未来をまもる子どもたちへ




上の画像は双眼鏡(倍率7倍の実視界約7°)で見る冬の星空・Mel.20 メロット20(散開星団) ペルセウス座。

画像中央、α(ミルファク Mirfak)星の周りを囲む青白く光る星の群れ。

距離・・・600光年



上の画像は光害のない、そして透明感ある最高の星空を再現したものです

ので、光害などが残るところでは実際にはこのように見えない場合があります。


 




今から600前の世界とは?(2011年基点)

遠い昔に船出した星の光は、今それを見ている人の瞳に
映し出され、そしてその心には何が刻まれるのでしょう。


 


1398年 ティムールがデリーに侵入し、トゥグルク王朝を攻撃

1402年 アンゴラの戦い 〜ティムールがオスマン・トルコを破る

1397年 (日本)金閣寺建立

1405年 明の鄭和が第1回の南海遠征に出発

1412年 ジャンヌ・ダルク生まれる

1414年 コンスタンツ公会議(〜1418)

1419年 ドイツでフス戦争が始まる(〜1436)

1429年 フランスの少女ジャンヌ・ダルクがオルレアンの包囲を破る


 


Crescendo...: 22/05/11 - 29/05/11 より引用

ヤン・フス(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。
彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知ら
れる。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議
によって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。

フスはプロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、チェコ文学史に
おける突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴り
に特殊記号を使用し始めた人でもある。今日、ヤン・フスの言葉はプラハの旧市街広場で見
ることができる。


ヤン・フス - Wikipedia より引用抜粋






「ペルセウス座は、秋の天の川にどっぷり浸かった星座だが、特にα星付近は星の密集度

が高い。それもそのはず、Mel.20という記号がついた散開星団なのだ。双眼鏡でα星を中心

に明るい星がゴツゴツと並んでいるのがわかる。」

「エリア別ガイドマップ 星雲星団ウォッチング」浅田英夫著 より引用


「ペルセウス座は、天の川にあるので、双眼鏡をむけると微光星が多いにぎやかな星座だ。

とくに、α星、δ星、ζ星付近はひしめきあっていて見ごたえがある。実は、このあたりの星の

あつまりは同時に生まれた兄弟星たちらしい。つまり、散開星団の仲間なのだ。あまりに散ら

ばりすぎて、メシエには星団としては認められず、メシエカタログには姿をみせないが、メロット

のカタログには、Mel.20(メロット20)として名をつらねている。Mel.20は、おうし座のヒヤデス星

団(130光年)や、かみのけ座の星のむれ(260光年)とともに、比較的近距離(510光年)にある

散開星団だ。 星のアソシエーション・・・ひろがりすぎて星団らしくみえないが、固有運動をしら

べると、そろって同じ方向に運動していたり、1点から放射状にひろがりつつあることがわかる

星の群れがある。そういう星の群れを、Association アソシエーション(連合)というが、ガス星雲

の中で生まれたばかりの若い星の集団で、ちかくに暗黒星雲や、散光星雲をともなっている。

高温で青白く輝くO型星やB型星のアソシエーションや、ガスが星になって100万年くらいしか

たっていないホヤホヤの星(おうし座T型変光星)のアソシエーションがある。アソシエーション

の星は、おたがいの引力による結びつきが弱く、どんどんひろがって、やがてはバラバラに散っ

てしまうだろう。ペルセウス座のζ星と、その周囲をとりまく青白い星々も、ひとつのアソシエー

ションだし、オリオンの大星雲を中心にしたオリオン座の星々も、アソシエーションとしてよく知ら

れている。」

「秋の星座博物館」山田卓著 より引用

 


Alpha Persei Moving Cluster, Mel 20 より引用




2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

プロテスタント運動の先駆者ヤン・フスと、その時代のチェス

先に「聖ベルナデッタ」バチカンのことを書きましたが、バチカンには闇が漂っていた時代が

ありました。その時代に行われた多くの悲劇は私よりも皆さんの方がご存知だと思います。こ

の闇で覆われていた時代とチェスのことを少し書いてみたいと思います。

写真はヤン・フスで、以下Wikipedia より引用抜粋します。



☆☆☆

ヤン・フス(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。

彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られ

る。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議に

よって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。



フスはプロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、チェコ文学史に

おける突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴り

に特殊記号を使用し始めた人でもある。今日、ヤン・フスの言葉はプラハの旧市街広場で見

ることができる。



引用終わり

☆☆☆



ヤン・フスはチェス愛好者でした。しかし、処刑前そのことを後悔している記述があります。ヤン

・フスから100年後に生まれたアビラの聖テレサ(1515年〜1582年)も「完徳の道」という現代で

もカトリック霊性の最高峰と言われる本の中で、チェスにたとえた美しい話を書きますが、後に

削除することになります。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的な楽しみを極

端に排斥しようとしていた空気を感じ取ったからだと言われています。



前の「ケンブルの滝」でも紹介したモーリス・ズンデル神父は、「キリスト信者の徳とは、禁欲主

義の固い綱の上での曲芸ではない。キリスト教の徳とは、もし私たちが自分のすべての能力

の中にキリストを生きさせるなら、私たちをとおしてすべての人類にご自身を与えられるキリス

トのいのちである。大切なのは私の救いではなく、私たちの手の中に託された神のいのちなの

である。キリスト者の召命は神の顔となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音と

なる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の

世界には喜びがあるであろう。人が救われるのは説教によってではなく、現存によってである。

そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。太陽が歌うステンドグラスになろう!」と

言っています。



もしズンデル神父のような視点が、当時のカトリックやバチカンの多くの聖職者に共有されて

いたら数多くの悲劇は避けられたかも知れません。話は少し飛躍しますが、第2バチカン公会

議(1962年〜1965年)で指導的な神学者であったカール・ラーナーは「無神論と暗黙のキリスト

教」の中で次にように書いています。



☆☆☆

「暗黙のキリスト教・・・・これは無記名のキリスト教と言いかえてよい・・・・とは、義とされ恩寵

のうちに生きていながらも、まだはっきりと福音が説かれるのに接したことがなく、したがって

おのれを「キリスト信者」と呼ぶような立場にない人間、そのような人間の状況を言いあらわ

すものである。あとで詳しく述べるように、このような人間が存在することは神学的に疑いよ

うがない。このような状況を「暗黙のキリスト教」と呼ぶべきかどうかは第二義的な問題である。

しかしこのような表現の真に意味するところが理解されたならば、先の問いにたいしてなんの

躊躇もなく肯定の答えを与えることができるであろう。 (中略) つまり公会議は、正常な大人

において、無神論が自覚的にかなり長い期間にわたって(極端な場合には死にいたるまで)

保持されていても、そのことは当の不信仰者が道徳的に罪過があることを立証するものでは

ない。(中略) 第二に、一般的なキリスト教の原理からして、われわれは、このような無神論

者が神の前において明らかに重大な罪過を犯している、などと裁く権利を有していないので

ある。」

☆☆☆



この流れを汲む現在のカトリックは、幸い人間活動の多様性の否定を引きずってはおりませ

ん。第2バチカン公会議より前の時代ですが、偉大な法王として今でも語り継がれているレオ

13世(1810年〜1903)はチェスの名局を残しておりますし、アウシュビッツで身代わりとして亡

くなられたコルベ神父もチェスの愛好者で神学生を相手にチェスを楽しんでいました。現代で

は故・マザー・テレサもインドの青少年チェス大会に出席し、表彰状を授けています。このこと

を思うと、ヤン・フスが生きていた時代の世界・カトリック教会には想像を絶するような閉塞感

が漂っていたのかも知れません。



ヤン・フスが生きた時代に船出した星の光が、今地球に届いています。ペルセウス座のメロット

20(散開星団)です。この散開星団は望遠鏡には不向きで、双眼鏡で見るのが適しています。



またペルセウス座にはアルゴルと言って「悪魔の星」と呼ばれていた星があります。アラビア語

のラス・アルグル「悪魔の頭」からきた名前ですが、アラビア人はときどき明るさを変えるこの星

を「最も不幸で危険な星」と呼んでいました。しかし、この食変光星の変光のメカニズム(明るい

星のまわりを暗い星が回っていて、暗い星が明るい星の前を通過するときに暗くなる)を提案し

たのは、イギリスの若者グッドリックでした。彼は、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体

をおして1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を熱心に追い続けたのです。1783年にロンド

ンの王立協会で研究成果を発表し、協会はコプリ・メダルを授与し、1786年4月16日には王立協

会会員に選出しましたが、グッドリックはわずか4日後に肺炎により22歳の若さで他界しました。



(K.K)


 
 



ヘレン・ケラー(左)とアン・サリヴァン(ヘレンの先生) 1900年

「世の中で最もよく最も美しい物は見ることができず、触れることさえできない。
それらの物は心で触れなければならない」 ヘレン・ケラー



ヤン・フスはチェス愛好者でした。しかし、処刑前そのことを後悔している記述があります。
ヤン・フスから100年後に生まれたアビラの聖テレサ(1515年〜1582年)も「完徳の道」という
現代でもカトリック霊性の最高峰と言われる本の中で、チェスにたとえた美しい話を書きま
すが、後に削除することになります。これは当時のカトリック並びに修道院の中では世俗的
な楽しみを極端に排斥しようとしていた空気を感じ取っていたのかも知れません。このような
背景を顕著に伝えるのが「チェスの邪悪(The Evils of Chess)」という17世紀に生きたある
修道者の言葉らしいですが、次のように書かれています。



I. チェスは、たいへんな時間の浪費である。どれほど貴重な時間(決して取り返せない)を
このゲームのために数多費やしたことか!

II. チェスは、私の魅力的な財産となった。私はチェスに魅了される。ゲームを始めると、
やめる気が起こらない。

III. 私がチェスに夢中でも、チェスは私にかまわない。チェスは、私の勉強や説教にも付い
てくる。祈りや説教のとき、私は(頭の中で)ずっとチェスをしてきた。あたかもチェス盤が目
の前にあるかのように…。

IV. チェスは、私に数多の宗教上の決意、そればかりではなく誓約や約束をも破らせた
。威儀を正して一度に多くの友や誰か一人とでも対戦することを自らに課すこともあった。
再び、宗教上の義務や約束を放棄したのである。

V. チェスは、私の道義心を傷つけ、平穏を破る。厳粛なときは、後悔したものである。
今死なねばならぬとすれば、チェスの思い出が走馬燈のように脳裏を 駆けめぐるだろう。
私は有名なジョン・フス(John Huss 1369?-1415 異端として火刑に処されたチェコの宗教
改革者)の生涯を読み、処刑直前にチェス中毒でいかに悩んでいたかを知った。

VI. 私のチェス中毒は、受難としての多くの罪や不和、怠惰な(偽りでなければ)言葉を、
私自身や対戦相手、その双方にもたらした。私のチェス中毒は、神と人々の両方に対する
数多の務めをないがしろにさせた。

(引用:ルーベン・ファイン著「チェス棋士の心理学」 水野優訳 未刊 )
チェストランスChessTrans by 水野優 より引用



その後のカトリックは、幸い人間活動の多様性の否定を引きずってはおりません。偉大な
法王として今でも語り継がれているレオ13世(1810年〜1903)はチェスの名局を残しており
ますし、アウシュビッツで身代わりとして亡くなられたコルベ神父もチェスの愛好者で神学生
を相手にチェスを楽しんでいました。このことを思うと、ヤン・フスが生きていた時代の世界・
カトリック教会は想像を絶するような閉塞感が漂っていたのかも知れません。
(K.K)





「フラムスチード 天球図譜」恒星社編 より引用







双眼鏡で見る春の星空 双眼鏡で見る夏の星空

双眼鏡で見る秋の星空 双眼鏡で見る冬の星空

天体観測に適した小・中口径の双眼鏡

天体観測に適した大口径の双眼鏡

(映し出されるまで時間がかかる場合があります)

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