはわかりません。また、すべての被造物からの

大きな離脱なしには、この二つの徳は存在することができないのです。



娘たちよ、私がどうして徳のお話をするのか、とお思いになるのでしょう。

あなたがたに徳をお教えする本ならもうじゅうぶん以上に持っていらっしゃい

ますし、あなたがたはtだ観想についてお聞きになりたいだけでしたのに。では

お返事します。もしあなたがたが、黙想について話してほしいとおたのみに

なったのなら、そのお話はできたはずです。そして、たとえ徳はなくても黙想を

実行なさいと、あなたがた皆さんにお勧めしていることでしょう。というのは、

黙想こそ、すべての徳をおさめるための基礎ですから。そして黙想をすること

は、キリスト信者の生活の、一つの条件ですから。だれも、たとえどんなに堕落

した人でも・・・、もし神がこんなにすばらしいことをしたいという望みを起こさせ

てくださったなら、それを怠ってはなりません。これについては、私はもうほかの

ところで書きましたし、また、多くのかたもお書きになっています。そのかたがた

は、よくわかって書いていらっしゃるのですが、私は確かに自分の書くことが

わかっていません。それは神がご存じです。



けれども、娘たちよ、観想ならば、またまったく別なのです。これが私どもが

みな、まちがえてしまう点で、だれかが毎日、いくらかの時間を自分の罪を

考えるためにあてると(これは、名ばかりのキリスト信者でないならば当然の

義務です)、たちまち人びとはかれをりっぱな観想者扱いにし、りっぱな観想

者が持っているべきはずの高い徳を、すぐかれに期待してしまいます。本人

自身さえ、それを望むのですが、それはまちがいです。かれは初めに駒の

ならべかたを知らず、ただ駒の種類さえわかっていれば、それで王手がかけ

られると思ったのでした。でもそうは行きません。この王さまは自分をすっかり

さしあげる者にしか、ご自分をお渡しになりません・・・。

(エスコリアル原稿 第十六章)






フィリピンの刑務所にいる方が作った、朝陽を受ける聖母子像(2015年5月26日撮影 自宅にて)


聖母子への祈り







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